みんな猫になりたいのさ
Mに呼び出されて執務室で話し込んでいるときに、私物の方のモバイルが鳴って白い目で見られたことがある。マナーモードにしていなかったことではなく、着信がライオンの唸り声だったせいだ。言っておくが、僕が自主的に着信をライオンの唸り声にしたわけではない。自分で設定を弄った覚えもない。しかし心当たりはある。ライオンの前は犬が吠える声だったし、その前は「クルエラ・デ・ビル」だった。その前は………もう覚えてないな。一度鶏の鳴き声だったことがあったが、鳴ったのは幸いMではなくイヴの前で、夜の7時だったこともあってイヴには15分ほど笑われ続けた。
Qはよくふざけて僕のモバイルの着信音を変える。僕が寝ている間やシャワーを浴びている間、朝ランニングに出かけている間など、ちょっと目を離したすきに人のパスワードをそのへんの靴紐のように簡単に解き、妙なセンスの音楽(?)に設定していく。浮気のチェックでもしているのかと思ったが、別段見られて困るようなデータは無いし、たぶんそういったことをするには彼のプライドが許さないだろう。
僕は特に咎めることもたしなめることもなく、ただ放っておいている。ある時、もともと黒電話の音だったはずの着信がモンティ・パイソンのテーマ曲に変わっていた。どう考えても先週猫と一緒に再放送を観ていたQ以外に犯人は思い当たらない。パスワードは変えてはみたものの、5回ほど破られてからは諦める事にしていた。
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ボンドがいなくて暇になると、彼のモバイルの着信音を勝手に変える遊びを一人で開催することがある。それも、動物の鳴き声とかアニメの音楽とか、あの人に似合わないようなやつばかり選んでいる。音量こそ小さいが、僕は任務外のボンドが私用のモバイルをサイレントモードにしないことを知っていた。あの強面のスーツの胸元から羊の鳴き声でもしたら面白いだろうな、と思って始めたことだった。
今のところはお咎めなしだ。もちろん気づいていないわけがない。一番最初、ボンドが朝ランニングに出ている間に着信音を『モンティ・パイソンの空飛ぶサーカス』に変えた時、その日の夜に彼は「君はコメディ番組を観るタイプじゃないと思ってたよ」と言ってきた。おもしろがるようなまなざしで。僕は「テーマ曲が好きなんです」と素直に申告したので、その時からこれは僕ら2人の間での暗黙の遊びとなっている。
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「それ、Qは変える前にあなたに何も言わないわけ?」
タナーからの連絡だった。報告書を早く出せという催促で、てきとうに躱して電話を切ると、カフェテリアの向かいの席に座ったイヴが言った。具がたくさん入ったマカロニサラダをつついている。先週ロシアから帰国して、事務作業のために出勤したおだやかな日だった。いつも通りナビを請け負ったQはおとといやっと後始末を終えて一日休みを取り、僕らは今朝一緒に本部に出勤した。
「よくQだって分かったな」
「自分で設定したって言われた方が驚くわよ」
「実際に聞いてきたのは君が初めてだ」
「本当に? タナーは?」
「理由を聞いてもいいかと僕に言いかけて、やっぱりやめた、と」
イヴは声を上げて笑った。
「じゃあ分かってるんじゃない、タナーも」
「Mも何も言わなかったよ、言いたげな顔はしてたが」
「バレバレじゃない、やめて、涙出てきちゃった」
一しきり笑い転げると、イヴは涙を拭きながらしみじみと呟いた。
「かわいいわね」
「かわいいだろ」
「どれぐらいの頻度で変わるの?」
「一週間から二週間ってところだな。分かりやすいもんさ。映画のテーマ曲とか、CMソングとか、動物の鳴き声シリーズとか、何かの効果音とか」
「あの子らしいわ、独占欲の表れ方が」
「元々黒電話の音に設定してたんだ。ムカつかれたんだろうな」
「古臭いから?」
「そう」
どうしても自慢するような口ぶりになってしまう。無理もない。
「そろそろこれともお別れだろうな。任務に出る前に変わったから、もうすぐ変わるはずだ」
「いいわね幸せそうで」
全くその通りである。
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ちなみに今の着信音はライトセーバーの音である。その前はターディスの発着音、その前はソニック・スクリュードライバーの効果音。多分ボンドは何が何だかわからないはずだが、彼は僕が観ていた『スター・トレック』を後ろから眺めて転送音が着信に設定されていたと気づき、「あ!」と言った実績がある。今回もそのうち気づいてくれるだろう。
事務作業のために出勤しているあちらとは違って、Q課はいつだって忙しい。ナビ明けだったとはいえ、昨日休んだ分の仕事はしっかり溜まっている。それをこなしながら009の装備を調整し、さらに新しくダブルオーのサポートに回ることになった課員のフォローをしていたら昼休みなんてどこかに飛んで行ってしまう。僕は行けないのでイヴにもそう言っといてとボンドにテキストを送ったら、「何が食べたい?」と返ってきた。うーん、エビのサンドイッチかな。
「課長、ランチ何か買ってきましょうか」
006のメディカルチェックのデータを持ってきたサムが言った。随分疲れた顔をしている。
「いや、僕は大丈夫です。もう頼んであるから」
「安心しました」
「君も早く行ってきて。逃すとあっという間に夜になるから」
サムはほっとしたように息をついた。
「みんな疲れてるね」
「さっきパトリックが『来世は猫になりたい』って言ってました」
データを見ながら乾いた笑いが出た。僕もそれがいいな。
噂をすれば、パトリックが通りがかりにやってきて僕に声をかけた。
「課長、007が来てますけど」
「ああ、うん、ありがとうございます。サム、データありがとう。OKです。僕もランチが来たので休憩にします」
サムは一瞬キョトンとしたあと破顔した。
「007、こっちに呼んでおきますね」
***
ボンドはサンドイッチの袋の他に大量のティムタムの箱を抱えていて、これは聞かなくてもわかる、差し入れだ。全くこの人誑しは。
「忙しそうだな」
「ええ、任務だけじゃないので」
ボンドは肩をすくめてサンドイッチの袋を僕のデスクに置くと、着ていたトレンチコートを脱いでその辺にあった椅子にかけた。背後でティムタムに群がっている課員たちが見える。お疲れ様。
「僕のチョコレートは?」
わざと高飛車な言い方をしたら、ボンドはおかしそうに笑ってサンドイッチの袋をつついた。
「もちろんあるとも、女王様。紅茶を入れてくるよ」
「待って………だめだ飲まなきゃよかった。おいしくない」
ボンドが僕のマグを取ろうとしたので、慌てて残りの紅茶を飲み干した。自分で飲んでおいて自分に文句を言う僕にボンドは怪訝な顔をする。
「……疲れてるだろ、君」
「言ったでしょ、任務だけじゃないんです。そろそろ現実逃避し出すから休ませないと」
「現実逃避?」
「来世は猫になりたいって言ってる人が出てきたので。僕も含めて」
「……そりゃ重症だな」
ボンドは神妙な顔で言うと、今度こそ僕のマグを持って給湯室に引っ込んで行った。重症って。僕はいつだって来世は猫になりたいと思ってるんだけど、言ってなかったかな。
サンドイッチの袋にはジャファケーキが一袋入っていた。チョコレートじゃないけど、まあ良しとしよう。さて。
僕はボンドが脱いで行ったトレンチコートの右側のポケットから彼のモバイルをこっそり取り出した。次はもう決まっている。
***
「ところで、ライトセーバーの音なんてよく着信用に売ってたな」
「よく分かりましたね。ロシアでスターウォーズ観たんですか?」
「いや。昨日タナーがすっぱり当てた」
「なあんだ。でももう変わってますから」
「手の早いことだな」