サーモンとトマトの冷製パスタ
タナーは最近職場にもう一枚シャツを持って来てるそうだ。イヴのデスクには小型の扇風機があり、同じものがMのデスクにも置いてあった。外から帰ってきたときに暑そうにしているからプレゼントしたのだという。お礼に有名店のカフェのチケットを貰ったと後から聞いた。
今年の夏は本当に暑い。猫たちのためにフラットは24時間エアコンが効いているが、人間は外に働きに出ているので常に空調が効いた場所にいられるとは限らない。任務で赤道直下の国からロシアの雪山まで移動することもあるので気候の変化には比較的慣れているが、今年は灼熱のロンドンに留まることが多く、これはこれでそこそこ堪える。普通の人間なら気をつけていないとあっという間に体調を崩してしまうだろう。
そんな気はしていたが、Qは暑さに弱い。何年か一緒に住んでみて分かったが夏はいつもちょっと元気がない。今だって、買い物を終えてフラットに戻ってくると、ソファの上でうつ伏せになって全身を脱力させてーーーー溶けているという表現がぴったりくる体制で寝ているQがいた。エアコンは効いているが、仕事から戻ってきてここで力尽きたらしい。かろうじて外された眼鏡がローテーブルに置いてある。眼鏡まで外せたのなら上出来だろう。時計を見たらちょうど18時を過ぎたところだった。珍しいこともあるものだ。
まずQの背中の上に乗った猫をどかすと、買ってきたものを全部冷蔵庫に入れてその足でバスルームに行った。バスタブにお湯を貼っている間に手を洗って、キッチンに戻るついでにもう一度Qの背中の猫をどかした。冷たい水の入ったペットボトルを持って戻ってくると、また戻ってきていた背中の猫をどかしてペットボトルをQの頬にぺとりと着けた。
いつもなんとなくハの字を描いている眉がきゅっと寄せられて、口がむにゃむにゃと動いたあと緑色の目がゆっくり開いた。
「おはよう」
「………おかえりなさい」
「ただいま」
目を半分にしたままペットボトルを受け取ると、Qはあぁ、と小さな声を漏らしてむくりと起き上がった。
「寝ちゃった……」
「よく定時で帰ってこれたな」
「奇跡でした。だからあなたにテキストしようと思ったのに、もう帰ってきてるって」
寝ちゃった。Qがもう一度、今度はわりと寂しそうな声で呟くので、僕はなんだかいたたまれなくなって頭に手をポンと置いた。
「どうせ買い物してたから待たせてたさ」
「買い物一緒に行こうと思ってたんです」
「欲しいものでも?」
「いや特にないけど、一緒に行くと余計にアイスとか買ってくれるでしょ、あなた」
「……そろそろバスタブにお湯が溜まるぞ」
Qははぁいと間延びした声で返事をすると、大きく伸びをしてペットボトルの水を飲みながらバスルームへ行ってしまった。飼い主が座った後にすかさず猫が二匹よじ登ってくる。茶色い目の三毛猫がこちらをじっと見つめてきた。
「………そんなに甘やかしてたかな?」
***
さっきお湯に浸かってきたばかりだというのに、厳正なジャンケンの結果僕が負けてパスタを茹でることになった。そもそも今日の工程で僕が手伝えそうなことはこれとトマトを切ることぐらいだから、まあ依存はない。スモークサーモンとアボカドを鮮やかに切り分けていくボンドを横目に見ながらパスタの入った鍋に塩を入れた。
「暑いところ申し訳ないが、冷製パスタだからな。1分余計に茹でてくれないか」
アボカドにレモン汁をかけながらボンドが言った。
「冷製パスタだと1分余計に茹でるんですか?」
「氷水に入れた時に硬くなるからな」
「そういうことなら頼まれましょう。パスタのために」
一緒に住み始めた頃はボンドがキッチンで何をしているのか皆目検討もつかなかったが、あまりに楽しそうにしているのが気になって、そのうち段々と並んで料理をするようになった。確かに手順さえ覚えてしまえば無心で出来るようになるのが良い。とは言っても、僕が無心で出来る料理は今のところスクランブルエッグと紅茶ぐらいだ。目を瞑ってもリンゴが剥けるボンドとは次元が違う(ボンドは本当に目を瞑ってリンゴが剥ける。タナーは僕が撮った動画を見せるまで信じなかった)。
茹で上がったパスタを氷水で締めて、トマトとアボカドとサーモンにニンニクと調味料をあれこれ混ぜて、冷たくなったパスタと和える。暑くなり出してから週に一回はこれを食べていた。
「暑い思いをして茹でた甲斐があったな」
「好きなんです。そのへんのお店よりおいしいから。夏はずっとこれを口に入れていたい」
フォークに刺したトマトを見つめながら言ったら、ワインを口に運ぼうとしたボンドが声を上げて笑った。
「もう何度も作ってるし、難しくないだろ。レシピを書いていこうか」
「アボカドが切れないんですよ」
「アボカドじゃなくてもいいだろ。アスパラでも切れば」
「アボカドがいいんです」
「そんなに好きだったか?」
「そりゃあもう。だからあなたが切ってくれないと」
ボンドはほんの一瞬だけ黙るとワインを一口飲んで、なるほどな、と呟いた。彼は明後日から任務だった。
「アボカドを切りに戻ってくるよ」
「そうしてください。僕がナビじゃなくてもちゃんとやってくださいよ」
「君に言われたら仕方ないな」
「だから言ったんです」
わざと得意げに言って見せたらボンドはまた笑ったので、僕も笑って最後のトマトを口に入れた。
***
「もう一回シャワーを浴びなきゃ。パスタと引き換えに汗かいたから」
「さっきより顔色が良くなったな。安心したよ」
「そんなにひどい顔してました?」
ボンドは至極真面目な顔で頷いた。
「個体に戻ってなによりだよ。ソファの上で溶けてるみたいだった」
「冷やし固められたので」
「アイスあるぞ」
「ほんとですか。お風呂入りながらアイス食べません?」
「天才だな君は本当に」