向こう側の君へ向こう側の君へ
Qは怒ると僕との間に壁を築く。わかりやすい物理的な壁を。部屋に閉じこもったり別の寝室で寝たりするのもその一環だが、ベッドの真ん中にクッションを並べたり、ソファの真ん中にレゴで作った文字通りの壁を建てることもある。職場ではいつも冷静に振る舞っているのは知っているが、僕からすればあんなにわかりやすい人間はそうそういない。機嫌が良ければこちらに寄ってくるし悪ければとにかく離れていくのだ。装備を持って帰らない日が何日も続いたとか、当番になっている家事をほったらかしにしてたとか、任務中彼の指示を無視して怪我をしたとか、そういう時に壁が築かれる。
なので、朝起きて寝室を出ようとドアを開けて目の前が棚と椅子2脚と鏡とカラーボックスその他で完全に塞がれているのを見た僕は、休日の寝起きの働かない頭をかき混ぜて呻き声を上げた。
僕の視界に見えるよりかなり多くのもので築かれているであろうバリケードは、確かに力づくで突破することもできるが、いやそういうことじゃない。そういうことじゃないのは僕にもわかっている。わかっていなければクッションで引かれた境界線をわざわざ彼の許可を取って解体したりしていない。第一ここを力づくでどうにかしたら家財がめちゃくちゃになってしまう、家財……と考えたところでふと後ろを振り返ったら、僕の本棚の中身が3分の1ほど何者かに持ち去られていた———何者かに。たぶんバリケードの足しにされているんだろう。
やがてトコトコと足音がして、扉の前で止まった。背をかがめてなんとかカラーボックスと椅子の隙間から外を覗いたら、緑色の水玉のシャツが見えた。去年のボクシング・デーに買って以来Qのお気に入りになっているシャツ。
僕は大きく息を吐いて、なるべく丁寧に聞こえるように声をかけた。
「Q?」
間髪入れずに、壁の向こうから取り繕ったような明るい声が返ってきた。Yes, James? ジェームズ。Qがこういう風に僕の名前を呼ぶ時は怒っている時だと相場が決まっている。
「このバリケードを作ったのは君か?」
また短くイエス、という声が聞こえてスタスタと足音が遠ざかっていく。このまま去られるとまずい。僕は声を大きくした。
「よくカラーボックスをこんなところに上げられたな」
「こんなところにカラーボックスを上げたのによく起きませんでしたね」
一瞬足音が止まった後に皮肉っぽい声がした。ぐうの音も出ない。本棚の中身を持っていかれている間もだ。
「クィントン?」
もっと丁寧に聞こえるように本名で呼んだら、また足音が僕の前で止まった。Yes, darling? ああかなり怒っているらしい。
「申し訳ないが君の心当たりを教えてくれないか?」
「いいですよ、もちろん。喜んで」
隙間から様子を見たらQはモバイルを取り出して電話をかけている。誰に?
「———ハロー、トム」
「おい!」
モバイルから小さく漏れる声が聞こえる。『やあ。どうしたの?』。トムはありきたりな名前だがQが番号を持っているトムは一人しかいない。
「スピーカーにしてもいいですか?」
『どうぞ? どうしたの一体』
僕が覗いている隙間に差し込まれたモバイルから009の朗らかな声がする。
「009、007に挨拶してください」
『日曜の朝から楽しそうだね、君たち。ハロー、ボンド』
「後で写真を送ってあげます。朝からボンドの寝室にすごいバリケードを作ったんですよ」
『そりゃすごいね。なんでまた?』
「Q、勘弁してくれ」
事情を察する無駄な能力を発揮したのか、茶番に付き合い始めた009にQは神経質そうな早口で言った。
「なんでかって、この人は昨日洗濯機を回す当番だったのに色物を分けた籠を一緒に洗ったから、僕が半年前から予約して買っておろしたばっかりだったポール・スミスのTシャツが真っ青になったんですよ」
『あーあ、ポール・スミス? ボンド、本当に?』
009の呑気な声がとにかく腹が立つ。
なにより、この二人が妙に結託し出すと必ずペースを持っていかれてしまう。結託するのもなんだか気に入らない。Qは僕がそう思うのを知って009に電話をかけたというわけだ。
『それでバリケードが建ったわけか』
「そう」
『悲しい歴史だね』
「Q、悪かった。君がそのTシャツを予約するところを僕は横で見てた。昨日着てたことも知ってた。謝るよ、埋め合わせさせてくれ。あと電話は切ってくれ頼むから」
「切ってくれだって。どうします?」
『とんでもない!』
「切らないって」
「お前覚えてろよ明日」
『僕明日からエストニアだよ』
「お土産買ってきてくださいね」
『もちろん』
僕は呻いて思わずバリケードを殴りそうになったが、拳が棚に当たる寸前でなんとか堪えた。こちら側から壁を壊したらQが怪我をしてしまう。
こと、と小さな音がして、Qのモバイルがカラーボックスと椅子の隙間から差し込まれる。
ワンテンポ遅れてQが言った。
「買い物行ってきます」
「ちょっと待て」
ちゃりちゃりと鍵のなる音がする。本気らしい。
「Q、本当に待ってくれ」
「すぐ戻ってきますよ、そこで牛乳買ってくるだけなんで」
それまで二人でおしゃべりしててください。Qの声がして、足音が遠ざかり、そしてドアが閉まる音がした。信じられない。本当に行ってしまったらしい。
『僕はあなたへの罰ゲームとして呼び出されたってわけか』
009の穏やかな声がQのモバイルから流れてくる。
「切っていいぞ」
『あの子多分通話記録まで見ると思うよ』
「………」
ドアのすぐ横の壁に背をつけてずるずると床に座った。いつもは片時もモバイルを手放さないくせに、こういうときに限ってあっさり置いていく。009の声がすぐ横から聞こえた。
『僕がそこにいれば隙間からお菓子でも入れてあげたのに』
「このフラットの場所知ってるのか?」
『川沿いにずっと歩いてもうちょっと行ったところでしょ? 前にQが言ってた』
でも行ったら僕が彼に怒られるだろうなあ。009はのんびりと続けた後、こちらを探るような声で言った。
『……確かに僕だって新しい服ダメにされたら怒るけど、ボンド、本当はなにしたの? ……か、僕は聞いてもいい?』
電話の向こうから犬が吠える声がする。飼ってるんだろうか。
「……海に落ちたデータを追って橋から飛び降りた」
モバイルから聞こえたのは笑い声だった。
『自殺じゃん』
「生きてる」
『おめでとう。そりゃ怒るだろうね。ますます電話を切るわけにはいかないや』
本当はトルコの海であったことがさらにQを過敏にさせたわけだが、それは言わなかった。
3日前、僕のナビをしていたQ課員の指示を無視して——僕は報告書に「現場での判断」と書くつもりだ——ダイブしたことはしっかりとQにも報告されていた。データにはトラッカーがついていて後からいくらでも回収可能だったことも報告されていた。帰投してQ課に顔を出すと、彼は僕のところに歩いてきて腰に手を当てた「怒りのポーズ」でゆっくりと一言「後悔させてやる」。それで朝起きたらこうだ。確かに僕は昨日洗濯物を適当に洗って服をダメにしてしまったけど、彼が怒っている理由がそれだけでないのは明らかだ。
『僕の考えを言ってもいいかな』
犬が鼻を鳴らす声と一緒に009が言った。
『大事にしている人が必要もなしに自分の身を顧みないことをすると、壁を築かれてるような気分になるんだ』
初冬の土曜の朝は妙に暖かくて、窓から日が差している。カーテンが風に吹かれて舞っていた。
『自分がいなくなっても誰も気にしないって考えてるのかなって思うと悲しくなるでしょう』
「……死に癖がなかなか抜けてなくてな」
もたれかかっている壁に頭をごつりとぶつけた。
『そのうち抜けるよ。早く生き癖に変わるといいね』
「……ダブルオーが言ってるとはにわかに信じがたい台詞だな」
ほんの少しだけ沈黙があった。本当にいざとなったら、迷わずに命を投げ捨てなければならないことぐらいは二人とも承知だ。もちろんQも。モバイルのスピーカーから砂の流れるような音がした後、009はなんでもないことのように言った。どっちかっていうと呪文かな。
***
ものすごく慎重に棚を押し出して、自分の2/3ぐらいの厚さの隙間を作ったところで玄関が開く音がした。耳をすませて待っていると足音がだんだんとこちらに近づき、棚の上に乗せられていたカラーボックスがどかされてQが顔を出した。
「手伝いましょうか」
「………御親切にどうも」
床に積み上げていたらしい本や椅子を押しやって、Qは2/3の隙間から猫のようにこちらに入ってくると僕のことをぎゅうと抱き締めて、そのままタックルするようにベッドに横倒れになった。
「……009となに話してたんですか」
「………エージェントは死にたがりで困るなって話」
腕がQの頭の下になるように動かしたら、彼はちょっと僕が痛いと思うぐらいの力でさらに強く抱きついた。
「こっちの台詞です」
くぐもった声が下から聞こえる。
「確かに」
「自分が嫌になる」
Qは大きく息を吐いた。
「なんで?」
「二つに分裂したい」
「どうした」
「だって、僕はあなたが勝手に海に飛び込んでポールスミスをダメにしたからこんなに怒ってるのに」
「うん」
「飛び込んで生きて帰ってきたあなたを抱き締めずにはいられない」
どっちかにしたい。Qはそう言いながら僕の胸に顔を押し付けて鼻を啜った。眼鏡が鎖骨に食い込んでいる。背中に回された手も多分少し爪を立てている。あちこち痛い。
こんなに大事な痛みはない。
「………ポールスミスはどこに行ったんだ」
「だまって」
「ごめん」
「新しいTシャツ買って」
「もちろん」
僕は彼の背中をできるだけ優しく、ゆっくりと、あやすように摩って言った。キュウ。壁を壊してくれてありがとう。