トップ・オブ・ザ・ブルーマウンテン「ダブルオーセブン、聞こえますか?」
『やあ、Q』
入庁した日にMと直接会ったときだってこんなに緊張しなかった。私は小さく震える手をぎゅっと握って目の前の大きなモニターに映った地図を観る。現地時間は昼の12時、ロンドンは朝6時半。007は今インドのニューデリーにいる。
「おはようございます。あなたは”こんにちは“でしょうけど」
『寝起きだろうけどよろしく頼む』
「お構いなく。支障を出すつもりはありません」
大丈夫だ。課長が私をナビのサポートに選んだということは、私にそれだけの力があるということなのだ。私を選んだ課長を信用しなければ。
***
もうだいぶ前の話になるが、007その人が一度「死んだ」ときのことは、MI6内で未だに語り草となっている。通常はエージェント1人につきナビ役が1人か2人だが、任務の重要度によっては上層部の人間や複数のQ課員が同席したりもする。007と当時現場に出ていたミス・マネーペニーのトルコでの任務は、10人を下らない課員と幕僚長、そして先代のMが付いていたというのだから、なんというか画を想像するだけでも震えがくる。
大体の場合において、サポート役は道案内と現地から得たデータのリサーチの2人掛かりで行われる。私はQ課の中でも古株のパトリックの下に付き、ここ2年ほど006のサポートを続けてきたが、つい先週課長がひょっこりと私とパトリックのデスクにやってくると言ったのだ。来週のニューデリーの任務を手伝ってくれないかと。
聞けば、対峙する犯罪グループに「なかなかの」ハッカーがいるらしく、課長がそちらを相手にしている時にサポートをしてほしい、とのことだった。たしかにニューデリーは出身地なので土地勘もある。二つ返事で了承したが、課長が自分以外の人間を007のナビに呼ぶことは課員の間でちょっとした話題になった。通常「トリオ」もしくは「チーム」で行われる現場の任務だが、この2人に関しては、お互い以外の人間に手綱を引かせる役を手伝わせたことは一度もなかったからだ。つまり、今回課長が相手にするハッカーとは、あの課長が「なかなか」というだけの人物であるということなのだ。
***
「その右です。見えますか? ……そう、その道。500メートル先に生体反応あり」
数発の銃声と呻き声がスピーカーから聞こえた。辺りを歩き回っていた課長がずり下がった眼鏡をレンズごと持ち上げた。
『クリア』
「結構です」
『Q、視界が悪い。”目“はあるか?」
「サム、CCTVを」
「イエス、サー」
「……ああ、いましたね。暑そうだなあ。ボンド、左に曲がってください。屋根の上に上がれますか? そう。そのまま真っ直ぐ」
『奴らはどこに行こうとしてる?』
「わかりません。データを持ち帰る先でしょう」
『それはわかってる。道がないぞ』
「下に降りてください、右手の路地に入って……メトロポリタンホテルに向かってますね。巣に戻らせて根を見ましょう。20メートル右にさっきの男がいます」
『始末せずに追えばいいんだな。わかった』
「できますか?」
ふん、と面白がるような声と、何か硬いものがぶつかり合う音が聞こえてきた。
『クリア』
「……結構です。追跡を続けて」
スピーカーから流れてくる音が喧騒から一気に静かになり、品のいい音楽に変わる。ホテルの中に入ったらしい。CCTVにアクセス。ところが。
「何だ?」
突然画面が真っ暗になった。通信が切れたわけではない、ホテルの電気が消されたのだ。
「ボス、ホテルのセキュリティに侵入の形跡が」
『Q、どうなってる?』
課長は突然椅子のキャスターでガラーッと後ろに下がり自分のラップトップを持ってきた。そうか、ようやく例のハッカーが現れたらしい。課長がラップトップをつなげている間に私はさっきまで彼がいた場所に移った。バトンタッチだ。
「007、例のハッカーです。ボスが相手をしている間私がご案内します」
『やあ、ミス・トレイシー』
「こんにちは。トラッカーが地下に入っています。ボイラー室に行ってください」
『わかった。Q、彼女はこんにちはと言ってくれたぞ』
茶化すような声に思わず笑ってしまったが、真横で課長が恐ろしい勢いでキーを叩く音がして笑みはすぐに引っ込んだ。
「なんか言いました? ロンドンは最高の天気ですよ朝から土砂降りでN線は遅れるしホームが閉鎖されてて迂回しなきゃならないし寒いし」
『イラついてるな』
「ええ、ロンドンの交通網に。あとこのハッカーにも」
だから後悔させてやります。協力してくださいよ、2人とも。カーディガンごと腕まくりをした課長の目がぎらぎらと光っていた。
***
結局、ニューデリーの任務ではこのメトロポリタンホテルが山場となり、007は無事に機密データの入ったUSBをイギリスへと持ち帰った。課長が「なかなか」と評価したハッカーはやはりそれだけの人物で、アクセスコードが変わり続ける強力なプログラムで課長を數十分手こずらせた。ハッキングにおいて課長を数十分足止めするのがどれほど困難なことかは、説明するまでもないだろう。ターゲットに向かって全速力で走る007を止めようとするようなものである。
ナビを開始したのが朝の6時半、ホテルの電源が落とされたのは7時半過ぎだったが、一度退避して態勢を立て直したり、相手方が出揃うのを待機したりして任務が終わったのはその日の夕方、現地時間で夜中近くになってからだった。朝から紅茶とスニッカーズ以外のものを口にしていなかった私と課長は2人で這うようにして近くのスーパーに行き、デスクに出来合いの食事を広げていた。
「急な話だったのに、引き受けてくれてありがとう」
フライドポテトの袋にシーズニングを入れた課長が呟いた。
「いえ、光栄でした。こちらこそありがとうございます。ボスと007のサポートが出来るなんて思ってませんでしたし」
ローストビーフ入りのサラダを飲み込んだ私は首を振った。ブラウンソースが体に染み渡るようだ。課長はポテトの入った袋を一生懸命上下に振っている。なかなか見ない光景である。
「パトリックは何か言ってた?」
「はい?」
「いきなり部下を攫ったから、機嫌を損ねてないといいなって」
「そんなことありませんよ。よく見ておけって言われたぐらいです……あ、でも」
「でも?」
「課長はナビ中でも言葉が丁寧で凄いって言ってました」
006はこの前35歳になった。パトリックは40代後半なので、諜報の世界では彼の方が断然先輩である。006も私たちとチームを組んだ当初はパトリックに丁寧な言葉で話していたが、最初の任務で慌ただしくしているうちに早々にその丁寧さはどこかへ吹っ飛んでしまった。もっとも、パトリックはそんなことを咎めるような人ではないのだが。
「……まあ、年上が多いから、癖で」
「そうですよね。私もそうですもん。まあ、006にはほとんどため口ですけど」
「……やっぱり、敬語だとよそよそしいかな?」
「はい?」
課長は口に運ぼうとしたらしいポテトをじっと見つめている。
「……いや、なんていうか、距離があるっていうか、他人行儀みたいに聞こえちゃうかなっ
て」
「…………距離を縮めたいんですか?」
007と。
と言おうとしたのだが、課長ははっとしてちょっと慌てたように私とポテトを交互に見ると、「なんでもない」と言ってポテトを頬張った。
***
それから2ヶ月ほど経って、また課長と一緒に仕事をする機会があった。ベネズエラでの任務が終わった006と、キューバでの任務を終えた007を同じヘリで拾っていくことになったのだが、007がヘリに乗る段になって残党から銃撃を受けたのだ。スケジュール調整のためにたまたま課長の近くにいた私は、動揺してマグカップを割った彼を残して慌ててデスクに飛んでいくと、006と通信が繋がっているスピーカーを引っ掴んでパトリックと一緒に全力疾走で戻ってきた。幸いエージェントと操縦士は全員無事だったが、引き換えに007のワルサーはカリブ海に沈められることとなったのだった。
「ああ、やっちゃった……」
今度こそ2人とも無事であることを確認して通信を切った直後、その場にいた全員がふっと肩の力を抜くと課長がため息と共に呟いた。"Q"のマグカップは落とし所が悪かったのか、細かい破片がそこら中に飛んでいる。復活は難しいだろう。
「箒持ってきますね」
肩を落とす課長にそっと声をかけたら、彼は慌ててぶんぶんと首を振った。
「いいんだ、僕が落としたんだから、自分で片付けます。そちらはそちらの片付けを」
「ボス、これ」
パトリックがポケットからハンドタオルを取り出した。
「手を切ったら仕事にならないでしょ」
課長は一瞬何を言われているのかわからない、という顔をした後、だんだんと人に優しくされていることを理解したのか、ゆっくりと花の蕾が開くように、本当に美しくほほ笑んだ。
「……ありがとうございます」
この時のことは今でもよく私とパトリックの間で話題になる。よっぽど疲れていると人は言われたことを理解するのに時間がかかるんだよね、という話と、あの謎の無垢さがあるから課長は課員からほっとかれないのだ、という話を、飲みに行くたびに私たちは飽きずに繰り返し話している。
*
その翌週、シフトの関係で朝早く出勤して先日の報告書を作っていると、私以外に誰もいないQ課にこれから任務に出るはずの007がやってきた。いつもと変わらないスーツに黒のトレンチコートを着て、小さめの黒いボストンバッグを持って、そしていつもと変わらずものすごく絵になっている。
「やあ、ミス・トレイシー」
「おはようございます。どうしたんですか? 9時の便のはずじゃ……」
「ああ、その前に用があって」
007はレザーの手袋に包まれた手でQ課の奥を指差した。なんでも、この前課長のマグカップが変わっていることに気づいて、本人から割れてしまった経緯を聞いたのだそうだ。それで、わざわざ新しいのを買ってきたと。いや、知ってた。知ってたけど、流石すぎる。こんなことを007に当たり前のような顔をしてやられたら私だったら身がもたない。局内の老若男女が彼に夢中になる理由を眼前に突きつけられた気分だった。
「あれ、2つあるんですか?」
007が課長のデスクの上に小さめの箱を2つ置いたのを見て聞くと、彼はちいさく、でもとても嬉しそうに笑って青い方の箱を撫でた。白いリボンが巻かれている。
「事情があってな」
「事情ですか」
「ああ」
「……いい事情ですか?」
007はゆっくりと笑みを深くした。
「そうだな、そうだと思う」
***
それから2時間ほどして、いつものモッズコートに赤いマフラーをぐるぐる巻きにした課長が出勤してきた。クリスマスみたいですね、という言葉を飲み込んで、私はデスクの上の箱に首を傾げている彼に声をかける。
「あの、それ」
「あ、おはようございます」
「おはようございます。それ、今朝007が置いて行ったんです」
課長は青いほうの箱を手にとったままはた、と身を硬くした。
「……ボンドが」
「はい」
「……中身、何かとか、聞いたりとか……」
知っている。私は箱の中がマグカップだと知っているのだが、これは言わないほうがいいだろう。なぜかはわからないけど、いや絶対私の口から言わないほうがいい。
「いえ、特には。事情があって2つだとしか」
「事情」
「はい。いい事情だそうです」
課長はゆっくりと頷いた。いつもは青白い頰がなんとなく紅潮しているのは、たぶん、空調のせいだ。
「……わかりました。ありがとう」
「はい。失礼します」
私は課長のデスクを後にした。そっとしておこう。007が帰ってきたらなんとか彼を捕まえて、喜んでましたよ、と伝えよう。そういえば、課長が前に彼はコーヒー党だと言ってたっけ。Q課にもコーヒー派はいるから、うちのコーヒーメーカーを存分に使って頂こう。そして、偶然知ることとなったあの2人のことは誰にも言わず、私の心の中に留めておくのだ。私やほかの課員が世話を焼かずとも、きっとそのうちお互いでお互いの飲み物を淹れだすだろうから。