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    シンメトリー再びシンメトリー再び

     MI6の本部がホワイトホールに移っても、僕はQ課を地下から動かす気はなかった。だって絶対にこっちの方が広いし、お上から物理的に離れてしまえば必然的に無駄な呼び出しは少なくなる。環境から作ってしまえばこっちのものだ。おかげで事情をわかっていないお偉方からの意味のない呼びつけはぐんと減ったものの、明確に呼び出しの指示を受けるということはそれだけ重要な要件だということがわかるようになってしまった。今僕はMから直接電話でホワイトホールに呼び出され、ラップトップを小脇に抱えたまま憂鬱な気分でエントランスに向かって歩いていた。
     ボンドは最近内勤続きで、「体が鈍る」とか言って今日は本部のジムに篭っている。かなりきっちり体を動かしているようなので、夕食は蒸された鶏の胸肉が出てくること間違いなしだ。ボンドと暮らすようになってから、僕はかなりタンパク質の高いものを食べるようになった。以前より健康的にはなったような気がするが、特に運動もしていないのでもちろん筋肉はつかない。ほとんど同じものを食べているのに不思議だ。
     今年になってから新調したグレーのコートに冷たい風が当たった。筋肉をつければ寒さも感じにくくなるんだろうか。ボンドが腕立て伏せをする回数を数えるんじゃなくて自分でもやってみたほうがいいのかな………そこまで考えたところでようやく入り口に着いて、室内の暖かい空気が風に乗ってふわりと頬を撫でたら、腕立て伏せのことは僕の頭の中からすっかり消えてしまった。
     顔見知りになっている受付の青年にIDカードを見せて、エレベーターホールを突っ切る。思ったより暖房が効いていてマフラーを外した。今朝急いでいたらまた玄関で間違えて、ボンドの黒いマフラーを持ってきてしまった。申し訳ないが多分彼は今朝チャコールグレーのスヌードで出勤したはずだ。やっぱり色ぐらいはもっと変えたほうがいい。
     三つあるうちの真ん中のエレベーターが上の階を指していて、足を早めたら中に乗っていた男性と目が合った。白髪に立派な口髭を蓄えた長身の紳士は僕を見てウィンクすると、ボタンを押してドアを開けたまま待ってくれていた。
     すみません、と言ってエレベーターに乗り込むと、彼はにっこりと微笑んで「謝らないで」と言った。紺色のスーツに黒いコート、淡いピンク色のネクタイ。全身トムフォードの男と一緒に暮らしておきながら全くスーツに詳しくない僕が言うのもなんだが、ものすごく格好いい。
     思わず彼のことを眺めてしまった僕に、紳士は笑みを深くして「何階?」と聞き、さらに僕が答えないうちに「君と一緒だといいな」と付け加えた。おっと。こういう仕掛けを最後に受けたのは遥か昔のことで、かわし方をすっかり忘れた僕は、すでに光っているボタンを見て馬鹿正直に「お望み通りですよ」と言ってしまった。
    「今日はラッキーだ。僕がいた頃は本部はヴォクソールだったからね。こっちは勝手が分からなくて」 
     紳士はそう言うとコートの胸ポケットから下げたビジターカードを指で弾く。ああ、なんだそういうことか。どうやら、昔の関係者らしい。
    「僕も普段はここにいないんです。未だに何が何階にあるのかいまいち知らなくて」
    「ヴォクソールは下に伸びてたろ、Mに会う以外は地下に行っていれば仕事が出来たから覚えるのが楽だったよ」
    「———Mに?」
     ヴォクソールの本部はエージェントの訓練施設や医務室が全部地下にあった。あとQ課も。そして、Mに「会う」とフランクに表現するような人間はかなり限られる。僕は彼の方に顔を向けた。立ち姿に全く隙がない。
    「ああ。彼女にはよく怒られたもんだ。懐かしいよ」
     老齢な紳士はまたおそろしく甘いマスクで僕に笑いかけた。
    「Q課の人間っていうのはいつ見ても変わらないね。みんなメガネをかけてて疲れた顔をしてる。でも君のそのポール・スミスのカーディガンはすごく素敵だよ。眼の色に合ってて……」
     この人への取り入り方。柔らかいようで全く隙がない物腰。予感が確信に変わった時にはもう僕は口を開いていた。
    「失礼ですが———何番でした?」
     ほら、この笑顔だ。
    「ただの数字さ。後任については何も知らなくてね、ブロンドってこと以外。彼はどう? 君に優しい?」

    **
     
     一通りのトレーニングメニューと軽いランニングを終えたら夕方も近い時間になっていた。シャワーを浴びて元どおりのスーツに着替えながら夕飯の献立を考える。鶏肉と野菜を蒸して……いや、トマトか何かで煮込んだほうがQは好きかもしれない。僕はプロテインを飲んだりQはよくお菓子を摘んだりするが、朝食と夕食はかなりの確率で同じものを食べている。にもかかわらず、相変わらず体格差は出会った時から全く変わらない。一緒に住んでいることを知っているイヴには「不思議で仕方ない」と言われるが、僕もそう思う。
     冬が近くなって衣替えが間に合っていないとよくこういうことが起こるが、またQのものと靴下を間違えた。幸い派手な模様ではなくてリブのついた黒い靴下で、左右も揃っているから間違えたうちには入らないと考えていいだろう。以前ひどい混ざり方をした時は、右側が無地の紺で左側が青い縞模様だった。Mの執務室に行っても座れなくてあの時はなかなか困った。ちなみにその日、Qは片方だけ緑の水玉模様だった。
     ロッカーを出てまっすぐQ課に向かおうとすると、向かい側からイヴが歩いてくるのが見えた。彼女がこんなところにいるのは少々珍しい。
    「009見なかった? 用があって探してるんだけど」
    「ああ、さっきプールにいたよ」
     イヴは「どうりで連絡が返ってこないわけだ」と大きくため息をついた。
    「来客があるんだけど、ずいぶん早く来ちゃって、探して来いってMに急かされてるの」
    「呼んでこようか?」
     イヴは急いだ様子で「ううん、自分で行くから大丈夫」とその場を去ろうとしたが、ハッと何かに気づいたような顔をして僕のことを見た。
    「ちょっと待って———誰が来てるのかってあなたは知らないのよね?」
    「……僕も知る必要が?」
    「いや、必要っていうかなんていうか……あ、Qなら地下じゃなくて上にいるから、もし探してるんなら」
    「Qも呼ばれてるのか?」
    「Qと009と、その……」

    **

    「6年間欠番だったからね、もう誰もやりたがらないのかと思ってたよ」
    「適当な人材がいなかっただけですよ。結局はあなたの言う通りただの番号だし」
     Mの執務室を目指して歩きながら、彼は様変わりした本部をあちこち眺めて楽しげに僕に話しかけた。彼は、驚いたことにジェームズという名前だったが、確かによくよく見てみると、以前データベースで見かけたボンドの前任だった。艶やかなブルネットの髪に長身、チャーミングなブラウンの眼。絵に描いたようなナイスガイで、任務の記録も容姿に負けず劣らず派手だった。
     データベースで見た記録を思い出して、僕は彼が呼ばれた訳を納得した。ジェームズが手がけた最後の大きな任務は北朝鮮が絡んでいて、そこは来週僕がサポートに入る009の任務のスタート地点でもある。二件に何かしらのつながりがあると見てMが判断したのだろう。
     「彼はどう? 君に優しい?」というさっきの質問に、僕はなぜだか言葉に迷って「装備には厳しいです」とかわそうとしたのだが、「ならその分君には優しいんだな」と返され逃げきれなかった。いや、言葉に迷ったというのは嘘だ。ボンドは本当に僕に優しい。
     本部にいるほとんどの人間はジェームズのことを知らないようだったが、ごく稀に幻でも見るような目でこちらを見てくる職員が何人かいた。花形の職業であるエージェントは局内ではちょっとしたセレブリティだから、歴代のダブルオーに詳しい人がいても不思議じゃない。ジェームズはそんな職員と目が合うと、ウィンクをしたり、指を唇に当てて騒がないように合図したりしていた。信じられないほど気障な仕草が恐ろしいほど絵になっている。
    「ダブルオーセブンってみんなそんな感じなんですか?」
     手で口を押さえて絶句した女性職員にジェームズはまたひとつウィンクを飛ばした。やや呆れて言ったら、彼は「そんな感じって?」と小首を傾げる。
    「だから、それですよ。フェロモンで相手をどうにかする、みたいな」
    「どうかな? 君には効いてないみたいだ。『ブロンド』で慣れたのかな」
     ジェームズは茶色い目をきらりと光らせた。鋭すぎる。どこまで感づいているのか知らないが、僕とボンドが一緒に住んでいることもわかっているんじゃないか?
    「……そりゃあもう、嫌というほど」
     段々横にいる紳士が怖くなってきたところで、モバイルが鳴った。イヴだった。
    「もしもし?」
    『もしもし、Q? えーと、その、ごめんね。009を見つけたから今から行く。先に入ってて欲しいんだけど、その…』
    「彼にならもう会いましたよ、エレベーターで偶然」
    『えっ』
     イヴが驚いた声を上げた後ろの方で、ワオ、と009が呟く声と———「偶然なわけあるか」となぜかボンドの声がした。
    「……なんでボンドがいるの?」
     横で興味なさげにしていたジェームズは、僕が「ボンド」と言った途端耳をこちらに寄せてきた。華やかな香水の匂いがする。
    『あたしが今日ついてないから……あ、ちょっと』
    『Q? 今すぐそいつから離れろ』
    「は?」
    『そこから動くな今行くから』
    「は?」
     電話が切れて、僕はジェームズと顔を見合わせた。茶色い目は今や子供のようにきらきらと輝いている。
    「……あなたの後任、青い眼ですよ。割といい色してます」

    **

     当該の件に一番関係のないボンドがいの一番にやってきた時はちょっと面白かったが、一番関係がないので当たり前のように執務室から追い出された。一時間ほど話して僕らが部屋から出てくると、ボンドは何故か疲れたような顔をしてイヴのデスクの前にある待合用の椅子に腰掛けて待っていた。
     帰ってればよかったのに、と声をかけると、ボンドは無言で僕を見返した。こういう無言はあまり好きじゃないが、なんだか捨てられた犬のような顔にも見えて、準備していた文句はどこかへ行ってしまった。
     ジェームズは去り際に僕の肩を突くと、「それじゃあ、今度は君のところへお邪魔するよ。よろしく」と、また完璧なウィンクと共に言った。日常的にこんなにウィンクを多用する人を人生で見るのは初めてだ。そう思いながら彼の背中を見送ると、横にいた009が「彼って一日に何回ウィンクするんだろうね」と朗らかに言った。そうだね。
     帰るために僕が荷物をまとめている間、ボンドは大体いつも先に駐車場へ行って車の中で待っているが、今日はわざわざ黙ってQ課まで僕についてきた。デスクの上を片付けてラップトップを鞄にしまい、駐車場へ行くまでずっと無言だった。
    「あのね、何を心配してるのかわからないけど」
     車に乗り込んだところで、僕は沈黙を破ってあげることにした。もうすっかり夜なので、駐車場にはたぶん僕らしかいない。
    「ジェームズは別に変な人じゃないですよ」
    「ジェームズ」
    「はい。知りませんでした? 下の名前があなたと同じなの。言いたいことがあるなら言ってください、沈黙は何も語りませんよ」
     ボンドは大きくため息をついて、ハンドルにもたれかかった。
    「……ダブルオーはみんなある種のああいう特性を持ってる」
    「特性?」
    「誰かに取り入るための特性。ターゲットの前に立ったらそれに合わせて人が変わるのを君も知ってるだろ」
    「それはそうですけど」
    「僕は訓練してそれを身につけたタイプだ。元々適性はあったけど。ところがあの爺さんは天性だ」
     君が万一それに引っ掛かったらと思うと気が気じゃなくて。ついに素直になったボンドは、ハンドルにもたれた腕の隙間から僕を見て言った。
     僕がQの称号を貰った時もそうだったが、ダブルオーは昇進したらとにかく前任と比べられる。僕は前任のQとも面識があって多少彼のことを知っていたが、エージェントの場合は前任のことは任務の記録や資料、そして尾鰭のついた冒険譚で知っていくのだろう。それはともかく、嫉妬だ。ジェームズ・ボンドが前任の元エージェントに嫉妬している。自分がその対象になっているのは奇妙な気持ちだった。なかなかない状況に出くわしていることを実感しながら、僕は彼にかける言葉を探した。
    「……まあ確かに、あの感じだと天才型だったんでしょうね。局内に未だにファンがいるみたいだし」
    「前任の、爺さんのQがよく言ってた。歩きながら二秒で女を落とせるって」
     想像に易くて笑ってしまった。ボンドは僕の首の辺りを見ながらゆっくりと続けた。
    「装備も壊してきてマニュアルを渡してもすぐ捨てて、でも憎めない魅力があったって」
    「……僕はマニュアル作ったことないけど、作ったとしてもあなた読まないでしょ」
     水色の虹彩がちょっと揺れた。
     変な話だなあと思う。僕の目の前にいるこの男だって、その気になれば二秒かからずに誰かを虜にできる。「装備を壊してきても憎めない魅力がある」? どの口が言ってるんだ。それを一番よく知ってるのは僕だというのに。
    「ジェームズに言われましたよ、『君には効かない』って」
    「効かない?」
    「『特性』が。多分あの人僕らが………こんな感じなの知ってるんだと思います。なんにせよ、僕はもうあなたと五年近く同じ家に住んでるんだから。『特性』とやらに対する感覚はとっくに麻痺してます」
     ボンドが顔を上げて僕を見た。 
    「『麻痺してる』?」
     青い眼が嬉しそうに細められる。やっと機嫌が直ったらしい。全く世話の焼ける人だ。いい加減お腹が空いてきた僕は締めにかかった。
    「そう。あなたみたいなのがずっと横にいたらそうなりますよ。前任の007だって可愛いもんです」
     話しているうちにボンドの左手が伸びてきて僕の頬に触れた。キスをされたので、僕は数秒待ってから「お腹すいたから早く帰りましょう」と言った。鎖骨あたりに顔を埋めるボンドに重ねて「ごはん何?」と聞くと、くぐもった声で「鶏肉」と返ってきた。ほらね。こっちは誘われた夕食を鶏肉を理由に断っていたのだが、絶対にボンドには言ってやらない。
     
     

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    2022/09/25 0:57:13

    シンメトリー再び

    00Q 先代007との遭遇

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