ああいとしき理由たち
ああいとしき理由たち
いつもより寒かった。寝坊しなかった。寝癖が控えめだった。適当に来た服が全部寒色だった。歩きながら朝ごはんを食べた。コーヒーショップで待たなかった。出勤するまでに野良猫を3匹見た。部下からお菓子を貰った。お昼に食べたミートボールの中にチーズが入っていた。残業がいつもより少なかった。009がキエフから無事に帰ってきた。駅前で売ってるサモサが最後の一つだった。雨が降らなかった。近所のお菓子屋さんが新しいケーキを出していた。洗濯物がちゃんと乾いていた。あと、ボンドにキスをした。
さっきまで飲んでいたコーヒーの味がする。彼のこんな顔は初めて見たかもしれない。職業柄ボンドは確かにポーカーフェイスが得意だが、意外と表情豊かな人であることを僕は知っている。あまり大口を開けて笑うことはないけど、コメディ映画を見たり僕が何かおもしろいことを言ったら声を上げて笑ったりする(ボンドを笑わせるのはいろいろある僕の特技の一つだ)。初めてうちの猫を抱き上げた時とか、僕が作った一番大きなボトルシップを見せた時はちょっと驚いた顔をしたりもしていた。僕が作った料理が不味かった時の顔とか、中途半端に冷めたコーヒーを飲んだ時の彼の顔はなかなかおもしろい。
ボンドは青い目を大きくして、身を固めたまま僕のことを見ていた。水色の虹彩がよく見える。口がなんとなくちょっと開いてるのは僕がキスしたせいだ。
ボンドが僕のフラットに引っ越してきてからそこそこの時間が経っていた。同じベッドで寝起きしているし寝巻きを共有したりしているし、互いのことを特別に思っていることも確認済みだが、あまり踏み込んだ接触はしたことがなかった。
僕があまりそうしたがらないのを、ボンドは放っておいてくれた。なんでもないことのように、「キスしたくなったらいつでもしてくれ。迷う前に。いつでもいいから」と。僕がキスしたいときにあなたがそうじゃなかったら? ボンドが自信たっぷりに「そんな日はない」と言うので僕は笑ってしまった。だめですよ、そんなのわからないでしょ。言いますよ、ちゃんと。
なので、言ったのだ。ちゃんと。夕飯を食べた後にソファに並んでテレビをつける前に、僕としては今だ! というタイミングで。でも、その話題を持ち出すのすら久々だったから、ボンドは実際に僕にキスされるまで半信半疑だった。キスしてもいいですかと言っても、「本当に?」とか「いいけど、現実感がない」なんて、僕が玉ねぎのみじん切りができないと言った時と同じ顔をして言うもんだから、ちょっとムカッと来たのだ。人がせっかく緊張しながら勇気を出して言ったのに。だから僕はテレビのリモコンを取り上げると彼の膝の上に陣取って、触れるだけだけど、でも立派なキスをした。
僕らはたっぷり30秒ほどその体勢のままでいて、あまりにもボンドが黙っているので僕はだんだん心配になってきた。あとすごく恥ずかしくなってきた。
「…………………降ります」
「待って」
沈黙に耐えきれなくて膝から降りようとしたらボンドの手が慌てたように腰に回ったので、僕は居直って彼の顔を覗き込んだ。ボンドはさっきまで見たこともないような驚いた顔をしていたけど、今度は見たこともないような穏やかな顔で笑っていた。
「嬉しい?」
「……嬉しい」
「ならいいです」
「君が思っているよりもかなり嬉しい。ありがとう」
「それは結構」
彼は僕の頬を手の甲で撫でた。やけに冷たい。僕の頬が熱すぎるせいだ。
「キスの感想は?」
「ものすごく苦いです」
正直に言ったらボンドは声を上げて笑った。
「歯を磨けばよかったかな」
「次からはアイスでも食べて」
「君とキスする度にか」
「それか紅茶」
「アイスにしとくよ。僕も君にキスしても?」
「……どうぞ」
ボンドの手が僕の前髪をかきあげて、そのまま顔を挟んで、目を閉じて待っていたらゆっくり唇が重なった。遠くで猫の鳴き声がしたような気がする。僕の下唇を食むようにしたあと、舌が歯列に触れたので、驚いて身を固めたらその拍子に小さく唾が鳴る音がした。僕にしか聞こえていませんように。
唇が離れた。ボンドはそのまま僕の額と、それから頬にキスをして小さな声で言った。なんで今日キスがしたくなったのか僕に教えてくれる? 僕はもっと小さな声で言った。アイス食べたら教えてあげます。
いつもより寒かったけど、たまたま先に起きていたボンドが起こしてくれて寝坊しなかった。寝癖が控えめだと「逆に物足りないな」と言われた。適当に来た服が全部寒色で、「見てるだけで寒い」とも。二人で歩きながら朝ごはんを食べた。紅茶とコーヒーとサンドイッチ。コーヒーショップで待たなかったのはただのラッキーだ。出勤するまでに野良猫を3匹見ていちいち写真を撮った。部下からお菓子を貰ったけどボンドにはあげなかった。お昼に食べたミートボールの中にチーズが入っていたのは、僕が昨日スクラブルで勝ってリクエストしたから。残業がいつもより少なかったのは僕の努力。009がキエフから無事に帰ってきたのも僕の努力と彼の実力。駅前で売ってるサモサが最後の一つだったので、半分ボンドにあげた。雨が降らなかった。これは奇跡。近所のお菓子屋さんが新しいケーキを出していたので、もちろん買って帰ってきた。一人一切れずつ。洗濯物はちゃんと乾いていたけど、帰宅した途端滝のように雨が降り出したので二人がかりでかなり慌てて取り込んだ。乾いた洗濯物と引き換えに二人ともずぶ濡れになって、おかしいやら寒いやらで笑いながらタオルにくるまった。
時間をかけて、この全部がたまたま今日僕にとって完璧な理由になった。だからボンドにキスをしたのだ。誰も文句は言えまい。