きらきら一粒きらきら一粒
イヴ・マネーペニーのデスクの前には椅子が二脚置いてある。Mの執務室に入る順番を待つ人が座る椅子だ。この椅子に座る人は大抵緊張していて、ため息をついていたり、忙しなく時計を見たり、イヴに話しかけたりする。イヴはそんな職員や客人を宥めたり(「そんなに怖い人じゃないから大丈夫」)、冗談を言ったり(「虫の居所が悪かったら出てこれないかもね」)、または放っておいたりしていた。この椅子に座ったことがある人で緊張している様子を見たことがないのは、ダブルオーのエージェントか、Mよりも上の階級にいるお偉いさんぐらいだ。死ぬほど執務室に出入りしているのに、忙しすぎてこの椅子に座ったことがないタナーは数に数えないことにする。
そして、ジェームズ・ボンドがMI6を去った今、この椅子に緊張せずに座っていられる人は益々希少な存在となった。ボンドはこの椅子に「硬いな」と文句を言うぐらいの図太さがあったが、そんな逸材が今後現れることがあるだろうか。
業務連絡のメールを打っているパソコンの画面から視線を上げると、例の椅子に行儀良く座った009と目が合った。
「……今、中に誰がいるんだっけ?」
009は執務室の扉を指差すと小さな声で聞いた。
「ごめん。結構長く待ったなと思って」
「003がお説教に呼ばれてる。あなたが来るより随分前から篭ってるから、もう終わるんじゃないかな」
「ああ、アルバートが……何かやったんだね」
「”何か”をね」
長時間に及ぶ説教は”何か”の大きさを物語っている。イヴが意味を含ませて言うと、009はおかしそうに笑った。003はダブルオーの中でもボンドに次ぐ問題児だったが、ボンドがいなくなったので最近めでたく一番の問題児に格上げされたのだった。
009はダブルオーの中でも他に類を見ないぐらいの優等生だ。ちょうど先代のMが亡くなった頃に昇格し、来年で5年目になる。どんな任務もほとんどトラブルを起こすことなくこなし、他の職員との関係も良好だ。報告書だって書くのがうまい。癖の強いブラウンの髪に髭、眼鏡がよく似合っていてチャーミングで、性格は控えめで温厚、ダブルオーであることが少々不可解に感じられるほど「普通」の人だった。
イヴはデスクの引き出しから四角い缶を取り出した。特に悪いこともしていないのに長く待たされている009がちょっと気の毒だ。
「チョコレート好き?」
009はイヴが見せた華やかな缶を見るとパッと顔を輝かせた。
「カファレル! 大好きだよ。ありがとう」
「カファレルって言うの? 私チョコレートには詳しくなくて、貰い物なの」
009は金色の紙に包まれたチョコレートを一粒取ると、宝石を見るように部屋の照明にかざした。
「イタリアのメーカーで、すごくいいやつだよ。缶のコレクターがいるくらいなんだ。いいプレゼントを貰ったね」
「Qから貰ったの」
包み紙を剥がす009を見つめながら言ったら、彼はふと動きを止めて目を瞬かせた。
「……Qが?」
「そう。先月ヴォクソールの方が爆破された時に色々あって、Qが私のコートを汚しちゃって」
イヴはそう言いながら、「汚した」なんて言葉は相応しくないな、と思った。銃を捨ててマドレーヌ・スワンと去っていくボンドを見て、「よかった」と声を殺して泣き出したQをラップトップごと抱きしめた時についた涙なのだ。
009はほんの一瞬悲しげな顔をして、「そうなんだ」と返した。努めて明るい声を出しているようだった。
「じゃ、Qはいい趣味をしてるね。……変な話だけど、Qは初めて任務の打ち合わせをした時にも僕にチョコレートをくれたよ」
もう5年も前だ。懐かしいな。009はあまりにも嬉しそうに、穏やかな優しい顔をして話した。最初からそんなつもりはなかったが、コートの詳細を彼に伏せておいて良かったとイヴは心から安心した。
**
009は水色のシャツに柔らかそうな紺色のジャケットを羽織っていて、ネクタイはしていなかった。「これから丸一日飛行機なのにわざわざ首締めなくてもいいかなって」だそうだ。任務前はいつもそうだが、髪と同じ明るい茶色の髭は綺麗に剃られている。例によって帰ってくる頃には豊かに伸びていて、でもなぜか清潔感がある不思議な見た目になっているのだろう。
「ウルグアイって行くのに結構時間がかかるんですね」
銃と発信器、それから今回の目玉である暗視スコープが揃っているのを確認して、ケースに入れながらそう漏らしたら、009はなんでもないことのように肩を竦めた。
「20時間ぐらい平気さ。時差もそんなにないから大丈夫だよ」
「時々、あなたと同い年なのが不思議でなりませんよ」
「君だって20時間ぐらいデスクに座ってるじゃない」
「地面に足がついた状態でね」
「地下だからめり込んでることになるね」
膝から下が土に埋まった状態でラップトップを広げる自分を想像して、僕は思わず口を尖らせた。普通に嫌だな。
「……お土産買ってくるね」
「嬉しいけど、仕事はちゃんとやってくださいね」
釘を刺しながら装備の入ったケースを渡す。009は「もちろん」とそれを受け取ると、一瞬口籠った後に僕を呼んだ。
「Q」
「はい」
「大丈夫?」
僕は一瞬何を聞かれているのかわからなかったが、彼の灰色がかった青い目を見て言外の意味を汲み取った。
「……そうですね。意外と」
本当でもあるし、嘘でもある。
「そっか。ならいいんだ」
009はそう言って小さく笑った。そのまま会話が終わりそうな気配を感じて、僕は慌てて彼の苗字を呼んだ。
「ロイド」
「うん」
「ありがとうございました、……あんな話聞いてくれて」
009の目がちょっと大きくなった。
「……すてきな感情だなんて、自分では思ってもいなくて。ありがとう。……僕も、あなたがもっと幸せになれたらいいなって、そう思います」
今のあなたが幸せかどうかはわからないけど。僕がそう付け足すのを、009は眉を下げて笑顔で最後まで聞くと優しい声で言った。幸せだよ、Q。幸せだよ。
***
ボンドもよく僕に「お土産」を買ってきた。ほとんどは飛行機のポストカードで、僕が飛行機に乗れないことをからかったものだ。わざわざ任務先から送ったものがボンドが帰投した後に届いたこともある。DB10を盗んでローマに発つ前、僕に「ポストカードを送るよ」と言ったのは、この二者間にしか通じないジョークだったというわけだ。僕は本気でやめて欲しかったので「やめてください」としか言えなかったのだが。
ウェストミンスター橋で燃えるヘリコプターの炎で、あの紙の束を自分の気持ちと一緒に燃やしてしまいたかった。燃やして空の高い所に、僕が怖がって取りに行けないぐらい高いところに飛ばして、終わりにしたかった。抱え切れないほど膨れ上がった気持ちを、僕は半分あの時の炎と一緒にこっそり燃やして、もう半分はDB5の鍵に無理やり乗せてボンドに渡してさよならをして、あとは時間がゆっくりと殺してくれるのを待つことにした。あの鍵が世紀の重量級のものだとは、ボンドは気付くことはあるまい。いい気味だ。それでいいのだ。
そうして、ポストカードの束だけが僕の手元に残った。まだデスクの引き出しに仕舞ってある。これから長い長い時間をかけて殺していく予定の、僕のボンドへの気持ちの最後のかけらだった。
「チョコレートありがとう。ちょうど先週最後の一粒だった」
クリスマスも迫ったある冬の日、業務連絡で僕のデスクにやってきたイヴが言った。
「いいんだ、お詫びだもの」
肩を竦めたら、イヴは思い出したように続けた。
「ねえ、私あれがすごく高価いやつだって全然知らなかった。すてきな趣味してるのね」
「カファレルね。缶がかわいいでしょ」
「そう。もっと雑に食べてたかも、エリオットが教えてくれなかったら」
イヴがおどけてそう言うので僕は笑い声を上げようとしたが、出てきた名前に思わず首を傾げた。
「……ロイドが?」
「この前執務室の前で随分待たされてたから可哀想になっちゃって、一つあげたの」
「Qはいい趣味をしてるね」って、宝石みたいに扱って食べてた。イヴはまるで近所の犬が可愛いと話しているような口ぶりだった(009の噂をする人はだいたいそういう感じになる)。
イヴが執務室に戻っていった後、僕は突然009と初めて会った時のことを思い出した。当時僕が作業部屋代わりにしていた資料室に彼がやってくるという至極地味なもので、自己紹介をした帰り際に彼は僕のデスクになぜかキャラメルを一粒置いていったのだ。僕はそれについてしばらく考えたのちに、翌週装備の打ち合わせをする時彼にチョコレートを一粒あげた。009は灰色がかった青い目を眼鏡越しにパッと輝かせてこう言った。
「今までチョコレートはただのチョコレートだと思ってたけど、これからは宝石みたいに見えそうだよ」
あのキャラメルは、僕と人として距離を縮めようとしてくれた彼の気持ちのかけらだったのだろう。僕も僕で、それに応えようとかけらを一粒彼に渡していたのだ。
009はウルグアイで何をお土産に買ってきてくれるだろう。
ダブルオーナインの独白
エリオット・トーマス・ロイド。1980年生まれ。空軍にほんの少しいた後20代で機密情報部に入った。空軍には2年しかいなかったが、飛ぶのは得意だ。ダブルオーの下で動くヒラのエージェントだった時には、飛行機が必要になる任務によく駆り出されていた。5年ほどそんな生活をして、30歳を過ぎた頃にダブルオーナインに昇格。同い年のQと出会った。
地下6階にあるQ課の一番奥にある一番埃っぽい部屋で、同じく昇進したばかりのQは大量のモニターと大量の紙に囲まれて格闘していた。「この紙に書いてあることを全部こいつに覚えさせます」と、銀色のラップトップを撫でて言ってたっけ。貰ったばかりのIDカードを見せて挨拶し、同い年だということがわかると、それまでほとんど無表情だったQはほんの少し口角を歪ませて言った。
「『E.T.はどこだ』ってからかわれなかった?」
ご名答だ。エイリアンと出会う少年と同じ名前で、映画が公開されてから数年間は言われ続けた。「久しぶりに言われたよ」と返すと、それまでニヒルに笑っていたQはハッと何かに気づいたような顔をして、ため息をついて眉間を揉んだ。
「すみません。その———僕も変な名前してて、本名が。よくからかわれたんです。あと、『E.T.』好きで……」
Qは僕が思っているよりもずっと普通の人だった。「僕が言うのも何だけど、ありがとう」と言って、Qが照れたように笑った頃には、僕はもう何となく彼のことが好きになっていた。
「もしもし、Q?」
『はい』
「ちょっといい?」
『はい』
「キャラメル好き?」
『……はい?』
「空港にね、キャラメルジャムっていうのが売ってる。あと、そのキャラメルジャムを挟んだ大きなジャファケーキみたいなお菓子。甘そうだけど美味しそうだよ」
『………まだカラスコにいるんでしたっけ』
「うん、もう少しで搭乗するところ」
『搭乗……搭乗? 早く乗ってくださいよ! 乗り遅れたら面倒なことになるんだから』
「だからお土産見てるんだって」
搭乗10分前まで売店に張り付いている僕にQは呆れ声を出していたはずだが、僕がもう一度「キャラメル好き?」と聞くと、少し間があった後、なぜか耳に当てたスマートフォンからはくすくすと笑う声がした。
『……キャラメル好きです。お菓子も食べたい』
「そう。じゃあ買ってくるね」
『ロイド』
「うん?」
『あの、帰ってきたら、……どこか行きませんか』
「……どこって?」
『その……なんか、中華街とか。好きなお店があるんです。あなたの好きなお店でもいいけど……』
僕は危うくキャラメルの瓶を落としてしまうところだった。
「えっと、その———ううん、中華街、中華街にしよう。Qの好きなところに行きたい。連れて行ってよ」
また聞こえた、声を出さずに笑っているような息の音だ。
『わかりました。じゃあ……また後で』
「うん、また……また後でね」
キャラメルの瓶とお菓子の箱は荷物棚に上げずに、膝の上に抱えていくことにした。夕焼けの空中から見下ろすカラスコ国際空港は信じられないほど美しかった。
***
あの日は任務に出発する前に車を試乗する日だった。ボンドが例外だっただけで、任務で車が装備として渡されることはあまりない。僕らは基本的に海外で活動するし、車は持っていくには手間もかかるし何より目立つからだ。だから、ガジェットが搭載された車を持たされるということは、それなりに大かがりな仕事を任されたということを意味する。
僕は今まで車が必要になる任務を任されたことがなくて、Qにいつか車を作ってもらうのが楽しみだった。雑談がてらどんな車を作るか彼と話したこともある。水陸両用にするとか、火炎放射器はどれぐらいの火力にするとか。僕はいつも100%冗談のつもりで「シナトラが流れるボタンがあったら最高」と言っていたのだった。
Qがちょっと申し訳なさそうな顔をして「あなたに車をあげられるかも」と言ってきたのはつい3ヶ月ほど前のことだ。「ボンドのお下がりで申し訳ないけど。でも速いですよ」と。
「最終確認をしたら上に持っていくので、外で待っててください」と言われて、僕は20分ほど待った後寒さに耐えかねて地下に戻った。すると、朝日が差し込んだ地下の空間にQがぽつんと立っていて、僕はそれにちょっと見とれて、ガレージが空っぽだと気づくまで少しかかって、シャンパンを見てなんとなく事情を察した。
その日の予定がそっくりそのまま持ち去られた僕と、その日の予定がそっくり全部ひっくり返ってしまったQは、日曜の朝からシャンパンを飲むぐらいしかやることがなかった。最も、Qは飲む気になれなくてマグの紅茶を啜っていたけど。
Qは「これで何かあったらあなたも巻き込んじゃうことになります」と申し訳なさそうにしていたけれど、僕はQと二人でシャンパンが飲めて嬉しかった。例えそれがボンドがQに甘えた結果だったとしてもだ。おまけに、支給対象がボンドから僕に変わった段階でシナトラが流れるボタンをつけてくれたというのだから。
僕はQのことが好きだ。肩書に反して実は遊び心ある楽しい人であるところや、遊び心を支える強靭な知性はとにかく僕にとって魅力的だった。出会ってから4年ほど経っていたけど、見るからに複雑な人物であるQが時間をかけて僕に僅かでも心を開いてくれたことが嬉しくて、どんどん好きになった。彼に命を預けるのは心地よかった。
僕はQのことが好きだ。だから、Qがボンドに何かしらの特別な感情を持っていて、今でも振り切れないということを、彼が話してくれて嬉しかったのだ。それだけ信用してくれているということなんだから。胸が押し潰されるような痛みは僅差で暖かさに負けてしまった。緩やかな優しい苦しみがあるのをそうっと無視して、僕は大事なことを教えてくれたQに「すてきな感情を持ったね」と言った。話してくれてありがとう、君がもっと幸せになれたらいいのに、と。
嘘はついていない。
この瓶にいっぱい
蒸籠の蓋を開けると、僕も彼も湯気で眼鏡が曇って二人して何も見えなくなった。紙ナプキンで眼鏡を拭きながら、ロイドは蒸籠の中を覗き込んで「ワオ」と声を上げる。色とりどりの小籠包が行儀良く並んでいた。
「何色にする?」
「選んでいいんですか?」
「うん」
「どうしよう。こういう形のキャラクターがいっぱい出てくるゲームがあるんですよね」
僕は迷った挙句青を選んだ。
「色によって特性があって、上手く使いながらクリアを目指すんです。赤は火に強くて、青は水に強くて、紫は力持ち」
「普通のやつもあるよ」
「白は毒持ちですよ」
ロイドはおかしそうに笑うと、竹でできた蒸籠を指で突いて言った。
「こういう蒸し器の方が美味しく作れるのかな」
「さあ。美味しそうには見えるかも」
「なるほどね」
「料理とかします?」
何となく質問したら、ロイドは紫色の小籠包を小皿に取って「うーん」と唸った。
「するけど、習慣があるだけで拘りはないかな」
「習慣があるだけ良いですよ。僕はありません」
おどけてそう言ったら、ロイドはしばらく僕のことを見つめてから優しい声で言った。
「ちゃんと生活できる時にしないと戻って来られなくなるからね」
僕は水餃子を口に運ぼうとしていたのだが、そのことをすっかり忘れてしまった。ロイドは蒸籠に残った赤い小籠包を口に放り込んでビールを飲むと、「火に強くなった気がする」と言って笑った。
*
店を出てテンプル駅まで戻ると、雪がちらついている。ここから橋を渡って家に戻らなければならない僕の心を折るには十分の天候で、また地上出口の近くにあったチップスの屋台の誘惑に僕とロイドが負けるにも十分の寒さだった。
「これを食べるとロンドンに戻ってきたって感じがする」
チップスはほとんどロイドが食べて、僕はもっぱら一緒に買ったコーヒーの紙コップで両手を温めていた。温度差で指がふやけそうだ。
「いつも食べるんですか?」
「大抵ね。家の近くにも屋台があって……そんなに美味しくないんだけど。ここの方が美味しい」
「それも習慣?」
チップスを忙しなく口に運んでいたロイドの動きがほんの一瞬止まった。冷たい風がブラウンの髪を吹き上げた。見送った時は短く切られていたけど、眉に届くほど伸びている。
「……そうだね。そうかも。そうでもしないとダメでさ」
ダメ、というのはつまり、つい数日前までいた前線から精神的に戻って来られなくなってしまうということだ。いくら現場で優秀でも、これがうまくできなければエージェントを長く務めるのは難しい。僕が今まで関わってきたエージェントにはみんなそれぞれの帰投後のルーチンがあった。病院の検査やカウンセリングといった局内で定められたものを終えた後は、大抵何か気晴らしになるようなことをやるために休暇を取る。個人的なことなので明かしていないエージェントもいるが、僕が知っている限りでは、プールで何時間も泳いだりとにかく静かな場所へ行ったり、意外と地味な作業が多い。みんな苦労しているのは確かだ。
「ま、料理と美味しくないチップスで戻って来られるのはラッキーだよ。もっと大変な人もいる」
ロイドはチップスを包んでいた紙をゴミ箱に放って、肩を竦めた。
「もっと大変な人」。まずいことに間ができてしまって、僕らはしばらく黙って歩いた。僕は中華屋で習慣の話題が出た時からまるで靄のように胸の中に漂っていたことをついに捕まえて、口を開かざるを得なかった。
「……ボンドはいつもやることが違いました」
ロイドが耳を済ませたのが気配で分かった。コーヒーは一口も飲んでいないのにすっかり冷えて、両手は冷たくなっていたのに僕の心臓は早鐘を打っている。
「別の場所に一人で旅行に行くこともあれば、ジムに籠ったりすることもあって、休めば良いのに。何時間も射撃場にいるときは大抵荒れてるんです。何か悩んでる時はプールにいて……何事もなかった時は、よく僕に夕飯を買って持ってきてくれました」
「……センスの良いもの買ってきそうだね」
ロイドが言った。馬鹿みたいに優しい声だった。
「それが、まちまちなんですよ。信じられないほど高価いものの時もあれば、テスコの冷凍食品とか持ってきたりして………………ごめんなさい」
思い出して笑った拍子に涙が溢れるのが分かって、僕はコーヒーの入っていたカップを落としてしまった。
風に吹かれて涙があっという間に冷えていく。ロイドが僕の背中をゆっくりと摩って、彼はそのままほんの少し、本当に少しだけ僕に身体を寄せた。
「あのね」
「……はい」
「君が『どこか行きませんか』って言ってくれた時、夢でも見てるのかと思ったよ。僕はウルグアイに縁があってさ、知ってると思うけどカラスコの空港は死ぬほど行ってて家みたいなもんなんだ。でも、空から見るとあんなに綺麗な建物なんだって初めて気づいた」
背中に当てられた手はまだゆっくりと上下している。
「ヒースローに戻っても、ロンドンに戻っても、今も、まだ夢を見てるんじゃないかって気がしてるよ」
だから謝っちゃダメだ、コーヒー落としたぐらいでさ。
ロイドの手は呼吸するように、何かを染み込ませるように、その後しばらく僕の背中を摩っていた。
009はまるで何事もなかったかのような顔でウルグアイから戻ってきた。以前から追っていたテロ組織をスパートをかけて一気に叩く、なかなかのスケールの任務で、相当身も心も消耗しているはずなのに、戻ってきた彼は煤けた装備のケースとキャラメルジャムの瓶を抱えて、ニコニコしながら僕のデスクの前で待っていたのだった。
いくら僕でもわかる。009が任務をこなしても「普通」でいられるのは、彼が僕が知っているエージェントの中で最も普通ではない人の一人であるという何よりの証拠だ。ロイドは料理やチップス一つで戻って来られる「ラッキー」な人なんかじゃない。普通に戻ることを諦めているから、「普通」の真似事をしているだけなのだ。
戻ってきたロイドに「無事でよかった」と声をかけると、彼は「君のおかげだ」と言って、初めて会ったときのように気持ちのかけらをまた僕に渡してくれた。今度は一粒じゃなくて、瓶にいっぱい入ったやつを、たぶん僕の記憶では初めて「ただいま」と言いながら。
僕はさっき彼がしたように半歩彼に身体を寄せた。僕にできる精一杯のことだった。ロイドは背中の手に少しだけ力を込めて、また口を開いた。
「……ボンドもテスコに行ったりするんだね。知らなかったなあ」
「……全身トムフォードで行ってたら面白いでしょうね」
涙を拭ってそう言ったらロイドが声を上げて笑ったので、つられて僕も笑った。ずっと摩られていた背中だけが暖かかった。