挿絵画家の午後挿絵画家の午後
返し縫いをして止めたミシンの糸を切ろうとしたら、糸切り鋏の切れ味がかなり悪くなっていることに気づいた。四苦八苦しながら糸を切っていると、三つ並んだドアのうちの真ん中からブルネットがひょいと顔を出す。アイスクリームのカップを持っている。
「何作ってるの?」
「マスク」
「マスク? 足りない?」
「いや、足りてるけど、ブランが出かけるって言うから」
「ああ……」
彼はフィリップが縫っていたえんじ色に水玉の生地を見て、それから傍に置いてある紺色に水玉の生地を見た。
「僕は行きませんよ」
「あ、そうなの」
「はい。ちょっと無理があるでしょう、悪戯で招待された集まりに助手まで連れて行くっていうのは。行っても怪しまれるだけです」
暑いの苦手だし。彼はそう付け足して、手元にある水色のアイスクリームを一口食べた。何味なんだろう。
ロックダウンが始まってかれこれ二ヶ月ほどになる。ついこの前ハーラン・スロンビーの一件があり、フィリップのルームメイトとその助手はやれ取材だなんだと少しの間忙しくしていたが、未知のウイルスのせいでほぼ全ての予定が消滅してしまった。この助手———ブルネットで細身のイギリス人———は、完全に成り行きでこのアパートに滞在している。事務所を閉めるタイミングで依頼がひとつ舞い込み、拠点を自宅に移してそれに対応しているうちにロックダウンが始まってしまったのである。部屋も一つ余っているし最早ここに住んだほうが早いのではないか、今更同居人がもう1人増えるくらいなんともないとフィリップはこの二ヶ月言い続け、ロックダウンが明け次第彼はこちらに越してくることになっている。
フィリップはブランだけではなくこの助手ともそこそこ長い付き合いがあった。デザインやイラストを生業にしているフィリップは、ある時知り合いの編集者にインタビューに同席して挿絵の似顔絵を描くよう頼まれ、そこで出会ったのが馬鹿馬鹿しいほど鮮やかな虹彩をした碧眼の男だったのだ。それはもう10年ほど前のことで、彼に助手が出来たのはこの数年後のことになる。この助手の素性が全くわからないというところも、見た目に似合わず食べられる食べ物はなんでも食べるというところも、フィリップはとても面白いと思っていた。
「もう僕がついていかなくてもいいような気がしてるんですよね」
彼はアイスのカップをミシンの横に置くと、フィリップの隣に座った。
「この前もなんだかんだ大丈夫だったし。探偵の助手もリモートワークできるのかもしれない」
「どうかな。君がいないと脱いだ上着どこかにやってきちゃうんじゃない」
フィリップは元々家が仕事場なのでそこまで変化はなかったが、一歩も外に出られないとなると流石に休みの日は暇になる。これまで凝った料理と家の掃除と壁紙の張り替えとお手本のようなロックダウン生活を送り、今週は初めて小麦粉とイースト菌に手を出しているところだった。目の前でアイスを食べている彼が部屋から出てきたのは、十中八九パンの焼き上がりを察知してのことだろう。
「ブランは?」
「荷造りしてます」
三つ並んだドアのうち一番左から何かが崩れる音が聞こえてきた。
「これで心置きなくシャワーが浴びれるな」
「あの本どうします?」
「全部ポスカで落書きしてバルコニーにモザイク画を作りたいよ」
食べ終わったアイスのカップをゴミ箱に放った彼は笑い声を上げた。
その日の夕方、えんじ色に水玉のマスクをつけたブランは家を出発した。久しぶりの外出と事件でかなりウキウキした様子の探偵を2人で見送って、ドアを閉めると、フィリップは時計を見た。午後5時。
「パンが焼けたからシチューでも作るかな」
「さっきマスターからテキストが来て、またお菓子送ってくれるそうです」
「ああ、そりゃいいや」
今は閉まっている事務所の階下にある喫茶店のマスターは、この春から焼き菓子の通信販売を始めたらしい。試作品が結構な頻度で送られてきていたが、今のところ問題なくこのイギリス人が平らげている。
「今度はあなたと僕が歳の離れたカップルだと思われるんだろうな」
閉まったドアを眺めながらぽつりと呟いた彼を、フィリップは横目で見た。きっと先日訪ねてきたヘレンはフィリップとブランのことをカップルだと思っているだろう。
フィリップは口を開いた。
「君がここに来てくれて助かったよ」
「そうですか?」
「君の存在はご近所をかなり混乱させてるからね」
「知らなかった、家から出ないから。僕のことなんて説明してるんですか?」
「ブランとここに引っ越して来た時と同じだよ。友達だって本当のことを言ってるだけさ」
薄緑色の目が嬉しそうにきらりと光ったのを見て、フィリップは妙に誇らしくなった。ブランが風呂にこもっているうちに、自分はこの謎の塊のような存在の扱いを覚えつつある。週末は死ぬほどパンの写真を撮って送ってやる。