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    光あるうち光の中を征け


     木陰にあってなお明るい五月の午後の道を、膝丸はひとりで歩いた。本丸から万屋まではほとんど一本道、迷うようなものではない。買出しは問題なくこなせるだろう。
     買う物をもう一度確認しておこうと出掛けに歌仙兼定に託された書付けを取り出し、膝丸は眉を顰めた。ごく簡単な内容の最後に、「茶菓子」とだけ書かれているのだ。
     菓子を買うことに反対しているわけではない。横に添えられた数字からして今本丸にいる刀たちと審神者のおやつにするのだろう。小さい刀たちの喜ぶだろうことは膝丸にだって容易に想像がつく。気になったのは、茶菓子としか書かれていないことである。
    「……何を買えばよいのだ……」
     ひとりであるのをいいことに声が漏れた。菓子といったって色々あるに違いない。顕現してまだ一週間の膝丸にもそれは分かる。おそらくは最初の刀である歌仙の趣向なのだろう、八つ時に一度も同じ菓子が出たことがないのだ。
     それも店の者に見繕ってもらえばよいか、とすぐ思い直し、小さな紙から視線を上げる。初夏の緑は自らの内に光をはらんだように溌溂として、風に揺れると爽やかな音を立てた。雑木林を囲った塀からこぼれそうな梢を横目で見送り、角を曲がる。
     本丸から続いた細い路地から出ると、道が広くなるのとともに視界も開けた。一瞬目が眩むような心地に、膝丸は思わず足を止めた。石畳を敷き詰められた道に人影はない——光を散りばめたような五月の緑の中でも一際まぶしい、洋装の青年以外には。
     まぶしい、と感じたのは青年の服装が真っ白だったこともあるだろうが、射止められたように目を放せないのはそれが理由ではなかった。低い柵に軽く腰掛けた優美な姿、陽光に輝く淡い練色の髪、その横顔には覚えがある。
     突っ立ったままの膝丸の気配に青年は顔を上げた。そうして膝丸がその瞳の色が自分と同じであることを確かめているうちに彼は丸い目をさらに丸くして、すぐに細めた。
    「弟だ」
    「兄者」
     髭切は手を振ると、自分が腰掛けている柵を軽く叩いてみせた。おいで、ということらしい。
     知らない本丸の、知っている兄の笑みに膝丸は少し戸惑ったが、結局はその誘いに乗った。隣に腰を下ろした弟に、髭切は満足げに頷くと「初めて会う弟な気がするね」と笑った。ふたりのうしろでは弱い風に雑木林がさらさら鳴っている。
    「確かに俺は顕現してから兄者に会うのは初めてだ」
    「おお、当たっていた。僕の弟目利きもなかなかだ」
    「なんだそれは」
     とぼけた兄の言葉に膝丸は笑った。髭切はその膝丸の笑みに同じように笑うと、「時間はあるかい?」と訊ねてきた。買出しの予定はあるが、時間はある。
    「大丈夫だ」
    「本当? おつかいの途中といった感じだけれど」
    「ああ、その通りだが、俺は今日は本来非番なのだ。手が空いていたから頼まれたが、少し時間がかかっても問題あるまい」
    「そうかい? じゃあ、僕の迎えが来るまで話をしないか。なに、そんなにかからないよ」
    「それはいいが……」
    「よかった」
     髭切は一度立ち上がると、再び座り直した。そのときに肩に引っ掛けた長い外套がふわりと広がり、知らないはずなのに懐かしい匂いがした。改めてまじまじと兄の姿を見ると、髭切はおかしそうに笑う。
    「僕の姿がどうかしたのかい?」
    「いや、俺はあなたを目にするのが本当に初めてなのだ。同じ本丸にいる刀で、あなたを見たことがあるというものから、俺と揃いの仕立てのような詰襟を着ていると聞いていたのだが……」
     兄の服装は詰襟で相違ないが、自分と同じ仕立てには見えない。首を傾げると髭切は得心したように「ああ」と視線を中空に投げた。
    「僕たち、修練するうちに姿が変わるんだよ。僕もお前が今着ているような詰襟を羽織っていたことがある」
    「そうなのか」
    「うん。色は違うけれど……それにしても、そんなに他の本丸の僕を見かけないなんてことあるのかい? 僕は万屋に行くまでに、僕やお前を見かけることなんて何回もあったけれど」
     言いながら髭切は腰を折って、膝丸の向こうの、その弟が先ほど通ってきた路地に目を凝らした。
    「すぐそこの経路から来たんだろう? だったら僕たち、所属は同じはずだけどなぁ……それに、演練に出ればどこか一部隊くらいには僕がいそうだけど」
     膝丸は先日聞いたばかりの万屋へと通じる道の説明を思い出していた。本丸の裏門を潜り、雑木林の間を縫う細い道を抜けると、この大通りに出る。路地自体は国の名を冠した所属を同じくする本丸で共有しており、ふたりのすぐそばにあるもの以外にもこの大通りにいくつも繋がっているのだという。そのどれもが、大通りから帰る際には刀も主も路地を行くうち、それぞれの本丸に振り分けられるようにできているらしい。
     狐につままれたような話だ、と思ったとき、信濃藤四郎に抱えられたこんのすけが「化かしてなどいませんよ」と歌うように嘯いたのでよく覚えている。信濃は「前に鳴狐さんと来てからこれを言うようになっちゃったんだ」と苦笑いしていた。
     姿勢を直した兄に膝丸は、万屋までの案内をしてくれた短刀の人懐こさを思い出して笑みを浮かべた。彼が本丸の二振り目で、膝丸の世話係でもあったのだ。
    「……実は俺は、一週間前に顕現したばかりなのだ。まだ演練にも出たことがない。そもそも本丸もまだ駆け出しでな、太刀も俺しかいない」
    「……お前だけ?」
    「ああ」
    「えっと、でも、そんな本丸がどうやってお前を顕現させられたんだい?」
     兄の疑問を訝しく感じながらも、膝丸は当然のこととして応えた。
    「どうって、鍛刀されたのだが」
    「……鍛刀……」
    「ああ。それで、その鍛刀に使われた分の資材を回収するとかで、連日遠征ばかりでな。近侍によると、負傷したときの修復に使う資材も危ういとのことだったからな」
     俺たちは小さいものより修復に資材がかかるのだろう? と聞かされていたことを訊ねてみたが、兄はどこか茫然とした様子で膝丸を見つめたままだった。思わず首を傾げると、髭切は膝丸と同じ形の目を伏せて、「そう、鍛刀で……」と息を吐いた。
    「兄者? どうかしたのか?」
    「いいや、大したことじゃないよ。……そうか、道理で初めて会う弟なわけだ」
    「ああ、そうなるな」
     兄の不思議な言い回しに笑いながら、膝丸は頷いた。顕現して一週間、覚えることが多く慌ただしく過ぎていったが、兄を忘れたことはなかった。別の本丸とはいえ兄とようやく顔を合わせられたことに気分が高揚していた。
     髭切はそうした上機嫌な弟に目を細めたあと、視線を隣から前へと移してぽつりと言った。
    「実はね、僕の本丸にはお前はいないんだよ」
     膝丸は目を見開いた。この兄は「修練するうちに姿が変わる」と言っていた。既に自分と装いが違うからには、兄の練度は高いはずである。おそらく本丸自体、自分のところよりもはるかに場数を重ねているはずだ。
     だからなのか、それとも兄がいるからにはという先入観か、この兄の本丸に「膝丸」も当然いると思い込んでいたのである。
     驚いている膝丸に、髭切はまた視線を戻すと、少し眉を下げて微笑んだ。
    「主の方針でね。本丸ができて一年くらいかな、その間に来た刀たちしかいないんだ。数も全部で四部隊組める程度だけ」
    「……少数精鋭ということか」
    「そういうことになるのかな。今代の僕の主は、いくさ上手だったみたいだね」
    「そうか……」
     なんともいろんな本丸があるものだ。確か膝丸の本丸の審神者も、よその本丸の審神者と連絡を取り合って情報交換をしていると聞いたが、なるほど、それぞれの本丸で違った運営があるのだ。駆け出しの自分たちは、今からそれを探っていかねばならないのである。
     初めて会う兄が、自分とは違う主を持っている。今事実としてあるそれは、改めて考えると不思議に感じた。その兄は、首を軽く傾げて膝丸に笑ってみせる。淡い色の髪の上を木漏れ日が滑っていった。
    「だからね、僕は主が鍛刀しているところを見たことがないんだ。刀の数を増やさないようにしていたからね。お前が鍛刀でも顕現できるなんて、初めて知ったなぁ」
    「そうなのか?」
    「うん。……ああそうだ、ほら、これをあげよう」
     髭切は思い出したように懐を探ると、小さく折り畳まれた紙片を取り出した。そのまま受け取った膝丸はそれを広げて、眉根を寄せた。「梅」という字と鼠が描かれている。
    「何だ? これは」
    「ありゃ、見たことないかい? 御札」
    「札?」
    「鍛刀のときや刀装を作るときに使うらしいんだよ。もっとも、うちでは鍛刀はしないし、刀装を作るときにも使っているのは見たことがないんだ。ただ、政府からの報酬なんかで溜まっていっちゃってねぇ、あまりに数がいくと主が適当に捨てちゃうんだよ」
    「捨てる!?」
     膝丸が声を荒げると、髭切は愉快そうに笑った。
    「そう、その辺雑なんだ。使わないからって、まとめて丸めてポイッて……そのうちのひとつを失敬してあったんだよね」
    「しかしなんでまた……」
     そう言いながら札に目を落とし、膝丸は口を噤んだ。髭切も膝丸が何を思ったか察したのだろう、頷くとグッと両手を組んで伸びをした。
    「梅と見るとつい、なんとなくね」
     兄に所縁のある場所が梅の名所でもあることを、膝丸も知らないわけがなかった。そうなると今自分の手の中にある、たくさんの折目でくちゃくちゃになった紙もまた、兄に縁あるもののように思えてくるから不思議だ。
    「ついずっと懐に入れていたんだけど、僕が持っていても使うことはないからねぇ。お前が持っていくといい」
    「いや、しかし」
    「いいんだ」
     返却を突っ撥ねるように、髭切は迷う膝丸の手をぐっと押した。兄にこうされてしまうともう強く出られない。不承不承といった感じで紙片をしまうと、兄は機嫌よく「うんうん、いい子いい子」と笑った。まるであやすような言い方に弟とはいえ気恥ずかしくなったが、髭切はそんな膝丸の様子には構うことなく言葉を続ける。
    「鍛刀にでも使うといいんじゃないかな。最初に喚び出した太刀がお前だなんて、僕にはお前の今代の主はなかなかの豪運に思えるよ」
    「そうだろうか……」
     兄の言葉を面映く感じながら自分の本丸を思い浮かべた膝丸は、「いや」と低い声を出して険しい顔になった。
    「豪運かどうかは分からぬが、それにしても少し、そそっかしいというか何というか……」
    「おお、そそっかしいとは?」
     髭切は丸い目をぱちぱちさせて、自分と同じ形の目をきゅうっと細める弟に訊ねた。
    「……俺は顕現して以来、遠征ばかり行っているのだが」
    「うん」
    「というのも、俺を鍛刀した際に主が資材を注ぎ込めるだけ注ぎ込んでしまったからなのだ……」
     顕現した膝丸が最初に目にしたのは、「太刀だ!」と声をあげる審神者と信濃、そのうしろで青い顔をして固まっている博多藤四郎だった。あとになって聞けば、コツコツと貯めてきた資材が自分のために一気に使われたとかで、まだ小さい本丸の経理と資材管理を一身に請け負っている短刀はそれを膝丸に語ると眼鏡を外し目頭を押さえた。
     しっかりしているとはいえ幼い容貌のもののそんな姿を見てしまっては心が痛む。そんなわけで膝丸は自分の鍛刀に使われた分の資材を自分で回収することとなったのである。
    「運がよくとも後々のことを見通せなければ、せっかくの運も活かせぬだろう……」
     はぁ、と溜息を吐くと、兄は隣で口許に手をやりながら肩を揺らしていた。その震えに、俯いた頬にかかった髪がさらさらと揺れた。その頬も先ほどより赤みが差している。
    「……笑いすぎではないか?」
    「ふ、ふふ、いやごめん、だってねぇ……」
     髭切はどうにか震えを落ち着かせると、「豪胆だねぇ」と歯を見せて笑った。自分が鏡の中で見る鋭い歯が兄にもあることを、膝丸はこのとき初めて確かめることができた。
    「豪胆はいいが、俺が次に見た主は歌仙に正座させられている姿だったぞ……」
    「あはは、いい本丸じゃないか」
    「そう思うか?」
     兄が笑い声と共にもたらした言葉に、膝丸は訊き返した。髭切は何度も首肯して、再び膝丸の目を見た。膝丸と同じ色の瞳を、柔らかく細めながら。
    「思うよ。そりゃ、惣領が惣領らしく構えていることでうまく回る本丸もあるだろうけど、それだけが方法じゃないだろう。お前のところはきっと、その在り方がいいのさ」
    「ふむ……」
     膝丸は肩の力を抜いて、自分の本丸のことを思い返した。まだ空き部屋の多い屋敷、小さい刀たちで組んだ部隊が演練や出陣先へ向かうために門を潜っていく様子、それを横目で見送りながら遠征へと出発する自分のいる部隊。慌ただしさで毎日が終わる。その中でも歌仙は日課だけでなく本丸の食事や景観に気を配ってくれるし、信濃は刀たちをよく見ていて気を遣ってくれる。
     なるほど、兄の言う通りだ。経験はまだ足りないかもしれないが精いっぱい日々をこなしている。これから強くなっていくのである。
     顕現して以来ずっと資材集めに奔走していた膝丸も、ようやく自分の本丸を捉えることができた。それに晴れやかな気持ちになって隣の兄を見ると、髭切も膝丸を見てひとつ頷いた。
     その兄に膝丸が歯を見せて笑ったとき、髭切は思い出したように話し出した。
    「ああでも、資材が足りないというなら、なおさらお前は演練に出してもらった方がいいね」
    「む?」
    「演練は負傷しても手入れに本丸の資材は使われないからね」
    「そうなのか!?」
    「そうだよ。そっちの子たちも知らないわけじゃないだろうけど、まだ日課をこなすのに一生懸命でそこまで気が回らないのかな……自分で進言してみたらいいんじゃないか? お前のところは風通しがよさそうだから」
    「ああ、そうしよう!」
    「そうそう、それで練度を上げて、出陣もして……ま、そのうち怪我はしちゃうだろうけど、その頃には刀の数も増えているだろうから遠征も今より楽に回せるようになってるんじゃないかなぁ」
    「なるほど……!」
    「戦場によっては短刀たちが得意なところもあるけど、僕たちみたいなのがいた方がいいところもあるからね」
    「ああ、それも主と近侍に伝えてみよう!」
     兄の言葉に膝丸は自分の行く先に標を得た気がした。そしてその標を伝っていけば、この兄のいるところに辿り着けるのだろうとも思った。
    「いつかは、演練であなたのいる部隊と当たるのかもしれないな」
     そうなりたいという気持ちで出た言葉に兄は微笑んでくれた。そうして、「他に何か聞きたいことはあるかい?」と首を傾げた。
    「他に、か……」
     また自分たちの本丸を思い返す。まだ十振りと少し、自分より背丈の低いものばかり。それぞれ出陣や遠征、内番をこなし、ある時間には広間へと集まってくる——
    「——兄者の好きな茶菓子は何だ?」
    「ちゃがし?」
     この質問は予期していなかったのだろう、髭切はぎこちない発音で膝丸の言葉を繰り返した。
    「いや、今日も茶菓子を買ってくるよう頼まれているのだが、種類や名前は書いていないのだ。さっきも言ったが俺は顕現したばかりだから、どれがよいなどは分からぬのでな。あなたは、顕現してから長いのだろう? 兄者の勧めなら外れはあるまい」
     髭切はまばたきを繰り返して膝丸の顔を見つめていたが、軽く噴き出すように声を漏らすと「茶菓子、僕の好きな茶菓子かぁ……」と指で口許を掻いた。その考えを巡らせる様子がなんとなく楽しそうで、膝丸は兄が甘いものを好むことを知った。
    「そうだなぁ、この時期だったら、万屋の隣の細い路地を通った先に小さな菓子屋があるんだけど、そこの草餅かなぁ。春先から置いてあるんだけど、確か今ぐらいまであるはずだよ」
    「草餅か」
     膝丸の記憶ではまだ八つ時に出てきたことがない。ならば、ちょうどいいだろう。
    「兄者は店にもくわしいのだな」
    「そりゃ、刀剣男士やってそこそこ長いからね」
     兄弟は顔を見合わせて笑った。同じ顔がそれぞれ低い笑いをこぼし合ったあと、髭切はすっと立ち上がった。
    「もう少しこうしていたいけど、そろそろ迎えが来るかな」
    「そうか。俺も長々とすまなかった」
    「ううん」
     兄と同じように立ち上がろうとした膝丸は、頭の上に柔らかいが確かな重みを感じて動きを止めた。それは膝丸の頭の丸みを確かめるように動いて、最後は髪を整えたのか表面を軽く払うようにして離れていった。兄の手だった。
     驚いて腰かけたままの姿勢で兄を上目に見つめると、髭切はまるで人間の子どものように無垢な笑顔を浮かべた。
    「僕、弟の頭を撫でたの初めてだ」
     ふふふ、と満面の笑みを膝丸に見せたあと、兄はゆるりと身体の向きを変えた。その動きにつられて膝丸も視線を移せば、黒い外套を羽織ったふたりが立っていた。
    「——第三〇八号本丸の髭切だな」
    「ああ、その通りだよ」
     正しくは二振りだった。丈の違う黒い外套に、よく似た帽子を被ったふたつの刀剣男士が、髭切をじっと窺っていた。
     その片方、先ほど髭切に声をかけた方が、目深に被った帽子の下で鮮やかな緑の目を怒らせて詰め寄った。
    「我々は本丸で待機するよう連絡したはずだが?」
    「あー、そうだったかな。ちょっと散歩に出たくなっちゃって」
    「兄者……」
     思わず呆れた声をあげると、緑の目は膝丸へと移った。澄んだ光が探るように膝丸を捉える。
    「……あなたは? 第三〇八号本丸には、膝丸は顕現していないはずだが」
    「ああ、俺は第一四二二一八号本丸のものだ」
    「清麿」
    「任せて」
     清麿と呼ばれた同行者が、中空に現れたディスプレイを操作する。膝丸も見たことがあるものだった。主や近侍が出陣や遠征の部隊の状態を見るのに使っているものによく似ている。
    「うん、確かにその本丸は膝丸が登録されているね」
    「……別の本丸のもの同士が、何を?」
     猜疑心を隠そうともせず、緑の瞳は膝丸と髭切を交互に見た。事情は知らないが疑いの目を向けられることに釈然としないものを感じ、膝丸も低い声を出した。
    「行き合った兄弟が口をきくのがそんなにおかしなことか?」
    「……気分を害したのならすまないが、我々も職務上訊いておかねばならない。何の話をしていたんだ?」
    「何とは……」
     膝丸は黙ったまま立っている兄の顔を見上げた。兄は膝丸の視線にすぐ気がついて、少し頬を緩ませた。どうとでも応えよ、ということらしい。
     膝丸はそれまでの兄との会話をほんの少し思い返す素振りをして、すぐに自分へとまっすぐに向けられている緑の目を見つめ返した。
    「兄者の好みの茶菓子を聞いていた」
    「ちゃがっ……」
     ガクッと音でも立てそうな勢いで、膝丸の視線の先の刀剣男士は肩を落とした。清麿と呼ばれていた方も目を見開いている。
    「そうそう、もう少し暑くなると万屋の向かいの店が水羊羹を出すんだけど、あれもおいしいんだよねぇ」
    「そうなのか、そちらも覚えておこう」
     言いながらようやく立ち上がった膝丸に、髭切は微笑みながら頷いた。
    「寒いときは焼立ての人形焼きや鯛焼きなんかが出るから、お前もいろいろ試してごらん」
    「うむ、そういったものもよさそうだな」
    「うんうん、おいしいよ」
    「あの、ちょっと……」
     肩を落とした刀が額を押さえながら兄弟の会話に割って入ろうとしたが、それは清麿の「水心子」という呼びかけで遮られた。
    「本丸の所在は分かっているし、そろそろ戻った方がいい。それに」
     清麿は髭切に、困ったような笑いを向けた。
    「さっきあなたの本丸に着いたときに、鶴丸国永から伝言を頼まれたんだよ。『隊長がいないと部隊の解散もできないからさっさと戻ってこい』って」
    「ありゃ、それは悪いことをしたね」
     膝丸はまた「兄者……」と呆れ混じりの声を出してしまったが、兄は気にした様子もなく水心子と呼ばれた方に柔らかな視線を向けた。その視線は、それまで膝丸に向けられていたものとは違う色を含んだ、どこか寂しげなものに見えた。
    「不審なところはあったかい?」
     訊ねているのにまるで答えなど分かりきっているかのような口振りだ。兄弟だから分かる微妙な声色を今日初めて会った兄に聞き分けて、膝丸も水心子の反応を待った。
     彼はひとつ咳払いをすると、また澄んだ光をたたえた瞳で髭切に向き合った。
    「そちらは、我々ではなく今も本丸で調査をしているものが答えてくれるだろう。もっとも、仮に知っていたとしても、私と清麿はここでは答えられない」
     ちらりと膝丸を一瞥し、そう述べると、「だから早く本丸に移動したいのだが」と続けた。
     髭切も「そうだね」と応じると、もう一度膝丸に向き直った。
    「それじゃあ、お前にも八幡大菩薩の加護のあらんことを……元気でね、膝丸」
     兄の口から自分の名前が紡がれるのは頭が痺れるような喜びだった。「ああ!」と威勢よく返事した膝丸に、髭切は改めて目を細めると、黒い外套のふたりに挟まれて本丸へと続く経路に入っていった。兄の白い外套がその路地に吸い込まれていくのを、膝丸はどこか浮ついた気分で見つめていた。


     買い物を終えた膝丸は、自分の本丸へと帰ってきた。髭切の教えてくれた店は草餅をおまけして多めに持たせてくれた。これは誉でも取ってきたものに与えられるだろうと、膝丸も荷物の重みを感じながら、そんなことを考えた。
    「——ああ、膝丸、おかえり」
    「うむ、ただいま戻った」
     玄関先で膝丸を見た歌仙は、いくつか荷物を引き取りながら「時間がかかったね、迷ったかい?」と訊ねてきた。
    「いや、途中で別の本丸の兄者に会ってな……」
     少し気恥ずかしい気持ちでそう説明すると、歌仙は納得したように頷いた。
    「演練で見かける貴殿らは、とても仲がよさそうに見えるよ」
    「そうか! いや、そうだ、俺と兄者は本当に仲のよい兄弟なのだ。大抵俺の名前を忘れているが、思い出してくださることもある」
     膝丸の言葉に歌仙は苦笑いしたが、機嫌のよい膝丸はそれには気付かず草餅の包みを出した。
    「茶菓子はこれでよかっただろうか」
    「おや、草餅かい? いいね……知らないお店だ」
    「ああ、そこの草餅がうまいと聞いたのでな」
    「それはいいね。お茶も用意しよう」
    「主には、俺が持っていくか?」
     なんとなしに訊ねたことだった。歌仙は少し表情を固くしたあと、目を伏せた。
    「……主は、今はそっとしておいた方がいいかもしれない」
     膝丸はわけが分からず眉根を寄せた。歌仙は言葉を探すように視線をさまよわせ、ゆったりと話し始めた。
    「実は先ほど、政府の者から連絡があってね。どの本丸にも同じ通達がいっているらしいのだが、同じ『国』の本丸の審神者が亡くなったらしいんだ」
    「亡くなった?」
    「うん。その本丸というのが、ここら一帯でも有名な本丸だったものだから……初期からあるところで戦果も飛び抜けていて、新任の審神者たちにはまず手本のように紹介されていたところらしいんだ。でも、あんな少ない数の刀で戦績を維持するなんて考えられないと主は言っていたけれど……」
     冷たい予感が膝丸の背筋を走っていった。しかし、言葉として出てきたのは「なぜ亡くなったのだ」というものだった。
    「さあ、そこまでは……どうであれ、政府もそこまでは教えてはくれないんじゃないかな。……主も、直接関わったことはないとはいえ、知っている人間の死にはやはり動揺するようでね。今は同期というのかな、他の本丸の審神者と通話しているんだ」
     それで落ち着けばいいのだけれど、と歌仙は執務室のある方を見た。膝丸も同じように、廊下の先に目をやった。執務室は玄関からの廊下を折れた先で、ここからは見えるはずもなかったのだが。
    「……君は、そばにいなくてよいのか?」
    「僕は主の代わりに指揮を取らなくてはならないからね。今はそばに亀甲貞宗がついているんだ。彼ならきっと、上手に寄り添ってくれるだろうから」
    「そうか……」
     本丸の発足した翌日に顕現したという白装束の打刀は、独特の言動が目立つものの、他を慮ることに長けている。一週間共に過ごしただけの膝丸にも分かることだった。確かに彼なら下手な慰めを言うこともなく、主を支えてくれるだろう。
    「……刀たちは、どうなるのだろうな」
     白装束の連想が、まばたきする膝丸の目蓋の裏に、路地に吸い込まれていった長い外套を思い起こさせた。
     歌仙は膝丸の呟きに「そうだね」とだけ応えると、そろそろ出陣から戻ってくる部隊を出迎えにいった。

    「あれ? 膝丸さん、食べないの?」
     ひょっこりと膝丸の腕と脇腹の間から顔を出して、信濃藤四郎が訊ねてくる。縁側に腰かけた膝丸にそうするために、信濃も膝をついて、わざわざ潜るようにして膝丸の腕の間に挟まりにきているのだ。
     懐に潜るのが好きだと常々言っている短刀は、今本丸にいる刀たちの中では一番背丈のある膝丸の懐をなかなか気に入っているらしい。「もうちょっと包み込む感じがほしい」と不満も述べはするのだが、隙を見てはいつも膝丸の懐に収まりにくるのだ。もっとも、信濃が甘えているように見えるこの行動も、一番の新入りである膝丸を気にかけてのことなのだろうと感じてはいるが。
    「草餅は初めてだなぁ、皆喜んでたよ」
    「そうか、ならよかった」
     自分の買ってきた草餅を脇に置いたまま、膝丸は庭を眺めていた。新緑が陽光を受けて光を一面に照り返していた。これからあらゆるものが勢いを増していく季節だ。
     いったん懐から抜け出した信濃も、膝丸の隣に並んで自分の草餅を食べ始めた。
    「たくさん買ってきたんだね。誉の太鼓鐘にとりあえずひとつ付けたんだけど、それでも結構余っちゃった」
    「うむ、店の者がおまけに入れてくれてな。皆で分けなかったのか?」
    「うーん、出陣してた奴だけで分けるのもなーって」
    「そうか」
     出陣も遠征も、内番も他の雑事も等しく仕事なのだ。いくさ働きが刀の誉なのは間違いないが、他の仕事を蔑ろにしてはそれも成り立たない。そこが気になって第一部隊だけでは分けられなかったのだろう。まったく信濃はよく気が回る。
    「……あの本丸の話、やっぱり気になる?」
    「そうだな……」
     草餅を頬張りながら訊ねてくるのも膝丸を気遣ってのことだと分かっているから、変に取り繕おうとはしないことにした。ただし何を話せばいいのかも分からず、言葉は続かなかった。
    「……俺、演練であの本丸見かけたことあるんだ」
     信濃は草餅を食べる合間に話し始めた。小さな口で一口頬張り、飲み込んではしゃべる。
    「演練って基本同じような練度のところと当たるんだけど、たまにものすごく強いところと当たるときがあってさ……力量差のある場合も想定しろってことなのかな? それで、何回かあの本丸とも当たったことあるんだよね」
     もう悔しいくらいすぐに負けちゃうんだけどさ、と笑って草餅の最後の一口を食べ終えると、信濃は俯いた。
    「あの本丸、俺の兄弟もいたんだぁ」
     審神者のいなくなった本丸は、どうなるのだろう。今の膝丸や信濃には知ることのできないことだが、以前と同じように過ごせなくなるだろうことは分かりきっている。
     少なくとも、もう演練で当たったり、五月の午後の道に行き合うことはないだろう。
     縁側から下ろした膝丸の脚の隣で、信濃の脚もふらふらと揺れていた。膝丸はすぐそばの赤い髪に手を置くと、その髪をまさぐるように頭を撫でた。
     信濃は「撫で方、雑!」と声をあげて笑うと、収まりのいいところを探すように膝丸の腕を自分に巻きつけた。
     膝丸は信濃のしたいようにさせながら、ようやく自分の草餅を手に取った。信濃は膝丸にもたれかかりながら、普段の明るい様子に戻って言った。
    「太鼓鐘がさ、膝丸さんがこれ買ってくるのいいなって言ってたよ」
    「俺が? どういうことだ?」
    「だって草餅も緑でしょ、だから膝丸さんが草餅を持ってくるっていうのがなんだか、さりげなく自分になぞらえてるみたいで、そのやり方がいいよなって」
    「そういうものか」
     そうか、と膝丸は手の中の落ち着いた色の餅を見た。
     春先に出始める菓子だと言っていた。春の先駆けに現れる緑にあの兄が何を思っていたのかは、もう膝丸には知ることができない。

     審神者は夕刻に皆の前に現れたときには、これまでと変わらぬ様子だった。刀たちもことさら何を言うわけでもなかった。いつものように夜が更けて、膝丸もあとは眠るだけになった。
     まだ空き部屋も多い本丸の、広めの部屋を割り当てられたのは自分が希望したからだった。いずれ兄が来るからという理由に、誰も反対しなかった。
     兄の不在は顕現して以来ずっと感じてきたことだった。しかし、今夜ほど、それを想ったことはなかった。
     髭切からもらった札を眺めながら、膝丸は寝付けないでいた。戦装束の懐にしまい込んであったそれは兄の手によってくちゃくちゃになっていて、今はこれだけがあの兄を想う縁だった。
     梅の花、花の兄。思い出す言葉すべてが髭切に結びついていくようで、膝丸はそのしわだらけの紙を額に押し当てた。まだ懐かしい香りが残っていた。
     最後に兄は、自分の名前を呼んだ。加護があるように、元気で、と。
     今、膝丸がどれだけ考えても兄の想いは永遠に知ることができないのに、自分がどう在るべきかは分かりきっていた。
     まるで標のように用意された言葉と兄の微笑を想って、膝丸の目からは涙がこぼれ落ちた。誰も知ることのない涙だった。



     朝食を終えた膝丸は歌仙の部屋へと向かった。出陣まではまだ時間があった。
     まず、今後は演練に自分も参加させてほしいこととその理由を述べると、歌仙は感心した様子を見せ、快諾してくれた。ただし、今日の部隊と予定は既に組まれているから膝丸が演練に行けるのは明日以降になるようだった。
    「言われてみれば資材がかからないのだから、貴殿の練度を上げるにはちょうどいい……ああ、どうして気付かなかったのか」
     計算事は苦手でね、という苦笑いを同じように笑って受け流しながら、膝丸は次の話をするために懐から御札を取り出した。
     目を丸くする歌仙に、昨日あったこと、すなわちこの御札を手に入れるまでの経緯を説明する。歌仙は一通り話を聞いたあと頭を押さえ、亀甲と信濃、そして博多を呼んだ。
     新しく呼ばれた面子を前に、膝丸はもう一度同じ説明を繰り返した。
    「……つまり、膝丸さんが持ってるのはあの本丸の御札ってこと?」
    「確かめようがないが、ほぼ確実にそうだろうな」
    「審神者の亡くなった本丸で備品が消えた……となると調査が入ったりするだろうか」
     顎に手をやった亀甲が何気なく呟いたのに、歌仙と博多は苦々しい顔をした。膝丸はその表情の豊かさに笑ってから、「いや」と切り出した。
    「俺が言うのも何だが、兄者が『雑』やら『適当』やら言うからには、はっきり言って管理が相当杜撰なのだと思う」
     集まった四振りは揃って目を丸くして膝丸を見つめた。少し気まずい思いで、膝丸は咳払いする。
    「……結構言うね膝丸さん、あんなに慕っているお兄さんなのに」
    「何を言う、兄弟だからだ」
    「それもそうか」
     亀甲が笑いながら応じると、他の面々も笑った。膝丸もそれに笑い返し、もう一度手の中の御札に目を落とした。
    「んー、調査は来んかも知れんけど、俺はそれ、手許に残しとくんは怖かぁ……置いといて万が一ってことがあって、痛くない腹探られるんは勘弁ったい」
    「僕も同意見だね」
    「ふむ。では、どうしたものだろうか……」
     俺が持っていても何にも使えまい、とひらひらとそよがせるようにすると、亀甲が微笑んだ。
    「不安要素はさっさとなくしてしまうべきだとぼくも思うな」
    「では、どうするというのだ?」
    「膝丸さんはずっと遠征へ行っていただろう? 資材の備蓄はあなたが来る前に戻っているよ」
    「全部はあかん!」
     青い顔になった博多が叫んだのに亀甲は「分かっているよ」と穏やかに応えた。
    「ご主人様が連絡を取っている他の本丸の審神者に、確か鍛刀の配合を教えてくれた人もいたと思うのだけど……」
    「ああ、確かにいたね。鍛刀も膝丸殿が来て以来ずっとやっていなかったし……」
     歌仙の言葉を受けて、信濃が明るい顔で「大将に聞いてくる!」と執務室へ走っていった。そうしてすぐに戻ってきて、膝丸に書付けと手伝い札を渡した。
    「いいって!」
    「……俺がやるのか?」
    「他に誰がやるんだい?」
     歌仙と亀甲は微笑んでいる。博多は「資材使い切らんやろね」と膝丸の手にある書付けを覗き込み、信濃は「大丈夫だって」とそれに笑った。
    「いずれにせよ、貴殿にもいつかはやってもらうはずの仕事だったんだ。得手不得手はやってみないと分からないしね。……僕は計算事は苦手だが、他に得意なものが来たのでとても助かっている」
    「俺も歌仙しゃんはうまいもん食わせてくれるから好きよ」
    「俺も!」
    「もちろん、ぼくも」
    「おや、嬉しいことを言ってくれるね……まぁ、そういうことだ。誰が来ても嬉しいよ。心置きなく鍛刀してきてくれ」
    「あ、膝丸さんが昨日買ってきてくれた草餅、厨にまだあるから新しく来た刀と食べなよ!」
     いってらっしゃい、と手を振る信濃に送り出されて、膝丸は鍛刀場へと向かった。
     本丸の敷地の端に建っている鍛刀場に、膝丸は自分が顕現して以来初めて戻ってきた。
     鍛治を行う小さな神の遣いに書付けと札を渡す。遣いは札を供えつつ書付けを確認し、資材を赤々とした炉に焚べたかと思うと、身体に見合わぬ大きな槌を取り出し一閃、いつの間にやら炉より出された白く輝く鉄を打った。
     審神者の通力がいかなるものか、膝丸は知らなかった。ただ打たれた鉄のまばゆさに思わず目を閉じ、次に開いたときには、まぶしい、と感じた。
    「源氏の重宝、髭切さ。君が今代の……ありゃ?」
     弟だ、と言う声に覚えがあった。炉の火にわずかに赤みがかって光る髪も、自分と同じ形をしている目も知っているものだった。ただ、服は今の自分とよく似た仕立てで、色だけが白く、膝丸の目にまばゆく映った。
     顕現したばかりの兄を見ながら、膝丸は今さらのように得心していた。自分もこの炉より顕現されたのだ。兄もそうならない理屈があるだろうか。
    「お前が先に来ていたんだね。……どうかしたかい?」
    「いや……すまない」
     目の前の髭切の微笑があまりにも無垢に思えて、膝丸は思わず顔を伏せると目許を押さえた。
     白く光るほど焼けた鉄の色が目蓋に残っていた。それは昨日の木漏れ日の色になり、その陽光が滑っていった練色の髪になり、その淡い色の下の、柔らかな兄の微笑になった。
     兄の微笑に目の奥が緩むのを感じたとき、膝丸の頭に柔らかな、しかし確かな重みがあった。
     それは膝丸の頭の丸みを確かめるように動いた。そして最後は髪を整えたのか、表面を軽く払うようにして離れていった。兄の手だった。
     思わず顔を上げた膝丸に、髭切は変わらず微笑んでいた。知っている微笑を見ながら、膝丸はようやく口を開いた。
    「——この本丸は、まだ新しいのだ」
    「おや」
     兄は目をぱちぱちとして膝丸の言葉を聞いた。その自分と同じ色の瞳に、どこか明るい好奇心の光が浮かぶのを膝丸はわずかに滲んだ視界で捉えた。
    「まだ刀たちも、そう多くはない。俺がこの本丸で最初の太刀だった。あなたが、ふたつめだ」
    「おお、そうなんだね」
    「ああ、そうだ。皆、まだ手探りなことも多い。だが、助け合っている。よい本丸だ。これから強くなる」
     髭切が頷くのを見るうちに、膝丸の視界はどんどん滲んだ。視界がぼやけて光に満ちるのを感じながら、話を続ける。
    「それに、ここの主は運がいい。あなたをこうして、顕現させたのだから」
    「お前もいるしね」
     兄の指が頬に触れた。そのとき、それまでどうにか瞳の表面に留まっていた涙が、ぼろぼろと膝丸の頬を垂れ落ちていった。
    「っう、そうだ、あなたと俺と、ふたつをこうして揃えた」
     あなたをひとりにはしなかった、とは言えなかった。涙が落ちるばかりで、話すどころではなかったからだ。
     髭切は泣き出した弟にしようがないものを見たような顔をすると、その目許をぐいぐいと拭ってやった。それがあまりに力任せなので膝丸が顔を背けると、声をあげて笑った。
    「うんうん、お前がいるなら心強いよ。えーっと……」
    「……膝丸だ」
    「ああそうそう、膝丸」
     名前を忘れていることを恨めしく思って自分の袖で涙を拭うと、膝丸は髭切の手を引き鍛刀場を出た。五月の光は今日も明るく本丸に降り注ぎ、青い匂いの風が緩やかにふたりの髪を揺らした。
    「とりあえず、主に挨拶に行こう。皆も出陣はまだのはずだ」
    「おお、まずは顔合わせだね」
    「名前も覚えるのだぞ」
     膝丸が付け加えた一言には応えず、髭切は「そのあとは?」と訊ねた。
     訊ねられた膝丸も、母屋へと向かおうとしていた足を止めた。今日の部隊と予定は既に組まれている。どうしたものだろう。
    「……主に挨拶をして、皆にも挨拶をしたら、ここでの仕事を説明しよう。本丸も案内する。俺たちの部屋があるのだ」
    「そうなんだね」
    「ああ、そのあとは……」
     買出しは昨日自分が行ったが、また歌仙に何かないか訊いてみるか。膝丸が頭を悩ませたとき、そんな弟の苦労を知るよしもない兄は首を傾げた。
    「お前は、どうしたいんだい?」
     突然の兄の問いかけに、膝丸はそれまで頭の中で考えていたことが吹き飛んでしまった。
     どうすべきかではなく、どうしたいか。
     髭切はじっと膝丸を見つめている。揃いの目が、互いを見ていた。
    「……俺は……」
    「うん」
    「あなたと草餅が食べたい」
    「くさもち」
     兄がどこか舌足らずな発音で繰り返したのに膝丸は頷いた。今日からは、ふたりで食べられるのだ。並んで、同じ味を分け合って。
     兄が今、目の前にいるというだけでなく、これからもいるはずなのだという実感が膝丸を満たしていった。ここは戦場の合間にある場所とはいえ、これからは共にいられるはずなのだ。たとえいつかは終わりが来るとしても。
    「俺は、あなたと共に在りたい。共にいくさ働きをして、こうして身体を得て本丸にある以上は食事もするし、眠りもするのだから、そういうのもすべて、あなたと一緒がいい」
     兄は弟が語るのを黙って聞いた。膝丸はそれに甘えて、思いつくままに話した。
    「ここの本丸は新しいから、備蓄も余裕があるわけではない。俺たちのような太刀は手入れに資材が他よりかかるから、俺もまだ出陣したことがないのだ。実戦での経験はまったく積めていない。だから、おそらく、俺たちの前途はまずは苦しいものになるだろう」
    「おや、だったら僕も今来れてよかった」
     兄の言葉に膝丸は目を丸くした。弟のその様子に、髭切は晴れ晴れとした顔で笑った。
    「苦しくても、お前がいるのだから」
    「……そうだな」
     また目許を押さえて俯いた膝丸に、髭切は「ありゃ」なんてとぼけた声を出した。
    「また泣いちゃった?」
    「泣いてはない……」
     覗き込もうとする兄をどうにか手でかわすと、膝丸は鼻を啜りながら顔を上げた。
     髭切は膝丸に微笑んでいた。髭切が笑うのを見れば、膝丸は何も迷うことはないと思えた。この兄は膝丸にとって間違いなく標だった。自分が何物で、今どこにいるのか、他の何よりも確かに教えてくれる。
     そしてそれは、兄にとってもそうであるはずなのだ。二振一具は、自分たちはそういうものだ。
     柔らかな笑みに勝気な光を宿し、髭切は膝丸に頷いた。
    「よろしく頼むよ」
    「俺に任せておけ」
     膝丸も頷いてみせると、ふたりはどちらからともなく同じ笑いをこぼした。そうして互いがそこにいるのを確かめ合うと、並んで同じ道を歩き始めた。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/06 22:21:16

    光あるうち光の中を征け

    新参本丸の膝丸が古参本丸の髭切に偶然会って会話する話です。

    #膝髭膝 ##膝髭膝

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