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    御堂の鬼/六等星も歌う御堂の鬼六等星も歌う御堂の鬼


     突然の訪問にも住職は嫌な顔ひとつ見せず、私を迎え入れてくれた。
     夏空は鮮やかだった。そろそろ日も傾き始める時間だというのに、その青さに御堂の中の影が一層濃くなっていた。
    「この天気だ、暑かったでしょう」
     そう言いながら渡された湯呑みは冷えていた。驚いてみせた私に、我が意を得たりといった感じで住職は笑うと、「裏に湧き水があるのですよ」と種明かしをしてくれた。
    「しかしこんな山奥にお客様とは珍しい」
    「おや、こんな立派な御堂ですが訪れる者は少ないのですか」
    「地元の者は参りますよ、信心深い者も多いのです、しかし今朝なんかは昨晩遅くに山で狐火を見ただとか言って青い顔で駆け込んできたのもいましたが」
    「ははぁ、ここにも狐は出ますか」
    「さぁ、どうでしょう」
     私と住職の話す声の他、ひぐらしの鳴く声が御堂には響いていた。本尊を前に向き合うように座った私たちは、暮れゆく夏を惜しむようにその侘しい声をしばし聞いた。
    「……狐かは分かりませんが、私はこの御堂で不思議なものに会ったことがあります、僧でありながらこういうことを言うのは憚られるのでしょうが、おそらくあれはあやかしだったのでしょう」
    「ほう」
    「こういうお話がお好きですか」
     住職は私の目をじっと覗き込んでいる——見えているようだ。
    「ええ、目がありませんね」
     私は意図的に目を細めて、そう応えた。
     湧き水は冷たいうちにありがたく飲み干した。湯呑みを床に置いた音がコツ、と鳴った。小気味のいい音で、夏の暮れには相応しかった。
    「では、旅の土産に聞いていきなさるといい」
     この年寄りがまだずっと若かった頃の話です、と住職は皺の刻まれた目許を懐かしむように伏せた。

     その頃の私は雲水でございました。各地を行脚し、ある程度その土地の寺に置いてもらうと、また次の土地に向かう……修行であることを忘れたことはありませんでしたが、気ままなものでした。
     ここへやって来たのもその一貫です。それ以前に世話になったところで、ここに立派な僧侶がいると聞いていたもので。しかし麓まで来てみて村の者に訊ねてみれば、その寺はもうないと申すではありませんか。その立派な坊さまがいたことにはいたのですが、私の来る数年前に亡くなり、村の者で弔ったあとはこの寺をどうもすることもできず、荒れ果ててしまったのだと言います。
     罰当たりなようにも思えるが、一切は過ぎ、壊れていくもの……私は亡くなって以来そのままだという僧の菩提を祈るくらいのことはするつもりで、ここを訪れようと山へ足を踏み入れました。
     今のような暑い時期でした。瑞々しい緑が私の足に踏まれて青い匂いを立てるのを感じながら上るうち、木の影とも日の沈むのとも違う、別の暗さが私を覆いました。そうしてごろごろ、ごろごろ、低い唸り声が響いたかと思うと、私の笠を打つものがありました。
     暗くなったと思ったら次は辺りが白く煙るほどの激しい雨です。これは堪ったものではないと私は足を急がせました。それに、こうして人にお話しするのも恥ずかしいのですが、私は雷が大の苦手なのです。今も天気が崩れそうになると麓の者が心配して来てくれるほどで……若い時分からその腹の底を揺るがすような音が恐ろしくて仕方なかったものですから、屋根の下に早く着きたかったんですな。
     雨の寒さと時折光る空、そうして遅れて聞こえてくるあのおどろおどろしい雷鳴……それにガチガチと歯を鳴らしながら、這う這うの体でようやくこの御堂に辿り着きました。ここも当時は壁の一部が崩れ、柱なども一部草に埋もれるような有り様でしたが、雨で暗い中ではそんなところまで気がつきません、ああ屋根があるだけありがたいと転がり込むように中へと入りました。
     寒さと恐怖でぜいぜい息をついて、心の臓がうるさかった。呼吸が落ち着くまでどれだけかかったろう、私はのろのろと笠を取り、濡れて重くなった服を脱ぎました。
     そのときです、先客に気付いたのは。
     きっかけは匂いでした。私が踏んできた草と、激しい雨に打ちつけられた土と、そういう山の匂いとは違う、硬質で鼻につく匂いがしたんです。
     はて、何の匂いだったか――そう思いながら御堂の奥を眺め回したとき、雷が光りました。その一瞬に、濡れた髪と白い肌を見ました。
     ひ、と喉が鳴ったためでしょう、私が駆け込んできたときには一言も漏らさず、身動きひとつしなかったらしいその人影が、笑う気配がしました。私は、ああ死体ではなかったという安堵と、見知らぬ者がそこにいる不安とを一緒くたに味わいました。鼻につく匂い……血の匂いは、その者から漂っていたんです。
    「……驚かせて悪いね」
     私が何も言えないでいると、その者が口を開きました。低く滑らかな、しかし年若い声に聞こえました。暗い荒寺で血の匂いのする者と相対するなんて寒気のする状況ですが、私はその者の声に労りを感じてどうにかまたうるさくなった胸を落ち着かせることができました。
    「……怪我をしておられますか」
     震える喉から絞り出せたのはその一言でした。先客の労りに応えるでもない、いきなりの問いかけでした。その唐突さはやはり相手にとってもそうだったようで、しばらくするとくつくつと噛み殺すような笑いが聞こえました。
    「お坊さん、悪いことは言わない、俺のことは放っておきな、俺もあんたも一晩ここの軒を借りたいだけだろ」
     おかしな気遣いだと思いませんか。軒を借りる者同士、雨の上がるまで互いに暇を潰そうというのではなく、こんなに近くにいながらいないものと思えと言うのです。しかしそう言われても、匂いはどうしようもない……べっとりと鼻の奥に張りつく匂いにもやがて慣れるのは事実ですが、怪我をしている者を放っておくのは、仏道にもとる行いではないか――逡巡が私の頭を駆け巡るうち、大雨の中でもとっぷりと日の暮れたのだろうと分かる暗さになりました。私が山に入ったのも昼をいくらか過ぎた頃でしたから、この御堂で夜を明かさねばならないのは当然でした。
     一晩、この血の匂いのする者と同じ軒下で過ごす。恐ろしいことですが、やはり、怪我をしているなら放っておけません。
    「……もし」
    「……なに」
     放っておけと言ったのは向こうですが、声をかければ返事をしてくれました。話の通じそうな相手だと、ほっとしたものです。
    「手拭いなどはお持ちで」
    「……ないけど」
    「では、こちらを」
    「いや、いいって」
    「ええ、私はあなたには近付きませんし手も触れません、手拭いはそちらに投げますので使ってください」
    「……話を聞かないお坊さんだね」
    「だってあなた、血の匂いをそのままにしておくのはよくない、ここは御堂だ」
    「こんなに荒れていても?」
    「ええ、御仏は見ておられる、どんな場所でも」
     ふうん、と相づちを打ったきり、相手は何も言いません。私はしばらく経ってから「手拭い、投げますよ」と声をかけたら、呆れたような声で「はぁい」と応えるのです。それがまるで年若い娘の渋々といった返事にも似た調子だったから、私は少し笑ってしまいました。
    「物好きだね、お坊さん」
     笑い声が聞こえたのでしょう、向こうも笑っていました。
     私は彼に言ったようにそれ以上近付いたり、話しかけたりしませんでした。しかし夜は長い。そのまま横になって寝るのもおっかない。ですから、ずっと座禅を組んでいました。雷は去り、屋根を打つ雨音もいつしか小さくなり、やがて消えたのでしょう。どれくらいの時が経ったのか。ずっと瞑想していた私には分かりませんでしたが、ふと別の気配を感じ顔を上げました。
     御堂の崩れた壁からは澄んだ光が差し込んでいました。いつの間にか雲も晴れ、月が出ていたのです。
     外れて閉まらない戸の向こう、煌々とした月明かりの下に、それはいました。
     幽鬼かと思いました。しかし、幽鬼にしては美しすぎた――暗い夜の中から浮かび上がるような、月明かりを縒り集めたような髪に見たこともない形の白い服、まるで荒寺の立つ山にそぐわない出で立ちの者がそこにいました。その者はすうっと闇夜から抜け出てくると、光そのもののような存在感で私の前に立ちました。
     足を組んだまま動けず、それでも目を離すことができなかった、あの不思議な色の目……きっと極楽の蓮はあのような美しい水に咲いているに違いない。そう思わせる、澄んだ色が私を見下ろしていました。しかし、濃い血の匂いがするのです。
     血生臭さとは不釣り合いな、まばたきする度に鈴でも鳴るんじゃないかというほどの長い睫毛が、二、三度下ろされた頃合い、御堂の奥で立ち上がる気配がしました。
    「斬るなよ」
     柔らかいが、確かに牽制を含む声色でした。私を見下ろしたままだった目が、その声のする方にパッと振り向くと、「おお、動けるか」と朗らかな声をあげました。そのとき、その者が腰に下げていた長物から手を離したのに気付き、私は背中を冷たい手で撫でられたような心地がしました。
     御堂の奥からコツコツと、月明かりの許に近付いてくる気配がします。血の匂いを漂わせているそれは、歩きながら私に語りかけました。
    「お坊さん、親切にしてくれてありがと、迎えが来たから俺、行くね」
     そうしてひらりと、私の投げてやった手拭いを振ってみせた向こうのかんばせの艶やかだったこと……しかしその目が血のように赤いのを見て、私は何も言えませんでした。
     さて、相手の言葉から事情を察したのか、私の目の前に突っ立っていた者の優美な顔が歪みました。
    「ははあ、御坊、徳を積まれたな」
     それは、顔には似つかわしくないほどの豪快な笑みでした。そうして面白がるようにしげしげと私を眺めていたのを、赤い目の方が手拭いを持っていない手で肩を叩きました。
    「こら、いじめんな」
    「何を言う、いじめてなんかいないぞ」
    「いじめてる奴ほどそう言うんだよ」
     そのまま赤い目の方は御堂の外に出ていこうとします。それについていこうと傾けた身体を戻して、月色の髪の方がもう一度私を見下ろしました。
    「御坊、情けをかけるのは悪いことではない、しかしここであったことはゆめゆめ他言されるな」
     僕たちのように聞き分けがいいのにいつも会えるとは限らん、そう言って、あの澄んだ色の目をきゅうっと細めました。
     私はもう必死で、こくこく頷くばかり、それでもその者は満足したように「それでよい、それがよい」と笑うと、今度こそ赤い目を追って御堂を出ました。そうして現れたときと同じように、溶けるように闇夜へと消えていきました。

     住職はそこまで語ると長く息を吐いた。
     御堂の中は日影とはいえ夏である、蒸し暑さに汗が浮くのを感じる。私はいつもの癖で懐から手拭いを取り出そうとしたが、すんでのところで思い止まった。
    「その話、私に話されてよかったのですか、他言無用と言われたのでしょう」
     私の問いに住職は笑った。思いきりのいい笑顔で、そうすると顔一面皺だらけになった。
    「なに、もうこの歳です、今さら惜しむ命ではない」
     私は頷いて応えると、もう一度御堂を見渡した。
    「先ほどの話では荒寺だったとのことですが、見違えたようですね」
    「ええ、私はあの晩から行脚をやめ、ここに住むようになりました」
    「それはまた、なぜ」
    「この近辺に他の寺がなかったというのが表向きの理由です」
    「はて、表向きときた」
    「ええ、実際は、あの晩に会った美しくも尋常ならざる気配の者たち……もののけかあやかしか検討はつかぬが、どこか神々しかった、その者たちに血の匂いがまとわりついているのを、祈ってやりたかったのです」
    「そうでしたか」
     私は頷くついでに目を伏せた。視線の先には置かれたままの湯呑み、冷たい湧き水が恋しかった。
     しかし用事はもう終わりである。私はそろそろ御暇する由を告げ、迎え入れてもらったときのように玄関で住職に見送ってもらうこととなった。
     外は既に夜を迎えようとしている。空が焼けたような色をしていた。
    「……ああ、そうでした」
     その赤い空を見て、私は懐に手を入れた。この住職に渡すよう、預かってきたのである。
    「住職、どうかこれも他言無用に願います」
     私は懐から取り出した手拭いを住職に手渡した。流されるまま、といった感じで受け取った住職は、その手拭いを見て目を丸くすると、理由を訊ねるように私の顔を見た。私は何も応えず、にっこりと微笑んでみせた。
    「どうか、ゆるりとお過ごしください」
     そうして呆気に取られたままの住職をそのままに、私は敷居を跨ぐとひとっ飛び、深い木々の間へ跳ねるように飛び込んだ。

    「お疲れさまでございます!」
    「お疲れ」
     偵察として残っていた鳴狐は、合流した小狐丸に軽く手をあげてみせた。小狐丸は首を左右に曲げて伸ばすと、疲れたというように溜息をついた。
    「あの御坊、目は確かじゃな」
    「と、言いますと?」
    「ぬしさまのかけてくれた目眩ましが効いておらんようじゃった」
    「なんと!」
    「驚き」
     お伴の狐と鳴狐が小狐丸の報告に目を丸くする向こうで、白山吉光は御堂を生真面目に見つめている。ちょうど、住職が戻ってきたらしい。手拭いを持ち、首を傾げている。
    「こっそり置いてきてくれと頼まれたんじゃが、あの目じゃ、もう直接手渡してきてやったわ」
    「雑」
    「おぬしが言うな、昨晩狐火騒ぎがあったと言っておったぞ、おぬしの火じゃろう」
    「……鳴狐のじゃなくて、小狐丸の遣いじゃない?」
    「私はそんなヘマはせん」
     むう、とむくれる鳴狐の顔の横で「鳴狐を責めないでくだされ!」とお伴が甲高い声を出す。小狐丸は苦い顔で「責めてなどおらぬ」と手を振った。
     しかし、此度の遠征がこの面子とは。
     ぬしさまも人が悪い、ともう一度溜息をつく。粟田口の無口な二振りでは不安だから、それは分かる。そこに放り込まれたのが小狐丸なのが分からない。いや、狐繋がりで部隊に組まれたのは分かるのだが。
     そもそもきっかけは、加州清光の珍しいヘマだった。
     これをヘマと呼んでは少々可哀想かもしれない。遠征に向かった先で敵と遭遇、部隊は散り散りになり、負傷……交戦していた敵を倒したあとはそばにあった御堂に身を隠し、他の部隊員との合流の機会を待った。ここまではよくある話だ。
     珍しいのはその後、御堂に雨宿りに来た人間がいて、その人間が加州に気付いてしまったことだ。
     出陣先でその時代の人間に遭遇してもおいそれとは騒ぎにならないよう、気配を薄くする目眩ましの術がかけられているはずなのだ。ましてや身を隠そうとしているなら、その辺にいる人間にはまず気付かれない。
     しかし、相手がその辺にいる人間ではなかったのである。
     鼻が利くというか目敏いというか、人ならざるものの気配に鋭い人間というのはどの時代にもいるものである。加州があの晩軒を共にしたのは、その類いの人間だったのだ。
     斬るか、とは加州も考えたらしい。しかし斬ってしまうことでの影響が分からず、あの晩は生かしておくことにして、本丸で事の次第を相談することにしたのだという。
     結果、斬らずに寿命を待った方がいいという方向にまとまった。ただし御坊には、その天寿を全うするときまで見張りをつけることになった。
    「俺が行くよ」
     最初に手をあげたのは加州だった。自分の責任と考えていたのだろう。しかし反対したのが一文字則宗だった。
    「幽鬼のように去った僕たちが行って、万が一また顔を合わせてみろ、今度こそ斬らないといけなくなるぞ」
     もっともな言い分だった。自分のヘマの尻拭いを他に託すことに居心地の悪そうな顔をする加州を横目に、小狐丸と鳴狐、白山吉光はその任を受けた。
     御坊が聡い人間であったおかげか、それとも去り際の則宗の脅しが利いたのか、御坊はあの晩のことを誰かに漏らすことはなかった。今日この日まで。
     それにしたって、と小狐丸は苦い気持ちになる。任務に文句はない。さっきも言った通り、これをヘマと呼んでしまうのはあまりに加州が可哀想だ。「見える人間」がたまたま身を隠していた廃屋にやって来るなんて、分かるはずがないのである。同じ本丸で暮らすもの同士、助け合うのは当然だろう。
     しかし、問題は則宗である。
     御坊の話を聞いて思ったが、加州を迎えにいくにしても正面から乗り込む必要はなかったのではないか? なんなら朝になり、加州が自ら御堂を出るまで見守っていれば、あの御坊、加州のことを何か退引きならぬ事情のある怪我人くらいにしか思わなかったのではないか。幸いというか何というか、加州は目の色以外は周囲の人間から浮かない見た目だから、薄暗いうちに顔を隠して去ればヘマはヘマにならなかったのではないか――
     今や考えても栓ないことだが、その考えが抜けない。帰ったら則宗を捕まえて突っつき回してやろう。
    「……ああ、帰ったら、稲荷寿司が食べたいのう」
    「主、用意してくれるって言ってた」
    「まことか」
    「鳴狐が頼んでおいた」
    「おぬし、やるではないか」
     誉めるとえへんと胸を張るような仕草をする。表情はあまり動かないが、鳴狐は感情豊かなのだ。お伴も「よかったですねぇ、鳴狐!」と嬉しそうだ。
    「瓜も、帰る頃には食べ頃だって桑名が言ってた」
    「うり」
    「お、聞いておったのか」
     黙って御堂を見ていた白山吉光も好物に反応した。粟田口の二振りは無表情だがどこか華やいだ様子で頷きあっている。同じ刀派のためか、それとも無口同士気が合うのか、通じ合うものがあるらしい。
     遠征はそろそろ終わる。どちらもあまり顔には出ないが、この長い任務から解放されるのがやはり待ちきれないようだ。
     小狐丸だってそうだ。夕闇に暗く沈み始めた御堂では、住職が手拭いを懐かしそうに撫でている。
     途端に、手拭いが床に取り落とされた。住職は背中を丸めて膝をつく。手拭いを持っていた手は、今は胸許を強く握り締めている。
    「……ああ、本当に、よく生きられた」
     小狐丸は思わず呟いた。その吐息が山の木々の中に散り散りになる頃、苦しそうに悶えていた住職はばたりと倒れて動かなくなった。
    六等星も歌う


     実は私、子どもの頃に川で溺れたことがあるんです。
     ……やはり驚きませんね。ですが、このまま話してもいいですか? 今まで誰にも、すべてをちゃんと話したことはないんです……どうもありがとう。
     その頃の私は、簡単に言うと、学校でいじめられていたんです。ニュースになるような酷いものではありませんでしたが——いえ、いじめに軽い重いを問うつもりはありませんがね——無視をされたり、時々突き飛ばされたりとか、そういうものです。私がどこかぼんやりした、皆と外で遊ぶよりひとりで絵を描いたり本を読んだりして遊ぶ子どもだったのが、当時同じ教室にいた子どもたちには気に入らなかったようでした。……虐げられるものというのは、いつも決まりきっていますね。大きな物語を共有しないものです。
     大きな物語などと呼ぶのもおかしなものですが、子どもにとっては教室に満ちている空気がそれだったのでしょう。今になっても推測でしかありませんが。そういう、皆の共有する空気のようなものが、私には結局よく分からなかった。私に分かっていたのは、とにかく自分が周りから外れているということでした。
     友だちがいないなりに毎日を過ごしていました。誰かと一緒にいなくともひとりでやる遊びを知っていましたし、それを面白く思う質だったんです。これは幸運なことでした……そういうことを面白く思えないなら、きっと苦しくて仕方なかったでしょうね。
     そうした私の遊びの中に、ひとりで歩き回るというものがありました。当時の私にとっては立派な「探検」だったのですが、子どもの足です、ただの散歩のようなものだったでしょう。その足で、私は毎日歩きました。路地に猫を見つけてはあの猫も事務所に働きにいくのだと空想したり、火を孕んだような色の石ころがないか探してみたり……本で読んだ物語を、現実に探しました。随分と寂しい行動に聞こえるでしょうが、そういう空想だけが自分の自由に遊べるものだったんです。
     そうやって過ごしていた日のことです。梅雨が明けてだんだんと暑くなってきた頃でした。私はいつものように街の外れを歩き回っていて、ふと、自分の前にいる鳥が気になりました。
     その鳥は——あとで調べたところ、鶺鴒だったのですが——私を先導するように走りました。そのちょこちょこと素早く足を動かすのが可愛らしくて、私はそれを夢中で追いました。飛ばずに走る鳥というのが、面白かったんですね。そうやってどれくらい追っていたのか……私も鳥ばかりを気にして周りをよく見ていませんでした。そうしたら、突然、目の前に車が出てきたんです。生垣でよく見えなかったのですが、奥に建物があったようでした。そこから道路へ出てこようとした車の前に、私は飛び出してしまったのですね。
     運のいいことに、そのまま車に撥ねられるということはありませんでした。しかしとっさに身を捩り、足をもつれさせて転んだんです。その転んだところがよくなかった。川に向かって傾いた小さな坂で、生い茂った草でよく滑りました。驚いているうちに転がり落ちて、どぷん、です。
     落ちて初めて、その川が深かったことを知りました。まだ明るい昼間の太陽が、私の上で水の流れに柔らかく揺れ、ちぎれては消えていきました。千々に砕けるようでいて決して失われることのない光のしなやかさばかりを覚えているのですから、動転していたのか、それとも落ち着いていたのか……とにかく、その光ばかりを見ていたんだと思います。だんだんと遠ざかるようで、それでいて滲んで広がっていく光……そうして気がつくと、私はあの列車にいたんです。
     車内には暖かな明かりが灯っていました。座席に張られた品のいい赤のビロードは柔らかく、深い色の木枠はよく磨かれてつやつやしていた。そうして窓の外には、これもまた上等な青みがかった黒のビロードに宝石箱をひっくり返したかのような星の海でした。
     すぐに気がつきました。その頃大好きで、何度も読んだ物語だったんです。だから、「ああ、僕は死んだんだ」と思いました。
     思い至ってズボンのポケットに手を突っ込んでみたら、ご丁寧に切符まで入っていたんですよ。でも何が書かれていたのかは、覚えていないな……ただ、どこにでも行けはしないのだろうと思ったのは覚えています。川に落ちてこの列車に乗ってしまったからには、そうなのだろうと。
     人は死ぬ直前に走馬灯を見るというでしょう。その頃の私でも、そういう話は聞いたことがありました。だからこれはきっと、私の走馬灯なのだと思った……現実に思い出しておきたいほどの思い出もないから、物語を見たのだと思ったんです。
     ……大好きな物語ですから、高揚はしていました。星々の間を走る幻想は美しかった。しかし、星というものは大きい動きは滅多に見せませんから、窓の向こうは代わり映えのしない風景でした。それをぼんやりと眺めているうちに、ふと気付いてしまったんです——私には共連れがいない。
     ひとりであの列車に乗り合わせた者はどこへ向かうのでしょう。私はそれを知らなかった。途端に怖くなりました。星々の明るいのは、星以外が暗いから——私の行き着くところは、そういう、明かりの届かない暗い場所に思えました。
     もう星を見る元気もしぼんでしまって、自分の膝を見ていました。そうすると、足音がしたんです。板張りの通路をカツカツと鳴らすヒールの音は、私の座席で止まりました。思わず顔を上げたのも当然でしょう。私は随分と情けない顔をしていたと思いますが、彼もまぁ、なんとも悲痛な顔をしていました。
     どうして、と言いかけたのでしょうか。黒子のある口許が小さく開いて、すぐに考え込むように黒い手袋をした手がそこに添えられました。鋭そうな涼しい目許の、赤い瞳が美しかった。
     物憂げに目を伏せていた彼はその燃えるような瞳で私を捉え直すと、「ここ、座ってもいい?」と訊きました。柔らかな声でした。他人から、そういう気遣いを初めて受けたような気がしました。
     返答として頷くと彼は眉を下げて笑って、私の向かいに座りました。私は半ズボンで、彼は赤い襟巻に黒いコート着て防具のようなものをつけていたのに、不思議とその辺りはおかしく思いませんでした。その不思議な装いの彼は窓の外を見て、「すげぇ綺麗じゃん」と初めて気がついたように感嘆の声をもらしました。彼は目をきらきらさせてしばらく窓の外に見入っていたのですが、ふと私に微笑みながら、「ねぇ、あの星、何ていうか知ってる?」と訊ねてきたんです。
     私は窓の外を覗いて、それぞれに瞬く星々に目が回りそうになって、無言で首を振りました。そうすると彼はまた眉を下げて「そっか」と笑いました。最初は冷たそうにも見えたつり気味の目許はそうすると、幼い印象になりました。
     彼は「俺も教えてもらったことなんだけどね」と言って、窓の外を指差しました。
    「ほら、あそこにみっつ、大きく光って見えるやつ。一番明るいのが琴座のベガ、織姫だよ。あっちの白いのがデネブ、白鳥座。そしてあっちが彦星、アルタイル。ひろげた鷲のつばさ……」
     彼の指は彼が教えてくれる名前とともに動き、夏の大三角を並べ終えると、すっと低い位置を示しました。
    「あれがアンタレス、蠍座……あかいめだまのさそりってね」
     そうして私の方を向いて、いたずらっぽく赤い目を細めました。私も思わず笑い返しました。そうすると、彼はまた一層嬉しそうに笑ったんですよ。
     そのままふたりでいくつか星を数えました。ふたりで、といっても私は教えてもらうばかりでしたが。……あのときの私の高揚は、どうお話しすれば伝わるでしょうね。それまで文章か挿絵で追ってきた物語が、実際に眼前の星々と結びつき、歌われてきたものが自分の前に確かにあるという感動……私の中でただ宙に浮かんでいただけの物語の断片が、急速に実態を伴って私の現実へと結びつきました。そうして物語は確かにそこにあるのだと、私は理解したんです。
     あのとき、私は物語に生きていました。星を指差し、微笑む赤い目が、私と物語を結びつけてくれた。ずっとそうしていたいほど、楽しい時間でした……「どこまでもどこまでも一緒に行こう」なんて、そのときの私には言えませんでしたが。
     しばらくすると列車の行き先が白んできました。不思議と目を刺すことのない光でしたが、星とは違っていた。赤い目の彼もそれに気付いて、私に「降りよう」と言ったんです。驚いたけれど、彼の声の穏やかなのに促されて、私は差し出された彼の手を握りました。赤い防具に柔らかな黒革の手袋、その下にある指がしなやかに私の手を包んで、彼は「ちっせぇ」と笑いました。
     やがてその白い光に列車は停まり、私は彼に促されて降りました。そこは綺麗に整った駅舎でしたが、どこか建物が列車の内装と同じくレトロに感じました。私は高い屋根や長いホームのあちこちを眺め回していました。今思えば、彼はそうする私の足の遅さに合わせて歩いてくれていたと思います。
     ホームの端に辿り着き、短い階段を下りると、そこに小さな改札口がありました。
     私は混乱しました。先ほど列車の中から見ていた幻想の夜空とは打って変わって、駅の構内はその頃の私がよく目にしたようなものだったんです。やたらと明るく清潔で、他に人がいないのが浮世離れしている感じはありましたが、なんとなく私が過ごしていた現実に近いものを感じていました。
     そもそも、あの物語にこんな駅は出てこなかったような……そんなことを考えていると、私と手を繋いでいる彼が「げっ」と言って立ち止まりました。彼の支線の先、改札の向こうには人影がありました。
     神様だと思いました。淡い金髪が白んだ光の中でキラキラしていて、着ている服も白いからか彼そのものが光っているかのようだった。肩から掛けた布の赤さが、鮮やかに目に焼きつきました。
     そうした光そのものみたいな人を目にして、彼は赤い目を細めて苦々しい顔をしているんです。改札の向こうの神様はそれを見て、にっこり、笑みを浮かべました。目は笑っていないようでしたが。
    「早く来なさい」
     そう命じる声の、底知れない響きの随分恐ろしかったこと……私は今も、よく覚えていますよ。思わず青年のコートを掴んで、後ろに隠れてしまいましたからね。
     彼は「あー」とか言いながら天井を仰いだと思うと、渋々といった感じで歩き出しました。彼が行くのなら私はついていくしかありません。ほどなくして、改札を挟んで黒衣の青年と白い神様が向き合いました。
    「何をしていたんだ」
    「ちょっと一身上の都合で時間に遅れましたー」
    「減らず口を」
    「だって、放っとけるわけないだろ」
     そうして彼は私に視線だけを向けました。神様みたいな男はそこで初めて私に気がついたらしく、長い睫毛で重そうな目を見開いて私を凝視すると、説明を求めるように青年を見ました。彼が「そういうこと」とだけ応えると、男は奔放に跳ねた金髪をがしがしと掻いて、「参ったな」なんて言っていました。
     私はそのとき、男の目が美しかったのに驚いていました。薄い色で春霞の空のようでもあり、そこに違う色が遊んでいて角度で色を変える宝石のようにも見えて、見入ってしまったんです……ええ、やはり、神様だと思いましたよ。お迎えが神様なんて、ひとりの子どもにはあまりにも贅沢な話ですがね。
     その男は整った顔にバツの悪そうな表情を浮かべたと思うと、私に微笑みました。あまりに綺麗なので「まぁ、なんだ。こっちへおいで」と言ったのを聞き落としそうになりましたが、青年が肩を押して促してくれたおかげでそうならずに済みました。
     私は慌てて切符を取り出したものの、青年に「それ、持ったままでいいよ」と言われました。改札を抜けるのには切符が必要ということは私も一応知っていましたから、わけが分からず彼の顔を伺うと、
    「まだあんたの切符を回収するときじゃないから……ちゃんと持っとかないとダメ」
     そう言って、私のポケットに元のように切符を押し込みました。
     私は彼に言われるがまま何もせずに改札を通り抜け、青年もそれに続きました。ただ、彼は破れた青い布切れみたいなのを脇に置かれていた小箱に入れていましたが……ふふ、無人駅というものは、ああやって切符を回収していたのだそうですね。切符自体、知ってはいたけれど見たことがなかったので、布の切符もあるのかと驚いたのをよく覚えています。
     改札の向こうは淡い、白い光に満ちていて、周りはよく見えませんでした。そのよく分からない風景がなぜか不思議と懐かしく、私はぼうっとしていましたが、青年が私に目線を合わせるようにしゃがみ込みました。
    「いい? あっちに行くんだよ。そうしたら、元の時間に帰れるから」
     彼が指差した方向もやはり光に満ちていて私にはよく見えませんでしたが、「元の時間」という言葉にキュッと胸の締め付けられるのを感じました……私の帰る先には、私と一緒に星を数えてくれて、その名前を教えてくれた青年はいないのです。また息継ぎをするように物語に逃避する日々が始まる……そう思うと、既に苦しくなってきました。
     俯いてしまった私に彼は何を思ったのでしょう。私は顔を上げられなかったから、彼がどういう表情をしていたのかを知りません。しかし、彼は私の頭の横に自分の頭をくっつけるようにして、優しく抱きしめてくれました。
    「大丈夫だよ。もしかしたら今、すごく息苦しくて、全然楽しくないかもしれないけど、それがずっと続くわけじゃないって、俺知ってるから。あんたは大丈夫。俺がずっと一緒にいる。だからお願い、俺のこと覚えていて。いつもは忘れちゃっててもいいから、赤い蠍の火を見たら、俺と星を数えたことを思い出してよ。忘れないでいてくれれば、俺はあんたと一緒にいられる。そしたら俺たち、また会えるから……だから、次にまた会ったら、そのときは俺に今日一緒に見た星の名前を教えてね」
     私は驚いて、それでも勢い頷きました。彼の心臓が脈打つのが分かるような距離で、頬に触れている彼の頬も温かかった。視線を動かした先では、神様みたいな男が微笑んでいて、私と目が合うと一層優しく目を細めました。
    「そうそう、お前さんも大人しくしているばかりじゃなくて、もう少しこの坊主みたいに減らず口を覚えるといい」
    「変なこと教えんなよくそじじい」
    「ほら、こういう感じだ。いい手本だろう」
     ふたりの軽快なやりとりはそれまでどこか身構えていたままだった私の心を綻ばせたようでした。思わず声を漏らして笑うと、ふたりは言い合うのをやめてまじまじと私の顔を見つめました。
     そうして澄んだ火のように赤い瞳が優しさを滲ませて、私の頬を指で軽く撫でました。
    「笑うとおんなじ顔」
     ふにゃりと少年じみた無邪気さで緩んだ口許に、八重歯が覗いていました。その顔が泣き出しそうにも見えて、私はなぜか、しっかりしなければ、と思いました。
     生きなければ、と。
    「さぁ、そろそろ行きなさい。ここは美しいが今のお前さんが長居する場所ではない。……なに、またすぐ会えるさ」
     そうして神様の言葉にも背中を押され、私は歩き出しました。白い光ばかり、何も見えないと思っていましたが、やがて光が震えたかと思うと大きく揺れるのが見えるようになり、それは砕けるように千切れたかと思うと元の形に戻り、またしなやかに伸びて千切れ元に戻り……気がつくと目を刺すような陽光と、心配そうに私を見つめる男性の顔が見えました。
     意識を失っていた時間は長くはなかったそうです。到着した救急車に乗せられて病院に運ばれましたが、水を飲んでいたことについてと頭を打っていないかなどの検査を受け、すぐに「問題なし」と太鼓判を押されました。川に落ちる前に見た車の運転手が、すぐに川から引き上げてくれたからでした。
     さて、妙な巡り合わせはあるもので、この運転手の男性、なんと私をいつも学校で一番いじめてくる子の父親だったんです。あのおじさん、家でどういう風に私のことを話したのでしょうね……退院して登校するようになってからはパッタリ、ちょっかいをかけてくることはなくなりました。それまでとは違った面持ちで遠巻きにされましたが、突然死角から小突かれないだけでかなりましです。……自分たちのせいで、私が川に飛び込んだとでも思ったのでしょうか。愚かですが、子どもの想像力というのはときにとんでもない飛躍を見せますからね。
     それで、私は「いじめられっ子」から「よそよそしくされている奴」に変わったわけですが、同じ浮いているのでも随分変わりました。しばらくすれば同じように大人しい子たちが一緒に話してくれるようになりましたし、そうやって何人かと仲よくなると、他の知らない子たちも徐々に話してくれるようになりました。相変わらずクラスに馴染めたわけではなかったのですが、クラスの空気なんて、よく目につく物語のひとつでしかなかった。あらゆる物語はそこら中に、いくつもありました。
     銀河を行く列車の白昼夢を経て、私の中で一番変わったのはここでした。それまでは、物語を現実とは違うもの、その現実から逃れる場所として捉えていた。
     でも、違った。物語は、現実だったんです。
     私にとって息苦しいだけだった教室の空気も、あの飼育箱じみた部屋にある物語でしかなかった。私がつらい現実だと思っていたものは、ただあの箱の中にいた子どもたちが共有するだけの物語でしかなかったんです。そして、本の中にある、一見「現実」より取るに足らない大きさに見える物語こそ、深く静かに流れる川のように、ずっと大きく、時も場所も超えて共有されてきた。それは本の中にあるだけでなく、誰かの心に携えられて脈々と伝えられてきた……もちろん、本の中にある物語だけの話ではありません。
     ちゃんと物語は現実に存在し続けてきた。文字として刻まれ、言葉として歌われ、また夜空の星に託して、誰かの中で脈打ち、生き続け、それは語り継がれてきた。あるいは、新しく紡がれて……あのとき、赤い目の彼が「俺のこと覚えていて」と言ったわけが、ストンと私の胸の内に落ち着きました。……ええ、本当に、彼はあの日からずっと、私と一緒にいてくれたんです。
     さっきは教室にあったものも物語でしかないと言いました。しかし、物語が人を死なせることは十分に起こり得ます。そして私のように、物語に生かされる人間もいる……いつでも物語はひとつではないこと、それを分かっていることが大事だったんです。
     生きなければ、という決意をどれだけ果たしているのか、自分では判定するのが難しいのですが、精一杯やってきたつもりです。自暴自棄で自分を痛めつけることはせずに暮らしてきました。短い間しか一緒にいられませんでしたが、最愛の伴侶も得たのだし、まぁ悪くはないものでしょう。
     眼前に積み重なってくる課題に、愛する物語の気配が遠くなるのを感じて悲しくなる日もありました。しかし、そういうとき、ふと夜空に夏の大三角を見つけたり、また郊外から帰る遅い時間の電車に乗って眺めた遠い街明かりに夢の銀河の影を見るとき、いつも彼が言ったことを思い出しました。
     覚えていて。忘れないでいたら一緒にいられる。そうしたらまた会える……叶わない約束があることもよく知っていましたが、それでもよかった。たとえ白昼夢でも、あの列車での時間を覚えていれば、生きていけると思えました。
     そうして夏に一番好きな赤い星を見つけるのを毎年の楽しみにしながら、私は自分の足で人生を歩んできました。その中で、あらゆるものに物語を見たせいでしょうか。他の人は気にしないようなことに気がつくとはよく言われましたが、時折、呼ばれているような気がしました。囁くように、導くように、見えない手で私の手を引き、聞こえない声で私に語りかけるものたち……運命なんて大それた言葉を使うほどではありませんが、積み重ねられた物語が当然の結末へと帰結するように、自分の意思を超えたところでの巡り合わせを感じることは多々ありました。
     そういう、うまく言葉にできないものを感覚として捉えることができたためでしょう。ある日、声をかけられて、ここで働いてほしいと言われました。唐突でしたが、彼らは粘り強かった。過去への干渉が禁じられているのは私のような一般人でも知っていましたし、それが禁じられている理由も、私なりに納得していました。結構迷ったのですが、結局私は首を縦に振り、それまでやっていた仕事の整理をつける時間をもらいました。引き受けた以上、残りの人生はおそらくこの仕事に費やされることになるでしょうから……いえ、文句があるわけではありませんよ。自分で決めたことです。
     そうして腹を決めてやって来た就任初日、私はここに来る前にまず時の政府に案内されました。そう、はじまりの一振りを選ぶために。そこで、彼——加州清光に再会したんです。



    「……すみません、本当に聞いてもらってばかりですね」
    「なに、気にするな。続きを聞かせてくれ」
     審神者が申し訳なさそうに眉を下げるのに、一文字則宗は微笑んだ。
     それに安心したような笑みを浮かべると、審神者は先ほどまでそうしていたように庭に視線を移した。蛍が明滅しながら漂う暗い庭の上には、満天の星が広がっている。
    「——本当にまた会えるなんて、思っていませんでした。それでいいと思っていたし、少年の頃の暖かくも不思議な、一番の思い出になっていたんです。美しい思い出を何度も懐かしみはしましたが、そこに戻りたいわけではなかった。私は彼が背中を押してくれた未来に歩いてきたのですから」
     あれがベガ、織姫。あっちの白いのがデネブ、白鳥座。そしてあっちが彦星のアルタイル——審神者の視線につられて同じように星空を見上げた則宗は、審神者の少し枯れた声を聞きながら、清光と少年が数えたという星を辿った。絢爛な夜空に一際明るい大三角、そして夜の低い端へ目を向けると、赤く澄んだ蠍の火……本丸という箱庭に映る星空も、かつて夢に見たほどとまではいかずとも美しいに違いない。
    「実際、彼は私の会った彼ではなかった。同じ顔をしていたけれど、当然、私のことなど知らなかったのだから。
     私は共にこの本丸にやって来た彼に寂しいものを感じていました。星を数えてくれた彼と違ったからというわけではないんです。満たされないものを抱えて、時々私が名前を呼ぶのにも怯えを滲ませることがある、その彼の心が寂しかったんです。
     ……愛されることを疑わなければならないのは、悲しいことです。しかし、そうするしかできないことも確かにある……思えば子どもの頃の私はひとりで遊ぶのも平気ではありましたが、ずっと寂しかった。いつでも寂しかったんです。肩を落として手入れ部屋へ向かう彼を見るとき、そのどうしようもない気持ちをよく思い出しました。
     彼に寂しいものを見ながら、私はこの六年以上を彼と共に過ごしました。部隊の編成に一緒に頭を痛めたり、手狭になった本丸の増築を相談したり……些細なことばかりですが、確かに積み重ねてきた時間があります。その間に、彼の器用で達観したところがあるのと、それでいて瑞々しい感性があるのを知りました。あの列車の中での私には知り得なかったことでした。
     小さい頃に私がいじめられていたのを話せば自分の方が痛そうな顔をしましたし、政府から支給されてきた御守りをまず彼に渡したときなんて、泣きそうな顔をするものだから私の方がなぜか慌ててしまって……そういえば、笑い話のつもりで川に落ちたことがあるのを話したときもありました。あのときは彼が慌てたような顔をしたあと、呆れたように笑っていた。愛されたいという彼の愛情深さを、私は日々実感していました。
     もちろん、この夏の夜空を見上げながら星の話をしたこともあります。あの大三角をなぞって、蠍の火を見て、あかいめだまのさそり、ひろげた鷲のつばさ……そう歌ってみせると、しようがないものを見るように笑っていました。それが列車で見た彼にそっくりで、私は密かに改札での別れ際の約束を果たしたつもりでいました……ええ、確かに『教えてね』と言っていましたから。
     贅沢な話なのかもしれませんが、私は愛を疑う彼を寂しく思っても、彼の愛を疑うことはなかった。だからでしょうか。彼が修行を申し出てきたとき、私には迷いようがありませんでした。彼の決断を尊重したかったし、なにか物語がひとつの結びに向かうような、逆らえない力を感じました。そうして彼を見送って、私にとってはたった三日ではありますが、彼の不在を過ごしました。……いえ、本当には不在ではありませんね。私にとって彼の不在は、あの列車に乗る以前の時間にしかないのですから。
     ああ、でも……もう一度、本当にまた会えるとは思わなかった。見送ったときは、そんなこと、思いつきもしなかったんです。彼の帰還が、二度目の再会になるなんて。
     帰ってきた彼の姿に、私は物語がどこへ向かっているのかを予感しました。あなたたちは時間を飛び越えていくのだから、過去の私に会うこともあり得るだろうと。あのときはどこにも行けないと思っていたけれど、あの列車で私のポケットに入っていたのは、やはり「どこにでも行ける」切符だったのでしょう。こうして思いもよらないところまで私を連れてきた切符は、子どもの頃の私をまだ知らない彼に会わせて、物語が現実であることを教えたんです。きっと、私が本当に生きていくために。
     ただ、それが起こるのが、今の私にとってのいつなのかは分からなかった。私にできるのはずっと、そのときが来るのを待つことだけでした……それも、懐かしい神様との再会で、もうすぐだろうと予感したのですが」
     茶目っ気を含んだ口調で審神者の笑うのに、則宗も頷くように目を伏せて笑った。
    「……今日の出陣でのことは、大和守安定から聞きました。彼が戦場であなたを庇いにいくなんて、安定も少し驚いたようですね。それも、御守りを使うことになるとは、と」
    「そうだ、隊長は僕だったのに、だ」
    「だからあそこであんなに怒っていたんですか?」
    「そりゃ……いや、やめておく」
     普段の老獪さはなりをひそめて、則宗がバツの悪そうな顔を見せるのに審神者は懐かしいものを目にした顔で笑った。
    「庇った加州清光の代わりにあなたが敵を討ったが既に重傷、出陣の安全規定にある部隊長重傷による強制帰還の発動……ここがこんなにバタバタしたのも、本当に久しぶりです」
    「そんなもの懐かしがらないでくれ」
    「久しぶりでしたが、皆対処は慣れたものでしたので……しかし、手入札を使ってもふたりとも目が覚めないのには全員肝を冷やしたようですが」
    「お前さん以外は、か?」
     意地の悪い則宗の問いに審神者は応えず、笑うだけだった。改札で見たときにはなかった目尻の深い皺に、則宗は審神者の過ごしてきた時間を思った。それを見抜いたわけではないのだろうが、審神者もどこかいたずらっぽい光をたたえた目で則宗を捉え直した。
    「あのとき、あなたはすぐ会えると言った……あなたには実際そうだったようですが、人間にとって五十年近くというのは、とても長いのですよ」
    「そりゃあすまなかった」
     うはは、という豪快な笑いも、部屋に少し響いたあとは夏の夜に吸い込まれるようにして消えていった。審神者はまた夜空を見上げた。
    「ただ、あなたたちが起きてこないので、きっと今なのだ、とは思いました。今、どこかで、あの星々を眺めているのだろうと……」
     星を見る審神者の目は澄んでいた。自分を見上げていた少年の面影を残したその眼差しに見惚れるように少し黙ったあと、則宗は自分から口を開いた。
    「僕が呼び出されたのは、先に目が覚めたからか? それとも……あの停車場に坊主を迎えにいったことに釘を刺すためか」
     審神者は星から目を下ろし、驚いたように則宗を見たが、すぐに軽く目蓋を伏せて考える素振りをした。言葉を探すように口許が軽く動いていた。
     そう長く経たないうちに顔を上げると、その唇は薄く弧を描いた。
    「咎めようとは考えていませんでした。部隊の編成や戦略については反省が必要ですが、それは私の仕事でもある……確かに、清光が部隊長を庇いにいったというのは驚きましたが、きっと考える前に身体が動いていたのでしょう。彼は大抵の場合は合理的ですが、感情もよく露にしますから……」
     それに、と続けた声も柔らかかった。
    「私は感情を押し殺すのをよいこととは考えません。今回のように、事故を起こしそうな発露は避けたいですが、それは先ほども言ったように編成の問題でしょうね。それに清光もあなたも、何度も同じことはしないでしょう。それは他の皆もですが……ああ、だから、想い合っている間柄を引き離すのは私もやりたくない、ということです」
     審神者の言葉に、今度こそ則宗はバツの悪さを隠そうともせず、苦い顔をした。
    「僕としてはありがたいが、主はそれでいいのか」
    「いいですとも。先ほども言ったでしょう、物語はいつもひとつではない……きっと歴史の大河の流れも、無数の水の流れの束なって、まとまって見えるだけです。私はこの本丸の主としてその流れを変えないよう守るつもりでいます。それでも、そこに流れる水は無数のものが集まってできていることを、いつでも忘れないでいたい」
     夜空は変わらず星をいっぱいにたたえて明るかった。その星明かりを見上げた横顔の静けさを、則宗は懐かしい気持ちで見た。歳を経た人間にはいつも、そういう静けさがあった。
    「物語はいつもひとつではない。私たちがあたかもひとつでしかないように考えているものにもきっと知らない顔がある。川の光る表面だけを見て、その深さを知らないように……過去は変えてはならないけれど、よく知ればそれまで見えなかった物語が覗くこともあります。もしかしたら、そのとき過去は、歴史は変わったと言えるのかもしれません。しかしそうやって過去を変えることが敵うのは、今を生きる者のみです。今を生きる者だけが、過去に新しい未来を見ることができる。既に流れ去った水の流れを無理矢理捻じ曲げることは、やってはならない——だって、そうでなければ、寂しいと思うことも、愛されたいと願うことも、すべて否定するようなものじゃないですか」
     そこまで語ると、審神者はどこか恥じるように星から顔を伏せた。しかしそれも短い間で、すぐもう一度星を見上げた。
    「ただ、願うことを止めることは何人にもできない。だから私のやっていることが、誰かの願いを摘むことなのは変わらない。誰かの、こうであってほしいという物語……物語はひとつではないとしながら、すべての物語が叶うわけではないことを、私は分かっているつもりです。……どこにでも行ける切符は、きっと地獄にも続いていたのでしょう」
     則宗は何も言わなかった。ただ、目の前のひとりの人間が語るのを、柔らかな笑みをたたえて聞いていた。慈悲も許容もない交ぜにした、長い時の中で洗われたのを思わせる、澄んだ微笑だった。
    「……それとも、あなたが清光と一緒にいることに、私が何か嫌な想いをするという心配だったでしょうか」
     その笑みは、審神者が改めて寄越した視線に固くなった。
    「もしそうなら、余計な心配というものです。あなたに言うのもおこがましいですが、物語がひとつでないように、愛もまたひとつではない……それに、実をいうと、納得というか、少し誇らしいような気分でもあります」
     そこで一息ついた審神者の言葉に、則宗は視線で続きを促した。審神者はそれに、はにかむような少年じみた笑いを見せた。
    「だって、よい刀でしょう。私の清光は」
     言うやいなや、審神者は頬に皺のよる特徴的な笑みを浮かべた。それに則宗も大声をたてて笑って、「減らず口がうまくなった!」と応じると、先ほどからずっと廊下で部屋の中を伺っている気配に、三度目の、本当の再会ももうすぐだろうとあたりをつけた。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/07 12:39:13

    御堂の鬼/六等星も歌う

    二本立て、よく喋るモブがいます

    #則清 ##則清

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