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    しおり
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    しおり
    午後の連星午後の連星白昼の鬼さよなら、ブラックバード限りなき春終わりなき夜に辿りつく実存の三分の二世界の果てを見にいったとき連星の永い午後午後の連星


     髭切の白い指が、フォークをくるくると回してパスタを巻いていくのに、膝丸は見とれていた。この兄と向かい合って食事をするのは、それこそ生まれたときから数え切れないほどやってきたことだったが、時々こうして自分の目の前に兄がいることが、とても希有なことに思えるときがある。そういうとき、膝丸は手を止めて、髭切をじっと見てしまう。
     髭切と膝丸は、兄弟ふたりで暮らしている。生活に困らない程度の仕事をして、必要最低限の物を買って、隠れるかのような慎ましさで生活している。ふたりは自分たちの暮らしぶりに不満はなく、そして片割れも同じように思っていることを分かっていた。ふたりには互いがいれば、それで事足りた。
    「何だい?」
     髭切はパスタの巻き付いたフォークを口まで運ぼうと浮かせたところで、弟の手が動いていないことに気付いて、自分の手も止めた。世話焼きで感じやすいところもある弟が、時折こうして静かに自分を見つめるのに気付くとき、髭切は落ち着かない気分になる。こういうときの膝丸は恐ろしく無垢な顔をして、透明な視線を髭切に向けている。
     兄の柔らかい問いかけに、膝丸は視線を少しだけ揺らして二、三度まばたきすると、ふと笑った。
    「何でもない」
    「そうかい? だったらいいんだけど」
    「ああ」
     膝丸は視線を自分の皿に落として、さっきまで髭切がやっていたようにパスタをフォークで巻き取っていく。今度は髭切が、自分のパスタを頬張りながらその様子を見ていた。力まず伸ばされた背筋で、弟は指先だけを動かしている。その美しい所作を眺めながら、髭切は口の中のパスタを飲み込んだ。
    「仕事はどうだい?」
    「大分慣れてきたな。前にも言ったか、岩融という同僚がよくしてくれるから助かっている」
    「それはよかった」
    「先日は岩融の歳の離れた従弟だという少年にも会った。今剣といって、物怖じのしない子どもで面白かったな」
    「へえ」
     ふたりは生まれ育った街から去り、ここにやって来たばかりだった。しばらくは貯金を切り崩して暮らしていたのを、仕事を見つけて最近ようやく落ち着いてきたのだ。
    「兄者はどうだ? 大変じゃないか?」
    「結構楽しいよ」
     髭切は骨董を扱う店に仕事を見つけた。たまたま立ち寄った店の、奥に座って微笑んでいた店主と気が合って、仕事の手伝いをさせてもらうことになったのだ。青い目に三日月を浮かべた美しい店主が店を空ける間は、髭切が店番をしている。
    「……正直、あなたが店番というのも心配なのだが」
    「大丈夫だよ、バイトくんがよくしてくれるからね」
     長い金髪を顔の横でひとつにまとめた小柄な青年は長いこと働いているそうで、新入りの髭切にも人懐っこい笑顔を浮かべて世話を焼いてくれている。世話焼きなところは弟と似ているな、と思いながら髭切もその青年をかわいがっていた。
    「兄者、人の名前などちゃんと覚えるようにするんだぞ。仕事までは俺も手伝えないからな」
    「分かってるよ、お前は本当に心配性だね」
     弟の低い声を微笑で受け流して、髭切は皿の上を片付けていく。ふたりとも料理には不慣れだったから、食事は簡単なものを手探りで用意している。この部屋に住み始めた頃はふたり揃って料理本を前に眉を顰めていたのに、元来手先の器用な弟の方は随分と手際がよくなってきた。
    「——ああ、そういえば」
     空になった皿にフォークを置きながら、髭切は視線を中空に上げた。同じように皿を空にした膝丸は、視線で続きを促す。
    「店長の兄弟がね、古本屋をやっているとかで、店長がその古本屋から一冊持ってきていたんだよね」
    「兄弟で古物を売っているのか」
    「ふふ、そうだね。その兄弟にも一度会ったことがあるんだけど、何という名前だったかな……白い髪で、背が高かったから、顔は覚えているんだけど」
     名前を覚えていないことに、弟が苦い顔をしたのに気がついたが、髭切は何も言わせずに話を続ける。
    「少し借りてきたとか言っていたけど、何だったかなぁ、あの“嫉妬は緑の目をした怪物で”っていう話」
    「……シェイクスピアの『オセロー』だな」
    「そう、それだ。でも、どうして嫉妬は緑の目なんだろうね」
    「さあな。大した意味はないのではないか」
    「僕は、鶯丸を思い出してしまうんだよね」
     鶯丸はふたりの共通の友人だった。ふたりがこの街にやって来てからは会っていないから、懐かしい名前だった。
    「嫉妬からは程遠いな」
    「そうなんだよね」
     この街では、これはふたりにだけ通じる会話で、それがおかしくてふたりは笑い合った。その緑の目を持つ友人は滅多に他人に入れ込まない男だったから、どうしても嫉妬には結びつかなかい。
    「鶯丸は元気かな」
    「元気だろう。鶯丸だからな」
    「それもそうだね」
     随分長く会っていないから、ふたりはあの静かな緑の目を思い出して、故郷から遠く離れたことを意識した。こうしたときに、もう戻れないのだという実感がやって来て、ふたりの間には沈黙が下りる。
     自分たちにはこうすることしかできなかったのだと、膝丸は思っている。膝丸にとって、目の前にいる兄が世間より、道徳より大切だった。だから、夜の暗さにまぎれて、兄の手を引いて故郷から去ったことを後悔したことはない。しかしそれとは別に、背を向けたものに対して後ろ暗い気持ちがあるのも事実だった。兄といられなくなることには堪えられなかったが、兄といる苦しみは、ふとしたときに膝丸の喉元にせり上がってくる。
    「——さっき言った今剣だが」
     それを逃がそうと、膝丸は新しい話を始めた。弟の不器用さを昔から知っている兄は、この唐突な言葉も、いつもと同じ微笑で受け止めた。
    「何を知るのも楽しくて仕方ないという年頃なのか、いろんなことを話してくれてな、今は星が好きなんだそうだ——連星を知っているか」
    「いや」
     小さく首を振った髭切に、膝丸は微かに笑った。
    「地上からはひとつの星にしか見えないもののうちにも、ふたつ以上の星からできているものがあるらしい。ただ重なって見えるのではなく、互いが互いの重心の周りを回っているものがあって、そういうのを連星というのだそうだ」
    「ふうん。よく知っている子なんだね」
    「ああ、頭のいい子だ」
     自分の知らない人間の話をする膝丸を、髭切は妙な気分で見ていた。
     住み慣れた故郷にいた頃は、自分たちの内心以外のすべてが共有できるもののように思っていた。かつてはその内心を目の前にいる弟に見せることを恐れた。それでも、互いが必要なのだと確かめ合うと、我慢できずにふたりで手を取り合って故郷を離れ、こうしてこの街で隠れるように暮らすこととなった。それまで持っていたものを置き去りにしてきた日から、知らない街に住むことも、故郷に多くのものを放り出してきたことも、髭切にはどうでもいいこととなっていた。ただ、この弟がいればよかった。
     しかし、この互い以外は要らないと始めた暮らしのうちにも、新しく共有できないものが増えていくのだ。弟が、自分の知らない弟になっていく。自分の知らない話をする弟を見てそれに気がつくと、胸の内に何かが淀むのがわかった。
    「隣の市の科学館に、プラネタリウムがあることも教えてもらったのだ。時間ができたら行こう」
    「ああ、いいね」
     その胸の内を弟に気づかせないように、髭切は笑ってみせる。この淀みが何物か、その名前を知っている気がした。
    「連星というのは、見て分かるものなのかい?」
    「いや、そうではないらしい。しかし、有名な星にも多いと言っていた。シリウスや、スピカもそうだとか」
     髭切は星の名前はそれほど知らないから、弟があげる名前に曖昧に頷く。髭切にとって大切な名前は多くない。だから弟が、自分と同じ琥珀色の目を伏せるのを見ながら、髭切は自分の胸の内で生き物のように蠢く淀みに思いを馳せる。この淀みはきっと、緑の目を持っている。
    「連星は、互いが互いを引きつけ合っているから、ふたつが離れることはない——星ですら、ふたつ一緒でなければいられないものがあるのだ」
     小さな声で、噛みしめるように漏らす膝丸以上に、髭切にとって大切なものはない。だからこの弟を傷つけないために、胸中に住み着いている怪物を飼い慣らしてしまわないといけないと、髭切は弟にばれないように小さく嘆息した。


    白昼の鬼


    「源氏の重宝、髭切さ。君が今代の主でいいのかい?」
     髭切の顕現を、本丸の皆が歓迎した。特に喜んだのはやはり審神者で、一頻り歓迎の旨を伝えると、本丸の案内を五虎退に頼んだ。執務室を出るときに、その審神者が「膝丸も早く来てくれるといいなぁ」と近侍に言う声が耳に届いて、髭切は弟の不在を知った。
     弟はまだいないのか、とひとり頷いたところで、隣で髭切を見上げてはすぐに俯いてしまう線の細い少年に気付き、髭切は脚を畳んでその少年に目線を合わせる。少年はそれに少し肩を揺らしたが、髭切が声をかける前に喋り出した。
    「ぼ、僕は五虎退です。えっと、この本丸では、近侍をやってる山姥切さんの次に来た刀で、始めの頃からいるので、困ったことがあったら言ってください」
     顔を真っ赤にして、震える声でそう言うのが微笑ましくて、髭切はうんうん頷きながら五虎退の話すのを聞いていた。五虎退は話をすべて聞いてもらえたことに安心したようで、少し頬を緩めると「本丸を案内しますね」と、髭切が羽織った白い服の袖を控えめに掴んで歩き出した。髭切はその慎ましい先導に大人しくついていった。時々虎たちが足許にじゃれついてくるのがかわいらしくて、退屈もしなかった。
     一通り案内を終えたとき、五虎退は困ったように辺りを見回した。どうしたのかな、と思いながらその様子を見ていると、五虎退が恐る恐るといったふうに髭切を見上げた。
    「あの、案内はこれで終わりなんですけど、髭切さんはお会いしたい方はいますか? 本丸にいらっしゃる方なら、僕が案内します」
     ここに来たばかりの髭切をひとりにしてしまうのが忍びなかったらしい。優しい気遣いをありがたく思って、髭切はまたしゃがんで視線を合わせると、五虎退の頭を撫でた。
    「ありがとう。僕に一番馴染み深いのは弟なんだけど、まだいないみたいだね」
     その言葉に五虎退が、うう、と小さく唸って泣きそうな顔をするので、髭切は目を丸くする。
    「すみません、僕たちも探しているんですけど、膝丸さん来なくって……」
    「ありゃ、君が謝ることないよ。いつになるかはわからないけど、弟は絶対来てくれるからね」
     もう一度、優しく五虎退の頭を撫でて、髭切は立ち上がる。
    「案内をありがとう。君も仕事があるだろう、僕は大丈夫だよ」
     五虎退はその髭切の顔をじっと見つめたあと、口をもごもごさせたかと思うと、「すみません、少し待っていてください」と言い残して去っていった。小さな背中がさらに小さくなって、廊下の角を曲がっていくのを見送りながら、待っていてください、と言われた髭切はそこに突っ立っていた。
     そこは髭切に割り当てられた部屋の前で、髭切の眼前には庭が広がっていた。庭には、緑が生い茂る木々はあるものの、花をつけているものはなく、顕現したばかりの髭切には季節がよく分からなかった。空気は穏やかで、寒くも暑くもない。高い位置にある日の光が木々の葉に照り返って、髭切の目にまぶしかった。頬にかかる髪をさらおうとする風の匂いが新緑に近いものに思えて、いい日和だな、と思わず目を細めた。
     そうしていると、軽い足音がいくつも聞こえてきた。少し重めの足音がひとつ、あとは同じような軽さの足音だったから、五虎退と虎たちだろうと思って、髭切は廊下の角に視線を戻した。そこに現れたのはやはり五虎退で、小さな手に丸盆を持っている。五虎退は髭切に笑いかけながら、
    「お茶とお菓子をもらってきました。僕は、今日はもうお仕事ないので、お供します」
    と、髭切の部屋に入ると座卓にその盆を置いた。髭切も部屋にあがって、座卓の傍に座ると、すぐに虎たちがじゃれついてきた。五虎退はそれに謝りながら、ふたり分の茶を用意してくれた。
    「何から何まですまないね」
    「いえ」
     気弱そうな少年は、髭切に心を許してくれたらしい。膝の上に頭を乗せる虎を撫でながら、五虎退が小さな手で湯呑みを包むのをじっと見ていると、五虎退は湯呑みを覗きながら小さな声で話し出した。
    「僕にも、兄弟がいるんです。本丸にいる分だけでも、短刀にたくさん、あと脇差にふたり、そして太刀にひとり」
    「へえ」
     案内の途中で覗いた部屋で、五虎退と似た格好の少年たちがいたのを髭切は覚えていた。皆、五虎退に声をかけて、中には頭を撫でていくものもいた。
    「君も、兄弟がいるんだね」
    「はい、僕たちだけではないですけど……髭切さんと膝丸さんが顕現されるってお知らせを聞いたとき、今剣くんがおふたりのことを話してくれたので、僕たちも髭切さんと膝丸さんが来てくれるのを楽しみにしていました」
     にっこり微笑む顔が無邪気で、つられて髭切も微笑む。それに安心したのか、五虎退は少し声を弾ませて話を続けた。
    「膝丸さんは、土蜘蛛を切った方で、髭切さんは鬼を切ったんですよね。すごいなぁ……僕は、そういうのは怖くて」
    「怖がることは悪いことじゃないよ。何が危ないのか、よくわかってるってことだからね」
    「そうですか? そうだといいなぁ」
    「そうそう、怖がりすぎるのも駄目だけど、まったく怖がらないのもね……何事も過ぎたるは及ばざるが如しってことさ。嫉妬も度を過ぎると、橋姫みたいに鬼になっちゃうしね」
     少しおどけて言ってみせると、五虎退は控えめながら声をあげて笑った。
    「僕、初めて会う方とは上手く話せないことが多くて、さっきの案内も不安だったんですけど、髭切さんが優しい方で良かったです」
     えへへ、と照れくさそうに笑う顔にまたつられて、髭切も笑う。
    「いやいや、僕の方こそ君が案内でよかったよ。こうして美味しいお茶も入れてもらえたし」
     そうして一口、茶を飲み込むと、髭切は息を吐いた。
    「弟も早く来るといいなぁ」
     髭切の口から滑り出た言葉に、五虎退は少しだけ笑顔を潜めて、また湯呑みに目を落とした。その様子に、おや、と思っていると、五虎退は小さな声で話し始めた。
    「僕の兄弟、短刀と脇差の兄さんたちは結構すぐに来てくれたんですけど、いち兄——太刀の兄はずっと会えなくて、最近やっと来てくれたんです。僕、気が弱いのに最初に来ちゃって、山姥切さんにも迷惑かけてばっかりで、毎日泣いてばかりだったんですけど、兄弟が助けてくれて」
     当時を思い出したのか、途中涙声になりながら、五虎退は話した。髭切は何も言えず、その続きを待った。
    「演練で、他の本丸にいち兄がいるのを見て、泣きそうになったりしました。そういうときも、山姥切さんや石切丸さんが慰めてくれたんですけど——」
    「本丸はここ以外にもあるのかい?」
     髭切は目を丸くして思わず訊ねた。五虎退はその声に、涙の溜まった目を瞬かせた。
    「ああ、う、言ってませんでした、ごめんなさい。本丸って、ここ以外にもあるんです。たくさん」
    「たくさん」
    「はい。そこにも、僕たちが顕現するんです。えっと、僕たちではないんだけど、僕たちで……」
     少し混乱しているらしい五虎退の言葉を、髭切はゆっくり待った。急かされないことで落ち着いたのか、五虎退は中空を見つめながら、話を続けた。
    「石切丸さんは、分祀みたいなものだねって言ってました。どこで祀られていても、その神様は本物だって。お星様の光がどこからでも見えるように、神様はどこにでも現すことができて、僕たちもそういうふうに呼び出されているそうです」
    「へえ」
    「いつでも、どこでも、僕たちは顕現されるんです。そういう時間と空間の制約を受けないから、時間遡行もできるんじゃないかって言ってました」
     細かい話になってきたな、と髭切は笑顔を崩さないまま、興味が少し退いていくのが自分でもわかった。自分たちはいつでも、どこでも現れ得るということは理解したが、それだけで十分だった。
     五虎退も髭切の笑顔が固まったのに気づいたのか、苦い笑いを浮かべて話を戻した。
    「いつでも、どこでも、顕現されるはずなんですけど、でも、いち兄はこの本丸にはずっと来なくて、すごく寂しかったです。だから、やっと会えたとき、嬉しかった」
     弟というのはやはり兄を思うのだな、と髭切は感心していた。髭切の弟は子どもの姿はしていないはずだが、かつて重宝として並んでいた頃、兄者兄者と呼ぶ声をよく聞いた。それはきっと、今も変わりないだろう。
    「いち兄、僕たちに会ったとき、ずっと会いたかったって言ってくれました。きっと膝丸さんもそうですよね。これまでも演練でおふたりを見かけることがあったんですけど、とても仲が良さそうでした——僕、夜戦に出ることが多いんですけど、そこでも検非違使さんに会うので、頑張って膝丸さん、探してみます」
     小さな唇を引き結んで、真っ直ぐ髭切を見つめる金の瞳に、髭切も目を細める。こういう子だから、この子の兄たちはこの子を放っておけないのだろうな、と腑に落ちる気持ちだった。だから五虎退に、髭切は意識して微笑みかける。
    「そう言ってもらえて嬉しいな。でも、無理はしなくて大丈夫だよ。弟は絶対この本丸にも来てくれるからね」
     気休めではなく、本心からそう言っていた。その言葉に五虎退は大きな目を丸く見開いて、放心したように髭切を見つめた。その様子に髭切が首を傾げてみせると、ふにゃりと眉を下げて笑う。
    「すごいなぁ、僕、いち兄が実際来てくれるまで本当に不安で、髭切さんみたいに思えたこと、ありませんでした……そういう自信って、どうやったら持てるんだろう」
    「いやいや、これは自信なんてものじゃないよ」
    「えっと、じゃあ、どうしてそう言い切れるんですか?」
     五虎退の純粋な疑問に、髭切は一度目を伏せて湯呑みを置くと、ゆるりと五虎退を見た。五虎退は、その白い顔が先ほどまでの優しい微笑とは違う、花のほころぶような、嬉しくてたまらないというような華やかな笑顔になっていくのに息を飲んだ。
     髭切は頬を少し上気させて、まるで慈しむように言葉を紡ぎ出す。その薄い唇から覗いた犬歯に、五虎退はなぜだか鬼を思った。
    「だって、弟は僕を決して赦さないからね」


    さよなら、ブラックバード


     髭切が仕事場の骨董店から小さなラジオを持ってきたのは、夕飯を用意するのは膝丸だとふたりの間で定着してきた頃だった。一見アンティークに見えるそれは、実は骨董風に作られたものだそうで、そう言われてみれば古いものが決して持ち得ない整然とした角があった。
    「持ち込んできたお客さんがいたんだけど、店では引き取れないと言ったら困っていてね。それで、僕が個人的に譲ってもらうことになったんだよ」
     髭切と膝丸の育った家には古いものが多かったから、その古いもの特有の凄みや、触れるのを戸惑うようなちょっとした粉っぽさをふたりはよく知っていた。膝丸は、古いものはやはり角が取れていくのだと思っていた。角が取れたものは、新しいものをそうそう傷つけない代わりに、容易に受け入れもしない。角とはつまり、取っ掛かりになるものなのだ。それが削れていったものは、馴染まず、受け入れず、ただそれひとつで在り続ける。おそらくそれが凄みの源なのではないかと、膝丸は実家に暮らしていた頃にぼんやり思ったことがある。
     膝丸も古いものは嫌いではない。下手に新しいものを持つより、落ち着く気がするのだ。だから兄が見かけだけでも古めかしいものを持って帰ってきたことは腑に落ちた。長い時間を過ごしてきた物は、己が何物かをよく弁えている。慣れるまでは古いものの凄みに気圧されることもあるが、慣れてしまえば、それがそれとして存在することに安心する。膝丸は、古いもののそういうところを好んだ。
     件のラジオは兄によって、この部屋の端にある棚の上に置かれた。そのラジオの隣に、これもまた兄が気に入って購入してきたアンティークの懐中時計が、共に購入してきたという台座に置かれている。少し煤けたようにも見える懐中時計と見かけだけの古めかしさを纏ったラジオは、兄の見立てがよかったのか、喧嘩せずに壁を飾っている。
     仕事のない日、兄はこのラジオをつけて、スピーカーから流れる声や歌に耳を傾けている。休みの日中はふたりとも、部屋で静かに過ごすことが多かった。そのためか、ラジオの下の棚には本が増えていった。
     その日流れてきたのは、ピアノとギターに乗った甘い男の歌声で、文庫本を読んでいた膝丸はなんとなく耳に入ったそれに、英語か、と思っただけだった。ちらりと向かいに座る兄を見ると、その兄は肘掛け椅子に体をもたれかけたまま、じっとラジオを聞いていた。ラジオの方に向けられた横顔がいつも通り、小さく微笑んで見えるのを確かめたあと、膝丸は自分の手の中の本に目を戻した。
    「それ、面白いのかい?」
     その髭切が声をかけてきたことに少し驚いて、膝丸は戻したばかりの視線をもう一度兄へと寄せた。兄はさっきと姿勢は同じままで、顔だけをわずかにこちらへ向けていた。
    「ああ。もうすぐ読み終わるから、あなたも気が向いたら読むといい」
    「そうか、それじゃあ読もうかな。どんな話なんだい?」
    「SFだな。なんと説明すればいいか……」
     膝丸は読んでいたページに指を挟み、裏表紙のあらすじを見た。これをすべて読み上げるのが手っ取り早いかもしれないが、兄が簡潔な返答を好むのも知っていた。
    「——遍在する魂の話だ」
     端的な説明に、髭切が感心したような声を漏らすのが聞こえた。内容に興味を持ったらしい。
    「同一の魂が、あらゆる時の、あらゆる空間に顕現する。主人公はふたりだが、このふたりはどの時空であっても惹かれ合うらしい」
     この説明で十分だろう、と思って兄を見ると、兄は膝丸に向けていた目を軽く伏せて、何か思案しているようだった。ラジオからの伸びやかな歌声に、兄の憂い顔とも呼べそうな伏し目はよく似合っていて、膝丸は息を飲んだ。
    「遍在、へんざいってどこかで聞いたことある気がするな。何だったかな……」
     兄の顔は見慣れているはずなのに、時折恐ろしいほど深い驚きを膝丸にもたらすことがある。そういうとき、膝丸は兄に釘付けになってしまって、この人が自分の目の前にいるのは希有なことなのだということを感覚で知ってしまう。いつになっても、何度も、今このときのように。
     ラジオからは、甘い中に苦みを滲ませた男の声が、痛ましさも感じさせるような響きで呟くように一言、歌った。そのあとに続くピアノの音を聞きながら、膝丸はこぼした。
    「ユビキタス」
     小さな声だったが、兄はゆるりと視線を上げて、目を細めながら「ああ、それだ」と笑った。
    「そうそう、神の遍在だ」
    「神ではないが、確かにユビキタス的に発露している魂の話だな」
    「うんうん、そういう話か。あとで読ませてもらうよ。しかし、魂が遍在して、いつ、どこでも惹かれ合うというのは——」
     ラジオから流れる曲は終わろうとしているらしい。膝丸も棚に置かれた懐中時計の小さな文字盤を見て、そろそろ夕飯の用意をしようと指を入れていたページに栞を挟んだ。
    「なんだか、物悲しいね」
     兄の寂しげな声には応えず、膝丸は持っていた本を机に置くと、「そろそろ夕飯の準備をする」と伝えた。
    「僕も手伝おうか」
    「頼む」
     兄が、この物語に何を感じるか、膝丸は既に分かっているような気持ちになっていた。
     物悲しいのだ。いつ、どこでも、互いでなければいけない、互いでなければ満たされないというのは、哀しい渇きだった。この渇きのために、それまで持っていたものをすべて投げ出して、互いだけしか選べなくしてしまうほどに。
     隣に並んだ兄が、さっきまでラジオから流れていた歌を小さく口ずさむのを聞きながら、膝丸は食事の準備を進める。歌詞は拾いきれなかったようで、ところどころ曖昧に歌われるメロディーはラジオから流れていたときとは違って、兄の声だけでは寂しげに響いた。今はそのラジオも小さなスピーカーから、また違う物悲しい歌を吐き出していた。

    「やあ、それは初めて見るな」
     髭切の携帯電話についた小さな柘植のストラップを見て、三日月は目を丸くした。
    「鳥か? ……これは、脚のところはどうなっておるのだ?」
    「三本脚みたいだね。弟の同僚が、従弟と熊野に行ったお土産にって僕にも買ってきてくれたんだよ」
    「なるほど、ヤタガラスであったか」
     熊野か、俺も行きたいなぁ、と鷹揚に笑う三日月に、髭切も笑い返す。
    「御守りらしいけど、電話に付けるのにちょうどよくてね」
    「うむ、そうか」
     この骨董店の正面は大きなガラス戸だが、雑多に思えるほど物の置かれた店内には外からの光はあまり入ってこない。その薄暗さと、骨董の持つ静謐な空気のおかげで、この店はまるで一種の異界だった。髭切はこの空気に、少し懐かしいものを感じている。
    「導きの神使だな」
     薄暗い店の奥にいつも座っているこの店主は、異界じみた空気に埋もれない、人の視線を縫い留めてしまう凄みを持っていた。それは整いすぎているとも言えそうな美貌のせいでもあるだろうし、そのせいで自分に釘付けとなる他人の視線を歯牙にもかけない本人の性質のせいでもあるだろうと髭切は思っている。
     その美しい顔を少し右に傾けながら、三日月は髭切の携帯電話にぶら下がる小さな烏を、人差し指で軽くつついた。
    「ヤタガラスは、太陽の象徴でもあるらしいぞ」
    「そうなのかい?」
    「ああ、俺は詳しくは知らないがな。こういうのは、小狐の方が詳しいのだが」
     あの古本屋の、と思い出しながら、髭切は揺れる烏に目を細める三日月を見ている。見れば見るほど美しい顔だった。長い睫毛の下に、薄く弦月が浮かんでいる。夜の美しさを詰め込んだかのような瞳だ。
    「太陽より月が気に入りか?」
     瞳を動かさないまま三日月が問うのも、髭切はラジオから流れてくる音楽を聞くような心地で聞いた。この男は、人に見られるのに慣れているのだ。人目を引いてしまう人間はそういうものだと、髭切はよく知っていた。
    「月というよりは、夜がね」
    「夜か。何か理由でも?」
     三日月がやっと視線を髭切に向けたので、髭切は持っていた携帯電話をしまった。
    「弟と夜の海に行ったことがあってね」
    「ほう、何かあったのか?」
     整った顔が、幼い子どものように目を輝かせるのが少しおかしくて、髭切は笑った。笑いながら、その夜の海を思い出していた。弟と共に故郷を離れた夜の、底知れない海を。
    「いいや、月も見えない夜だったから、黒い海があるだけだったよ」
    「ふむ」
     続きを待つ顔の三日月から目を逸らして、髭切は店内に目をやった。この店に足を踏み入れたときに、懐かしいと感じるわけを分かっていた。髭切と膝丸が育った家には、古いものが多かった。だから古いものが持つ、静かで、時に沈鬱とも言えるような薄暗い空気を、髭切はよく知っていた。
     あの夜の暗さはそういったものを覆い隠して、膝丸しか見えないようにしてくれた。だから故郷から遠く離れたこの街で、髭切はこの空気を懐かしく思うことができている。
    「僕たちには、日の光より、そういう暗さがありがたかったのさ」
     三日月は髭切の囁くような密やかな声を聞くと、夜の詰め込まれた目を伏せて、そうか、とだけ返した。その声の柔らかさにこれ以上の追及がないことを知って髭切も、そうさ、と相槌を打つと、それでこの話はもう終わりだった。

    限りなき春


     ここには永遠の春が留まっている。
    「毎日見ているけど、本当に面妖だよね」
    「そうだな」
     本丸の庭の花は、毎日散る。しかし次の朝には、元と同じだけの花がついており、また散っていく。ここの春には終わりが来ない。
    「どうして、時が止まっているのだろうね。いや、繰り返しているのかな」
    「そうだな」
     髭切は膝丸の気のない返事に、左に座っているその横顔を窺う。長い前髪で目元が隠れていて表情がよく読めないが、上の空らしい。自分の言葉を聞き流す弟というのも珍しい、と思って髭切は思わず笑う。
    「演練の相手がまだ気になるのかい?」
     膝丸の横顔は、その言葉に口許を少しだけ強ばらせると、ゆっくりと髭切の方を向いた。ようやく見えた目許の、いつもつり上がった眉が少しだけばつが悪そうに下がっているのを見て、髭切は首を傾げてみせる。髭切の予想は正しかったらしい。
     兄の仕草に話の続きを促されて、膝丸は小さく溜め息を吐くと話し出した。
    「今日の演練相手の部隊に、あなたがいただろう」
    「いたね」
     ふたりは先ほどまで演練に出ていた。今は、演練から帰還して、ふたりの部屋の前で庭を眺めて出陣までの時間を潰している。これは最近兄弟の習慣となった過ごし方だった。
    「俺たち兄弟がいた部隊はこれまでにもあったが、今日の部隊はあなたしかいなかった」
     そうだったかな、と髭切は思い出そうとする。はっきりとは覚えていなかったが、弟が言うならそうだったのだろう。
    「まぁ、そういうところもあるだろうね。お前も、僕が来るまでひとりで部隊に組み込まれたことがあったんだろう? それに、他の本丸では僕たちみたいにいつも一緒に部隊に組み込まれるわけではないのかもしれないよ」
    「それはそうなのだが……やはり、俺といないあなたを見ると落ち着かないのだ」
     膝丸は庭に視線を戻して、また溜め息を吐く。まるで自分に非があるかのように感じている横顔だった。仕方のない弟だな、と思いながらも、“膝丸”が“髭切”を思っていることに髭切の頬が緩む。
    「きっと、その僕のところにもお前がいるよ。僕たちはそういうものだからね」
     髭切の言葉に、膝丸は安心したような笑みを見せた。こういう顔は兄にしか見せない顔で、髭切はそれが嬉しくてもう一度微笑む。
    「すまない、庭の話だったな」
    「そうそう、本当に不思議だよね。春が終わらないというのは」
    「そうだな。しかし、陸奥守が言っていたのだが、時とは流れないものらしいぞ」
     膝丸が悪戯っぽく笑うのに、髭切は目を丸くする。
     陸奥守吉行はこの本丸の初期刀で、科学や経済などの人間たちの思考に興味があるらしく、大層物知りな刀だった。しかし知識を振りかざしたり、それを驕ったりしない性格をしているから、審神者だけでなく刀剣たちからの信頼も篤い。
     それにしても、時が流れないとはどういうことだろう。髭切がぱちぱちと瞬きして膝丸を見るのに、膝丸は「俺も詳しくは知らないが」と断って話しを続ける。
    「人間たちには、そう考える者たちがいるらしい。時は流れているのではなく、あらゆる瞬間が積み重なっており、その積み重ねが流れているのように見えるのだと。陸奥守は、瞬間が積み重なっているから俺たちは時間遡行ができるのだと言っていたな。流れているのではなく、積み重なっているからこそ、任意の瞬間を選んで我々がその時に飛べるのだそうだ」
     髭切には途中から、膝丸の声がただ耳を通っていくだけになっていた。膝丸も兄が細かいことを気にしないのをよく知っているから、そのことに気付いているだろうに、話すのを辞めない。
    「石切丸だったか、俺たちが各々の本丸に顕現できるのは分祀みたいなものだろうと言っていた……俺たちの魂は時間と空間の制限を受けないらしい。だから同じ刀がいくつも顕現したり、他の本丸にもいたりするのだそうだ。この性質も時間遡行を可能にしているもののひとつではないかとも言っていた。俺たちの魂は遍在するわけだ。しかし兄者、この遍在する魂というのは面白いと思わんか」
     髭切が話を聞き流そうとしているのを感じ取って、膝丸はわざと話を投げかける。髭切は後ろ手に体重を預けて、また首を傾げて話を促した。
     時々、膝丸はこうして兄を困らせる。他の刀剣たちがいる場では決して見せないこうした言動が、膝丸なりに兄に甘えているのだと髭切は分かっているから、時にはその甘えを受け入れることにしている。
    「魂が時空の制限を受けず遍在するのは、何もこうした本丸に限ったことではあるまい。俺たちが共に在った頃の俺たちも、そうした魂の顕現だったのではないか?」
     髭切は目を中空に浮かせて、考える姿勢を取ってはみせる。言葉の意味自体はわかるのだが、実感が伴ってこない。そのせいで、膝丸の声が上滑りしていく。
    「時は積み重なっている。俺たちや人間には、流れているように感じてしまうが、流れているのではなくすべての瞬間が連なって、流れるかのごとく見せているのだ。俺たちの魂は、その瞬間それぞれに発露するものなのかもしれぬ。源氏の許で、京に、鎌倉に、熊野に——あるいは源氏を離れた今も、今より先も、どこかに顕現している。もしかしたら、魂とは存在を各々の瞬間に顕現し続ける装置のようなものなのかもしれぬぞ。しかし、その瞬間というのは些細なことで差し替えられてしまうのかもしれぬ。歴史修正主義者というものがいるからには、そうした差し替えも可能なのだろう。ある瞬間を差し替えると、その次に積み重なるものも変わってしまう。そうすれば、そこに顕現する魂の置かれた状況も変わってしまう……歴史というものは、実際に今ある状況のことではなく、観測された事象の記録だ。観測されていないせいで、把握できていないものも多くある。俺たちの逸話などもそうだな。歴史とやらが、些細なことで変わってしまうものであるなら、観測されていないところはどうなっているのやら——あなたが斬った鬼がいた場所も、羅生門か戻橋か、はたまたそれ以外か」
     そうして膝丸は、髭切と同じ形の目をきゅう、と細めてみせた。
    「他の本丸のあなたは、羅生門の鬼を斬ったあなたではないのかもしれぬ」
     弟の饒舌は、一旦終わりらしい。髭切がううん、と唸るのに、膝丸は楽しそうに笑った。弟の甘えを、髭切は嬉しく思っている。生真面目で、自分を律することに慣れきっているからこそ、こうした息抜きを大切にしてやりたいのだ。しかしやり込められてばかりなのも面白くなくて、髭切はふと思いついたことを口に出す。
    「魂が遍在するということは、刀でない僕たちもいるのかもしれないね」
     膝丸が虚を突かれた顔をしたので、反撃がうまくいったことを知って、髭切は続けて畳みかける。
    「ほら、人間たちに輪廻転生を信じる者がいるだろう。そういうのも魂の遍在で説明をつけられるんじゃないか? 輪廻転生する人間たちは、いつも人間になるとは限らないそうじゃないか。もしそうなら、僕たちだって付喪神じゃなくて、人間のものがいるかも」
     目をしばたたかせる弟がかわいらしくて、今度は髭切がくすくす笑った。それに膝丸はむくれた顔をする。髭切の前にいるとき、膝丸はまるで人の子のようにただの弟になるときがある。
    「言っている意味は分かるのだが、実感として分からん」
    「それは僕もだよ」
     自分と同じことを考えた弟に、髭切は声をあげて笑う。またそれに膝丸は眉間の皺を深くした。
    「ああ、そんな怖い顔をしないでよ。しかし、人間だったらと考えてみると面白いね。人間だったとしても、僕たちは兄弟なのかな」
    「それはそうだろう」
     なぜか即答する弟が面白くて、髭切はまた笑った。やり込められたことへの意趣返しがうまくいっていることに上機嫌になっていた。
    「わからないよ、僕たちに選べるものではないだろうしね。でもどうだろう、人間だったら——人間だったなら、自分の在り方を自分で決められるだろうか」
     何気ない思いつきだった。髭切はこの口をついた思いつきに入れ込んでしまって、膝丸が口許を強張らせたのに気がつかなかった。
    「人間でも生まれる場所は選べないから、役目を背負うこともあるだろうけど……でも人間は、その役目を放り出すことも一応できるからね。どうかな、僕たちがただの、何でもない人間だったら——」
    「やめてくれ、兄者」
     膝丸の声が低く、固いものであることに気付いて、髭切は話すのをやめた。膝丸は目を怒らせて髭切を見ていて、それでやっと自分の言葉に弟が傷ついていることを知った。
    「冗談だよ」
    「冗談でも胸が悪くなる」
     にべもない返事に謝ろうとしたとき、一期一振が現れて出陣の時間を知らせてくれた。膝丸はその声を聞き終える前に、髭切に背を向けるとそのまま戦支度をしにいった。兄にそっけない膝丸の姿に、一期一振はわけが分からないといった顔で髭切の顔と膝丸の背中を見比べたが、髭切はそれに苦笑いしか返せなかった。
     これは長くかかるかもしれない、と思ったのは、部隊で戦場へと向かう間も膝丸が髭切と目を合わせようとしなかったからだ。ただの軽口のつもりが、弟を怒らせてしまったらしい。困ったな、と思いながらも戦場でわざわざ兄弟喧嘩の始末をつけるわけにもいかず、髭切は溜め息を吐いた。ふたりのひりついた空気を感じ取ったらしい鶴丸国永が目をまたたかせながら、ふたりを交互に見比べてくるのがいたたまれなくてしようがなかった。

    「けんかしていたそうですね? ふざけているのですか?」
     揃って中傷手前になって帰還した兄弟を迎えたのは、陸奥守の次に古参の今剣だった。審神者への報告に向かおうとした鶴丸が「どうも喧嘩しているみたいだぞ」とこぼしたのを聞きつけて、帰途も口を利かなかったふたりを手入れ部屋の前で正座させると、自分はその前に仁王立ちした。ふたりとも、自分の内心が穏やかでなかった自覚があったから、目をつり上げる今剣の説教を大人しく聞くことしかできない。
    「あなたたちは、だいじなせんりょくなんですよ。きょうだいげんかはけっこうですが、ぶたいにめいわくをかけないでください」
     正論に揃って体を縮ませるふたりの周りに野次馬が集まっていた。今剣の後ろに、すまん、とでも言うふうに手を合わせて兄弟を拝む鶴丸、その隣には兄弟の珍しい姿に笑いが抑えきれないらしい岩融と陸奥守、和泉守が並んでいる。その笑い声に今剣が「うるさいですよ!」と一喝すると、なぜかその近くにいた五虎退が肩を震わせた。すると、意図しない流れ弾を第三者に浴びせてしまったことに、今剣の怒りは途切れてしまったらしい。五虎退に「あなたのことじゃないですよ」と優しく言うと、今度は呆れ顔でふたりに向き直った。
    「ていれふだはつかわせませんから、ぞんぶんにはなしあってください」
     ていれじかんもおなじなんて、ほんとうになかのいいきょうだいですね、という捨て台詞を背中に浴びせられながら、髭切と膝丸は手入れ部屋に放り込まれた。戸の外で野次馬を散らす今剣の声を聞きながら、髭切は隣の膝丸を横目で窺う。すると膝丸も同じように髭切を窺っていて、ふたりは目を合わせると、よく似た苦笑いを浮かべた。
    「すまなかった」
    「いや、僕こそすまなかったね」
     向き合ってしまえば素直になるより他なかった。ふたりとも、言葉の綾から意固地になったことを恥ずかしく思っていた。
    「僕はお前と兄弟であることを辞めたいわけじゃないんだよ」
    「わかっている。俺に堪え性がなかった」
    「僕も言葉が足りなかったね」
    「お互い様だな」
     笑い合ってしまえばもう大丈夫だったから、ふたりは各々戦支度を解いた。手入れ時間はちょうど朝までだから、明日も出陣があるだろう。早く寝てしまった方がいい。そう考えて、手入れ部屋に用意された寝床に入ろうと、髭切が膝をついて布団をめくると、まったく同じように膝丸も布団をめくった。この動作もぴったり合ったことにふたりはまた顔を見合わせると、小さく笑った。こうしていちいち同じ行動をとる瞬間が合ってしまうことがおかしかった。
    「魂の遍在により、いつか、どこかに人間の俺たちがいるのだとしたら」
     一通り笑うと、膝丸はいつもの穏やかな声色で話し始めた。髭切はそれに耳を傾ける。
    「そうだとしたら、役目を負わぬ俺たちもいるだろう。ひょっとしたら、俺たちが兄弟ではないことすらあるのかもしれぬ。しかし、兄弟であってもなくとも、俺は結局あなたを慕うだろう。どの俺であっても、俺という魂を持っているのだから」
     細められた目許の優しいのに、髭切の頬も緩んだ。膝丸は髭切を想っている。それを噛み締めるとき、言葉はいつもすぐには出てきてくれない。
    「結局はそれだけの話だ。俺はどこに在ってもあなたを慕ってしまう。だから、何かが変わっても、何も変わらない」
    「——そうだね、僕たちはそういうものだ」
     やっとそれだけ言うと、髭切は膝丸の手を取った。自分の手とよく似た弟の手を両手で包み込むように乗せると、膝丸が目を丸くした。
    「僕も、いつでもお前を想っているだろう。それはずっと変わらない」
     膝丸は顔を赤くして視線を逸らした。しかし、髭切の手を軽く握り返したから、髭切はそれを返事代わりに受け取って微笑んだ。
    「さあ、大人しく手入れを受けようか」
    「そうだな、明日も演練だろう」
    「だろうね」
     おやすみ、と言い合ってふたりはそれぞれの寝床に入った。いつの間にか野次馬も皆、各々の持ち場に帰ったらしい。静かになった外に耳をすませると、花を散らす風が微かに葉擦れの音を立てるのが聞こえた。明日も変わらず、今日と同じ景色が待っているだろう。目蓋に散る花びらを描きながら、髭切は眠りに体を委ねた。

     ふと目が覚めて、髭切は天井をぼうっと見つめた。何度かまばたきを繰り返しながらじっとしていると、その暗さに今が夜半であることが知れて、顔を倒して膝丸の方を向いた。
     膝丸の横顔は天井を静かに見ていた。戸からわずかに漏れる明かりがその輪郭を描き出していて、その鼻梁、唇、顎の線を視線で辿るうち、どうにもやりきれなくなって、髭切は身を起こした。
     まだ手入れが終わっていないせいで軋む体に顔を強張らせながら、髭切は膝丸ににじり寄る。その間も膝丸の体は微動だにせず、それを見るほど胸の内が騒いで、早く膝丸に触れたかった。
     眠る膝丸の上体に覆い被さるように肩のそばに両方の手をついて、髭切はじっとその顔を見つめる。いつも右目にかかっている髪は重力に従って流れ落ち、わずかな明かりでも、その睫毛が震えもしないほど膝丸が深く眠っているのがわかった。その睫毛が影をつくる頬は、薄い膜の下に水分をたたえているから、滑らかに光を返していたが、緩く閉じられただけの唇は少し乾いている。紛れもなく、生きている体だった。この静かな眠りに、傷ついた体も元に戻る。散ってしまった庭の花が、朝にはまた元の花をつけているように。
     人間だったなら、と考えて髭切は息を飲む。人間だったら、自分たちはその短い命をどう生きるだろう。永遠の春を赦されない身は、何を選ぼうとするだろう。役目を負わない人生なら、どうやって道筋をつけるのか。役目を負う人生なら、その役目を捨ててしまいたいと思うだろうか? 髭切は、かつての主やその周りの人々を思い出すと、その役目を放り出すことはとても想像できなかった。役目は時に重く人間たちの肩にのしかかっていたが、それでも役目を全うする人間はいる。その苦しみを慮りこそすれ、うまく言葉にすることはできない。
     しかし、役目から逃れることもまた苦しいのかもしれないと考えると、たまらなく胸が痛むのを感じた。もし、この膝丸と兄弟であることを赦されないなら。この弟が、自分のそばにいなかったなら。それこそどうしようもなく苦しいのではないか、と思いながら髭切は右手で膝丸の頬に触れる。その頬が温かくて、滑らかでありながら確かな密度をもって髭切の肌に触れていることにどうしようもなく安心すると、胸中に緩やかな痛みを伴って温かいものが満ちていった。膝丸の小さな寝息を聞きながら、髭切はその滑らかな頬に自分の頬を寄せる。この弟を想う苦しみはいつだって、限りなく押し寄せて髭切の足許を浸していったが、今このときだけは、この肌に触れる温もりがすべてだった。

    終わりなき夜に辿りつく



     幼い頃、兄が本を読む姿を見るのが好きだった。微笑に慣れた顔が穏やかな表情で本に目を落とす姿は静謐で、その佇まいに弟であっても見とれてしまうことがあった。きっとあのときには既に、髭切は膝丸にとって欠かせない人となっていたのだろう。背丈が伸びきった今でも、自分の読み終えた文庫本をかつてと同じように読みふける兄の姿に、膝丸の胸の内には静かで清らかなものが満ちる。
     少年の頃、兄が読んでいたのは何だっただろうか。そういう本やおもちゃの類は、ほとんどふたりで共有してきたのに、何が気に入りだったのかはすぐ思い出せなかった。代わりに思い知るのは、そうした思い出が遠くなってしまったことだ。かつて自分たちと共にあったものは、もうずっと遠くに去り、再び手にすることは叶わなかった。こうしたありふれた感傷は、夜の静けさに紛れ込んで膝丸の脚を掴む。この甘い郷愁を膝丸は振り払うことができず、いつも甘受するしかない。
     本を読み終えたらしい兄は、手の中の文庫本を閉じると、深く長い息を吐いた。座卓を挟んだ反対側から、その嘆息が終わるのを見計らって膝丸は声をかける。
    「茶でも飲むか」
    「お願いするよ」
     目が疲れたのだろう、まばたきを繰り返しながら髭切は笑った。それに膝丸は立ち上がって、湯の用意をする。秋口に差し掛かって、夜は冷えるようになったから熱い茶の方がいいだろう。ふたりだけで迎える初めての秋に、膝丸は夜が長くなっていくのを確かめながら毎日を過ごした。
    「ほうじ茶だ。熱いぞ」
    「ありがとう」
    「岩融が分けてくれた茶葉でな、美味しいと思うぞ」
     指の付け根まで長袖で覆った髭切は、両手で掴んだ湯飲みを覗き込みながら、ふうん、とだけ応えた。膝丸も自分の湯飲みからゆらゆらと白い湯気の立つのを見ながら、腰を下ろした。
    「その本はどうだった」
     兄が何を言うか分かっている気がしても、聞かずにはいられない。髭切は膝丸をちらりと一瞥したあと、また湯飲みに目を戻した。
    「面白かったよ。でも、やはり物悲しいね」
    「そうだな」
     窓の外からは虫の音と、通り過ぎていく車の音が小さく聞こえてくる。加えて、棚の上に置かれた懐中時計が丁寧に時を刻んでいる音が慎ましく室内に流れていた。ふたりはそれを聞きながら、向き合って座っている。髭切は湯飲みに口をつけると一口、茶を飲んだ。
    「——もし、魂が遍在するのなら」
     膝丸は同じように口をつけようとしていた湯飲みを持つ手を止めて、髭切の顔を見た。髭切はやはり、湯飲みに目を落としていた。
    「僕たちじゃない僕たちもいるだろうね」
    「……そうだな」
     兄の言葉に、膝丸は短く返す。本になぞらえた言葉とわかっていても、なぜだか落ち着かない響きを持っていた。膝丸は動揺を髭切に悟らせないようにするために、茶をゆっくり口に含み、飲み込む。
    「僕たちじゃない僕たちも、兄弟なのかな」
     しかし、髭切が常と変わらぬ柔らかい声でそう言うのを聞くと、膝丸は自分の口許が強張るのがわかった。恐る恐る兄の顔を窺うと、兄はやはり、いつもと変わらない微笑を浮かべ膝丸を見ていた。
    「……兄弟でない俺たちもいるのかもしれないが、俺には想像できん」
    「そうだね、僕もそう思うよ」
     その微笑を見ていると落ち着かなくて、膝丸は湯飲みを置くと顔を伏せた。故郷を離れ、こうしてふたりだけで夜を過ごすようになってからずっと兄に聞きたかったことがあり、それを訊ねる時機が巡ってきたことを理解していた。しかし、それでも、兄の顔を見て聞く勇気が膝丸にはなかった。
    「——あなたは、俺と兄弟ではなかったら、と思ったことがないか」
     努めて低い声を出して、ゆっくりと言おうとしたが、やはり声が震えた。
    「どういうことだい?」
     訊ね返す兄の声が、幼い頃に自分をあやしたときと同じ響きを持っていることに気付いて、膝丸は泣き出したくなった。遠くに置き去ってきたものを思い知る哀しみは、この兄を思うとき、ふいにやって来て膝丸を困惑させる。そうして、この兄がこうして自分の目の前にいるのは希有なことなのだと、殴られるような重さで痛感するのだ。
     本来なら、兄はこうして自分と隠れるように暮らすのではなく、ふたりが育った家で、誰の赦しも必要としない正しさに則って暮らしているはずだった。このふたり暮らしの中で兄を見る度、兄が持っているはずだったものを自分が奪ってしまったのだと思い知って、膝丸はかつてあったもの、遠くに置いてきてしまったものを意識せずにはいられなかった。自分が兄を得るために兄から奪っているという事実は、膝丸を哀しませた。この街での暮らしの中で膝丸の足許に擦り寄る哀しみの源は、必ずと言っていいほど、この兄だった。
    「兄弟でなかったのなら、家を離れることもなかったし、明日のことを不安に思わずに済んだ。こうして隠れるように暮らすこともなかったのだ。いや、出会うことも——」
     言いかけて、芝居じみた台詞だと気付いて苦い自嘲が襲ってきた。口に出してみれば、まるで三文芝居の筋書きだった。赦されぬ恋を諦めきれず、逃げてきたのだ。兄の手を引いて、故郷から遠く離れたここまで。
    「お前は、僕と兄弟でなかったならよかったと思うのかい?」
     やはり優しい声で、髭切は訊ねた。その優しさは、答えを分かりきっているからこその優しさで、膝丸はぎゅっと目を閉じた。
    「いいや、あなたと兄弟でないことなど想像できない。だが、しかし」
    「うん」
    「時々、どうしようもなく苦しくなる。もちろん、あなたといることを選んだことに後悔はない。しかし、それでも——」
     続きは口に出すことはできなかった。自分たちがただのいい兄弟でいられたなら、こうして夜の下で喉が震えるのを堪えることもなかったのだろうかと思って、膝丸はぐっと自分の手を握り締めた。故郷で兄への道ならぬ想いを覆い隠していた頃と変わらない、もしくはそれ以上の苦しみが、膝丸の喉を焼いていくようだった。
     黙り込んでしまった膝丸の肩に触れようと、髭切は思わず手を伸ばそうとした。しかし、机から浮かせたその手を止めると、もう一度静かに下ろした。
    「——膝丸、僕はね、お前と海に行ったときのことをこうした夜に思い出すんだ」
     兄が語り始めたのに、膝丸は思わず顔を上げた。さっきは膝丸を穏やかに見つめていた目は、今は湯気を立てなくなった湯飲みに注がれていた。
    「お前が連れていってくれた、あの夜の海だよ。暗くて、何も見えなかった——お前以外は。僕はあのとき、結局僕が選ぶのはお前なんだと思い知ったよ」
     眉根を寄せる兄は膝丸にとっても珍しいもので、目を離すことができなかった。髭切は一言一言、絞り出すように、しかし迷いなく話し続けた。
    「たとえばの話だ。あの夜、お前が僕を海に誘わなかったり、誘われても僕が応じなかったり、それとも普通に帰ってしまったりしたなら、僕とお前はそれまでと同じように兄弟らしく、正しく暮らしただろう。でも、僕がそうしようとしたのも、結局お前を正しいままにしておきたかったからなんだよ。お前をこうして、苦しませたくなかったから」
     髭切はようやく、顔を上げて膝丸を見た。微笑を取り払った苦しげな顔から目を逸らせず、膝丸はただ兄の声が震えながら語りかけるのを聞いていた。
    「きっと、それだけなんだ。あの家で暮らし続けるにしろ、こうしてここで暮らすにしろ……どう暮らすにしても、僕がお前を選んだ結果だと思うんだ。どういう形であったとしても、僕が辿りつくのは、結局お前なんだよ」
     痛々しく震える声で、それでも目を逸らさずに語りかけてくる髭切に我慢できなくなって、膝丸は座っていた肘掛け椅子から腰を浮かせると、髭切に口付けた。軽く触れて、ゆっくり唇を離すと、ふたりは揃いの目で互いをじっと見つめ合った。
     このときも、時計の秒針はたゆまず、律儀に時を刻んでいた。同じ道筋をずっと巡り続けているその針が、何度目かも知り得ぬ瞬間を刻んだとき、膝丸を映していた髭切の目は優しく、しかし堪えきれないというように細められた。
    「僕は、お前がいればいいんだ」
    「ああ、俺もだ。俺も、あなたがいればいい」
    「そうさ、だから、お前がいないと駄目だ」
     そうして目を伏せた髭切の頬に涙がこぼれ落ちたのを、膝丸は自分の唇で拭った。

    「俺は、鶯丸にあなたとのことを相談していた」
     気怠い空気の底に体を沈めていると、膝丸が思い出したようにそう言うので、髭切は枕に肘をついて、その先の手に頭を乗せた。隣で仰向けに寝転がる膝丸は天井を見上げたまま、何度かまばたきした。
    「ということは、僕とお前の事情は彼に筒抜けかい?」
    「いや、あなたの名前は伏せていた。が、気付いているやもしれぬ。鶯丸だからな」
     こういうときに、自分以外の者の名前を聞くのはあまりよい気分ではなかったが、それに気付かれないように髭切は微笑を浮かべる。しかし、膝丸は天井から目を放さなかったから、大した意味はなかった。
    「最後に会ったとき、俺は彼に、君に話すことで懺悔したかったのかもしれない、と言ったのだが、彼はそれに驚いていた」
    「おや、珍しいね」
    「ああ。『君が赦しを乞いたいのは俺ではないだろう』と言われてしまった」
     膝丸が喉を鳴らして笑うのを、髭切はじっと見ていた。こうして屈託なく笑うのを見るのは久しぶりだった。すると膝丸がやっと顔を髭切に向けたので、顔に流れ落ちる髪を耳にかけてやる。夜気のためか、冷たい髪だった。
    「俺は、ずっとあなたに赦されたかった」
     その手を握って、膝丸が髭切に笑いかけた。泣き出しそうなときの顔にも似た、苦しい笑いだった。
    「あなたにこうした想いを抱いていることも、ここまで連れてきてしまったことも、ずっと赦されたかった。俺こそ、あなたから正しさを奪っているのだ。それでも俺にはあなた以上に欲しいものはなかった」
     昔からよく知っている弟の生真面目な質を、髭切はまた改めて知った気分になった。そして、結局自分たちは互いの目の前に向けて帰結するしかないのだと思うと、やはりどうしようもなく嬉しくて、物悲しかった。
    「僕は、お前のやることなら何だって赦すつもりなんだけど」
    「それもどうなのだ」
     危ない気がするぞ、と唇を尖らせる膝丸に笑って、髭切は覆い被さるように体を移動させる。膝丸はそれをじっと見守ったあと、自分の顔の横に肘をついた髭切の髪を撫でた。
    「——僕もひとつ、謝ろうかな」
     そう言うのに眉根を寄せた膝丸から目を逸らして、髭切は思案する。結局自分たちには自分たちしかないのだ。それを分かっていても、胸に何かが淀むことがある。これは恐らく、以前のように黙ったまま見過ごすことはできなくなるだろう。ふたりで暮らしていくためには、話して、触れ合って、確かめるのが大切になる。そう思って、髭切は膝丸に自分の内心を今から少し、明かそうとしている。
    「仕方ないし、当たり前なんだけど、僕の知らないところでお前の知り合いが増えたり、その人と懇意にしているというのが、なんというか、ね」
     我ながら歯切れの悪い言い方になった、と思ったが、自分をよく知る弟には十分だったらしい。膝丸はおかしそうに声をあげて笑うと、髭切の背中に腕を回して引き寄せた。
    「笑い過ぎじゃないか」
    「すまない、しかしな」
    「もういいよ、黙って」
     膝丸の首筋に顔を埋めると、笑いが収まらないのか、小刻みに震えていて、それが少し気に入らなくて髭切はもう一度顔を起こした。憮然とした顔で無言の抗議をする髭切に膝丸は、すまない、ともう一度謝ると、何度か深く呼吸した。
    「一応言っておくが、あなたが心配しているようなことは何もないぞ」
    「分かってるよ」
    「言うのが大事だと思ってな」
     膝丸がそれだけ付け加えると、またくつくつと喉を鳴らして笑いを噛み殺そうとするので、髭切は呆れてしまって、自分の口許にも笑いがこみ上げてくるのが分かった。
    「分かったから、もう黙ってよ」
     ふたりは密やかに、笑い声を抑えながら肌を合わせた。直に触れる肌も温度もやはり代えのきかないもので、夜は静かにふたりがそれを確かめ合うのを赦してくれた。


    実存の三分の二


     懐中時計の文字盤に目を落として、膝丸は兄の手入れが終わる時刻が迫っているのを確かめた。今日はふたり揃っての非番で、碁を打とうと前々から約束していたのだが、兄が昨日の出陣で負傷したことにより、膝丸はこの日の大半をひとりで過ごすこととなった。
     ただし、大半とは言ってもそれは時計をたよりに確かめられたものだった。現在の本丸には夏の夜の帳が一日中下りている。審神者の気紛れで、ここ最近は夏の夜のまま時を留めているとのことだった。もう何日も、朝も昼も暗い空に星が瞬き、その下を蛍の光が彷徨いながら明滅している。
     この留められたままの時に初めて対峙したとき、髭切と膝丸はその面妖さに揃って首を傾げた。この本丸においては、時を止める魔術を審神者は赦されているのだという。刀たちはそれに首を傾げたり目を輝かせたりしながら、各々この箱庭に赦された時間を楽しんでいた。
     髭切が手入れ部屋を出たら、まずは食事を済ませねばならないだろう。そのあとであれば一局くらいは打つ時間があるかもしれない、と懐中時計を見つめながら膝丸は思案する。ここに住む刀たちほどではないにしろ、この時計も長い時間を過ごしてきたらしい。少し煤けた、角の取れてしまった小さな時計は膝丸の手によく馴染み、律儀に時を刻んでいる。兄と暮らす部屋の前で、蛍の行き交う庭に体を向けながらも視線は手の中に落として、膝丸はずっと同じところを廻り続ける針を見ていた。
    「おっと、そいつは初めてお目にかかるな」
     肩口からそんな言葉が聞こえてきて、膝丸は肩を揺らすと、視線だけをそちらに動かした。気配を消して近づいてきた輩の声は感心が滲んでいるだけで、こちらに悪意を向けてはいなかった。他を驚かせるために染みついてしまった動きなのだろう。同じ部隊になることも多い太刀の、その性格を思って、膝丸はつい溜め息をこぼした。
    「なんだ、溜め息を吐くことはないだろう」
     満足のいく驚きを見せなかっただけでなく、言外に呆れていることを表した膝丸に、鶴丸国永は唇を尖らせた。そのまま隣に腰を下ろす鶴丸を、膝丸は横目で窺った。そんなににらむなよ、と軽口を叩きながら、鶴丸は胡座をかいた片膝を立て、そこに肘を乗せると頬杖をついた。
    「その時計、俺は初めて見たが、君はいつからそれを持っているんだ?」
     中々いいものに見えるが、と言いながら、鶴丸は膝丸の手の中を指差した。時計は尚も膝丸の手の中で針を巡らせていたが、庭からの虫の音に隠れて、その音が響くことはなかった。時計は密やかに、時を刻んでいることを微かな振動で膝丸の手にだけ伝えた。
    「兄者が、俺の特の祝いにこれを下さったのだ」
     膝丸は最近、二回目の特がついた。膝丸より早くに二回目の特のついた髭切はそれを喜んでくれて、万屋で見つけたというこの時計を贈ってくれたのだ。髭切はもうひとつ特がつくと報告されているから、そのときには膝丸も何かを贈ろうと考えていた。
    「君たちは仲のいい兄弟だな」
     呆れ混じりにも聞こえる声色で鶴丸がそう言うのを膝丸は、そうだとも、の一言で受け流した。膝丸にとっては当たり前のことであり、それ以上に言うことはなかった。鶴丸はその素っ気ない態度に気を悪くする素振りも見せず、話し続ける。
    「鶯丸が言っていたんだが、君たち、いい碁盤を持っているんだってな。時間があるときには、是非俺とも勝負してくれないか」
    「時間が合えばな」
     髭切と膝丸は顕現したばかりの頃に、給金をどう使うかを持て余してふたりで考えに考えた挙句、碁盤を購入した。兄と使うものであることを念頭に置いて膝丸が見立てた碁盤は、審神者の生きる時代にあっては手に入れるのが難しくなっているような代物だったらしい。非番が合ったとき、その盤を間に挟んで向き合うのが兄弟の習慣だった。
    「歌仙や蜂須賀も興味を持っていたぞ。あいつらは目利きだからな、鶯丸がほめたものを拝んでみたいのさ」
    「そうか。言ってくれれば出すのだがな」
     膝丸の軽い返答に、鶴丸は大げさなほど目を丸くした。膝丸にとってはその反応の方が訝しく、ついにらむように目を細めた。
    「ああ、すまんすまん。君は兄としか秘蔵の碁盤を共有しないのかと思っていた」
    「秘蔵というほどではない。確かに俺としては、兄者と打てればそれでいいし、誰彼かまわず貸そうという気はないが、そこまで勿体ぶるものでもなかろう」
    「なるほど。では是非、俺にも見せてくれ。今度、時間のあるときに」
    「ああ」
     鶴丸は、膝丸が時計を手に持ったまま離さない理由をわかっていたらしい。ちょっとした気遣いに、膝丸は少し口許を緩めた。時計の針は、兄が手入れを終えるまでもう少し時間があることを示していた。
    「しかし、毎日いつでも夜というのも面妖なものだな。俺たちは平気だが、主は体を壊したりはしないのか」
    「ああ、主が言うには夏の日差しの方がつらいんだと」
    「そういうものか」
    「そうか、君は知らなかったな。去年は俺や光坊も日焼けで酷い目にあった」
     鶴丸は視線を外し、目を眇める皮肉な表情で笑ってみせた。
    「夜の方が涼しいし、過ごしやすくはある。だが、毎日こうも同じ景色だと、確かに飽きてくるよな。歌仙なんて、君には風流が分からないのか、と毎日主に小言を言ってるぞ」
    「言いそうだな」
     想像して膝丸も笑った。この本丸の初期刀である彼は、移ろうものは美しいと常々口に出していた。
    「俺も、歌仙の言うことは分からなくもないね。移ろうものには驚きがある。夏が終わっていく様なんて、どんなに言葉を尽くしても本当には言い表せないものさ」
     膝丸は返事をする代わりに目を伏せた。鶴丸の言わんとすることはよく分かっていた。時は得てして移ろうものであり、自分たちはいつもその中にあった。
    「しかし、時を留めているのは何もこの本丸だけではないらしい。演練で他の本丸の俺と話したことがあるんだが、一年中春のところや、ずっと午後のままのところにいる奴もいたな」
    「そして、すべての君はそれに飽いているわけか」
    「ご名答」
     鶴丸は少年のように楽しげに笑った。自分と同じく永い時を生きるこの太刀の、驚きを求める心根は人間の子どもにも似ていて、膝丸はそれが嫌いではなかった。
    「陸奥守なんかは、時はそもそも流れないと言っていたな。人間たちには、そう考える者がいるんだと。言われてみれば、当たり前の話だ。そもそも時には流れるような形がない。見えず、触れられもしないのだから」
     膝丸をちらっと見て、また片目だけを細めた鶴丸は、すぐに膝丸の懐中時計に視線を落とし、その小さな文字盤を指さした。
    「こいつだって、人間が時を捉えようとして作ったものさ。不可視のものを、自分たちの物差しでどうにか可視化して、それを分かったつもりでいる。しかし、こいつは時を知る道具ではあるが、時そのものではない」
     時そのものは何者にも見えず触れられない、と鶴丸は嘆息した。金色の目に被さる白い睫毛が、その嘆息に合わせて震えた。
    「時は積み重なる。だがこの言い方も、本当のものじゃあない。実際には時には形がないから、積み重なることはない。人間がそう理解するだけさ——言葉というのは、厄介な代物だ。物事を捉えるのに大層便利だが、言葉は言葉が示す物事そのものでは決してない」
    「——名前もそうだと?」
     膝丸が少し意地の悪い気持ちで訊ねるのに、鶴丸は一瞬虚を突かれた顔をしたあと、やはり目を眇めて笑った。
    「ああ、そうさ。名前は決して、その名を持つものそれ自体にはなり得ない。ただ、それが存在することを知るための符丁なんだよ」
     そいつと同じさ、と鶴丸は今度は視線だけで膝丸の時計を示した。時計はやはり、この終わりの来ない夜にあっても、律儀に時を進めていた。もうそろそろ、髭切の手入れが終わる時間だった。
    「その通りだ、俺自身まで忘れられては困る。どうにか名前くらいは覚えておいてほしいものだ」
    「そうだな、すまん」
    「なに、君が謝ることではない」
     言葉は、どれだけ尽くしても結局のところ比喩でしかないと、膝丸もよくわかっていた。この長い夜に飽いている鶴丸の心だって、鶴丸自身にもそっくり言い表すことはできないだろう。言葉は欠かせないものでありながら、どうあがいても不完全だった。
    「言葉で表せないものは、どうしたらいいのだろうな」
     膝丸が呟いたのを聞いて、鶴丸は今度は眉を下げて、優しく両目を細めた。
    「そりゃあ、あれだ。“あとは沈黙”ってやつさ」
     膝丸がその文句に眉を顰めると、鶴丸は器用に片眉だけ持ち上げて、膝丸に笑いかけた。
    「書庫で読んだ本にあった文句でな。他に、“語り得ぬものについては沈黙せねばならない”なんていうものもあったが、何という本だったか……分かったら君にまた伝えよう」
    「楽しみにしておこう」
     膝丸は、鶴丸の妙な律儀さに笑った。そうして簡単に挨拶して、兄の許へ向かおうと立ち上がった。鶴丸はその膝丸の背中を見送ったあと、ふと表情を失して、未だに冷たい星の光を貼り付けた夜の帳を見上げた。星々の光は、毎日同じように、そこにあった。その光の瞬くのに合わせて、湿った夜気が微かに頬を撫でていったのを感じると、鶴丸の唇からは何度目のものかもわからない溜め息が漏れた。

    「ふうん、彼もいろんなことを知っているね」
    「そうだな。鶴丸は退屈を嫌うから、何かを知ることにも戸惑いがないのだろう」
     予定通り手入れを終えた兄と共に食事を取り、ふたりで暮らす部屋に帰ってきたときには鶴丸の姿はなくなっていた。膝丸は懐に入れていた懐中時計を、文机に置かれていた台座に戻した。この台座も、髭切が時計と共に贈ってくれたものだった。ふたつは離してでも存在できたが、やはり共に置かれているときの方が膝丸の目には落ち着いて映った。
    「碁でもやるか?」
     兄がいつものように頷くと思って声をかけたのだが、髭切は少し首を傾げると緩く横に振った。
    「今夜は碁より、お前と話したいな」
     兄の珍しい申し出に膝丸は目を丸くしたが、断る理由がなかった。髭切が求めるものに応えるのが、膝丸の望みだった。
    「では、何の話をするのだ?」
     髭切と向かい合うように、膝丸は胡座をかいた。先に座り込んでいた髭切も胡座をかいていたが、後ろ手に体を支えると、またほんの少し首を傾げた。既に寝間着に着替えた兄の首の、その白さや、大きな筋によってできる影には目をやらないようにしながらも、膝丸は兄から目を背けなかった。
    「確か、星の神様が碁を打っている話があったよね」
     窓の外に視線を移す兄がどこか心あらずであると、膝丸は気付いていた。今日の髭切は膝丸をちらと窺うことはしても、まっすぐに見据えようとしなかった。膝丸は、その原因を探るように兄の顔をじっと見つめた。星空を見上げる横顔の、濃い睫毛が震えているように見えた。
    「北斗と南斗の話だな。若くして死ぬと定められた人間が、碁を打つ北斗と南斗の神をもてなして、寿命を延ばしてもらう話だ」
    「そう、それだ。いやぁ、星の神様はすごいね。人間の寿命まで変えてしまうなんて」
    「まったくだ」
     ふたりは笑い合ったが、髭切は窓の外に視線を向けたままだった。その横顔を見ながら、膝丸は不安になってきていた。兄が何かを思い悩んでいるのは分かったが、それをどう聞けばいいのか分からない。
    「北斗と南斗の碁は、どちらが勝ったのかな」
    「南斗だ。死を司る北斗と、生を司る南斗は、人間が酒と料理を出すのにも気付かず碁に没頭していたが、南斗が勝って、そこでやっと人間に気付く。人間がいることに怒る北斗をなだめて、南斗がその者の寿命を延ばしてやったのだ」
    「ああ、そうだったっけ。お前はよく覚えているね」
    「ここに来たばかりのとき、今剣が書庫で見せてくれた本にその話があってな。それで覚えているのだ」
     髭切は、ふうん、と気のない返事を寄越すと、ようやく星から目を下ろした。目を伏せる兄の顔が物思いに沈んでいるのに、膝丸は見とれた。
    「手入れ部屋にね、三条の大太刀がいたんだ」
    「石切丸か」
    「そう、そんな名前だった。彼がね、僕たちがいろんな本丸に現れるのは分祀みたいなものだろうと言っていたんだ」
    「なるほどな」
     兄の突然の話に驚きながらも、膝丸は頷いた。
    「分祀というのも不思議なものだよね。いつ、どこで祀られても神様は本物だ。石切丸はそれを、星の光のようなものだって言ってたよ」
     髭切はようやく伏せていた目を上げて、膝丸に微笑みかけた。自分と同じ色の目が、暗い室内ではわずかな灯りに、星のように淡い赤色で輝いていた。
    「昼間とか、季節とかはここでは考えない。夜なら、星の光はどこでも届くだろう。僕たちもそれと同じだ。星そのものは僕たちの魂で、星の光がここにいる僕たちだ」
     燃えるような色で、髭切の目がじっと膝丸を窺っていた。いつもならそれに息を詰まらせる膝丸は、今日は静かな胸の内で兄の視線を受け入れた。兄の瞳が揺れていることに気付いたからだった。
    「知っているかい? いや、お前はきっと知っているし、僕より覚えているだろう。同じ星にも違う名前がつくし、違う物語が語られることがある。名前は、言葉は、頼りないものだね」
     髭切は言いながら、膝丸の方へにじり寄った。兄の手が自分の脚に触れ、肩を掴み、頬を確かめるように撫でるのも、膝丸はただ静かに受け入れた。
    「ねぇ、僕が斬った鬼は何だったかな。宇多森の牛鬼だったか、いいや、酒呑童子の許に行ったんだっけ。それで、名前が変わったんだった……でも、名前が変わったことで何が変わるんだ? 僕の、何が変わったというんだろう」
     笑顔を貼り付けたまま瞳を震わせる髭切をじっと見つめながら、膝丸はその背中に腕を回した。髭切はそれに逆らわず、膝丸の背中にすがりついた。服越しでも、兄の体は温かかった。
    「星はどこからでも見えるけれど、誰からも触れられないままだ。その星が何物なのか、誰が本当に分かってくれるだろう」
     背中に髭切の爪が食い込んで、確かな痛みがあった。膝丸は背中を引き攣らせるその痛みに、こうして体を得たことを思い知って感謝したくなった。言葉はいくら尽くしても及ばないだろうが、こうして体温や痛みがあることを知れば、確かに兄がここに存在することを知れるのだ。
    「あなたは俺の兄者だ」
     膝丸が囁くような静かな声で言うと、髭切の固い笑顔が解けた。そうしてゆっくり呼吸しようとする兄に、膝丸は笑いかけてみせる。
    「案ずるな、兄者。俺があなたのことを覚えている。髭切と膝丸は、ふたつでひとつだ。だから、大丈夫だ」
     そうして髭切の頬を撫でると、目を見開いて膝丸を見つめていた髭切は、ぎゅっと目を閉じて膝丸の首筋に顔を埋めた。隙間を埋めるように体を寄せる兄を抱き締めながら、膝丸はその柔らかい髪を撫でる。
    「星は引き合うという。俺たちの魂が星だというなら、きっと俺たちは互いを離さないまま巡っているだろう。俺たちは、そういうものだ。だから、あなたがあなたでなくなることは、俺が赦さない。この膝丸が、あなたが何物かを知っているのだ」
    「ああ、そうだ、そうだね……ねぇ、お前」
    「膝丸だ、兄者」
    「そう、そうだ、膝丸」
     髭切は一度顔を上げると、今度は膝丸の頭を抱き抱えるように、自分の首筋に引き寄せた。膝丸は、髭切の首から自分の頬に熱が移るのを感じながら、兄の背中をなだめるように撫でた。
    「ねぇ膝丸、お前は決して僕を赦さないでよ」
    「ああ、当然だ」
     言葉の不確かさを、ふたりは知っていた。だから言葉を交わしながら、その虚しさが胸の内を浸していくのを感じていた。それでも今は、触れられる熱があり、こうして互いの呼吸がわかるくらいそばにいることができたから、あとは沈黙だけを分かち合った。


    世界の果てを見にいったとき


    「いやぁ、プラネタリウムっておもしろいんだね」
    「そうは言うが兄者、途中から寝ていなかったか?」
    「ありゃ、そうだったかな」
     声をあげて笑う兄に、これは誤魔化しているな、と思いながらも膝丸は深追いはしなかった。ずっと一緒に過ごしているからこそ、その辺の機微は分かっていたし、上機嫌な兄の横顔を見ていると、膝丸も嬉しかった。
    「しかし、日が落ちるのも早くなったね」
    「そうだな」
     いつか話したプラネタリウムにやって来たのは、髭切の仕事場にいるバイトの青年が前々から席を予約してあったのが急な都合で来られなくなったからだった。じっちゃんと行く予定だったんだけどさ、と青年は苦笑いしながら、ふたり分の席を髭切に譲ってくれた。
     秋の夜は来訪が早く、帰途につくために科学館の扉を抜けたときには夕焼けも終わる頃で、山際の赤から天頂の青まで、鮮やかでいて滑らかな階調を描いていた。しかしこの景色は一時で去り、あとは深い紺の夜がやって来る。髭切はその空を見上げながら、ほうっと息を吐いた。
    「大分冷えるようになってきたね」
    「ああ。そろそろ毛布も出した方がよさそうだな」
    「そうだね」
     他愛もない、ありふれた会話を交わしながら、ふたりは車に乗り込む。この科学館までやって来たときと同じように、運転席には膝丸が、助手席には髭切が座った。それがふたりにとって当たり前だった。
    「なんというか、久しぶりの遠出だったね」
    「そうだな。では帰ろう」
     科学館も閉館時間が近づいてきていた。扉から、手を繋いだ家族連れや小走りでどこかへ向かおうとする子どもたちが、駐車場へと出てくるのを視界の端に捉えながら、膝丸は車を出した。
     運転中には特に口をきくこともなく、車内は静かだった。それもふたりにはよくあることで、膝丸は特に気にせずハンドルを握っていたが、ふたりが暮らす家まであと三十分ほどの信号で車を停止させたとき、髭切が口を開いた。
    「ねぇ、弟」
    「なんだ、兄者」
     その声が妙に改まった低さであることを警戒しながら、膝丸は応えた。
    「聞いてほしいお願いがあるんだけど」
    「ものによるな」
    「……そこは、いいぞって即答するところじゃないのかい?」
     助手席から顔を覗き込むように体を曲げる髭切をちらりと見て、膝丸は笑った。子どものようにむくれた顔をしてみせる兄が珍しかったからだ。
    「叶えられないものもあるかもしれぬだろう。俺はあなたに嘘は吐きたくない」
    「用心深いね、お前は」
    「昔から突拍子もないことを言い出す兄がいるのでな」
    「それは仕方ないね」
     今度はふたりとも笑った。きっとこの会話も、この街ではふたりにしか本当にはわからないことで、それを思うと笑わずにはいられなかった。
    「今回も突拍子のないお願いなんだけど、どうかな」
    「聞いてから判断しよう」
    「そうか、じゃあ」
     横目で窺った髭切の白い顔が、いつもの微笑とは違う華やかな、花のほころぶような笑顔になっていくのに、膝丸は息を飲んだ。髭切は膝丸と同じ目をきゅうっと細めて、願いを告げた。
    「今から海に行きたいんだ。お前と」

     海に辿りつくまで一時間ほどかかった。背の低い堤防が見えると、髭切は地図を表示させていた携帯電話を早々にしまった。その携帯電話に、自分と揃いでもらった小さな烏のストラップが揺れていたのを、膝丸はなぜだかくすぐったくなるような気持ちで見た。
     邪魔にならない場所を見繕って車を止めた。エンジンを止めると、兄が開けたドアから潮の匂いが流れ込んできて懐かしい気持ちになった。ふたりで家を出た日も、暗い夜の下に黒い海があるのを、その匂いと波音で知ったのだ。ただ、その日とは違い、髭切は膝丸を車内に残したまま堤防へと歩いていった。
     膝丸も兄のあとを追った。堤防に寄りかかる兄の隣に、同じようにもたれかけながら海を望むと、道に立つ側からは肘を置けるくらい低い堤防は、その逆にある海面からは随分高い位置にあり、真下を覗き込もうとすると目眩がしそうだった。夜の海はやはり黒く、テトラポットにぶつかる波が水音をたてていた。
     髭切は遠くを眺めていた。この暗さではどこまで海かわからないと思ったが、ずっと見つめていると微かに星の光が途切れる場所があるのがわかった。
    「なんとなく果てがわかるね」
    「ああ」
     夜風は冷たかった。膝丸はコートの首元を寄せて、その風を拒もうとしたが、髭切は寒さも感じないような顔で、ただじっと海を見ていた。
    「プラネタリウムで見た星はわかるかな」
    「どうだろうな。秋の星は目立つものが少ないと言っていただろう」
    「そうだったっけ?」
    「……やはり寝ていたな」
     じろりと隣を睨むと、髭切は声をあげて笑った。返事のないことに、寝ていたのだな、と確信すると膝丸も笑った。兄のことはよく知っていたから、怒るようなことでもなかった。
     髭切が堤防に両手を置いたまま、真っ直ぐ遠くを見ていた目を上げていくのを、膝丸は頬杖をつきながら見ていた。ある程度の高さまで視線を上げると、髭切はそこを見つめたまま何度か瞬きをして、ふとそのまま、膝丸の方を向いて笑いかけた。
    「ここもある意味、海の底だね」
     髭切の言葉に目を丸くした膝丸も、すぐその意味を理解して兄に微笑み返した。天には星の海があり、ふたりはその下にいるのだ。
    「ああ、そうだな」
    「ふふ、どこまで行っても、海の下には変わりないわけだ」
    「そうだな、どこまで行っても同じことだ」
     どこまで行っても辿りつく場所は同じなのだと、微笑む髭切の顔を見ながら膝丸は噛み締めていた。この兄が、幼い頃から膝丸の世界の中心であり、すべては兄を軸として巡っていた。しかし今となっては、この兄が世界の果てでもあった。膝丸が志向し、終着地としたいのは、この兄より他になかった。
    「いつでも、どこでも、俺の居場所はあなただ」
     膝丸の唇から滑り出た言葉に、髭切は目を細めた。その笑顔を見ていると、郷愁にも似た甘い痛みが喉元にせり上がってきて、膝丸は兄に泣きつきたくなった。髭切は弟の表情の変化に気付いていたが、それについては何も言わなかった。ずっと共に過ごしてきた弟のことだから、よく分かっていた。
    「そうさ、いつでも、どこでも、お前が僕の居場所を決めるんだよ。僕たちはふたりでいる他ないのだから」
     兄の言葉に頷きながら、膝丸は堤防に置かれたままの兄の手を握った。
     この兄を本当に理解できているのは自分だけなのだと、膝丸は確信していた。今、この夜の下で、髭切が伝えようとしたことを正しく理解できるのは、いつ、どこを探してもこの自分しかないのだと、そう思うと返事は言葉では追いつかず、手を握ることしかできなかった。それでも、髭切も膝丸の思うことを分かっているのだと膝丸は知っていた。その確信を証明するように、秋の夜に冷たくなった髭切の手はすぐに膝丸の手を握り返した。
    「いつでも、どこでも、僕たちはきっとこうだ——ほら、お前が言っていた、あの双子星みたいな」
    「連星だ」
    「そう、それだ。僕たちもきっと、互いが互いを引きつけてしまって、離せないのさ」
     ふたりは笑い合って、こうしてふたりでいるしかない自分たちを慰め合った。いつ、どこでも、互いしかないというのは、やはり哀しい渇きだった。互いから最善の正しさを、ありふれた幸せを奪い合って、それでも互いが欲しいと、互いを求めずにはいられない苦しみを分かち合えるのは、自分たちしかなかった。
    「ありがとう。海に連れてきてくれて」
    「いや、俺もここまで来れてよかった。兄者」
     小首を傾げて続きを促す髭切に、膝丸は自分の頬が緩むのがわかった。兄といる苦しみは時に膝丸の首を締め付けるが、兄といる歓びは、こうした些細な仕草にも膝丸の許へやって来て、胸を満たしてくれた。だから、膝丸の哀しみも歓びも、兄の形をしている。それを手放すなど、考えられなかった。
    「俺はやはり、あなたと共にいたい。だからずっと、あなたを離さない。あなたを赦さない俺を、どうか赦してくれ」
     髭切は、膝丸の言葉の意味するところをよく分かっていたから、泣き出しそうな顔で笑う弟によく似た顔で微笑み返すと、その体を抱き寄せた。

    連星の永い午後


     なんて長い午後だろう、と庭に目をやりながら、髭切は溜め息を吐いた。本丸の庭の木々は相変わらず青々とした葉をつけたまま、咲く花はなく、日差しはいつもと同じく穏やかで、風は爽やかに髪を揺らしていった。出陣までの時間、髭切はこうして自室から変わらぬ庭を眺めるのが習慣となっていた。
     依然として膝丸は現れなかった。顕現した日に五虎退が教えてくれた通り、演練に出ると別の自分がいることがあって、大抵その傍らには膝丸の姿があった。どの膝丸であっても、この髭切がひとりでいることに気付くと目を丸くする。そのあと、ばつの悪そうな顔をすることも少なくないから、髭切はそういう膝丸に優しく微笑みかけることにしている。お前が悪いのではないよ、と声をかける代わりに。
     この本丸にはいつまで経っても膝丸のやって来る気配はなく、髭切は庭に降り注ぐ午後の日差しが変わらないのを見るうちに、ここで過ごした時間を数えることを早々に辞めた。毎日の出陣から帰ってくる刀たち、特に藤四郎の短刀たちは髭切に会うと申し訳なさそうに眉を下げることがある。きっと五虎退から何か聞いているのだろう。髭切と同じ部隊になることの多い藤四郎の長兄も、髭切を気にかけてくれている。
     髭切はそうした気遣いを、こういう兄弟もいるのだな、という淡い驚きと共に受け取っている。髭切と膝丸の間にはなかった空気を、粟田口の兄弟たちは持っている。髭切が膝丸にだけ向ける労りを、粟田口の兄弟は、まるでほんの少しずつ心を分け合うように、小さな優しい気配りをそれぞれに向けている。その気配りは、時に兄弟以外にも向けられるものらしい。髭切には、膝丸しかなかった。膝丸に対してだけ、自分の与え得るすべてを分け与えればよかった。それは膝丸も同じで、粟田口のやり方は自分たちにはできないものだろうと思うと、いつになっても新鮮さを感じる。
     髭切が、弟もいつかやって来るだろうと鷹揚に構えて慌てもしないことに、藤四郎たちはかえって歯痒い思いをしているらしい。気丈に振る舞っているように見られているのか、弟に対して薄情と思われているのか、はたまたそれ以外かはわからないが、藤四郎たちの髭切を見る目の奥には疑問の色が潜んでいる。その目はなぜ、と言っている。なぜ、そんなにも弟の不在に動じないのか。
     確かに動じたりはしていない。髭切と膝丸は共にいた時間も長かったが、離された時間の方がそれより長くなってしまった。だから、弟のいないことに髭切は慣れてしまっている。共にいることを赦された空間にあっても、その不在には今更動じようがなかった。
     しかし不在は、かえってその存在を強く意識させることがある。動じてはいないが、焦れていないわけではなかった。演練で見かける仲睦まじい自分たちに、それを眺めてしまう髭切に目を留める余所の膝丸に、何も思わないわけではない。そういうとき、髭切の胸の内にはほんの少し、淀みができる。
    「……鬼になるつもりはないんだけどな」
    「なんだ、ここは戻橋だったか」
     ひとりごとに返事を寄越されて、髭切は声の方をゆるりと見た。そこには、器用に目を眇めた鶴丸国永が立っていた。
    「じゃあ君が橋姫かな。僕は髭切だからね」
    「おっと、腕を持ってかれるのは御免だ。刀を構えたきみはそれこそ鬼のようだからな、出陣前の手合わせは遠慮したい」
     怖い怖い、と嘯きながら、鶴丸は髭切の隣に腰を下ろした。共に庭を眺める格好になった白い太刀の横顔を、髭切は横目で窺う。この退屈嫌いの太刀もまた、ここの長い午後に飽いているようだった。
    「まぁ、そんなきみに朗報だ。今日の出陣は墨俣になった。あそこは検非違使が出没するからな、君の弟にも会えるかもしれないぜ」
    「そうだといいな」
     ふたりの間を、緑の匂いのする風が抜けていった。鶴丸は胡座をかいていた片膝を上げて、その膝に乗せた腕で頬杖をつくと、また片目を細めた奇妙な笑顔で髭切を見やった。
    「きみは不思議な刀だな」
    「ありゃ、そうかな?」
    「そうだとも。弟の名前を覚えていないのに、弟のことを想っている。弟の不在に焦れているのに、その来訪を疑わない。その自信——いや、自信じゃないな。その確信は、どこから来るんだ?」
     低い声で抑えつけてはいるが、金の目は爛々と輝いて、興味を隠しきれていなかった。驚きが、この刀の退屈を殺す常套手段らしい。そのために、知らないものを知ろうとしているのだ。鶴丸は髭切が、自分の知らない何かを知っていることを期待している——だが、知らずにいるしかないものもある、と思いながら、髭切は意識して鶴丸に微笑みかける。
    「だって、弟は僕を決して赦さないからね」
     髭切の返答に、鶴丸は一度目を瞬かせると、興醒めといった顔をして、隠そうともせずに深い溜め息を吐いた。
    「またそれか……きみは、弟と長いこと一緒にいたんだろう?」
    「そうだね」
    「じゃあ、互いのことはもうよく知っているんじゃないか?」
    「そうだろうね」
    「付き合いが長くてよく知っていて、それで赦さないって何なんだ? いや、長い年月を経ても赦せないものはあるだろう、けど自分を赦さないという奴を、きみはどうしてそうやって待っているのか、そこが俺には分からんな……そもそも、あの弟がきみの何を赦さないんだ」
     演練で見かけるきみたちは大概膝丸がきみを甘やかしているぞ、と口先を尖らせる鶴丸がおかしくて、髭切は声をあげて笑う。同じくらい永く生きているだろうに、鶴丸の少年じみた仕草は見ていて飽きなかった。
     笑わせてもらったのだから、彼の退屈な長い午後に少し供してあげようと思って、髭切は目を細める。
    「僕が僕でなくなることを本当に赦さないでいてくれるのは、弟だけなのさ」
     歓びを抑えきれていない声色に、鶴丸はそれまでのむくれた表情を引っ込めて、髭切の琥珀色の目をじっと見つめた。髭切はそれにも微笑を崩さないまま、鶴丸を見つめ返すだけだった。
     もう一度風がふたりの間を抜けていったとき、鶴丸は軽く息を吐いて、無造作に頭を掻いた。
    「なるほど、きみはそうやって自分の心を生かしているのか」
    「お気に召さないかい?」
    「いいや、他人のやり方に口を出すなんて野暮さ。だが、確かに俺には分からんはずだ」
     あーあ、退屈で死んでしまいそうだぜ、とこぼす鶴丸にまた笑ったとき、一期一振がやって来て出陣の時間を知らせてくれた。白い太刀ふたりはそれに立ち上がると、それぞれ戦支度へと向かった。
    「きみの弟、早く来るといいな」
    「うん、ありがとう」
    「まぁそのためにはまず検非違使か」
    「そうだね」

    「おいおい、本当にお出でなすったぞ」
    「いやぁ、嬉しいね」
     鶴丸の軽口に髭切は頬に跳ねた血を拭った。きっと鶴丸は目を眇めた笑い方をしているだろうと思ったが、少し遠くに見える青い燐光から目を逸らせず、実際に確かめることはできなかった。
    「おふたりとも、構えてくだされ」
     隊長を任された一期一振は固い声をしていた。おそらく、日本号も、物吉貞宗も、そして蛍丸も、燐光と共に時空の裂け目から現れる敵を前に、身を固くしているだろう。その中で髭切だけが、歓喜に打ち震える胸を抑えつけるのに必死だった。
     自分を自分たらしめるものが何なのか、そして、それを確かめてくれるのが何物なのか、髭切はよく知っていた。弟も、自分と同じように思っているだろう。自分たちはそういうものだった。だからきっと、いつでも、どこでも、互いを求めるだろう。代えのきかない哀しみと、互いしかない歓びで、その胸の内を綯い交ぜにしながら。
     そしてその片割れと共に在るためなら、嫉妬に我を忘れた鬼のようにだってなってみせる——髭切は逸る呼吸を抑えきれず、混戦となった戦場で、目の前の敵に叫び声をあげながら斬りかかった。





























    「源氏の重宝、膝丸だ。ここに兄者は来ていないか?」





    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/06 22:40:12

    午後の連星

    本丸と現パロが入り乱れます
    あり得るうちのいくつか、それぞれの午後

    #膝髭膝 ##膝髭膝

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