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    檸檬の花の咲くところ ノートパソコンの薄いキーボードが軽い音を立てている。
     松井の右手が滑らかにテンキーの上を踊るのを、豊前と桑名は黙って見守っている。松井がこうして表計算ソフトを触っている間、ふたりは身を乗り出しそうな姿勢でじっとしていた。それなりに体格のいい男ふたりが並んで同じ格好をしているのはなかなか面白い光景なのだが、ふたりが緊張している理由も分かる。だからこうして松井も笑わないで、レシートに印字された数字を一心に打ち込んでいるのだ。今打っている一枚で、今月分の結果が出る。
    「……うん、先月より安く済んだ」
    「よし!」
    「やったぁ」
     少しだけど、という言葉を聞いているのかいないのか、ふたりは声をあげながら椅子の背もたれに身体を預けた。揃って同じことをしたためか、単に松井の言葉に安堵したのか、顔を見合わせて笑っている。
    「よかったぁ。松井、計算ありがとうね」
    「いいよ、得意だからね」
     データを保存しながら桑名に応じる。実際こういう作業は得意だ。
    「それに、これだけ家計が助かっているのは桑名の家から米をもらえているのが大きい」
    「ほんとだよ。うめーし」
    「嬉しいなぁ、家にも伝えておくよ」
     朗らかに笑う桑名に、豊前が改めて笑顔を向ける。整った顔の豊前がそうやって目を細めると少し幼く見えて、どこか気安い雰囲気になる。この飾らなさは才能だな、と松井はその笑顔を見る度感心してしまう。
    「でも来月からはさすがにエアコンを使うだろうから、電気代は上がってしまうだろうね」
    「そうだねぇ……でもそれを言うなら、六月なのによく扇風機だけですんだよね」
    「雨もそんなに多くなかった気がすんな」
    「うーん、水不足も冷夏になるのも困るな」
    「やっぱり農学部だとそういうのが気になるのか」
    「まあね」
     桑名の長い前髪に目許を覆われた顔も、その下の大きな口が弧を描くと不思議と威圧感がなくなる。まだ会って三ヶ月、他人と距離を取りがちなことを自覚している自分がこうして打ち解けられているのは豊前の気安さと、そして桑名の柔らかな雰囲気によるところが大きい。
     それにしても、三ヶ月前に初めて相手と一緒に暮らすようになるなんて、高校生だったときの自分では考えられなかった。
     四月を目前にしたあの日、松井は駅前の不動産の店先に貼り出された物件情報をにらみつけていた。大学入学を機にひとり暮らしを始めるための部屋を探していたのだ。
     進学を機に親許を離れる学生は大抵、受験のときに部屋を探しておくのだという。そのせいか、既に学生向けの物件はほとんどなく、入学式をすぐに控えた松井が見つけられるのは学生にとっては贅沢に感じられるものばかりだった。
     やっぱり受験で来たときに、いくら疲れていても探しておけばよかった……なるべく安く済ませたくて、中に入ったら貼り出されていない部屋を教えてもらえるだろうか、と考えていたところ、すぐ横から「なぁ」と声をかけられた。
     随分と熱中していたらしい。隣に誰かが立っていることにも気がつかなかった。
    「あんた、住むとこ探してんの?」
    「え、あ、ああ……」
     同い年くらいだろうか。黒いフライトジャケットを羽織った青年がいた。裏地の赤が覗く襟元の上、形のいいパーツがそれぞれ「ここしかない」といった感じでバランスよく収まった顔が、松井にまっすぐ向けられていた。
     その整った顔の彼は意志の強さを感じさせる赤い目でこう言った。
    「なら、一緒に暮らさねぇ?」
     ……何も応えられなかったのは、何を言われているのか分からなかったからだ。もちろん言葉は分かったが、なぜその言葉が出てくるのかが松井の理解を超えていた。
     固まってしまった松井を、整った顔は不思議そうに見つめている。時間がやたらとゆっくりに感じて、穏やかな声が割って入ってくるまで松井も何もできないまま、その幼気な表情を見つめていた。
    「……豊前、それだとすごく下手なナンパみたいだよ」
    「えっまじか」
    「まじ。……ごめんね、いきなり声かけて」
     もうひとりいたらしい。白いマウンテンパーカーを着た、もっと背の高い青年が出てきた。前髪で目許を覆った彼は、整った顔の「豊前」より何を考えているのか分かりにくく近寄りがたそうだったのに、柔らかな声色は話しやすそうな雰囲気を醸し出していた。
    「えっとね、別にあやしい勧誘じゃないんだ」
    「それ言うと余計あやしくねーか?」
    「先にあやしいこと言った人は黙ってて。……うーん、ここ店の前だし、あそこで話さない?」
     そうして彼は、すぐ近くのコーヒーチェーン店を指差した。
     それに大人しくついていったのも松井にとっては珍しいことだった。動転していたか、部屋探しに必死だったからか、もしかしたらやけになっている部分もあったのかもしれない。
    「さっきはごめんね。僕は桑名。こっちは豊前」
    「おう」
    「ああ、いや……僕は松井」
    「うん、松井くんね」
     話は桑名が続けるらしく、豊前は桑名の隣で注文したカフェオレを飲んでいる。ふたりと向かい合う形で座った松井は適当に頼んだブラックコーヒーに手をつけられないまま、桑名が話すのを聞いた。
    「えっとね、僕と豊前はシェアハウスで暮らしているんだ。だから、さっきの豊前の言葉はそういうこと」
    「シェアハウス……」
    「うん。お風呂やトイレ、台所は共有だけど、部屋はひとり一部屋、鍵もついてるよ。洗濯機と冷蔵庫は備付きのがあるんだ。一応近所にコインランドリーもあるね。居住者以外の宿泊禁止とか近所迷惑になるほど騒ぐなとか、そういう決まりもあるけど、そういうのは契約書に書いてあるかな……あ、普通はシェアハウスって家賃とかは一定らしいんだけど、僕たちが借りる物件は家賃も生活費用も折半で……だから、ルームシェアって言う方が正しいのかな」
    「同居人が増えれば安くなんだよ」
    「そう、だから、もし部屋が決まってないならどうかな。ひとり暮らしより安く済むはずだよ」
    「なるほど、そういう……」
     ふたりが自分を誘う理由は分かった。しかし。
    「……その、僕が入っていいのか?」
    「ん? なんで?」
    「ふたりは仲がいいからルームシェアするんだろう。そこにいきなり来た僕が入ってもいいものかどうか……」
     松井の言葉にふたりはきょとんとした様子でお互いを見合うと、揃って笑顔で松井に向き直った。
    「でーじょーぶだって。俺らも一昨日会ったばかりだし」
    「は?」
     思わず間抜けな声を出した松井の疑問への答えは、やはり桑名が説明してくれた。
     ふたりは松井と同じくこの四月から大学に進学し、たまたまお互いの大学からそこそこの場所にあった同じアパートを借りることになっていたらしい。
     そしてたまたま、ふたりの入居直前にそのアパートが火事で焼けてしまったのだという。
    「いやー引越し前でよかったよな!」
    「ねー、家具とかまだ何も置いてなかったし」
     松井からすれば驚きの楽観主義だった。しかし、いくらふたりが前向きで、荷物も命も無事とはいえ、住む場所がなくなってしまったのには困った。そこに、不動産が平謝りしながら代わりに紹介してくれたのが件のシェアハウスなのだという。実質はルームシェアで、お詫びとして敷金礼金はなし、家賃も一年限定だが大幅に割引きしてもらっているらしい。
    「それで、うまくやれば元のアパートより安く済ませられるって気付いちゃったんだよね」
    「桑名とは店で説明受けるときに初めて会ったんだけど、すぐ気も合ったしな」
    「同い年だったしね」
     わははとふたりは朗らかに笑い合う。自分にはないフットワークの軽さに松井はポカンとしていたが、ふと豊前と目が合った。
    「松井もどうだ? 歳も俺たちと同じくらいだろ?」
     射抜くような真っ直ぐな視線に導かれるように、気がつけば頷いていた。
    「よかったぁ。あ、一応なんだけど、やっぱり向いてないなってなったら遠慮とかしないでね。来年の四月からは元のお高い家賃に戻っちゃうらしいし、そのあとも住むなら契約は半年更新でって説明してもらったんだけど……この辺はシェアハウスだね。やっぱりルームシェアじゃなくてシェアハウスなのかな」
     ルームシェアかシェアハウスか不思議とこだわる桑名が首を傾げる。豊前はその様子におかしそうに笑った。
    「とにかく、まとまってよかったよ。松井はいつから来る? てか今、家どうしてんだ?」
    「今はホテルにいるのだけど……明日から、いきなりだけど大丈夫だろうか」
    「でーじょーぶだろ、俺ら実際いきなり住んでるし、部屋も空いてたし。じゃ、明日ここで待ち合わせして、まず管理会社行こうぜ」
    「そうだね。一応今日こっちから管理会社に連絡しておくね。じゃあ明日からよろしく、松井くん」
     同じブラックコーヒーを頼んでいた桑名はようやく自分のカップに口をつけていた。そこでようやく、松井も自分のカップを思い出した。随分ぬるくなってしまっている。
    「こちらこそ……松井でいいよ、同い年だし」
     松井の申し出に、桑名は雲間から日の照るような明るさで笑った。
    「分かった。僕も桑名でいいからね、松井」
    「ああ……よろしく、桑名、豊前」
     その後は、ぬるくなってしまったコーヒーを飲み干すのは諦めて、ふたりと連絡先の交換をし、待ち合わせの時間を決めて別れた。随分あっさりと住むところが見つかったのにも、自分が初対面の人間と一緒に暮らすことを選んだのにも驚きはしたが、もうなるようになれという気持ちの方が強かった。
     実家に連絡した方がいいのだろうというのは分かっていたが、その日はどうにも決心がつかず迷っているうちに寝てしまった。結局、短い事務連絡のようなそれを済ませたのは、新居に移ってから一週間経った頃だった。電話に出た母親の返事も素気ないもので、松井はその素気なさにほっとしていた。これからの生活に口出しされずに済みそうだと安心したからだった。
     シェアハウスと聞いても松井にはうまくイメージができていなかったのだが、案内されて辿り着いた新居は、外観は大きめの一軒家という感じに見えた。広い玄関から覗いた内装もパッと見た感じでは同じ感想だったのだが、一階にソファとローテーブルの置かれたリビング、台所、風呂、トイレ、そして鍵付きの六畳間がふたつ、二階にも同じように六畳の部屋が四つあり、広いバルコニーには物干し竿が二本並んでいた。ここが物干し場ね、と桑名に説明されてその景色を見た松井は、二階に上がったときから思っていたことを口に出した。
    「もしかして、元々寮か何かだったのか?」
    「お、正解。前はどっかの会社の社員寮として使われてたらしいんだけど、いらなくなっちまったらしくって、学生向けの物件としてどうにか使えないか考えてたらしいぜ。よく分かったな」
     道理で綺麗に掃除されてはいるが、水場に少し古さを感じたわけだ。リビングとして紹介された部屋も、かつては談話室なんて呼ばれていたのだろう。その頃とは置いてある家具も違うのかもしれないが、食事は台所でとるようだ。大きなダイニングテーブルが置かれていた。
    「普通の一軒家だったら、全部六畳間というのはないんじゃないかと思ったから」
     そう説明すると「おおー」と声をあげながら豊前と桑名が拍手をする。どう反応すればいいのか分からず、松井はなぜか気まずい思いをしながら曖昧に微笑んだ。
    「ま、不動産側からしても学生がここで暮らしたら予算がどれくらいかかるのかとか、試してみたかったらしいぜ」
    「モニターということか」
    「そうなるかな。まぁ家賃はまけてもらってるんだけど」
     そんなことを話しているうちに、ふたりとも二階の部屋を使っていると聞いたので、松井もそうすることにした。
     同い年の男三人、どんな生活になるか心配がなかったわけではないが、松井の予想していた以上に共同生活はうまく進んだ。性格が似ているわけでもなければ特に共通の話題があるわけでもなかったのだが、三人ともお互いに干渉しすぎない、その距離感が似ていた。初対面のときはあんなに唐突に距離を詰めてきた豊前も、基本的に他人は他人と放っておく質らしく、本人はすぐにバイトを見つけて家にいないことも多かった。バイクを買いたいらしい。
     桑名とは同じ大学だった。松井は薬学部で桑名は農学部だったが、一般教養の授業は桑名が先輩から聞いてきたという単位の取りやすい授業の噂を参考にした。それをひとりだけ大学の違う豊前は羨ましがっていたが、ふたりとも実験やら実習やら、単位を絶対に落とせない授業があるのだ。合理的に、効率的に単位が取れるならそれに越したことはなかったし、桑名とはその辺の感覚は似ていたようだ。
     風呂、洗濯は時間を見計らって各々で、掃除は自室と、共有スペースは日を決めてそれぞれ順番に。共同生活初日の夜に話し合ってそう決めた。食事はまともに料理ができそうなのが桑名だけだったので、しばらく平日の朝と夜は桑名が受け持ってくれることになった。「家賃がちょっと浮いた分、お米送ってくれるって」と桑名から聞いたのもこのときだった。家は農家なのだという。
     松井は家計管理を、豊前は他の細々とした仕事を買って出て、共同生活は少々緩く、それでいて確かに始まった。家族以外の人間と暮らしたことのない三人での生活は行き当たりばったりになることもあったが大きな問題は起こることなく、新生活に慣れること自体に必死で過ごしているとあっという間に六月も終わってしまった。
    「もうすぐ試験かぁ」
    「俺レポートばっか」
    「僕は半々くらいだ」
    「一般教養はレポート多いよねぇ。専攻のは試験だらけだからありがたいのかな」
     月末の家計管理を終え、三人でリビングでお茶を飲んでいた。普段、夜はそれぞれひとりで過ごしていることが多いのだが、家計管理のあとは不思議とこうなった。
    「松井薬学部だろ? 試験も難しそうだな」
    「ね、うちの薬学部は入試自体難しいんでしょ。すごいね」
    「そう、だろうか……」
     正直、あまり話題にしたくなかった。桑名が淹れてくれたお茶を一口飲むと、松井は豊前を見た。
    「豊前は経済学部だったか。どうして、経済にしたんだ?」
     いきなり話題を振られた豊前は軽く目を見開いたあと、少しの間視線をずらしてから、ニッと笑った。
    「理由はない!」
    「ええ……」
     桑名が半ば呆れたような声を出したのも、豊前は闊達に笑い飛ばした。
    「別に、どこでもよかったんだよ。行けそうだから受けて、受かったから来ただけ」
     笑い声の明るさにはどこかそぐわない、なげやりな言葉だった。しかし松井がその違和感に戸惑っている間に、本人が「あっ!」と声をあげた。
    「俺今日バイト! 夜勤!」
    「えっ、夜勤なんてあったの」
    「今日だけ変わってくれって言われたんだった!」
     そうして二階へ向かったかと思うと、すぐに下りてきて玄関へ走っていった。「行ってくる!」と律儀に挨拶するので、桑名と松井はリビングから顔だけ出して「いってらっしゃい」と見送った。
     豊前が風のように去った玄関を、ふたりはなぜかしばらくそのまま見守っていた。やがてぽつりと松井が呟いた。
    「豊前はすごいな……」
    「ねー、すごく元気だね」
     そういうことではない、と思ったが異論はなかった。あれだけ走れて夜勤にまで行ける人間が元気がないわけがない。
    「……僕もバイトを探さないとな」
    「あれ、バイトするんだ?」
    「ああ、できれば」
    「そっかぁ」
    「桑名は、バイトしないのか」
    「うーん、今はいいかなぁ。後期からはどうしようかちょっと考えているけど……あ、先輩が夏休みに農園のバイトがあるって言ってたからそういうのもありかな。でも、家の手伝いとあまり変わらないかなぁ」
    「ふうん」
     のろのろとソファに戻りながら桑名を見る。黒い髪は太陽で焼けているのか、リビングの明かりの下でも少し黄色く色が抜けて見える。
    「……桑名も、やっぱり家が農家だから農学部に行けって言われていたのか?」
    「え? うーん、そういうのはなかったよ。僕は元々、好きだったしね。子どものときから遊び場は畑だったし……手伝いも仕事が多くて大変だからっていうのもあるけど、好きでやっていた部分も大きいんだ」
    「そうなんだ」
    「うん」
     変なことを訊いてしまった、と言ってから後悔した。桑名は気にしているようではなさそうだったが、他人の家のことに踏み込んでしまうなんて、自分らしくない。
     なんとなくばつの悪さをごまかすつもりで、松井は重ねて普段なら言わないようなことを口にした。
    「……それ」
    「ん?」
    「前髪。その下だけ、日焼けしてないんじゃないか」
    「ええっ、どうだろう」
     桑名の前髪は相変わらず鉄壁のカーテンのように目許を覆っている。以前豊前が「邪魔じゃねーの?」と訊いたときは「落ち着くんだよねぇ」なんて応えていた。実際、桑名の頬も腕も松井のやたらと白い肌と違って健康的な色をしている。前髪の下は、どうなのだろう。
    「どう?」
     些細な疑問だったが、案外すぐに答えを知ることができた。桑名が自分で前髪を避けて見せてくれたのだ。
     自分より背の低い松井を覗き込むように、垂れぎみの丸い目が見つめていた。肌の色は頬と大して変わらなかった。それより、どこか照れくささを滲ませた黄色い瞳の方が気になった。
    「松井?」
     応えない松井に桑名が首を傾げる。大男が幼い仕草をするのはどこかアンバランスだったが、丸い目を晒した桑名は意外にも童顔で、妙に似合っていた。
    「……れ」
    「れ?」
    「レモンみたいな色、しとる……」
    「え? ああ、目かぁ、そうかなぁ……」
     松井の口走ったことにふにゃっと目尻が下がるのが見えたのは一瞬だった。桑名はすぐ前髪を直してしまって、テーブルに置かれたままの自分のカップを手にした。
    「レモンかぁ、家にも木があるなぁ」
    「そう、なんだ……」
    「うん。結構どこでも育てられるんだって。品種にもよるけど」
     中身がもう入っていないらしいカップが桑名の大きい手でくるくる回されている。取っ手が周回軌道する星のように一定の速さで巡るのから、松井は目が放せなかった。なんとなく顔を見ることができない。
    「……松井も、方言出るんやなぁ」
     そう思っていたのに、突然言われた言葉に思わず顔を上げてしまった。桑名の日に焼けた頬はやはり緩んでいて、今の松井には、鉄壁のカーテンの向こうでレモン色の目が甘く細められているのも分かる気がした。
    「……風呂に入ってくる!」
    「うん、分かった。あ、カップそのままでいいよ、洗っとく」
    「ごめん」
    「ううん」
     じゃあお先に、と声をかけて松井は早足で自室に向かった。豊前のようには走れず、部屋に入るときにドアに足をぶつけた。



     七月は忙しく過ぎていった。慣れない土地での暑さと、初めての試験への対応であっという間に時間が過ぎ、もう八月も間近になっていた。
     リビングで豊前がバイト先からもらってきたアイスをご馳走になりながら、松井はこれからの夏休みのことを考えていた。家で過ごす時間が増えれば、その分電気代がかかる。ふたりは気にしないだろうが、自分が気になるのだ。図書館にでも通うか、短期のバイトでも探すか……そういうバイトで、自分ができそうなものがあるだろうか。
     考えなければいけないことが多い。バニラアイスを機械的に口に運んでいたせいもあってか、頭が痛くなってきた。
    「……なぁ、松井」
    「ん?」
     松井よりずっと早くアイスを食べ終えた豊前が、静かな声で訊ねてきた。
    「松井は夏休み、実家帰んの?」
    「ああ、いや……帰らないよ」
     元々そのつもりはなかった。ただ豊前がそういうことを訊いてくるのが珍しい気がして、まじまじと顔を見つめてしまった。
     暑くなって少し痩せたのか、整った顔は春より精悍になったように感じる。その顔が松井の返答にふっと緩んだ。
    「ん、そっか。俺も帰らねーけど、桑名は盆に帰るらしくってさ。俺ひとりかもしんねーって思ってたから訊いてみた」
    「そうだったのか」
    「うん。ま、俺は夏の間だけのバイトも増やすし、あと教習所通いだけど」
     高校のとき行けなくてさぁ、と豊前が苦笑いしたとき、桑名がリビングにやって来た。
    「あ、ふたりともいた」
    「おう。アイス食うか、冷凍庫にまだあるぞ」
    「わあ、あとでもらうね。ちょっとふたりに訊きたいんだけどさ」
     桑名は手に持っていたスマホでカレンダーを表示すると、八月も初旬のある日を指し示した。
    「この日、空いてるならバイトしない?」
     夏期だけ募集している農家の住込みのバイトがあり、桑名の先輩がそこに行く予定なのだが、この日は人手が足りないのだという。
    「この日は他の日雇いの人たちも来るんだって。収穫できるやつ見分けるのが難しかったら、収穫した分を運ぶのとかでもいいよって言っててね。友だちも連れてきていいって言ってたから、どうかなって」
    「いいよ、やろう」
    「あ、ほんと? 松井は?」
    「豊前がやるならやろう」
    「よかった、じゃあ返事してくるね。当日は僕が車借りてきて連れてくから」
     ぱたぱたと足音を立てて、桑名はリビングから去っていった。
    「……桑名、免許持っていたのか」
    「受験終わってから引越すまでの間に取ったらしいぜ」
    「豊前は知っていたんだ」
    「前に教習所のパンフ広げてたらそういう話になってさ」
    「そうか……」
     リビングは空調がよく効いていたが、松井の手にあるカップアイスは溶けてほぼ液体になっていた。それをスプーンでかき回しながら、松井はぽつりと呟いた。
    「僕も、免許くらい取ったほうがいいだろうか」
    「うーん、取りたくなったら取ればいいんじゃねーか?」
    「そういうものか」
    「うん、自分のやりてーようにやればいいんだよ」
     豊前らしい言葉に松井はアイスを置いた。もらっておいて悪いが、もう溶けきってしまって食べる気がしなかったのだ。もう少しですべて食べきれたのだが。
    「豊前はバイクだったか」
    「うん? ああ、そうだよ」
    「バイクって楽しい?」
    「楽しいよ、速くて……俺にとっては、だけど」
     松井に目配せして笑うと、すぐにどこか違うところを見ているような目をした。
    「遠くに行きてーんだ。遠く、速く、どこかへ……でも、」
     どこかってどこなんだろうなぁ、とこぼした声は松井の答えを求めているわけではなさそうだったから、松井は何も言わなかった。
     夜、寝る前に自分のスマホを見ると、桑名がバイトの予定を詳しく書いて送ってくれたメッセージとともに、ひとつの着信履歴が残っていた。母親からだった。
     四月に住むところを見つけたと伝えて以来の連絡だった。「母親」と表示されたディスプレイを見て、暑いのにすっと身体が冷えた気がした。
     今になって、どうして連絡なんて……何も考えたくなくて、すぐベッドに入ったが、その日はこの春以来、一番寝苦しい夜になった。

     バイトの日は朝早くに起こされて、松井と豊前はうつらうつらしながら桑名の借りてきた車に乗り込んだ。
    「……初心者マーク付きでもレンタカーって貸してくれるのか」
    「貸してくれるよ、条件付きだったりするけど」
     保険だったり講習受けなきゃいけなかったりね、と早朝から元気な桑名が教えてくれたが、松井は「ふうん」とだけ返して、窓の外で流れ出した景色を見ていた。豊前は助手席に乗ったから、ひとりだけ後部座席だ。
     最初は見慣れた街並みが車の中からだと雰囲気が違って見えるのをぼんやりと眺めていたが、すぐに知らない風景になった。その頃には、無口だった豊前も目が覚めてきたらしい。
    「二時間くらいかかるんだっけか?」
    「そうだよ」
    「悪いな、運転任しちまって」
    「いいよぉ、疲れてきたらちょっと休憩を取らせてもらうけど」
     やがて背の高い建物が見えなくなり、住宅地に入った。それもやがて過ぎて山道に入ったと思うと、明るい緑の葉を抜けて開けた土地に出た。背の低い民家が立ち並んでいて、自分たちが暮らしているところよりずっと人が少なく感じた。
     自分の知らない土地にも家があり、誰かが住んでいる。当たり前のはずのそれが、初めて目の前に現実の風景として現れた。
     松井は小さな家の庭それぞれに花や木があるのを見て、知らない誰かの気配に思いを馳せていた。林を背に立ち並んだ家をいくつも通り過ぎていくと、突然豊前が声をあげた。
    「海ちゃ!」
     つられて、それまで見ていた方とは逆の窓に顔を向けた。豊前がはしゃいだ通り、開けた海が道沿いに続いていた。波が白く光を砕いてまぶしかった。海も空も、目が焼かれると感じるくらいに鮮やかだった。
    「ここバイクで走りてぇ~!!」
    「あ~、こういうとこバイクだともっと気持ちよさそうだよね」
    「ぜってー気持ちいい! 風が!」
     ちょっと開けていいか? と訊きはしたが、豊前はふたりの返事を待たずに窓を開けた。途端に車内には風が満ちて、後ろに座っていた松井の髪まで巻き上げていった。少しべたつく潮の匂いを含んだ空気が自分を包み、それまでにも嫌というほど実感していた暑さより、ずっと夏を実感させた。
     豊前は夏の光と風を受けながら無邪気に笑い声をあげ、桑名も運転中だから余所見しているわけではないが、楽しんでいるらしい。ルームミラーで盗み見た口許がいつもより緩んでいた。
     海へとなだらかに続く斜面に載っかったように伸びた片道二車線、歩道もそれなりの広さのようだから、よく使われている道なのだろう。もしかしたら豊前が声をあげたように、バイクで走りに来る人も多いのかもしれない。実際、三人の乗った車は何回かバイクに追い抜かれている。
    「俺も早く自分のバイク欲しいなぁ」
    「もうすぐ教習終わるんでしょ?」
    「おう! 一発で受かってくるぜ!」
     桑名に応え、後ろの松井にもニッと笑ってみせて、豊前はまた海を眺め出した。松井もまたつられるように、同じ風景を見つめていた。海はどこまで行っても輝いていた。
     しばらくきれいに整備された道が続いたが、民家も見えなくなってしまうと道路はやがて中央線もない田舎道になった。山道への入り口近く、鮮やかな海を背にぽつんと立ったバス停は錆の浮いた古いもので、そばの待合所もそこにあるのを忘れ去られてしまったかのような佇まいだった。
    「道路整備で予算使いきっちゃったのかなぁ」
     桑名も同じバス停が目についたのかそう呟き、松井はそれに「そうかもしれない」と思った。豊前は桑名の言葉に話が見えなかったのか一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに深追いするようなことではないと判断したのだろう、また窓の外へ戻っていった。

     初めてのバイトの感想は、一言で言えば「向いていない」に尽きた。
     ふたりは僕の言う通りやってくれればいいからね、と笑った桑名の口調は普段と変わらずのんびりしていたが、いざ畑に出ると矢継ぎ早に鋭い指摘が飛んできた。
     こっそり豊前が「あいつ畑だとこえーな」と小声で松井に囁いたとき、いつの間にそばに立っていたのか、桑名が豊前の肩を叩いた。土のついた軍手は外していた。一応気を遣ったらしい。
    「豊前……」
    「お、おう」
    「僕、豊前は収穫より、収穫したのを運ぶ方が向いている気がしてきた」
     桑名がにっこりしながら指差した先には、収穫された野菜が乗った一輪車があった。豊前は「俺もそう思う!」と言いながら立ち上がると、遺憾なく俊足ぶりを発揮して一輪車を押していった。
    「倒さないように気をつけてねぇ!」
     他の人についていけばいいから~と声をかける桑名の後ろ姿を、松井は恐々とした気分で見ていた。次は自分である。何を言われるのか……桑名がゆったりと振り返ったとき、何も悪いことはしていないはずなのに思わず肩が揺れてしまった。普段は素朴な料理を作ってくれて、ゆったりした口調の割りに理路整然と話す、時々理屈っぽすぎると感じる、そういう桑名しか知らなかったのだ。農学部指定のものらしい作業服を着て首にタオルを巻き、目深に帽子を被った姿は松井の知らない、プロの農家にしか見えなかった。農家にプロもアマチュアもあるのかなんて知らないが。生計を主にそれで立てているかどうかだろうか。
    「よいしょっと」
     しかし、妙におじさんくさい言葉を漏らしながら松井の隣に腰を下ろしたのは、やっぱり普段と同じ桑名だった。
    「松井も、畑仕事はあまり好きじゃない?」
    「……畑自体初めてだけど、汗をかくし、腰とか膝とか痛くなるし、好きとは思えないな」
    「素直だなぁ」
     話しながら、桑名の手は迷いなく収穫を進めていく。松井も桑名に教わった通り、食べ頃らしいものを選んで収穫していく。桑名のように速やかにとはいかないが、言われたことは気にしていた。
     無心で野菜と向き合おうとしていると、隣で桑名が笑う気配がした。
    「松井はちゃんと僕の言った通りにしてくれててありがたいなぁ」
    「自分が言ったんだろ、言う通りにしろって」
    「そうなんだけどね。これ、豊前が取った分」
     そう言いながら桑名が取り出した野菜は、色も大きさもまちまちだった。
    「細かいことを気にしないのは豊前のいいところだけど、こういう作業には向いてないかな」
     桑名の大きな手がそのまちまちな野菜を転がす。愛でるような手だった。
    「……そういうのって、どうするの」
    「うーん、とりあえず、出荷はできないね。一応食べることはできるけど……あとは、生長する中で傷がついちゃったりしたやつとかもそうだね。スーパーに並んでるのもきれいなのばかりでしょ。皆、きれいなのを欲しがるからねぇ……ちょっとくらい傷がついてたり形が変わっていても、普通に食べられるんだけど」
     今日はバイト代以外にもそういう野菜少しくれるんだって、と桑名は笑った。
     今日は知っていたつもりのものの、知らない部分ばかりに気付かされる。夏の海があまりに鮮やかでまぶしいこと、少しの傷で売れなくなる野菜、畑だと人が変わる桑名……苗の根付いた土に触れる。黒い土は少し湿っていて、冷たくて気持ちよかった。
     その初めて触れた土を心地好いと感じるのが怖くなって、松井はすぐに手を引いた。
    「……僕も向いていない」
    「あはは、もう少しだけ頑張って」
     収穫が終わったら既に選別され箱詰めされたものを運んで、それで今日のバイトは終わりなのだ。
     箱詰めされたものを運ぶという単純作業も、何度も繰り返せば結構な重労働だ。腕が上がらなくなった松井と朝から走り回っていた豊前は座り込んで、桑名を待っていた。農園の人たちや先輩と話をしているのだ。
    「松井……」
    「なに」
    「帰り、俺がうしろ乗っていい?」
     ぜってー寝る、と豊前はへらっと笑った。彼の珍しい類の笑顔に松井もつい笑ってしまって、「いいよ」と応えた。
     本人曰く「これなら二週間は困らないよ」という量の野菜を両手に、桑名はほくほくした顔で戻ってきた。
    「いや〜冷凍しないといけないけど、食費が浮くのは嬉しいね」
     同じ作業をしていたはず、さらには運転まで任されているのに桑名は元気だった。豊前は車に乗り込んだあとすぐに座席を倒し切って寝る体勢に入ってしまっている。タオルを載せて目隠しまでしていた。車を出してから一言も話さないから本当にすぐ寝てしまったのだろうと、松井は後ろの気配だけで察した。
    「松井も眠かったら寝ていいからね」
    「起きているよ、桑名の話し相手もしないといけないし」
    「ほんと? ありがとう」
     実際身体は重かったが、眠気が来ているわけではなかった。最近、実はよく眠り方が分からなくなっているのだ。まったく眠れないわけではないからなりゆきに任せているが、なんとなく理由は思い当たるものがあった。七月の終わりに突然かかってきたあの電話だ。
     思い出したくなくて、窓の外に視線を移した。これだけ体力を使ったのだから、今夜はどうか眠れるといい。
    「……あ、あのバス停」
     桑名が車の速度を落とした。声につられて見ると、朝見たあの海を背にした妙に古いバス停と待合所があった。
    「朝は道路整備で予算使っちゃったのかなって思ったんだけど、よく考えたらバス停はバス会社が整備するのかな」
    「さぁ……」
     また細かいことを気にし出したな、と思っていると、桑名はそのままバス停に寄せて車を停めた。
    「――ああ、やっぱり」
     行きとは違い、運転席の桑名の向こうに海が光っていた。夏で日が長いとはいえ、昼過ぎの海は朝のものより穏やかに見える。
    「ほら、松井、あの白い花。あれ、レモンの花だよ」
     細い枝が待合所の周りにまばらに葉を広げている。桑名が指差した待合所のすぐ横をよく見ると、いくつか小さな白い花がついていた。梢の向こうで海に陽光が散っている。葉もつやつやと照り返していて、そういう光が目に入るばかりでこんな小さな花があったなんて気付きもしなかった。
     レモン、と口の中でだけ呟いた。花も黄色いのだろうなんて単純に思っていたわけではないが、色も形も知らなかった。そもそもレモンを家で育てられるなんてこと自体、ついこの間まで知らなかったのだ――以前見た、優しい垂れがちの目が目蓋に浮かんだ。その目は今、厚い前髪の向こうに隠されて、でもなぜか嬉しそうにレモンの花の咲いていることを松井に報告することに、柔らかく細められているのだろう。容易に想像できた。
    「……本当に、どこででも育つんだな」
     松井がそう応じると、桑名の大きな口は改めてにっこりと弧を描いた。
    「そう、いろんなところで育つんだよ。ただ、ここのは花が少ないなぁ。潮風のせいかな……」
    「あんな小さな花によく気付けたな」
    「うん、朝に通ったときちょっと目に入ったから、もしかしてって思ってたんだ」
    「レモンの花って、今が時期なのか……」
     か細い枝についた花は五枚の細い花びらを伸ばしている。松井にとっては言われてようやく気付くような、あまりにも可愛らしい大きさだった。山道に繁る木々の葉が海を背に溌剌と光って見える中、時代に置き去りにされたようなバス停と、それに寄り添うように立つ木の、控えめに花をつけた枝振りが弱々しく見えて寂しかった。
    「レモンはこれくらいの時期に花をつけるんだよ。まぁ、初夏と秋にも咲くんだけど」
    「ずっとじゃないか」
    「ふふ、そうだね。そして、冬には収穫」
    「今日はもう収穫の話はいいよ……」
     思わず松井が溜息を吐きながらそう言うと、桑名はまた楽しげに笑った。
     桑名にしては珍しく大きな笑い声だった。普段から穏やかに微笑んでいることは多いが、こういうはしゃいだ笑い方は見たことがない。
     今日は初めて尽くしで疲れる、と松井が身体をシートに預け直したとき、桑名が打って変わって神妙な声を出した。
    「ねぇ、松井」
    「な、なに……」
     驚いてまた運転席を見る。日に焼けて色の濃くなった、通った鼻筋の下で、厚めの唇は引き結ばれていた。
    「豊前、さっきから全然動かないんだけど、家についても起きなかったらどうやって運ぶ……?」
     車内は沈黙した。アイドリングしたままのエンジン音の中、よく耳をすませるとすうすうと安らかな寝息が聞こえる。
     割とうるさくしたのに身動ぎひとつしなかった。豊前の眠りは思った以上に深いらしい。
     桑名より背が低くはあっても体格のいい青年なのだ。こちらも男ふたりとはいえ、脱力し切った男を運ぶのはつらい。しかも今日は疲れている。
    「……どうにかして起こそう」
    「やっぱりそれしかないよね」
     まだ夕暮れも遠い道を、車は家へと向かって進んだ。

     いつも見せる快活さがどこへいったのか、ひたすら静かに眠り続けた豊前をどうにか叩き起こし、桑名が車を返しにいった間にシャワーを浴びてしまえば、そろそろ夕飯の時間になるところだった。
     平日だけ、と四月には言っていた桑名の食事当番は大学が夏休みに入ってもそのままになっていた。桑名はそれについて何も言わず、むしろ率先して食事の準備を買って出ている。ありがたいけどいいことではないな、とは思っていた。
     普段なら自室にこもっている松井が台所へやって来たことに、桑名はエプロンの紐を結びながら首を傾げた。
    「どうしたの? 今日動いたからお腹空いた?」
    「……手伝う」
     そしてその首を傾げたままの格好で、ぴしりと固まった。
    「……ええっ!?」
    「そんなに驚くことか……」
    「驚くよぉ、今までそんなこと言わなかったし」
    「四月に話したときは当面の間はって話だっただろう。でも、そのままずるずると桑名がずっとご飯を作っているから……よくないと思って」
    「そっかぁ……ありがとうね」
     うーんふたりとも何でも食べるし文句も言わないから大して手間じゃないんだけど……と歯切れ悪そうにこぼしながら、桑名ははにかんだ。そのふにゃふにゃした笑顔で松井の申出を断ろうとしているのを察して、松井は手をあげて桑名の言葉を制した。
    「三人いるのにずっとひとりで料理しているのは、やっぱり桑名の負担が大きすぎる気がする」
    「そっか、松井はそこが気になるんだね。じゃあ、ひとまず今日は手伝ってもらおうかな」
     まな板を取り出しながら、厚い前髪の向こうから松井に目配せする。来いということだろう。
     隣に立つと、桑名が野菜をいくつか並べた。今日もらってきたものだ。
    「今日は夏野菜のカレーだよ」
     もちろんお肉もごろごろ入れるよ、と豚バラのブロックを持って笑う。桑名の野菜をたくさん使った料理を家庭料理のお手本みたいだなと松井はいつも思っていたが、物足りないと思ったことは一回もなかった。
     桑名は松井と豊前を何でも食べて文句も言わないと言ったが、文句のつけようがなかったのだ。そもそも作ってもらっておいて文句を言うほど松井も、そして絶対に豊前も無礼ではない。
    「じゃあまずこの茄子を縦割りに……」
    「たてわり」
    「こうだよ」
     丸い野菜ならくし切りだね、と言いながら桑名は迷いなく茄子を切っていく。細長く八等分された茄子に松井はふんふんと頷いた。包丁を受け取り、先ほどの桑名の手付きを真似て同じように切る。スポンジみたいな感触に驚いたが、難しくはなかった。
     隣で見守っていた桑名がぱちぱちと拍手する。
    「……馬鹿にしていないか」
    「してないよぉ、じゃあここにある分も同じようにお願い。終わったら次の野菜の切り方説明するね」
     最初のひとつを桑名が実演し、松井がそれを真似て切っていく……その間に桑名は豚バラブロックを大きく切り分け、先に焼いてしまうと一度避けておいて、冷凍庫からみじん切りされた玉ねぎを取り出してそのフライパンで炒め始めた。
    「そういうのもあったんだ」
    「うん、買ってきたときにまとめて切ってあるんだ」
    「……やっぱり桑名に任せすぎた気がする」
    「ええ~?」
     フライパンに残っていた豚バラの脂で炒められた玉ねぎが、じゅうじゅうと音を立てる。ここでの生活でずいぶんと嗅ぎなれた、食欲の湧く匂い。
    「……料理当番、嫌じゃないのは本当なんだよ」
     木べらで玉ねぎをかき混ぜていた手を休めて桑名が呟いた。松井はトマトに取りかかろうとしているところだった。これはカレーに入れるのではなく、サラダ用だ。
    「土を触っているのもだけど、落ち着くんだよねぇ。こういう、ひたすら切ったり、炒めたり、煮込んだり……手を動かしながら別の考え事するのにもちょうどいいし、たまに決まった時間でどれくらい効率よく作れるか遊んだりして」
    「ふうん」
    「それに、自分が食べたいものを自分で作れるって、結構いいものだよ」
     休めていた手を動かし、桑名は玉ねぎをひっくり返すように木べらを動かしていく。フライパンはまたじゅうじゅうと音を立てた。透き通ってきていた玉ねぎは少し茶色くなっている。
     自分で、自分の食べるものを用意できる。それは松井にも魅力的に思えた。
    「……やっぱりこれからも手伝う」
    「えっ」
    「手伝うついでに、桑名に料理を教えてもらうことにする。これまで興味なかったけど、いい機会だし」
    「ええ~、教えられるほどのものかな……」
    「美味しいよ、桑名のご飯。僕は好き」
     高校生のときは、食事はいつもテーブルに置かれているかコンビニで買うもので、栄養が摂れるなら献立が何だろうが、冷めていようが味がなかろうが、口の中の水分をやたらと持っていく固形物だろうが三分持たずに飲み切れるゼリー飲料だろうが何でもよかった。だから、毎日「今日のご飯は何か」を気にするようになったのは、桑名の作るものを食べるようになってからだ。
     松井の隣でフライパンはじゅううっと音を立てている。松井はトマトを切り終えてようやく、木べらとフライパンの擦れる音がしないのに気がついて隣にいるはずの男の顔を見上げた。
     桑名は、日に焼けすぎたんじゃないかというくらい、真っ赤な顔をしていた。
    「……殺し文句やん……」
    「はっ!?」
    「は~びっくりした……あとで豊前に松井に口説かれたって言うとこ……」
    「何でそうなる!」
     松井は自分の顔も熱くなるのを感じたが、桑名はふふふと笑うだけで、代わりのように自分は大鍋を取り出しながら「そこにルーあるから取って」と言った。
     それ以上追及のしようもなく、松井も指示に従った。
    「これ、半分出せばいいのか?」
    「ううん、一箱使う」
    「ひとはこ」
    「うん。半分なんてね、一瞬だよ」
     そう言って首を振ってみせる桑名は、もういつもの桑名だった。
     くつくつと煮立った鍋からアクを取り除き、ルーを入れ、かき混ぜてしばらく待つ。そろそろご飯でもよそった方がいいのかな、と松井が思い始めたとき、桑名がやたらと静かな声を出した。
    「松井」
    「なに」
     この空気、今日二回目な気がする。
     そんなことを考えながら桑名に続きを促すと、桑名はコンロの火を落としながら言った。
    「豊前、部屋で寝落ちてる気がする」
     カレーの匂いが充満する台所で、ふたりはしばらく見つめ合った。今日は松井が手伝った、つまり桑名に教えてもらっていたのもあっていつもより夕飯の用意が遅くなった。普段なら、「今日の飯、何?」と笑いながら豊前が現れてもおかしくない時刻は、とっくに過ぎているのである。
    「……今日はもう寝かせておいてあげた方がいいんじゃないか」
    「そうしよっかぁ」
     鍋いっぱいにあったカレーは桑名の言う通りすぐに減っていってしまって、豊前が明日食べたがるかもしれないからと、かろうじて一食分だけ残すことができた。



     八月もそろそろ半ばという日、「ちゃんとご飯食べるんだよ」と松井と豊前に言い残し、桑名は帰省していった。一週間ほど実家で過ごすらしい。
     一週間と言う割には、大学に行ってくるだけなのではと勘違いしそうなくらい荷物が少なかった。普段お米を恵んでもらっているせめてもの礼にと、松井と豊前がデパ地下で買ってきたお菓子の袋を持たせてやっと帰省する学生らしく見えるようになったほどだ。
     今度は豊前とふたりで台所に並びながら桑名の荷物が少ないという話をしたら、豊前は「あんなもんじゃねーか?」と不思議そうな顔をして、すぐ「松井は荷物多そうだな」と笑った。
    「僕が多いんじゃなくてふたりが少ないんだ」
    「そんなことねーって。案外、持ってなくても間に合うもんだぜ」
     豊前は農園でのバイトで寝落ちて夕飯を逃した次の日、残しておいたカレーを朝ご飯にしていた。「朝からよく入るな……」とそれを半ば呆れて見守った松井に「美味かった!」と笑ってみせるのだから敵わない。そして、桑名だけに食事の用意を任せるのではなくせめて当番にしようと持ちかけると、「そうだな」と頷いた。
    「これ、もう焼いてっていいか?」
    「待って……うん、肉から焼けって書いてある」
     スマホとにらみ合った松井が指示を出すと、豊前は切ってあった肉をざっとフライパンに入れた。
     松井が驚いたのは、豊前がわりと料理に手慣れていることだった。
    「桑名みたいに手の込んだのは作れねーよ?」と言いながら、炒飯や焼きそばのような一皿料理は慣れた手付きで作ってしまう。まったく料理をしたことがないわけではなかったらしい。勝手に料理未経験者仲間だと思い込んでいた松井が「四月に話したときは料理しないって言ってたじゃないか……」と恨み言を言うと、「こういうのをちゃんとした料理って言っていいのか分からなかったんだよ」と苦笑いしていた。迷っているうちに、桑名が食事当番を買って出たのだという。
     できないのは自分だけか……と落ち込む松井に「拗ねないでよ~」と桑名は笑った。「拗ねてない」とにらみつけると、何が楽しいのか一層笑って、ひとりで納得するように何度か頷いた。
    「松井に今足りないのはね、慣れだよ。回数をこなせばすぐできるようになるって」
     そう言ってにこにこ笑っているのを見ると、落ち込んでいるのが馬鹿らしくなってしまった。それに、桑名は妙に理屈っぽい性格のせいもあってか、不確実な慰めなんて口にしないのだ。
     帰省する前、冷凍庫に入っている野菜の使い方を教えたあと、桑名は料理のレパートリーのいくつかを松井のスマホに送ってくれた。今はそれを見ながら、豊前と夕飯の準備をしている。
    「もう野菜も入れちまっていいか?」
    「待ってくれ、入れる順番が書いてあるんだ」
     火の通り方で食感が変わってしまうから、と丁寧に理由まで添えてある。
    「こまけーな、あいつ……」
     言いながら、豊前が松井が手に持っているスマホを覗き混んだときだった。
     スッと画面が暗く切り替わり、無機質な振動音が鳴る。桑名の送ってくれた文をスクロールしようとしていた指は受話器のアイコンに触れそうになったが、すんでのところで止まることができた。上の方には「母親」と表示されている。
     着信を示す画面が、松井の指先でしばらくそのままになっていた。
    「……出ねーの?」
     固まってしまった松井を気遣うように、豊前の声は小さかった。それで顔を上げられたが、声は出なかった。何を言えばいいのか、分からない。
     豊前は松井の顔を見ると、「分かった」とだけ言って頷き、松井の手からスマホを取り上げた。そうして動けないままの松井の代わりにそうするように、ふたりの後ろにあったダイニングテーブルに画面を伏せる形でスマホを置いた。
     松井にとっては長い時間、伏せられたスマホを見張るように立つ豊前の肩辺りを見ていた気がする。隣のコンロからはしゅうしゅうと肉の焼ける音と匂いが立ち込めていたが、固いテーブルの上で小刻みな振動を主張し続けるスマホの存在だけで、友人と談笑しながら料理をしていたそれまでの時間とは別物になってしまっていた。いつも快活な笑みを浮かべている豊前の顔も、まったくの無表情だった。
     そのうち、耳障りな振動音が止んだ。豊前がそろりと屈み、松井のスマホをめくるようにして覗き込む。そして、それを手に振り向いたときには、いつも通りの笑顔だった。
    「ん、止まった」
    「ごめん……」
    「いいよ、別に。何もしてねーだろ」
    「でも」
    「あ!」
     やっべー、肉忘れてた!! と豊前が慌て出して話は途切れた。火にかけっぱなしのフライパンの中で、肉が焦げ始めていた。
     ところどころ黒くなった肉を箸で摘まむ。口に放り込み、噛んでみると固く、舌は肉の旨味なんかよりも「苦い」と主張する。どうにか飲み込み、また肉を摘まむ。一緒に皿に盛られた野菜は桑名の説明通りに焼かれて、食感もよければ皿の上でつやつやと光ってすら見える。
     豊前とふたりの食事は黙々と続いた。松井より先に皿を空けた豊前は麦茶を飲んでいる。三人で話し合って夏や冬の空調はケチらないと決めたから室内は涼しいが、氷の浮かんだグラスは汗をかいていて、テーブルを濡らし始めていた。
    「……俺さ、前に夏休み家に帰らねーって言ったけど、もっと言うと冬も帰らねーの」
     向かいに座った豊前が、手に持ったグラスを見つめながらそう話し始めた。豊前の長い指にも、雫が垂れている。
    「はっきり言っちまうと、帰る家ってのがもうねーんだわ。高校まで住んでた家はあるし、親は多分今もそこに住んでるんだけど、俺は高校卒業したときにそことはもう関係ねーことになってんの。大学の学費四年分世話してもらうのと、ちょっとまとまった金もらって、それで終わり」
     あ、学費出してもらってるんだから一応卒業までは関係あることになるのかな、と笑った顔は普段と同じで乾いた明るさだった。
    「なんでそういうことになったのかは説明すんのが面倒だから勘弁してくれな。でも、俺は帰らなくていいやって思って、向こうも帰ってこなくていいって言うから、これが一番いい形なんだよ。だからこれに関してはあんまり心配とかされたくねーし、俺はむしろ今の方がずっと楽しいんだよな。身軽だし、もうどこに行っていいんだし……」
     そこまで言うと、豊前は「ううん」と唸りながらグラスを置いた。目を閉じたり開けたりして首をひねったあと、ばつが悪そうに笑う。
    「わりー、なんか珍しく真面目に話そうとしたら何言いたかったのか分かんなくなってきちまった……ええと、だからな、さっきの、俺は聞かないし、お前も気にしなくていいから」
    「……すまない」
    「だからいいって。……ま、俺からは聞かねーけど、もし松井が話したくなったら聞くからさ」
     そうして一仕事終えたというように背もたれに身体を預けると、グッと伸びをした。豊前なりに緊張していたらしい。
    「俺の家のことはさ、桑名にはもう言ってあんだよ。だから、そっちも気とか遣わなくていいからな」
    「そう、なんだ」
    「うん。住む予定だったアパート焼けたって言ったろ。俺、結構焦ったんだよ、普通に。まとまった金渡されたって言ったけどさ、なんか手つけたくなくて、高校のときに自分で貯めたバイト代だけで全部やる予定だったのに、いきなりけっ躓いちまったなぁと思って……でもさ、桑名があんな感じだろ? 管理会社で一緒に説明待ちしてるときに、同い年で同じアパートに入る予定だったって話してて、頭ん中めちゃくちゃだったからさ、話すつもりなかったのにさっきみたいな身の上話なんかしちまって……でも、こんな話しても桑名は『そうなんだ』って、あの感じだったからさ」
     その日のことを思い出したのだろう、豊前はおかしそうに笑う。松井も、豊前がわざわざ真似てみせた桑名の言葉がなくともなんとなく想像がついてしまった。初めて会う人間相手でも、そこが住む予定のアパートが焼けたという非常事態であっても、桑名は桑名なのだ。目の前の物事をあるがまま受け入れていく、地に足ついた……というか、足が根を張っているじゃないかというほど地に足つきすぎている現実主義。そして、その上で必ず前を向く。
    「話しててあんなに力の抜ける奴、初めてだったよ。話してるうちにどうにかするしかねーしどうにかなんだろって思えてきて、そしたらこの家紹介されて、ああこいつとなら一緒に住むのいいかなって……」
     少し照れたように笑って、豊前は松井を見た。松井は自分の頬も緩むのを感じた。
     ふたりは同じ、もうひとりの同居人のことを思って笑い合った。
    「だから、松井も何か聞いてほしくなったら俺じゃなくて、桑名に話してみるのもいいかもしんねーぞ。『そうなんだ』で済まされるだけでまぁいいかってなる」
    「覚えておくよ。でも、本当に僕はふたりの間に入れてもらってよかったのか? 桑名みたいに話せたわけじゃなかったのに」
    「気にすんなよ、今こうやって一緒に暮らせてるし、生活費の計算やってもらってるし……それに、声かけたのもこっちからだしな」
    「下手なナンパみたいなあれか」
    「うるせー、なんとか新生活始められたからちょっとはしゃいでたんだよ。それに、お前なら大丈夫だろうって思ったし」
    「何だそれ」
     根拠のない憶測に松井は思わず吹き出してしまったが、豊前は怒るでもなく「俺の勘は当たるんだよ」と少しいたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。
    「というか、お前に声かけたのだって、桑名がお前を見つけたからだぞ」
    「は?」
     その気取った表情から出てきた思いがけない発言に、松井の口からは随分と間抜けな声が出た。
    「あの日はこの辺に何があんのか見てみようぜって買い物がてら散策してたんだけど、桑名がいきなり黙り込むから、何だ? って思ったら、お前が熱心に物件見ててさ。で、そのお前を桑名がじっと見てんの」
     あー部屋まだ空いてたなと思って、だから声かけた。
     事もなげに言う豊前はけらけら笑うばかりで、松井がまた何も言えなくなってしまったのも気にならないようだった。
     その夜は日付が変わる頃にもう一度、母からの電話があった。今度は台所で着信を受けたときより冷静にそれを受け止めることができた。ただ電話に出ることはできず、この時間にわざわざ電話してくるのか、と無機質に着信を報せる画面を眺めていると、十秒ほどで切られた。
     苛ついているだろうか。もし電話に出たのなら、心配していると言うだろう。そうして、次に何を言うか——春まで住んでいた家の壁の色や家具の影、染みついた匂い、そういう気配が、母親という文字を見るだけで松井を取り囲んだ。まるで重くのしかかるように自分を取り巻く何もかもについて、毎日がただ過ぎ去るのを待っていたような、何かが磨り減っていくのを身の内で感じていたような生活。その家を離れる日が来ても、覚えたのは解放感というより虚脱感だった。何もなかったのだ。
     何もなかった。行きたい場所も、やりたいことも、なりたいものも。ただやるべきことと言い聞かされてきたことはあって、それは他ならぬ自分が拒否してしまった——ペンと紙の擦れる音に満ちる部屋で、「無理だ」と悟ってしまった瞬間の頭の妙な冴えを、松井は今も覚えていた。まるで鉛筆の芯が折れるように、あっけなかった。
     ——もうどこに行っていいんだし……
     そうこぼした豊前の目は、松井では捉えられないほど遠くを見ていた。彼は今日松井を助けてくれたが、自分はきっと彼の求める「どこか」を知ることもないだろう。そうして彼はひとり、走っていくのだ。軽やかに、自由に、遠くへ。
     それは松井にとってどこか寂しげに映る光景だったが、同時にどうしようもなく憧れを覚えるほどに美しかった。軽く、疾く、遠く……ああいうふうにどこかへ焦がれることは、自分にはできない。だからきっと、どこにも行けない。
     夏の夜は短く、朝の気配が忍び寄ってくるのが早いのを松井は知っていた。だからせめて少しでも眠ろうと、豊前がやってくれたようにスマホを伏せてしまうと、ベッドで横になった。



     桑名は帰ってきたときも、まるで普段大学から帰ってくるのと同じようだった。
    「ただいまぁ」
     行ったときはあんなに荷物が少なかったのに、帰ってきたときは両手に袋を提げていた。
    「どうしたんだ、それ」
    「なんか、お土産いっぱい持たされた」
     ふたりからのお礼にも喜んでたからそれもあってかなぁ、と桑名は朗らかに笑う。袋から出てくるのは保存のききそうなお菓子だったりご飯の進みそうな時雨煮だったり、あとは野菜がいくつかあった。「これは朝出てくる前に放り込まれたんだ」と桑名はビニール袋に入ったそれらを優しく撫でた。
     豊前はちょうどバイトに行っていて、家には松井しかいなかった。桑名は荷物を自室に置いたあと台所で野菜の下処理を始めようとしたので、松井もその隣に並んだ。
    「松井、僕がいない間ちゃんと食べてた?」
    「食べていたよ。豊前も」
    「それはよかった。食事は大事だよ」
    「ああ……」
    「前にもらった野菜もまだあるし、これは浅漬けにしてしまおうかな」
     桑名の大きな手は器用に野菜たちを転がし、皮を剥き、切り分けていった。松井はその手の動きを気にしながら、桑名の指示通り容器を洗い、調味料を混ぜた。
    「また家の野菜も送ってくれるって言ってたから、しばらくは野菜をそんなに買い足さなくていいかもね」
    「……世話になってばかりだな、僕たち」
    「うーん、そうだねぇ……仕送りで十分間に合ってるって言ったんだけど、僕が家出て消費が減ったからとも言われちゃって」
    「そうか……」
     包丁がまな板に触れる音は淀みなく響き、換気扇が回る音の向こうで蝉の鳴き声も聞こえる。よく聞いてみれば、桑名の手によって切り分けられる野菜もそれぞれ瑞々しい音を立てていた。
    「……豊前から、豊前の家の話を聞いたよ」
     報告しなくてもいいことなのかもしれない。でもなんとなく、黙っておくことはできなかった。
     松井の言葉に桑名の手は一拍だけ動きを止め、また同じように包丁がまな板に触れる音を立て始めた。
    「そっかぁ」
    「……ほんとに、そんな感じの反応なんだな」
    「ええ? ふたりで何言ってたの」
    「別に。桑名は桑名だなって話」
     何それぇ、と応える声には訛りがあった。どこか緩いその響きは桑名によく合っている気がして、しかし自分が桑名の何を知っているだろう、とも思った。まだ会って半年も経っていないのだ。
     思えば思うほど不思議だった。どうにでもなればいいという気持ちで始めたこの共同生活が、今まで過ごしてきた時間で一番居心地がよく思えてくる。
     ――どうして、心地好くなんて感じてしまえるのだろう。
    「……松井、もうそれ、すすがなくていいよ」
    「え、ああ、すまない」
    「ううん」
     考え事で手が止まっていたらしい。水道代を無駄にしてしまった……と落ち込みながら蛇口を捻ると、桑名が「あ」と声をあげた。
    「どうした?」
    「松井に訊こうと思ってたんだ」
    「何を」
    「レモン。緑のと黄色の、どっちがいい?」
     突然訊ねられて松井は目を丸くした。レモン。いきなり何なのだろう。
    「前に、家にレモンの木があるって言ったでしょ? あれ、今年も実が結構なりそうだから、送ってくれるって言ってたんだ。だから、緑のと黄色の、どっちが好きか訊いてみようと思って」
     桑名は松井の顔を覗き込むように少し身を屈めた。そういえば、と松井も思い出した。前もこうして、顔を覗き込むようにして、前髪を上げて瞳を見せてくれた。
    「……種類があるのか?」
    「ううん、収穫時期の違い。早いと緑、熟すまで待つと黄色」
    「味に違いは?」
    「そうだね、緑の方が香りが立つし、味も黄色に比べて酸っぱいかな」
    「そうなのか」
     どちらがいいのかと訊かれても、応えられなかった。比べられるほど知らないのだ。
     真面目に考え込んでしまった松井に、桑名はやはり笑った。
    「じゃ、両方送ってもらおうか」
    「えっ」
    「うん、そうしよう。食べ比べるのも楽しいかもしれない」
     レモンみたいな色の瞳はやはり前髪に隠されていたが、きっと明るく輝いているだろうことは分かった。目許が隠れていても、笑顔が明るいのだ。
    「……またもらってしまうじゃないか」
    「いいんだよ、ほんとに。レモンはね、いっぱいなった年は、使い道に困るんだよ。だから、食べてもらえる方がありがたいんだ。うちのは無農薬だから、皮ごと食べられるよ」
     松井が桑名の指示で作っていた浅漬けの調味液に、桑名は切った野菜を入れていく。ツンと鼻を刺す酢の匂いが立った。レモンとは違う、すっぱい匂い。
     事もなげに与えようとする桑名に、胸の苦しさを感じた。もらうばかりで、何も返せていない。その心苦しさも、桑名はやんわりと笑って受け止めてしまうのだろうけど。
    「桑名の家は、すごく仲がいいんだな」
    「うん? そうかなぁ。改めて言われると分からないけど、確かにそうなのかも」
    「……そんなに仲のいい家族でも、離れて暮らしたいって思うものなのか」
     小気味よく調味液に野菜を放り込んでいた桑名の箸が止まる。やってしまった、と思った。
    「うーん、それは、人それぞれじゃない?」
    「そうか、……ごめん」
    「ううん」
     どうにも桑名といると余計なことを言ってしまうことが多い気がする。それも自分の居心地が悪くなるようなことというだけでなく、相手に気まずい思いをさせてしまうことを。
     桑名の使い終えた包丁とまな板も洗ってしまった。桑名ももう、浅漬けの作業は終わりらしい。
    「僕、大学に入ったら、いろんなことをやってみようって思ってたんだよね」
     タッパーに蓋をしながら、桑名が語り出した。使っていた箸を受け取って洗いながら松井は、何の話だろう、と続きを待った。
    「具体的に考えていたわけじゃないんだけど、とにかく高校まではできなかったこと……大学での勉強もそうなんだけどさ。できることも、行ける場所も、増えるわけでしょ。だから、とにかく何か新しいことが目の前にあったなら悩むよりやることを選んでしまおうと思ってて。このシェアハウスも、話をもらったときにとにかく楽しんでみようと思ったんだよね。豊前とならあまり気を遣わなくてよさそうだったっていうのもあるし……さすがにアパート焼けちゃってたのはびっくりしたけど」
    「……豊前の話だとあまり驚いていなかったように聞こえたんだけど」
    「ええっ、びっくりしてたよ。というか誰でもびっくりするでしょ」
     その発言すらのんびりしたものに聞こえて松井は思わずじっと桑名を見たが、桑名は気がつかないでタッパーを冷蔵庫にどうしまうのかに執心している。
    「ほら、『踊る阿呆に見る阿呆』って言うじゃない。僕はどうせならできる限り、踊る側に回ろうかなって」
    「なんで阿波おどりなんだ……」
    「えっ、これ阿波おどりのなの?」
     そうなんだと感心したように笑みを向ける桑名に、松井は溜め息を吐いた。会話はとっくに桑名のペースだった。
    「とにかく、僕はこの生活を気に入っているし、これからも楽しもうと思っているよ。松井も、そうじゃないの?」
    「僕は……」
     桑名のペースに飲まれていながら、そこはすぐに返事ができなかった。自分の顔をじっと見ながら首を傾げる青年の厚い前髪の間から、優しいレモン色の目が覗いた気がして、松井はすぐに俯いてしまった。
    「ま、それも人それぞれか」
     松井のその様子に気を遣ったのか、それとも本人の中で自己完結しただけなのか、桑名はそう呟くと「僕、部屋で荷解きしてるね」と去っていった。
     残された松井はしばらく台所に突っ立っていた。思わず触れたステンレスは最初はひんやりとしていたがすぐに体温が移りぬるくなった。ひとりになっただけで、換気扇の回る音がやたらと大きくなった気がする。
     楽しんでみようと思ったと、これからも楽しもうと思っていると桑名は言った。そう言いながら松井を見つめた笑顔がやたらと温かかった。前向きで、地に足がついていて……自分にはないものばかりだ。
     ふらふらとなりゆきでこの家に加えてもらった自分を思い出して、苦いものを噛んだ気分になった。
     楽しもうなんて、考えたこともなかった。

     八月の終わりが近付くのを、まるで夏自体の終わりがやって来るかのように感じながら、松井は洗濯物を取り込んでいた。
     自分の洗濯物は自分で洗い自分で干し自分で取り込むものと、誰が言い出すでもなく自然にそうなっていたが、今日のように夕立が来そうなときは別だった。自室で本を読んでいたら、いつの間にか窓の外が暗くなっており、ごろごろと低い唸り声のような音が聞こえてきたのだ。それに気付くと、松井は涼しい部屋を出てバルコニーへと向かった。
     いつだったか急な雨が降ったときに、豊前が全員分の洗濯物を回収しておいてくれたことがあって、それ以来なんとなく雨の降りそうなときは自分以外の洗濯物も取り込んでおいてやることになっていた。三人で暮らし始めた日に話し合って決めたことを三人とも守れているのがこの共同生活がうまくいっている大きな要因だが、こうした緩やかな助け合いも小さくはないと松井は分析していた。分析してどうするという話ではない。しかし、考えてしまうのだ。特に洗濯物をたたむなんて、難しくはないがわずらわしい作業をやっているときには。
     この生活自体に慣れてしまうと、暮らしというものについて回る細々としたストレスに気がつくようになっていた。干してあった洗濯物をたたんだり、使った食器を洗ったりという暮らしから切り離せない後始末のような作業——以前桑名が、そういう作業は考え事にちょうどいいと話していたのを思い出した。
     桑名は料理をしながら考え事をすると言っていたが、そういうとき彼は何を考えるのだろう。彼について、自分は何を知っているのか……畑が好きで農学部に進学して、家族仲のいい農家で育って……そういうことは聞いたことがあるし、話の内容から察せることでもあった。しかし桑名の発想や妙に細かいこだわりは、松井には分からないものばかりだ。例えば、バルコニーを頑なに「物干し場」なんて呼び方をするところだとか。
     それを思うと、他人と暮らす危うさを覗いた気がした。彼が何を想って食事を作り、何を考えて過ごしているのか……血の繋がった家族であっても分からないのだから、他人ならなおさらだ。
     リビングに持ち込んだすべての洗濯物をたたみ終えてしまう頃、窓に水のぶつかる音が聞こえ出し、それは次第に強くなっていった。パッと周囲が明るくなったと思うと、しばらくしてからバリバリと天を裂いたような轟音が響く。
     光と音の間の秒数を数えて、まだ遠いな、と思っていると、玄関の開く音がした。
    「おかえり」
    「お? いたのか。ただいま」
     豊前だった。バイト帰りに降られたのだろう、駆け込んできたらしく息を調えている彼に、たたんだばかりのタオルを渡すと「あんがとな」と言ってニッと笑った。
    「帰るまで持つと思ったんだけどな、降られちまった」
     タオルを受け取り、土間に立ったまま濡れた髪や肩を拭っていく。松井もなんとなく玄関に残って、そうする豊前を眺めていた。
    「いきなりだったからな」
    「洗濯物! と思って走ってきたんだけど、間に合わなかったな。松井がいてくれてよかったよ。入れといてくれてありがとな」
    「役に立てたようでよかった」
     そう言うと、豊前は首にタオルをひっかけながら少し呆れたような様子で笑った。
    「役に立つとかじゃなくてな……」
     松井は言葉の続きを待ったが、豊前もうまく言葉を探せないのか、目を閉じて「あー……」なんて言いながら考え込んでしまった。しかしそれも長くはなく、すぐに目を開けると松井とまた目を合わせた。
    「なんか、うまく言えねーけど、一緒に暮らしてんだからさ。役に立つとか立たないとかは、まぁいいだろ」
    「……そういうものか」
    「いやぁ、わっかんねーけど」
     分からないのか、と突っ込もうとしたとき、豊前が豪快にくしゃみをした。その音に驚いてから、廊下は部屋に比べて蒸し暑いが外よりは涼しいのだろうと思い至った。豊前はずぶ濡れなのだ。
    「……シャワー浴びてきたら」
    「そうする」
     足許も持っているタオルで拭うと、豊前が部屋へと向かう。廊下を歩くとぺたぺたと湿った音がしていた。
     そのまま進んでいった後ろ姿は、階段に足をかける前に一度止まった。豊前は振り向き、しかし松井とは目を合わせないでまた口を開いた。
    「家族じゃねーからさ、一緒に暮らすのに決まりとか、作業割り振ってそれ守るのは大事だけど……別に役に立つから一緒にいるわけじゃねーだろ?」
     どこか言い聞かせるような声色に松井が何も言えないでいると、豊前は階段の先に向き直った。軽やかな音を立てて、上っていく。
    「あんまり考えすぎないで、楽しくいこうぜ。俺も同じ阿呆なら踊った方がいいと思うぞ」
     そう言った豊前は前を向いたままだったから、どういう顔をしていたのか分からなかった。
     ――豊前の考えていることもやっぱり分からない。
     雨が地面に打ちつけられる音を扉越しに聞きながら、その背中を見送った松井の額に汗が滲んでいた。夏が終わろうとしているのに、暑さはまだまだ去ってくれそうになかった。



     九月に入り、後期授業も始まると母親からの電話が増えた。最近では昼間にもかけてくることがあって、松井はその時間は授業があるのを理由にそれに出なくていいことに妙な安堵を覚えていた。夕方や夜にかかってくる電話を明確に無視していることへの負い目の裏返しだった。
     こうして電話がかかってくることを「当たり前だ」と思う一方で、「どうして」と感じる自分もいた。子どもから連絡がなければ親は連絡を取ろうとして当然なのだろう。そして、「もう放っておいてほしい」と思う自分の方が身勝手で、浅はかで、どうしようもないのだ。そうに決まっている。
     結局九月に入ってからも電話には一回も出ないまま、着信履歴は埋まっていった。四月に住むところを見つけたと松井から電話をかけたときは素っ気ない返事だけだったのに、今になって何が母をこうして駆り立てるのか——思うところはあるがやはり考えたくなくて、松井は着信のあったことを知らせるポップアップをじっと見つめたあと、スマホの画面を消した。暗くなった画面に、普段よりもずっと白く見える自分の顔が映っている。まだ日差しの強い九月の大学構内には似合わない、暗い表情を浮かべて。
     はたして自分は一体、豊前と桑名の目にどう映っているだろう。
     不思議なことに、今になるまで考えたことがなかった。もうそろそろ、会って半年になろうとしている。あのとき、自分を拾いあげてくれた——今になって思えば、それが一番妥当な表現に感じた——ふたりは、自分のことをどう思っているだろう。それを考えると、得体の知れないものを覗き込む不安が自分の中に満ちていった。そうして、どうしてあのふたりといることを赦されるだろうと、無性に惨めな気持ちになった。
     その暗い想いを振り払うように、松井は歩き出した。今日は食事を作る当番だった。

     豊前は予定通り、夏休み中に免許を取って、あと少しで欲しいバイクが買えると今まで以上にバイトに走り回っていた。あまりに忙しそうなので体調だけでなく大学の講義の方も心配になってくる。余計なお世話だと分かっていてもやはり気になると、桑名と夕飯の準備をしていたときにこぼすと、「本人は『でーじょーぶだ』って言ってたけどねぇ」といつもの調子だった。ただ豊前の口調の真似がやけに似ていて、松井は思わず噴き出してしまった。
    「ああいうタイプが危ないのは、今よりもいざ欲しいものが手に入ったときじゃないかなぁ」
    「そういうものか?」
    「うん、なんとなくだけれど」
     桑名の手は相変わらず器用に、今日はじゃがいもの皮を剥いていく。ひとつしかないピーラーを松井に譲っているから、包丁で皮を剥いているのに。
     それを横目で見ながら、松井も手を動かしてはいるがうまくいかない。そのことに苦い気持ちでいると、見計らったように「慣れだよ」と声がかけられた。
     じゃがいもなんてよく食べていたはずなのに、こんなに皮を剥くのが面倒な代物だったとは。松井はじゃがいもの凹凸にどうにかピーラーをあてながら、口の任せるままに話し出した。
    「豊前は、前に、遠くへ行きたいと、言っていた」
    「うん」
     桑名のように滑らかに長く皮を繋げることができず、細切れになってシンクへと落ちていく。力加減をうまく掴めないままで、言葉も途切れがちになっていた。
    「でも、どこかって、どこなんだろう、とも」
    「うーん、なんだか哲学的だね」
     そうか? と疑問に思ったが、桑名は手を止め、少し上を見ていた。といっても前髪はいつも通りだから、なんとなく顔の向きからそう察するだけだが。
    「……本当だ、どこかへ行こうとしても、辿り着いてしまえばそこはもうどこかじゃなくて、『ここ』だね」
     ほう、とゆったりと息を吐く口許の奥、その喉をも通って、桑名の中で何かが腑に落ちるのが見てとるように分かった。それは美しい瞬間だったが、それを目にすることで、松井の中でわずかに痛むものがあった。
     その痛みもあって桑名の横顔に見惚れてしまったからだろう、じゃがいもと格闘していたピーラーは表面を上滑りしてしまい、その先に松井の指があった。
    「っつ!」
    「あれっ、大丈夫?」
     見る間に鮮やかな血が指に滲む。桑名は松井の手からピーラーとじゃがいもをさりげなく取り上げると、その手を検分した。
    「あちゃあ、自分の手の方の皮剥いちゃったね。でも削いだわけじゃないから、押さえておけばくっつくよ」
     そうして蛇口を捻って細い水を垂らすと、松井の手をその水に晒した。
     絆創膏取ってくるね、と桑名が姿を消した間、松井は水に濡れる自分の手を見ていた。流された血は見えなくなり、今は手が冷えていくのだけが分かる。
    「持ってきたよ」
     桑名に促されるまま水から手を引き、ティッシュで拭ってもらい、絆創膏を貼ってもらう。まるで子どもみたいだと思うのに、されるがままだった。
    「松井、残りの切るのは僕がやるから、今日は焼いたり和えたりをよろしくね」
    「すまない」
    「大丈夫だよ。皆やるよ、こういう怪我は」
     ピーラーの代わりに桑名に手渡された肉のパックを開けていく。指は絆創膏で覆われてしまえば、大して痛みは感じなかった。ただ、こういう失敗をしてしまうのは初めてで、それが悔しい。今までは慣れないながら、うまくやってきたのに。
    「……やっぱり、豊前のこと心配?」
    「え?」
     桑名がいつもより歯切れの悪そうな口調で切り出してきたのに、松井は目を丸くした。松井がさっきまで格闘していたじゃがいもは、桑名の手によってもうほとんど皮を剥かれてしまっている。
     自分にできないことをこの節の大きな手はなんて軽々とこなしてしまうのだろうという驚きと、先ほどの桑名の言葉をうまく飲み込めないでいる戸惑いで少しの沈黙が下りた。それを打ち消したのは桑名の方だった。
    「いや、僕もね、心配じゃないわけじゃあないんだよ。あんなに忙しいままだと身体壊しちゃうよね。バイク買えたらバイト減らすかなぁ、豊前。でも、ガソリン代とか整備代とかがあるから、あんまり変わらない気もするなぁ」
     なんとなく、こんな風に桑名が豊前について話すのは珍しく感じた。だから「ああ」と曖昧な相づちしか打てなかったのだが、桑名にとってはそれは同意に聞こえたらしい。
    「ね、大学もあるんだし、もうちょっとバイトの時間減らせたらいいのにね。でも、それこそ余計なお世話だよねぇ……本人はやりたいようにやってるわけだし。……でも、そうか、どこか遠くへ、かぁ……」
     話しながら桑名はすべて皮を剥き終えたじゃがいもを一口大に切り分け、ボウルへ入れていく。男三人分、デンプン質の白いかたまりは見る間に山盛りになった。
    「遠くへ行けるっていうのも、やっぱりいいことだよね。でも、たまには帰ってきてくれるといいな」
     帰ってきたくなるように美味しいご飯でも作ってないとね、と笑みを向けられたが、松井は何も応えられなかった。

    「で、そんな絆創膏してんのか」
     桑名謹製ジャーマンポテトを頬張りながら、豊前が笑う。バカにするような嫌な笑いではなかった。豊前の笑顔はいつもカラッとしていて清涼感がある。
    「今までうまくやれていたつもりだったのだけど」
    「ま、そういう怪我は皆やるだろ。気にすんなって」
    「……桑名と同じことを言う」
    「はは、そうか」
     少し濃い味付けの、ご飯のよく進むジャーマンポテトは話している間になくなっていた。
     豊前のバイトのシフトが夜遅い時間の日、桑名は夜食用におにぎりを用意しておいてくれる。今夜も豊前が台所でそのおにぎりを食べようとしていたところに、水を飲もうとした松井がちょうどやって来たのだ。冷蔵庫に夕飯の残りのジャーマンポテトがあることを伝えると、彼はパッと明るい笑顔になって「食う!」と冷蔵庫の戸を開けた。
     松井は豊前も飲むだろうと結局水ではなく茶を淹れた。ついこの間までは氷を浮かせた麦茶を飲んでいたはずなのに、今はもう温かいほうじ茶を飲んでいる。こうした夜遅くには、風の冷たさは既に秋だった。
     豊前の帰ってくる時間は日によって違うとはいえ、遅い日は本当に遅く、夜中の二時を過ぎていることも多かった。なぜ松井がそれを知っているかといえば、眠れない日はその時間になっても目が冴えていることが多かったからだ。そういう日は、物音がやたらと耳に届いてしまうのだ。
     お湯の温度を気にしなくていいから楽だよね、と桑名がスーパーで買ってきたほうじ茶は、なるほど言われた通り沸かしたての湯で淹れれば香りもよく立って美味しかった。夜食を食べ終えた豊前も、一口飲んで長い息を吐いた。
    「桑名と松井って、普段どんな話してんの?」
    「え?」
    「いや、そういえば俺バイト行ってるから、三人で揃ってることってあんまねーんだなって思ってさ。ちょっと気になった」
    「ああ……今日は、豊前のバイトが忙しそうだと話していたけれど」
     桑名も心配していた、と言うと、豊前は目を伏せてばつの悪そうな笑みを浮かべた。弁明はしないのがかえって桑名と豊前の仲のよさを物語っている気がした。こういうとき、松井は自分があとからこのふたりの間に加わったということを思い出さずにはいられなかった。ほとんど数日の違いでしかないはずが、随分と大きな隔たりに感じる。
    「他は? 俺のこと以外」
    「他といっても……前期と違ってもう授業も被っていないからな……」
     あとは料理を教えてもらっているときのことくらいだ。他に何かあるかと中空を見上げる。今日は桑名もこういう仕草をしていた。どこかも『ここ』になってしまうと息を飲んで……しかし、これは豊前の話でもあった。松井が知らない桑名の顔を覗いた気がした一瞬、あのとき胸が痛んだのは、おそらくそれまで以上に距離を感じたからだ。
    「どこか」を追い求める豊前も、「どこか」をも「ここ」にしてしまう桑名も、松井とは違う。その当たり前のことが、どうしてこんなに痛く感じるのか……台所のやたらと白い明かりが目に刺さる。まぶしくて目を閉じると、その白さに思い出すものがあった。
    「……レモン」
    「お? レモンがどうした?」
    「桑名の家にレモンの木があるらしくて、実が生ったら送ってくれるらしい。緑のと、黄色のと」
    「へぇ」
     最近ではなく夏の話だったが、ふたりでした話というとなんとなくそれが思い浮かんだ。そしてレモンのことを思い出すと、優しい形の目も目蓋の裏をよぎっていった。
     桑名からの受け売り通り、緑のが熟すと黄色くなるのだと話すのを、豊前は頷きながら聞いてくれた。松井を見る豊前の目はにらむわけではなかったが、まっすぐにこちらを射抜く鋭さがあった。初めて会ったときもそうだったと、ほんの半年ほど前のことが懐かしくなった。
     桑名の目には、そういう鋭さは感じなかった。ただひたすら優しくて、それには豊前とは違う温かさがあった。
    「先月、農園にバイトに行っただろう。桑名が車を借りてきて、海沿いの道を走って。あの道の途中に、レモンの木があったんだ。花が咲いていて、帰りに桑名が教えてくれたよ。豊前は寝ていたけれど」
    「お前よく寝なかったな、あのとき」
    「運転させておいて桑名だけというのはダメだろう」
     豊前みたいに走り回ってはいなかったし、と付け足すと、思い出したのかどこかひきつった笑いを浮かべた。
    「あいつ気にしねーと思うけどな。ま、お前が気にするか」
     自分で言ったことに納得したように頷いて、豊前は松井の向こうを見る目をした。単純に松井のうしろにある壁を見ているのとは違う、「どこか遠く」を見ている目だった。
     その目で、レモンの花か、と呟いた声は、まるで焦がれるような響きを持っていた。
    「レモンの花がどうかした?」
    「いや、最近大学の授業でも聞いたからさ。レモンの花の咲くところ……どこだったかな、外国の詩なんだと。小さい頃に拐われた子が、ふるさとを想って歌っているんだとか……確か、望郷とか憧れとか言ってたな。でも、小さいときに離れちまったふるさとのことなんて歌えるもんなのかなって思ったから、なんか覚えてた」
    「豊前……」
     思わぬ知識を披露された驚きと、それを語る遠い目への憧れと、そして何より安堵を覚えていた松井は、つい素直に呟いてしまった。
    「大学の授業、ちゃんと出ていたんだな……」
    「馬鹿にしてんのか?」

     松井のマグカップも自分の使った食器と一緒に洗ってくれるという豊前の申出に甘えて後片付けを任せ、松井は部屋に戻った。
     あまり大きな声で話していたわけでもなかったが、桑名はやはり起きてこなかったな、と今さら思った。早寝早起き、お手本のように規則正しい生活を繰り返す桑名の眠りはきっと今、深いのだろう。
     レモンの花の咲くところ、と聞いたばかりの言葉が頭の中で繰り返された。
     帰りたいと歌うのだろうか。遠い故郷を、幼い記憶のそれを恋しいと。
     その願い自体が松井にはまぶしいものに思えた。そうしたまぶしいものを思うとき、夏の光を散らす海と、照り返す葉の鮮やかさと、レモンの小さな花の白さを思い出し、そして、それを教えてくれた彼の瞳を想った。
     桑名には、レモンの花の咲くところがあるのだ。
     思い至ると、あの笑みの大らかさも声の柔らかさも、桑名を形作るすべてのものがどこから来ているのか、明らかなものとして腑に落ちた。同時に、自分にはまぶしすぎるとも思った。



     電話の頻度は増えていた。
     受話器を模したアイコンの右上にくっついた数字を眺めながら、松井はぼんやりと当たり前のことを思い返していた。
     今、こうして住んでいるところの家賃も、通っている大学の学費も、着ているもの、食べているもの、この手にあるスマホもすべて、親のお金から支払われている。もっと言えば、今まで生きてこれたのも、住むところや食事を用意してもらって、医療や教育にお金をかけてもらったからだ。今の松井があるのは、親の働きによるもので間違いない。
     親が子にお金を、そして手間をかける理由は「愛情」という言葉でよく説明されるが、松井はそれをうまく飲み込めないでいる。こうして平穏に暮らせている身で「愛情」を疑うことの不遜さにも気付いているつもりだが、疑心は拭えなかった。「愛情」を知らないというつもりはない。聞いたことはあるし、意味も知っているとは思っているけれど、ただ松井の肌の上を滑るように通過していくだけだ。まるで自分の持ち物ではないかのように。
     親に愛情を与えてもらった子どもは、どう生きるのが自然なのだろう……おそらくは、その愛情を返すことが自然なのだ。きっと親だってそうなるものと思って、いや思うなんていうほど意識もしないで、自分の子どもに接している。愛情を持って。
     親の望むものを返さない子どもに、どんな価値があるというのだろう……漠然とした想いは、ずっと以前から感じていたものだ。それはだんだんと潮の満ちるように松井を浸していった。そうしてその途方もない不安感に浸っていると、暗く深い淵を目の前にしている気分になった。
     その淵の向こうには何もなくて、どこへ辿り着くということもないのだ。

     九月もすぐに過ぎ去ってしまうと昼間も随分と涼しくなった。授業が終わったあとの窓の外が日に日に暗くなっていくのがなんだか新鮮に感じた。
     そうはいっても松井は実験が午後に詰まっている日は元々終わる時間もまばらで、そのほとんどがとっぷり日が暮れた頃なのだが。
    「……わ、冬期講習だって」
     早いね、と桑名が言う。駅前の予備校には、春に向けて受験生を追い立てる広告がでかでかと主張していた。
     今日は桑名も授業で遅くなったらしい。違う学部、違う棟だが、たまたま門の近くで出くわし、自然と並んで歩いていた。
    「国立、私立に医学部コースかぁ……忙しそうだね。去年は自分たちがああだったのに、一年経っただけで全然違って変な感じだ」
    「そうか?」
    「松井は、そうでもない?」
     開いている時間いっぱい自習室でも使うのだろう、誰かに急かされたような足取りで予備校へ向かう制服たちを横目で見送りながら、この子たちは春のあとを想うことはあるのだろうか、という考えが松井の頭によぎっていった。例えば、念願の大学生活を楽しもうだとか、大学ではこういうことを勉強しようだとか。
    「桑名は、予備校に通っていたのか?」
    「うん? 夏期講習と冬期講習だけ行っていたね」
    「なるほど。ずっと通っているようなタイプには見えなかったから」
    「ああ、そういう……確かに、毎日通う気はなかったなぁ。予備校って、三年生のときだけ通う子とかもいるよね」
    「いるね」
    「そういう松井は、もしかしてずっと通ってた?」
    「……そうだね」
     駅前だからコンビニには困らない。自習室は飲食禁止だろうが、ロビーやどこか解放された教室で手早く食事を済ませて、また授業か自習室に戻る……それが繰り返される毎日が染み着いていた。そう思うと確かに、今はこうしてのんびり歩いているだなんて不思議だった。
     いつも何かに追い立てられるように早足で歩いていた。効率的に、最短距離、最小時間で目指すところへ辿り着くために。――目指すところなんて、本当はなかったくせに。
    「……やっぱり、僕は大して違わないと思う」
    「うん?」
    「去年と、今。大学生になっても何も変わっていない。場所が変わっても、僕は僕のままだ。自分が変わっていないんだから、どこに行っても同じだろうな……どこにも行けないのと一緒だ」
    「……そうなんだ」
     桑名は松井の言葉を咀嚼するようにゆったり返事をすると、「あの子たち皆、いい結果になるといいね」と微笑んだ。松井はその笑みをちらりと見上げ、「ああ」と短く応えた。
     駅前では行き交う人が皆、迷いのない足取りでそれぞれの目的地へ向かっているように見える。その中で自分だけ、ただ進んでいるふりをしているだけなんじゃないか――今は隣でゆったりと歩を進める桑名に合わせるように、松井の足は動いていた。

     同じところをぐるぐると回り続けている気がする。
    「狂気とは、違う結果を望みながら、同じ行動を繰り返すこと」なんて言葉があるらしい。確か、予備校の講師から聞いたのだ。
     受験で結果を出すためにはやみくもにやるだけではダメだ、と伝えたかったのだろう。そうはいっても、ただ毎日をやりすごすために家と学校と予備校とを回っていた日々は、一体狂気とどう違っただろう……そしてそれは、今も変わっていないのだ。
     大学へ行って授業を受けて、家に戻る。それを繰り返すうちに秋も深まって、上着が手放せなくなった。灰色のトレンチコートのボタンを閉めながら、松井はのろのろと街路樹が色付きだした道を歩いた。
    「……あ、おかえり、松井」
     台所からひょっこり顔を出して、桑名が微笑んでいる。大学から帰ってきたばかりの松井はカバンを肩にかけたまま、桑名に手招きされて台所に入った。
    「これ、今日届いたんだ。はい」
     手に載せられたのは、緑色のレモンだった。テーブルの上には同じようなレモンがビニール袋に入れられて置いてある。
     前に言っていた家のレモンか、とすぐに理解した。思い返してみれば、実のままのレモンを触ること自体初めてかもしれない。でこぼこしているのにつやもある皮の感触が、冷たく指に残った。レモンと聞いて想像する紡錘形ではあるが、よく見るとひとつひとつ形が少しずつ違っていた。どれも松井の手のひらに収まる大きさだ。
    「思ったよりボコボコしている……」
    「そりゃ、畑の端で放っといてある木だしねぇ。でも、ちゃんと食べられるよ」
     さすがにお店には卸せないけどね、と笑う桑名もレモンを握っている。
    「グリーンレモンは皮の香りも強いからシロップとかもいいよ。砂糖と蜂蜜で漬けておいて、冬になったらお湯で割って飲もうか」
    「ホットレモネードか」
    「あ、おしゃれな言い方だ」
    「そうか?」
     松井の疑問にはふふふと笑って応えず、桑名も自分の手の中でレモンを転がしている。手の大きさのせいか、松井の手の中のものより小さく見えた。
    「でもシロップは時間がかかっちゃうね。今日すぐ食べられるものだと何があるかなぁ……作ったことはないけれど、レモン鍋とかしてみようか」
    「桑名は、今日食べたいのか」
     実家から送られてくるのをそんなに楽しみにしていたのか。やっぱり普通は、暮らしていた家を懐かしめるのは嬉しいものなのだろうか……頭の底でそう考えながら、松井はレモンの皮がごつごつしているのを指で確かめていた。固いけれど、爪を食い込ませることはできそうな果実の皮。ひんやりしていて、手のひらにかかる重みも意外と心地好い。
     答えを求めていたわけではなかったが、桑名は首を傾げていた。
    「いや、松井に食べてもらおうと思って」
    「え?」
    「グリーンレモンと普通の黄色いやつ、食べ比べしてみようって。前に言ってなかったっけ?」
     確かに言っていた。ただ、そこまで本気とは思っていなかった。
     桑名の言うことだからまったくの冗談だと思っていたわけではない。しかし、実際に手に取って重みを確かめられるものを目の前に並べられ、これが自分のために用意されたのだと知らされると、足が竦んだ。与えてもらえるようなことを、自分は何もしていないのに。
    「食べ比べ、本当にするのか……」
    「するよ。嘘ついても仕方ないでしょ」
     おかしそうに桑名が笑う。松井はあの世間話のやりとりが、社交辞令というのか、ただの口約束ではなく、思った以上に大事になっていたように感じて困惑していた。
    「松井は、どっちが好みかな。楽しみだね」
     そうして愛おしそうな手付きでまだ固い緑のレモンを撫でる。きっと前髪の向こうでは、黄色い瞳を柔らかに細めながら。
     どちらが好みかなんて、いいものかなんて、自分が決めていいのか……このやりとりすら、些細な世間話に違いない。どこかで分かっていながら、いざ自分に突きつけられるとうまく応えられない。ただ桑名が笑っていることが、まぶしい。
    「松井!」
     目の前で微笑んでいた桑名が一転、険しい顔になった。え、と声を出そうとしたとき、自分の口許に垂れていくものの感触に気がついた。
     思わず俯いたとき、それは唇から滴って松井の手の中のレモンに落ちた。つやのある緑の皮に赤い液体が丸々と主張し、すぐにそのごつごつした肌の上を滑っていこうとする。
    「あ……」
    「ティッシュ持ってくるね」
     レモンを持っていない方の手で鼻を押さえたが、指の濡れていく感じがするばかりだった。桑名はリビングに置いてあったティッシュを箱ごと持ってきて、数枚取り出すと松井の鼻先に差し出した。
    「……すまない」
    「いいよぉ。いきなりでびっくりしたね……」
    「昔からよく出るんだ……最近はなかったけど」
    「そうなんだ」
     さりげなく松井の手からレモンを受けとる桑名の指が、滴り落ちた松井の鼻血で汚れた。それにひどく動揺する自分がいた。
    「……悪いけど、部屋で休んでいるよ」
    「うん」
     レモンは夕飯に鶏肉と一緒に炒めたものとして出てきた。桑名がこれまでに作ってきた料理とは少し毛色が違って見えた。
    「レモンって俺、こうやって料理で使うのあんまり見たことねーな」
     豊前もそうだったようで、「うめーちゃ!」と笑いながら見る見るうちに皿を空にしていった。
    「おいしいならよかった。僕も作ったのは初めてだからね。もちろんレモンを使った料理があるのは知ってたんだけど、ほら、僕の作る料理って田舎料理って感じでしょ。家ではこういうふうに料理に使ったことなかったんだよね」
    「今まで生ったレモン、どうしてたんだ?」
    「大体は黄色くなるまで放っといていたね。で、黄色くなったら砂糖と蜂蜜と一緒に漬けたり……あんまりお菓子とかは作らないんだよね、うち」
    「へぇ」
     松井は豊前と桑名が話すのを聞きながら、黙々と料理を口に運んだ。柔らかい鶏肉を噛むとレモンの爽やかな香りが鼻に抜けて、舌の上では脂が後を引かないように酸味とともに締まった塩の味がする。初めて作ったと言っていたが、そうは思えなかった。
     しかし、ただの一言、「美味しい」という言葉に集約されるはずのそれが、なぜかうまく飲み込めないでいた。
    「お酒に漬けたりもしてたけどね」
    「お、それは来年だな」
     なんでもないようにそう言って、ふたりは笑っている。
     この家が安く借りられるのは、来年の春までなのだ。今まで当然のように三人で過ごしてきて、この時間に期限のあることを忘れたつもりはなかったのに、突然その事実が質量を持ったように松井に重くのしかかってきた。
     次の春にはどうしているだろう。どこで暮らして、何を……ひとまず住む場所があればいいと始めたはずの共同生活が、終わりのあるものだと突きつけられると、その先に何も道がないような気分になった。
     道もなければ、やはりどこにも行けないのだ。
    「……松井」
     突然名前を呼ばれて顔を上げると、豊前が微笑んでいた。
    「大丈夫か? なんか、調子悪い?」
     箸が止まっていたらしい。桑名も手を止めて、松井を見つめていた。豊前の顔には柔らかな気遣いが浮かんでいて、それから目を逸らして松井は言葉を探した。
    「……そうみたいだ」
    「疲れてるのかな。無理して全部食べなくてもいいからね」
     桑名の声には安堵が滲んでいた。松井が何かしら応えられたことにほっとしたのだろう。そのことに込み上げてくるものを押さえつけて、松井は「いや、食べるよ」と返事をした。実際、皿に残っているのはほんの少しで、食欲がないわけではなかった。
     やりすごすような気持ちで台所での残りの時間を過ごした。自室に戻って、ひとりになると、食事をしていたときのどうしようもない気持ちが溢れ出そうになった。
     気遣われるのも苦しければ、心配されているということそれ自体も苦しかった。どうしてこうなってしまうのだろう。
     秋の更けていくのを窓の外に感じながら、松井は眠れずにいた。去年の今頃は、春へと向けて毎日せっつかれていた頃だ。桑名とも予備校の看板を見ながら話をした……どこへ行きたいわけでもないのに、どこかへ追いやられると感じていた頃。
     あの頃、そういう環境から逃げ出したいという想いはあったのに、その先が「どこなのか」は考えたことがなかった。「ここではないどこか」がどこなのかは結局分からないままで、自分はひたすら同じところを堂々巡り、どこにも行けない。
     どうにもできないことばかりを想うと目の端からこぼれ落ちそうになるものがあり、慌ててそれを袖で拭った。身体を丸めて目を閉じると、今日初めて見た緑色のレモンばかりが目蓋に浮かんできた。
     その夜はずっと、桑名のレモンと指を自分の血で汚した光景が頭から離れなかった。

     翌日は土曜日で、大学の授業がなかった。
     休みの日は朝食も取らずに長寝する松井は、昼近くになってのろのろと台所へと向かった。特に何かが食べたかったわけではない。もう習慣になっているのだ。
    「……あ、おはよう、松井」
     松井が起きてきた気配に気付いたのだろう、リビングから桑名が顔を出した。手には本を持っている。リビングで読んでいたらしい。
    「おはよう」
    「何か食べる?」
    「いや、いいよ。もう昼になるし」
     リビングより自分の部屋で読んだ方が落ち着くのではないか……そう考えたが、同じことか、とすぐに思い直した。リビングにいても、松井が来ないならひとりだ。豊前はきっと今朝もバイトに行っている。
    「そっか。じゃあ、お昼どうする?」
    「土日は当番なしだろう」
    「そうだけどさ」
     冷蔵庫から自分で置いておいたペットボトルを取り出して、蓋をひねる。水の入ったペットボトルの蓋は軽い力で開いた。
    「作ってもいいし、たまには食べにいってもいいし。豊前がね、駅裏にある喫茶店を教えてくれたんだ」
     大学の友だちがバイトしてるんだって、と話す口振りは穏やかで、明瞭で、松井へとまっすぐに向けられている。
     春に初めて会ったばかりの三人での生活がうまくいっていたのは、三人それぞれの距離の取り方が絶妙な均衡を保っていたからだ。自身がそうであるように他人にも好きに過ごせばいいというスタンスでいる豊前も、マイペースに過ごして決して相手にはそれを強要しない桑名も……そして、踏み込まれたくなくて、踏み込まずに暮らしてきた松井も。
     踏み込まないように暮らしてきたはずなのだ。踏み込まれて、自分を晒してしまうことなんてしたくないから――なのに、桑名にはよく口を滑らせてしまう。言うべきではなかったということに、言ってから気がつく。
     桑名は何も悪くない。ただ彼は今までもそうであったように自分らしく過ごしているだけ……だから今、桑名の優しい声に潜む気遣いに苛立つような、悲しいような、身の内でどうしようもなく波立つものに押し流されようとしている自分が悪いのだ。
    「行くなら、ひとりで行ってくれ」
    「……やっぱり、まだ調子悪い?」
    「そういうわけじゃない。でも、何か食べたいと思わない」
    「……ダメだよ、ちゃんと食べないと。身体の具合に気持ちまで引きずられてしまうよ」
     健全な身体のためには健全な食事を……至極真っ当な、まぶしいくらいに正しい理屈だ。ただ、そういう正しさが松井にはつらかった。正しいものを目の当たりにするときはいつでも、自分がそちら側ではないことを思い知るときだったからだ。
     三分の一程度飲んだ水にまた蓋をして、冷蔵庫に戻す。桑名の顔を見るのが怖くてそういうちょっとした動きをする間も俯いたままだった。どうせまっすぐに松井を見つめているに決まっている。多分、心配そうな顔で。
    「ね、松井、入るなら何か食べた方が……」
    「――桑名には!」
     声の大きさにも、冷蔵庫の戸を叩きつけるように閉めた音の大きさにも自分で驚いた。喚いた無様さへの後悔はすぐに襲ってきて、だからすぐに声も、自分の中で奔流のように荒れ狂っていた気持ちも萎んでいった。
     それでも、震える喉が動くのは止められなかった。
    「桑名には、僕の気持ちなんか分からない」
     どうして、それを言うのに顔を上げて、振り向いてしまったのだろう……昼前の台所はしんとしていて、窓の外からは近所の生活音がわずかに聞こえてくる。なんでもない日の、なんでもないはずの時間だった。
    「……うん、そうかもしれないね」
     ごめんね、という桑名の言葉も、何でもないことのように肌寒い空気に溶けていった。



    「……まーだ喧嘩してる感じか?」
     今夜も遅くに帰ってきた豊前が呆れたように笑う。松井はどう応えたものか悩んで結局黙り込んでしまった。それにも豊前は笑い、ダイニングテーブルを見る。桑名の作ってくれるおにぎりはいつも通り、サランラップに覆われてテーブルに二個並んでいる。
    「もう一週間くらいか? ま、俺はさっさと仲直りしちまえよしか言うことがねーから、好きにしてろって感じなんだけどさ」
     椅子に上着をひっかけると、ポットの置いてある棚へと移動する。台所を動く豊前は手慣れている。もうこの暮らしが染み着いているのだ。
    「飯、最近はどうしてるんだ?」
    「……コンビニとか……」
    「あー、たまに食いたくなるよな。俺も昼は大体学食かコンビニ」
     豊前は棚から大きめのタッパーを取り出すと中身を物色した。そこには即席スープの素が入れられているのだ。
     目当てのスープを見つけたのだろう、タッパーを元に戻すと席に戻る。そしておにぎりを片方取り上げると、松井に差し出した。
    「ほら。食っとけよ」
    「……これは、豊前のだろう」
    「腹減らしてる奴の前でひとり食ってんのも気分悪いだろ。……桑名のおにぎりって、すげぇきれいな三角だよな」
     俺が作るとなんでか丸くなるんだよ、とこぼしながら、スープの素の用意を始める。豊前が取り出してきたのは野菜の味噌汁で、豊前の分ともうひとつ、同じように汁椀もふたつ食器棚から取り出された。
    「こいつもあった方がいいだろ」
     それぞれ汁椀に素を入れてポットから湯を注ぐ。促されるまま受け取った椀の中では、フリーズドライの、乾かして固めた土のような塊が湯の中でほぐれて広がって、食欲をそそる塩気のある匂いが立つ。松井のお腹が、ぐう、と鳴った。
    「お、食欲はあるみてーじゃん」
     豊前が歯を見せて笑った。相変わらずからかう口調ではありながら、人を馬鹿にした嫌味さはなかった。
     豊前の向かいに座っておにぎりをかじり、合間に味噌汁をすすりながら松井は、ばれている、と感じていた。
     ばれているというか、おそらく気付かれているのだ。最近の松井がろくに食事を摂っていないことに。
     桑名に一方的に怒鳴ってしまってから、松井は食事の席に顔を出していない。コンビニで済ませていると言ったのだって、固形食や惣菜パンばかりだ。米を口にしたのは久しぶりだった。
     固形食も惣菜パンも、食事ではないだなんて言うつもりはない。実際、大学に入る前の自分の食事風景を思い返すと、そういうものを掴んでいる手ばかりが浮かぶのだ。飢えはしのげるし、短時間で栄養摂取を済ませて他のことに時間を使える。それを一概に悪いと言い切ることはできない。
     しかし、ここでの生活の食事に慣れてしまった。豊前が自分の夜食の用意に手慣れているように、松井にもここのテーブルについて、誰かと食事している空気が染み着いているのだ。
    「桑名がさぁ、前に一緒に夕飯食えたとき、えらく喜んでてさ」
     あの土曜日から一週間ほど、松井が食卓に顔を出さない間、豊前もあまり顔を出せずにいたらしい。バイトをしていたのか、大学の方で用事でもあるのか……考えてみれば、そろそろ大学祭の時期なのだろう。自分は何も参加する予定がなかったから頭が回らなかった。
    「毎晩ひとりでご飯食べるのって寂しいんだねぇ、とか言ってしょぼくれてるから、ちょっと笑っちまった」
     ひとりで食事をする桑名……聞いて初めて、その景色を想像して松井も寂しくなった。ひとりだとしても普段通りの献立を作っていたのだろう。ひとりきりの食事を寂しいと思う、健全すぎる精神を作った、健全な食事を。
     松井まで寂しいと感じたのは、そういう味気ない食事風景があまりにも桑名に似合わないからだ。
    「今月でバイクの目標額に行けそうだし、バイト減らせそうだわ。今日行ってたとこは辞めるかな、俺も夜寝てぇし……そしたら、夕飯一緒に食える日増えそうだな」
    「……だから、さっさと仲直りしろって?」
     仲直り。自分で口に出しながら違和感があった。仲違いは仲違いなのかもしれない。しかし、桑名に非はないのだ。松井が一方的に、彼を突っぱねてしまっただけで。
    「そりゃな、同居人の関係がギスギスしていると居心地悪いだろ。まぁ喧嘩も好きなだけやりゃいいと思うけど」
    「謝れとは、言わないんだな」
     喧嘩も好きにしろなんて、度量が大きいのか、それとも首を突っ込むのが面倒なのか……そもそもこの一週間、豊前は松井と顔を合わせても桑名との間に何があったのかは訊ねてこなかった。桑名からあらましを聞いていたのかもしれないが、居心地が悪いとこぼす一方で放任を貫いていた。なるようになれとでもいうような、諦めすら疑ってしまうほどに。
     おにぎりの最後の一片を頬張っていた豊前は、それを飲み込んでしまうと、少し意地の悪そうな目付きで笑った。
    「どうすりゃいいか、誰かに決められた方が楽か?」
     普段より低く響いた声は鋭く、自分でも気付かなかった柔らかい場所を貫いていった。
     肩を強張らせた松井に、豊前は思わずといった感じで笑みをこぼした。しようがないものを目にしたときのような、それでいて優しい笑いでもあった。
    「ま、楽は楽なんだろうな。誰かに答えを用意してもらって、そこに向かって進めばいいっていうのは……でもそれって、お前はどこにいるんだ?」
     豊前の視線が松井を射抜く。変わらず笑みを浮かべながら、しかし逃がしてはくれない鋭さを持って。
     整った顔に浮かんでいる微笑は、甘さを感じるほど優しい。声色だって柔らかく、それでいてまっすぐ届いてくる。
     だからこそ、他ならぬ豊前に突きつけられているものが怖かった。

     秋は短い。近所の家の庭にあった金木犀の花はすべて落ち、大学の敷地を埋めるようにして広がっていた落ち葉も片付けられてしまうと、そこに新しい葉が降ってくることもほとんどなくなった。駅前まで並ぶ街路樹も寒空にほぼ裸の枝振りを晒している。
     ひとりで歩きながら、街中のそういう景色ばかりを見ている。視界に入るものだけを追っていれば、考えたくないことから目を逸らしていられる気がするからだ。
     でもそれがずっとは続かないことも分かっている。現に、歩こうとする先にかろうじて残っていた銀杏の葉の柔らかな黄色に、すぐあの瞳を思い出しているのだ。
     ——ごめんね、なんて言わせたいわけではなかった。
     桑名には僕の気持ちなんて分からない、というのは本音だった。「そんなことない」と応えてもらえることなんて望んでいなかったし、もしそう返事を寄越されたなら、自分はますます桑名との隔たりを感じただけだろう。
     なのに、どうして「そうかもしれない」という誠実な肯定に、それを言った彼の寂しそうな様子に自分は傷付いているのだろう……昨晩の豊前の「お前はどこにいるんだ?」という問いがまた耳の奥で鳴った。それは頭の底に痺れを覚えさせるほど長い響きだった。
     どこにも行けないと思っていたのは、本当。どこへ行っても同じ、自分が何も変わらないから――でも、その自分は、すぐ目の前にいた誰かとの距離をも測りかねて、彼を傷付け、彼の傷付くことに傷付いていた自分は、一体どこにいるべきなのだろう。居場所がないのにどこにも行けない苦しさで、息が詰まりそうだった。
     いつの間にか駅前に着いていた。やはり人は駅へ、あるいはどこかのビルの中へ、制服は予備校のある方へと吸い込まれるように歩いていく。日はもう沈みきって、その中でも一番明るい駅舎がぽっかり口を開けて人々を誘い込もうとしているようにも見えた。
     それが目に入ると、松井はとうとう立ち止まった。自分の行く先がすっかり分からなくなってしまったのだ。
     人の多い駅前で急に立ち止まってしまったが、道を急ぐ人々は無関心に、そして器用に松井を避けて歩いていった。まるでいないのと同じだった。
     駅の白い明かりと、そこから顔を伏せがちに出てくる人々を眺めていると、コートのポケットの中で震えるものに気付いた。いつもの癖でポケットからスマホを取り出すと、手の中に収まる小さな画面が松井の顔を照らした。
     これまで気付いていながら見ないふりをしてきた着信に、松井は初めて画面をタップした。

     バイトを終えて帰ってくると、いつもこの時間には見かけない人影が台所にいた。
    「……珍しいな、お前が夜更かしなんて」
    「おかえり。……ちょっとね」
     ふうん、と曖昧に鼻を鳴らして、豊前は普段通り自分の食事の用意をしようとした。桑名もいつも通り作った夜食をテーブルに用意してくれている。
     脱いだ上着を椅子の背もたれにひっかけながら、豊前は一日の仕事を終えて動きを緩めようとしている頭で考えた。
     今も普段と同じように二時を回っている。朝の早い、そして自分の習慣をほとんど変えることのない桑名がこの時間に起きているのは珍しい。それも、おにぎりの用意はいつもと同じようにしてくれてあるのに、わざわざ台所に座っているなんて……豊前を待つような約束なんてしていないし、そんな用事に心当たりもない。
     疲労を理由に押し流せない違和感は、嫌な予感として豊前の中で確かに軋みを引き起こした。
    「――松井は?」
     つい口を出た一言に、桑名は唇を引き結んだ。それだけで、予感が現実であることが分かってしまった。
    「……帰ってきてないみたいなんだ」
    「連絡は」
    「ない。電話もしてみたんだけど、出ない」
     豊前もかけてみてくれない、という言葉を聞きながら、豊前は既に自分のスマホを取り出していた。コール音は鳴った。しかし、鳴り続けるばかりだった。
    「……出ねぇな」
    「そう……」
    「外探すか?」
    「夜から一応、この辺りを気にしてはいるんだけど……」
     桑名はそこまで言うと口をつぐんでしまった。豊前もテーブルに手をついて、頭を回そうとした。
    「外を探すったって、この辺うろついてんなら、帰ってくるよな、多分……」
    「今までは帰ってきてたからね……」
    「他に行きそうなとこ」
    「大学はもう閉まっているから中にはいられないよ。学部の友だちの家とかは、僕には分からないかな……」
    「そういう話も聞いたことねぇしな……」
     もっと話を聞いておくべきだったかもしれない、と今になって後悔していた。言いたくなさそうなのを無理に聞き出すのは嫌だったから、当たり障りのないところを探るように会話をしてきた。黙り込んでいる松井はすぐに思い詰めたような顔をして、見ていられなかったから……だから、昨晩つい口に出してしまった言葉は、まだ言うべきではなかったのかもしれない。自分のやってしまったことだが、今日は一日それが心にひっかかっていた。昨日の怯えた猫のような松井の顔を思い出して、やり場のない気持ちを落ち着かせようと豊前は頭をガシガシと掻いた。
     思い詰めているのを救ってやろうなんて、そんな傲慢なことを考えていたわけではなかった。ただ、松井がなにか抱え込んでいるのだろうということは春の時点で豊前も桑名も気付いていて、それがふたりなりに気になっていただけだ。こういうことが起こってほしくなかったから。
    「……僕より、豊前の方が松井の行きそうなとこ思いつくんじゃないかなぁ」
    「へ? なんで」
     お前の方が松井といた時間多いだろ、と言外に込めて桑名を見ると、桑名はへらりと情けない笑みを浮かべた。
    「ほら、僕、最近は全然……」
     らしくない反応に豊前は溜息をつきたくなって、どうにかそれを抑え込んだ。桑名にまで弱られると、さすがにこっちも気が滅入る。
    「つったってなぁ……俺が松井と話したのだって、別にそんな変わったことじゃねーよ。飯とか大学のこととか……」
     言いながらまばたきする目蓋の裏に、いつかのダイニングテーブルが浮かんだ。自分はバイトに出ていて、この家にいる時間はふたりより少ない。桑名は時間が合うと共有するようにこの家のことだったり松井の様子だったりを話してくれてはいたが、言葉数の少ない松井の口からも聞いてみたくなったのだ。それで、桑名と何の話をしているのかなんて、ずいぶんと曖昧なことを訊いた――ぱちりと、ピースのはまるような感覚があった。
    「……レモン」
    「え?」
     俯いていた桑名が、豊前の呟きに顔を上げた。
    「いや、前に松井に、桑名といつも何話してんだーなんて訊いてみたら、レモンの話したっつってて……緑のと黄色いのと……レモンの、花の……」
     いやまさか、という気持ちと、それでいてよく当たる自分の勘が「それだ」と告げている感覚があって、豊前も戸惑いながら桑名の顔を見た。桑名は小さく息を飲むと、さっきまでとは違う緊張感をたたえた面持ちで立ち上がった。
    「豊前は家にいて!」
    「なんで! 俺も行く!」
     バタバタと忙しく階段を駆け上がる桑名の後を追う。桑名は自室に飛び込み、いつも羽織っているマウンテンパーカーを持ち出すと、財布とスマホだけをポケットに突っ込んだ。
    「入れ違いで帰ってきて誰もいなかったら嫌でしょ!」
    「……ああ~もうっ! バイクあったらさっさと先に行くのに!」
     玄関までついていきながらこぼした言葉に、靴を履いた桑名は振り返って冷静に応えた。
    「いや免許取って一年経ってないんだから、行ってもふたり乗りで帰ってこれないでしょ」
    「お前ほんとそういうとこムカつく」
     つい口を出た悪態に、桑名は今度はいつものように笑った。
    「じゃ、僕行ってくるから。いてもいなくても連絡するね。疲れてるとこ悪いけど、起きててくれるかな」
    「いいよ、どうせ寝れねーし」
    「もし僕の連絡の前に松井がここに帰ってきたら、連絡よろしく」
    「ああ」
    「じゃあ行ってくるね」
    「ああ、……夜道、気をつけろよ」
    「うん」
     豊前もご飯ちゃんと食べるんだよ、と言い残して桑名は走っていった。豊前は玄関の前でその背中が見えなくなるまで見送ると、あいつやっぱり力抜けるわ、と天を仰いだ。
     街中では、秋の慎ましい星々はよく見えなかった。



     どれくらいこうして座っているのか、もう分からない。
     スマホは何度も鳴っていて、その回数を数えるのはとっくにやめていた。桑名か豊前か、それとも母親か……誰であっても、うまく話せそうになかった。
     そもそも、今まで誰かとうまく話せたことなんてなかったのかもしれない。
     駅前でかかってきた電話に出て、久しぶりに聞いた母親の声にだってほとんど何も言えないまま一方的に電話を切ってしまった。そうして駅舎に吸い込まれて、ちょうど来た電車に乗って、なんとなく揺られていって……適当に降りて、そこからバスに乗って、目指したのはあの寂れたバス停だった。レモンの木が見たかった。
     今は花なんか咲いていないのは分かっていた。そういう時期じゃないのは、桑名が以前言っていたから。
     分かっているのに、どうして見たいと思ってしまうのだろう……松井の乗り込んだバスは最終便で、あの古臭いバス停のある海の街に辿り着く前の、もう少し盛えた駅前までしか乗せてくれなかった。そうして勝手も知らない暗い道を、松井はふらふらと歩き出した。時間も自分も持て余している気分だった。
     迷惑をかけたいわけではなかったし、心配されたいわけでもなかった。むしろその逆で、どちらにもならないように気をつければ気をつけるほど、自分は磨り減っていった。磨り減っていく自分を感じている自分は、一体どこにいたのだろう。いっそ、そういう自分もなくなるまで削れてしまえれば、もっと楽で、周りに迷惑も心配もかけずに済んだのだろうか。
     そういうことばかりが頭の中をぐるぐると巡っていた。なんとなくで歩いていても夏に通った海沿いの道に出ることはできて、松井は夜の底に横たわる黒い塊からの波音を聞いていた。時折通っていく車から漏れている音楽以外は、それしか耳に入らなかった。
     足が痛みを訴えてきても進むのを自分に課せられた義務のように感じていた。それでいて、冷えた頭の隅では単純に引き返す決心をつける気力もないだけなのも分かっていた。思えばずっとそうして生きてきたような気もする。
     冷えていく気温の中で、長く歩き続けたためにうっすらと背中に汗の滲んでいるのを感じながら一本道を歩き続け、例のバス停に着いた。山道の手前、一応といった感じで設置されている街灯は明滅していたが、目を凝らさずともレモンの木にあの可憐な白い花のついていないのは分かった。
     引き返す気力がないのは辿り着いても同じで、松井は掘建小屋のような待合所に入ると、そこにあったベンチに腰掛けた。しばらくすれば汗も引いて、寒気を覚えた。
     何もせず座り込んでいただけでも夜は更けていった。林の中で何かの動く気配と、背中越しに寄せてくる波音と、自分の息遣いとを感じていた。あまりにも頭が回らなくて、もしかしたら時々は眠っていたのかもしれない。たまに通りかかるトラックのライトが松井の汚れた靴を照らすことがあって、その一瞬で過ぎ去っていく光に背筋を怯えが走っていった。見つかってしまうのが怖かった。
     何から逃れようとしているのか……思えばずっと逃げてきたのではないか。家を出て、電話には気付かないふりをして、自分のことは明かさないようにして……しかし逃げようにも、自分には行ける場所なんてなかったのだ。そうして自分がどこにいるべきか分からなくなって、どこにもいられないのに、消えてしまうこともできないのが苦しかった。
     もうずっと、消えてしまいたかった。こうしてどこにも行けないくせにただ息をしているだけの自分は、いなくなってしまいたかった。身体を遺して死んでしまうのではなくて、最初からいなかったように――それができないことが分かっていても、その夢想は暗い淵としていつも松井の足許に横たわっていた。
     歩いているときは重いばかりだった足は冷えきってしまって、感覚が分からなくなっていた。それでも靴の中で指を動かしてみれば痛みを訴えてきて、松井はそうして自分の身体が傷んでいるのを確かめた。
     夜はどれだけ続くだろう。明けそうに思えなかった。このままずっと忘れ去られたバス停に座り込んで来ないバスを待ちぼうけしている……「ここ」ではない「どこか」を羨みながら、どこにも行けない自分には似合いだと思った。
     そうするうちに何度目のものかも分からないエンジン音が聞こえてきて、ヘッドライトの光が待合所の中に這うように滑り込んできた。また靴を照らして過ぎていったそれの音を耳だけで追っていると、それはすぐ近くでブレーキ音を立てた。
     荒っぽくドアを閉める音、バタバタと鳴る足音、近付いてくるその気配に座り込んだままつい顔を上げたとき、彼はちょうど待合所に飛び込んできたところだった。
    「松井!」
     普段柔らかに響く声がこうして厳しく飛んでくるのも、あまりにも必死な表情も初めてだった。いつもの白いマウンテンパーカーを羽織った桑名は座ったままの松井の前に大股で歩み寄ると、躊躇う素振りも見せずに膝をついて覗き込むようにして視線を合わせた。
    「よかった、ここにいて……大丈夫? どこか怪我とかしてない? 動ける?」
     松井の肩を掴む手は力強く、少し揺らしながら矢継ぎ早に訊いてくるのが桑名が珍しく焦ってることを物語っていた。
     松井が何も応えられないでいると、桑名は自分を落ち着かせるように二、三度ゆっくり呼吸し、いつものように笑った。
    「帰ろうよ、松井。豊前も待ってるよ」
     その言葉に自分でも驚くほど身体が強張った。それは肩を掴んでいる手を通して、桑名にも伝わったらしい。
    「……嫌?」
     困ったように笑いながら、首を傾げる。幼い子どもにするような仕草に何かを言おうと口を開きはしたが、肯定も否定も出てこなかった。その様子を見た桑名はまた「そっかぁ」と笑うと、立ち上がり、地面につけていた膝を軽く払いながら松井の隣に腰かけた。
    「じゃあ、もうちょっとここにいよっか」
     そうしてパーカーの立襟に顔を埋めるように姿勢を崩して、壁にもたれかかった。
     腕が軽く触れる程度の近さに座っているだけで、桑名のいる方が温かかった。戻ろうとも、ひとりで帰れとも言えないまま、松井はまた自分の足許に視線を落としていた。それまでは自分のブーツの随分と汚れてしまった爪先ばかり見ていたのに、今はすぐ隣にある自分より大きいサイズのスニーカーに視線を寄せてしまっている。
     山からの気配も波音も遠くなり、桑名の息をする音ばかりを聞いていた。自分ではない生きているものの気配、しかもそれが桑名であることが、松井の意識を縫い留めていた。
    「……あ」
     しばらくふたりで黙り込んでいたが、桑名が小さく声をあげた。聞き慣れた柔らかな響きに、松井も顔を上げた。
    「レモン、生ってた?」
     へらりと笑って、そんなことを訊く。妙に間抜けに感じて、ほとんど吐息のようなものだったが松井の口からも笑いが漏れ出た。
    「見ていない」
     ほぼ口の中だけで鳴っただけのような、掠れた声が出た。それでも桑名の耳には届いたようで、「僕も見てなかったなぁ」とレモンの木のある方を見ようとする素振りをした。掘建小屋の薄い壁に阻まれて見えるはずのないものを見ようとする芝居がかった動きに、松井は苦しくなった。気を遣わせているのだ。
    「……桑名は、本当にレモンが好きなんだな」
    「え?」
     松井の言葉に桑名は向き直ると、首を傾げた。
    「レモン好きなのは、松井でしょ?」
    「僕が? どうして」
    「いや、だって、前に僕の目見て、レモンみたいって……」
     言いながら桑名の声が尻萎みになっていく。言わんとすることを察して、松井が続きを引き取った。
    「……確かに言ったけど、好きとかは、別に……」
     ふたりは少しの間、互いを探るように見つめあった。ギャアギャアとけたたましい鳴き声をあげて鳥が飛んでいったが、それに驚く余裕もなかった。
    「……ああ~、ごめん、僕の勘違いだった……」
    「ああ、いや……」
     桑名は両手で顔を覆うと、膝に頭をつけそうな形で俯いてしまった。松井は目の前に晒された広い背中に思わず触れそうになって、しかし触ってもいいものか迷っているうちに桑名はもごもごと話し出した。
    「すぐ連想するのがレモンなんだって思ったら好きなのかなってなったんだけど、ああ、そうか、そっか……そうだよね、本当に好きだったらあんな困ったような反応しないよね……ああ~なんで気付かんかってんろ……」
     ごめんねぇ、と謝りながら身体を起こす。ばつが悪そうに笑う桑名は、間を持たすように話し続けた。
    「僕こういうの、ダメなんだよねぇ。さりげない気遣いみたいなの……子どものときからよく言われるんだけど、なんか、ズレてるみたいで」
    「……まあ、言われていないことを察せなくても、実際に言われたことを間違えなければいいんじゃないか」
    「そうかな……そうだといいんだけど……」
     なぜ自分が桑名を慰めているのだろう。
     あー恥ずかし、とこぼしながら自分の頬を触っている桑名を見ていると、さっきよりはっきりと、松井の喉から笑いがこぼれてきた。身体を揺らすと、桑名はやはり居心地の悪そうな顔をしたが、何も言わなかった。
    「……桑名って、どんな子どもだったんだ?」
     ふと口をついて出た疑問にも、桑名は特に驚いた様子なく考える素振りをした。
    「僕の育ったとこって、ちょうどここみたいな山のすぐ近くに家が集まってる感じだったんだけど、僕は近所の山に勝手に入って怒られたりしていたね。今考えれば危ないのも分かるんだけど、山の空気って落ち着いていて好きだったんだよね」
    「桑名らしい話だな」
    「そう? あとは、そうだね、家のレモン……レモンってすっぱいでしょ? うちの畑に生ってるレモンも同じようにすっぱいのか確かめたくなって、もいだやつをその場で皮ごと思いっきりかじって、うぇってなって、じいちゃんにすごい笑われたりもしたなぁ」
    「すっぱいのを確かめるって何だ」
    「いや、家のレモンも本当に他のレモンと同じなのかっていう……今思うと当たり前なんだけど、子どものときは気になっちゃったんだよね……」
     正直よく分からなかったが、恥ずかしそうにする桑名を見ると、理解できるかどうかなんてどうでもいいことに思えた。とぼけたエピソードより、すぐそばで説明にならない説明をする桑名がおかしかった。
     くすくすと笑っていると、桑名は横から覗き込むようにして松井に微笑んだ。
    「松井は、どんな子どもだったの?」
     桑名の声はやはり柔らかで、松井は目を伏せると、笑いを引きずって震える喉で話し出した。ずっと、言葉にしてしまうのが怖くて、言い出せずにいたことだった。
    「僕の父親は、医者なんだ」
    「へぇ」
    「いつも忙しくて、あんまり遊んでもらった覚えはないけど……まぁ、僕のテストや通信簿の成績がよかったことを母親から聞いて誉めてくれることはあった。……多分、僕にそこまで興味ないと思う」
     言葉にしてしまうのが怖かったのは、ずっと胸の内で抱えていたものを誰かに晒け出すことが怖かったのと、胸の内で渦を巻いてこんなにも自分を苦しめているものが、たった数度の息の行き交いで済んでしまうものにしかならないのを理不尽に感じていたからだ。今も話しながら、喉の震えは治まらず、目の奥の熱いのをどうにか抑えつけようと必死なのに、たったこれだけで言葉に押し込められた自分の苦しみは吐息とともに消えていくのだ。言い尽くすことはできないまま、まるで苛まれる自分が愚かだとでもいうような軽さで。
    「母親の方は、自分の夫が医者だということが自慢でね。そして、だからなのか、子どもにも同じように医者になってほしかった……だから僕は、医者になるために育てられてきたんだ」
     小学生の頃は大してそれを苦には思っていなかった。父親と同じように医者になろうとするのは、自分にとって当然で、正しいことのように育てられていたし、自分でもそれを疑わなかったからだ。
    「実際、僕は勉強が得意だったし、これを言うとよく顰蹙を買うのだけど、入試問題なんかはパズルみたいなものに思えていたしね……パズルを解く楽しさってあるだろう。そういうのはあったんだ。でも、いつの間にか、楽しいと感じるのが苦しくなっていった」
     言われるままに中学受験して、そのまま大学入試まで……入学したあとにも医学部は六年、医師免許を取ったあとは、よっぽどのことがなければ医者として生きていく――一生。
     その時間の長さと重さ、そしてそこで関わっていく人々がいることに気付いたとき、覚えたのは使命感などではなく、寒気だった。自分の歩もうとする道の険しさと責務にぞっとしたのだ。本当にその道を進むのか? 自分にそれができるのか?
    「志望校まで母親が決めていた。といっても、父親の出身校だったけど。模試の結果はずっとよくて、合格はほぼ確実だろうと高校にも予備校にも言われていて――僕は、そこを落ちた」
     思わず漏れてきた自嘲とともに桑名の顔を覗いても、桑名は何も言う気はなさそうだった。神妙な面持ちをしているとどこか冷たい、取っつきにくい人間に見えて、なんとなく初めて会ったときのことを思い出した。あのときも、桑名の話す声をちゃんと聞くまで、近寄りがたいと思ったのだ。
    「先生たちはそういうこともあるって慰めてくれたけど、母親はとても落ち込んで、口をきいてくれなくなってしまった。父親はそれに困っていたかな。あまり覚えていないけれど……浪人も勧められたけれど、僕は今の大学の薬学部に進んだ。予備校に頼まれて、志望校とは別にここだけ受けていたんだ」
     苦い笑いが漏れて口許がひきつった。自分のやってきたことが馬鹿げているようにしか思えなくなっていたからだ。
     馬鹿げている。自分のやったことは誰も幸せにしない、間違ったものだった。
    「こうやって話すと僕は、受験に失敗して志望校に行けなくて、人生に躓いた大学生、という感じに聞こえるのかな。でも、僕は――」
     あの大学に落ちたとき、ほっとしたんだよ。
     そこまで話すと、松井は一度長く息を吐いた。ここまではきっと、話さなくても誰かには分かっていたこと……これから桑名に聞かせようとしているのが、誰にも言ったことのない、言えずにいたことだった。
    「落ちるのなんて分かりきっていた。だって、僕はあの日、解答用紙をすべて白紙で出したのだから」



     やはり桑名は松井の言葉に何も言わなかった。それでも真摯に耳を傾けてくれている気配はあって、松井は自分の中に渦巻いている記憶やら感情やらを、どうにか言葉として吐き出そうとしていた。
    「医者という仕事については、今もいい仕事だと思っている。地位とか年収とかもよく言われるけど、やりがいがあって、専門によっては激務だけど、確かに誰かの助けにはなれる……研究医だって、長い目で見ればそうだろう。でも、僕にとって志望動機になっていたのはそういうのではなくて、分かりやすいことだったんだ。分かりやすく人の役に立てて、分かりやすい正しさがあって、親が僕にそれを望んでいるという、どうしようもない分かりやすさがあって……」
     明滅する街灯の頼りない明かりだけが届く待合所の中で、自分はどう桑名の目に映っているだろう……相変わらず桑名は目許を前髪で覆い隠していたから、その目にどんな色が浮かんでいるかなんて松井には伺えないのだが、ここが光もろくに届かないような寂れた場所でよかったと思っていた。明るい日差しの下でなんて、決して話せそうになかった。
    「結局、僕が頼りにしてきたものなんて、正しさだとか、善いと思うこととかなんかじゃなくて、単純に分かりやすいということだけだったんだ。……多分、この分かりやすさっていうのも、一概に悪いことではないとは思うのだけれど……でも、そういう分かりやすさだけを追って医者になるなんて浅はかなんじゃないかと思うようになって、それでも他にやりたいことなんかもなくて、いや、でも、医者になることが間違っているわけでもないって思いながら毎日、家と学校と予備校を回って過ごして……僕には無理だって、はっきりと分かったのが、入試の日だったんだ」
     あの日、自分の気持ちが折れてしまった瞬間を、今もよく覚えている。それは鉛筆の芯が折れるようなあっけなさだった。
     周囲に紙とペンの擦れる音が満ちる中で、自分だけが場違いに埋まらない答案を見つめて一日を終えた。それでも、やってしまったことの重さを実感するまでのわずかな時間、あのとき、やっと息ができる、と感じた。
    「……解答用紙を白紙で出しましたなんて、誰にも言えなかった。学校や予備校の先生には申し訳なかったけど、いつも息苦しかったんだ。特に、家は……僕の進む道は勝手に決められていて、それ以外を目指すことなんて赦されていないとずっと感じていた。でも、それも僕がそうすることを自分から選んだと思われているんだよ。……伝わるだろうか。僕からすれば巧妙に、それ以外は選べないようになっていたとずっと感じていたのだけれど、母親からしたら決して強制したんじゃなくて、僕が自分でそうすることを選んだということになっているんだ」
     言いがかり、考えすぎ……話しながらそんな言葉が何度も浮かんだ。こちらに進学してきてから、埋まっていく着信履歴を見る度に考えていたことでもあった。
     自分が手をかけて育ててきたものが、自分の思った通りにならなければ、子どもなんて親にとって何なのだろう……親という生き物はそんなことは気にしないとも聞くけれど、自分の顔を見ることもしなくなった母親の頼りない背中を思い出すと、松井はただ、親もひとりの不完全な人間でしかないと自分に言い聞かせずにはいられなかった。
     それでいて、自分のそういう想いが幼稚で身勝手なものだと恥じ入ることもよくあって、そういうときには消えてしまいたかった。分かってほしいと、本当はどこかでずっとそう願っていながら、分かってもらおうとしたことなんて一度もなかったのだ。
    「僕にとってはもう限界で、とにかく家から離れたくて、そうやって進むことにした大学だからアパートなんて決めてなくて……そこで豊前と君に会ったんだ」
    「……そうだったんだ」
    「うん。……でも、今の大学にいるのもやっぱりつらくて……ほとんど考えなしで来てしまったものだから、本当に自分がここにいていいのか、なんて思ってしまって……こんなふうに考えるのも傲慢だと、分かっているつもりなのだけれど。……こうやって悩んでいるばかりだから、家を離れたって一緒だった」
     自分以外のすべては、そのあるべきところを目指して正しく進んでいるように見えた。自分以外はすべて正しくて、その仲間に入れない自分はずっと正しくないままのような気がして、間違いをごまかそうとすればするほど、間違いが積み重なっていく……毎日後ろめたさが拭えなかった。どこにいても、ここはお前のいるべきところではないと言われている気分だった。だから、桑名と豊前と一緒にいて居心地のよさを覚える度、そこにいられることが怖かった。安らげるところを居場所にする資格なんて、間違ってしまった自分にはないのだ。
    「……豊前から、僕の電話のことは聞いているか」
    「……うん、心配だから僕にも言っとくって」
    「そうか……」
     自分ひとりで抱え込んでいたつもりでも、周りにはずっと気を遣われている。今こうして話を聞いてくれる桑名と、何も訊かないでいてくれていた豊前を思って、ようやくそれが分かった。
    「夏になってから母親から電話がかかってくるようになったんだ。四月に住む場所が決まったと連絡してからは何もやりとりはしていなくて、向こうから連絡がくるのは初めてだったから……何を言われるのだろうと思うと、ずっと出られなかった。ずっと無視していたんだ。でも、親が子どもに連絡してくるなんて、当たり前のことなんだろう? ちゃんと食べているのかとか、大学はどうかとか、気になるというし……そういうのかもしれないと思いながら、無視し続けるのも苦しくて……今日、やっと、かかってきた電話に出たんだ」
     受話器を上げるアイコンに軽く触れるだけで、半年聞いていなかった懐かしい声を聞いた。向こうも電話が繋がったことに一瞬驚いたようだったが、話に聞いていた「親子の会話」が電波に乗って飛んできた。大学はどう? ご飯はちゃんと食べてる? ――食事のことを言われたとき、桑名のご飯をしばらく口にしていないことを思い出して寂しくなった。
    「それで、話を聞いていたら、ちゃんと願書を取り寄せたのか、と訊かれてしまった」
    「え……」
    「後期は休学をすると思っていたから連絡がなくて驚いた、と。今からでもいいから休学して、予備校に行って、次の受験の準備をした方がいいんじゃないかって」
    「……それって」
    「うん。一回進学したけどやっぱり医学部に行き直したっていうのでも格好がつくでしょう、こっちは誰も怒っていないからもう一回、って……」
     あとは声が震えて続けられなかった。自嘲が抑えられなかったのだ。どこかで期待していた自分があまりにも馬鹿らしくて、それにどうしようもなく嗤ってしまって、込み上げてくるものをこぼさないようにしようとすると、俯くしかなかった。
     少しの間、自分の荒い息だけが聞こえていた。大きく呼吸することでどうにかやりすごそうとしていると、桑名にあの穏やかな声で、「松井」と名前を呼ばれた。
     つられて顔を上げた。相変わらず桑名の目許は前髪に隠れていたが、なぜか目が合ったことが分かった。
    「松井、ずっと、頑張ってたんだね」
     憐れみも、哀しみもなく、今ここにいる松井をただ認めてくれるだけの声だった。それを聞いたとき、松井の目から、とうとうぽろりと涙がこぼれ落ちてしまった。
     桑名はそれに驚いたようで、柄にもない焦った顔を見せると、慌てて松井を引き寄せて、次々と涙のこぼれ落ちていく顔を自分の肩に押しつけた。
    「ごめん! 泣かせるつもりはなかったんだけど」
    「桑名、痛い」
    「わ、ごめん、ごめんね」
     力強く押しつけられていた頭はすぐに解放されて、松井は口から息を吸いながら鼻の下を手で拭った。
    「……あ、鼻血ではないね。よかった」
    「うん……」
     あれだけ我慢していたのにあっけなく泣いてしまったことに動揺していて、桑名が妙なことを気にしているのも指摘する余裕がなかった。桑名は松井の手を見たあと、少し考えるような素振りをしたと思うと、どこか情けない顔で笑った。
    「……ね、松井。僕の話も少し聞いてくれる?」
     改めて訊いてくるのを不思議に思いながら頷くと、桑名はどこか恥じるように松井から顔を逸らした。
    「僕ね、ずっと、家を出たかったんだ」
     予想もしていなかった言葉に目を見開いた。桑名は俯いたり、口を開きかけては閉じたり、言葉を探しているようだった。そうやって言葉を探り当てようとするときの苦しさは、よく知っていた。
    「松井も前に言ってたよね、うちの家族、仲がいいって。僕もそうだと思う。……でも、僕はずっとあの家を離れたかった。地元が嫌だとか、家の居心地が悪いとか、そういうのはないんだけど……自分はどこへでも行けるって、思いたかったのかなぁ」
     頬を掻いて、苦いものを含んだ笑いで首を傾げる。きっと、ずっと誰かに打ち明けてしまいたかったのだ。そういう言葉の探し方だった。
    「だけど、そう思っているのも結構、なんというか後ろめたくてね……大学に行くのもだけど、都会に出てきてひとり暮らしでってなると、お金がかかるし、心配もかけるだろうし、実際、絶対にその大学じゃないとダメなのかって言われたこともあるし……そうしてまで、自分のやりたいようにやっていいのかなって……まぁ結局やらせてもらっているんだけど」
     えへへ、と笑うと、今度は顔だけを松井に向けて続きをしゃべり出した。
    「迷いながら来たんだ。自分のやってること、本当に合ってるのかなって。そしたらアパートが焼けちゃってるしねぇ……でも、今は間違ってなかったって思ってる。こっちに来ることを選んで本当によかったって。豊前と会えたし、こうして松井にも会えたんだし」
    「そんなの、理由になるのか」
    「なるよ」
     迷わずにそう答えると、桑名はまた視線を松井から外し、前を向いた。松井も同じように前を見た。ただ暗いばかりだった山道に、色が戻りつつあった。夜明けが近いのだろう。
    「あのとき……不動産の前に立っていた松井を見たとき、こんなに綺麗な人がいるのかと思ってびっくりした。自分とは全然違う世界の人みたいだって……すごく思い詰めているように見えて、気になっていたんだ。でも、一緒に暮らすようになって、話してみたら僕の言ったこといちいち覚えていてくれていたり、誰かが損しないように気を回してくれたり、自分だけ料理できないって拗ねたり……ああやっぱり、自分とは全然違うけど、それでも同じ世界に住んでいるんだ、それってすごくいいなぁって……ずっと一緒にいたいなぁって、思ってたんだ。毎日」
    「毎日?」
     思わず聞き返すと、桑名ははにかんで、「うん、毎日」と頷いた。その笑顔に照れはあっても、恥じるものがないのを目の当たりにして、松井は息を飲んだ。
     桑名はそれにまた笑うと、ふと少し、寂しげな表情になった。
    「……松井、まだ、どこにも行けないって思う?」
     穏やかな低い声で桑名が訊ねてくる。応えられずにいると、桑名が松井を覗き込んだ。いつものように、どこか子どもっぽい仕草で首を傾げて。
    「それなら、全部捨てて、今から僕と逃げてしまおうか」
     笑っていたが本気なのは分かった。桑名は不確実な慰めを口にすることもなければ、不可能に思うことを提案したりしない。理屈っぽくて、妙に細かいことばかりを気にして……いつでも地に足つけて、自分の力で進んでいくのだ。
    「僕、松井となら一緒に行けると思うんだよね……ほら、ひとりじゃ無理でも、ふたりならどこかへ行けるかもしれないよ。生きやすいように生きることって、全然悪いことじゃないよ。だから、松井がもっと楽に息のできるところへ行こう。案外すぐ見つかるかもしれないよ。レモンの花だって、ここにだけ咲くわけじゃないんだから」
     そうして、まだ戸惑っている松井の腕を取ると、引き上げるようにして立ち上がらせた。普段と同じ柔らかな声と、優しい笑みをたたえた顔で、冷えきった松井の手を包むように握り直す。
     そうする桑名の手も、冷えていた。
    「豊前は怒るだろうな。でも、怒ったあとで仕方ないって笑ってくれそうな気もする……ね、松井。どこに行きたいか、パッと思いついたのを言ってみて。あまり考えないでいいよ。こういうのは多分、勢いが大事だ。とりあえず、やってみようよ」
     早口で捲し立てる桑名に誘導されて、松井はそれまで座り込んでいた待合所を出た。まだ日は昇っていなかったが、空は随分と淡い色になっていた。
    「……見る阿呆より踊る阿呆になれ、ということか?」
     ちゃんと笑えているか不安になりながら訊ねてみると、桑名も思い出したのだろう、はしゃいだように声をあげて笑った。
    「そう、そうだよ。こんなところで僕たちが踊っていても、誰も気にしないんだから」
     そう言うと、桑名は大きな手で松井の片手を肩くらいの高さに持ち上げ、もう片方の腕は松井の背中に回すと、走り出すような勢いで大きく一歩を踏み出した。大股で緩やかにリズムを取り、松井とくるくる回るように身体の位置を入替えながら、海沿いの一本道を蛇行していく。まるで波音に合わせてワルツを踊るように、驚いてうまく反応できない松井を支えながら桑名はゆったりと進んだ。
     ただ、踊り出したといってもそれっぽく動いているというだけで、同じように踊り方なんて何も知らない松井にも、姿勢もステップもあまりにも不格好でなってないのが分かった。桑名に引きずられて足を動かすので精一杯だった松井は、不器用なホールドで自分の手を掬い上げている節の太い手がまだ冷たいままなのを確かめると、すぐそばにある桑名の顔を見上げた。
     覚えたこともないステップを忙しく、やたらと勢いをつけて踏んでいくせいで厚い前髪は少し持ち上がり、その隙間からあの優しげなレモンの色の瞳が覗いた。その目がどこか泣き出しそうな色を浮かべているのに気付いてしまうと、松井も声をあげて泣いてしまいたくなって、そうなると笑うしかなかった。
     ふたりは海を望む道を、誰もいないのをいいことに幼い子どもみたいに笑い声をあげながら、互いの手を握り、相手の背中に回した手をやたらと強く引き寄せあって、バタバタと無様に足を鳴らしながら踊った。桑名が手を高く持ち上げるのに促されて松井がくるりと回ってみせると、灰色のコートは翻り、その勢いのまま松井の身体は桑名の胸に抱きとめられた。
     互いの荒い息と、合わさった胸の早い鼓動が聞こえていた。桑名の向こうで海には白い波が輝き出している。あんなに終わりそうになかった夜が明けてしまっていた。
    「……さ、松井。どこへ行く?」
     松井を抱きすくめながら、少し荒い呼吸とともに桑名が訊いてくる。同じように息の上がった松井は、上目に覗いた桑名の頬が赤くなっているのを確かめると、肩に額を押しつけるようにして顔を埋めた。
    「……帰る」
    「ん? いいの?」
    「うん。桑名と一緒に、家に帰りたい」
     そうしてぎゅっと自分より厚い胸に抱きつくと、一瞬戸惑ったように固くなった身体が小刻みに震え出した。耳許にかかる息にはほんのり桑名の声の響きが載っていて、笑い声まで心地好くて「ずっとこうしていたい」と思った。
    「うん、そうだね、帰ろう……僕たちの家へ」
     一層きつく松井を抱き締めながら、早く帰って一緒に豊前に叱られよう、と囁いた声は揺れていて、その震えを受け止められるように、松井ももう一度強く桑名を抱き締め返した。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/07 22:49:20

    檸檬の花の咲くところ

    現パロです
    家庭環境、学生生活の描写など人によっては気分を悪くされる恐れがあるかと思います
    ご留意ください
    書き下ろしを加えて本にしたものを自家通頒で取扱っています▷ https://jimbaride.booth.pm/items/3725873

    #くわまつ ##くわまつ

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