ほしあそび
月の明るい夜だった。
加州清光は覚束ない足取りで、普段より熱い息を吐きながら自室へと向かっていた。
夕飯のあと、なしくずしに始まった飲み会はまだまだ盃を空けようとする呑兵衛たちを残しお開きとなった。かろうじて広間の隅にて轟沈せずに済んだ清光は、頬や身体の芯に熱を感じながら夜気の冷たさを心地好く浴びていた。手には四合瓶を提げている。中身は随分減っていて、清光の歩くのに合わせてたぽたぽと心許ない音を立てていた。死屍累々の宴会場から持ってきてしまったらしい。かなり酔っていた。
こういう日はさっさと寝るに限る。また熱い酒気が自分の鼻を抜けていくのを感じながら、中庭に面した縁側に出た。
象牙の釦を貼りつけたような冬の満月、その明かりの下、淡い金髪を冴え冴え晒して一文字則宗がそこにいた。
「――じじいの深夜徘徊なんて、洒落にならないぜ……」
酒気でふらつくのは足取りばかりではない、清光の口は思ってもないことを言った。いや言ったからには思いはしたのだろうか? 酔いで鈍った頭では、その判別はつかない。
不躾な言葉に則宗は振り向くと、朗らかに笑った。
「随分飲んだようだな」
「近くに次郎太刀がいたんだよね、今日……」
「なるほど」
普段から持っている扇子を口許に、縁側に腰かけてこのご隠居はどうしてだか楽しそうに笑う。
途中まで飲み会の席にいたのは覚えている。清光が次郎太刀と祢々切丸に挟まれてしまってからは、次々注がれる盃を止せばいいのに空けるのに必死で、いついなくなったかまでは気付かなかった。
また熱い息をひとつ、深く吐くと、清光は則宗の隣に腰を下ろした。部屋までの道中、ひと休みしても罰は当たらないだろう。
「で、あんたはこんなとこで何してんの」
「何って、ただの月見さ」
閉じられた扇はすっと夜空を指し示した。相変わらず、青い天鵞絨に貼り付けられた釦のように、月は煌々とそこにある。美しい月夜には違いない。
「……そんな薄着で月見するもんじゃないでしょ」
しかし冬の夜は寒いもの、則宗の頬も酔いとは違う赤みが差している。赤い顔の清光の指摘に、やはり赤い頬の則宗はころころと笑った。
「そろそろ戻るつもりでいた……そしたら、お前さんが来たというわけさ」
「ふうん」
「確かに、広間でもう少し引っ掛けておけばよかったな」
年寄りたちは皆、綺麗な酒の飲み方をする。則宗も例に漏れず、面目を崩さぬまま叫喚の広間を抜け出したらしい。
則宗の吐く息が白く棚引き、消えたのを見て、清光は手に持っていた瓶を差し出した。
「ん」
「なんだ」
「盃がなくて悪いけど、一杯くらいならあるよ。どうよ、月見で一杯」
酔っ払いの脈絡ない軽口に則宗は長い睫毛をぱちぱち、瓶と清光とを繰り返し見ると、あどけない顔で肩を震わせ出した。
「……飲まないなら俺が飲むんですけど~」
「いや、いや、いただこう。お前さんはもうやめておけ」
冷たい指先が清光の指先にかすかに触れたと思うと、瓶は則宗の手にあった。そのまま行儀悪く瓶を傾け、ひとくち、ふたくち、酒は則宗の口へと注がれた。
ふ、と漏れた息の熱さはどれほどだったろう。
「……うまい酒だな」
「ん、そりゃどーも」
「うん、坊主には酒を振る舞ってもらった礼をしないとな」
瓶をその場に静かに置くと、則宗は庭に降り立った。そのまま腰を折り、もうひとつあった突っ掛けを清光の足許に揃える。
「さぁ坊主、夜の散歩と洒落込もう」
寒い冬の夜、遅い時間――差し出された手を素直に取ってしまったのは、やはり酔っていたからに違いない。
庭を横切り橋を越え、いつの間にやら桜を潜り、藤に撫でられ紅葉を踏み分け、そうするうちに火の灯ったように椿の赤い場所に出た。通ってきたのはもののけ道か、はたまた夢の通い路か……酔った頭は深く考えようとはしなかったが、前をすいすい歩いていく則宗の手を離してはいけないのだけは分かっていた。
その想いがつい指にも出たのだろう、清光は自分の手を支えるだけの則宗の骨張った手を思わず握った。則宗は足を止め振り向くと、清光に笑いかけた。
「もういいのか?」
「いや、いいも何も、ね……」
普段ならしこたま飲んだ清光も酔いの醒めてくる頃だ。しかし雪化粧の椿が一面に広がる光景があまりに美しいためか、真っ直ぐ帰れる自信がない。あるいは、月があまりに大きかったせいかもしれない。
清光の戸惑いに則宗は少し残念そうな顔を見せたが、すぐ取り繕うと、繋いだままの手を胸元まで持ち上げ「もう少しだけ」と囁いた。この刀の、しおらしい態度に清光は弱かった。
則宗に導かれるまま立ち並ぶ椿を抜けると、開けた場所に出た。庭の池よりずっと広い、鏡のような湖が夜空を映していた。
水面の月も冴えていた。空はふたつに割れていた。
清光の目が湖面の月に注がれるのに気付いたのだろう、則宗はまた眉を下げて笑った。
「坊主の頼みなら叶えてやりたいところだが、月はやめておけ。既に本丸にはとびきりのがいるからな、この湖からこいつを奪ってしまっては可哀想さ……そうだな、こっちがいい」
繋いでいた手を離し、則宗は懐にしまっていた扇子を広げた。しゃがんでそれを湖にかざすと、端で控えめに瞬いていた星を掬い上げた。
扇からこぼれ落ちた水が凪いだ鏡を少し乱した。揺れの収まった水面には、それまでそこにあった星はなく、則宗の赤い扇の上にふたつみっつ、輝くものがあった。
「そら」
扇を傾けるのにつられて清光も両手を差し出した。そこにころころと、星が降ってきた。
「きれい……」
「うん、なかなかいいものだろう?」
ぱちぱちと扇子を畳む音がする。星々の脈打つように瞬くのを眺めていた清光は、思い出したように顔を上げた。
「これ、俺がもらっていいの?」
「もちろん」
月明かりを受けて微笑む則宗は美しかった。普段水を映したように冴えた瞳が、熱を持って清光を見つめていた。
「僕はお前さんだから、あげたいのさ」
目許にかかる髪を掻き分けるように、則宗の手が清光の額と頬を滑った。縁側で触れたときのように冷たくはなかった。
そのまま吸い寄せられるように、則宗の目を見つめていたからか……ふと手から、星をひとつ取りこぼしてしまった。
「あ、」
「坊主」
星は湖へ帰ろうとしていた。それを追いかけてしまったのは、やはり酔っていたせいだろう。水面へ叩きつけられるのを覚悟して目をつぶったとき、温かいものに抱き締められた感触があった。
目を開けると、そこにあるのは見知った天井だった。朝の光は障子を柔らかく通って清光の部屋を照らしている。
――変な夢を見た。
酒は綺麗に抜けている。ちゃんと布団にくるまって寝ていた。深酒のあとは気がつけば朝というばかりで夢を見たのは初めてだったが、清光はその内容の奇矯さに首を傾げながらも身支度を整え、朝食の席へ向かった。
中庭に通りかかる。雪椿の庭に、淡い金髪が冬の朝日のように冴えた色を散らしていた。
「……おはよう」
妙な符丁につい声をかけた。則宗は清光の声に振り返ると、夢と同じように朗らかに笑った。
「やあ、おはよう」
とことこと歩み寄ってくる姿は変わらず薄着だ。すぐに引っ込むつもりだったのだろうが、清光もやはり小言を挟まずにはいられない。
「外に出るならもっと厚着しろっての」
「いやぁ、坊主にはいつも心配をかけるな」
ふたりは並んで広間へ向かう。もちろん、手は繋がれない。
どこまでが現実でどこからが夢だったのか――考えてはみるが定かではない。美しい月夜の見せた幻想とでも思っておけばいいだろう。それで支障ない。
隣の則宗を見上げると、すぐに気がついて目を細められた。好好爺といっても差し支えないのだろうが、それにしてはもう少し、甘ったるすぎるとも感じるような視線――この目を見るとき、清光は落ち着かない。
取り繕うように視線を逸らすと、広間はもうすぐだった。朝食はこのまま一緒に摂ることになるだろう。しかし、席に着いてしまえば話すことに困りはしまい。
「――ああ」
思い出したように則宗が声をあげた。清光はつい、その顔を窺った。
「渡すのを忘れていた。お前さん、落としていっただろう」
軽く握った手を出してくる。つられて清光も両手を皿のようにして差し出した。
開かれた則宗の手からは、みっつの金平糖がこぼれ落ちた。
「……えっ!?」
青、白、赤……ころころ清光の手のひらで転がるそれに、昨晩見た星の色を思い出すのは難しくなかった。思わず則宗の顔を見ると、彼は少し頬を赤く染め、いたずらが成功した子どものようにあどけなく笑っていた。