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    しおり
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    しおり
    望みの彼方


     数ある刀剣たちにおいても傑作中の傑作との誉れ高い“大包平”が、かつて古備前包平の逸品のひとつであった頃、これ以上なく大事に仕舞われた倉の中で行儀悪く膝を崩しながらむくれた顔をしていたことがあった。人間たちの目に大包平の不遜な態度は映らない。そのため誰も彼に眉を顰めたりしない。持ち主を同じくし、倉の中を住処としている付喪神たちは、長大な刃に相応の豪壮な姿をした大包平が機嫌悪くしているのを恐れ、皆揃って姿を隠していた。そのため、彼の傍で姿を見せているのは主を同じくするだけでなく、同じ古備前のこれまた逸品との誉れ高い友成の太刀のみであった。彼は大包平の記憶にいつもそうであったように、薄い笑いを口許に貼り付けたまま、ほんの少し目を伏せて背筋を美しく伸ばし大包平の隣に座っている。大包平には、なぜかその同胞の態度も気に入らない。彼の行儀の良さが自分の苛立ち、ひいてはそれを隠せぬ未熟さを他ならぬ自分に痛いほど知らしめたからだ。
     大包平は苛ついている。しかしそれを隣の同胞にぶつけてはならぬという分別も持っていたから、ただ眉間の皺を深くし、誰も姿を見せぬ倉の、自分の向かいを睨みつけていた。
     この倉の中の、大包平が重苦しく沈ませ、何物も口を開くことのできない空気を、溜め息にも似た笑いで軽くあしらったのはその友成の太刀であった。
    「何をそんなに苛ついている、鬱陶しい」
     遠慮のない文句に大包平は切れ長の目をじろりと動かし、同胞の横顔を睨みつけた。友成の太刀はこちらを見なかった。ただ微笑みを象った口許をそのままに、静かに前を見ていた。
    「お前には関係ない」
     話しかけてきたのにこちらに目もくれない態度にまた苛立って、大包平は唸るように低い声で応えた。その鋭さに、近くで姿を隠していた漆器の付喪神が小さく息を飲んだのだが、それには気づかなかった。大包平の苛立ちの対象が、隣の静かな太刀に移っていたからだ。
    「確かに俺には関係ないが、お前のような大きいのが苛立っていると皆恐がる。苛立つなとは言わないが、周りを恐がらせるな」
     この太刀は静かであるのによく通る声をしていた。大包平は奥歯をきつく噛みしめながら、掴みかからぬように我慢した。気が立っているときは機嫌をとるようにへつらわれるのも腹が立つものだが、こうして自分にまったく動じないのも気に入らなかった。
    「まったく、何が気に入らないのやら」
     彼はそうした大包平の内心には気がつかない。ふっと軽く息を吐きながらこぼした言葉に大包平は舌打ちした。
    「ーーお前はこうして仕舞い込まれて不服ではないのか」
     中空を睨みつけるのにも飽きていたからそう話しかけると、隣の太刀はやっと大包平の方を向いた。首を傾げながらであったから、顔の半分を覆った長い前髪が動きに合わせて揺れた。
     その優美な仕草に続きを促されて大包平は言葉を続ける。
    「人間たちは皆、俺のことを美しいと言う。稀なる逸品と褒めそやす者もいる。しかし俺はこうして仕舞われてばかりだ」
     唇を尖らせた大包平に、隣の同胞は初めて微笑を引っ込めて目を丸くした後、くつくつと喉を鳴らし出した。俯きながら小さく肩を震わせる姿に、大包平は顔を赤くした。自分は笑われるようなことを言っただろうか。そもそも人がこぼした不満を笑うとは、こいつは不躾ではないか。そんなことを考えながらも、大包平は笑いすぎて頬を上気させた同胞の横顔から目を離せなかった。いつもの微笑ではなく、息を漏らすようなものではあるが声をあげて笑うのを初めて見たのだ。
     ひとしきり笑い終えると、はぁ、と大きく息を吐いて、隣の太刀は大包平の方をもう一度向いた。
    「お前は馬鹿だな」
    「はぁ!?」
     突然の暴言に、大包平は大きな声をあげた。その大声に、ふたりの会話を物陰から覗いていた付喪神たちがびくりと肩を竦めたが、今度は誰も姿を消さなかった。
    「こうして大事にされながらまだちやほやされたいとは、果報者以外の何者でもないだろう」
    「ちやほやされたいとは言っていない! 俺は評価に見合った働きがしたいだけだ!!」
    「どうだか」
    「わかったようなことを言うな!! あと鼻で笑うのをやめろ! 腹が立つ!!」
    「お前も大声を出すな、耳が痛い」
     ふたりがこうして言い合いをしている、正しくは大包平が噛みつくのをあしらわれている内に、他の付喪神たちもぞろぞろと姿を現した。皆の口の端は小さく上がっていたのだが、大声を出している大包平はそのささやかな笑いには気がつかなかった。

     それ以降、大包平が苛立つと「また馬鹿なことを考えているんだろう」と半笑いの同胞が話しかけてくるので、大包平が黙り込むことはなくなった。古備前二振りのやりとりは倉の付喪神たちの密かな名物となり、大包平が「だから馬鹿と言うな!!」と大声をあげるのを聞くと、「ああまた始まったな」と微笑ましく見守られるまでになった。
     大包平の不服は変わらぬままであった。ただ大声を出すことでほんの少し発散されるようになった。しかしそれとはまた別に、苛立つのは同胞の態度である。
    「また馬鹿をやっているのか」
    「お前は本当に馬鹿だな」
    「今日も馬鹿なことを考えている顔をしているぞ」
     ーー大包平はその名を以て讃えられる以前にも、逸品中の逸品と認められていた。褒めそやされこそすれ、馬鹿にされたことはなかった。そのため、同胞の腹立たしい態度への、賢い対処は知らなかった。
    「仕舞われているのだから何もやっていないだろう!」
    「馬鹿と言うな!」
    「やかましい!!」
     やかましいのはお前だ、などと中々口が達者な同胞にやりこまれることばかりであったが、大包平は飽きもせず噛みついた。自分の不服が間違ったものであるとは微塵も思っていなかった。傑作には傑作たる所以がある。自らが傑作であるならば、錚々たる逸話も持たねばなるまい。大包平の苛立ちとは、焦りでもあった。それを軽く往なされ、反論も尽き、奥歯をぎりぎりと噛む頃、友成の太刀は決まってこう言った。
    「お前は本当に面白いなぁ」
     そう言うときの顔がいつもの微笑ではなく、破顔という言葉が相応しいものであるため、毒気を抜かれて黙り込むしかなかった。そういうわけで、長い長い時を過ごして尚、大包平が記憶を辿ったときに思い出す“鶯丸”はどれも笑っている。

     長い長い時を生きれば、いくつもの死を見た。生き物の死があり、生き物とは違う命の死があり、人間が時代と呼ぶものの死があった。その死を通り過ぎる間に、古備前包平の太刀の逸品は“大包平”と呼ばれるようになり、生き物とは違う命を生きていた。その生の中で、あの友成の太刀も“鶯太刀”、“鶯丸”と呼ばれるようになり、離れた後もその消息を風の便りに聞くことがあった。鶯丸と口喧嘩していた頃に大包平が抱えた焦りは、解消されることなく大包平の顔を今もむくれさせる。そうして唇を尖らせようとするときになって、あの涼しい声が「またいじけているのか」と言うのが聞こえてくる気がして嘆息すれば、現在主人を同じくする付喪神たちがこちらを不思議そうに窺う。苛立ちが自分を慰めてくれることはないと長い生で学んだ大包平は、そうした付喪神を相手に会話でもして無聊の慰めとすることもある。
    「何か心配事でしょうか」
     長く同じところに仕舞われている花瓶は、大包平の美しさと生きた時間の長さに敬意を表して丁寧な態度で接してくれる。それを無碍にすることは、大包平にはできなかった。
    「なに、また刀の使われぬ時代になったと思ってな」
    「はぁ、確かに髷を結った方も少のうなりましたな」
    「俺の力は発揮されぬままだ」
    「はは、大包平殿はいらっしゃるだけで主の役に立っておられますよ」
    「どうだか」
     ふ、と鼻で笑うと、鶯丸が昔そうしたのを思い出した。この花瓶は大包平に媚びようと慰めを言っているのではないことは、大包平にもわかった。そう信じているから、そう口に出したのだ。かつて大包平が、自分の苛立ちが正しいものと信じ、不満をこぼしたように。
    「そういえば、新しくここにやって来た掛け軸から聞いたのですがね」
     花瓶の付喪神はにこにこと朗らかに笑っている。大包平も口の端を持ち上げながら、その続きを待つ。
    「また帝がお力を持つようになったので、近頃その帝に献上される刀剣が多くあるそうです。その中で、大包平殿と同じく古備前の太刀があったのだと言っていました」
    「ふん、俺たちは宝物と名高いからな。しかしそいつもまた、今まで以上に仕舞い込まれることだろうよ」
    「ええ、それがまた、珍しい逸話を持つお方だそうで」
     大包平は首を軽く傾げて続きを促す。同時に、どいつだ、と考えを巡らせていた。
    「お名前を鶯丸という方だそうで、なんと大修復を経て献上されたのだとか」
     懐かしい名前に目を丸くした大包平は、口を開いたが何も言えなかった。今この付喪神は、大修復、と言ったか。
    「御武家さまから買われたときには、ふくれのために、とても悲惨なお姿だったそうです。泣き言や恨み言は一言も漏らさず、美しい姿勢で佇んでいるのをお見かけすると、元々のお姿の美しさがよくわかったために、お会いするのが余計辛かったと、あの掛け軸は申しておりました。しかし腕の良い人間に修復され、帝に献上されたそうです。修復後の美しさは、掛け軸は言葉にもできぬと申しておりましたが、さすが大包平殿と出自を同じくするお方ですな」
     花瓶のにこやかに語ることに、大包平は辛うじて「そうか」と返事をした。その声の固さに何かを感じ取ったのか、花瓶は笑顔は崩さぬままに、恭しく礼をして大包平の前を去った。大包平はその気遣いを有り難く受け取り、倉の窓近くに立った。外では木々が錦の如く染めた葉を落としている。大包平が見守るうちにも、またひとつ、ふたつと落ちた。
     生き物でないものも死ぬのだと、長生きの大包平はよく知っていた。しかし、死が自分のよく知るものに迫ったときは、それが生き物であってもそうでなくとも、等しく大包平の胸を軋ませた。こういうとき、人を模した姿で付喪神として在ることに、大包平は苛立つ。苛立ちが何も慰めてくれないことをよくわかっていても、止められなかった。
     鶯丸は自らに迫り来る死に何を思っただろうか。伝え聞くところでは取り乱したりはしなかったというから、きっと動揺があったとしても顔には出さずに逝っただろう。おそらく、笑ったまま。ーーふくれ、と言っていた。身の内の虚に気づかないまま生きる刀があるだろうか。奴は知っていたのではないか。生まれ落ちたときから、身の内に死を飼っていることを、誰よりも感じていたのではないか。
     そう考えるとますます苛立ちが募って、大包平はその骨張った大きな手で壁を掻いた。人間のように爪を立てても、付喪神の身は傷どころか音も立てなかった。一度苛立てば何もできない自分にも腹が立った。奥歯を噛みしめると、思い出すのはかつてそうする自分を「馬鹿をやっている」と揶揄した涼しい声だった。
     死を飼う身には、大包平の苛立ちは馬鹿馬鹿しく映ったのだろうか。あの微笑は、大包平の焦りを、望む生を送りたいという望みを、嘲っていたのだろうか。「ーーいや」考えてはみるが、とても諾うことはできない思いつきだった。馬鹿だ馬鹿だと言うが、最後はいつも面白いと笑っていた。精緻に作り込まれた優美な容貌を、くしゃっと無邪気に崩して。
     刀は、自らが望む通りには働くことはできない。大包平の長い生が、それを何より証明していた。しかし、望むこと自体は何物にも否定されるべきものではなかった。
     ーーあいつは、最初からそれすら諦めていたのだ。
     納得できる答えに辿り着いたが、承伏し難い結論だった。あの微笑は、諦め、受け入れたがために、あの薄い唇に浮かんでいたのか。そうして諦めず、受け入れぬ大包平を、馬鹿だと笑ったのか。
     納得はしても、やはり大包平は苛立った。叶わぬことを望むことが馬鹿だと言うのなら、あんなに楽しそうに笑ってはならない。あのように無邪気に、笑うものではない。
    「……馬鹿め」
     どうにも納まらない胸の内は、一言、よく聞かされた言葉に乗って滑り落ちた。馬鹿と言う方が馬鹿だ、と苦し紛れに思いながら、大包平は唇を噛みしめた。直接そう言って、あの微笑を取り払うことは、今の大包平にはできないからだ。
     同じ部屋に仕舞われた付喪神たちは、人間のようにうなだれる大包平の後ろ姿をそっと見守っていた。大包平のような美しく勇壮な太刀が、まるで未熟な人間のように柔らかい心を持っているために付喪神たちは彼の普段の居丈高な態度も嫌いになれず、それどころか時折幼くすら見えるその危うさを好ましく思っていることを、大包平自身は今も知らないままだ。


     長い長い時を生きれば叶わぬものがあることも知る。しかし長い長い生の先には、思いがけぬこともある。そしてそれを、幸運と呼ぶことも。
     正しくこれは幸運と呼んでいいだろう、と大包平はひとり頷いた。歴史を変えようとする者への対抗手段として、自らを振るうことを赦されたのだ。歴史修正主義者が変えようとする歴史は、大包平の望みが叶わなかった時間でもあるが、大包平はそれも良しとすることにしていた。時間は今や過去も未来も渡ることができるようになり、その不可逆性は曖昧になりつつあったが、何物にも生とは一方通行であり、大包平が叶えることのできなかった望みは、大包平の生においては叶わなかったままなのだ。
     しかし、これからは戦働きが待っている。大包平が望みを叶えることができるかもしれない。しかもそれを叶える腕は、自分自身が持っている。

     本丸に着いたのは、寒い夜だった。顕現した大包平を見て、子どもの姿をとった刀たちに囲まれた、白い布を被った青年の刀は無言で両手の拳を握ると、何かを噛みしめるような表情をしながら膝をついた。その肩を労るように叩く子どもたちもどこか泣きそうな顔をしていて、大包平は茫然とそれを見つめるしかなかった。
     最初に立ち直ったのは、子どもたちの中でも背の高い一振りだった。
    「すまん、あんたを顕現させるのに本丸総掛かりだったんでな。喜びを噛みしめさせてくれ」
     線の細い姿に見合わぬ低い声にたじろぎながら頷くと、色の白い少年は滑らかな黒髪を掻きながら、儚げな造りには似合わないやり方で笑い、右手を差し出した。
    「薬研藤四郎だ。よろしく頼む」
     主の腹は切らぬという逸話を思い出しながら、大包平もその小さな手を握り返した。

     薬研に案内される先々で会う刀たちは皆、大包平を見ると“あの”大包平と言った。初めは「刀剣の美の結晶たる俺の名も知れ渡っているな」と満更でもなかった大包平の笑みを崩したのは、真っ白な装いの太刀だった。
     今日は出陣していなかったというその太刀は、大包平を見ると金色の目をきらきらと輝かせて大包平に駆け寄った。その表情も動きも、どうにも見た目にはそぐわないもので、隣の薬研のことも思いながら「見た目と中身の差が激しい者もいる」と大包平は学んだ。
    「なるほど、君があの大包平か」
     白い太刀は好奇心を隠そうともせず、大包平をしげしげと眺めた。その目は紛れもなく大包平を観察してはいたが、粗を探したり値踏みしたりするものではなく、純然たる興味から輝いていることを感じ取って、居心地の悪さを感じながらも大包平はされるがままにしておいた。
    「おっと、すまん。俺は鶴丸国永だ」
     気がついたように鶴丸も右手を差し出した。またそれを握り返しながら、大包平も名乗る。
    「いやぁ、しかしやっと来たな、君は」
     眦を下げながら鶴丸がそう言うのに、大包平は少し眉根を寄せた。鶴丸は笑ってる。笑っているのに、何故か笑いをこらえるような不可解な表情をしている。
    「やっと、とはどういうことだ」
    「なに、君が来るまで二年もかかった。君を待ちわびている奴がいるぞ」
     大包平は息を飲んだ。鶴丸国永もまた帝に献上された太刀であることを、かつて聞いて覚えていた。しかし、胸に湧いたどこか甘い郷愁は一瞬で過ぎ去っていった。
    「いやぁ、さすがの俺もそろそろ君が馬鹿やってた話を聞かされるのは飽きてきたところだ!」
     鶴丸は晴れ晴れと笑って言った。大包平はすっと血の気が引くのを感じた。
    「ーーもしかして、大包平さまでしょうか」
     固まる大包平をそのままに、背後から現れた少年に鶴丸は振り向く。
    「おお、見ろ平野、あの大包平だ。鶯丸はどこだ? 早く会わせてやろう」
    「鶯丸さまは先ほどまで僕と手合わせをしていたので、まだ道場にいらっしゃると思いますよ。あ、道場はあちらに見える建物です」
     平野、と呼ばれた少年が朗らかに教えてくれたのを聞くや否や、大包平は走り出した。
    「鶯丸ううう、お前という奴はああああ!!」
     ばたばたと足音を立てながら走っていく大包平の後ろ姿を、平野はぽかんとした顔で見送った。薬研は「面白い御仁だな」と頭を掻いた。鶴丸はとうとう笑いをこらえるのをやめ、「鶯丸の言っていたとおりだ!!」と声をあげて笑った。

     辿り着いた道場の入り口、その開け放たれたままの扉に大包平は肩で息をしながら手をついた。人間のような肉体を得たのは初めてだから、息が切れるのも初めての感覚だった。
     俯いてぜぇぜぇと喉を鳴らしていると、鼻先に滴が垂れてきた。汗だ、と理解すると、本当に自分が肉体を得た実感が湧いてきた。
    「ーーお前は相変わらず騒々しい奴だなぁ」
     初めての感覚に目を剥く中、懐かしい涼しい声が降ってきた。思わず息を止めると、静かな足音が道場の床板を軋ませながら大包平の前にやって来た。
     自分とよく似た装いなのだろうと、足許を見るだけでわかった。同じ刀派は、見るだけでそれとわかるような格好をしているのは、薬研に案内されるうちでも理解できた。
     その自分より細い足を見ていると、頭にほんの少しの重みがかかった。それが手だとわかったのは、髪をまさぐるように動いた後、軽く撫でていったからだ。
    「そうか、お前はこういう感触だったのだな」
     慈しむような声色は、やはり大包平の胸に甘い郷愁を呼び起こした。離れていた時間は長く、聞きたいことも言いたいこともあった。しかしまず問いたださねばならないことが、今日、ついさっき、新しくできた。
    「お前、俺を馬鹿だと周りに言っているのか!」
     怒りに身を任せて勢いよく頭を上げると、記憶と違わぬ微笑があった。互いの顔を見たふたりは、しばらくじっと見つめ合ったが、鶯丸は楽しげに目を細めた。
    「お前は馬鹿なことばかりやっていただろう」
     どこかからかうような声色に、大包平は鶯丸がかつてより表情豊かになったのを感じた。自分の覚えのない顔をしてみせるこの男が、しかし自分のよく知っている同胞であることは、なぜだかよくわかった。
    「ーー馬鹿と言う方が馬鹿だ」
     郷愁に目の奥を熱くしながら、大包平は実に長い時間、胸の奥を占めていた言葉を投げかけた。
     鶯丸は大包平の言葉に、かつてのように目を丸くした。そうして瞬きすると、今度は大声をあげて笑い出した。
     笑われた大包平はやはり面白くない気持ちになってむくれた顔をしたが、鶯丸の眦に涙が浮かんでいるのを認めると、ふっと息を吐いて笑った。
    「そうだな、お前も俺も、大馬鹿者だ」
     鶯丸は眦を拭いもせず、大包平を見上げて言った。笑いすぎて上気した頬も、涙の膜の張った煙る緑の瞳も、鶯丸が生きていることを教えてくれた。
    「大包平、俺はずっとお前に言いたかったことがある」
     鶯丸の声はやはり、静かではあったが大包平の許へすんなりと届いた。
    「ただそこに在るだけで、価値のあるものはいる。逸話はそいつを彩るくらいはするだろうが、決してそいつそのものの美しさや、そいつが在ることの代わりにはならない。言いたい奴には好きに言わせておけーーお前は、本当に美しい太刀だな」
    「当然だ」
     間髪入れずに応える大包平に、鶯丸は、ふふ、と息を漏らして笑うと、目を伏せた。長い睫毛が、白くも暖かい色の頬に影を落とした。
    「長生きしてみるものだ。この長い長い生が、死を免れる幸運も、もう一度お前に会う幸運ももたらしてくれた。……命は大事にするものだな」
    「ああ」
    「生きてさえいれば、愚かにもなれるーーそれにしても大包平、お前のように馬鹿をやるというのも存外楽しいものなんだな」
    「だから馬鹿というな、この馬鹿」
     言いながら、瞳と同じ落ち着いた緑の髪を撫でるように軽く叩くと、鶯丸は痛くもないくせに「いてっ」と声をあげた。右手に触れた滑らかな髪の感触に、こいつが生きていて良かった、と感じ入って、大包平はようやく自分の望みが叶う歓びを知ったのだった。


     長い長い生の先には、やはり長い長い生が続いている。それに飽いてきたのがいつ頃だったのか、それすら長い長い生の彼方に置き去りになり、忘れてしまった。
     長く生きていれば、死を目にすることも多かった。それらはすべて異なる死であったが、死ぬという点においてはどれも等しかった。同じく長い時を過ごしてきたものと諦念を分かち合えることもあったが、それすらも過ぎ去っていくものだ。過ぎていくものには慣れた。慣れてしまえば、退屈にもなった。
    「ーー退屈で死んでしまいそうだ」
     そうこぼすようになったのもいつ頃だったのか。それも忘れてしまったが、鶴丸は自分が死に夢を見ていることには気づいていた。生きた時間に見合った分だけ、多くのものを知った。それでもまだ、自分の死は知らなかった。
    「それはそれは、難儀だな」
     ひとりごとに返事が返ってきたのは初めてだった。帝に献上されるとき、世間は浮ついた空気の中を泳ぎきろうとあくせくとしていたが、大きな御堀の内側に入ってしまえば、喧噪は遠くなった。厳かな静けさの中で、鶴丸の倦怠は加速した。まだ飽きられるとは驚きだ、とひとり自嘲してもみたが、心が乾いていくのは止められなかった。
     返事を寄越したのは、新入りの太刀だった。静かで、しかしよく通る声だった。視線を向けると、その太刀は美しく背筋を伸ばして座っていた。精緻な美貌には、薄い笑いが貼りついている。
    「ああ、難儀なんだ。君も長く生きているだろう。飽きることはないか」
     話している間は慰めにもなるだろうと、鶴丸はその太刀に話しかけた。話しかけられた太刀は首を軽く傾げた。その際に、長い前髪が揺れた。
     ふたりの仕舞われた部屋は薄暗く、他にも多くの物が仕舞われているというのに、ふたり以外には姿を現さなかった。新しい時代が始まるとき、塞ぎ込んでしまうものがいるのは人間も物も同じだった。ここにいる物たちは、今は眠っていたいらしい。
    「ーー長い長い生を過ごしてきたが、俺はつい最近生まれ変わったんだ」
     思いがけない返答に、鶴丸は注意深くその太刀を見つめた。微笑は、何の感情も滲ませていないように見えた。
    「君は、俺より長い時間ここにいるのだろう。外への抜け道を知らないか」
     外を見てみたいんだ、とその太刀は言った。

     その誘いに乗ったのは、単なる気まぐれだった。人間たちには姿が見えないため、外に出るのは容易かった。鶴丸を誘った太刀はきょろきょろと周りを見回しながら、鶴丸の後ろをついてきた。人間の子どもみたいだな、と思うと鶴丸の口許には久しぶりに意図しない笑いが湧いてきた。
    「これは素晴らしいな」
     外に出て、木々が錦の如く葉を染め、それを散らしていくのを見ながら、その太刀は言った。
    「君、初めて見るわけでもないだろう」
     あまりに大げさな驚嘆に思えて鶴丸がそう言うと、太刀は鶴丸を見て頷いた。
    「確かに見たことはある。しかし、知ろうとはしなかった」
     木々はこうして生きているのだな、と細めた目が、秋の終わりには似つかわしくない柔らかく落ち着いた緑をしているのに、鶴丸は瞬きした。決して派手な装い、姿の太刀ではなかった。それでもなぜだか、眩しく見えた。
    「確かに知ろうとせずとも知ることのできるものはある。しかし、知ろうと欲すれば、もっと知ることができる」
     いやぁ面白い、と笑う太刀から鶴丸は目を離せなかった。
    「俺も古備前の太刀だから、長く生きるうちに鶯丸なんて名前ももらって大事にされてきたが、何かを望もうと思ったことがなかった。大事にされていたし、それ以上に望むものなんてないと思っていたんだ。ーーすまない、話したい気分なんだ」
     鶯丸は気がついたように鶴丸に断りを入れた。それにはっとして、鶴丸も「続けてくれ」と促した。身振り手振りも乏しく、決して派手に表情も動かしているわけではないのに、紅葉を見る鶯丸の顔は晴れやかなのが分かった。
    「俺の刀身には虚があってな。生まれたときからそれがあるものだから、俺はいつか死ぬものだと確信して生きてきたんだ。だから俺の生は、何と言えばいいか、消費されるものだと思っていたんだ。だから粛々と過ごしてきた。その虚が近年、表に出てくるようになって、とうとう俺も死ぬか、まぁよく生きたな、と思っていたのだが、修復してくれる人間がいてな。長生きはするものだ。俺は命を拾ってもらった。
     そう思ったとき、俺は確かに生きてはきたが、生きようとはしなかったのではないか、と考えるようになった。……刀が生きようとするなんて馬鹿な話だ。しかし、そんな馬鹿が俺の傍にかつていたんだーー何物にも代えられない、兄弟のような奴が」
     鶯丸は懐かしむように目を細めた。その視線の先で、赤い葉が揺れていた。
    「刀剣の傑作と讃えられながら、評価に見合った働きがないのを不満に思っていた。自分の美しさを誇る一方、美しさしか語られないことに焦っているーー危なっかしくて、目が離せなかった。
     望みを持つのは愚かだと、俺は長い間思っていたのだが、こうして命拾いするとそれも良いものだと思うようになった。しかし望みを持ったはいいが、その望みを叶えられる相手とは離れて久しい。ままならぬものだーーしかし、望みをただ抱き続けるのも、また一興だろう。生きているのだから」
     精緻に整った顔が、快活な表情になったり、温かくも哀しげになったり、ほんの少しの動きでまったく違う笑顔になるのに、鶴丸は驚いた。そうして瞬きばかりしている間に、鶯丸は鶴丸の方を向いた。
    「俺は進んで生きようとする酔狂な刀なんて大包平くらいかと思っていたのだが、君もそうなんだな」
    「は?」
     間抜けな声が出た。鶯丸は気を悪くする様子も見せず、話し続ける。
    「さっき、退屈で死にそうだ、と言っていた。自分が生きていると思っていないと、死にそうだ、なんて言えまい」
     鶴丸は息を飲み、ぱちぱちと長い睫毛を揺らしながら瞬きした。そうする度、秋晴れの空は抜けるように高く、紅葉は燃えるように鮮やかで、鶯丸の髪はその中で柔らかくも光を返して緑を色濃くするのを、初めて知った気分になった。
    「いや、あいつと君だけではないのかもしれん。恐らく皆、酔狂だ。生きていると意識せずとも、生きているのだから。その中でも、大包平はとびきりの馬鹿だが」
     馬鹿、という言葉が甘く響くようで、鶴丸は少し気恥ずかしさを感じた。そうして、そんなものを感じる自分に笑った。
    「馬鹿だ馬鹿だと言っているが、君はそいつを褒めたいのか罵りたいのか、どっちなんだ?」
    「どちらでもない。馬鹿と思うから馬鹿と言うだけだ」
     けらけらと無邪気に、鶯丸は笑った。鶴丸は刀剣の傑作のひとつと名高い太刀を少し気の毒に思いながらも、愉快にもなっていた。
    「しかしな、その馬鹿がこの世にいるというのが、俺はどうしようもなく嬉しいんだ」
     眉を下げて、どこか泣きそうな顔をするのが眩しくて、鶴丸は目を細めた。
    「ーー君は美しい刀だなぁ」
     思わず漏れた言葉に、鶯丸は首を傾げると「美術刀だからかな」と空惚けてみせた。それに声をあげて笑いながら、自分がまだこうして笑えることに鶴丸は胸がいっぱいになって、「ああ、生きている」と思うと、ほんの少し、泣き出したくなった。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/07 12:32:10

    望みの彼方

    すべて妄想でできています
    文章に手を入れたいと思いながらはや数年経ってしまいました

    #大鶯 ##大鶯

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