半身
膝丸が出陣先で破壊されたという報せは、部隊を率いていた山姥切国広によってもたらされた。検非違使と交戦して、と報告する山姥切の顔は真っ青で、「俺の責任だ」という沈痛な声に審神者は「お前のせいじゃない」と応じることしかできなかった。山姥切も無傷ではなかったから、審神者は渋る彼に手入れ部屋へと行くことを言い渡し、山姥切が言いつけを守ったのを見届けると、近侍の前田藤四郎に髭切を呼んでくるよう頼んだ。気の重い仕事だが、それを一番先に為さねばならないと思ったのだ。
審神者によって弟の不帰を知らされた髭切は、いつも微笑みをたたえた口許をわずかに強ばらせたが、少しの沈黙の後、「僕たちは刀だからね」とだけ呟いた。その口許にはまた微笑が戻っており、その様子に審神者は自分の唇を噛んだ。戦っている以上、こういうこともあるのは身をもって知っていたが、何度経験しても慣れなかった。思わず口から滑り出た「すまない」という言葉に、髭切はいつもの微笑のまま、静かに首を横に振っただけだった。
そのとき審神者と共に控えていた前田は、髭切を気の毒に思い、その後自分のできる限り彼を思いやった。それは前田だけでなく、他の刀剣たち、特に兄弟がいたり膝丸と仲良くしていた者は、髭切の心中を慮ってそれまでよりも彼に慎重に接するようになった。誰かがいなくなったとき、いつもそうしてきたからだ。
しかし、髭切はまったく変わらなかった。まるで弟がいたときと変わらない様子で出陣し、遠征に行き、内番をこなした。そのうち、弟がいなくなっても変わらず微笑みをたたえたまま日々過ごす髭切に寒気を覚える者が出てきた。そういう者は、少しずつ髭切から離れていった。特に顕著だったのは膝丸に懐いていた今剣で、彼は髭切は弟のことなど何とも思っていないのだと思い込んでしまい、髭切と一切顔を合わせなくなった。そこまではしなくとも、髭切の様子に「やはり源氏の刀だからか」と、共食いとまで称された兄弟の元々の在処を引き合いに出し、情が薄いのではと語る者もいた。一方、まったく変わらない様子を気丈に振る舞っているのだと受け取った前田や元々世話好きの多い脇差たちは、距離を測りながらも髭切を気にかけていた。
そうして何日も過ぎたとき、縁側に座ってぼんやりしていた髭切の許に山姥切が現れた。部隊を率いていた身として膝丸の不在は山姥切を長く消沈させていた。その沈みようは髭切よりもむしろ彼を心配する者が多かったほどだった。山姥切は時間をかけて少しずつ立ち直り、そうして今、髭切の前にやって来たのだった。
「審神者から聞いたのだが」
「うん」
髭切はやはり、いつもの微笑で山姥切の少し震える声を聞いていた。
「膝丸は、まだ顕現する方法がある」
髭切は黙ったまま言葉の続きを待った。
「検非違使と交戦して勝利したときに顕現したという報告がいくつかあるらしい。……俺は、あんたの弟の顕現に尽力する」
それが償いだとは言わなかった。言い終わると俯いてしまった山姥切の顔を、弟のように唇を一文字に結んで髭切は見つめた。そうしてしばらくの沈黙の後、またいつもの微笑を浮かべ、よろしく頼むよ、と言った。山姥切はそれに一言、ああ、と応えると去っていった。
髭切は山姥切の背中を見送り、弟は想われているなぁ、と目を伏せた。弟の不在は、自分が思った以上に本丸内に波紋を広げているらしい。優しい弟だからね、と思って髭切の口元の微笑が少し深くなる。
髭切にとっては、弟の不在は妙に実感がなかった。それは離れて在ることが長くなってしまったからなのか、それとも自分の性質がそういうことに疎いからなのか、髭切自身にも分からなかった。こういう自分のぼんやりしたところを弟は心配していたのだと思い至ると、喉元に何かが詰まったような心地がした。
膝丸と共同で使っていた部屋は、現在髭切がひとりで使っている。並んだふたつの部屋、片方を寝室、もう片方を居間のようにして使っていた。髭切は毎日、そこでひとりで過ごした。兄弟揃って物をあまり持たない質だったために、部屋は閑散としている。既に湯浴みを終え、後は寝るだけとなった髭切は布団を敷きながら、そろそろ寒くなってきたなぁと考えていた。毛布を出したり厚い布団を出したりすることは、膝丸が言い出さなければ髭切は手をつけなかったから、寒さで寝付きが悪くなるまで気がつかなかった。やっぱり自分はぼんやりしているな、と思いながら、弟が毛布を仕舞った場所を探そうと、押入のいつもは使わない下段の奥を見ようとした。
暗いそこを覗き込んだとき、髭切は自分を見る弟の顔と目が合った。思わずうしろに下がると、膝丸も同じように後ろへ引く。まったく同じ動きをする弟の顔を不審に思ってよく見ると、普段見ないそこには使わない衣類を入れた箱があり、その上に鏡が置かれていたのだった。
突然現れた弟の正体を知って、髭切はその鏡に手を伸ばした。久しぶりに見たそれには覚えがあった。膝丸が簡単な身支度を自室でもできるように、と持ってきたものだ。いつも外に出しておくと映り込んだものが気になってしまうと髭切がこぼして以来、使わないときは押入にしまっていたのだった。
こんなところにあるなんて、と髭切は取り出したそれに映る自分の顔を撫でてみる。それまでは考えたことがなかったが、弟によく似ていた。しかし、そのことに思わず笑みを浮かべる顔は、弟にはなかった表情だった。それに気付くと、また山姥切と話した後のような感覚が喉の下にせり上がってきた。すると鏡の中には、眉根を寄せて目を細める髭切の顔が映っていて、これは弟が泣きそうなときの顔と同じだ、と思い至って、ようやく髭切は理解した。
まだ顕現されたばかりの頃、出陣をこなしたり内番を覚えたりで忙しない毎日を過ごしていたある晩に、髭切の両目から涙がぽろぽろとこぼれたことがあった。何かきっかけがあったのか、髭切はよく覚えていない。ただ目から水が垂れていくことに驚いて座り込んだままそれを放置していると、心配そうな顔をした膝丸が無言で隣に座ったのだ。髭切は自分の肩に触れる弟の肩が温かいことを、そのとき初めて知った。その温かさに安堵して体を預けると、顔を埋めさせるように膝丸の手が首にまわった。
「惣領の刀がこれではみっともないから、誰にも言わないでおくれ」
「ああ、もちろんだ」
笑い混じりに絞り出した髭切の言葉は、穏やかな膝丸の声に受け止められた。それにまた安心して、髭切は濡れた頬を弟の肩により深く埋めた。
弟は分かっていたのだ、と鏡に水滴が落ちるのをそのままに、髭切は考える。あのときの涙の理由を自分がもし理解していたなら、自分で対処するか無理なら人を頼るかしただろう。あのとき、自分には何も分からなかった。だから、膝丸は何を尋ねるでもなく、ただそばに来てくれた。髭切が自分の感情に疎いことを、あのとき既に気付いていたのだ。
膝丸はあの晩のことを、まるで忘れたように口に出さなかった。律儀な性格だから、きっと髭切以外にも一言も話さなかっただろう。だから髭切が流す涙は、今までもこれからも、誰も知らない。
——そうだ、お前がいなくなるというのは、こういうことだったね。
髭切は涙を拭いもせず、鏡に弟の泣き顔が映るのを見つめる。それを慰めてくれる温かい肩はもうないのだと、髭切はようやく理解した半身の喪失をただ噛み締めていた。