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    慕情決壊カウントダウン「——何だって?」
     出てきた声は自分でも驚くほど低かった。口許に運ぶ途中だったティーカップをソーサーに戻し視線を上げると、目の前に座る男は珍しく煮え切らない口調で松井の問いかけに応えた。
    「えっと、だから、松井に服を選んでほしくて」
    「なんで」
    「いや、その、クリスマスに誘いたい子がいて……」
     ——クリスマスに誘いたいとは、そういうことだろう。
     思わず聞き返してしまったが分かり切ったことだった。笑うような、バツの悪そうな、とにかく居心地の悪そうな顔で桑名は自分の手許のコーヒーに視線を落としたり松井を見たり、こんなに落ち着かない様子は初めて見る。厚い前髪の向こうから自分に視線を寄越していることは分かるくらい、一緒にいたのに。
     ふたりで映画を見たあと、感想を言い合うために近くの店でお茶をするのは習慣になっていた。そういう習慣ができるくらいには、松井と桑名には積み重ねてきた時間がある。……あったのだ。
     両手に持っていたカップとソーサーをテーブルに置くと、思った以上に耳障りな音を立てた。松井にとっては、これが失恋を自覚した音だった。

     桑名と話すようになったきっかけは大学の授業だった。それまでも豊前という共通の友人はいて、なんとなく顔と名前はずっと知っていた。
     一年生の前期、すれ違えばお互い「ああ豊前の」と思っているような顔で目礼をする間柄で過ごした後、たまたま後期にとった一般教養の授業で声をかけられた。
    「松井くん……だよね?」
     ふにゃりとどこか締まりのない顔で笑う口許には、構内でたまたま見かけたときに感じていた近寄りがたそうな雰囲気はなかった。声の響きだって、想像していたよりずっと柔らかかったのだ。
    「ああ……えっと、桑名くんだっけ」
    「桑名でいいよお。ここ座っていい?」
    「じゃあ僕も松井で。どうぞ」
     古い講義棟にある大教室の三人がかけられる長机に、ひとつ間を置いて座った。桑名の鞄は重そうだったが、取り出したのはペン一本と薄いノート一冊だった。
    「知ってる人いてよかったあ。いきなり話しかけてごめんね」
    「ううん、僕もひとりだったから。理系でこの授業は確かに珍しいかもしれないね」
     桑名が農学部にいるのは豊前から聞いていたからそう言うと、桑名は「うん」とどこか苦い笑いを浮かべた。
    「一応友だちに声かけてみたんだけどね。毎週レポート提出するのめんどくさいって断られちゃった」
    「僕もだ」
    「そうなの? 美術史専攻なら、こういう授業選ぶ人多いと思ってたなあ」
    「元々レポートの多い専攻だからかな」
     その授業は映画史に関するもので、古い映画を見ながら講義を受けて、レポートを毎週提出することが義務付けられていた。単純に古い映画を見られるというのと、映画史自体に興味があって、松井はこの講義を取ろうと思っていた。それに。
    「僕は、毎週レポートを出せば試験がないというのは、結構楽だと思うのだけれど」
     松井がそう言うと、桑名はキョトンとした顔になったあと、にっこり笑った。
    「僕も同じこと考えてた」
     前髪で目許が隠れているのに随分表情豊かだ。松井もその笑みにつられたのと、同意をもらったのとで微笑んだ。そのとき、ちょうど授業が始まるところだった。
     端的に言えば、この講義は恐ろしくつまらなかった。
     古い映画の、言葉を選ぶなら悠然とした、あけすけに言うならば冗長な映像を見続けるのはまだしも、時折挟まれる教員の話が主旨が掴みにくい上に声がどうしようもなく眠りを誘う単調さだった。またひとり、いやふたり三人五人と毎週受講生が少なくなっていく教室で、意地でも授業に出続けたのは単純に松井の性格もあったが、桑名に会えることも大きかった。
     桑名はあの少し近寄りがたさを感じさせる表情で真面目に前を向いていて、松井は早々に授業に飽き始めていた自分を少し恥じた。しかし講義室の人数が半分ほどになったある日、ガクッと大きく舟を漕ぐのを見てしまった。真面目に授業を受けていると思っていたが、前髪で気がつかなかっただけで居眠りしていたらしい。
     舟を漕ぐのを目撃してしまったそのとき、はっと顔を上げた桑名はバツが悪そうに松井を見て少し笑ったかと思うと、ノートの端に何かを書きつけて松井の方に寄せてきた。映画を見るために照明を落とした教室で、松井はそれに目を凝らした。スクリーンが明るくなったとき、そこに書かれていたものを読むことができた。
     ——あとでノート見せて。
     ストレートなお願いに思わず笑って、松井はそのすぐ下に「いいよ」と返事を書いた。この頃にはもう、席は開けずに座っていた。
     その日は授業のあとすぐに食堂に行ってノートを貸した。松井が売店で買ってきたコーヒーを飲む間に、桑名は手際よくノートを写していった。
    「今までの授業も寝ていたのか?」
    「うん、時々」
     そうやって誤魔化すように笑う。松井も「まあ眠くなるのは分かる」と頷いた。
    「レポートは? どうしてたんだ?」
    「あー、シラバス見直したら『授業の』じゃなくて『映画の』レポートって書いてあったから、自分で借りてきてそれ見て書いてた。もうほぼ感想文みたいな感じになっちゃうけど」
    「なるほど、それはいいな」
     どうせ授業の限られた時間ではすべてを通して見ることなんてほとんどできないのだ。冗長さの中で集中し始めたとしても、教員の話が挟まれる。自分で借りてきて、すべてを一気に見る方がよっぽど楽しめるのではないか。
    「松井も見る? 一緒に」
    「え?」
    「僕、今日の映画も借りるつもりだけど」
     何気なく誘われてすぐに「じゃあ」と応じたのは、もう桑名のことがかなり好きになっていたからなのだろう。それくらい、松井にしては珍しく一緒にいて肩のこらない相手だった。
     それから一年、一緒に授業を受けなくなっても、ふたりはお互いのひとり暮らしの部屋を行き来した。授業で取扱っていた映画のようにサブスクでは配信されていない作品をレンタルショップで物色して一緒に見たり、二十歳の誕生日を迎えてからはお互いの家に酒を持ち寄ったりした。
     桑名は意外と言っては何だが読書家で、松井の趣味とは違う本が部屋の小さなカラーボックスに納められていた。それに興味を示すと「持ってっていいよお」と言うので、松井もその言葉に甘えることにした。そして同じように松井の部屋にやって来たときに桑名が本棚を興味深そうに眺めていたので、「貸し借りしようか」と声をかけると、「うん」と元気のいい返事が返ってきた。普段落ち着いているのに、時折桑名はそういう幼気なところを見せた。
     本の貸し借りを繰り返し、たまには一緒に映画館に行ったり美術館に付き合わせたり、かなり仲のよい友人となっていた。「俺をほっといて仲よくなっちまったな」とからかってきた豊前には「そうかな」ととぼけたが、少なくとも松井にとっては一番共に過ごしている相手だった。
     それが、こんなことになるなんて。
    「ああ、これがいいな」
    「そうなの?」
     桑名にコートを押し当てて頷く松井に、当の本人は不思議そうに首を傾げる。「自分の着るものだろう」と呆れると「いや、今まで着たことがないタイプだから……」と頭を掻いた。もう見慣れたはずの仕草にいちいち口惜しくなる。自分が見立てた服を着て、自分ではない誰かと約束しようとしているのだ、この男は。
     松井が無作法にもソーサーで音を立ててしまったとき、桑名は意外そうな顔をした。松井のそういう所作を意外に思うくらいには、桑名も松井のことを知っているのだ。もちろん、服の趣味がかなり違っていることなんて分かりきっているはずだ。
    「……どうして、僕に頼むんだ」
     自分の恋心の重さと、それを失おうとしている事実を一緒くたに理解したことは、松井の中で荒れ狂う波のように渦巻いていたのに、どこか頭の一部は冷静に動いて桑名との会話を穏便に続けようとしていた。自らの現実主義の強固さを恨めしく思うのは初めてだった。
    「ああ、うん、僕とかなり趣味が違う相手だから……」
     ——ありのままの桑名を嫌な奴なんて、ろくな趣味じゃない。うまくいったとしてもどうせ続かないだろう。
     そう思っても、目の前で歯切れの悪い物言いをする桑名を悲しませると思うと口に出せなかった。しかも、その桑名に頼りにされていることに喜びを覚える心もあって、本当にどうしようもない。
     なんとなく桑名の顔を見れなくなった松井は、自分も桑名の視界から隠れたくなって、しかしそれができないのも分かっていたから口許に手を当てて考える素振りをした。どう断るか、それとも。
    「……予算は」
     重々しい声が出てしまった。桑名は大きな身体を小さく揺らして、鞄から封筒を取り出した。
    「先月のバイト代がここに……!」
     わざわざ封筒の中身を見せようとする素朴さに、つい笑ってしまった。笑ってしまえばもう負けだった。そういう自分にはない、飾らない素朴さが好きだったのだ。
     桑名の服を選ぶのは単純に楽しかった。好きな相手を自分の趣味で着飾らせることにこんなに多幸感があるとは思わなかった。普段の桑名らしい服装ももちろん似合っているけれど、その桑名が自分好みの格好をしているというのは、とっておきのご馳走だとか滅多にお目にかかれない美術品だとか、そういう特別感があった。松井と桑名では身体の線がかなり違うから似合うものも違っていて、自分では着れない服を見繕うのが面白かったというのもある。
     もちろん桑名の予算にも限りがあるから、松井はそれまでに見たことのある桑名のワードローブを引き合いに出しながら服屋を回った。
    「松井、人の服よく覚えてるねえ」
    「そうか?」
     当たり前だろう、と思いながらも、口先はすっとぼけた受け応えをした。あんなに一緒にいて、部屋にも何度も行ったことがあって、桑名の趣味も、持っている服も、物持ちがいいことも知っている。当たり前だろう。
     松井の勧めるままに桑名は買物を終えて満足そうだった。「ありがとう」と笑う顔に微笑み返してみせる。……ちゃんと笑えているはずだ。
    「あとは、その髪か」
     前髪を上げた方がいい、と言いながらつい手を伸ばしてしまった。触れる直前、桑名が身を固くするのが分かって、松井はかろうじて手を止めることができた。
    「……髪は、僕より篭手切に聞いた方がいいな」
     とっさに、豊前を通して知り合った後輩の名前を出して取り繕うことができた。このとき、フ、と口許に浮かんできたのは自嘲だった。こんなに近くにいて、よく分かっているつもりで、でもできないことがあるのだ。自分では、桑名にできないこと。
    「えっと、そうしようかな……今日は本当にありがとう、松井」
     妙な間を誤魔化すためか、それとも単純に今言おうと思ったのか、桑名は姿勢を正すと頭を下げた。大仰に腰を折ったわけではないけれど、体格のいい男が往来でそうすると目立つ。松井は苦笑いしてその肩を叩いた。こういうふれあいは普通にできたのに、と少し心が痛んだ。
    「クリスマス、うまくいくといいな」
    「うん……」
     照れたように頭を掻く姿に胸が締めつけられる。何が悲しくて自分好みに仕立てた惚れた男を、知らない誰かに差し出さなければならないのだ。差し出すなんて、桑名はそもそも松井のものではないけれど。
     そう、元々松井のものではなかったのだ。どれだけ一緒にいて、桑名のことを分かっているつもりでも。
     自分では桑名にできないこと。何気なく髪に触れるのを許されること、クリスマスを一緒に過ごすこと……できるようになろうとも思わなかった。これまでの関係が心地好かったからだ。
    「あの、松井……」
    「僕はクリスマスはバイトだから、新年にでも報告を楽しみにしているよ」
     何か言いかけた桑名を遮って口から出まかせを言った。「え」と桑名の固い声が聞こえたが、目を合わさないように自分の腕時計を見る。ただのポーズだ、本当は時間なんてどうでもいい。早くここから立ち去りたかった。
    「それじゃあ」
     別れの挨拶のためだけに一瞬見た顔からは、桑名の感情はよく読み取れなかった。それでも松井は軽く微笑んでみせると踵を返して駅へと歩き出した。お互い大学の近くに住んでいて、帰る方向なんて一緒なのに。
     桑名が追いかけてこないことにほっとしたような、無性に寂しいような、苦い気持ちでちょうどホームに入ってきた電車に乗り込んだ。休日の中途半端な時間、閑散とした車両はやたらと暖房がきいていて、いきなり暖かいところに入ったことで目許の強張りが緩む。
     ドアのすぐ横のスペースにもたれかかり、松井はぐっと目蓋を閉じた。どれだけ涙腺が緩くなっても、じわじわと失恋の実感が身を浸していっても、今は泣きたくなかった。
     泣いていいと思えるほど、自分に正直ではなかったのだ。



     すべての言葉が音楽とともにあるミュージカル映画だった。主演女優も音楽も美しかった。大団円にはならなかった恋の、その顛末の先を見せるラストシーンさえも。
     エンドクレジットを無言のまま見終えて、松井と桑名は揃って溜息を吐いた。それぞれ用意していた飲物にも途中から口をつけるのを忘れていた。
     桑名の部屋のこたつで、ひとつしかない座椅子を譲ってもらった松井はその背もたれに体重をかけた。ぎしっと音が鳴る。
     桑名は再生機器を止めるためにこたつから手を伸ばしている。映画の余韻に浸っていたが、なるべくこたつから身体が出ないように必死に大きな身体を伸ばす桑名の横着さに、松井は少し現実に引き戻されて笑った。
    「名前は知ってたんだけど、いい映画だったねえ……」
    「そうだな……正直メロドラマだろうと侮っていた……」
    「僕もそうかも」
     こういう映画に当たったときはレポートを書かなければならないのが野暮に思えた。それでも書いて、提出はするのだが。
     ただし、レポートを書くのは家に帰ってひとりになってからだった。一緒に映画を見るようになってからの二、三回は頑張ってみたが、そのうちふたりはその場で一緒にレポートを書こうとはしないようになっていた。どうしても気が散ってしまうのだ。別々に取っている授業の課題を一緒にやったときは相手のことを気にせず集中できたから、同じものについて同じ場所で書いているというのが駄目だったらしい。
    「ずっと歌で進むのって集中できるかなあと思っていたんだけど、見てるうちに慣れるものだね」
     代わりに、見終わったあとは口々に感想を言い合った。趣味の違いから意見の合わないこともあったが、それで自分たちの言葉を鈍らせるような、変な遠慮はしないでいた。その互いの遠慮のなさを許容できていたのが、桑名といて心地好かった一番の要因かもしれない。
    「あと、主人公が自分の気持ちに殉じたりしないのがよかったなあ。偏見かもしれないけど、昔の話だとあるでしょ、そういうの」
    「殉じるほど一途なのも美しいけれどね」
    「うん。でも生きている方が僕はいいな。悲しい思い出のあることは不幸ってわけじゃないでしょ」
    「なるほど」
     松井が感心した声を出すと桑名は照れ臭そうに笑った。てらいなく発言してみせるくせに、それを褒められるようなことがあると途端に気恥ずかしそうな反応をする。それも松井にとっては微笑ましいような、桑名の愛すべき美点だった。
    「まあ好きな子と将来を約束してたら、うまくいってほしいとは思うよね」
     映画を見る前にスーパーで買ってきた菓子をこたつの天板に並べながら、桑名は笑った。そのやたらと丁寧な菓子の出し方にも照れを嗅ぎ取って、松井は少し、意地悪をしたい気持ちになった。
    「桑名は好きな子と付き合ったら、将来を約束したいんだ?」
    「え? ええ〜……松井は違う?」
    「違うとは言わないけど、絶対にうまくいくとも信じられないが本音だな」
    「ええ……そっかあ……」
     松井にからかう気持ちがあったことには気がつかなかったのか、桑名は真面目に考える素振りをした。そんなに深刻になると思っていなかった松井は、少し慌てた。ちょっとからかって、もう少し照れさせてみたかっただけなのだ。
    「……そうだなあ……うまくいくとは限らないけど、でもやっぱり好きだったらずっと一緒にいたいかなあ……」
    「そうか」
     軽い気持ちで言ったことを真面目に考えさせていることにも、その真っ直ぐな言葉にも心が痛くなってきた。自分は、桑名に対する自分の気持ちにさえ、正直に向き合ってはいないのに。
    「ずっと一緒にいられるかは分からないにしても、一緒にいられる時間は大事にしたいな」
    「付き合ったら、したいこととかは?」
     自傷行為みたいだな、と頭の隅で思いながら訊いていた。自分はその立場に名乗り出る意気地もないのに、桑名が好きな相手に対してどうしたいのかを知りたがっている。恋人相手に、どう振舞うのかを。
    「うーん……まずは、手を繋ぐかな……」
    「……フ」
     笑ってしまったのは、かわいらしいと思ったからだった。素朴で、純真で……その気持ちが、自分に向かうことはないけれど。
     笑い声に、桑名はやっと松井がからかうつもりで訊いていたことに気がついたらしい。
    「も〜! 笑わんでよ」
    「いや、すごくいいと思う……フフッ」
    「だからあ」
     健康そうな色の肌を赤くしながら、怒る桑名が松井の肩をバシバシと叩く。それすら手加減されているのも分かっている。そして、その手が自分の手を取ることがないだろうことだって、このときから分かっていた。
     悲しい思い出のあることは不幸ではない。桑名の言った通りのはずだ。今はまだ、思い出にはなっていないだけで。
     それに今は、自分に服の相談をしてきたことを恨めしくも感じている。頼られるのを嬉しく思ったのも事実だけれど、そもそも、桑名に好きな相手がいるなんてあの日のあのときまで知らなかったのだ。
     桑名は松井のことをいい友人と思ってはいるのだろうけど、そういうことを教えてくれるほどの仲ではないということなのだろうか。
    「でも聞かされていたからって受け入れられるかというと、そうでもないと思う自分もいるんだ」
    「う〜ん?」
     松井の吐露を聞かされ続けた豊前は、苦いものを口に含んだような顔をしていた。眉根を寄せて口許を歪めた顔でも整っている。本当によくできている顔立ちだなと思いながら松井が豊前の小作りな顔を見ると、豊前は苦々しい表情のままコーヒーを飲んで、やはり苦い顔のままだった。口に合わないものを頼んでしまったのかもしれない。
     クリスマスを週末に控えた月曜日、レポートを出しに大学に顔を出すとたまたま豊前がいて、松井は豊前に時間があるのを確認するとそのまま街のコーヒーチェーン店まで連れ出した。席はほとんど埋まっていたが、奥まった場所のテーブルでの松井の低い声なら、話が他の客まで聞こえることはないはずだ。
     松井の吐露を聞き始めてから普段の快活さをどこかへやってしまった豊前だが、松井の打明け話をいたずらに口外することはないだろう。そこは掛け値なしに信頼していた。
    「あー、まどろっこしいことを……」
     豊前が思わずといった感じでもらした言葉に松井は項垂れた。確かに、松井が自分の気持ちに、そして桑名に対してもっと正直になれていれば、ずっとシンプルに済んでいたはずの話だ。身から出た錆とも言える。
     信頼している友人の一言は重い。豊前にそう言わせる自分の有り様に落ち込んでいると、向かいの席で豊前が笑う気配がした。
    「そこまで思い詰めてんならもうお前から正直に打ち明けた方が話が早いと思うぞ」
    「それはやりたくない」
    「強情なんだよなあ……」
     呆れたように笑って、豊前は自分のジャケットからスマホを取り出した。松井が不快にならない程度に何か操作しながら、「クリスマス、バイト何時までなんだ?」と訊ねてくる。
    「ああ、いや、本当はバイトは入れていないんだ」
    「ん、そうなの?」
     手を止めた豊前が目を丸くしている。嘘をついたことを明かす後ろめたさで視線を逸らしながら、松井は理由を話した。
    「桑名にはついそう言ってしまったのだけれど……言ったことなかったか? 僕、高校までミッション系の学校にいたから、クリスマスは休みって染みついているんだ」
    「あー、そういや言ってたな」
     信仰というよりは習慣として身についているものだったが、ともすればワーカホリックに陥りそうな自分には、休みを確保する日をあらかじめ決めておいた方がいいのは分かっていた。
     豊前が頷くのを見ながら、以前桑名にも言ったことがあったな、と今さら思い出していた。一緒に映画を見ていて、白黒の画面に映された教会の場面の話になったときに、ついでのように話したことがあった。もし桑名が、松井がミッション系の学校にいたのを覚えているなら、あのとき嘘を言ったことにも気付いているかもしれない。
     嘘をついておきながら、嘘がばれているかもしれないと思うと気が塞いできた。我ながら恐ろしく身勝手だ。身勝手だから、今も豊前を告解じみたことに付き合わせているのだ。
     その豊前はスマホをしまうと、松井に普段と同じ爽やかさで笑いかけた。
    「じゃあ松井、クリスマス俺らと遊ぼうぜ。俺と、篭手切」
    「え?」
    「つってもクリスマスイブか。二十四日な。五月雨と村雲も呼ぼうかと思ったけど、あいつら確かほんとにバイトだっつってたわ。稲葉も」
    「……豊前もバイトじゃなかったか?」
     去年も皆が休みたがる日に代わりにシフトを入れていた記憶がある。そう思って訊ねると、豊前は片眉を持ち上げてからいたずらっぽく笑った。
    「ま、今まで散々代わりに入ってっから、その日くらい代わってくれる奴もいんだろ」
    「大丈夫なのか」
    「おう」
     豊前は力強く頷くと、待ち合わせの時間と場所を一方的に告げて、「そろそろバイトだから」と去っていった。松井は勢いで押し切られたことを感じながらも自分のスマホに新しく予定を入れた。豊前に気を遣わせたのは申し訳ないけれど、家でひとり落ち込み続けるよりはずっといい。

     当日、豊前が指定した時間はもう日が落ちて暗くなった頃で、松井はゆったりと準備をしてから家を出た。篭手切もいる手前、身の振り方には気をつけるつもりだが、今日はしこたま飲んでやるつもりでもあった。
     飲酒を許される年齢になってからは桑名と飲むことが多かったから、桑名のいない席というのも新鮮だった。飲んでも顔色が変わらず、ひたすら杯を空け続ける松井に、桑名は赤くなった顔で「おつまみも食べない……肝臓大事にせなあかんに……」と若干引き気味にチー鱈を渡してくれたことがあった。松井としては飲めるから飲んでいただけなのだが、桑名にとっては驚異のペースだったらしい。
     桑名は今日、誰かを誘って食事にでもいくのだろうか。そのあとは、どうするだろう。
     電車の中でふとそんなことを考えてしまい、苦しくなった。繁華街へと向かう電車は楽しそうな人たちで賑わっている。その中でひとり、マフラーに顔を埋めながら、松井は溜息をついた。
     それにしても、豊前と約束したのはこの月曜だ。どこかへ飲みにいくにしても、そんな直前になって空いている店なんてあったのだろうか。
     そもそも飲みにいくなんて言ってなかったな、と気がついたのは目的の駅に着いたときだった。どこに行くのか詳しく訊いておけばよかったとは思ったけれど、すぐに「まあいいか」と思い直した。豊前の選択を信頼しているし、篭手切まで巻き込んでそう無茶なことはしないだろうとも思ったからだ。
     待ち合わせの時間までは十分ほど余裕がある。松井は今朝方降っていた雪が端に寄せられた道を、気に入っているブーツでゆったりと歩いていった。
     待ち合わせに指定されたビルまでの道はかなり賑わっていたが、豊前なら立っているだけでも目立つからすぐ分かるだろう。豊前がまだ場所にいなくても、待っていれば篭手切が松井を見つけてくれるはずだ。
     そう思って、華やいだ街を歩く。ビルの前の、この時期だけ用意されるクリスマスツリーのところにいるはずだ。一度その周りを回って、豊前か篭手切がいないか探そうと思っていた。いないのを確認してから、着いたと連絡すればいい。
     浮ついた空気の中で、着飾った人々は顔を綻ばせているか、緊張したようにスマホや腕時計を確認している。今頃、桑名もああしているだろうか。想い人を待ちながら……ちょうど、そこにいる誰かのように。
    「……ん?」
     その誰かはどこか見覚えのある服に見慣れた背格好で、松井は思わず足を止めた。見たことのない髪型で、普段は隠されている目が覗いている。松井も数えるほどしか見たことのない、黄色い目が。
     その目が松井を捉えた。思いがけないことに血の気が失せて固まっていると、桑名はどこか泣きそうな顔で松井に駆け寄ってきた。
    「ごめん!」
     近付いてすぐ、桑名はよく響く声でそう言うと頭を下げた。周囲の目が自分たちに注がれるのを感じたが、うまく状況を処理できない松井は棒立ちのまま何も言えないでいた。
    「豊前が気を遣ってくれて……いや、そもそも僕がまどろっこしいことしちゃったからなんだけど……」
     そんなことを言いながら、いつものように頭を掻く。セットされた髪が少し崩れて、松井はそれを撫でつけて直してやりたくなった。
    「松井に嘘つくみたいになっちゃってごめん。でもずっといい友だちだったのに、いきなりそんなこと言われても困るかと思って……けど、せっかくだからクリスマスにかこつけてみようかなって……いや、だからあんな面倒なことしないで、最初からちゃんと正直に松井に伝えればよかったんだけど……」
     考えながら喋っているのだろう。桑名には珍しい煮え切らない言葉選びだ。話すうちに顔が赤くなっているのが、日が落ちて暗い中でも分かる。
     言葉に詰まった桑名がまた頭を掻いた。崩れた髪に、松井は今度こそ手を伸ばした。
     髪を撫でつけるとき、桑名は目を丸くして松井を見つめていたが、嫌がる素振りはなかった。そのまま手を離したとき、桑名は堪えきれないように目を細めて、その表情に松井も息を飲んだ。
     すぐ触れられる距離で、桑名は大きな手を松井の前に差し出した。
    「こんな急に訊くことになってごめん……よかったら、今日を僕と過ごしてほしい。今日だけじゃなくて、その先も、できる限り」
     ——まずは、手を繋ぐかな。
     いつか聞いた声を、よく覚えていた。目の前の手が少し震えているのと、松井を覗き込む桑名の目がそれでも逸らされないでいるのを確かめると、松井もようやく正直になって、桑名へと手を伸ばした。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/12/25 21:56:07

    慕情決壊カウントダウン

    人気作品アーカイブ入り (2022/12/26)

    現パロのくわまつです。自分比で驚きの甘さになりました。
    そこを確かめるために読む方はそういないと思うのであらかじめ書いておきますと大団円です。
    功労賞は豊前。

    ##くわまつ #くわまつ

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