慕情決壊カウントダウン「——何だって?」
出てきた声は自分でも驚くほど低かった。口許に運ぶ途中だったティーカップをソーサーに戻し視線を上げると、目の前に座る男は珍しく煮え切らない口調で松井の問いかけに応えた。
「えっと、だから、松井に服を選んでほしくて」
「なんで」
「いや、その、クリスマスに誘いたい子がいて……」
——クリスマスに誘いたいとは、そういうことだろう。
思わず聞き返してしまったが分かり切ったことだった。笑うような、バツの悪そうな、とにかく居心地の悪そうな顔で桑名は自分の手許のコーヒーに視線を落としたり松井を見たり、こんなに落ち着かない様子は初めて見る。厚い前髪の向こうから自分に視線を寄越していることは分かるくらい、一緒にいたのに。
ふたりで映画を見たあと、感想を言い合うために近くの店でお茶をするのは習慣になっていた。そういう習慣ができるくらいには、松井と桑名には積み重ねてきた時間がある。……あったのだ。
両手に持っていたカップとソーサーをテーブルに置くと、思った以上に耳障りな音を立てた。松井にとっては、これが失恋を自覚した音だった。
桑名と話すようになったきっかけは大学の授業だった。それまでも豊前という共通の友人はいて、なんとなく顔と名前はずっと知っていた。
一年生の前期、すれ違えばお互い「ああ豊前の」と思っているような顔で目礼をする間柄で過ごした後、たまたま後期にとった一般教養の授業で声をかけられた。
「松井くん……だよね?」
ふにゃりとどこか締まりのない顔で笑う口許には、構内でたまたま見かけたときに感じていた近寄りがたそうな雰囲気はなかった。声の響きだって、想像していたよりずっと柔らかかったのだ。
「ああ……えっと、桑名くんだっけ」
「桑名でいいよお。ここ座っていい?」
「じゃあ僕も松井で。どうぞ」
古い講義棟にある大教室の三人がかけられる長机に、ひとつ間を置いて座った。桑名の鞄は重そうだったが、取り出したのはペン一本と薄いノート一冊だった。
「知ってる人いてよかったあ。いきなり話しかけてごめんね」
「ううん、僕もひとりだったから。理系でこの授業は確かに珍しいかもしれないね」
桑名が農学部にいるのは豊前から聞いていたからそう言うと、桑名は「うん」とどこか苦い笑いを浮かべた。
「一応友だちに声かけてみたんだけどね。毎週レポート提出するのめんどくさいって断られちゃった」
「僕もだ」
「そうなの? 美術史専攻なら、こういう授業選ぶ人多いと思ってたなあ」
「元々レポートの多い専攻だからかな」
その授業は映画史に関するもので、古い映画を見ながら講義を受けて、レポートを毎週提出することが義務付けられていた。単純に古い映画を見られるというのと、映画史自体に興味があって、松井はこの講義を取ろうと思っていた。それに。
「僕は、毎週レポートを出せば試験がないというのは、結構楽だと思うのだけれど」
松井がそう言うと、桑名はキョトンとした顔になったあと、にっこり笑った。
「僕も同じこと考えてた」
前髪で目許が隠れているのに随分表情豊かだ。松井もその笑みにつられたのと、同意をもらったのとで微笑んだ。そのとき、ちょうど授業が始まるところだった。
端的に言えば、この講義は恐ろしくつまらなかった。
古い映画の、言葉を選ぶなら悠然とした、あけすけに言うならば冗長な映像を見続けるのはまだしも、時折挟まれる教員の話が主旨が掴みにくい上に声がどうしようもなく眠りを誘う単調さだった。またひとり、いやふたり三人五人と毎週受講生が少なくなっていく教室で、意地でも授業に出続けたのは単純に松井の性格もあったが、桑名に会えることも大きかった。
桑名はあの少し近寄りがたさを感じさせる表情で真面目に前を向いていて、松井は早々に授業に飽き始めていた自分を少し恥じた。しかし講義室の人数が半分ほどになったある日、ガクッと大きく舟を漕ぐのを見てしまった。真面目に授業を受けていると思っていたが、前髪で気がつかなかっただけで居眠りしていたらしい。
舟を漕ぐのを目撃してしまったそのとき、はっと顔を上げた桑名はバツが悪そうに松井を見て少し笑ったかと思うと、ノートの端に何かを書きつけて松井の方に寄せてきた。映画を見るために照明を落とした教室で、松井はそれに目を凝らした。スクリーンが明るくなったとき、そこに書かれていたものを読むことができた。
——あとでノート見せて。
ストレートなお願いに思わず笑って、松井はそのすぐ下に「いいよ」と返事を書いた。この頃にはもう、席は開けずに座っていた。
その日は授業のあとすぐに食堂に行ってノートを貸した。松井が売店で買ってきたコーヒーを飲む間に、桑名は手際よくノートを写していった。
「今までの授業も寝ていたのか?」
「うん、時々」
そうやって誤魔化すように笑う。松井も「まあ眠くなるのは分かる」と頷いた。
「レポートは? どうしてたんだ?」
「あー、シラバス見直したら『授業の』じゃなくて『映画の』レポートって書いてあったから、自分で借りてきてそれ見て書いてた。もうほぼ感想文みたいな感じになっちゃうけど」
「なるほど、それはいいな」
どうせ授業の限られた時間ではすべてを通して見ることなんてほとんどできないのだ。冗長さの中で集中し始めたとしても、教員の話が挟まれる。自分で借りてきて、すべてを一気に見る方がよっぽど楽しめるのではないか。
「松井も見る? 一緒に」
「え?」
「僕、今日の映画も借りるつもりだけど」
何気なく誘われてすぐに「じゃあ」と応じたのは、もう桑名のことがかなり好きになっていたからなのだろう。それくらい、松井にしては珍しく一緒にいて肩のこらない相手だった。
それから一年、一緒に授業を受けなくなっても、ふたりはお互いのひとり暮らしの部屋を行き来した。授業で取扱っていた映画のようにサブスクでは配信されていない作品をレンタルショップで物色して一緒に見たり、二十歳の誕生日を迎えてからはお互いの家に酒を持ち寄ったりした。
桑名は意外と言っては何だが読書家で、松井の趣味とは違う本が部屋の小さなカラーボックスに納められていた。それに興味を示すと「持ってっていいよお」と言うので、松井もその言葉に甘えることにした。そして同じように松井の部屋にやって来たときに桑名が本棚を興味深そうに眺めていたので、「貸し借りしようか」と声をかけると、「うん」と元気のいい返事が返ってきた。普段落ち着いているのに、時折桑名はそういう幼気なところを見せた。
本の貸し借りを繰り返し、たまには一緒に映画館に行ったり美術館に付き合わせたり、かなり仲のよい友人となっていた。「俺をほっといて仲よくなっちまったな」とからかってきた豊前には「そうかな」ととぼけたが、少なくとも松井にとっては一番共に過ごしている相手だった。
それが、こんなことになるなんて。
「ああ、これがいいな」
「そうなの?」
桑名にコートを押し当てて頷く松井に、当の本人は不思議そうに首を傾げる。「自分の着るものだろう」と呆れると「いや、今まで着たことがないタイプだから……」と頭を掻いた。もう見慣れたはずの仕草にいちいち口惜しくなる。自分が見立てた服を着て、自分ではない誰かと約束しようとしているのだ、この男は。
松井が無作法にもソーサーで音を立ててしまったとき、桑名は意外そうな顔をした。松井のそういう所作を意外に思うくらいには、桑名も松井のことを知っているのだ。もちろん、服の趣味がかなり違っていることなんて分かりきっているはずだ。
「……どうして、僕に頼むんだ」
自分の恋心の重さと、それを失おうとしている事実を一緒くたに理解したことは、松井の中で荒れ狂う波のように渦巻いていたのに、どこか頭の一部は冷静に動いて桑名との会話を穏便に続けようとしていた。自らの現実主義の強固さを恨めしく思うのは初めてだった。
「ああ、うん、僕とかなり趣味が違う相手だから……」
——ありのままの桑名を嫌な奴なんて、ろくな趣味じゃない。うまくいったとしてもどうせ続かないだろう。
そう思っても、目の前で歯切れの悪い物言いをする桑名を悲しませると思うと口に出せなかった。しかも、その桑名に頼りにされていることに喜びを覚える心もあって、本当にどうしようもない。
なんとなく桑名の顔を見れなくなった松井は、自分も桑名の視界から隠れたくなって、しかしそれができないのも分かっていたから口許に手を当てて考える素振りをした。どう断るか、それとも。
「……予算は」
重々しい声が出てしまった。桑名は大きな身体を小さく揺らして、鞄から封筒を取り出した。
「先月のバイト代がここに……!」
わざわざ封筒の中身を見せようとする素朴さに、つい笑ってしまった。笑ってしまえばもう負けだった。そういう自分にはない、飾らない素朴さが好きだったのだ。
桑名の服を選ぶのは単純に楽しかった。好きな相手を自分の趣味で着飾らせることにこんなに多幸感があるとは思わなかった。普段の桑名らしい服装ももちろん似合っているけれど、その桑名が自分好みの格好をしているというのは、とっておきのご馳走だとか滅多にお目にかかれない美術品だとか、そういう特別感があった。松井と桑名では身体の線がかなり違うから似合うものも違っていて、自分では着れない服を見繕うのが面白かったというのもある。
もちろん桑名の予算にも限りがあるから、松井はそれまでに見たことのある桑名のワードローブを引き合いに出しながら服屋を回った。
「松井、人の服よく覚えてるねえ」
「そうか?」
当たり前だろう、と思いながらも、口先はすっとぼけた受け応えをした。あんなに一緒にいて、部屋にも何度も行ったことがあって、桑名の趣味も、持っている服も、物持ちがいいことも知っている。当たり前だろう。
松井の勧めるままに桑名は買物を終えて満足そうだった。「ありがとう」と笑う顔に微笑み返してみせる。……ちゃんと笑えているはずだ。
「あとは、その髪か」
前髪を上げた方がいい、と言いながらつい手を伸ばしてしまった。触れる直前、桑名が身を固くするのが分かって、松井はかろうじて手を止めることができた。
「……髪は、僕より篭手切に聞いた方がいいな」
とっさに、豊前を通して知り合った後輩の名前を出して取り繕うことができた。このとき、フ、と口許に浮かんできたのは自嘲だった。こんなに近くにいて、よく分かっているつもりで、でもできないことがあるのだ。自分では、桑名にできないこと。
「えっと、そうしようかな……今日は本当にありがとう、松井」
妙な間を誤魔化すためか、それとも単純に今言おうと思ったのか、桑名は姿勢を正すと頭を下げた。大仰に腰を折ったわけではないけれど、体格のいい男が往来でそうすると目立つ。松井は苦笑いしてその肩を叩いた。こういうふれあいは普通にできたのに、と少し心が痛んだ。
「クリスマス、うまくいくといいな」
「うん……」
照れたように頭を掻く姿に胸が締めつけられる。何が悲しくて自分好みに仕立てた惚れた男を、知らない誰かに差し出さなければならないのだ。差し出すなんて、桑名はそもそも松井のものではないけれど。
そう、元々松井のものではなかったのだ。どれだけ一緒にいて、桑名のことを分かっているつもりでも。
自分では桑名にできないこと。何気なく髪に触れるのを許されること、クリスマスを一緒に過ごすこと……できるようになろうとも思わなかった。これまでの関係が心地好かったからだ。
「あの、松井……」
「僕はクリスマスはバイトだから、新年にでも報告を楽しみにしているよ」
何か言いかけた桑名を遮って口から出まかせを言った。「え」と桑名の固い声が聞こえたが、目を合わさないように自分の腕時計を見る。ただのポーズだ、本当は時間なんてどうでもいい。早くここから立ち去りたかった。
「それじゃあ」
別れの挨拶のためだけに一瞬見た顔からは、桑名の感情はよく読み取れなかった。それでも松井は軽く微笑んでみせると踵を返して駅へと歩き出した。お互い大学の近くに住んでいて、帰る方向なんて一緒なのに。
桑名が追いかけてこないことにほっとしたような、無性に寂しいような、苦い気持ちでちょうどホームに入ってきた電車に乗り込んだ。休日の中途半端な時間、閑散とした車両はやたらと暖房がきいていて、いきなり暖かいところに入ったことで目許の強張りが緩む。
ドアのすぐ横のスペースにもたれかかり、松井はぐっと目蓋を閉じた。どれだけ涙腺が緩くなっても、じわじわと失恋の実感が身を浸していっても、今は泣きたくなかった。
泣いていいと思えるほど、自分に正直ではなかったのだ。