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    絵の男


     その日、私が出会った出来事を、うまく説明することはできない。あれは夜が私に忍び寄ってきた一時、その時間が見せた幻のように思われるからだ。しかし、その出来事は確かな質量を感じさせる重さで私の頭に今も納まっている。私は時折、夜が擦り寄ってくる心地がするときに、あの出会いを思い出し、あの男たちが今はどこにいるのかを考えたりするのだ。
     私はその日、鎌倉からの電車に乗っていた。鎌倉はその時期紫陽花が盛りだと聞き、それなら行ってみるかと気まぐれを起こした帰りだった。当時私は小田原に住んでいたから、鎌倉から帰るのに往路同様に何本か電車を乗り換え、そのときは目的の駅に停まる鈍行に揺られていたのだった。鎌倉から小田原までは移動に結構な時間がかかり、電車に乗っている内に日は落ち、窓の外はすっかり暗くなっていた。私は暗くなって特に景色も見えない窓に、自分の顔と車内が映るのをぼんやりとした心地で眺めていた。鎌倉を散策していたときは梅雨特有の重い空気に紫陽花が鮮やかなのを楽しんだが、帰路についたときには私の心は空虚であった。そうして思うものもなく幾つもの外灯が電車の窓を流れていくのを見送ったとき、ちらと視界に人が映ったのに気がついた。
     いつの間にいたのか、その黒い服の男は私の斜め向かいに座っていた。美しい男だった。雨に煙る遠くの山のような、灰色に薄く緑を被せた色の髪が顔の右半分を隠すように流れていた。その髪の滑らかな流れが終わるところあたりに、固く結ばれた薄く形の良い唇があり、その結びの固さが男の美しい顔に一種の荘厳さを添えていた。男は普段からそういう姿勢に馴れているのであろう自然さで背筋を伸ばして座っており、上質な生地で仕立てられているらしい詰襟の、少し変わった服装も相まって近寄りがたい空気を放っていた。目許は軽く伏せられていたからその色は見えなかったが、その佇まいには美術品の中でも逸品が持つような崇高さがあったため、私はその男の姿をまじまじと眺めてしまった。
     そう、まるで美術品のような男であったため、その無機質とも言えるような雰囲気に目が吸い寄せられていたのだが、黒い手袋に包まれた手が、膝に抱えた萌木色の風呂敷包みを時折優しく撫でていたため、私はその男が生きていることを知ったのだった。薄い箱を立てたような風呂敷包みの縁を、男の右手が触れるか触れないかの加減で動く様は、何故だか艶かしさを感じさせて、私は思わず唾液を飲み込んだ。
     その音が聞こえたというのか、男は伏せていた目を上げ、真っ直ぐに私を見た。その鋭い目は深みのある琥珀色だった。私も目を逸らせなかったため、男が瞬きする目の中に光が艶やかに揺れるのが見えるかのようだった。
     そのまましばらく見つめ合い、外灯が幾つか過ぎていった。
    「これが気になるのか?」
     男の少し掠れた声が響いても、私は男から目を逸らせなかった。男の表情は、私を風景の一部として見るかのような無頓着さであったのに、男の声は私に労りを向けていると勘違いしそうなほど穏やかであった。居丈高にも感じられそうな口調であったが、声の穏やかさと男の佇まいが老獪にも思える口調と調和していたことが、威圧感を感じさせるというよりはその男が人の上に立つのは当然だと私に感じさせたため、不快には思わなかった。
    「そうだな、君は分かってくれるかもしれん」
     男はそう言うと、風呂敷の結び目を解き始めた。私は男の顔から、その手に視線を移していた。長い指が流れるような動きで風呂敷を外すと、そこに現れたのは額縁に入った一枚の絵であった。
     その絵は、刀を構えた六人の男が大きな蜘蛛の化け物を囲んでいるものだった。源頼光と四天王の土蜘蛛退治だ、と思い至って、私の視線は次にその絵に縫い留められた。浮世絵らしい派手な構図で、男たちの迎え撃つ土蜘蛛に鑑賞者の視線が集まるように描かれている。
     そこまで考えたところで、私はようやく疑問を持った。源頼光と四天王であれば、人物は五人のはずである。しかし、絵の中には六人いた。中央に配置された頼光と、右から二人目の渡邉綱との間に白い服を着た美丈夫が描かれているのだ。他の人物は皆着物姿であるのに、その白い男だけが詰襟の洋装であった。その詰襟が、私の前で絵を抱えている男と揃いのものではないかと思い至って、絵の男の顔をまたよく見てみると、やはり私の前に座っている男によく似ていた。特に目の形がそっくり同じではないかと思われて、確かめようと黒衣の男の顔に視線を戻すと、男はまた特に感情の浮かんでいない目で私を見ていた。その目の形は、思った通り絵の中の男と瓜二つであった。
    「この男のことであろう?」
     声はやはり穏やかで、私は男の問いかけに頷くだけでよかった。私の無言の返事に男は自分の抱える絵に視線を落とし、白い男の描かれた場所を左手の中指でゆっくり撫でた。その動きは、風呂敷を撫でていたとき以上に淫靡さを感じさせて、これは見てはいけないのではないか、という羞恥にも似た感情を私に思い起こさせた。
    「この男は俺の兄者だ」
     男の声が穏やかなだけではなくなったのを私は感じた。その声色には滲むような愛情だとか寂寥だとかがあった。男の鋭さを感じさせた目も、絵の中の男を見て少し緩められていた。
     そうして男は語り出した。私は、電車の外を外灯がやけに多く過ぎていくように思ったが、男の声にそれもすぐ忘れた。
    「俺たち兄弟は、ひとつところで長い時間を共に過ごしていたのだが、時流には逆らえず離されることとなった。俺は自分の半身たる兄者と引き裂かれることを嘆いたものだが、兄者はその俺の嘆きように少し眉を下げ、困ったように笑うばかりであった。兄者はお優しい上に、自分の身の上をよく分かっておられたから、俺のように文句も言わずにいただけであったというのに、当時の俺には思い至らず、俺は兄者が不実だと嘆いたりもした。
     そう、俺にとってはそのときの兄者は俺に対して不実であると思えた。俺には兄者が一番の大事であるのに、兄者にはそうではないのだと。離されることよりもそれが一番の悲しみとなった。共に在ることが当然だと、そうでなければならないと思っていたのは俺だけで、兄者は俺のことはどうでもいいのだ。そうやって童のように拗ねた俺にも兄者は困ったように笑って俺を諌めるだけであったから、俺はつい兄者を詰った。あなたは不実だ、俺はこんなにもあなたを思っているというのに、あなたは口先では自分も同じだと言いながら、俺と共に嘆いてはくれないのだ、と。
     その言葉に兄者の顔が、一瞬泣きそうに歪んだのを見て、俺は自分の短慮さを知った。しかしそれに気づいても、俺は兄者に何も言えなかった。ふたりで黙りこんだまま互いを見ていると、兄者の方が先に口を開き、俺に言ったのだ。「もう一度、今度はずっと一緒になれるときが来るよ」と。俺にはその言葉もただの慰めにしか聞こえなかったが、その虚しさよりも兄者にそんな慰めを言わせた自分の至らなさを恥じた。恥じてしまえば、もう兄者に口をきくことはできず、そのまま別れてしまった。
     その後、ほんの一刹那、共に在れたが、またすぐ引き離された。俺はやはりあのときの兄者の言葉は慰めだったのだと、その慰めの虚しさを再確認して、そして今度はその尊さをも思い知って、兄者を思って袖を濡らしたものだ。兄者がどう思っていたのかはついぞ知ることができず、俺はあのとき兄者を詰ったことを謝れないでいた。もう共に在る日は来ないだろうと、そのときは思っていたのだ。
     しかしどうして、兄者が言った通り、俺たちがまた共に在れる日が来た。俺は何よりそれを嬉しく思い、兄者にあの日の不逞を詫びた。詫びながら涙が止まらず、不格好な謝罪になったのを、兄者はやはりあの日と変わらず笑顔で受け入れた。そうして優しく、「僕もまたお前と共に在れて嬉しいよ」と仰られた。その夜、俺たちが枕を濡らしたのは、今度は喜びからだった。兄者もそうであったと、俺は信じている。
     そうして穏やかな日々が過ぎた。俺たちには役目があったが、その役目を果たしていればともに過ごせる、夢のような日々だ。その夢が覚めたのは、何の変哲もない春の午後であった。
     その日、食事を終えた俺たちは書庫にいた。そこは書庫とは名ばかりの物置だった。確かに書物もあったが、雑多なものが放置されていて、兄者はその中に何かおもしろいものはないか探すのが好きで、俺はその詮索にできる限り付き合っていた。ともに在れるとなっても、離れ離れになった苦い記憶が俺にそうさせたのだ。そうしていつも兄者が崩したがらくたとしか思えぬ物どもの山を直したりしていた。
     そして、兄者がこれを見つけたのだ。棚と棚の間に落ちていたと、この土蜘蛛退治の絵を見つけてきて、嬉しそうに俺にこれを見せて、よく描けているねぇ、と頼光の姿を人差し指で撫でた。その動きの優しかったこと。そうして次は、頼光の隣の源次綱の姿を辿って、懐かしそうに目を細められた。その瞳の中で、光が上等な飴色釉を滑るかのごとく揺れたのを、俺は見逃さなかった。普段はどうでもいいことばかりだと、笑って大体のことを見送る兄者だが、やはり俺と同じように往時を懐かしむのだと、そう思うと俺も嬉しかった。俺は兄者に思われているし、俺も兄者をこの上なく思っている。それ以上に、何を望もう。しかし、兄者の思いは俺が思うより深かったのだ。
     兄者はこの絵が欲しいと、この絵を入れておく額が欲しいと仰られた。俺はその書庫の持ち主に絵の譲渡と額の手配を頼もうと、書庫から出ようとした。兄者の願いは俺の願いでもあるのだから、そうするのが当たり前だったのだ。書庫の戸を開けたとき、兄者が暗い室内から俺に声をかけた。俺はその声を、今もありありと思い出せる。兄者は一言、「ずっとそばに置いておいてよ」と仰られた。俺が振り向いて、ああ、当然だ、と返事をすると、それは嬉しそうに微笑まれた。花の咲くような笑顔とは、あのようなもののことだ。一等嬉しいときに兄者が見せる顔だった。俺もその笑顔を嬉しく思って、書庫の持ち主たる今代の主の元に急いだのだ。主は絵の譲渡を快諾され、すぐ手近にあった額を合うのではないかと俺に渡された。俺はそれを持って書庫に戻った。書庫では兄者が待っている。また俺に笑顔を向けてくださるだろうと、期待して。
     はたして、書庫に兄者の姿はなかった。自由なところのある方だから、自室に戻られたのかとも思ったが、この絵が兄者がいたところにそのまま置かれていた。俺は何気なくそれを拾い、画中に描かれたものを見て、すべてを悟った。確かに驚きはあったが、兄者が絵の中にいることは不思議と腑に落ちた。兄者はずっと一緒にいられると、ずっとそばに置いておけと言った。兄者はただ、自分の言葉を守られたのだ。この絵の中で、俺と兄者は永遠に共に在るだろう」
     そうして男は、頼光の手の中の太刀をなぞり、その隣の彼の兄をなぞった。奇怪な体験談は不思議な説得力をもって私を納得せしめた。彼の兄は絵の中の第六の男であり、その絵の中に彼らが望んだ永遠があるのだと。
    「絵の外の俺は、こうしてこの絵と共に在ることで、兄者を永遠に手に入れることが叶ったのだ」
     声には確かな喜びが滲んでいたが、絵を見つめる表情は言い様のない悲哀を堪えているかのような悲痛なものだった。私は永遠とは物悲しいものだと、それを知り得ぬ身でありながら理解した。
     男はふと、初めに顔を合わせたときのような無表情に戻り、話はこれで終わりだ、と言った。言った後で一息吐くと、萌木色の風呂敷でまた絵を包み始めた。
    「主に許可を得て休暇をいただいて、今日は鎌倉に行ったのでな。明日は箱根に行くのだ」
     俺がいた場所だ、兄者も見たいと言っていただろう、と男は呟いた。私は、布に包まれていく絵から目を離せなかったため、その絵の中の彼の兄が不意に振り向き、私に笑いかけたのを見逃さなかった。まるで、彼の所有する画中の兄こそが、最愛の弟を永遠に所有しているのだと、そのことを人に知らしめたことに愉悦を感じているかのような笑顔だった。
     私は、この男が絵の中の美しい兄のものであること、そしてその画中の兄もこの美術品のように美しい弟のものであることに、妙な調和を感じていた。完全にしまわれた絵を携えて、男は立ち上がった。その姿を目で追った途端、電車のアナウンスが小田原に到着したことを告げた。私はそれまで意識もしていなかった音が突然聞こえてきたことに驚き、思わずすぐ近くのドアを見た。終点に着いた電車は、乗客を吐き出そうとそのドアを開けたところだった。窓の外は明かりの灯された駅のホームで、鈍行に乗っていたというのに途中の停車駅を見た記憶もなかった。私は混乱して、自分の向かいの席を見た。しかし、男の姿は既になかった。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/06 22:45:23

    絵の男

    モブ目線、すこしふしぎ
    「押絵と旅する男」のパロディです

    #膝髭膝 ##膝髭膝

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