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    涙とパン

     犬も食わない、という言葉が思い浮かぶのは何回目だ?
     村雲は溜息をつきそうになるのをどうにかこらえて、いつもの癖で腹に手を当てた。痛くはない。痛くはないが、ストレスを感じたときにはつい意識してしまうのだ。
    「……腹痛か?」
     そのストレス源……と言ってしまうのは気が引けるのだが間違いなく村雲の精神を圧迫している存在は、村雲のそうした所作に目敏く気付いて、パラパラめくっていた雑誌から顔を上げた。
    「いや、ただの癖……」
    「そうか」
     短く応えて視線はまた雑誌に落とされた。再びパラパラとページがめくられていく。目はページの上を動いているようだが、内容なんて入っていないのだろう。そもそもバイク雑誌だから、絶対豊前のものだ。
     黙り込んだまま部屋の中に居座る松井から目を逸らして、村雲は「助けて雨さん……」とこれも何度目なのか分からない無言の悲鳴をあげた。二月も終わりの土曜日、五月雨はバイトに行っていて不在である。

     松井と初めて話したのはふた月前だった。村雲と五月雨のアパートで年越ししようと、豊前に連れられてきたのだ。
     その頃の村雲と五月雨はアパートの老朽化を理由に退去を迫られていた。二階建て、六部屋しかない小さなアパート。その二階の角部屋に村雲、そのお隣には五月雨がいたのだが、さらにその隣の住人の部屋の床が抜けたらしい。
     老朽化しているなら最初から貸すなよ……という当然の恨み言が湧いてきたが、大家も不動産会社もとても申し訳なさそうに繰り返し謝罪をしてくれた上に、引越し費用は負担してくれると言うので、村雲はその鬱憤はぐっと飲み込んだ。思えば家賃がやたらと安かったから、ここに住むのを決めたのだ。安いには安いなりの理由があったわけだ。確かに十二月に入ってからは特に隙間風に悩まされていた。
    「さて、困りましたね」
     まったく困ってはいないような落ち着いた声色で五月雨が言う。ふたりがバイトで入っていた喫茶店は忙しい時間帯を抜けて、客はずっと本を読んでいるひとりしかいなかった。少しくらいの私語は許されるだろう。
    「あそこより安い場所なんてないよね……」
    「そうですね。事故物件なども当たっているのですが」
    「なんてもの探してんの雨さん!?」
     一応すぐにアパート全体が倒壊するわけではないと調査結果が出たらしく、最大三月までは住まわせてくれるらしい。しかし、床が抜けるほどボロボロになった建物の二階で、毎日びくつきながら生活するのはなかなかのストレスなのだ。早く引越せるならさっさと引越してしまいたい。
     ただ、それは五月雨と別々のところへ行くということでもある。
     それを思うと、村雲の腹がしくしくと痛み始めた。たまたま同じアパートの隣同士に、同じ大学の同じ学部に入学する人間が同じタイミングで入居してきたというのがきっかけだった。さらに驚くべきことには、五月雨はすぐに村雲にとって欠かせない存在になってしまったのだ。
     気が合うとか仲がよすぎるとかいろんな言葉がふたりに当てはめられたが、そんなものには意味がない。村雲にとって五月雨がどれだけ大事で、ふと泣き出したくなるくらい尊いものに見えているかなんて、たとえ言葉にできたとしても、本当に村雲の想っているようには誰にも分かってもらえるはずがないのだから。
     大学に行けば会えるし、バイト先も一緒とはいえ、五月雨が今より遠くなってしまうのは嫌だ。どうしようもないことだと分かっていても、村雲の正直で虚弱な腹は悲鳴をあげるのだ。
     それでいて、ルームシェアに誘う勇気も村雲にはなかった。これだけ毎日一緒にいるけれど、出会ってまだ一年も経っていないのだ。もし断られたりしたら、立ち直れない。
    「……豊前はすごいよね」
    「はい?」
     カトラリーを磨いていた五月雨が首を傾げる。村雲も並んでグラスを磨きながら、どこか自嘲気味に笑った。
    「いや、前にさ、ほぼ初対面の奴らと一緒に暮らしてるって言ってたから」
    「ああ、そういえば、そのようなことを言っていましたね」
     よく分からない相手と一緒に暮らす……自分ならストレスで胃が壊れるな、と考えただけでげっそりしてしまったが、五月雨は手を止めて神妙な顔をしていた。
    「雨さん?」
    「雲さん……」
     そうしてごく真面目な表情のまま、まっすぐに村雲を見た。涼しい顔立ちには不釣り合いに思えるくらい、子どものような好奇心に目を輝かせながら。
    「シェアハウスとは、どのようなものなのでしょう」
     ……スイッチが入ってしまった。
     村雲は思わず唇を噛んだが、好奇心を刺激された五月雨はそんなことは気にも留めない。バイトが終わればすぐ豊前に電話して、シェアハウスについて詳しく教えてほしいなんて切り出すだろう。そして実際足を運んで、その場で入居を決めてくるかもしれない。いや、おそらくそうする。
    「以前話を聞いたときは部屋が空いていると言っていましたが、今も空いているでしょうか」
    「どうだろうね……」
    「家賃だけでなく光熱費なども折半と聞いた記憶があるのですが……いえ、憶測で話すより直接確かめた方がいいですね」
    「そうだね……」
    「では雲さん、このあと豊前に連絡して二部屋空いているか訊いてみましょう」
    「え?」
     村雲が疑問の声をあげると、五月雨は不思議そうな顔をした。
    「どうしました?」
    「いや、それ……俺も行くの?」
     当然の疑問だ。五月雨があまりにも、村雲もいて当たり前というように話すものだから。
     五月雨は村雲に問われると二、三度まばたきして、はっと気がついたように口許を隠そうとした。
    「申し訳ありません、ずっと雲さんと一緒だったものですから……」
     次の場所へも一緒に行くものと思い込んでいました、という声は消え入りそうな小ささだった。しかしそれを聞いた村雲の胸の内は、至近距離で鐘が鳴り響いたような衝撃で満たされていた。
     ——一緒にいていいんだ。
     そばにいることを、意識するまでもなく赦されている。それを目の当たりにして、どうして否と言えよう……村雲が半泣きで「俺も雨さんと行く〜」と言うと、五月雨は珍しく華やかに相好を崩した。
    「それでは、あとで電話を……」
     そう言いかけたときだ。高いエンジン音が聞こえてきて、その音源のバイクがすぐそばの駐車場に入ってくるのが見えた。ほんの一瞬だったが、運転していた人間の均整のとれた身体付きはそうそう見間違えたりしない。ヘルメットで顔が隠れていたとしても、手脚の長さも太さも、これしかないといった絶妙なバランスで体躯を形作っているのだ。
     噂していた人物の訪れに、村雲と五月雨は目を合わせると、どちらからともなく頷き合った。
     それから話はとんとん拍子で進んだ。豊前たちの住むシェアハウスへの入居は一月から、村雲も五月雨もそう荷物は多くなかったから引越しはほとんど郵送だけで終わってしまった。
     一応年始まで部屋を借りることになっていたから、五月雨の提案で年越しはここでやろうということになった。大した意味はなく、気分的なものだ。元々帰省の予定のない村雲に五月雨が気を遣ってくれたのかもしれないと考えたが、五月雨の楽しんでいる様子を目にするとそれも考えすぎのように思えてきた。彼は今しか過ごせない時間を目一杯楽しんでいるだけだ。
     大学の年内最後の講義で、年越しは地元に帰らないことを伝えると、豊前は少し考える素振りをしたあと「俺たちも混ぜてもらっていいか?」と笑った。シェアハウスにもふたり、帰省しないのがいるらしい。
     こうして豊前に連れられて、松井は村雲たちのところへやって来たのだ。手土産に飲み物と菓子のたんまり入ったコンビニの袋を提げて、どこか遠慮がちに五月雨の部屋に上がった。
    「桑名さん、は帰省したのですね」
    「おう、あいつは実家で年越し」
     テレビもない部屋で、いきなり初対面の奴らの中に放り込まれる居心地の悪さはいかほどだろう。村雲はなんとなくお茶を飲んでばかりの松井を気にしていたが、唯一顔見知りの豊前も松井を気にかけて話を振っていたし、しばらくすれば五月雨も話しかけるようになって、松井も控えめながら話すようになった。耽美な外見の割に声が低く響いたことに驚いたのは、ここだけの話だ。
     元々二年参りしようと話していたのもあって、十一時を回ると家を出ることにした。豊前と五月雨が楽しそうにしゃべりながら歩いていくのを、村雲と松井は寒さに震えながらついていった。
    「なんであんなに元気なのかな、あのふたりは……」
    「まったくだ」
     先を行くふたりはなぜか屋台の話をしている。寺も神社も、屋台が出ているのだろうか? 村雲が知らないだけで夏祭りのように賑わうものなのだろうか……そんなことを考えていると、隣で松井が「唐揚げか……」と呟いた。さっき豊前が「唐揚げねーかな」と言っていたのは村雲にも聞こえていた。
    「いいね、唐揚げ。揚げたてのあったかいやつ食べたい」
    「いいな。こう寒いとうどんとかも食べたくなる」
    「あ〜……座れるとこあるとそういう屋台もあるのかな。俺、ぜんざいもいいなって思えてきた」
    「僕は甘酒がいい」
     食事は誰でも共通の話題になるというのは本当らしい。村雲と松井は思いつくまま何が食べたいかと話をしながら、年末特有の賑やかな夜道を歩いていった。
    「シェアハウス、ご飯って当番なんだよね? 俺、大丈夫かなぁ……」
    「……料理、苦手なのか?」
    「うん? いや、苦手ってわけじゃないんだけど、ちゃんとしたのって思うとハードル高いなぁって……」
    「ああ、そういう……」
     松井はなぜかがっかりしたように見えたが、すぐに持ち直すと村雲に微笑んだ。
    「皆、凝ったものなんて作らないよ。桑名の作るのなんかは、お手本みたいな家庭料理だなと思うけれど」
    「桑名って、今日いない人?」
    「ああ」
    「へぇ、そうなんだ」
    「桑名が作り置きを冷蔵庫に入れておいてくれるんだ。美味しいと、僕は思う」
     松井の言い方からして、台所の実権を握っているのはその桑名のようだ。会話からなんとなく関係性を推し測りながら、村雲も何気なく訊ねた。
    「何が好きなの?」
    「え?」
    「その、桑名って人の作るご飯の。メニューっていうか、おかずっていうか……」
     松井は目を丸くしたあと、そのまま伏し目になった。元々憂いの色の濃い顔立ちが思案に沈むと、どこか浮世離れして見える。
    「……レモン」
    「ん?」
    「桑名の家で採れたレモンを、蜂蜜と砂糖で漬けてくれたのがあってね。秋に漬けたものが食べ頃になったから、お湯で溶いてホットレモネードにしたり……ああ、でも、これは料理ではないか」
     どこか照れたように笑う頬が赤かったのは、単純に寒さのせいだったのかもしれない。しかし村雲は、なんとなく今の自分には触れられない結びつきが松井と、そして桑名との間にあるのを感じて「そうなんだ」とだけ応えた。
     どんな人間においても、ふたりの間にぴったりの名前なんて、はたしてあるものだろうか。もしあったとして、それを誰もが本当に同じ意味でその名前を呼ぶなんてこと、あり得るだろうか。
     それは同い年の男にしては仲がよすぎるなんて揶揄されることもある村雲と五月雨においても言えることであり、そしてきっと、松井と桑名についてもそうなのだ。誰もふたりの間にある正しい名前を知らない。当のふたり以外、いや、もしかしたらふたりでさえも。
     一年の終わろうとする夜にそんなことを考えて、村雲はなんとなく、新しく住むところも悪くはないだろうと思った。
    「レモンシロップかぁ、ホットケーキとかクレープとかに合わせても美味しそう……」
    「それはやったことがない」
    「そうなんだ?」
    「ああ、桑名はあまりお菓子は作らないと言っていたから……だから、教えてあげたら喜ぶと思う」
    「そっかぁ」
    「村雲は何が好きなんだ?」
    「俺? 俺はお腹に優しいものかな……作るのはオムライスが得意かも」
    「オムライス」
    「うん。あ、雨さんはどの料理も丁寧なのを作るんだけど、俺はバイト先で作ってるナポリタンが好き。マスターのこだわりで名古屋風なんだ。知ってる? 鉄板に薄い卵焼きが敷いてあって、その上にナポリタンがあるんだ」
    「へぇ……食べたことないな」
    「ほんと? バイト先に行ったら作ってくれるよ」
     それはいいな、と松井は八重歯を覗かせて笑った。
     その後、村雲と五月雨がシェアハウスの一階にそろって空いていた二部屋に入り、そこでの暮らしにも慣れた頃、豊前からさりげなく、しかしどこか生真面目に「あのふたりは何つーか、付き合ってっから」と聞かされた。そのときも村雲は「そういうこともあるか」と思っただけですんなり受け入れた。五月雨も同じようなものだった。元々人のことをいい意味で気にする方ではないのだ。そして豊前も、そういうふたりだから先に打ち明けたに違いない。なんとなく豊前がそういう判断を間違えないことは村雲も五月雨も嗅ぎとっていて、さらに言えば、ふたりをこの家の新しい住人として招き入れてくれたのだって、おそらくはそのよく働く勘のおぼしめしなのだ。
     同い年の男同士、寝食をともにしているとすぐに打ち解けてしまうものだ。大晦日に並んで歩いたときから、松井にとっては村雲は比較的気安い相手になったのかもしれない。今だって何も話さないで、村雲の部屋で豊前の雑誌を読んでいるのだ。
     どちらかといえばひとりで静かに過ごしていることが多いと思うのだが、松井はたまにこうして村雲の部屋に上がり込んで何をするでもなく時間を潰していく。もちろん、村雲が忙しくないのを確かめてだが。
     松井がどういうときにそうするのかを、村雲は薄々察しつつある。それは、何か聞いてほしいことがあるときなのだ。ただ松井がこれだけ意味もなく雑誌をぺらぺらめくっているからには、本人の中でもうまくまとまっていないか、言いにくいことらしい。普段は合理的で、必要な作業は速やかにこなそうとする松井がそうなる話題といえば決まっている。桑名だ。
     犬も食わない。話を聞かないうちから、村雲の脳裏ではその言葉が巡っている。ふたりの間のことなんて、結局はふたりにしか分からないに決まっている。
    「付き合っている」ふたりはシェアハウスの中ではごく親しい友人にしか見えない。豊前が三人で暮らしていた頃に「いちゃつきたかったらホテル行け」とばっさり言ったから、というのは桑名から聞いたことだが、共同生活を送る上での最低限のマナーなのだろう。そしてふたりはそれを律儀に守る質なのだ。だからふたりの本当の関係性が窺い知れるのは、時折ふたりだけで笑い合っているときに覗く松井の表情の柔らかさだけだ。
     松井の手の中の雑誌が最後のページまで辿り着きそうだ。終わったらまた、適当なページを開けて、そこからめくっていくのだろうか……なんとなく想像しただけでうんざりしてきた村雲は、意を決して先手を打つことにした。
    「ねぇ、松井」
     松井はぴくりと肩を揺らすと顔を上げた。目をぱちくりとまばたきして、そういう驚いた顔は少し幼げに見える。
    「桑名にしてほしいことがあるんだったら、直接桑名に言った方がいいと思うな、俺」
     図星だったのだろうか。松井の白い顔に血が上り頬が赤くなる。何か言いたげに口をぱくぱくさせているが、言葉は何も出てこない。
     金魚みたいだな、と思ったとき、玄関の開く音がした。一階の部屋は割と誰かが出入りする音が響くのである。
     五月雨はバイト、豊前は走りにいった、それなら……村雲は松井のそばを素早くすり抜けると自室のドアを開けて玄関を覗き込んだ。思った通り、大柄な人影がある。
    「桑名! 松井がデートに行きたいって!」
    「何ば言いよっとや!?」
     ガッとうしろから首を掴まれてガクガク揺らされたが言った者勝ちである。ポカンとしていた桑名は玄関から歩いてくると、村雲の首近くをものすごい力で握り締める松井に笑いかけた。
    「うーん、明日どこか行く? 今すぐがよかったら、醤油買いにいくしかやることないんだけど……」
     醤油って。
     ギリギリ音を立てそうな自分の首元を気にかけながらも思わず突っ込みそうになったとき、うしろから消え入りそうな地を這う低音で「行く」と返事が聞こえた。
     結局ふたりは醤油を買いにいった。デートで醤油……とは思わないでもないが、「デートかくあるべし」なんて線引き、村雲の知ったことではないのだ。安寧を手に入れた村雲には、そんな誰とも知らない世間の言う「それらしさ」より、松井の赤くなった耳の方がずっと大事だと思えるのである。
     それに村雲は知っている。醤油は以前安かったときに、桑名と五月雨がそろって買ってきたストックがまだ残っているということを。



     桑名の祖父が亡くなったのは五月の半ばのことだった。
     日差しが長く残るようになったのを実感し始めたその日、松井と桑名は大学構内で待ち合わせをしていた。なんてことはない、ふたりとも六限までしかない日だったから一緒に帰ろうとしていただけだ。帰る家だって、同じなのだから。
     待ち合わせ場所にした図書館は松井の学部棟に近く、ほんの少し松井が待つことになった。そうはいっても大した時間ではなく、松井が一度メールチェックをしてカバンにスマホをしまおうとしたときに、あの耳に心地好い声が名前を呼ぶのが聞こえた。軽く手を上げて応えて、では帰ろうか、というとき、桑名がスマホを取り出したのである。
     言葉を尽くして説明されずとも身振り手振りで分かる。桑名が少し申し訳なさそうな表情を見せながら電話に出る隣で、松井はまた待つ姿勢に戻った。桑名の「うん。……うん」という相づちを、自分が聞いていてもいいものか、少し疑問に感じながら。
     電話自体も長くなかった。「分かった。じゃあ」なんていうよく聞いた言葉で通話を終えた桑名が、スマホをしまわずにいることに松井が違和感を覚えるまで、よくある光景だったのだ。
    「桑名?」
     松井の声に桑名はようやく手にしたままのスマホから顔を上げて、松井に困ったように微笑んだ。
    「ごめん、ぼうっとしてた」
    「いや……どうかしたのか?」
    「ああ、なんか、じいちゃんが亡くなったって、家から……」
     そうしてどこか情けない笑みを浮かべたまま、もう一度スマホに視線を落とすものだから、松井は弾かれたようにそのがっしりした腕を引いて歩き出した。図書館の近くには管理棟があり、学務課はそこの玄関を入ってすぐのところにあったのである。
     二親等の忌引は三日が限度と職員からの説明を受けると、桑名はその場で忌引届を記入した。そのあと松井と競うように早足で家まで帰り、少ない荷物を手早くまとめて帰省していった。
     駅前までそれを見送った松井がまた家に帰ってきたとき、リビングから五月雨と村雲が顔を出した。奥には豊前と篭手切もいた。珍しく勢揃いだったようだ。
    「おかえりなさい。桑名はどうしたのですか?」
     涼しい顔立ちながら、どこか子どもっぽい無垢さで松井に訊ねる五月雨の疑問はもっともだった。その日は桑名が食事当番で、いつもなら彼は既に台所に立っている時間だったのだ。
    「実家に帰ったんだ。……おじいさまが亡くなったと、さっき連絡が来てね」
    「それは……」
     そこまで言って黙ってしまった五月雨を、ちらりと上目で村雲が窺う。誰も続きを促そうとしなかった。その必要がないことを、皆分かっていたからだ。
     それが水曜日の夕方、木曜金曜と忌引となった桑名が戻ってきたのは、日曜日の昼過ぎだった。
    「ただいまぁ」
     リビングでバイト情報をザッピングしていた松井だけが、その普段と変わらない声を聞いた。
    「……おかえり」
    「あ、松井。ただいま」
     去年夏に帰省したときのように、行ったときよりも手荷物を増やした姿で桑名が玄関に立っていた。行儀よく靴を揃えて家に上がり、「またしぐれ煮もらった」と松井に見せる仕草も何も変わらない、それまでと同じ桑名だった。
    「ご飯どうしてた?」
    「いつも通り。冷蔵庫にあった作り置き、勝手に食べさせてもらった」
    「あ、片付けてくれたんだね。よかった。置いといても腐ってしまうし、食べてくれるよう連絡しとけばよかったって思ってたんだ」
     桑名が以前と変わりないことをいちいち確かめている自分に気付くと、松井は密かに自分を恥じた。第三者が当事者以上に動揺して、探るように彼を観察しているのはほめられたものではない。少なくとも、松井にとっては格好のつかない状態だった。
     同じ家に住んでいることもあってなのか、桑名と松井はそう密に連絡を取り合ってはいない。時々買い出しの頼み事をするときだとか、先日のような待ち合わせをしていて遅れそうなときに短いメッセージを送り合うくらいだ。だからふたりのメッセージアプリのトーク画面には、付き合っていると言っても信じてくれない人もいるだろうと予測されるようなそっけないやりとりしかない。
     桑名が帰省している間も、松井は何か改めてメッセージを送ることはなかった。ただし、送ろうかと考えたことは何度もあった。考えては「忙しいだろうから夜にしよう」と思い、夜になれば「疲れているだろうか」とか「家族との時間を過ごしているかもしれない」とか思い悩み、それでも、と思い切ったところで「どんな文章を送ればいいのか」という問題に直面した。
     スマホの前で固まること数十分、松井はその小さな画面から退却した。そうして深く悩まず書いてみればいいのにという至極真っ当な考えを打ち出す理性と、それができたら苦労しないというやっかみ半分の感情に頭をぐるぐると掻き乱されながらベッドの上で丸くなった。気軽にやりとりできることが売りのSNSを使いこなせない自分に悲しくなっているうちに日曜になり、桑名は帰ってきたのだ。まるで変わりない様子で。
     過ぎてしまえばたった三日だったが、その間に自分の不器用さを思い知らされた松井は、桑名が冷蔵庫に家からもらってきた野菜や惣菜を詰めるのを何をするでもなく見守った。スマホをにらんでいたときと同じく、帰ってきた桑名にどう声をかければいいのか、いやそもそも何か改めて声をかけるようなものだろうか、なんて逡巡しながら。
    「よし」
     冷蔵庫の戸がパタリと閉じられる。桑名は振り返り、そこに松井がまだ突っ立っていたのを見とめると少し意外そうな顔をしたあと、普段通り朗らかな笑みを浮かべた。
    「ありがとう、松井」
     訛りのある発音でそう言って松井の肩を軽く握ると、そのまま横をすり抜けるように台所を出ていった。
     結局、気を遣われてしまった。そう思いながら松井もすごすごとリビングに戻った。ああやって礼を言われては、松井にはもうどうすることもできないのだ。
     日常生活に挟まれた桑名の突然の不在という非日常は、また緩やかに、それでいてすぐに以前と同じ日常に消えていった。もしかしたら五月雨や篭手切なんかは、改まったお悔やみの言葉を桑名にかけたのかもしれない。しかしそれもきっと松井にしたように朗らかな笑顔でもって応えられ、やりとりはそれだけで終わったことだろう。桑名の生活、そして桑名とともに暮らす松井たちの生活もしなやかに、速やかに「いつも通り」に戻っていった。
     だからそれもきっと、日々にありふれたイレギュラーだったに違いない。夕立に降られただとか、講義室で普段座っている席に既に誰かがいるだとか、そういう直面すると驚きはするが特別気に留める必要もない出来事。
     松井にとってそれが気になったのは、言うまでもなく桑名のことだったからだ。
    「桑名? どこへ行くんだ」
     五月ももう終わるという夜、たまたま松井は玄関に立つ桑名を見た。朝そうするようにスニーカーを履いていた桑名は、松井の声に振り返ると首を傾げた。
    「うーん……散歩?」
     時刻は九時を回ったくらいで、大学生ならこの時間に外を出歩くのも大して珍しいことではない。ただ桑名は早寝早起きの染みついている人間で、この時間はまだ寝ていないにしてももうゆっくり過ごしているはずの時間だ。
     桑名が自分の習慣を変えてどこかへ行こうとしている。それは松井からすれば十分気にかかる事態だった。
    「……僕も行く」
    「え?」
    「すぐ準備をしてくる。待っていてくれ」
     踵を返した松井を置いてひとりで行ってしまうこともできたはずだが、桑名はやはり律儀に玄関で待っていた。
     初夏の夜はどこか湿度のある匂いがして、ただ夏のように茹だるような暑さはまだなかったから、なるほど夜の散歩もいいものだと松井は思った。隣にいる桑名は黙ったまま、ゆったり歩を進めている。時折横目で覗く横顔も普段と同じく穏やかに見えて、邪魔をしてしまっただろうか、という懸念も胸に湧いてきた。それでいて、そのいつもと同じように見える桑名が普段と違う行動を取るのが気になって仕方なかったのだ。
     とぼとぼと並んで歩いていくうちに、小学校のそばに来た。道路沿いの生垣からほのかに甘い香りがする。アベリアという花の名前は、去年桑名に教わったものだ。
     甘い芳香は夜の湿度に混じって松井の胸に満ちた。夏へと季節の移ろっていく匂いだった。
    「もうすぐ梅雨入りかなぁ」
     桑名が口を開いた。先ほどまでずっと黙っていたとは思えないほど自然に話し出したので、松井も特に気負わず「そうだな」と応じた。
    「今年から六人だから、洗濯機取り合いになるかな」
    「そうかもしれないな。去年は結局コインランドリーは使わなかったけれど」
    「今年は使うかもしれないねぇ。乾燥までやってくれるし、そっちの方がいいかもしれない」
     甘い夜の匂い、まばらに通り過ぎていく車のライト、道路の向こうのコンビニの明かり、すべてが過ぎ去っていくありふれた日常だった。こうやって桑名とこの時間に目的もなく出歩くのは初めてだったが、こうした時間はこれからどれくらい過ごせるものなのだろう。皆の待つ明るい家に帰ることができるのだって、もうあと三年もないのだ。
     夜の匂いにつられたのか、甘い感傷に浸る松井の隣で、桑名が長く息を吐いた。彼はゆったり顔を上げると、ふ、と頬を緩ませた。
    「ここはあまり星は見えないと思っていたけど、見える星もあるね」
     春の大三角だ、と指差した夜空は、桑名の言う通り目立つ星だけが散らされたようにぽつりぽつりと光っていた。春の大三角なんて小学生のときに教科書で見たくらいだろうか。他の星が暗く沈んでしまっているために、松井にも桑名の見ているものを察することができた。
    「知ってる? うしかい座のアルクトゥールス、さみだれぼしという名前もあるんだって」
    「へぇ。五月雨が聞いたら喜びそうだ」
    「そうだね。今度言ってみようかな……でも五月雨なら知っているかも」
    「確かに」
     小さな笑いがふたりを満たした。たとえ名前を知っていたとしても、五月雨なら星談義に付き合ってくれるに違いないし、もしかしたら星を観にいく計画も立て出すかもしれない。彼は、好きなのだ。季節と、それを感じさせるものと、それらの移ろっていくこと自体が。
    「桑名は星も詳しいんだな」
    「うん、結構好きでね。ほら、大地も星だから」
    「なるほど」
     どこかおどけた、しかし決して冗談ではない言葉に笑った松井はそのまま桑名の横顔を見た。桑名はまだ星を見上げていたから、その頬が一瞬強張ったのに気付いたのは、本当にただの偶然だった。
    「小さいとき、たまにじいちゃんとこうして散歩したんだ」
     夜にしか見えない星に目を留めるように、桑名のこれまでの時間を覗き見たかのようだった。そうして松井ももう一度夜空を見上げると、さみだれぼしを探すふりをしながらごく当たり前のことを考えた。
     悲しみの作法を、誰が決められるだろう。それぞれのやり方でしか悲しみを抱けないそれぞれの心を、誰に裁く資格があるというのだろう——日常は粛々とやって来て、桑名はそれを淡々とこなしていく。喪ったことはなかったことにならないことを分かっていながら、喪う前と同じように暮らそうとする。
     愛しかった。そうやって生きていく桑名も、その桑名を形作った時間も、この夏になる前の短い夜も……星はまた巡り、春の大三角もそのうち見えなくなるだろう。ただ、また見えるようになる頃には、同じようにこうしてわけもなく並んで歩きたい。それが日常になればいいのに、と松井は少ない星を見上げながら願っていた。
    「……はぁ〜、そろそろ帰ろっか。あ、コンビニ寄る? 僕アイス食べたくなってきた」
     桑名が道路の向こうに見えるコンビニを指差す。松井はその顔がいつも通りの朗らかさなのを見ると、住宅街の中で一際主張の強い看板に視線を移して笑った。
    「僕、あれが食べてみたい。二本入っていて、ふたりで分けて食べられるやつ」
     食べたことないんだ、と伝えると、桑名は一層にこやかになった。
    「おいしいよ。松井も好きだといいな」
    「コンビニにあるだろうか」
    「うーん、あると思うけど」
     コンビニの前で早速分け合ったアイスを並んで食べながら、ふたりだけで食べたのは皆には黙っておこう、と大して意味のない約束をして、同じ道を帰った。

     翌日もまた、普段通りやって来た。朝早くに目を覚ます桑名が台所で味噌汁を温めながら、卵焼きか目玉焼きを焼いている……はずだった。
    「……あれ」
     松井がいつも通りの時間に起きてきた台所には見慣れた大きな背中ではなく、細身のしなやかな背中がふたつ、並んでいた。
    「おはようございます、松井さん」
     皿を出した篭手切が微笑む。鍋を見ていた五月雨も振り返って、「おはようございます」とほのかに笑った。
    「おはよう。桑名はどうしたんだ?」
     手伝おうにも、細身とはいえ男三人がコンロの前に並ぶのは狭苦しい。手持ち無沙汰になりそうなのを察したのか、篭手切が「お茶をお願いします」とやかんを渡してきた。既に茶が煮出してあるようだ。
     松井の疑問には、五月雨が少しいたずらっぽく笑って応えてくれた。
    「いつもの時間に足音が聞こえてこなかったもので……寝坊のようです。珍しいですね」
    「私が来たときには五月雨さんがほとんど朝食の用意をしてくださっていまして……」
    「そういうわけで、今朝は桑名の味ではありませんが我慢してください」
    「我慢だなんて、そんな……」
     鍋に味噌を溶く五月雨の後ろ姿にそう言って、松井は階段のある方向を見た。そうしていつもとは違う食卓に向き直ると、笑った。
    「こういうこともある、か」
    「ええ、たまにはあることです」
    「そうだな」
    「でもりいだあは一限目があると言っていたような……」
    「豊前は自分で起きてくるから大丈夫だろう」
     もう少し寝かせておいてあげよう、とだけ言うと、松井は茶を注ぎ始めた。
     愛しいしくじりとともに、新しい一日が始まろうとしていた。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/11/05 23:46:33

    涙とパン

    「檸檬の花の咲くところ」のふたりです
    ここに掲載してある話に書き下ろしを加えて本にしたものを自家通頒しています
    https://jimbaride.booth.pm/items/3725873

    #くわまつ ##くわまつ

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