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    比喩としての数学的帰納法「次はドラム式がいい」「ではこの放物線を解析しよう」「とんかつ定食が食べたい」「待ちくたびれたぞ」比喩としての数学的帰納法「次はドラム式がいい」

     鶯丸という男はよく「細かいことは気にするな」との言葉を口にする。この口癖と柔和な微笑に、大抵の人間は彼が大らかで懐の深い人間だと思い込む。それは決して間違いではないのだが、それが彼のすべてだと思ってはいけない。彼だって言っているではないか。
    「細かいことは気にするな」
     すなわち、気にしなくても良いのは細かいことだけで、細かくないことには気を配れ、という主張がこの口癖には暗に表れているのである。ここでひとつの問題が生じる。鶯丸は自分について語るところの少ない男なのだ。つまり、彼は自分にとって何が細かいことなのか、あるいは細かくないことなのかを、はっきりと呈示することの少ない人間なのである。
     鶯丸の、この性質とも呼べそうな性格を理解する人間は多くない。鶯丸は、彼の「細かくないこと」をぞんざいに扱われたとき、貴族的とも言えそうな優美な微笑を崩さぬまま、その人間から距離を置いてしまうからだ。傍にいたと思っていたら、知らぬ間に手も届かぬほど遠くにいた――こう思っている人間が数えきれぬほどいることだろうと、鶯丸の年下の幼馴染みである大包平は思っている。
     つまり、面倒臭くないように見えて、局地的にはすこぶる面倒な男なのだ。朝食は必ずトーストと目玉焼きを食べたがるし、昼食と夕食の間に茶を飲む時間を必ず三十分以上設ける。彼が尊ぶのは彼のルール、彼が生涯の仕事としようと努める数学、そして彼の理解者たる友人たちである。この面倒臭い男のために、大包平は現在、せっかくの休日の朝を大量の洗濯物に消費されているのだ。
     数学を専攻する鶯丸は、筋が通ったものを好んだ。経済学を専攻していた大包平は、その専門のためというわけではないが、合理的なものを好む傾向にあった。大包平は学部で大学を卒業し、鶯丸は院生として生活する中で、家賃が安く済むこと、家事を折半できること、幼馴染みのために気を使わなくても良い関係であることを鑑みて、この春から共に生活するようになったのは、ふたりにとっては大しておかしなことではなかったのである。
     ふたりは決して浅はかではなかった。大包平は幼馴染みとして鶯丸の性質を熟知していたし、鶯丸も大包平が自分の性質を理解しているという点において掛け値なしの信頼を置いていた。そのためふたりは共同生活にあたって、つまらない揉め事を起こさぬようルールを決めた。それは食事のことや掃除のこと、互いが譲れない習慣のことなど、大まかなことから細々としたことまで、多岐に渡った。そう、ルールを定めたはずなのだ。面倒を起こさないために。鶯丸と、他でもない自分とで。――つまり大包平は、現在休日を磨り減らす手間を増やしたのは、自分にも落ち度があると思っている。
     気が付いた方がやる、というのは「気が付いた」「気が付かなかった」「気付けよ」の応酬になるのが分かりきっていたため、そんな曖昧なルールは設けなかった。一見窮屈に思えるほど決めてしまった方が、後々面倒が少なく済む。そう思って、ゴミ出しや風呂掃除の当番を決めるように、洗濯の当番も決めた。決めたのだが、雨が続いたときのことを考えていなかったのだ。
     今週は桜を散らそうとするかのように、雨が続いた。雨が降っていないときも、厚い雲がぐずついて空を晴らさなかったため、ふたりは一旦洗濯を見送っていたのだ。ふたりともルール遵守を好んだが、やむを得ないことがあるのを良識として理解していたし、果たされぬ仕事に対して決して不寛容なわけではなかったのである。
     加えて話をややこしくしたのは、大包平の仕事が忙しかったことであった。今週は出張が予定されており、その日は大包平の洗濯当番の日に被っていた。そのため大包平はその日の洗濯を鶯丸に頼めないか打診した。良識と寛容を持ち合わせた鶯丸は「拝命した」と芝居がかった返事でもって、その申し出を了承した。大包平もこのイレギュラーを鶯丸に押し付ける詫びとして、出張先から何か美味しい土産でも買ってくれば、それだけで済む話だと思っていたのだ。そう、その日も雨でなければ。あるいは、ふたりのやりとりに齟齬が生じていなければ。
     大包平としては、「これ以上洗濯物を溜められないから、洗濯してしまってくれないか。雨でも部屋干しするしかないだろう」と思って、その日の洗濯を頼んだのである。大包平は現在、そう思ってはいたのに実際口に出したのは「洗濯を頼んでいいか」という言葉だけだったのをとても反省している。
     雨の日は洗濯物が外に干せない、そのため洗濯しても無駄である、という理論は鶯丸の中では鉄壁のものだったらしい。加えて「部屋干しは鬱陶しい」ということは、彼にとって「細かくないこと」に分類されていたのである。鶯丸の「細かくないこと」は恐ろしいことに、付き合いの長い大包平にとっても初めて知るものが未だにあるのだ。出張先から直接マンションに戻り、大包平が見たのは、洗濯機の前に積まれた布の山であった。ついカッとなって「なんだこれは!」と怒鳴った大包平は、大声に不快そうな顔をする鶯丸に先の理論を聞かされ、自分の落ち度を悟ったのである。
     幸いにして次の日の休日、すなわち今日だが、この日は天気が良ければ気温も高く、加えて風のある日だった。ふたりはこの洗濯物を今日すべて片付けることで合意した。そういうわけでこの麗らかな朝、大包平と学生時代からの付き合いである洗濯機は、休む暇なく働かされているのである。
    「お前、寮にいたとき、梅雨の洗濯はどうしていたんだ」
    「寮に備え付けられていたのはコインランドリーでな、乾燥機付きだった」
     本来なら朝寝を楽しむ予定の休日だったのだが、大包平はベッドではなくひとりがけのソファーに大きな体を預けている。これは鶯丸が自分の読書用に買ったものだったのだが、鶯丸は今朝は大包平に小言も漏らさず譲ってくれた。顔にはまったく出ていないが、鶯丸なりに何か申し訳ないと思っているのかもしれない。
    「乾燥機付きか、そうか……寮はそういうのが多いのか」
    「おそらくな」
     ベランダには既に、洗濯物が干されている。今、回している分を干せば、もうスペースがなくなるだろう。ベッドカバーは昼に洗うか、とぼんやり考えながら、風に自分の白いシャツがはためくのを見て大包平は「自分たちが花粉症でなくて良かった……」と溜め息を吐いた。
     鶯丸といえば、先程自分で淹れた茶の入った湯飲みを両手で行儀良く持っている。真っ直ぐに伸びた背筋と白い首の上に、いつもの優美な微笑をたたえた美しい顔がある。鶯丸自身は数学をこの上なく美しいものと位置付けているようだが、大包平にとって一番美しく見えるのは、この年上の幼馴染みだった。生来の意地っ張りと、そんなことを少しでも漏らせばからかわれるのを経験から知っているために、本人にそれと伝えたことはないが、面倒臭いと知りながら成人以降もこの男と同居するまでの仲にいるのは、この男を嫌いになれないからだった。今、鶯丸がひとりでやると申し出てくれた洗濯に付き合っているのも、そういうわけなのだ。
     ままならない、と思いながら大包平は鶯丸の美しい顔を横目で窺う。ゆっくりと瞬きする長い睫毛に縁取られた目許に、どうしたって胸が高鳴る。鶯丸がふとしたときに見せる飾らない、またそのために誰も真似できない美しさに、大包平は子どもの頃から何度も息を飲んできた。ままならない心ほど人を苛立たせるものはない。それは独自のルールで生きる奔放な鶯丸の心であり、それに振り回される自分の心だった。この男から離れてしまえれば、その無防備な美しさに振り回されることもないと思って、別の大学に進学し、恋人でも作ろうとしたこともあった。しかし、そうした努力はすべて無駄なものに終わった。あの落ち着いた緑の瞳や、薄い笑みを浮かべた形の良い唇ほど、大包平の心を満たすものはなかったのである。
     結局大包平は大学生活を煩悶して過ごした後、鶯丸を諦めることを諦めることにした。勤め先が鶯丸の通う大学院から遠くないのをいいことに同居を持ちかけ、この美しい男の一番近くにいる権利を勝ち取った。幼馴染みとしての知識は決して鶯丸の傍にいることを邪魔しなかった。ただ、鶯丸の傍にいたいがために気持ちを打ち明けられないまま、こうして変わらず幼馴染み兼同居人として暮らしている。
     面倒臭い。この男も面倒臭いし、幼い頃からこの面倒な男に恋をしたままの自分も面倒臭い。面倒が嫌いでこの共同生活にも細かなルールを定めたというのに、面倒臭いものは面倒臭いままだ。
     それに思わず長い息を吐くと、鶯丸がアーモンド形の美しい目を丸くして大包平を見つめた。隣の部屋では洗濯機が脱水のために鉄の体を揺らしているのだろう、ガタガタとやかましい音が聞こえている。
    「鶯丸、提案があるのだが」
     大包平は面倒臭いのは嫌なのだ。面倒事はひとつずつでも片付けていくに限る。大丈夫、地味な仕事は得意だ。美しい幼馴染みの傍に居続けるために、どんな手段でも使おう。己れの良心と、他でもない鶯丸が許す限り。
     ただ、まずは手近に解決できるものから。そう思って、大包平の提案を聞こうと小首を傾げる鶯丸に、大包平は笑いかける。
    「乾燥機付き洗濯機を買わないか」
     鶯丸はその言葉に口の端をきゅっと持ち上げた後、「賛成だ」と頬を緩めた。その笑顔に大包平が胸の内を甘いものでいっぱいにしたとき、仕事を終えた洗濯機がビーっとやかましい主張を始めた。
    「ではこの放物線を解析しよう」


     大包平が高校一年生の頃の話である。二学期も始まりしばらく経った頃、大学に入学して寮で暮らしていた鶯丸が実家に帰ってきたことがあった。八月の盆にも帰ってきていたのだが、その九月も半ばを過ぎた頃になぜ彼がまた帰省していたのか、その理由を大包平は知らない。そもそもそれは、鶯丸風に言えば「細かいこと」である。この大包平の思い出において大切なのは、彼がその時期に帰ってきて大包平と話をした、という事実なのだ。
     鶯丸が卒業するのと入れ替わりに同じ高校に入学した大包平は、かつて鶯丸がそうであったように文理選択の時期に差し掛かっていた。ただ大包平がそのとき教師に提出する届け出を白紙にしていたのと違って、かつての鶯丸は自分の進路を迷わなかっただろうことは、まだ十代も半ばを過ぎたばかりの大包平にも容易に分かった。鶯丸は幼い頃から筋の通ったものを好んだ。文系科目よりも理系科目の方が分かりやすいとして好み、また得意でもあったからだ。
     進路選択は大包平少年にどう生きるのか、その道筋を定めよと迫っていた。薄っぺらい届け出用紙は、少年にとってはその質量以上に重く感じた。そのため、彼が自分の知るうちでおそらく最も頭の良かった人間であり、なおかつ幼い頃から恋心を傾けていた幼馴染みに話でも聞いて自分の参考にしようというのは、別段おかしな話ではなかったのである。
     鶯丸は久々、というわけでもなく約一ヶ月前の盆暮れ以来に会う年下の幼馴染みが遊びにきたのを快く迎え入れた。夏の盛りは過ぎたとはいえ、まだまだ暑いのに、スタンドカラーシャツを一番上のボタンまできっちりとめた鶯丸は涼しい顔をしていた。
    「進路選択か、そうか」
     どこか面白がるように、鶯丸は頷いた。高校に入って身長がぐっと伸びた大包平は既に鶯丸と目線が同じくらいになっていたのに、どうやってもこの幼馴染みを追い抜くことはできないのだと、こういうときの些細な余裕から感じて胸の内を苦いものでいっぱいにしたものだ。
    「お前はどう決めたんだ」
    「決めたというより決まっていた。俺は数学がやりたかったし、次に面白いと思うのも物理学だったから、迷うまでもなかった」
     予想通りの答えが返ってきて奥歯を噛む大包平の向かいで、鶯丸は「届け出をもらって五分で提出したな、懐かしい」と笑っている。想い人の美しい笑顔は心をふやかしそうなほど甘いのだが、少年が迫られている人生の岐路の参考にはなりそうになかった。
    「お前は本当に数学が好きだな」
    「ああ、好きだよ」
     大包平がぼやいたのに寄越された返事は何気ない軽さだったが、変に力の入った言葉でないからこそ、その想いが真実であることを表していた。鶯丸は、大包平にとって見慣れた薄い笑みのまま、こちらを見ていた。幼い頃から何度も見惚れてきた美しい顔は、子どもの危ういバランスを脱して青年にそれになっても、どこか優美な曲線を失わないままだった。その造りの美しさに加えて、鶯丸を鶯丸たらしめているのは、知性が醸し出す透徹だった。この知性は彼が成長するにしたがって深みを増していったから、澄みきっているのに底が見えないという矛盾を違和感なく鶯丸に備えさせていた。その違和感なき矛盾を象徴するような瞳が、今、大包平を見つめている。
    「――数学の、どこがそんなに好きなんだ」
     何気ない大包平の問いに鶯丸はゆっくりと一度瞬きし、そしてほんの少し、目蓋を下ろした。視線は未だに大包平に向いていたが、大包平を見ていない目になった。
    「どこ、か。そうだな。お前が知るように、俺は筋の通ったものが好きだが、それは分かりやすいからだ。分かることは安心できる、というのは、そうおかしなことではないだろう? まぁ確かに、数学の問題はすべてが分かりやすいなんてことはない。むしろ、知っていることが増えれば分かりにくくなっていくばかりだ。本当に短い、一見単純そうに見える式を、正しい、あるいは正しくないと証明するために、その何百倍もの量の説明を要する。だが、その証明のために使われる方法というのは、正しいものだ。いや、確かに正しくない場合もある。証明が間違っているときだ。しかし、正しさを追求するという点においては揺るがない。数学という言語――言語と言ってしまっていいのかは俺も思うところがあるが、ここではまぁいいだろう。その言語には、文脈の判断基準が正しさだけしかない。正しいか、そうでないかだ。分かりやすいだろう」
     涼しい声が滔々と語るのを聞きながら、大包平は自分が危険な綱渡りを始めてしまったことに気が付いていた。鶯丸は「細かいことは気にするな」と言う。裏を返せば、細かくないことは疎かにしてはならない、という表明だ。数学は鶯丸にとって細かくないことの筆頭だった。ここで挙動を間違えれば、この幼馴染みは微笑を凍らせたまま、大包平から永遠に去っていくだろう――それだけは、堪えられなかった。
    「文脈の基準もそうだが、その言葉、文字にあたる数字や記号も、シンプルだ。ひとつひとつは、それだけが持つ意味しか持たない。今俺たちが使っている言葉のように、状況や会話の流れで意味が変わってしまったりしない。静かで、ストイックな言語だ――自分の定められた領分のことだけを指し示す。あたかも俺たちに分からせようとするように見えるのを、囁いてくる、と言う人間もいるが、こういう比喩表現は、やはり比喩でしかない。比喩は結局、それが示しているものそれ自体ではない。……俺も今、ややこしい言葉遣いをしている自覚があるが、数学にはこういう比喩はないんだ。真正なものしかない。真正で、静かで――何より、美しい」
     その一言を感嘆を漏らすように紡ぐと、鶯丸ははっきりと目を伏せ、大包平から視線を外した。大包平は鶯丸の言葉を聞き漏らさぬよう細心の注意を払いながらも、その長い睫毛に見惚れた。
    「――俺は、数学に没頭しているとき、自分がこれ以上なく澄みきったところにいる気分になる。何もない広野に、ひとりでいる気分に近い。頭が痛くなるほど冷たく澄んだ空気に、ただ道があるとも言えないような、広く開けた土地があり、俺という人間はそこにひとり立っている。どうしようもなく静かで、孤独で、寂しくて……それがたまらなく、心地良いんだ」
     そこまで言うと、鶯丸は目を閉じた。大包平は気づかれないように細く長い息を吐いた。
     しばらくして鶯丸は目蓋を上げると、大包平を捉えて目を細めた。見慣れた幼馴染みの顔に戻っていた。
    「参考になるか?」
    「……さっぱりだ」
     大包平が不服を隠そうともせずそう応えるのに、鶯丸は喉を鳴らして笑った。大包平は、鶯丸の言うことに同意や共感の返事ができないのを悔しく思っていた。彼の言葉は理解できたし、伝えようとしていることを想像することもできた。しかし実際、自分が彼のようにその広野に立てるかといえば、それが難しいこともすぐに分かった。大包平は頭の良い少年だったのである。鶯丸の愛することについて共感をもって頷けないのは、大包平にとっては敗北にも等しかった。しかし、鶯丸の知性を前にして自分を偽ることは赦せなかった。それは敗北よりも卑しい、酷い裏切りに思えたのだ。
     鶯丸の話に共感はできなかったが、その事実は大包平が進路を定めるための大きな判断材料になった。思えばこの敗北こそが、鶯丸への想いを諦めようとしたきっかけだったのだと思う。理解できないと分かっている人間の傍にいようとするのは、今日のような綱渡りを毎日やっていく気分になるようで、苦しくなってしまったのだ。それに、理解できないなら傍にいる資格はないのかもしれないと考えてしまった。つまり単純に言えば、大包平は若かったのだ。
     ただ、それでも鶯丸が大包平に言葉を尽くして伝えようとしたことは、若い大包平の心に色濃く影響を与えた。それはひとつの、実際には見られない景色として大包平の記憶に刻まれることとなり、大包平はこれを思い出すとき、どうしようもなく胸が詰まる思いがするのだ。
     この思い出から十年近く経った今でも、目蓋の裏にありありと思い描くことができる――透徹を絵に描いたような広野に、鶯丸がひとり、その澄みきった視線で彼にしか見えないものを見つめている。それはずっと遠くにあるのだが、彼は決して見失いはしない。遠くを見通す顔の口許は、彼らしく微笑んでいる――それは、たまらなく美しい情景だった。

     そう、単に若かったのである。幼かったと言ってもいい。理解できないことは悪いことだと、罪悪感を持ってしまった。それは持つ必要などない罪悪感であったし、たとえ分からないのが罪だとしても、それは赦される罪だと二十代半ばに差し掛かった大包平は考えている。
     大包平は理解できない――形而上にしか存在しない透徹の広野にひとり立ち続ける美しい人が、形而下の現実世界では大包平の視線の先で現在、ドラム式洗濯機が働いているのをかれこれ三十分眺めている理由を。
    「……楽しいか?」
    「楽しい」
     呆れを隠さずに訊ねれば、三十路を数年後に控えた幼馴染みが子どものように弾んだ声で頷いた。鶯丸は洗濯機を前に床に座り込んで、衣類と水が跳ねているのを眺めている。その鶯丸の旋毛を、大包平は斜め後ろから見詰めている。これは乾燥が終わるまでこのままだな、と自分のために入れたコーヒーを啜りながら、大包平は苦笑いした。
     先日の春の長雨に洗濯物で大いに困った後、ふたりはすぐに家電店に乾燥機付き洗濯機を探しにいった。鶯丸の希望によりこのドラム式洗濯機が選ばれ、本日の数時間前にふたりの家に迎え入れられたのだ。お役御免を言い渡された大包平と学生時代からの付き合いの洗濯機は、過密スケジュールの中の引っ越しで家具が揃えられなかったとこぼしていた同僚に格安で下げ渡された。慣れ親しんだ物が自分の手から離れていくことには少し胸が詰まったが、その洗濯機をもらっていった同僚である長谷部の家で今後は職務を全うするであろう。「下げ渡すという言い方はやめろ」と文句は言われたが、それはそれ、ふたりにとっては気にするでもない細かいことである。
    「見ろ大包平、この水の軌道は解析したら面白いと思わないか」
    「さっぱりわからん」
     素っ気ない返事になったが、鶯丸にはどうでもいいことのようだ。ほう、と息を吐きながら洗濯機のドアの向こうに見入っている。
     そう、理解できなくても構わなかったのだ。大包平には理解できないことで鶯丸がはしゃいでいたとしても、もしかしたら気に喰わない場合もあるかもしれないが、大抵はこうして大包平の目の届くところに彼はいてくれるのだから。
     透徹した大地を見渡そうとする美しい人は、洗濯機に喜んで子どものように無邪気に笑う可愛い人でもある。大包平が惚れ込んでいる鶯丸は、昔からずっと、そういう人だったのだ。
     鶯丸を理解できないという事実は確かに大包平に敗北感を味わわせた。しかしそれより以前、もっと幼い頃から大包平はある意味この幼馴染みに既に負けていたのである。古今東西、あらゆる人が言っているではないか。「惚れたが負け」と。
     そんなわけで、「乾燥を始めたぞ」と何が楽しいのか満面の笑みで報告する鶯丸に、大包平は今日も振り回されながらも、思わず頬を緩めてしまうのである。
    「とんかつ定食が食べたい」


     鶯丸は自分について語るところの少ない男である、ということは彼の友人知人たちにとって共通の認識である。この男の口から出る話題といえば大抵は数学か茶、あるいはご飯、そして彼の多くはない友人たちについてだ。なお友人たちとは言ったが、その話題においても年下の幼馴染みの占有率が断トツである。しかし当の大包平はこの事実を知らない。まぁ、それはここでは余談だ。
     先に述べた共通認識は、大包平にとっても例外ではない。彼は鶯丸周辺の人物の中では飛び抜けて鶯丸と過ごした時間が長い男だが、その彼をしても「鶯丸は自分について語らない」と言わしめるのである。
     なぜ鶯丸は、自分について語ることが少ないのか? 大包平は幼馴染みとして、ひとつの仮説を持っている。実証されないであろう仮説だが、おそらく彼は自分を観察の対象としていないのだ、と。
     語るためには視点が必要なのだ。人は何かについて語るとき、それが自分の内面についてであっても、その対象から少し距離を置かなければならないのである。まるで観察してその経過や結果を述べるように、距離を置いて視点を得て初めて、語るという仕事は成されるのだ。
     だが鶯丸は大抵の場合、視点そのものである。自分より自分以外に関心を向けている。その関心の先について述べるときも、無闇やたらと推測を口に出したりしない。彼は彼の中で、整合性を確信してから初めて語るのである。曖昧なものについては尚早に断定してしまう代わりに、彼はその小さな口を閉じる。このどこか潔癖な観察への倫理が、彼に自分について語らせないのだ。鶯丸は自分が自分であることはともかくとして、語ることができるほどまで自分を観察しようとは思っていないのである。
     そう、彼は観察者なのだ。しかもとびきり、その手順に煩い。事物を正しく判断するためには、感情的になってはいけない。必要なのは冷徹な視点である。裁くことも赦すことも目的ではない。曖昧なものが持つ揺らぎは、揺らぐままにしておかねばならない。揺らぎとは、可能性でもあるのだ。彼はただ、冷徹に観察し、出来る限りの判断を下し、その事物をそれと認めるだけである。そうして認められる以上のことについては言及を避け、大抵は代わりにこう口にする。「まぁ、細かいことは気にするな」
    「お前はよくそう言うがな、裏を返せば細かくないことは気にしろということだろう。ちゃんと思っていることは口に出せ」
     大包平がそう言ったのは、高校二年の夏休みだった。またもや寮から帰省していた鶯丸は、大包平が宿題をするのを見ていた。もっとも、なぜ見ていたのかといえば、そのとき大包平が開いていたのが数学の冊子だったからである。
    「いつも思うんだが、その表現、裏と言うよりは対偶みたいじゃないか?」
    「慣用表現だ、揚げ足を取るな」
     鶯丸はいつもよりどこか意地の悪そうな顔で、大包平が冊子の問題を解いていくのを眺めていた。その視線に居心地の悪さを感じながらも、大包平も意固地になって数学の宿題を進め続けた。そうした中で、何が鶯丸にいつもの口癖を言わせたのかははっきりと覚えていないが、彼は確かにそう言って、上の大包平の言葉に続くのである。
     細かいことは気にするな、は大方鶯丸が面倒臭くなったときに発せられる言葉であると大包平は考えていた。それは鶯丸にとって重要でないことが話題に上るときであり、また彼が自分の中で確信をもって語ることのできないものが言及されるときであった。
    「......お前はいつも、そうやって逃げる」
     この頃の大包平は、その鶯丸の口癖に、ずるい、と拗ねた子どものようなことを考えていた。当時、伸び続けた身長は既に鶯丸を越していたが、実際大包平はまだ子どもであり、成人を迎えた鶯丸に追いつけないことがあるという事実がどうしても悔しかった。まだ、自分の中の感情を極力上手く御す方法を模索しているような年頃だったのだ。一年前に数学について饒舌に語る鶯丸と向き合ったときに知った、好きな相手の最も大事にするものについて理解が及ばず共感できないという事実を、若い大包平は自分の中で上手く処理できないでいた。
    「そうだな、じゃあひとつ」
     そんな大包平少年の気持ちは知らず、年上の幼馴染みはその美しいアーモンド形の目をすっと細めた。
    「その問三の計算、間違っているぞ」
    「な!?」
     突然変化球を寄越されたような驚きと共に、大包平は手元の冊子を見た。問三を見てもどこが間違っているのかすぐには思い当たらず、口をへの字に曲げながら解答をすべて消すことにした。もう一度、始めから解き直した方が速いと考えたのだ。鶯丸が数学については嘘を言わないことを、大包平は確信していた。
    「......早く言え」
    「自分で気づいた方が良いかと思ってな」
     にやにや笑いの鶯丸を睨み付けて、大包平はまた問三に取り掛かろうとした。ただ、幼馴染みにしてやられたことが悔しくて、こんな言葉が出た。
    「お前は自分の勉強はいいのか」
    「休暇は休むものだ。久しぶりにお前を見ているのも楽しいしな」
     鶯丸の返答は、彼への恋心を諦めるかどうかに揺らぐ少年に不意打ちで甘い一撃を喰らわせたが、それに、と付け加えられた言葉がまた別の衝撃を与えた。
    「今となっては高校での数学はパズルみたいなものだ」
     いい息抜きになる、と悪びれず伝えられた感慨に、大包平は絶句した。この日以来、大包平には「数学科は魔窟」とのイメージがついている。
     閑話休題。
     あの頃、鶯丸への気持ちを揺らがせていた大包平は、一度はそれを諦める方向に舵を取った。しかしもう一度逆に舵を切って、鶯丸と共に暮らすまでに漕ぎ着けた。その生活においても、彼はやはり多くを語らない。その必要以上の断定を避ける彼の有り様は、そのもののありのままを見通すという優しさと、それ以上を望まない諦めを彼に漂わせている。
     彼はやはり観察者なのだ。主に何を見ているかと言えば、透徹の広野たる数学だ。彼が生活の大部分を傾けるもの――そこの歩き方は揺るがないが、その広さを決して誰も知り得ぬもの。彼の観察者としての手順はこの広野のために鍛え上げられ、彼はそれに矜持を持っている。
     矜持というものは、個人差もあるだろうが、概ね重いものと見て良いだろう。大包平は自分がプライドの高い人間であると自覚している。そしてそのため、他人の矜持について、それを蔑ろにされることがどれだけ屈辱か分かっているつもりである。譲れないもの同士がぶつかるときは、ぶつからせるしかない。しかし当然、それは相手のプライドをぞんざいに扱って良いということではない。
     大包平は、数学について詳しくは分からないが、鶯丸がそれを大事にしているのはよく知っていた。あの少年の日に、彼の立つ広野の話、すなわち彼が語った数少ない彼自身についてのことを聞いてから何年も経て、自身も成人してある程度経った頃、こうも考えた。鶯丸は彼が研究する数学、あるいは研究領域を確かに好いているが、それ以上に数学にアプローチする方法、姿勢を重く見ているのではないか、と。
     正しいか正しくないかを判断基準にストイックな言語を積み上げていく。それ自体がストイックな営みであり、その所産は言ってしまえば、純粋に人間の理性だけを頼りにして見出だされたものである。彼はそれを愛し、もっと言えば、信じたいのではないか。
     些か行き過ぎた思考にも思える。しかし、研究に没頭する鶯丸に、観察者然とした彼の誇り高い倫理を重ね合わせたとき、大包平には鶯丸がそういう人間に見えた。そもそも、理性を信じていないと研究などやっていられないのではないか。そこまで考えて、大包平は自分の大学生活のうちで行き当たったある言葉を思い出したのだ。ある哲学者はこう言った。
    「理性は感情の奴隷である」
     これは決して理性が感情に敗北することを述べたものではない。ただ人間が理性をもって判断するものの先には、その人間にとっての快・不快があるのだ、という所見に他ならない。抽象化された数学について当てはまる言葉ではないが、その数学を扱う人間には、理性と感情があるのだ。いかに理性的に、論理的にものを考える人間であっても、人間である以上、感情を無視することはできない。大包平は度々この事実を、やはり鶯丸を通して確認するのである。

     今日は大包平が夕飯を用意する当番の日だった。大包平も鶯丸も、美味しいものは美味しく料理する腕を持つ人のところで食べれば良い、という考えを持っていたため、普段の食事に多くを要求しなかった。いつもはスーパーの惣菜など利用しながら腹を満たしており、それに加えて一品か二品、特別美味くはないが不味くもない手料理が並ぶのがふたりの食卓である。
     そんなわけで、大包平は野菜炒めを作るためにフライパンを振るっていたのだ。大学時代に一人暮らしだったため、簡単なものは自分で作ることができた。ふたりで暮らし始めた頃の鶯丸は料理をする年下の幼馴染みを物珍しそうに観察していたが、初夏と言われるようになった頃にはすっかり慣れてしまったらしい。その鶯丸はこの日、学部生時代から続けているアルバイトの家庭教師として生徒のところへ行っていた。大包平がフライパンを載せたコンロの火を消したとき、彼はちょうど帰ってきたのである。
     ちょうど良かったな、と声をかけようとした大包平は、彼の横顔からいつもの微笑が消えているのを見てとって、言葉をかけるのを躊躇った。鶯丸はその大包平に目もくれず居間まで行くと、そのまま彼愛用のひとりがけのソファに体を沈ませた。大包平は、彼が静かに深く長い息を吐くのを見た。
     料理を座卓に並べる間も、鶯丸はじっと天井を見上げていた。大包平は鶯丸の幼馴染みであったから、彼がこうなるのを、本当に時々だが、今までも見たことがあった。こうなるときの彼は、疲れているのである。
    「食べられるか」
     机に並べた後で聞くのも間抜けだとは思いながら、大包平はなるべく静かな声で訊ねた。鶯丸はそれにゆっくり視線を天井から下ろすと、いつもの微笑を繕って頷いた。
     食事は静かに始まった。大包平も鶯丸も静かに食事する家で育ったから、無言は大して問題ではなかった。ただ、明らかに疲れている人間を放っておくのも気がかりで、大包平は眉間に皺を寄せながら箸を進めていた。そんなときだった。
    「知っているか。数学的帰納法は帰納ではないんだ」
     突拍子のない語り口はいつものことだ。大包平は視線だけ寄越して続きを待つ。鶯丸は自分の皿に目を落としたまま、行儀悪くならない程度に食事を続けながら話をする。
    「帰納とは、個別な事例から普遍的規則や法則を見出だそうとする方法のことだ。それに対して、演繹は一般的、普遍的な事柄から個別の結論を得る方法のことだ。ただ見かけが帰納のように見えるからその名前に帰納とついたが、数学的帰納法の方法は演繹なんだ。自然数の性質という普遍的な法則を前提として成される証明が数学的帰納法だ」
    「今日はそういうところを教えていたのか」
    「そうだ」
     大包平にとっては最早懐かしい話題だった。経済学を学んでいた大学時代でも計算は使ったが、こうした数学における証明だとか自然数だとかは、結局高校時代に触れただけだった。大包平は特別不得意なわけではなかったから深く考えることはなかったが、数学というものは嫌う人間にはとことん毛嫌いされているように見えた。そして、鶯丸という男はその数学を愛してやまず、「美しい」と称賛の言葉をもって嘆息するのだ。
    「数学の歴史や、こんな名前にまつわることなんてほとんど省みられないからな。どうでもいいと言えばどうでもいいんだが――」
     そこで鶯丸は話すのをやめてしまった。箸も止まっていた。大包平も目を伏せて微笑む幼馴染みの顔を窺いながら、動かしかけた箸を止めた。
     鶯丸は疲れているのだ。そして恐らく、傷付いてもいるのである。微笑はそれを読み取らせまいとしているが、幼い頃から蓄積された幼馴染みとしての経験が、大包平にその事実を匂わせていた。しかし同じ経験が、鶯丸が何に傷ついたのかを大包平に語らないだろうことも知らせていた。だから彼は実際、黙り込んでいるのだ。そうなった鶯丸を時々、大包平は目撃してきた。
     語らないことに不満を覚えても、それをぶつけることはできない。この不満は大包平のものであり、鶯丸にぶつけていいものではないからだ。かと言って、違う方法で鶯丸にその傷口を見せろと迫るのも、正解ではないと思うのである。暴きたてたとして、大包平にその傷口が見えるのか。見えたとして、どうにかしてやれるのか。そもそも見えなかったとしたら――「お前の気持ちはよく分かる」と見え透いた嘘でも吐こうというのか。
     かつて、この幼馴染みをすべて理解することはできないのだ、と思い知ったときの敗北感にも似た想いが、大包平の胸の内を占めていた。大包平は、鶯丸に卑怯な振る舞いをしたくなかったし、もしそのような振る舞いを彼が自分に赦そうものなら、それこそ赦せなかった。だから甘んじて、沈黙をもって互いの違いを受け入れるのである。自分には今、彼にしてやれることが何もないのだと認める無力感と共に。
     ただ、できることなら、理解できなくても「ずっと傍にいる」と言いたかった。長い指や形の良い爪に不似合いな厚いペン胝のある手を、彼が癒えるまでずっと握っていてやりたかった。しかし、もしそれが彼の矜持を傷つけたら、と考えると恐ろしかった。ふたりの距離が近付けば近付くほど、ぶつかる危険も増える。ぶつかった痛みで、二度と戻れないくらい遠くへ離れることになってしまったら――口には出さないが、大包平はそれが恐ろしい。この恐れのために、未だに鶯丸に気持ちを告げることができずにいるのだ。
     だから大包平は、自分の作った大して美味くもない野菜炒めを頬張る前に、ぶっきらぼうに「明日はあの定食屋に行くか」と声をかけるに留める。互いの違いを今以上に思い知る恐れのために、今まで縮められなかった距離をもどかしく思いながら、彼に明日の食事の準備はしなくて良いと提案する。「あの定食屋」という言葉だけで何処のことを言っているのかは分かるだろうと、現在の近さを確かめながら。
    「それはいいな」
     鶯丸もまた幼馴染みとしての経験から、大包平の気遣いを感じ取ったのだろう。胸に詰まった息を漏らすように笑うと、いつもとは違うやり方で目を細めた。その笑顔に、ふたりの距離に揺らぎがあるのを確信してから、大包平は野菜炒めを飲み込んだ。
    「待ちくたびれたぞ」


     駅前の繁華街を少し離れた路地にある定食屋は、目立たない立地に関わらずいつも繁盛している。というのも、その値段とボリュームと、何より味のためだ。店内は音に溢れているが、決して煩くはない。客たちの話し声、笑い声は厨房から漏れる調理の音に混じり、細やかなさざめきとなって小さな店内に溢れている。そこには客を迎え入れようとする緩やかな許容と、追い出さずにいてくれる優しい無関心があった。大包平と鶯丸も、その心地良い雰囲気と無口な店主が作る優しい味が時折恋しくなって、こうしてこの店を訪れるのである。
    「いやぁ、久しぶりに来たな」
    「そうだな」
     鶯丸はいつも、とんかつ定食を頼む。今回は自分も同じようにとんかつ定食を頼んだ大包平は、そういえば初めて来たときもそうだったな、と向かいの席で小さな口に肉を頬張る鶯丸を見て、ふと思い出した。あのときもこうやって、ふたりで向かい合ってとんかつ定食を食べたのだ。
     去年の春、大学を卒業し、鶯丸を諦めることを諦めた大包平は久しぶりに彼に連絡した。ふたつ返事で会うことを了承してくれた鶯丸の通う大学院と、大包平の勤め先の中間地点はこの街であったため、駅前の小さな広場をふたりは待ち合わせ場所にした。当日、緊張感を腹に抱えながら広場へ向かうと、白いシャツの上にトレンチコートを羽織った鶯丸が真っ直ぐに背筋を伸ばして立っていた。見たことのない服装だったが、立ち姿が記憶と少しも違わないことに、大包平は思わず足を止めた。鶯丸の方も人波から頭ひとつ以上大きい大包平にすぐ気づいて、挨拶代わりに片手を軽く振った。鶯丸が大学に入学してからほとんど、そして大包平が大学に通っている間はほぼまったくと言って良いほど顔を合わせなかったのに、まるで毎日会う相手に挨拶するような気安さだった。
     その気安さを、大包平は大きな安堵とほんの少しの失望と共に受け取った。鶯丸は何も変わっていなかった。彼にとって自分はやはり、年下の幼馴染みのままだったのである。
     この失望が自分勝手なものだと、聡い大包平はすぐ理解した。そして、これから単なる幼馴染みを抜け出すためにこうして鶯丸に再び会いにきたのだと思い直した。このときの大包平の頭には、ある大富豪の残したという言葉がちらついていた。彼はこう言ったという。
    「どこかに辿り着きたいと欲するならば、今いるところには留まらないことを決心しなければならない」
     言われてみれば当たり前のことだ。しかし時に、当たり前のことこそ恐ろしいものなのである。そのときの大包平は、その恐れを一呼吸で飲み下して、鶯丸の方へと踏み出したのだ。
    「冷めるぞ」
     記憶に手を止めていた大包平を現実に引き戻したのは、その鶯丸だった。彼の皿は、既に半分近く減っていた。大包平も「ああ」と短く応えて自分の皿を空けようと、とんかつを頬張った。初めて訪れたときと変わらず、やはり美味しかった。

     満腹感と共に店を出ると、繁華街からはそう遠くもないというのに、路地は静かだった。ふたりは肩を並べて帰途についた。少し歩けば路地を抜けて大通りに出た。昼間は行き交う車で喧しいこの道は、今は街灯とコンビニの灯りと、時々過ぎ去るだけの車のライトが青い夜に色を取り戻していた。一緒に暮らすようになってから、ふたりは何度かこの駅前からの暗く静かな道を並んで歩いてきた。同居を始めてまだ数ヶ月だが、これからもこうして並んで歩くのか――大包平がぼんやり考えたときだった。
    「腹でも痛いのか」
     決して無音ではないのに、夜は静かだ。初夏の風はまだ涼しく、大包平の髪を揺らしていった。鶯丸の声も、同じように涼しかった。
    「そういうわけではない。そもそも、なぜそんなことを訊く」
    「いつもはよく食べるくせに、今日は箸が止まっていたじゃないか。今も妙に静かだ」
    「......少し考え事をしていただけだ」
    「それはそれは、どんな馬鹿なことを考えていたんだ?」
    「馬鹿と言う方が馬鹿だぞ」
     鶯丸が少し意地の悪い笑い方でからかってくるのを、大包平は思わず唇を尖らせて言い返した。このやりとりは、幼い頃からよく繰り返された応酬だった。幼馴染みとして、ふたりは何度もこの会話をしてきたのだ。毎日顔を合わせていた子どもの頃と、再び会うようになってから共に暮らす今日に至るまで、この馬鹿げた言葉遊びのようなやりとりを、何度も何度も。
     去年の春、久しぶりに顔を合わせてからはちょくちょく会うようにしていた。幼馴染みだったからか、それとも鶯丸がずっと鶯丸のままだったからなのか、会わずにいた数年間に開いたはずの距離はすぐに感じなくなった。かつてのようなやりとり、合いの手を入れる呼吸、お互いだけが知っているような思い出話。ふたりには、幼馴染みとして共有してきたものがあった。幼馴染みとしての距離が、この春からのふたりの同居を後押しした。
     この距離は確かに居心地が良かった。決まり文句めいたやりとりは、ふたりの間だけで通じる挨拶のようなものだった。しかし今夜は、大包平の脳裏にまたあの言葉がちらつくのである。どこかに辿り着きたいと欲するならば、今いるところには留まらないことを決心しなければならない――。
     突然足を止めた大包平に数歩遅れて、鶯丸も立ち止まった。街灯に照らされた鶯丸は、大包平の目には暗く青い街から浮き上がっているようにさえ見えた。子どもの頃に見上げていた透徹の目は、いつからか自分より低い位置にあった。
     その目が優しく細められるのに促されて、大包平は腹を決めた。
    「ずっと、お前のことを考えていた――俺は昔から、ずっとお前だけを想っていたから」
     決して、今いるところが嫌なのではない。それどころか、もしかしたら一番居心地の良い場所かもしれない。しかし、その距離のまま、こうして何度も同じ道を歩きたいかと言えば、そうではないと思うのだ。やはり大包平は、このままふたりの距離を保つより、鶯丸により近いところに辿り着きたかった。理解できないところも、昔から変わらないところも、一番傍で見ていたい。端的に言えば、大包平はずっと鶯丸が欲しかったのだ。
    「いきなりこういうことを言って驚かせただろうが......考えてくれ。考えるまでもないなら、一思いに言ってくれた方が俺としてはありがたい」
     引っ越し費用は出す、と不格好な一言を付け加えて、大包平は鶯丸から目を逸らした。もっと早くにこうするべきだったのかもしれない、と頭の隅で冷静に考えていた。自分の恐れのために、離れたり、傍にいようとしたり、随分ふらふらと動いてはいるが、いつも基準点は鶯丸だった。結局この恐れを解き放ってしまえるのは、鶯丸だけだったのだ。
     彼はきっと、座標を与えられた二点の距離を求めるような容易さで、ふたりの置くべき距離を導き出してみせるだろう。遠くへ離されるか、それとも――大包平がそう考える間も街は静かで、近くの小さな川に流れる水音と、窓の向こうの灯りからわずかに感じ取れる人々の生活の気配が辺りを満たしていた。
     街灯の下で立ち尽くすふたりの横を、車が走り去っていった。緩い風に髪や服の裾が揺れ、道の端に生えた草木が震えて音を立てた。その風が止んだとき、鶯丸が口を開いた。
    「お前は本当に馬鹿だな」
     大包平はこういう場でも軽口を叩く鶯丸に顔を赤くして、思わず睨み付けようと視線を戻した。しかし当の鶯丸は涼しい微笑を浮かべていた。大包平が時折、目蓋の裏に描いてきた形而上の広野に立つ微笑みは今、少し夏の匂いを漂わせ始めた夜の下で、大包平の目の前にあった。
    「小さい頃からお前を知っているが、そういうところはまったく変わらん。そら怒るぞ、と思ったらやはり怒る。笑うだろうな、と思えば笑う。思い込んだら頑固だが、ちゃんと理屈が分かれば納得する。ちゃんと、分からないことも誤魔化さずに『分からん』と――昔からそうだった。だから、今から俺が言うことにも、きっとお前は納得するだろう。これは俺の直観と、お前の幼馴染みとしての経験が導き出した結論だが、そう大外れすることはないだろうから......まったく、お前は本当に馬鹿な奴だ。引っ越し費用は出す、か。何を考えてそう言い出したのかも想像がつくが、まぁここではいい。......考えろと言ったな。何について考えろというのかまで述べろ、と言いたいところだが、それも俺が予想していることでほぼ合っているだろう」
     そこまで言うと、鶯丸はふふ、と息を漏らすように笑った。
    「俺たちの間には随分言葉が足りないようにも思えるのに、俺とお前はその足りないものを自分たちで補ってしまっているな。前の洗濯のような行き違いは、俺たちには珍しいことだったと思わないか。あれには俺も少し驚いた。俺もお前も、互いについて理解できないところがあるのは分かっているだろうが、分かっていることはちゃんと分かっているのだと思っていたから......まだまだ知らないことはあるものだな」
     また車が通って、風がふたりの髪を揺らしていった。その間も鶯丸の目は、大包平を真っ直ぐに捉えていた。
    「お前は、俺たちは幼馴染みだから互いを分かっているのだと言うかもしれない。俺も確かにそうだとは思う。しかしそれに加えて、俺にはお前が特別分かりやすい奴に見える。これは俺の長年の観察に基づいたお前についての推論だが、お前ほど俺にとって分かりやすい奴はいないだろう。一緒に暮らし始めても、お前が何を考えているのか、俺は自分に出来る限りは分かっていたと思う。お前が俺について、何か思っていたことも......それにしても、なぜ分かりやすいかといえば、お前が決して自分を偽らないからだ。それはつまり――筋が通っている、ということだ」
     大包平はその言葉に、胸の内に小さな予感が走るのを感じ取って、目を丸くした。鶯丸はその反応に、いつもの静かな微笑を取り払うと、まるで悪戯の成功した子どものように得意気な笑みを浮かべてみせた。
    「俺は、お前ほど筋の通った人間を知らない。――さて、一思いに言ってくれ、だったか。しかし、お前もよく知っているだろう? 俺は昔から、筋の通ったものが好きなんだ」
     そうして甘く目を細めた鶯丸に、大包平は顔を一気に赤くして口をぱくぱくと動かしたが、何も言えなかった。夜の街は静かに、ふたりの間の沸き立つような沈黙を受け入れていた。だから鶯丸も何も言わず、大包平の方へ向かって、元々短い距離をさらに詰めるために歩き出した。



     以下に語られることは、すべて比喩だ。
     文学的修飾を凝らしての文章であるということではない。言葉はそれが指し示す事実そのものでは決してない、といった程度の意味だ。語るためには視点が必要であり、語られる時間が必要であり、この視点と時間という要素は語りとそれの元にある事実を解離させてしまうことがある。どうかこの点を容赦してほしい。名前は人間に事物の核を把握させるが、言葉とは本来比喩的なものであると語った哲学者もいた――が、その話はここでは関係ない。これは、鶯丸と彼の年下の幼馴染みの話だからだ。
    比喩としての数学的帰納法
     大包平は煩い子どもだった、と鶯丸は回想する。これは比喩ではない。物理的に煩い子どもだったのである。主に、その大声が理由で。
     物静かな男として知られる鶯丸は、子どもの頃から静かであったらしい。彼は走り回るより、ぼんやりしていることが多い子どもだったという。ぼんやり、というと彼がまるで何も考えていないような印象を与えるが、鶯丸自身はそれを否定する。曰く、「欄間を見ているのが楽しかった」
     彼の語ることを要約すると、彼の生家は日本家屋であり、彼が寝起きしていた部屋も障子と襖で仕切られていたのだという。そして襖の上には欄間があった。その欄間は、花を象ったようにも見える幾何学的なパターンを繰り返した意匠であったのだ。
    「最も小さな図形は底辺が一番長い二等辺三角形だ。これがふたつ、その底辺で線対称に組合わさって四角形。いわゆる菱形だ。その菱形が六つ集まって、丁度花のような......そうだな、例えば鉄線の意匠のように見える。だがその花びらに当たるところにもうひとつずつ、最初の三角形を添えることができるから、これで六角形ができる。これが欄間の長さいっぱい、敷き詰められていたんだ。単純な図形から別の図形ができる。それも、一分の隙もなく......俺にはそれが面白かったし、美しく見えた」
     あたかも何者かに囁かれたかのごとく、その図形に見て取れた規則は鶯丸少年の頭の中で見事な整合性をもって組み立てられた。囁くという言葉が適当でないなら、分かるという単語で代用するしかない。鶯丸の頭の中で起こる知覚と理解は、彼の頭の中にしかないので、正確な言葉を選べないのだ。ともかく、その図形の“囁き”に触れて以来、鶯丸少年はそれを寝転んで見上げているのが好きだったのだという。おそらくこれが数学の原体験だったのではないか、と彼は述べるのだが、この体験にはもうひとり、闖入者が必ずセットなのである。
    「うぐいすまる! きたぞ!! あそべ!!」
     昔から年下のくせに偉そうな物言いをする奴だった、とは鶯丸の談だ。大包平は鶯丸の何を気に入ったのか、ほぼ毎日彼のところに遊びに来たのだという。「欄間を見ている、邪魔するな」と言いはするのだが、大包平の強情っぱりは生まれつきのものだったらしい。遊べ遊べと煩いからいつも根負けした、と鶯丸は溜め息混じりに、しかしどこか楽しそうに語る。
    「はいはい、遊んでやるよ」と体を起こす鶯丸の手を掴んだ大包平はいろんな場所に彼を連れ回した。日本家屋の手本のようなふたりの家、そこから歩いてしばらくの雑木林(これは大包平宅の私有地だったらしい)、海岸線沿いの道路、その傍にある公園。いつも大包平が手をひいて鶯丸を連れ出し、帰るときにはまだ遊びたいとごねる大包平を、鶯丸が手をひいて帰った。
     当時鶯丸は既に就学していたのだが、大包平は幼稚園の友だちより鶯丸と遊ぶことを好んだ。鶯丸は学年が上がるにつれて、増える宿題という大包平の誘いを断る大義名分を得たが、大包平はやはり頑として退かず、鶯丸が宿題をしているのを見ていることも多かったという。そんなわけでやっぱり毎日のように会っていた、と鶯丸は笑う。大包平は子どもらしく、鶯丸のやっていることに興味津々で、鶯丸もたまに彼に簡単な計算を教えるなどして遊んでいたらしい。
     そのうち一緒に小学校に通うようになり、宿題を見てやったり、欄間を眺めるのを邪魔されたり、鶯丸の子ども時代は大包平に満ちている。それを煩い子どもだった、で済ませるのは、ふたりが気の置けない幼馴染みだからである。
     しかし成長すれば、それまで感じなかった距離があるのを分かるようになる。鶯丸の見立てでは、それは彼が中学に入学する頃だったらしい。
     大包平は、鶯丸が先に中学に入学することに拗ねた。それはそれは大いに拗ねた。あまりの拗ねっぷりに、鶯丸は思わずこう声をかけた。
    「俺はお前より年上なんだから、当たり前だろう。馬鹿だな」
     鶯丸が大包平を馬鹿と言うのは、それが初めてのことだったわけではない。しかし、当たり前のことを当たり前と突き付けられた大包平の心には、それが強く突き刺さってしまったらしい。難しい顔をして何も言わず引きこもってしまった、と述懐する鶯丸の顔は、笑いをこらえるのに必死である。
    「それで、しばらく顔も合わさないでいたが、俺の入学式の朝に久々に会ってな。もう馬鹿なことはしないのか? なんてからかったら、何て言ったと思う?」
     彼はいよいよ笑いを抑えきれなくなっていた。正解を続ける声は震えている。
    「ぶすっとした顔で、『馬鹿と言う方が馬鹿なんだ』と来た!」
     この件は、鶯丸が勝手に選んでいる「面白かった大包平セレクション」でも五本の指に入るエピソードらしい。実際この話を語ったとき、彼は笑いを収めるために少しの時間を要した。
     さて、それ以来、馬鹿とからかう鶯丸に、馬鹿と言う方が馬鹿だと大包平が返すのはふたりのお約束のやりとりになった。小学生同士だった頃のように毎日遊びはしなくなったが、たまに顔を突き合わせて話し込むこともあったらしい。ふたりはやはり仲の良い幼馴染みだった。
     鶯丸が高校生になると、時々大包平の勉強を見ることもあったというが、そういう時間もどんどん少なくなっていったという。「あいつなりに遠慮でもしたのかもしれん」と鶯丸は語る。その勉強を見るというのも、実際は必要性をあまり感じなかったらしい。それを「よくできる生徒だったよ」と言うのは、彼が今も家庭教師としてアルバイトをしているからだ。
     三歳差という年齢の違いが、十代の若者にとって大きな壁であるのは想像に難くない。仲の良い幼馴染みだった鶯丸と大包平も、鶯丸が大学へ、大包平が鶯丸の母校へ進学すると、めっきり顔を会わさなくなってしまった。
    「それで、大包平が高校一年生のときだが、うちの学校は一年の秋に文理選択があってな――」
    「いや、待て待て、いったん待ってくれ」
     鶯丸が話すのを遮ったのは、彼の友人である鶴丸国永だ。ふたりは数学科と物理科で専攻こそ違ったが、同じ授業を取っていた一年生の頃からドクターコースの今に至るまで同じ理学部に籍を置いており、その関係は腐れ縁の様相を呈してきている。彼もまた、鶯丸の多くはない友人のうちのひとりなのだ。
     ふたりは大学の理学棟にある、窓際の小さな休憩スペースで話し込んでいた。五月も終わりに近付いたこの頃は随分日が長くなったが、大きな窓には先ほどまで映っていなかったふたりの姿が、はっきりと映り始めている。室内に電気がついていることを明確に意識できる時間になっていた。ふたりがなぜその時間に大学にいるのかといえば、鶴丸の方は研究室に残してきた仕事があるからだ。理系学生はほとんど大学に住んでいるようなものだ。学部生時代には頭を抱えたくなった研究スケジュールも、今は染み付いて抵抗など感じなくなった。
     しかし鶯丸の方は、今日は研究室に残る予定ではなかったらしい。本当はアルバイトがあったのだが、当日になって先方の都合でなくなったのだ。突然のイレギュラーを持て余しそうになった鶯丸は、茶でも飲んでから帰るか、と自販機に寄った。そこで研究室から息抜きを求めて這い出てきた鶴丸に捕まったのである。
    「俺は君の子ども時代について訊ねたはずなのに、いつの間にかいつもの大包平語りになっているぞ......どういうことだ......」
    「まぁ、細かいことは気にするな」
     鶯丸の決まり文句に、鶴丸は苦笑いした。いつもこうなのだ。この自らについて多く語らない男に自らを語らせようと、色々と話を投げ掛けるのだが、不思議と話題は彼の幼馴染みに移っていく。鶴丸は会ったこともない大包平に随分詳しくなってしまった。
    「今は同居しているんだろう? そんなに顔を合わせてよく飽きないな」
    「あいつの観察は俺の日課のようなものだ。ルーティンが崩れる方が面倒臭い」
    「一度は進学で崩れたルーティンだろう」
    「一度染み付いた習慣は戻るのも早い」
     有無を言わせぬ静かさで言い返された鶴丸は、目の前に座る男の顔をじっと見つめた。前髪で半分近く覆われた顔はいつも薄い笑みをたたえていて、これはほとんど崩されることがなかった。
     鶴丸は、自分が些か行き過ぎた知的好奇心を持っていると自覚しているつもりである。だから、この表情の読み取りにくい男にも興味が尽きないのだが、知ることでストックされた知識を使ってどうこうしようという気はなかった。ただ、知るのが好きなのである。何か新しいことを知って、それによって自分の世界を拡張される感覚がたまらないのだ。
    「俺も習慣の大切さは分かるが、それが幼馴染みの観察というのは、なんというか驚きだ......」
     驚きを愛する鶴丸にとっても、鶯丸のこの習慣は特異に思える。驚きは知ることの始まりである、なんてことを言った哲学者もいたが、この習慣は知ったところで鶴丸には理解が及ばない。理解――ここではむしろ、同意か共感とでも言い換えた方が良いかもしれない。言葉とはかくも芳醇であり、そのために正確性に揺らぎが生じる。科学的言語においては排斥される揺らぎが。
     その正確性には不安の残る言葉であっても、鶯丸が語る“大包平”は、その人となりを如実に伝える。もちろん、その人物像が鶯丸の主観から語られるものだということを鶴丸は忘れてはいない。だが、彼のこの「今日も馬鹿やってる」幼馴染みの話を聞くとき、なんとまぁ魅力的で憎めない男だ、と鶴丸は鶯丸と共に微笑んでしまうのである。
    「君はどうして、その幼馴染みについてばかり語るのかねぇ」
     鶴丸がしみじみとそう漏らすと、それまで鶴丸に向けられていた鶯丸の視線が、誰もいない廊下へと逸らされた。何気なく彼の顔をそのまま見ていた鶴丸は、その唇が話すことを思わず聞き逃しそうになった。
    「どうして、か。なに、大した理由じゃない。恋に落ちるようなものだ」
     普段と変わらない涼しい声だった。またはぐらかされると思っていた鶴丸は聞き流そうと息を吐いたが、面白おかしく話題にしていた幼馴染みに恋という言葉をあてがう違和感に立ち止まってその言葉を脳内で反復し、意味を理解してからようやく目を見開いた。
    「もっと驚くかと思ったが、案外反応が鈍いな」
    「いや、いやいや、君の口から恋なんて単語が出るとは思わなかったから聞き流しそうになっただけだ」
    「なんだ、修行が足りないな」
    「何の修行だよ。それより、え? そういうことなのかい?」
    「そういうことというのは?」
    「だから君、その大包平に......」
     恋をしているのか、と続けようとしたところで、鶯丸が鶴丸に笑いかけた。その笑顔がいつもより意地の悪いもので、鶴丸は彼の珍しい表情にまたもうまく反応できなかった。
    「『恋に落ちることについて、重力にその責任を負わせることはできない』と言ったのは物理学者じゃなかったか?」
     鶴丸の脳裏にも、現代物理学に欠かせない、かの高名な学者の舌を出した肖像が浮かんだ。ただ、驚きに瞬きする鶴丸の頭にはその言葉は芳醇過ぎた。次に投げ掛ける言葉をうまく探せないでいるうちに、鶯丸は無駄のない所作で腕時計を一瞥して「そろそろ帰る」と告げると歩き出した。
    「君、明日詳しく聞かせてもらうからな!」
     遠ざかっていく伸びた背筋に辛うじて声を掛けると、鶯丸は少し振り返って手を振るだけの返事を寄越した。あれは明日はすっとぼけられるな、と予測して、鶴丸は苦笑いする。しかし、どこか愉快な気分でもあった。
    「驚きだぜ......」
     そうひとりごとを漏らしながら、降って湧いた楽しさを抑えられずに鶴丸はくしゃっと笑った。

     初夏の晴れた日の夜は、肌を撫でていく風に水の匂いがする。鶯丸はその風に髪を遊ばせて歩きながら、家に帰るまでの予定を頭の中で確認する。
     アルバイトがなくなったことで、帰宅時間がいつもより早くなることは既に連絡した。夕飯当番を割り当てられていた大包平は、了解の返事を寄越したついでに「今日は酒でも飲まないか」と持ち掛けてきた。昨日までの会話から察するに、今受け持っていた仕事に目処がついて飲みたい気分なのだろう。特別酒を好むわけではないが、嫌いなわけでもない鶯丸はその提案を受け入れた。ふたりは一緒に酒と夕飯代わりのつまみを買って帰ろうと、駅前の広場で待ち合わせることにした。
     電車に乗り込んで五駅過ぎれば、ふたりの住む街に着く。ドアの外を流れていく街並みを眺めながら、鶯丸は知らず微笑んでしまう。
     人間が恋に落ちるのは、万有引力によって引き合うように自然なことだ。しかし、空気があることを意識せずとも自然と呼吸してしまうように、人は時にあまりに自然すぎることには気付かずにいる。
     鶯丸にとって、数学とはその名前を知る前から傍にあるものだった。欄間に見た六角形のように、何気ない意匠の中に数や図形の法則性を見つけたとき、鶯丸は感嘆の念をもって息を飲んだ。世界には鶯丸に把握できないものもあったが、多くのものについて数学は冷徹さをもって筋を通し、そこに潜む精緻な美を鶯丸に教えてくれた。
     そう、世界には理解できることばかりではない。鶯丸に最初にそのことを教えてくれたのは、他でもない大包平だ。
     成人して何年も経った今となっては、子どもなんて理不尽なものだと割り切ることができるが、かつて子どもだった頃、さらに幼い子どもの存在は理解し難いなどという言葉では優しすぎるほどだった。自分を放っておいてくれない存在というのは時に恐ろしい。しかもなぜ放っておいてくれないのか、理解できないのだから尚更。
     それでもほだされるように付き合ううち、鶯丸は大包平の子どもらしい理不尽さを面白がるようになった。何事も観察していれば大抵は法則や理屈が見えてくる。欄間の図形に統一性を見つけるようなものだった。大包平の観察は、鶯丸に十分な知的興奮をもたらしたのだ。
     大包平は子どもの頃から態度の大きい人間だったが、その自意識はしっかりと彼の自信に支えられていて、ストイックなほどに自助努力を怠らなかった。例えば鶯丸との年齢差のように、時にはその自信をもってしても覆せない現実というものはあったが、彼は変えられない現実は甘んじて受け入れる度量も持っていた。もっとも、そういうものに行き当たったときも、彼は大層ぶすくれた顔をして鶯丸を笑わせたのだが。
     そんな彼が高校一年の頃に、鶯丸に数学を語らせた日のことを、鶯丸もよく覚えている。あの日語ったことは鶯丸の嘘偽りない所感であり、自分が伝えられるだけのことは伝えたつもりだったが、それを大包平に理解してもらおうというつもりはなかった。自分の好むものが他人によっては毛嫌いされるなんてことはよくあることだし、もし自分について他人に理解されないことを不快に思うとしても、一体自分の方は他人の何を分かってやっているというのか? 自らに関して、この問いを十分に満たす解を鶯丸は持たない。それに、たとえ彼が鶯丸の言うことを否定しなかったとしても、鶯丸自身と同じくらい“理解”してくれるのを望むのは、些か求め過ぎというものだ。鶯丸は筋の通ったものが好きなのだ。おざなりに同意の返事を寄越されるより、己れを偽って見掛けだけの共感を寄せられるより、「さっぱりわからん」と切り捨ててくれたほうがまだ気持ちがいい――だからあの日、不服そうに否定の返事を寄越した大包平に、鶯丸は美しいものを見たのだ。少年の大包平は自分を曲げずに、鶯丸に理解が及ばないという事実に正面から向き合ってみせた。幼い頃、ただの理不尽に見えていた強情さは、成長していくうちに「大包平らしさ」とでもいうべき個性として彼に備わっていたのである。時には傍迷惑ともなり得る個性だが、鶯丸はその一本筋通った性格を好み、それを美しいとも思った。
     だから彼が自分とは顔を合わせなくなっても、「まぁあいつなりに何か考えているのだろう」と鶯丸は納得した。故郷から離れた自分の大学生活が充実していないわけではなかったし、自分の傍にあり続けた数学はやはり美しかった。ただ時折、「今日も馬鹿やってそうだな」と思い、友人たちに思い出話をした。今になって思えば、やはり寂しかったのだ――。
     つらつらと考えるうちに電車は駅に着いた。改札を潜って広場へ出た鶯丸は、周りより頭ひとつ以上大きい男をすぐに見つけた。一年前はスーツ姿は物珍しく映ったが、さすがにもう慣れてしまった。

     一年前の春に、大包平から久々の連絡を受けた鶯丸は、携帯電話の画面を見ながらしばらく固まった。大包平の観察が日々のルーティンから外れて久しく、これは中々のイレギュラーだった。鶯丸の学生生活は研究を中心に据えて、その周りに日々の食事や茶、あとはアルバイトがあるくらいだったのだ。鶯丸は猥雑なものを否定するつもりはなかったが、自分の身の回りは簡素にしておくのを好んだ。そのシンプルな生活は、物理科の驚きを愛する友人に「よく飽きないな」と呆れられることもあったが、鶯丸は猥雑さに振り回されるのが嫌だったのである。
    「久しぶりだな」
     あの日、同じ駅前で大包平にそう声をかけると、大包平は仏頂面のまま「そうだな」と頷いた。以前会ったときよりまた身長が伸びたか、と思ったが、その素っ気ない表情に緊張を見てとって、鶯丸は懐かしくなった。子どもの頃にも見た表情だったからだ。
     ふたりは食事でもしようと駅前を歩き回ったが、時間のためかどこの店も混んでいて、そのうち繁華街から少しずれた路地に入った。そこにあった定食屋で、ふたりはなんとなくメニューに一番大きく書いてあったとんかつ定食を頼んだ。
     ふたりは向き合って食事をしながら、最初は少しぎこちなく、しばらくすれば昔のように遠慮なく文句を言い合うような気安さで話をした。現在どういう生活をしているかに始まった話題は、子どもの頃の懐かしい話へと移っていった。
    「お前はいつも俺の邪魔をしに来たからなぁ」
    「寝転んで欄間を見ていることの邪魔とは何だ。俺はお前が寝てばかりいるから、どこか体でも悪いのかと思っていた」
    「なんだ、心配していたのか」
    「そうだな」
     かつての大包平なら、むきになって大声で否定しただろうからかいを、スーツを着た大包平は軽く往なした。それに「おや」と思いながらも、鶯丸は表情には出さない。得てして人は変わるものだ。変わらないものは、形而上にしかない。
    「しかし、体が悪いと思っているなら連れ回すのはどうなんだ」
    「寝てばかりいるから悪くなるのだと思っていた」
    「暴論だな」
    「......子どもだったのだから仕方ないだろう」
     やり込められたときに、口をへの字に曲げる癖はそのままだった。それを見て、鶯丸は小さく声を漏らして笑う。
    「お前の方こそ、欄間を見ているというのは何だったんだ」
     眉根を寄せた大包平の顔は、言葉にせずとも「理解できない」と鶯丸に伝えていた。そうだ、顔に出るから分かりやすくて面白かったのだ、と鶯丸は内心でひとり納得した。変わっていたのは大包平だけではない。自分もまた、忘れたことすら忘れているものがあった。
     欄間に見た図形を、鶯丸は言葉を探りながら説明した。そのうちに大包平の眉間の皺は薄くなり、話し終わる頃には納得したような顔で頷いてみせた。
    「なるほど、お前らしい」
     そうこぼして、大きな一口でとんかつを頬張る大包平に、鶯丸は瞬きする。
    「俺らしいとは、何だ?」
     思わず訊ねた鶯丸の言葉に、次は大包平が目を丸くした。しかし、すぐに呆れたような顔になった。
    「お前は面倒臭くなるとすぐに『細かいことは気にするな』だとか言って、ちゃんと説明することはなかったが、何も考えていなかったわけではないだろう。周りをよく観察していたし......だから、小さいときからそうだったのだと思っただけだ」
     鶯丸は、事も無げにそう言う大包平の顔を見ながら息を飲んだ。ここに来て、ごく当たり前のことに気付かされたのだ。自分が観察するものは、自分の身近にあるものだった。その対象が人間である場合、観察するだけでなく、観察される可能性もあったのである。
     自分が見てばかりいると思っていた幼馴染みは、自分を見てもいたのだ。この知ってしまえば当たり前のことがなぜだか面白くて、鶯丸は思わず肩を揺らして笑い出した。
     突然口を覆って笑い出した鶯丸に、大包平はぎょっとした顔をした。それすら面白くて、鶯丸は息も切れ切れに言う。
    「やめろ、大包平、そんな、馬鹿面を見せるな」
    「馬鹿と言う方が馬鹿だぞ!」
     おそらくは条件反射で飛び出したのであろう一言に、今度こそ鶯丸は我慢できなくなって、声をあげて笑った。
     この懐かしい決まり文句を聞いたときの鶯丸の気持ちを、ここで上手く説明することはできない。もちろん笑いをこらえきれないほど愉快であったのは確かだが、それだけでは済まないほど、郷愁だとか安堵だとか、いろんな気持ちがない交ぜになって押し寄せて、赤い顔で睨み付けてくる大包平に掛ける言葉をすぐ見つけることができなかったほどなのだ。
     その大包平もしばらく鶯丸を睨み付けていたが、笑いが収まりそうにないのを悟ったのだろう、不服そうに視線を外すと唇を尖らせて呟いた。
    「まったく、お前は本当に分からん」
     この言葉を聞いたとき、鶯丸の目蓋の裏には、自分を理解できないと表明してみせた少年の頃の大包平が思い浮かんだ。彼が確立しつつあった美しさを、かつての鶯丸は好ましいと思った。そして時を経て今、ここで向き合う大包平が、その少年の持っていた美しさを今も持っていることを、この呆れかえった声色が確信させたのである。
     変わったと驚かせたり、変わらないと笑わせたり、この短時間で大包平はどれだけのことを鶯丸に思わせたことだろう! 笑いをこらえきれないまま、鶯丸は得心していた。物静かだとか落ち着いただとか形容される自分の人生においても、どうしようもなく心を動かされ続けたものはふたつあり、ひとつは形而上に透徹してあり続ける数学、そしてもうひとつは、目の前で子どものように拗ねてみせる年下の幼馴染みだったのである。
     だから震える肩を抑えて、鶯丸は万感の想いを込めて大包平にこう言った。
    「お前は本当に面白いなぁ」
     納得してしまえば、理解は後から追い付いてくる。なぜ彼から目を離せなかったのか、なぜ彼について語ってしまうのか、なぜ彼を愚かだとも美しいとも思ったのか――大包平について鶯丸が思うことすべてが、ひとつの解に帰着しつつあった。それはまるで、数学的帰納法を用いた証明が、自然数の性質という普遍性の下に鮮やかな整合性を呈示してみせるのに似ていた――すなわち、それは単純に、万有引力によって引き合うかのごとく自然なことだったのである。

    「これでいいか」
    「ああ」
     駅前のスーパーで買い物を終えたふたりは、荷物をなるべく平等になるように分けていた。大包平の合理性、平等性はこうした場面でも自然と発揮されて、鶯丸はそれに気付くと少し愉快になる。ただ、鶯丸は大包平の持つ袋の方が缶ビールの本数が多いことにも気付いていて、それに些か思うところもあるのだが、「体格からして妥当だろう」と言い返されるのが分かっているので、何も言わず少々軽い方の袋を持つ。平等性とは均一性ではないし荷物は軽いに限る、と自分を納得させながら。
     久々の再会で確信した大包平の美しさは、共に暮らすようになっても鶯丸の中で覆ることはなかった。これには惚れた欲目という視点の不確実性が指摘されるかもしれないが、それに関しては鶯丸はこう言い返したい。「まぁ、細かいことは気にするな」
     観察において、冷徹な視点が欠かせないのは鶯丸も分かっている。しかし、鶯丸は大包平を科学的に解析したいわけではないのだ。馬鹿をやっているところも、ふとしたときの美しさも、ただ傍で見ていたいのである。隣に並んで、同じ家に帰るという特権と共に。
     ふふ、と思わず息を漏らして笑うと、大包平が怪訝な顔をした。
    「何だ」
    「いや、この間のお前が面白かったのを思い出してな」
     ふたりは駅前から家へ向かう途中の大通りを歩いていた。そこはやはり先日のように街灯とコンビニの灯りがあり、時折車が過ぎ去っていく、いつもの帰り道だった。
    「まさか、あんなに怒るとはなぁ」
    「当たり前だろう!」
     先日の鶯丸の“告白”に口をぱくぱくさせていた大包平は、鶯丸が数歩の距離を詰めた途端「もっと早く言え!!」と吠えた。あれは近所迷惑だっただろうなぁ、と鶯丸は笑う。目の前でその大声を聞いた自分は、しばらく耳が痛かったのだ。
     大包平の方は、せっかく想いを遂げたというのに、そのときの自分の間抜けさを思い出して口をへの字に曲げている。鶯丸にはそれすら愉快である。やはり、この男をからかうのは楽しくてたまらないのだ。
    「気付いていたなら言えばいいものを、観察するなど趣味の悪い......」
     大包平がぶつくさとこぼすのも、鶯丸は「いやぁ、ははは」と適当に往なす。大包平は、鶯丸が意地悪から黙っていたと思っているのだ。鶯丸はそれを敢えて否定しない。自分もまた、この幼馴染みと遠く離れるのを恐れて想いを口に出せなかったのだと本人に伝えるのは、やはり気恥ずかしかった。
    「まぁ、細かいことは気にするな」と誤魔化しながら、鶯丸はスーパーの袋を持つ手を替えた。聞き慣れた口癖に、鶯丸の横顔を斜め上から一瞥した大包平は、不服そうに鼻を鳴らした。
     車がふたりの横を通り過ぎた。やはり夜は静かで、ふたり以外は誰も歩いていなかった。鶯丸が袋を持ち替えたために空いた手を、大包平がそっと握った。
     体温の高い大きな手に、鶯丸は目を丸くして大包平の顔を見上げたが、大包平は既に顔を逸らしていた。しかし、夜の少ない明かりでも分かるほど耳が赤くなっていて、鶯丸は目を細めた。自分の顔も、熱くなっているのが分かっていた。

     鶯丸は、細かいことを気にしない男である。そんな彼にも細かくないと分類するものがある。それは言及し出せばあまりに多いため、ここではほとんど割愛するが、その中でも代表的なふたつが、彼が生涯の仕事としようと努める数学と、彼のこれまでの生涯の大部分を占めてきた年下の幼馴染みである。
     鶯丸は筋の通ったものが好きなのだ。だから真正で美しい数学を好む。そして、強情とも言えるほど変わらない本質を保ち続ける幼馴染みを愛するのである。
     ここで、頭の回転の早い諸兄らは、「人間に不変を求めるのは愚かではないか?」との疑問を持たれることだろう。「今は変わらないと感じていても、これからの不変を保証されているわけではないのだから」と。
     鶯丸はそれに対しての回答を既に用意している。彼はきっと、美しい微笑を崩さぬまま、冷徹に告げるだろう。ほら、大包平も言っているではないか。
    「馬鹿と言う方が馬鹿だ」
     恋に落ちた人間が愚かなのは当然のことであり、それを鬼の首を取ったかのようにあげつらうのは、それこそ愚かではないか? 重力によって林檎が落ちるように、人は恋に落ちてしまうものだ。鶯丸だって人類の叡智の一端たる数学を愛しているため、「人は皆愚かだ」などと言い切るつもりはないが、人生において一度も愚かであったことのない人間なんて、はたして存在するだろうか。
     それに、恋において矛盾点を突くなんて、些か野暮が過ぎるのではないか。鶯丸も筋の通った、論理的なものを好んでいるし、数学のように真正なものしかない言葉で事物を表現できればどれだけ楽だろうとは思う。しかし、数学はその正確さの代わりに、芳醇な揺らぎを取り落としたのだ。これは失うには惜しい。矛盾は時に、言葉にし難い味を生む。
     話が逸れてしまった。
     いや、愚かであることが良いことではないのは、鶯丸も分かっている。愚かにも恋に落ちたふたりは、互いを想い合ううちに、ずっと愚かではいられないことに気付くものだ。そうして多くの恋は、こんなはずではなかった、という言葉と共に終わる――。
     鶯丸としては、そのありふれた結末は回避して、もうひとつのよく語られる結末――めでたし、めでたし――に辿り着きたい。それに必要なものは何だろうか。鶯丸は「推測だが」と前置きした上で、こう答えるだろう。「良識と寛容」
     すなわち、自分を押し付け過ぎない良識と、相手を思いやる寛容を持った上で、互いは等しく愚かだと自惚れ合うのである。人間は感情を切り離せないが、ままならない心に振り回されながらも、理性でもってどうにか正しい道を選ぼうとする姿は、精緻な方程式やエレガントな証明に負けず劣らず美しいではないか。鶯丸は数学の美しさを愛するが、数学だけが美しいものではないこともよく知っている。なにせ、それを最も実感させてくれたのが、他でもない大包平なので。
     大包平に見る美しさを、鶯丸は正確に言い表すことはできないだろう。彼が彼らしくあろうとする様を鶯丸は美しいと思うのだが、やはり芳醇過ぎる言葉を選びきれずにいる。
     ここまで考えて、鶯丸の脳裏に白い友人の言葉がふと過った。彼は「明日詳しく聞かせてもらう」と言っていた。
     しかしなぁ、と鶯丸は小さく息を吐く。やはり、上手く語ることはできないだろう。子どもの頃のように、また手を繋いで帰るようになった幼馴染みとの顛末なんて、それこそ「重力みたいなものだ」の一言で十分である。
     溜め息を聞き逃さなかった大包平が、やっと鶯丸の方を向いた。それに思わず頬を緩めながら、鶯丸は「まぁいいか」と思い直す。
     鶯丸は多くを語らない。恋の成就する顛末はおしなべてありふれたものであり、自分たちにおける場合もまた、その例に漏れないことは自明だからである。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/07 22:40:42

    比喩としての数学的帰納法

    現パロです

    #大鶯 ##大鶯

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