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    正しくない夜

     覚えているかい、昔、海に行っただろう。僕が海へと走ったのにつられてお前も走り出したのはいいけれど、転んでしまって、その転んだところにちょうど波が来て、顔にざぶん、と。ふふ、すごい泣き方だったよね。うんうん、潮は沁みるしね。——僕は最近、子どもの頃のことばかり思い出すよ。当たり前だけど、お前との思い出ばかりだ。

     兄の言葉を、膝丸は手の中の湯呑みを傾けて聞いていた。兄が最近よく眠れないと言うので、少しでも長い夜の供をしようと、兄の部屋でふたりで話していたのだ。
     窓の外からは虫の声が聞こえる。うるさくはないが、静かすぎず、懐かしい話をするにはちょうど良かった。
    「鎌倉だったな」
    「そう、鎌倉の海だった。あとはお寺とかも行ったんだっけ……そっちはあまり、覚えていないな」
    「俺は覚えているぞ。あなたが飽きて、寺を勝手に出て行ったから、すわ誘拐かとちょっとした騒ぎになった」
    「ありゃ、そうだったかな」
     髭切がこうして笑うのは、誤魔化そうとしているときだと膝丸は知っていたから少し面白くない気分になるのだが、いつも何も言えずにいる。兄が笑顔で覆い隠してしまうものに踏み込んでいきたいと思うことはあっても、いつも弟という立場が膝丸に二の足を踏ませる。髭切がいつも、ふたりが生まれた家の跡継ぎとして相応しくあれと望まれたとおりの兄であるのと同じように、膝丸はどこまでも弟だった。
    「——ああ、思い出したよ。お前が泣く声が聞こえて、僕は戻ってきたんだ」
    「なぜそんなことは覚えているのだ」
    「ふふ、どうしてだろう。でもお前も大袈裟だよ。誘拐なんて言われるほど、僕は長い時間外してはいなかったはずだよ」
    「あなたにとってはそうかもしれないが、こちらはそうではなかった」
    「それで、お前は泣いてしまったと」
    「……意地の悪いことを言う」
     髭切がする思い出話の膝丸は大抵泣いている。兄がそういう自分ばかり覚えているのも、膝丸にとっては不満だった。膝丸の思い出す兄はどれだけ小さな頃であっても、目の前にいる姿と同じく、いつも柔らかな微笑をその口元にたたえている。
    「意地悪のつもりはないんだけど」
    「あなたは、俺をからかう材料しか覚えていないんじゃないか」
    「それは違うよ、僕はお前のことを覚えているだけだ」
     兄の何気ない言葉に胸が締め付けられるのを悟られないように、膝丸は厳めしい顔を崩さずにいる。兄が微笑で内心を隠してしまうように、膝丸もしかめ面で感情を晒さないようにするのが上手くなってしまった。
     いつから互いの想いを隠すようになったのか、膝丸は覚えていない。ただ、膝丸は兄の微笑にも言葉にも、指先にさえも心が動いてしまうから、それを兄に気付かれまいとするうちに、腹を割って話すこともできなくなってしまったらしい。兄はその弟の苦悩を知ってか知らずか、時折膝丸の心を大いに揺り動かしていく。膝丸はそれを、眉間に皺を寄せて兄に小言を言うことでやり過ごしている。
    「俺の話ばかりしていては奥方に愛想を尽かされるぞ」
     膝丸が呆れたように、溜め息とともにそう言ってみせたのに、髭切は「まだ奥さんじゃないよ」とだけ応える。
     この兄は、近く結婚する。膝丸はその日を、尊いものを思うような、死を思うような心地で待っている。
    「ねぇ、”波の下にも都のさぶろうぞ“って、何だったかな」
    「平家物語だ。壇ノ浦だな」
    「ああ、そうだ、そうだった。海か——僕も、もう一度お前と、海に行きたかったな」
     夢見るような兄の声色だけで、膝丸の内心はかき乱されて、苦しめられて、幼いときのように兄に泣きつきたくなる。髭切は膝丸がそんなことを思っているなんて知らないだろう。膝丸は髭切に、自分の胸の内を明かさないつもりでいる。兄弟であれば、一緒にいられずとも本当に離れることはないと、そう信じようとしているからよき弟であろうと自分に言い聞かせている。
    「さぁ、もういい時間だ。お前はそろそろおやすみ」
    「ああ、そうさせてもらおう。おやすみ、兄者」
    「おやすみ」
     この兄と共にいられなくなってしまえば、生きていることに意味などない。この暗い想いを、兄は知らなくていい。兄の微笑を見られなくなることを、膝丸は何より恐れた。

    「それで、想い人が結婚するのを君はみすみす見送ろうとしているわけか」
     鶯丸の上品な口元が、嘲りも憐れみも滲ませずに、ただ平坦に膝丸に事実を突きつけるので、膝丸は眉間に皺を寄せてコーヒーを一口含んだ。
     兄との共通の友人であるこの男は、人の話を赦さず裁かず、ただ聞く男だった。口角をわずかに上げたまま、静かに話を聞く伸びた背筋に惹かれて、誰にも言えないことをひとりごとのようにこぼしにくる人間が少なくないことを膝丸は知っている。何を隠そう、自分もそのひとりだった。
    「そうするのがいいのだ」
    「君が考える限りは、な」
     鶯丸は、膝丸が報われぬ恋をしているということしか知らない。その相手が誰なのか、もしかしたら察しているのかもしれないが、それを暴き立てることに興味はないらしかった。だからこうして喫茶店で、兄には決してできない話を聞いてもらっている。
    「君がそうするのが良いと思う根拠は、一体何なんだろうな」
     少なくとも君は幸福そうではなさそうだ、と鶯丸はちらりと膝丸を窺う。膝丸はその視線にも、しかめ面を崩さない。
    「根拠など並び立てずとも自明だ」
    「証明はできないわけか」
    「俺と一緒になるのは、正しくない」
    「そうか」
     短く応えると、鶯丸は黙って自分の茶を飲んだ。湯呑みに目を落とす鶯丸の姿が、昨晩、海に行きたかった、とこぼした兄の姿に被って見えて、膝丸はわずかに唇を噛んだ。兄はもうすぐ、膝丸のそばから離れていく。家の選んだ妻をもらって、子を作って、そうして生きていくのが兄にとっての最善だということを、膝丸の理性が導き出していた。この最善手は、文句なしに正しかった。
    「俺は結構長いこと君の話を聞いていると思うんだが」
     鶯丸が珍しく自分から膝丸に話をふったので、膝丸はその落ち着いた緑の目を見た。嫉妬は緑の目をした怪物で、というよく知られた言葉を思い出したが、目の前の男はその言葉からは程遠い。
    「その正しさが、君にとってどう大事なんだ?」
     兄に道ならぬ想いを抱いている自分の方が、よっぽど怪物らしかった。この怪物を御せなくなったときにはせめて兄に殺されたいとまで考えて、自分の想いの暗さを思い知るほど、正しさに縋りたくなった。正しさが、兄を自分から守ってくれることを膝丸は願った。
    「正しいものは、正しいだけで十分だろう。俺にとって大事かはそう重要ではない」
    「ふむ」
     鶯丸は背もたれへと上体を預けるのに任せて、視線を上げた。膝丸の言葉を反芻しているらしかった。
    「つまり、その正しさは、実は君にとって大事ではないわけだ」
     口元に持ってきていたコーヒーカップを止めて、膝丸は表情を変えないように意識して鶯丸を見た。鶯丸の顔は、憎らしいほどに整った微笑を浮かべたままだった。
    「君の一番大事なものは、何なのだろうな——まぁ、俺には関係ないが」
     それを聞いて、膝丸は自分のブラックコーヒーに口を付けた。飲み慣れているのに、やけに苦く感じた。

    「へぇ、鶯丸か。元気だったかい?」
     僕は随分会っていないな、と髭切が言うのに、膝丸は「彼は何も変わっていないぞ」とだけ応えた。今夜も眠れない兄に付き合って、兄の部屋で話していた。ただ、今日はふたりの間には酒があった。寝酒が良くないのは知っていたが、気晴らしにでもなればいいと、膝丸が用意したものだった。
    「うんうん、鶯丸だものね」
     頬を上気させた兄の笑う顔がいつもより幼い、無邪気なものに見えて、膝丸の頬も緩む。結婚が決まってから、ぼうっとどこかを見る横顔が思い詰めているように見えて、ずっと心配だった。兄が不安に押し潰されるような人でないことを知っていても、気にせずにはいられなかった。
    「ああ、学生のときは楽しかったね。遊びに行ったときに、鶯丸がひとりでどこかへ行ってしまって、お前は慌てていたっけ」
    「箱根に行ったときの話なら、鶯丸を見つけた後すぐあなたがいなくなって、それがまた大変だったのだがな」
    「ありゃ、そうだったかな」
     兄の酒器が空になったので、膝丸はそれに新しい酒を注ごうと瓶を手に取った。髭切はそれだけで、膝丸が何をしようとしているのかを理解して、注ぎやすいように酒器を向けた。瓶の中身は軽くなっていた。ふたりとも、自分が、そして相手がどれだけ飲めるかは知っていたから、この一本で今夜が終わるのをわかっていた。
    「お前はよく覚えているね」
    「それは」
     あなたのことだから、と滑りそうになった口を膝丸は一呼吸でつぐんだ。
    「大変だったからな」
     溜め息とともに代わりの言葉を漏らすと、髭切は声をあげて笑った。そうして新しく注がれた酒を一口飲んだ。酒器に視線を注ぐ目が潤んでいるのに唾を飲み込んで、膝丸も自分の酒器に目を移した。手の中にある淡い色の液体からどこか甘い匂いがするのを意識しながら、気づかれないように細く息を吐いた。
    「僕にも覚えていることはあるよ」
     兄の普段より少し舌足らずな声に、膝丸は顔を上げた。髭切は、潤んだ瞳で膝丸を真っ直ぐ見つめていた。
    「前にも言った、海に行ったときだ。お前が転んでしまって、泣き出して……海水でお前はもうずぶ濡れだったんだけど、近寄ってみると、どれが涙なのかは分かる気がしてね」
     髭切が酒器を置いて、静かに自分ににじり寄ってくる間も、膝丸は自分と揃いの色をした両目から目が離せなかった。髭切は左手を膝丸の胡座をかいた脚に置くと、残った右手で膝丸の頬に触れた。その指が、自分の頬と同じくらい熱いのに膝丸は息を飲んだ。
    「ここまで近くに寄ると、お前の目から涙がこぼれるのもよく見えたんだよ」
     熱い息が自分の喉元にかかるのも、親指が優しく目元を撫でるのも、兄の顔が近付いてくるのばかりに目を奪われていると、何が起こっているのかよく分からなかった。
    「昔は、こんなに近くにいられたのに」
     そう囁いた髭切の目が苦しげに細められたことでようやく、膝丸は弾かれたように兄の肩に腕を突っ張ると、近寄ってきた体を離した。突っぱねたときに勢い自分の体も下がって、脚に触れていた兄の手も離れていった。
    「だめだ、兄者、これは」
     心臓の音が耳の奥でうるさく響いていて、髭切の肩を掴んだままの両手が震えて仕方なかった。きっと痛みを伴うほど肩を強く掴んでいたのに、髭切はまったくの無表情で膝丸を見ていた。
    「これは、正しくない」
     そう絞り出すと、酒とは違う熱いものが喉を焼いていった。兄に縋って、泣きついてしまいたいのに、そうすることはできなかった。
     髭切は、膝丸の言葉を聞くと、立て膝の姿勢から静かに後ろへと下がった。見慣れた兄の顔が寂しげに歪むのを、膝丸は初めて見た。それでも、兄は微笑んでいた。
    「そうだね、お前は正しいよ」
     そう言った髭切の声が震えていたことが、膝丸の心を深く裂いた。

     その後は、逃げるように兄の部屋を後にして、自室にこもった。ひとりになると、兄の声が、息が、指が頭から離れず、ようやく涙がこぼれた。膝丸が信じた正しさは、髭切を傷つけた。それが苦しかった。
     どうにか眠って、目を覚ました朝に、恐る恐る居間に行くと、兄が出かけたことを母親が教えてくれて、膝丸は安堵の息を吐いた。兄と顔を合わせるのが、以前より恐ろしかった。

    「寝不足か」
     いつも話を聞いてもらうときに使っている喫茶店に、待ち合わせ時間から少し遅れてやって来た鶯丸は、膝丸の顔を見ると微笑を崩さないままそう言った。相変わらず、嘲りも憐れみもない声だった。
    「そんなに酷い顔をしているか」
    「まぁ、よく顔を合わせている人間が見ればな」
     言いながら、膝丸の向かいに鶯丸は音も立てずに座り、右手で頬杖をつくと少し目を細めた。
    「君の正しさは、君の大事なものを守ってくれたか?」
     何も言い返せずに、膝丸は目を伏せた。鶯丸はしばらく膝丸の顔を見ていたが、一度軽く息を吐くと、頬杖をやめていつものように背筋を伸ばした。
    「俺は、他人のやることに口出しなんかしたくないのだが、君には付き合いの長さのせいか、つい口が滑ってしまう」
     膝丸は目を伏せたまま、鶯丸が呆れたように話すのを聞いていた。鶯丸は何も赦さないし、裁かないが、それは自分の考えを持たないことではないのを、膝丸は知っていた。
    「君は何が正しいのか、よく分かっている。その正しさが、世間的に大事だということも——だが、君にとって一番大事なのは、その正しさではないんだろう」
     そこまで聞いて、膝丸は視線を上げた。鶯丸の顔は、潔癖なほどに完璧な微笑だった。
    「まぁ、何をどうするか、決めるのは君だが、他人が何て言うかなんて気にするな。世間より、正しさより、君が報いたい相手に報いるといい」
     完璧な微笑の中で、その目がわずかに細められたのを見取って、膝丸は長い息を吐いた。
    「すまない、面倒をかける」
    「気にするな。俺もやりたいようにやるだけさ」
     まったく揺るがない鶯丸に、膝丸は小さく笑った。こうして話を聞いてもらうのも最後だろうと思うと、そのしなやかな背筋が一層尊いものに見えた。
    「……俺は、君に話すことで懺悔したかったのだろう」
     そうこぼすと、鶯丸は珍しく目を丸くした。
    「おかしなことを言う。君が赦しを乞いたいのは俺ではないだろうに」
    「その通りだ」
     笑ってみせると、鶯丸も頬を緩めた。その微笑は、いつもより柔らかく見えた。


     今日も眠れなさそうだな、と髭切は自室で小さく溜め息を吐いた。自室でどれだけ溜め息を吐いても誰に見咎められるものでもなかったが、大仰にすることはできなかった。
     近頃眠れないという髭切を慮って、膝丸は時々夜に話し相手をしてくれていた。兄を思いやって弟がそうしてくれているのを髭切は知っていたが、眠れない理由がお前なのだと告げることはできなかった。膝丸が自分を思いやってくれるのも、昔話に付き合ってくれるのも、髭切にはどうしようもないほどの歓びだった。
     この家の長男に生まれた以上、いつか結婚して家を継がなければならないのは分かっていた。それを当然のことと思う頭がある一方で、髭切の心はいつも膝丸の許にあった。ただ、兄弟に対してそう思うことが“正しくない”ことなのも髭切はよく分かっていたから、弟にその胸の内を打ち明けることはなかった。正しさを全うすることは、おそらく膝丸をあらゆる害悪から守ってくれるだろう。生真面目すぎるところがあるから、膝丸は真っ直ぐに生きるのがいい。自分の思いが、膝丸から正しさを奪ってしまうのを、髭切は恐れた。
     そう考えてよき兄弟であり続けてきたというのに、いざ結婚が決まると、膝丸と共にいられなくなることに髭切の精神は思った以上に蝕まれていったらしい。以前より眠れなくなって、夜の長さと深さを知ると、自分の弟への想いがいつか抑えられなくなるのではないかという予感が、実感を伴って近づいてきた。眠れないという髭切を思って、昔話に付き合ってくれる膝丸が笑ったり、眉をひそめたりするのを、髭切は泣き出したくなるような気分で見ていた。きっと兄弟でいる限り、弟と本当に離れ離れになることはないのだろう。しかし、髭切が欲しかった“一緒にいる”というのは、そういうことではなかった。
     あの夜、弟が持ってきてくれた酒が髭切の自制心を緩めてしまった。あのとき、自分と同じ色の目で自分を見ていた膝丸の、自分とよく似た形の唇に本当は触れたかった。しかし、自分を突き放した弟の正しさも、髭切はよく分かっていた。ただ、その正しさが自分と弟を引き離すのだと思うと、それが弟を守ってくれるものと分かっていても、憎くて仕方がなかった。
     あれから髭切と膝丸は極力顔を合わせないようにして暮らしている。もう以前の兄弟には戻れないと思うと苦しくもなったが、正しい兄弟であろうとしていた頃の苦しみを思えば、何も変わっていないようにも思えた。この苦しみに出口はない。目眩を覚えるような気分にもなったが、この苦しみが膝丸を想うためにあるなら、抱え続けるしかなかった。
     今夜も、髭切は自室の外を通り過ぎていく足音で膝丸の帰宅を知った。ここ最近、ずっと帰りが遅い日が続いている。聞き慣れた車のエンジン音も、とっぷりと夜が更けてから聞こえてくるから、自分と顔を合わさないように仕事を詰め込んでいるのかもしれなかった。それを当然だろうと思う一方、体を壊してしまわないかが心配だった。
     やっぱり眠くならないな、と思いながら、時計の針が二時を指すのを見たとき、戸の向こうから聞き慣れた、落ち着いた声で「兄者」と呼びかけるのが聞こえてきて髭切は固まった。
    「起きているか」
    「……うん」
    「……開けてもいいだろうか」
    「……うん、いいよ」
     膝丸は静かに、音を立てないように戸を開けた。その静かな顔を見ながら、髭切は体ごと弟に向き直った。
    「どうしたんだい? こんな時間に」
     夜の早い両親は、もう寝入ってしまっているだろう。きっとこの家で、今起きているのは、自分と弟だけだ。
     膝丸は小さく口を開けると、思い詰めたように一度閉じ、頬を強張らせて話し出した。
    「眠れないのだろう。外の空気を吸いに行かないか」
    「気を遣ってもらっているのは嬉しいんだけど、お前はいいのかい? 明日も仕事だろう」
    「俺は、明日は仕事がないのだ」
     膝丸は髭切から目を逸らさなかったので、髭切もじっと膝丸を見つめた。膝丸の目からは、何も読みとれなかった。
    「——じゃあ、行こうかな」
     髭切がそう言うのを聞いて、膝丸が小さく息を吐いたのは見て取れた。
    「車を出すが、いいか」
    「えっ、どこまで行くんだい」
    「鎌倉だ」
     落ち着いた声のまま突拍子もないことを言い出したのに、髭切は目を丸くした。膝丸はその髭切を真っ直ぐに見たまま、重ねて言った。
    「鎌倉の海へ行こう、兄者」

     ふたりは黙ったまま、膝丸が運転する車に揺られていった。一時間ほど経った後、膝丸は道路の端に車を寄せて、止めた。夜明けはまだ遠く、外灯がまばらに辺りを照らすだけで、周りはよく見えなかった。それでも、ドアを開けると潮の匂いが流れ込んできて、そこに海があるのだとわかった。潮の匂いと波音が、暗い夜の下に黒い海があるのを教えてくれた。
    「あそこから降りられそうだ」
     膝丸が歩いていく後について、髭切も海岸へと降りた。小さな石が敷き詰められた感触が、歩く度に靴の底を通して伝わってきた。
    「……何も見えないな」
    「そうだね」
     不安定な波音が規則的に聞こえてくる中で、ふたりはじっと、黒い海を見ていた。遠くで灯台の光に合わせて、ちらちらと波が光るのを見るうち、わずかな光にも目が慣れて、自分たちの傍はぼんやりと見えるようになった。
    「……ありがとう」
     髭切は足許に目を落として呟いた。それでも、隣にいた膝丸が髭切の方を向くのはわかった。
    「僕が前に、海に行きたいと言ったから、連れてきてくれたんだろう」
     暗くてよかった、と思っていた。明るければきっと、表情を取り繕うのに必死で、本当に言いたいことを言えなかっただろう。微笑を貼り付けるのももう限界だと、自分でわかっていた。
    「もういいよ、膝丸。お前は、僕のために無理をしなくていい。帰れば、僕も“正しく”暮らしていけるだろうから——」
    「兄者」
     遮るような声に、髭切は膝丸の顔を見た。わずかな光でも、膝丸の目がこちらを見ているのがわかった。
    「俺は帰らない」
     冷たく思えるほど落ち着いた声だった。波音ばかりの中で、灯台の光のように真っ直ぐ、その声は髭切に届いた。
    「あなたが、誰かのものになるのは堪えられない。俺はあなたの傍に、ずっといたい——それが、正しくなくとも」
     膝丸の顔が歪むのを見て、髭切は懐かしい気持ちになった。その顔を、よく知っていた。眉をひそめて、頬を強張らせたその顔は、弟が泣き出す寸前の顔だった。
    「あなたといられるのなら、俺は正しくなくていい」
     そうしてぽろりと、星が尾を引いて流れ落ちるように、涙がこぼれ出た。その頬を、髭切は思わず両手で包んだ。涙はその間も次々こぼれ出て、髭切の手を濡らしていった。
    「——僕もだ」
     膝丸は、右手で兄の温かい手を掴んで頬擦りすると、左腕でその背中を抱き寄せた。
    「僕も、お前がいればいい」
     隙間を埋めるように抱き合うと、服越しに互いの体温がわかって、髭切の目からも涙が落ちていった。必要なのは、互いの存在だけだった。ふたりとも、これがずっと欲しかったのだと、実際に熱に触れて、体に馴染むのを感じると、ようやく腑に落ちた。その熱を知ってしまえば、もう手放す気はなかった。
     嗚咽が潮騒にまぎれる暗い夜の下で、ふたりは抱き合っていた。腕の中の体温から離れたくなかった。だから背中に回した腕を緩めないようにしたまま、膝丸は髭切に囁いた。
    「行こう、兄者」
    「ああ……でも、どこへ行こうか」
    「どこへでも」
     そのまま顔を見合わせたときに、髭切の頬に光を跳ね返すものがあるのに気づいて、膝丸はそれに唇を寄せた。髭切は膝丸のその行動に、ふ、と息を漏らして、首に回した腕でさらに自分の方へ引き寄せた。唇についた髭切の涙が潮の味がするのを感じながら、膝丸の右手は柔らかい髪を掴むように撫でた。
    「あなたとなら、どこへでも」
     それこそ波の下でも、と迷いなく言い放つ膝丸に、髭切は歓びを噛みしめながら笑った。ふたりは涙を流しながら微笑み合って、それが互いにしかわからない夜の暗さに感謝した。
    「そうだね、お前がいれば、どこだって」
    「そうだ、だから、あなたがいなければだめだ」
     膝丸の甘えた声に胸の内が踊るのを感じると、髭切の目からはまた新しい涙がこぼれ落ちた。膝丸はそれにまた唇を寄せた後、自分のものとよく似た形の唇に、噛みつくように口付けた。
     夜が明けるまではまだ時間があり、正しくないふたりがその影にまぎれて去るのに十分だった。夜の海の底知れなさはふたりを隠して、ただ波音だけを響かせた。ふたりはもう、正しさの外にいた。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/07 12:41:01

    正しくない夜

    現パロ
    結婚を控えた兄とそれを見送ろうとする弟

    #膝髭 ##膝髭

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