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    白露小品甘い水見えぬものども触れる歯直心不在の春満腹甘い水(2016/10/01膝髭ツードロ・ツーライお題「収穫祭」で書いたものです)



     午後、窓からささやかに吹き込んでいた風が止んでしまった。窓際で本を読んでいた髭切はほんの少しの蒸し暑さを覚えて、文机に預けていた右腕を動かしたとき、日差しがその腕にかかろうとしているのに気が付いた。夏はもはや過ぎ去り、かつての茹だるような暑さを感じることはなかったが、涼しいとまで言えるのはやはり朝か、日が落ちきってからで、今日のようによく晴れた昼間はまだ暑いと思うこともあった。風に当たっていればその暑さを覚えずに済むから、こうして窓際の文机に寄りかかって本を読んでいたのに、風のない屋内は袖に覆われた髭切の腕や襟元に、ほんの少しの湿り気を覚えさせていた。
     肌に纏わりつこうとする布地に本を読む気が削がれてしまって、髭切は読んでいた本を文机に伏せると窓の外に目をやった。開けっ放しの窓からはやはり風は吹いてこなかったが、微かに煙の匂いがした。落ち葉でも焼いているのかな、と考えながらもそれをわざわざ確かめる気にはなれず、髭切は伸びをすると、凝り固まっていた肩と背中をほぐした。
     髭切と、弟の膝丸に与えられた部屋は本丸の二階にあり、その窓からは本丸の畑と、その向こうの山並みが見える。しかし、今のように座っていると収穫を待つ畑を見ることは叶わず、ただ遠くに並ぶ山々が赤や黄色に染まりつつあるのが見えるだけだ。あとは、夏とは違う澄んだ色で、空が山の上に広がっている。窓枠に切り取られた、ありふれた絵画のようなその景色を、髭切が後ろ手に体重を預けて見つめていたときだった。
    「兄者、いるか」
     弟が、廊下の向こうからやって来る気配がした。いるか、と聞きながらも結局この部屋を覗いていくのを髭切は知っていたから、返事はせずに弟の足音を聞く。ばたばたと空気を揺らすような音は立てず、ただ廊下を軋ませる音が、だんだん近づいてきている。あの見慣れた、重心を徒に動かさない滑らかな歩行が思い浮かんで、髭切は少し笑いながら、弟が覗き込むだろう部屋の引き戸を見やった。
    「兄者、……いるなら返事くらいしてくれ」
     髭切を見つけた膝丸は、なぜだかばつが悪そうな顔をしてそう言いながら室内に上がると、部屋の中心に置かれた座卓に右手に持っていた白い丸鉢を置いた。髭切は這うような格好で座卓まで移動して、その丸鉢の中身を覗き込んだ。
    「何だい、これ」
    「無花果だ」
     応えながら腰を下ろす膝丸を横目でちらと見たあと、髭切はもう一度丸鉢の中に視線を落とす。髭切や膝丸の片手よりは少し大きいくらいの丸鉢には、四つの無花果が入っていた。
    「今日の八つ時はこれかい?」
    「まぁそうなるな。下では左文字の兄弟が柿を食べているが……今日は、収穫祭なのだそうだ」
    「しゅうかくさい」
     そのまま繰り返す髭切に、膝丸はつりあがった眉を少し緩める。
    「秋は実りの季節だから、その実りを祝って様々なものを美味しく食そうということだと燭台切が言っていた……が、実のところは宴会の口実だろうな」
    「なるほど、口実は多いにこしたことはないしね」
    「ああ、そういうことだろう。今日は八つ時も、皆好きなものを食べているらしい。庭では陸奥守が落ち葉で芋を焼いている。粟田口の短刀たちは、それを待っているようだ」
     煙の匂いの正体を知って、髭切は、ああ、と感心したような声をあげる。膝丸は丸鉢からひとつ、無花果を取り出すと、それを掌の中で回すように遊ばせたあと、皮を剥きだした。
    「今日の夕飯は広間ではなく、庭で肉や野菜を焼いて食べるのだそうだ。厨は今その用意に忙しいようだが、歌仙がこれを分けてくれた。食べ終わったら手伝ってくれ、とも言われたがな」
     話を聞きながらも、髭切は膝丸の手から目を離せなかった。自分と同じ形の、珊瑚にも似た色をした親指の爪が無花果のヘタのところに突き立てられ、するりと深い赤紫の皮を剥いていく。するとその中には、ほのかに赤みを帯びた乳白色の、てらてらと濡れた果肉が現れた。果汁は、膝丸の指も濡らしていった。
     皮をすべて剥き終わった膝丸は、無言で微笑と共に、その無花果を髭切に差し出した。髭切はそれを受け取るとき、膝丸の手の、親指の付け根の丸い肉が柔らかく光を返しているのに気が付いた。瑞々しい、生きている肉が薄い皮膚の下にある証だった。
     無花果を受け取った自分の手にも、同じような艶があるのに髭切は目を瞬かせたが、膝丸は兄が無花果に釘付けになっているものと思ったらしい。声を立てないように小さく笑いながら、自分の分の無花果を剥き始めた。
     髭切はまた、器用に動く弟の指に見とれた。注意して見つめていると、指が曲がったり皮をつまんだりするのに合わせて、関節が浮いたり、筋が動いたりするのが見えた。その向こうで、呼吸に合わせて膝丸の胸もわずかに動いている。
     ああ、弟の体は生きているのだ、と妙な感慨が髭切の胸に満ちていった。そして同じく、自分の体も生きているのだと、髭切は同時に理解した。生きている体は、食わねばならない。身の内の血潮を、それを満たす熱を持つために、他からそれを奪わなければ生きていけない。だからきっと、人間は実りを、その収穫を祝わずにはいられなかったのだと、髭切はひとり腑に落ちた思いで手に持ったままの白く丸い果肉に目を落とした。
    「食べないのか?」
     膝丸も皮を剥き終わった無花果を手に、目を丸くして髭切を見た。髭切はその弟に微笑みかけて、「いただくよ」と言うと、膝丸は目を細めて「ああ」とだけ返した。ふたり同時に果肉に齧り付けば、口内に芳しい匂いと共に、甘い水が広がった。柔らかい果肉は、噛むほどその甘い水で口を潤したが、飲み込むと舌にはほんの少しのえぐみが残った。
     歯形にへこんだ果肉は、赤く柔らかな内側を髭切の目に晒していた。それをしばらく見つめたあと、髭切はもう一度、その柔らかな果肉に歯を立てた。やはり甘い水は舌の上に少しのえぐみを残して、喉を滑り落ちていった。
     もう一口、噛り付いて、果肉から口を離したとき、髭切の唇の端から果汁が垂れた。顎まで落ちようとしたそれに、あ、と声をあげる暇もなく、膝丸の人差し指がその雫を掬い取った。
     それに少し驚いて膝丸に目をやると、膝丸も自分の行動に驚いたらしい。髭切の口の端に人差し指を当てたまま、目を丸くして固まっていた。髭切はその弟の顔を見るとなぜだか愉快な気分になって、その口許に添えられたままの指をくわえた。
     膝丸は兄の突然の行動に、丸く開いた目をますます大きく見開いたが、咄嗟に何も言うことができず、兄の温かく湿った口内で、自分の指が優しく吸われるのを感じていた。膝丸がようやく、兄者、と声をかけようとしたとき、髭切は膝丸の指を舌で一撫でし、解放した。
     膝丸は、口を挟ませる間も与えず自分の指で遊んだ兄を恨めしそうに睨んだが、髭切はその弟の頬が赤くなっているのに満足気に目を細めた。そうして上唇を舌で撫でると、手の中に少しだけ残った無花果を見ながら「これは美味しいね」と嘯いてみせた。
    見えぬものども


     規則的な振動が近づき、遠ざかっていく。それに合わせて、ばたばた、どたどた、異なる形容の似合いそうな音が近づいては遠ざかっていく。その音を立てている体の重さの違いが、振動の大きさと音の違いを生んでいるらしい。床に横たわる髭切は全身でその振動を受け、頭の後ろから直接音を聞くような心地で、忙しく手入れ部屋や厨を出入りしているのだろうその足音の主たちの動きを感じていた。音とは振動なのだと教えてくれたのは誰だったか、名前は思い出せなかったが、現に髭切は足音を感じて、その言葉は正しいのだと実感していた。
     手入れを待つ身は暇なものだ。髭切の怪我は体に負ったもの自体は重くなかったが、両目に負ったがために部隊を撤退させることとなった。鶴丸に肩を支えられながら、すまないね、とこぼすと別の方向から、なんちゃあない、と明るい初期刀の声が返ってきて、顔は見えないのにその響きだけで、よく日に焼けた人好きのする笑顔が浮かんだ。しかし一方で、その声がどこか固いものであるようにも聞こえて、部隊を任されている彼の戦場での緊張を一層深く感じた。不思議なものだ。視界を奪われる不便は時に、普段知り得ぬものを知らせるらしい。
     髭切が手入れの順番を待っている部屋の外が慌ただしい理由は知っていた。札を使ったり部隊の人員を入れ替えたりしながら、再度出陣するためだ。ただし髭切は疲労もあって今日のところは放免されており、そのため手入れ部屋の順番も後回しとなっている。先に入った短刀の手入れが終われば自分の番だと説明を受けていた。
     短刀の手入れにはあまり時間がかからないとは聞いていたが、もうどれだけ時間がたっただろうか。この部屋で髭切の戦装束を解き、体の汚れを軽く拭ってくれたのは非番だった弟の膝丸で、彼は止血の処置を施すと「道具を片付けてくる」と言って一旦退室した。髭切に聞こえたのは、戸を閉める音が喧しくならないよう丁寧に動かした弟の几帳面さと、それをさらに裏付けるような静かさで遠ざかっていった足音だ。摺り足で歩いているわけではなかったようだが、重心をぶらさずに歩くために大きな足音も立たないらしい。最もそれは戦うために顕現した刀剣たちの多くが持っている特徴でもあったが、廊下をわずかに軋ませるだけの弟の足音は、普段よく見ている真っ直ぐな背筋と、滑らかな体重移動を容易に思い起こさせて、髭切は見えぬ目でその足音が向かった先を追った。
     弟が去ってから、どれくらいの時間が経ったのだろう。髭切にわかるのは、目を覆っている布から消毒液の匂いがわからなくなってしまったこと、相変わらず廊下を通り過ぎていく気配の様々なことだった。普段時間を知ろうと細かく意識したことはなかったが、時間を知るために自分は目をよく使っていたらしい。そうやって、どうも今日は思うことの多い日だな、と考えたときだった。
     廊下から、覚えのある足音が伝わってきた。滑らかな体重移動のために足音は小さく、大股で歩くために振動の間隔が広い。思わず、口角が上がった。こういうことでも自分の弟がわかるのだ。それがなんだか、面白かった。
    「兄者、あと少しで厚の手入れが終わるぞ」
    「そうか。もう部隊は出陣したかい?」
    「ああ、今見送ってきたのだ。これからしばらくは、誰も走り回らずに済むだろう」
     言いながら、膝丸が息を吐いた。やはり戸は静かに閉められ、床の揺れ方から自分の肩の隣に腰を下ろしたのがわかった。だから髭切は、膝丸の顔があるだろう場所に顔を向けて、「体を起こしてくれ」と片腕を浮かせた。
     膝丸はすぐその腕を取ると、片手でその髭切の手を握ったまま、もう片方の手で髭切の肩に触れた。
    「腕を回すぞ」
    「うん」
     髭切が体を捩るのに合わせて、膝丸は髭切の肩を抱く。そうして髭切が上体を起こすのを手伝うと、最初に掴んだ手はそのままに、肩に回した腕は下げた。
     体を起こしてしまえば、弟の顔は自分とほぼ同じ高さにあるのを髭切は知っていたから、顔を向けるだけで良かった。膝丸は髭切の手を離さないままだ。触れ合っている手が温かかった。
    「足音にも性格って出るんだね」
    「うるさかったか」
    「そういうわけじゃないよ。おもしろいなと思ってね」
     そうか、と応える弟の声は静かだ。いつもなら気にしない静けさだが、今日は看過できなかった。普段なら、握った手を髭切の膝の上に戻すだろうに今日は握ったままで、たまたま今日は髭切がこういう些細なことによく気がつく日だったからだ。
    「大丈夫だよ、手入れ部屋に入れば直るのだから」
     普段と同じ調子を心掛けたが、弟は動揺したらしい。触れた手が強ばるのがわかった。
    「そんなに心配しないでおくれ。傷自体は深くないんだ」
    「ああ」
     弟の顔が目に浮かぶようだった。こうして短い返事にも声を震わせているときは、髭切の顔を見ないで、眉根を寄せて俯くのだ。膝丸が何度か、深く呼吸するのが聞こえた。自分をなだめようとしているのだろう。
    「......頭は、怪我をすると、血の量が多いだろう」
    「そうだね」
     ゆっくり話す間にも、膝丸は髭切の手にもう一方の手を乗せて、包み込むように、しかししっかりと握り込んだ。髭切はその手が熱いのと、弟の呼吸が落ち着かないのを感じながら、無言で続きを待つ。
    「帰ってきたあなたを見たとき、ぞっとした。装束が、血で染まっていたから」
    「ああ、白いと目立つからね」
     自分に肩を貸してくれた彼なら、鶴らしいと笑うだろうか。髭切も笑ってしまいたかったが、隣で俯いているだろう弟を思うと、声をあげることはできなかった。強く握り込んでいるはずの両手が、微かに震えていた。
    「情けない弟ですまない。しかし、兄者」
     どうかいなくならないでくれ、という言葉は小さく不明瞭だったが、今日の髭切には十分な声量だった。おそらく涙を堪えているだろう弟にどう言葉をかければいいのかわからず、髭切は自分の手を強く握る膝丸の手に自分のもう片方の手を乗せると、あやすように軽く何度か叩いてみせた。
    触れる歯


     自分の首筋に、膝丸の熱い息が滑っていくのを感じながら、髭切は思案していた。この弟は、髭切の首に顔を寄せるとき、唇で太い筋を撫で、喉仏に口付けていく。それに文句があるのではない。好きにすればいい、それを自分は赦している。思案していたのは、その動きについてだ。
     たまに、歯が触れる。その固い感触に、皮膚を通して髭切も気づいていた。そして、そういうとき、膝丸が戸惑うように息を詰めることも。
     思案の対象は、これだ。つまり。
    「噛みたいなら、噛めばいいのにね」
    「......俺は何を聞かされているんだい?」
     仲間の性事情なんて知りたくなかったぜ、と俯く鶴丸を横目で見ながら、髭切は饅頭を食べている。縁側でぼうっと庭を眺めていた髭切に、茶と饅頭を持ってきてくれたのは鶴丸だった。それだけでなく、饅頭に食いつかず指で回して遊んでいる髭切の様子を見て「悩みがあるなら聞くぜ」と親切に申し出てくれたので、髭切は昨晩考えていたことを思い出したのだ。
    「君が、些細なことでも話せば楽になるぞって言うから」
    「あー、うん、すまなかった」
     鶴丸は乱暴に頭を掻いた。掻いたあと、恨めしそうに髭切をじろっと睨んだ。
    「しかし、そういうことを俺に喋ったと膝丸が知ったら、あいつは頓死しやしないか」
    「いや、そんなに弱々しくないけど......でもまあ、もし死ぬなら君を道連れにはするだろうね」
    「なんてことを話してくれたんだ、きみは」
     饅頭を頬張りながら飄々と話す髭切に、鶴丸は口許を引きつらせた。この兄弟が揃って顕現したとき、ブラコンを拗らせまくった弟と、それを笑顔で時に受け流し時に受け入れる兄を見て、面倒臭いことになりそうだから深く首を突っ込まないようにしようと即断したのに、なぜ今日に限って気まぐれをおこしたのか。数分前の自分のお人好しを鶴丸は深く後悔していた。
    「まあまあ、バレなければいいんでしょ。大丈夫だよ」
    「俺は決して自分から修羅場を形成したりはしないがな、きみが心配なんだ」
     鶴丸は両手で顔を覆うように頭を抱えてしまった。それを、ありゃ、などと言いながら髭切は見る。饅頭を飲み込んだ口の中に、熱いほうじ茶はちょうど良かった。
    「いやぁ、秋は食べ物が美味しいね」
    「きみ、まったく困ってないだろう!」
     え? と目を丸くする髭切に、鶴丸は「あ゛ーー!!」と声をあげた。それも髭切は、おお、と感心したような声を漏らして見守る。鶴丸は再度頭を抱えていたが、ふと顔を上げるとまったくの無表情で髭切の方を向いた。つられて髭切も真剣な顔になる。
    「わかった、髭切。きみのその些細な悩みはすぐ解決する」
    「どういうことだい?」
    「どだい悩むのが馬鹿らしいような悩みだ。色は思案の外ともいうし、案ずるより産むが易しという言葉もある。そもそもきみの弟はきみに関しては既に常識が吹っ飛んでいるようなものだし、きみたちふたりともよく考えているようでいて手が出る方が早い質だろう」
    「いやぁ、照れるね」
    「誉めてないぞ。しかし、きみたちの悩みはそもそも俺が横槍を入れたところでどうにもならん」
    「太刀なのに槍なのかい?」
    「小狐丸のようなことを言うな。どうせ膝丸はきみのことしか考えていないんだ、きみの悩みは俺なんかに聞かせるより弟に直接話した方が解決が早いだろう」
    「なるほどね」
     うんうん頷く髭切を見て、こいつ絶対よくわかってない、と思いながらも、鶴丸は何も言わなかった。これ以上、藪をつついて蛇を出すのはごめんだ。ここで出てくる蛇は確実に鶴丸の息の根を止めに来る。締め上げられるのは嫌だった。
    「そもそも、昨日そう思ったときに言ってしまえば良かったんじゃないか」
     しかしぽろりとこぼれ出た言葉に、髭切が珍しく赤面する。
    「いや、もうそのあとは、よくわからなくなっちゃって」
    「あ、もういい、それ以上言わなくていい」
     とりあえず俺よりも膝丸に相談しろ、と言い残して鶴丸は去っていった。その後ろ姿を見送ったあと、髭切は残された饅頭を見つめて、これも食べてしまっていいのかな、と首を傾げた。


    「鶴丸国永は不思議な刀だな、兄者」
    「おや、そうなのかい?」
     それぞれの仕事を終え、食事も湯浴みも済ませてあとは寝るだけとなった兄弟は自分たちの部屋に布団を敷いていた。掛布団を置いた膝丸が思い出したように話し出したので、髭切も枕を整えていた手を止めた。
    「ああ、明日からしばらく非番だったのを、長期遠征に変えてもらったらしい。予定が崩れる、と長谷部が愚痴っていたが、彼はあんなに仕事好きだっただろうか」
    「うーん、どうだろうね。旅でもしたかったのかな」
    「ああ、なるほど。彼は驚きが好きだからな。旅先に何かあるのかもしれぬな」
     さすがは兄者だ、と笑う弟の顔を見て、そういえば昼間鶴丸が何か言っていたな、と髭切は思案した。しかし何の話をしていたのか思い出せず、首を傾げる。
    「どうした、兄者」
     膝丸は目敏くそうした様子に気づいて、髭切の傍に寄るとそっと手を握った。髭切は手を握って自分を心配そうに見つめる弟の顔を、じっと見つめた。この弟に関することだった気がする。
     ふたりはしばらく無言で向き合った。手を取り合い、互いを見つめ合って動かない様子は異様なものだったが、ふたりには互いしか見えていないから問題なかった。
     それでも沈黙に堪えられなくなったのは膝丸で、少し考えるように唇を動かして、兄者、と呼び掛けようとしたときだった。
    「あ、そうだ、歯だ」
    「は?」
     膝丸の唇から覗いた歯に昼間のやりとりを、そして昨晩の儚い思案を思い出して、合点のいったことに髭切は顔をほころばせた。その笑顔の理由がわからない膝丸は首を傾げたが、兄者が笑っているならいいか、と思考を早々に放棄しようとしたときだった。
    「そうだそうだ、ねぇ噛み丸、噛みたいなら僕を噛んでもいいんだよ」
    「な!?」
     名前を訂正することも忘れて、膝丸は固まった。みるみる白い顔が赤く染まっていくのに髭切は、おお、と感嘆の声をあげる。
    「あああ兄者、なんだその、噛むというのは」
    「いやぁ、お前いつも迷っているだろう。それを昨日考えていてね、言うのは忘れていたんだけど」
     顔を赤くした膝丸は、しかし髭切から目を逸らさなかった。上気したのにつられて涙ぐんだ目で、同じ色をした髭切の目を見ている。
    「あなたを噛むなど、俺はとても」
    「そうなのかい? でも、こっちは歯が当たる度じれったいんだよ」
     髭切の言葉に、うう、と呻きながらも、膝丸はまだ髭切の目を見ている。その濡れた目が、困っているのとはどこか違う色を帯びてきていることに髭切は気づいていた。
    「僕は別に、噛みたいなら噛めばいいと思っているんだけど」
     だめ押しでそう告げると、膝丸の目は明確に懇願するものに変わった。この弟が、こうして赦しを乞うような目をするのは自分に対してだけだと髭切は知っていたから、昼間鶴丸が言っていたのはこういうことか、とひとり納得して頷いた。
     その頷きを、無言の懇願への許容と受け取って、膝丸は下げていた眉を普段のようにつり上げた。そうして居住まいを正すと、改めて髭切に顔を寄せた。
    「では、失礼する」
    「うんうん」
     とりあえず適当に応対した髭切は、自分の肩を掴んで固定した膝丸が正面から首に顔を寄せるのを、後ろ手に自分の体を支えながら感じていた。首には昨晩と同じく熱い息が滑っていき、太い血管の通った部分に唇が押し当てられたかと思うとそれは一度離れ、喉仏に歯が立てられた。その固い感触に少し息を飲んだが、その触れ方は肌の感触を確かめながら柔らかくくわえているようなものだったから、その弟の優しさがくすぐったくて、髭切は喉を鳴らして笑った。
    直心(現パロです)



     朝早くに学校へと来たのは、単に目が覚めたのが早かったからで、弓道場へと寄ろうと思ったのも気まぐれだった。毎朝自分より早く登校する弟が毎週曜日を決めて、誰もいない弓道場を独占しているのを知っていたからだ。
     髭切と膝丸の通う学校は小高い山の上に建っていて、剣道場と柔道場を兼ね備えた武道館や弓道場などは、校舎とは別に少し低い位置に建てられていた。傾斜があった方が矢が見当違いなところへ飛んでしまったときに事故が起こりにくくて良いのだろう、とはその弓道場をほぼ毎日使用している弟の言だ。実際、新入部員が的のある安土ではなく、その向こうの林へと矢を飛ばしてしまうことが時々あるらしい。
     生徒が口々に上るのが面倒くさいとこぼす敷地内の傾斜は、弓道部の安全上の理由だけでなく、密かに髭切にも恩恵をもたらしている。校舎へ向かう坂道からは、弓道場をよく見下ろすことができるから、射場に立つ部員をよく観察することができた。だからこうして誰もいない射場で、ひとりで的に差し向かう膝丸を髭切はフェンスにもたれながら見守ることができている。
     的には既に三本、矢が刺さっていた。その三本が的の中心のやや下に固まっているのを見て、弟の調子が良いことを悟ると、髭切も息を潜めながら最後の矢を番える弟を見つめる。静かな顔だ。集中しているときの、冷たく感じるほど張り詰めた、しかし懐の深い空気が漂っていた。
     矢を番えた膝丸は、弓懸をつけた右手を一度腰に当てると、おもむろに弦に右手を掛けた。そうして、視線は決して揺らさずに、顔を的へと向ける。膝丸が弓を引くときの、呼吸も読めないほど静かな横顔を、髭切はとても気に入っている。
     両手で弓を掲げると、左腕が滑らかに、矢に沿って滑るように弓を引きだした。弓を握る左手と弦を引く右手が、しっかりと地を捉えた下半身に支えられて、釣り合いを崩さぬまま弓を引き絞っていく。早朝の冷えた空気には、弦を絞るきりきりという音は心地よかった。その弦と共に緊張を引き絞る動作は、膝丸の左肘、両肩、そして右肘を結んだ線と矢が美しい平行を描いたところで安らかに止まる。膝丸の周りの空気は張り詰めたまま、しかしそれが当たり前であるかのように静止した。ちょうど上唇を隠すように頬に触れている矢の、その上にある目は清らかで深い静けさをたたえてはいるが、他を認めない頑なさで的を見据えている。
     その膝丸の目に、自分に触れようとするときと同じく、純粋さとある種の獰猛さを隠した志向性があるのを認めると、髭切の胸は震えた。そして、今は的に注がれている、あの厳かで張り詰めた視線を正面から捉えることができるのは自分だけなのだ、と思うとたまらず喉から細い息が漏れ出た。
     そのとき、数秒の静止から矢は放たれて、吸い込まれるように安土へと向かった。軽い破裂音を聞けば的中はわかるから、髭切はわざわざ振り向かなかった。
     矢を放った右手を頭の後ろへ留めたまま、的を見つめている膝丸に、髭切は目を細める。緊張感の残滓は離れたところから見守る髭切にも心地よく、その空気の中でひとりであっても作法を崩さない膝丸に見とれていた。
     しばらくの残心から漸く膝丸が弓を倒したとき、髭切は皆中を讃えて手を打ち鳴らした。その音に驚いたような顔をしたあと、自分に微笑む兄に気づいた膝丸は目を輝かせて髭切に笑いかけた。弓を引いている間は恐ろしいほど無垢で厳かなものに見えた膝丸が、幼い頃から変わらぬ、兄を慕うただの弟の顔になったのを見て、髭切も満足気に頷いた。
    不在の春(現パロ、別れ話)



     兄とふたりで暮らした期間は短くはなかったが、持ち出すべき荷物は意外に感じてしまうほど少なかった。家具はすべてこの部屋に引き続き住む兄が使うし、自分が買ってきた本や消耗品は置いていっても問題のないものばかりだった。良い機会だといくつか処分してしまえば、膝丸の荷物は衣類や捨てきれなかった本、仕事で欠かせない道具など、段ボール三箱とボストンバッグひとつ分だけになった。
     荷物をまとめ終えた膝丸は、部屋の端に固めた段ボールと鞄をじっと見つめながら、この部屋で飲む最後のコーヒーを味わっていた。まとめてしまえば呆気ないものだ。この部屋で自分が所有できるものは、部屋の隅に固めてしまえる量しかなかったのだ。それに加えて、今から腹に入れようとしているカップ一杯分の飲み物が、この部屋で膝丸の持ち得たすべてだ。桜も咲き始めて大分春めいた空気になっていたが、やはり温かい飲み物は強ばった体に優しかった。
     兄と共にいることに堪えきれなくなったのは膝丸だった。愛想が尽きたのではない。むしろ、尽きそうにない思いが兄の自由を奪っているのではないかと疑い、それを確信すると、共にいることが急に恐ろしくなってしまった。自分の心をなだめることができず、別れを切り出すと、兄はしばらく言葉を失いはしたが「お前の好きにするといい」と膝丸の勝手を受け入れた。
     自分の身勝手さを、膝丸は自覚していた。実の兄に道ならぬ思いを抱くのも、それを恐ろしく思い、堪えきれず別れを選ぶのも、その別れに胸の内を苦いものでいっぱいにしているのも、すべて自分の勝手だった。兄は、この別れを受け入れたように、膝丸にいつでも優しかった。その兄らしい優しさが膝丸には辛かった。きっと兄は、自分に対してはずっと兄のままであって、ただの人間である髭切として接することができなかったのだろう。髭切の兄らしさを弟として享受する一方、兄がどこまでも兄であることが、ただの人間として膝丸には心苦しかった。
     ひとりの人間としての膝丸は、髭切にとってはこの部屋から消えるいくつかの荷物と同じようなものなのかもしれない。兄弟ふたりで暮らした名残は家具に、中途半端に残った冷蔵庫の中身に、そろそろ尽きそうな洗剤にしばらく宿り続けるだろう。それもいつか、兄のひとり暮らしに塗り替えられていく。弟としてでなく、ただ髭切を慕う人間として兄に残る膝丸の名残は、この部屋には何もないのかもしれなかった。
     自分の最愛の兄が、大らかでありながら自分の内面をしっかり律している人であることを膝丸は知っていた。ささやかな気配だけを残して去る膝丸の不在も、髭切はひとりで乗り越えてしまえるだろう。弟として兄のその強さを敬愛する一方、膝丸は自分が離れるのを赦す髭切の優しさを少し憎んだ。
     カップの半分ほどになっていたコーヒーの残りを一気に飲み干すと、膝丸はすぐにそれを洗った。膝丸がよく使っていたそのカップも、いつかは誰か違う来客に使われるだろう。そんなことを考えて、膝丸は濡れたシンクに目を落とす。住み慣れた部屋は今となっては去るべき場所だったが、部屋に満ちたふたりの、そして兄の気配が膝丸の脚を掴んでいた。
     その気配に浸ってしまうと、目の奥が熱を持ってしばらく動けなくなるのを膝丸は十分に知っていたから、ひとつ浅く息を吐くと胸中にある痛みを押し殺した。予定より早いが、出発してしまおうと思った。兄の見送りを固辞したのは膝丸で、やはり兄はその弟の願いを受け入れてくれていた。膝丸が持っていくのはボストンバッグだけだ。段ボールは後で兄が送ると申し出てくれたから、膝丸は身軽に歩いていける。膝丸はここを出るのに、ただひとりで玄関を潜り、鍵をかけ、その鍵をポストに入れておくだけで良い。それだけで、このふたりの生活は終わる。
     終わりは呆気なくやって来て、膝丸はやはりその呆気なさに胸を痛めるだろう。どこまでも自分は身勝手で、だから兄の傍にいることに堪えられなくなった。こうして兄から去っていくのも、自分の身勝手さをこれ以上思い知りたくないからなのだ。この別れを、兄に押し付ける最後の身勝手にしようと膝丸は考えていた。
     いよいよやって来る別れの時へ向けて、コートを羽織り、ボストンバッグを手に取ろうと屈んだところで、ふと本棚に整然と並べられた背表紙が目に入った。赤い背表紙が並んだ棚の、よく知られたひとつのタイトルが膝丸の目を捉えたのは、この部屋を去ろうとする今に相応しい偶然だった。
    『春にして君を離れ』という美しい邦題の物語を、これまでも膝丸は何度か味わってきた。この作家を兄は好んでいて、同じ文庫で出ているシリーズを集めていたから、本棚の一角はその赤い背表紙で埋まっている。どんどん増えていくその文庫本に、いつだったか、「この調子で本を増やすと“ねじれた家″になってしまうぞ」と冗談混じりに小言を言うと、兄はすぐにその意図を理解して、声をあげて笑ったのだった。
     そんなことを思い出しながら、膝丸は本棚の前に膝をついてその本を抜き出した。掌に納まるこの一冊も兄との些細な思い出のよすがであり、そのことに胸が詰まるのを感じながらも膝丸の頬は緩んだ。
     読み込まれて柔らかくなった文庫の表紙を、膝丸は軽く撫でた。自分は今日、この部屋から去る。この部屋を“ねじれた家”にしないために、兄への思いを拗らせたねじれた男は去るのがいい。そうして、兄をひとり残していくのだ。この浅はかな身勝手さ、そして浅はかだと知っていると自分を庇う臆病さには、この物語は相応しい。
     目の前の本棚には、膝丸の手に納まっている一冊分の隙間ができていた。そのほの暗い隙間をじっと見つめたあと、膝丸は手の中の文庫をボストンバッグに滑り込ませた。
     その鞄を手に、膝丸は立ち上がる。鍵を右手に、穿き慣れたブーツで玄関を潜る。ドアを閉めるために振り返って、慣れた動作で鍵を回せばそれで終わりで、膝丸はドアポストの中へ兄の部屋への鍵を手放した。
     春は柔らかく膝丸の髪にも光を投げかけ、その長閑な陽光はどこか甘い土の匂いがする中に、膝丸の歩く道が続くのを照らしていた。コートは不要だったかもしれないと考えながら、膝丸は兄の許から去っていく。自分に必要なものは多くないが、一番大切で得難いものは持っていけない。だから本棚の一筋の不在に、せめてあなたも何かを思えばいいと、そう願う自分の身勝手を道連れにしながら。
    満腹
    (現パロ、膝髭♀)



     自分は姉のために生きているのだ、と膝丸は自負していた。膝丸にとって姉以上の大事はなかった。幼い頃から姉が誉めてくれることが何より嬉しかったし、これまでも姉に恥をかかさないように生きてきたつもりだ。学校での成績も文句のつけようがないものであり、一般的にはエリートとして扱われる職種を選んだ。姉の自慢の弟でいたかったからだ。
     すなわち、膝丸が姉者と慕う髭切は膝丸の人生の指針であり、道徳法則であり、世界の中心であった。今まで知り合った中にはこの膝丸の姉への思いにドン引きする人間もいた。しかし、膝丸にとってはすべての前提が姉だったため、姉が膝丸に笑いかけてくれる限り、他人がどう思おうかはどうでもよかった。
     そう、姉がいれば良いのだ。膝丸には姉がすべてなのだ--だというのに、なぜ、姉は自分に以前のように笑いかけてくれなくなったのだろう。
     就職に合わせて、姉がひとりで暮らしていた部屋に転がり込むことになった膝丸は、部屋に越してきた日、自分の仕事について姉に話した。どういう勤務形態か把握しておくことは共に暮らすのに欠かせないだろうと考えたからだ。無論、下心もあった。自分がどういう仕事についたのかを知れば、以前と同じく、花のほころぶような笑みで「お前はすごいね」と誉めてくれるだろうと期待していた。久々に会った姉が記憶と違わず美しく、また実際ふたりきりになると思った以上に平静を失してしまったため、いくらか浮わついて見えたかもしれぬ。だが、考え得る自分の挙動不審を差し引いても、膝丸の努力の成果に対する姉の反応は冷淡であった。
    「うーん、そういう細かいことはどうでもいいかな」
     過去何度も耳にしてきた台詞を、実際自分に向けて言われると、あんなにふわふわと浮わついて落ち着かなかった膝丸の胸の内は一瞬で凍った。固まってしまった膝丸に髭切は目を丸くして、おや、なんて言っていたが、不思議そうにじっとこっちを見つめる姉をかわいらしいと思う一方、姉者は俺のことはどうでもよくなってしまったのか、という衝撃で膝丸は動けなかった。
     なぜだ。自分以外の大事ができたか。もしや自分の目の届かぬうちにどこの馬の骨とも知れぬ男に目をつけられたか。もしそうならば、其奴は生かしておけぬ。
     元々厳めしい顔をさらに強ばらせて、視線だけで人を殺せそうな目付きになった弟を見て、髭切は「ありゃー」と平坦な声をあげながら目を瞬かせた。
    「どうしたんだい? そんなに怖い顔をして」
     首を傾げて訊ねられれば、その凶悪な目付きもすぐさま緩んでしまった。眉を寄せて目を細めた弟の顔に幼い頃の面影を見て、髭切は笑う。
    「うんうん、何があったのかはわからないけど、大らかに、ゆったり過ごそう」
     そう言ったとき、膝丸が明確に泣き出す前の顔になったのに気づいたが、髭切は持ち前の大らかさでそれをスルーした。

     姉にとっては、自分のことはどうでもいいのだ。そのことに胸を軋ませながら、膝丸は今日も姉お手製の夕飯を食べている。越してきた日、「どうでもいい」と言われたあと、膝丸はあまりのショックに自分が食欲をなくしているのがわかった。が、姉が「僕が作るよ」と言って出してくれた食事を突き返すことなどとてもできず、完食した。美味であったことも書き添えておく。美味しいご飯を、しかも最愛の姉お手製のご飯を食べて腹を満たしてしまえば、膝丸の一瞬で凍った胸の内も、一瞬とはいかずともすぐさま立ち直った。一度「どうでもいい」と言われたくらいでなんだ、姉者はああいう性格だ。共に暮らす内に、また以前のように自分を誉めてくれるやもしれぬ。そのためにまた、これまで以上に頑張らなくては。やはり髭切は膝丸の行動指針であり道徳法則であり、世界の中心であった。
     そうして仕事が始まると、膝丸は決意した通り一生懸命打ち込んだ。姉のことを思うと手を抜くなど考えられなかった。熱心な膝丸を上司や先輩も可愛がってくれたし、なにより姉が「毎日頑張ってるね」と声をかけてくれたことがあった。この一言に、膝丸はまた浮き足だって自分の頑張りを話した。上司や先輩が誉めてくれたことを、うんうんと頷きながら聞いていた姉は、膝丸が「すぐに出世してあなたを楽にさせよう」と言うと、またあの興味のなさそうな声で「それはどうでもいいかな」と言った。その言葉に対する膝丸の反応は前回とほぼ変わらなかったので省略する。
     姉に対して浮わつき、誉めてくれるだろうと言ったことにすげなく返され、落ち込む。それも姉の美味しいご飯に復活し、また仕事に励む。それを気にかけてくれる姉に対して浮わつき、以下略。この一連を、姉とのふたり暮らしで膝丸は繰り返している。姉に相対したときの膝丸の気分の浮き沈みは、さながら学生時代に見た音波のグラフのように、一定の山と谷を繰り返し描いていた。
     この日、膝丸はその谷底にいた。今日聞いた新しい「どうでもいいかな」に加え、これまでの「どうでもいいかな」がボディーブローのように効いてきていた。やはり姉者は俺のことなどどうでもよくなってしまったのだ、なぜだ、俺は何を間違った。自分の努力が姉には梨の礫であることにめそめそしながら、膝丸は姉と向き合って夕食を食べていた。今日の献立は煮込みハンバーグであり、言うまでもなく美味である。しかし美味と感じながらも気分が上向かず、ただ黙々を箸を動かすだけであった。
     茶碗から白米がなくなってしまい、おかわりしようと箸を置いたとき、膝丸は姉が自分を見つめながらご飯を食べているのに気がついた。今日は谷底に沈んでいたため、無言でひたすらご飯を掻き込んでいたのだが、姉はそんなことは気にしていないような表情だった。心配など期待する俺が馬鹿なのだ、と自嘲しながらご飯を自分でよそい、また席についたとき、これまで同じく無言だった姉が小さな声で笑った。
    「どうした」
    「いや、よく食べるなと思ってね」
    「美味いからな」
    「おや、それは嬉しいね」
     くすくすと笑う姉はやはり可愛かった。箸を持った右手を口許に添えている仕草など可憐の極みであった。膝丸は、この姉が自分を誉めてくれないことに拗ねて落ち込んでいたことも忘れて、その白い顔を見つめた。目許や口許のパーツはよく似ているのに、ちょっとした配置の違いか、それとも性差なのか、膝丸とは違って随分柔らかく映る面差しだ。やはり楽しそうに笑う姉が膝丸は好きなのだ。
    「今日は落ち込んでいるみたいだったけど、おかわりできるくらいなら大丈夫だね」
    「......ご飯は別なのだ」
    「うんうん、そうだね」
     姉はなぜだか上機嫌に見えた。僕もおかわりしようかな、なんて目尻を下げている。普段も軽く微笑んでいる姉だが、この日はいつもより声も弾んでいる気がする。
    「何か、良いことでもあったのか?」
     恐る恐る膝丸は訊ねた。初日に抱いた懸念がまた頭をもたげていた。この姉者に恋人などいようものなら、俺はもう生きてゆけぬかもしれぬ。相手と刺し違えるか、しかしそれでは姉者が悲しむか--ぐるぐると頭を巡る詮ない考えに、胸が詰まる。
    「いいや、別にないよ。どうして?」
    「上機嫌に見えたのでな」
    「そうかな? ふふ、そうかもしれないね」
     思わせぶりな姉の言葉に、膝丸は息を飲んだ。続きを聞くのが怖いような、しかし聞きたいような気持ちで落ち着かなかった。
    「ほら、お前はよく仕事の話をしてくれるだろう」
     しかし続いて出てきた言葉は膝丸の予想していなかったもので、膝丸は茶碗を持ったまま目を丸くした。
    「お前が頑張っているのはよくわかるんだけどね、僕は別に出世とか昇給とか、どうでもいいんだよね。ただ、根を詰めすぎないで、ほどほどに頑張って欲しいんだけど」
     そういうと姉はご飯を一口含み、咀嚼し、飲み込んだ。その間も膝丸はにこにこと笑う姉を見つめていた。
    「肩書きとかどうでもいいんだけどなって思ってたんだけど、ご飯を食べるお前を見てたらそれこそどうでもよくなってしまったよ。お前は昔から本当によく食べるよね。きれいに食べて残さないし、好き嫌いもしないし--なんだ、何も変わってないんだって思ってね」
     姉はどこか恥ずかしそうに笑った。よく知った姉の顔が、あまり知らない表情をするのが不思議で、目が離せなかった。
    「僕はね、昔から、お前のそういうところが好きだよ」
     どこか気恥ずかしそうに、密やかな声で姉が告げる。膝丸を見つめる目は温かで、頬を緩ませれば、昔と変わらぬ花のほころぶような、あの優しい笑顔だった。
     僕もおかわりしよう、と言って姉が席を立ち、ご飯をよそってまた座るまでの間も、膝丸はぴくりとも動けなかった。茶碗と箸を持ったまま固まる弟にようやく気づいた髭切は、その膝丸の顔色を見て初めて心配そうな顔をして、「熱でもあるのかい?」と首を傾げたのだった。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/13 20:21:14

    白露小品

    膝髭詰め合わせ
    怪我をしている話、巻き込まれる他の男士、現パロ、別れ話、女体化も含みます
    お好きな方はどうぞ
    #膝髭 ##膝髭

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