卯ノ花腐し
朝から薄暗いとは思っていたが、とうとう降り出した。
庭木からぱらぱらと音が立つのに気がついて、国広はつい空を見上げた。曇ってはいるが、ほの明るい。このまま豪雨に、とはならないだろう。
さいわい、内番で手合わせをしている御手杵と骨喰藤四郎に茶を届けて戻る道だったので、濡らしてしまって困るものは持っていない。引っかけている布を頭に被ると、国広は心持ち早足で裏庭へ向かった。
布に雨の当たる感触がある。細かな音がする。土と草が匂い立つ。
審神者が景趣を梅雨に変えてからそろそろひと月経つ。あと一週間もしないうちに夏に切り替えられるだろうと思うと、この薄暗さも静けさの鳴ったような雨音も名残惜しい。じとじととした空気に辟易としていたというのに勝手なことだ。去り際に限って惜しくなる。
景趣は審神者が設定できる。つまり、年中人間の過ごしやすい気温・湿度にしておくことも可能なのだが、国広たちの主はそうせず、現実世界の暦に合わせて季節と時間を変える。
手間じゃないのか、と訊ねたのは白布が手放せなかった頃だ。まだ本丸が始まって一年も経っていない、あのときの審神者は雪見障子を覗きながら鼻を啜っていた。冬に季節を変えた途端、軽い風邪をひいたのだ。
夏には暑さで食欲が失せてしまって燭台切光忠が心配しているのを見かけたことがあったし、薬研藤四郎の「疲れが溜まってるんじゃないか?」という言葉も忘れられなかった。こんなに簡単に空気の温度や湿度に振り回されるのだ。選べる季節をわざわざ変えてしまわなくともいいんじゃないか――そう伝えたかった。
心配させないでくれとそのまま言う気概がなかったための言葉だったが、審神者は言いたいことを分かってくれたらしい。少し申し訳なさそうに、変わってしまうのを忘れたくなくて、と笑った。
そんなものか、と思っていると、審神者はまたしげしげと雪見障子の向こうを眺める。随分と気になっているようだった。
「俺の住んでいたところはこんなに雪が積もることはなかったから、珍しいというのもあるよ」
雪って音も吸い込んでしまうんだなぁ、という呟きに、雑じり気のない驚きが滲んでいたのも覚えている。
あのときはピンと来なかったが、今は少し、変わってしまうのを忘れたくないという気持ちが分かる気がする。時を重ねるごとに惜しむものは増えていく。恐ろしくもあるが、今となっては、それを惜しまなくなるのも同じように恐ろしいことのような――
ぼんやりと懐かしい日を思い出していると裏庭に出た。国広はある部屋の窓を見上げた。かつてはなかった癖だったが、ここに来るとそうしてしまう。
目当ての窓は細く開いていて、雨が降っているのに、と思ったとき、白い手が伸びて静かに窓を閉めた。
あの手の持ち主と国広は、明日遠征に赴く予定となっている。
罰則として一年計画で国広と長義の予定に捩じ込まれた遠征はほぼ月に一回の頻度で組まれている。これもう罰則というよりただの当番じゃないか? とも思うのだが、長義は毎回飽きもせずに不服そうな反応をする。その顔を見ると、なるほど罰則だ効いている、と国広は頷きたくなるのである。
冬に初めてふたりで赴いた遠征で、最後の最後に言い争いのような形になったことに国広は少し落ち込んでしまったのだが、落ち込んでいても仕方がない、と顔を上げることにした。毎日は続く。同じ日は来ない。俯いて過ごすには、あまりに惜しい。話をしたい相手は、すぐ近くにいるのだから。
遠征の予定が組まれている以上は定期的に顔を合わせる。だから、焦らないことにした。
次の遠征の日、執務室に向かうと、先にいた長義は涼しい顔をしていた。優美な微笑をたたえて近侍の加州清光と話をしている。国広が来たのに気付くと、一瞬だけ表情が失せ、そしてすぐに勝気な笑みに変わった。
「時間通りだ。えらいじゃないか、偽物くん」
「写しは偽物とは違う」
そのやりとりは、清光の「はいはい、やめてね」という言葉で打ち切られたが、いつもの調子で喋り出したことに安堵した。彼は彼らしく、こちらと接する気がまだあるらしい。それでいて、一瞬とはいえ表情を失くすという反応を見せたことに言い様のない感情を覚えていた。皆にやっているような、ただ義務感でもって与えられる折り目正しい態度ではなく、飾らない冷たい真顔を自分には見せる、その心に興味がある。
焦らないとは決めたのだが、それとは別に気になることは気になる。
――話をしようと言いながら、お前、本当に話をする気があるのか。
誰かの言葉が自分の目を改めて開かせることがある。普段から事実を小気味よく整頓してみせる長義の言葉も、国広にも「話をすること」についての新しい切り口を見せた。
とはいえ、自分の話をせずに相手の話を引き出すというのは難しい。
その遠征での長義もまったく黙り込んでいるわけではなかった。事務的なやりとりには過不足なく応え、そのとき国広のことを「偽物くん」と呼ぶ。毎回「写しは偽物ではない」と応じる国広がそうであるように、長義も自分の在り方を変えるつもりはないらしい。
自分だって退く気はないのだが、「自分のことでいっぱい」と言われたことを思うと言葉が喉元で詰まってしまう。そもそも自分から「話をしよう」と言っておきながら一年もろくに話ができなかったのである。同じ部隊で出陣することも内番を組まされることもほぼなかったためではあるが、話をどう切り出せばいいのか思いつかない。話をしたい、しかし、何をどう話せばいいものか。
そうして次の、そのまた次の遠征を、国広は逡巡の中でただ調査を進め、資材を確保し、帰城するだけで終わった。世間話でさえ、なにひとつすることなく。
どうしろというんだ……と一度は上げた顔を伏せてしまった国広を山へと連れ出したのは、山伏国広だった。本丸は春になり、敷地内にも桜がいくつも咲き始めていた。庭に植えられているソメイヨシノは膨らむように枝に花をつけたが、山中では山桜が楚々として清澄に佇んでいる。
「まこと、難儀であるなぁ」
隣に腰掛け、国広の話を聞いた兄弟は、いつものよく通る声で国広の話を総括した。
「ああ、俺の口下手は修行でも変わらなかった」
「ああいや、そういうことではないのだが」
ならどういうことだ、国広が眉をひそめたのを受け、山伏は紅玉のように澄んだ目を中空に、思案しているようだった。深く息を吸い、吐き出す間だけ、沈黙が下りた。春霞の空より鮮やかな髪の兄弟は、もう一度国広に顔を向けると「自分で考えた方がよい」と笑った。
「俺が考えても間に合わないから、こうして連れ出してきてくれたんじゃないのか」
「拙僧はお主の代わりに答えを出そうなど考えてはおらぬ。ただ、視野が狭まらないよう、少し気を紛らわしてやりたかっただけのこと」
国広だって、兄弟に自分の抱えているものをそっくり任せようなんて思ってはいない。何かしらの糸口が欲しかったのは事実だが、さっきのは兄弟に向けるただの軽口だ。兄弟もそれを分かっているから、分かりきったことをそのまま返す。
国広はまた黙り込んで花に埋もれる本丸を見下ろした。長義は今日もあの中にいる。自室で読書でもしているか、あるいは南泉でも連れ出して花見にでも興じているか――
「……拙僧が難儀と思うのは兄弟だけではない」
山伏が常にない静かな声を出した。視線は慈愛としか言いようのない柔らかさで本丸に向けられている。
その横顔が、国広に向けられると、いつものような晴れやかな笑みを浮かべた。
「他の方法を模索するも結構。しかし、それが上手くいかないのであれば、以前のやり方に戻ってみるのも拙僧はよい手であると思う」
あとはいつもの笑い声である。能天気め、と悪態を吐きたくなるが、国広はこの兄弟のこういうところにずっと救われている。
悪態の代わりに深く息を吐くと、天を見上げた。白んだ空の下には薄紅の花が枝からこぼれそうになっていた。春は長閑に訪れ、刀たちをも寒さから解き放とうとしている。
どうすればいいか、その一番いい方法はまだ分からないが、見失ってしまいそうだった「どうしたいのか」はまた国広の手元に帰ってきた。
やはり分かりきったことだったが、話をしたいのである。できれば、今兄弟としているように気兼ねなく、ただしお互いを鈍にしないような間合いで。
その後、桜の散り始めた中で発った遠征にて、国広は長義に話しかけ続けた。まず話をしたいことを再確認してからは話題を考えるのはやめた。そもそも話題を選べるほど話せていないのだ。畑で採れる作物、昨日の食事、最近の戦果、かつて本丸であったこと……国広が訥々と話してみると、長義は不承不承といった感じではあるが律儀に返事を寄越してきた。意外に思ったあとで、そうせずにいられない性分なのだろうと納得した。怪異が自分に何かを「頼みたい」のかもしれないという発想を出す奴である。求められたのならなるべく応えてやるべきだと考えているのかもしれない。
持てるものこそ与えなくては――よく口に出しているという言葉を思い出しながら、国広はこれまでにもぼんやり感じていたことを思っていた。自分とは似ていない。
「そういえば長谷部から、礼を言っておいてくれと頼まれた」
山から桜の薄紅が取り去られ、まだ柔らかい緑が覆い始めた頃だった。国広が切り出した言葉に、長義は片眉を上げた。怪訝そうな顔は続きを促している。この頃になると、そういう呼吸も分かってきた。
「書類の手伝いをしただろう。長谷部も極めてから出陣が増えたからな、今後はお前に書類仕事を任せることが増えるかもしれない。だから、よろしく頼む、とも言っていた」
「ふうん……ま、当然かな」
少し、嬉しそうに見えた。何となく長義の性質が以前より分かった気がして、国広も思わず微笑んだ。それを見咎められて、「何を笑っているんだよ偽物くん」「写しは偽物とは違う」という、いつものやりとりが続いたわけだが。
「この罰則、これ以上続けて意味なんてあるのか?」
小雨の本丸を発ち、滞りなく仕事を済ませた遠征の帰り道で長義が恨み言を言うのに、自分から話し出すくらいには態度が軟化してきたな、という思いと、その愚痴が出る程度には意味がある、という考えとを浮かべながら、国広は素知らぬ顔で聞き流した。元々返事を望んでなどいるまい、聞き流すのが一番穏便だ――それにしても、長義は割と話し好きなようだ。本丸でも誰かと話している姿をよく見かける。その「誰か」が自分ではなかっただけで。
あまり口の回る方ではないことは自分でもよく分かっている。修行を経て、身を守るように被っていた布を取り払っても、こればかりは早々に変えられるものではない。
だから、今、歩み寄り方を探っている。
長義の愚痴には触れず、国広は話し出した。
「おい、知っているか」
「……何をだよ」
少し前を歩いていた長義の視線が、ちらりとこちらに寄越された。撫でつけられた髪から一房こぼれているのが揺れるのを見た、と思えば、すぐそれまでのように長義の右目は前を向いていた。
遠征先は薄曇りである。降りはしないだろうが、歩く足は少し速くなる。
「俺もここに来るのは久しぶりなんだが、修行に行く前はよく資材集めに来たんだ。大体は新入りの研修を兼ねて大人数だった」
「その話、長くなるか?」
「ならない」
「……じゃあ早く終わらせろ」
溜め息のついでに出したような言葉だった。失敗したか、とも思ったが、話し出した手前、国広は続ける。
「もう少し行くと、雑木林の中に小路がある。その途中、小さな地蔵堂の近くで、髭切がいきなり立ち止まったことがあった……そのときは髭切と一緒の部隊だったんだ。じっと、雑木林の間を、まばたきもしないで見つめていた。あの丸い目を、見開いてだ」
口許は笑みの形だったが、視線は何かを射竦めるように鋭かった。そのまま動かない髭切を心配したのか、それとも自分が不安になったのか、同じ部隊にいた信濃藤四郎が「どうしたの」と袖を引いた。途端に髭切は普段の微笑を取り戻し、先程までのように歩き出したのだ。
「一言俺に、『あれはまだ鬼ではないね』と笑って」
ふたりは件の雑木林に差し掛かっていた。道はだんだん細くなっていき、元々の薄曇りに加え木々の影で暗い。
話しきってしまった国広は口をつぐんだ。しばらく、ふたりの靴が砂と草を踏む音だけが響いた。
「……不可だな」
「なんでだ」
「逆に訊くがなんでいいと思ったんだ」
「お前、怪談なんか怖くないだろう」
「それはそうだが、どうしてそれがいきなり前置きもなく怪談を始める理由になるんだ」
「それは……」
理由があるのか、と言わんばかりに、今度は顔ごと長義が国広の方を向いた。不機嫌そうにつり上がった眉の下、日の光のない中に見る瞳の青の深さは底知れない。あのときの髭切もだが、こういう目に気付かれたとき、睨まれた方は息をするのも恐ろしいだろう。国広は竦みはしないが、言葉を探すのが難しい。
粗末だがちゃんと手入れをされている堂が、小さく視界に入った。もうすぐ髭切が足を止めた場所である。髭切の飴色の瞳が捉えていたもの。国広も、あのときそれがこちらを見ていたことに気付いていた。否、あのときだけではなく、ずっと。
「あそこには、いつも女がいる」