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    しおり
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    しおり
    連星の永い午後

     赦してくれ、と絞り出した声は震えていて、膝丸は自分の両手がズボンを握りしめるのを見つめる。膝の先に座る、こちらを見ているであろう兄の顔を見る勇気はなかった。膝丸は今、この自分と同じ顔を持った兄に赦しを乞うている。

     共に顕現した髭切と膝丸は顔を合わせたとき、揃って目を丸くした。それは鏡を見るように同じ顔だったが、そのすぐ後、兄が頬を緩めたのに対して弟の方は頬を強張らせた。そしてそのまま、ぽろぽろと涙を零し始めた弟に、兄は「ありゃ」とこぼして、泣き顔を隠すように片腕で顔を覆った膝丸の、もう片方の腕を引いて自分の方に引き寄せると、よく似た背格好の弟を抱きしめた。千年の昔から兄をしていたから、この弟が喜びのあまりに涙を流したことはすぐにわかった。だから、これより他にやりようがなく、そして膝丸にとってはそれで十分だった。
     髭切が思ったとおり、膝丸は兄との久方ぶりの再会を、そして共に過ごせることを何よりも喜んでいた。戦場での勇ましさとは裏腹に、何をするにつけても兄者、兄者と言う膝丸を面白がってからかうものもいたが、膝丸にとって一番の関心事は他ならぬ兄であったから、そういう外野の声は適当にいなしていた。そうしているうちにからかう声は徐々に少なくなっていき、おっとりと微笑んだ兄の世話を焼く甲斐甲斐しい弟の姿は本丸の日常となった。
     兄が千年の昔から兄であったように、弟もまた千年の昔から弟であった。鷹揚に構えた兄の身の回りの世話を焼くのは、膝丸にとって当然のことであり、二振りはいつも一緒にいた。自分の隣で微笑む兄が膝丸の喜びであり、そしてそれは、膝丸の悲しみの大部分がこの兄によるものということでもあった。名前を覚えてくれないことは確かにもどかしかったが、それは昔からそうであったから、その悲しみを抱えることには慣れていた。だが、それ以外にも兄にもたらされる悲しみのあることを、膝丸は肉の器を得て初めて知った。
     それに気付いたのは春だった。庭の桜の花が散るのを、薄く微笑みながらぼんやりと見守る兄の長い睫毛に、淡く灯るように真昼の光が滑るのを膝丸は見ていた。同じ顔をしているのに、兄と自分はまったく似ていない。そう思いながら、兄がゆっくりとまばたきする度、震えるように揺れる睫毛の光に目を奪われた。その目許の下、頬は睫毛とは違い柔らかく光を跳ね返していた。内側に水をたたえた膜だからこういう光り方をするのだと妙に感心していると、兄が今、自分と同じく肉を得た身であることを突然発見した気持ちになって膝丸は息を飲んだ。
     ちょうどそのとき、髭切は隣にいる弟に顔を向けた。膝丸は動けないまま、その兄の様子を見ていたから、目を丸くした髭切が二、三度まばたきした後、ふにゃりと笑うのを見て、また顕現したときのように頬を強張らせた。ただ、今度は喜びではなく、自分の気持ちを自覚したからであった。
     膝丸にとって一番大事なのは、自分の兄だ。その理由も、自分が弟で、髭切がその兄であるからというだけで事足りた。それ以外は余計なものだった。だというのに、膝丸は今、他ならぬ兄に懸想している。春の陽光が髭切の睫毛で揺れていたのを、その後自分と揃いの琥珀色の瞳が自分を見て微笑んだのを、膝丸は溜息と共に反芻していた。いくら深く息を吐いても、胸の内には温かで痛みを伴うものが詰まっていた。この胸の内が膝丸を悲しくさせる。弟として兄を慕うにはこの温もりは浅ましすぎた。その熱をうまく冷ませない自分を恥じて、膝丸はもう一度深く嘆息した。やはり膝丸にとって、兄は喜びであり、悲しみだった。

     あの春の日から、何かと用事をつけて兄の傍を離れる時間を多くした膝丸に、今剣と岩融は怪訝な顔をした。兄離れにしては遅すぎる、手遅れだから今更我慢するな、という軽口にも膝丸が声を荒げないので、いよいよ重症だと顔を青くした今剣をたしなめて、岩融は目を伏せる昔馴染みを見守ることにした。膝丸がどれだけ悩もうとも、結局は兄のそばを離れられないだろうことを見越していたからだ。
     そばにいる時間を減らしても、やはり膝丸が帰るのは兄の隣だった。二振りで共に使っている部屋で、夜は布団を並べて眠る。その日も別部隊で出陣し、別々に食事を終えて膝丸が部屋に戻ると、髭切は手の中の本から顔を上げ微笑んだ。膝丸の立つ戸の向こうはとっくに夜の厚い帳に覆われていて、ただ遠く虫の音が微かに聞こえるだけだった。昼間の暑さとは違って、夜はその帳に貼りついた星々の光のように冷たい。
    「おかえり」
    「ああ、ただいま戻った」
     膝丸は胸の内をなだめるように努めながら、後ろ手に部屋の引き戸を閉める。部屋はまだ昼間に過ごしたときのままだったから、風呂に入る前に布団を敷こうと押入を見やると、その前に幾つかの本が乱雑に置かれていた。お互いに物を多く持たない兄弟だったから、部屋の美観を損ねるほどではなかったが、手に取った物を置くとそのままにする癖のある兄の仕業だということは容易に知れた。
    「兄者、書庫から持ってきた本は読んだらすぐ返しにいってくれ」
    「ありゃ、忘れていたよ。すまないね」
     溜息を吐きながら床の本を拾う弟の小言に、兄はいつものおっとりとした口調で応えた。膝丸は拾った本を、ひとまず部屋の端に寄せられた机へ角を揃えて置く。その机の傍に座っていた髭切は、自分がさっきまで読んでいた本をその上に、軽くずれるのを気にしないで置いた。
    「お前は最近忙しいみたいだね」
    「ああ、ここの暮らしにも慣れてきたからな。皆を手伝った方がいいだろう」
     嘘ではないが、本当でもなかった。兄を見ないようにして取り繕った言葉は、流暢に膝丸の唇から流れ出た。
    「僕も手伝った方がいいかな?」
    「いや、兄者は好きに過ごしていればいい。俺が勝手にやっていることだ」
     机に本を置くために畳んだ膝を伸ばそうとしたとき、膝丸の視界に髭切の手が飛び込んできた。その右手は、先ほど膝丸が机に積んだ本の端を、人差し指でつう、と撫でた。それだけの挙動に、膝丸は息を飲んで固まった。立ち上がろうと膝についた両手をそのままに、その右手から目が離せなくなった。
    「お前は、いつも僕を置いていくね」
     膝丸の耳に届いた声は、普段の兄の変わらぬ柔らかさを持ちながら、どこか底冷えする響きを持っていた。本の上に置かれた白い右手の、その切り揃えられた爪を見ていた膝丸は、恐る恐るその手から腕を、肩を辿って兄の顔を見た。髭切は、やはり膝丸と同じ顔で、しかし膝丸とは違うやり方で微笑んでいた。この兄が、膝丸の喜びで、悲しみで、そして一等恐ろしいものだった。緩く目を細める兄の、ふたつの琥珀の中に自分が映っているのを見ると、膝丸は堪えきれず視線を自分の膝に落とした。いつの間にかズボンを握りしめていた両手が、力を込めすぎたせいで兄のものとは違う白さになっていた。
    「すまない」
     まず滑り出たのはそんな言葉だった。髭切は何も応えなかった。膝丸が何を謝っているのか、それを思案しているのかもしれなかった。
     膝丸は兄に赦しを乞いたかった。胸の内の浅ましさをさらけ出すことへの恐れと、それをそっくり兄に伝えて楽になってしまいたい渇望が、絶えず喉元で暴れ回っていた。
    「俺は、ただ弟としてあなたのそばにいることができなくなってしまった。弟として、兄を慕うには俺はあまりに浅ましい……すまない、兄者」
     目を閉じることもできず、膝丸は自分の拳を見つめる。兄の顔を見る勇気はなかった。胸の内から出た熱は喉を、目の奥を焼いていた。
    「赦してくれ」



    「赦してくれ」
     俺はもうあなたのそばにいることができなくなる、という自分の言葉に、膝丸はじわりと視界が滲むのがわかった。目の前にいる髭切は、うーん、と困ったような声を出して何か思案しているようだ。確かに赦しを乞われても、兄にはどうしようもないことを膝丸も分かっていた。
     この夜は、外から微かな虫の音と、清かな月の光だけが二振りの向かい合う部屋に流れ込んで、しんとして冷たかった。その冷たさが、目の奥に熱がこもっていることを膝丸に強く意識させた。
    「そうは言ってもねぇ、お前が熊野へ行くのはお前のせいじゃないんだから、僕に謝られてもねぇ……」
     鷹揚な兄には珍しい、困惑を隠さない声だった。兄を困らせている、と思うととうとう両目からぽろりと雫が零れ出て、それに気づいた兄が、ありゃ、と言うのに、膝丸は自分の膝の上で握りしめられた両手から目を逸らせない。目の奥から熱が絶えず生まれくるのに堪えきれず、瞬きを繰り返すとその度に涙はぽろぽろと流れ出た。付喪神であるのに、こういうところまで人間に似ているのが不思議だった。そして、どうせ似ているのなら自分の足で居場所を定められるところまで似ていればよかったのに、と叶わないことを思った。
    「ねぇ、お前、僕たちは刀なのだからどうしようもないよ。お前もよく分かっているだろう」
     兄が自分の顔を覗き込むようにしているのは分かったが、やはり顔を上げることはできなかった。なんと情けないのだ、と自分の無様を恥じたが、自分にとって一番大事なのは目の前で困っている兄で、この兄と離れ離れになる処遇はどうしても受け入れ難かった。たとえ、受け入れるしかないことを理解していても。
    「大丈夫、大丈夫、僕たちは二振りでひとつなのだから、また一緒に戻れるよ」
     兄が努めて柔らかい声を出すのを聞きながら、膝丸は強情な人間の子のように、涙が自分の衣に染みを作っていくのを見つめている。兄の口から優しい慰めが流れ出るのが、悲しくて仕様がなかった。兄と揃って、永い永い時間を人間たちを見て過ごしていたから、そういう慰めが虚しいものであることを膝丸は知っていた。
     きっと火の中からこの世に産まれる以前から、兄と自分は兄弟であることを定められていたのだろうと膝丸は思っていた。人を、鬼を、土蜘蛛を、あらゆるものを斬り、同じ鋼の身にそれぞれの逸話が語られるようになって、それに伴って名前が変わっていっても、やはり兄と自分は兄弟だった。だからそれは膝丸にとって、日が沈むと夜が来て、日が昇ると夜が明けるように至極当然の、この世がこの世としてあるために定められた掟に等しかった。「兄弟」という言葉は人間たちから借りたものだが、自分たちは人間によって産まれ、語られるものであったから、それで問題なかった。言葉も時の流れで変化はすれど、語られたものは語り継がれる限り時間と空間の制約を受けなくなった。自分たちの関係性も、そして自分たち自身もそういうものだった。だから、“髭切”でも“鬼切”でも“獅子ノ子”でもよかったし、“膝丸”でも“蜘蛛切”でも“吼丸”でもよかった。いずれにせよ、自分たち兄弟で変わりなかったからだ。
     兄は人の操る言葉というものに執着が薄く、自分たちの移ろう名前もぼんやりとしか覚えなかったから、膝丸は名を呼ばれないことを兄に認められていないことのように感じて泣きたくなることもあったが、兄がいつもそばにいたからそれで良かった。名前を間違える兄に怒り、その度が過ぎると両目から流れ出す涙をどうにもできずにいると、兄は必ず自分の物覚えの悪さを詫びてくれたからだ。そうなると膝丸は兄を赦し、赦された兄はふにゃりと笑う。これを永い時間、繰り返していた。しかしそれは、共にいるからできたことなのだ。
     自分たち兄弟が兄弟であることは、誰の赦しも要らないものだったけれど、二振りでひとつとされてきた自分たちが、遠く離されることになるとは思ってもみなかった。離されてしまえば、兄が名前を間違えることに怒ったり泣いたりして、それを詫びる兄を赦し、赦された兄が締まりのない顔で笑うのを見ることができなくなるのだ。今まであったものが、これからはすっかりなくなってしまうのだと思うと、膝丸は悲しかった。この悲しみを知ると、今まではなんと喜びに満ちていたのだろうと思って、また涙が溢れ出た。喜びの中心には兄がいて、悲しみの焦点も兄だった。自分たちが離れ離れになってしまうなんて、なんと恐ろしいことだろう。
     ぽろぽろと涙を零し続ける膝丸を、髭切は眉を下げて見守っている。昔から弟はよく泣くが、その原因は大体髭切で、しかも髭切が弟である自分の名前を忘れていることに憤って、そしてその憤りがある点を越えると涙をこぼすのが常だったから、こうして泣きながら赦しを乞われるのは初めてだった。いつもとは違う事態に髭切も上手く対処できないでいる。涙を流し始めた弟の強情さを、髭切はよく分かっていた。そして、それをなだめられるのが自分だけであるということも。
    「……確かに、こうやって離れることになるなんて思ってもみなかったね」
     兄の柔らかい声に、膝丸は顔をようやく上げた。涙だけでなく、鼻水まで垂れそうな真っ赤な顔を見て、髭切は「ありゃ、酷い顔だ」と笑った。それを聞いて、膝丸は自分の手で濡れた顔を拭った。そんなに乱暴に拭っては駄目だよ、という兄の言葉を聞きながらも、片腕の袖で顔を擦るように拭うのをやめない。
    「俺たち兄弟が、離されることになるなど……」
     一通り顔を拭き終えて、その片腕で鼻の辺りを抑えたまま、膝丸が震える声を絞り出すのを、髭切は頷きながら見守る。どれだけ拭っても、涙はまだ止まりそうになかった。
    「すまない、兄者、俺たちは兄弟なのに」
     袖に隠れた口から、くぐもった声が漏れる。髭切はまだ、兄としてどう言葉をかければ弟が落ち着くのかを思いつかないでいた。
    「俺はあなたの弟なのに、あなたのそばにいることができなくなる。すまない、赦してくれ」
     赦しを乞う弟の顔が悲痛に歪んだのを見て、髭切は弟の膝で固く握られたままのもう一方の腕を強く引く。崩れるように体勢を崩した、自分とよく似た身体を受け止めると、濡れた頬が首筋に触れて冷たかった。しかしそれも、すぐにその頬の熱で温められて、熱いくらいになった。
    「お前のせいではないのに、どうしてお前は僕に謝るのだろう」
     子どもをあやすように、抱き留めた肩を軽く叩くと、膝丸の片腕が髭切の肩に回った。それを受け入れるように自分の腕を膝丸の背に回して、首筋に押しつけられた弟の頭に自分の頭を預けるように首を傾げる。ああ、言葉なんて要らなかった、これで十分だったんだ、と思うと自分の腕の中の弟をしっかり確かめたくなって、自分でも腕に力がこもるのがわかった。今、自分が感じているこの熱に触れられなくなるということがどういうことか、髭切も分かっていた。
     赦すというのは、これを手放すことを認めることだ。たとえ弟がそう思っていないとしても。
    「大丈夫、大丈夫、離れても僕たちは兄弟だよ。……それでも、お前が僕に赦しを乞うなら」
     膝丸は兄の首筋に押しつけていた頭を上げ、髭切を見た。自分の鼻先で、自分と同じ顔が、自分とは違うやり方で優しく微笑んでいる。その透徹した眼差しがひどく尊いものに思えた。
    「お前が苦しいのなら、僕はお前を赦そう。でも——」
     目を細める髭切の、自分と揃いの琥珀の中に自分が映るのを、膝丸は見ている。



     でも、という髭切の言葉の続きに目を見開くと、そこにあったのは見慣れた白い天井だった。膝丸は二、三度瞬きして、先ほどまで自分は夢を見ていたのだと理解した。
     まだ重たい身体を起こすと、自分のすぐ隣で寝ている髭切が身じろぎした。自分が起きあがったせいで捲れてしまったシーツの下から、兄の白い肩と背中が覗いている。日中は大分暖かくなったけれど、夜はまだ寒いから、膝丸はヘッドボードに背中を預けるように移動して、兄の肩にシーツをかけ直す。乱れのない寝息に合わせて小さく揺れる肩を見ていると、思わず笑みが浮かんだ。
     室内はまだ暗く、カーテンの隙間から漏れる光はアパート近くの街灯によるものだろうと判断できて、膝丸は頭を掻きながら中途半端な時間に目が覚めたことにあくびをした。早朝という時間でもないようだ。窓の外は未だ静かで、部屋の中もしんとしている。聞こえるのは、兄がこぼす小さな寝息だけだ。
     膝丸は生まれたときから一緒にいる兄と、このアパートで共に暮らしている。知人には表向き、節約のためだと説明する兄との同居はその実、膝丸にとって必要十分な生活だ。お互い物を多く持たない兄弟だから、室内は寒々としていると言えるほどに物がない。床には兄が読み終えた幾つかの本が散らばるように置かれている。手に取った物を置くとそのままにする癖のある人だから、それを片付けるのはいつも膝丸だった。幼い頃からそうだったから、もうそれが当たり前だった。そして兄はいつも「すまないね」とは言いながら、膝丸の小言は笑って受け流すのだ。
     兄弟として生まれた以上、兄と自分は兄弟以外の何者でもなかった。そのふたりの結びつきは、他の兄弟を持つ者たちには異様に映るらしい、ということに気がついたのは、十年ほど生きた頃だ。小学校の友人たちが揃って「双子だからそこまで仲良しなのかな」と首を傾げるのを見たとき、自分たちは少しおかしいのだと知った。それは間違いなく悲しみであり、年を追う毎にその悲しみは明確になっていった。自分の喜びには、いつも立ち会うように兄がいて、そのことに喜ぶ自分の気持ちは世間には認められないものだということが、膝丸の内心をひどく痛めつけた。だから、膝丸の喜びも悲しみも、兄の形をしている。
     一方の兄といえば他人の言葉に頓着しない質で、膝丸の苦悩を「そういうのはどうでもいいかな」という一言のもとに斬り伏せた。曰く、兄である髭切と弟である膝丸の問題であって、他人に抱えられる問題ではないと。兄の論理は鮮やかにして冷徹だった。その弁舌に、膝丸は兄の柔らかな声に潜む抜き身の刀を見た。
    「お前は何も悪いことなんてしていないけれど、お前が苦しいのなら、僕はお前を赦そう」
     血を分けた兄に想いを向けていることを恥じて、赦しを乞う膝丸に、髭切は静かな声でそう言った。その後は何かを言い掛けて口ごもると、ぽろぽろと涙をこぼした。自分と同じ顔が、自分とは違うやり方で泣くのを、膝丸はそのとき初めて知った。
     他ならぬ髭切が膝丸の想いを赦したことで、膝丸はそれ以上に欲しいものはなくなった。今はただ、生活に必要なものを手に入れ、兄の微笑む顔を見るので十分だった。こうして二人で眠ることに誰の赦しも要らないのだと言ってくれた兄が、膝丸の最大の関心事で、一番尊く思えるものだ。
     今、その兄は隣で眠っている。一度眠ると動かずにずっと眠り続ける人で、その子どものように丸まって寝ている安らかな横顔を見下ろすと、膝丸は穏やかな気持ちになる。目許を覆うように流れていた髪を避けるように手ですいてやると、柔らかな髪はその色に反してこの夜のように冷たかった。だから、そのまま頭に撫でつけるように髪に触れ続けた。そのうちに膝丸の手の熱が移って髪はその色のとおり、淡い温もりを持った。
     それに満足すると、その安らかな横顔の、薄く開いた唇に目が行く。さっき、夢の中で、この唇が自分に向けて動いていた。しかし、声は聞いたと思うのだが、唇がその次にどう動いたのか思い出せなかった。それを聞いて目を覚ましたのだがなぁ、と膝丸はもう一度あくびをする。どこかの室内で、自分は泣いていた。自分が泣くようなことなら原因は決まっている。兄だ。その自分を、兄はなだめていた。そうして抱き寄せて、自分に何かを告げた——先ほどまで自分の目の前にあったはずの光景は、もう随分と曖昧になっている。
     あれは今の俺たちではなかったな、と兄の頭に手を添えたまま、膝丸はぼんやり考える。見たこともない場所だったし、兄も自分も何やら古めかしい格好をしていた気がする。だからあれは、今こうして一緒に暮らす自分たちではなく、別の自分たちだ。
     そういう考えに至って、昨日読み終えた小説のせいだな、と膝丸はまた声を出さずに笑う。その本は眠る前に膝丸の手によって、部屋の端に置かれた本棚の一番上の段の右端にしまわれた。そのうち、兄も手に取るだろう。そうすると兄はまた床やベッドの上にそれを置いたままにするから、膝丸が再びそれを本棚の上段右端に戻すのだ。
     小説では、あらゆる時代のあらゆる場所で、ふたりの人物が愛し合ったり殺し合ったりするのが平行して描かれていた。いずれにせよ、そのふたりの心は互いにベクトルを向けていて、それが妙に物悲しかった。いずれ巡り会う、その方法も関係もふたりには選べない。ただ世界から与えられたものを行使していくだけだ。
     平行する幾つもの時空のうちのひとつ、現代に似たどこかで、主人公たちは魂がユビキタス的に発現していることを示唆される。ユビキタス、神の遍在、あらゆる時間と空間に顕れる神。現在コンピュータネットワークに関して使われる際は、本来の意味とは少し異なって、時間がその概念から外されるのだという。膝丸は、この神の遍在を知ったとき、幼い頃に神社で聞いた「神様はどこで祀られていても本物」という話を思い出した。分祀というそれに当たる名辞を知ったのは成長してからだ。今考えれば、こちらの方がユビキタスネットワークの意味合いに近いのかもしれない。
     小説の中で、ふたりの魂は本来の意味でのユビキタス的に世界へと発露する。魂は時間と空間の制約を受けない存在であり、それはあらゆる時代のあらゆる場所に顕現する。だから、いつ、いかなる場所でも、二人は現れ、惹かれ合う。
     そんな話を読んでいたからあんな夢を見たのだ。そう思って膝丸は自嘲する。未だに手は兄の頭に触れ、その髪の下の確かな熱と質量を感じていた。
     膝丸はこの兄のすべてが欲しかった。時間も空間も超えて、共に在りたいとまで思うほどに、膝丸にとっては兄がすべてだった。かつて、この浅ましい、身の程知らずとも感じる想いが、膝丸の胸の内で温かに、しかし確かな痛みをもって存在するのを認めざるを得なくなったとき、膝丸は兄の前から去ろうとした。折しも進学で、それを可能にする手段があった。胸の内にしまい込んだものは兄と離れて暮らすうちに冷めるだろう、そうすれば自分は兄の弟でいられるのだと自分に言い聞かせて、それを実行しようとした。しかし、その破れかぶれの願いを鮮やかに斬り捨てて、他ならぬ髭切が膝丸を赦した。
     遍在する神、いつ、いかなる場所でも顕れる神。神学と神道、同じ“神”という字を当てられていても、その実は同じものではないことを膝丸も知っている。しかし同じ字を当てられる以上は、似たところがあるのだろう。膝丸の考えるところでは、“神”とは崇高で恐れ多いものだった。だから今、この膝丸にとって、神とは自分の手のひらに伝わる熱を持つ兄より他にない。
     膝丸の神は今、膝丸の隣で幼い頃の面影を残す安らかな横顔で眠っている。それを見ているとなぜだか泣きたくなって、膝丸は深く溜息を吐いた。すると、兄の頭に触れていた手が、温かい手に軽く引っ張られた。
    「泣いているのかい」
     掠れた声で尋ねる兄の目は夢見心地で、目を覚ましたばかりだと容易に知れた。
    「すまない、起こしたか」
    「うーん、大丈夫だよ」
     くあ、とあくびをして、微睡みの淵を彷徨っている髭切が、揺れる瞳で膝丸を見上げる。自分と同じ瞳を持っているのに、自分とは違って、兄の視線は優しい。この膝丸に兄が向ける優しさが、膝丸の喜びであり、悲しみだった。
    「……すまない」
    「大丈夫だって、さぁ、お前もまたおやすみ」
     兄は舌っ足らずにそう言うと、ふにゃりと笑ってまた目を閉じた。
     すぐに規則正しい寝息と共に肩が揺れ始めたのを見て、膝丸の目からは静かに涙がこぼれ落ちた。膝丸の兄への想いは、誰の赦しも必要としない。膝丸が、神の前で膝を折る人間のように赦しを乞いたいのは、いつだってこの兄でしかなかったから、他人の赦しなど初めから意味がなかった。
     膝丸の欲するものは、膝丸の人生の最初から膝丸のそばにあり、それを兄が赦したことに、赦しを乞いたかった。そうすれば、おそらく兄は「僕に謝ってもしようがないよ」と困った顔で笑うだろう。兄を困らせるのは膝丸の本意ではなかったから、こうして眠りに落ちて物言わぬ兄に、膝丸は「赦してくれ」と小さな声で呟く。あなたを手放せない俺を赦してくれ、と涙を拭うために顔を両手で覆ったまま祈ると、兄が言った通り、もう一度シーツに体を滑り込ませた。知らぬ間に冷えていたらしく、隙間がないように抱き寄せて直に触れた兄の背中から、その温もりが自分の肌に柔らかに広がっていった。



     赦してくれ、と俯く弟の声が震えているのを、髭切は黙って見守る。髭切は今、この自分と同じ顔を持った弟に赦しを乞われている。弟がなぜ自分に赦しを乞うのか、髭切には分からなかったが、弟が内心に抱えた痛みを堪えようと俯くのは、髭切にも堪え難かった。弟は髭切の分かたれた半身だった。ずっと、千年の昔から。
     きっと火の中からこの世に産まれる以前から、自分と弟は兄弟であることを定められていたのだろうと髭切は思っていた。名前などという不確かなものは、髭切にとってはどうでもよかった。便宜上必要になることはあって、そんなときでも名前を忘れている自分を弟はよく叱ったが、髭切にとって本当に大切なのは、その名前が指し示す弟それ自体なのだ。いくら名前が移ろっても、髭切の弟は自分を兄者と呼んで慕う弟以外になく、この兄弟という関係は名前の変遷を受けても揺るがなかった。だからこの兄弟は髭切にとって、人が生まれ、生きて、そして死んでいくように至極当然の、この世をこの世として見なすために欠かせない掟に等しかった。「兄弟」という言葉は人間たちから借りたものだが、自分たちは人間によって産まれ、語られるものだったから、それで問題なかった。言葉は腹立たしいほどに不確かだったが、髭切も言葉から逃れることはできない。言葉は詰まるところ言葉でしかないのであって、それが指し示すものそれ自体では決してない。髭切にとって大切なのは、弟の名前ではなく弟自体であり、その弟に対する自分の内心を、本当にそっくり言葉で表すことはできないだろうとずっと昔に諦めていた。感じること、考えること、それを表すことはまったく違うことだと髭切にはとっくに分かっていて、その表すことの不確かさは、時に髭切には堪え難かったから、ただ感じること、考えることに留めてしまうものも多かった。
     弟はその兄の内心を知ってか知らずか、口に出すものが少ないせいでぼんやりしているようにも見える髭切の世話を焼くことに余念がなかった。そもそも、弟とは兄のために働くものと思っているのかもしれない。髭切はそういう弟の働きに無理をしていないか心配はしたけれど、正直甲斐甲斐しく世話をされるのは嫌じゃなかったからいつも弟に甘えていた。もっと踏み込んだことを言うと、弟が自分に執心するのが嬉しかった。後ろ暗いかもしれないが、確かな喜びだった。
     その弟がかつて自分と離されたのは、髭切の内心に冷たい影を落とす出来事だった。兄弟という繋がりは確かに切れなかったが、それまでそばにあったものが突然いなくなるのは恐ろしかった。自分たち二振りは、この二振りでひとつでなければいけなかった。
     きっと弟は、髭切がどれだけ自分に執心しているのか知らないだろう。髭切もそれを表す術を持たず、微笑むだけだからだ。ただ、言ってみるなら、髭切は弟のすべてが欲しかった。あらゆる時のあらゆる場所で共に在りたいと考えるほどに、自分の半身を想っていた。共に重宝として並べられていた屋敷で、互いがあやかしを斬ったそれぞれの夜で、銘々の主に佩かれていた戦場で、語られることもなくなったいつかのどこかで。
     さて、この本丸という箱庭のとある一室で、膝丸は俯いている。弟が何を感じているのか、自分ほど分かる存在はないと髭切は思っていたから、膝丸が自分と距離を置き始めたのに気付いたとき、悲しかった。だからさっき、「お前は、いつも僕を置いていくね」と言ったのには、意地の悪い意図があった。お前も僕と同じものを抱えているだろう。僕たちは互いの半身なのだから。
     しかし、実際に泣きそうな顔になる膝丸を見ると心苦しかった。こうして一緒にいられるのに、なぜ傷つけ合わないといけないのだろう。
     机の上に積まれた本に添えたままの右手で、その一番上に置かれている本の表紙を撫でる。遍在する魂の話だった。あらゆる時代のあらゆる場所で、巡り会い、惹かれ合うふたりの物語。自分たちもそうだといい。いつでもどこでも、自分の半身を思ったり、涙を流すのを抱き寄せて慰めたり、肌を合わせて眠るのに、誰の赦しもいらない。そしてそれは、今も。
     赦してくれと懇願してから俯いたままの弟の姿は髭切には悲しくて、その右手で膝丸の長い前髪を掬うように撫でた。灰に薄く緑を被せた色の髪は、その色の通り、そしてこの夜のように冷たい。髭切の手が髪を撫でるのに膝丸は顔を上げて、涙の膜を張った瞳で髭切を見た。その自分と揃いの琥珀に、自分の顔が映っているのを見て、髭切は思わず微笑む。そのまま右手で膝丸の頬を撫でると、左手で膝丸の片腕を引いた。体勢を崩して倒れ込む形になった弟を抱き止めると、髭切は自分の首筋に弟の髪が触れて冷たいのを感じた。それもすぐ、互いの体温で解けていった。
    「お前は僕に赦しなんて乞わなくていいんだけどね」
     あやすように肩を叩きながら言うと、膝丸の腕が髭切の背中に回った。こうして弟が自分を求めるのは間違いなく喜びであるのに、髭切の胸中は何かに締め上げられたかのように切なくなった。髭切の悲しみも喜びも、弟が運んでくる。そしてそれを受け止めるとき、髭切の胸中には温かで、痛みを伴うものが満ちる。弟もきっとそうだろう、だから赦されたくて仕方ない。膝丸が欲する赦しがどういうものであるか、髭切は正しく理解していたが、同時に言葉の不確かさもよくわかっていたから、すぐに首を縦に振ることができないでいる。
    「俺はあなたの、ちゃんとした弟で在りたい」
     首筋に何か、温かいものが流れていくのに気付いて、髭切は口先では「ありゃ」と言いながら懐かしい気持ちになった。千年の昔から弟は泣き虫で、自分はそれをなだめられる唯一の兄なのだ。
    「僕たちはとっくに兄弟なんだから、そんなこと気にしなくていいのに」
    「しかし、兄者」
     膝丸が髭切の首筋から顔を上げる。束になった睫毛と、濡れた頬が室内灯の光をてらてらと跳ね返すのを見て、髭切は笑った。
    「お前は何も悪いことなんてしていないし、赦されるべきことなんて何もないのだけれど」
     髭切の鼻先で、目を丸くしてこちらを見上げる弟から、確かな熱と質量が伝わってくるのに目を細める。この揺れる瞳も、脈打つ心臓も、千年の昔から髭切と共に在るべき大事な半身だった。それが今、自分の腕の中にある。それは、とても尊いことだ。髭切が本当に欲しいのは、いつだってこれだけだった。
    「それでも、お前が僕に赦しを乞うなら、お前が苦しいというのなら、僕はお前を赦そう。でも——」
     いつ、いかなる場所に在るにせよ、今、これだけは言っておかねばならない。いつか、どこかでまた、自分たちが必ず巡り会うために。互いの魂が互いを手放さないために。
     そう思うと、髭切の胸中にしまってある熱が、溢れるように体内を巡っていって、喉と目の奥を焼いた。きっと自分の、目の前の弟と同じ顔は、しかし弟とは違うやり方で泣くだろう。それをわかっていたから、視界が滲んでいくのを考えないようにしながら、髭切は震える喉で絞り出した。
    「お前は、決して僕を赦さないで」
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/06 22:26:46

    連星の永い午後

    本丸とかつてと現パロ(のようなもの)が入り乱れます

    #膝髭膝 ##膝髭膝

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