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    幾夜寝覚


     二月にしては暖かい日だった。出陣から戻った平野藤四郎は、本丸の門近くに植えられた梅が可愛らしい花を開かせているのを目に止めて、思わず口許を綻ばせた。
    「どうした」
     すると、隣から低い声で話しかけられた。突然のことに驚いて肩を揺らすと、声をかけた大包平はその平野の挙動に驚いたのか、鋼そのものと同じ色の目をぱちくりさせて、平野の顔をじっと窺った。連隊戦で顕現したばかりの大包平は、修行から戻ったばかりの平野と同じ部隊に組み込まれることが多い。彼の古馴染みの鶯丸は平野にとっても知己であり、その鶯丸から「馬鹿なことをやらかすだろうがよろしく頼む」と言われているのだが、平野はそのことを大包平には言えずにいる。
     恥ずかしいところを見られてしまった、と頬を赤くしながら、平野は「ああ、いえ」などと意味のないことを言いながら、体の前で両手を遊ばせる。その様子を見て大包平の眉間に皺が寄った。要領を得ない反応のためだろう、ただの返答に窮するなんて自分らしくない、と思いながら、平野は視線を梅の枝へ移らせる。
    「その、梅が咲いていたので」
    「ああ」
     つられて目線を動かした大包平は、納得したような声を出した。自分から視線が移ろうと酷く安心した。大包平はまだ特がついたばかりで、戦場での働きも今は自分の方が長じているという自負があったが、向き合ってみると気圧されてしまうことがある。刀剣の横綱、最高傑作は決して虚勢ではなく、ただいるだけで空気を集めるような凄みがあった。
    「平野は花が好きか」
     隊長を務めていた大典太光世は、前田藤四郎に付き添われて審神者の許へ報告に向かった。他の部隊員も思い思いの場所へと散り、庭にいるのは平野と大包平だけであった。平野は大包平の問いに、一度唇を引き結ぶと、頷いた。
    「はい。花を見ながら、お茶をいただくのも好きです。この本丸に来てから、仕事のないときは鶯丸さまとそのように過ごすことが多かったので」
    「そうか。あいつも好きだな」
     大包平は鼻を鳴らすように軽く笑った。馬鹿にしているのではなく、気安い間柄を物語るような柔らかい音だったため、平野の頬もほんの少し緩んだ。
    「今は僕が出陣することが増えたため、以前より回数は減りましたが、非番のときにはお供させていただいています」
     鶯丸は練度上限に達して、出陣の回数は減っていた。時折遠征には向かうが、大抵は縁側でのんびり茶を飲んでいたり、書庫から借りた本を読んだりして時間を潰していることが多い。こうして鶯丸の時間が余っていることは、顕現したばかりの大包平の世話を焼くには好都合だったのだが、大包平というのは元来が器用な質だったらしい。以前平野と茶を飲んだときに鶯丸は、「教えることがなくなってきてつまらん」とこぼしていた。
    「大包平さまも、お時間が合ったときには是非」
     平野がいささか緊張した面持ちのままそう言うと、大包平は少し目を丸くしてから「考えておこう」と頷いた。それを見届けた後、平野は一礼して大包平の許から去った。

     去っていく平野の小さな背中を見つめながら、大包平は知らず腹に込めていた力をほんの少し緩めた。鶯丸と共にいることの多い、あの小さな刀がどういうものか、大包平は計りかねている。独特の歩調で生きる鶯丸と共にいることが多いのだから、よく気のつく質なのだろうということは推し測れたが、どうも距離を掴みきれないでいた。普段ならこんなことは考えず過ごそうとするのだが、数日前に生まれた気がかりがあった。
     その日は、平野の兄弟刀が修行に旅立った日だった。たまたま近侍を務めていた大包平は「修行なんて軟弱な剣のやることだ」と審神者に向かってこぼした。審神者が苦笑いで受け流したその言葉を、ちょうど茶を運んできた平野も聞いていた。
     ――自分の間の悪さは即座に理解したが、撤回する気はなかった。しかし、どこかばつの悪い思いで平野の反応を窺うと、平野は何も言わず、丁寧な所作で一礼して去っていった。大包平には彼の真意はわからない。わかったのは、その口許がいつもより固く結ばれていたような気がしたことだけだ。審神者も何も言わず、すぐさま仕事に戻った。
     その日の仕事をすべて終えた後、不要な気がかりを増やした、と思いながら部屋に戻ると、鶯丸が茶の用意をしていた。
    「今日は栗きんとんだ」
     どこか上機嫌にそう言った鶯丸は、大包平の眉間に皺が寄っているのをみると、ふ、と笑った。大包平には見慣れた表情だった。
    「また馬鹿をやったのか」
    「やかましい」
     言うと思った、と口には出さず思いながら、戦装束を解く。鶯丸はふたり分の茶碗に煎茶を注いでいた。
    「まぁ、俺はお前の馬鹿には慣れているがな」
     詰襟も脱いでシャツ一枚の姿になり座卓につくと、茶碗を差し出された。萩焼きの柔らかな色の中に、鶯丸の目によく似た色の液体が少しの湯気をたてている。
    「お前、平野という短刀とは馴染みだろう」
     軽口には応えずに話を切り出すと、両手で同じ茶碗を包むように持った鶯丸はちらりと大包平を見た。大包平は、憮然とした表情を崩さない。
    「あれは、どういう刀なんだ」
     そう言って茶を口に含むと、深い甘みが広がった。大包平は顕現したばかりだが、鶯丸の入れた茶が一番美味いと感じる。
    「どういう刀と言ってもな……良い刀だよ。ここにいる皆と同じように」
     煙に巻くような返答に睨みつけたが、鶯丸はやはりいつもの微笑をたたえた、涼しい顔をしていた。
    「俺が言えるのは、この栗きんとんを平野も好きだということくらいだな。後は自分で考えろ」
     他人が何て言うかなんて気にするなと言っているだろう、と言うと鶯丸は上品な仕草でその栗きんとんを小さな口へと運んだ。そう言われてしまえば言い返すことができず、大包平も栗きんとんを頬張った。くどくない甘味が、優しく舌の上に広がった。

     そのときのことを思い出しながら部屋に戻ると、やはり同じように鶯丸が茶の準備をしていた。今日はウグイス餅だ、と言いながら、戦装束を解く大包平を横目にいつもの急須で茶を注ぎ始める。部屋の中にほうじ茶の香ばしい匂いが漂った。
     飽きもせずに毎日よくやる、と半ば感心しながら大包平もいつものように座卓につく。
    「今日は何か馬鹿なことをやったか?」
     からかう調子で鶯丸が訊ねるのを、睨み付けることで返答とすると、鶯丸は喉を鳴らして笑った。何がそんなに楽しいのか、理解できない大包平は無言で茶碗を煽る。茶の温かさに一息吐くと、鶯丸が自分を見つめているのに気がついた。両手はやはり行儀良く茶碗を包んでいる。
    「――平野が」
     間を保つように話し始めると、鶯丸はわずかに口角を上げた。些細な動きだが、精緻な顔には満面の効果だ。鶯丸が平野という刀を気に入っているのが如実に分かる。
    「次に時間が合えば、お前と俺と三人で茶を飲もうと言っていた」
     何の報告だ、と自分でも思いながら誤魔化すように茶を啜ると、鶯丸は「それはそれは、時間を作らないとな」と頷いた。
    「お前はいつも時間があるだろう」
    「そういうわけでもない。今日は博多が戻ってくるから、御馳走の用意を手伝っていた」
    「博多?」
    「まだ名前を覚えていないか。数日前に修行に行っただろう。平野の兄弟刀だ」
     平野に気まずさを覚えた日を思い当たって、大包平は黙り込んだ。鶯丸はそんな大包平の様子にわずかに首を傾げたが、何も聞かなかった。
    「なぜ、刀が修行になど行くのだ」
     答えを求めた疑問ではなかった。しかし大包平の口から滑り出たそれに、鶯丸はいつもの涼しい声で応えた。
    「自分の在り方を知りに行くのだろうよ」
     大包平がその言葉に視線だけで鶯丸の顔を窺うと、鶯丸は目を伏せて手の中の茶碗を見つめていた。長い睫毛が、瞬きに揺れていた。
    「自分が何物かを知れば、どう在りたいかの望みも自ずとわかるだろう」
    「そんなことは、皆知っていることではないか」
    「だから確かめに行くんだ」
     即座に、静かに言い返されて大包平は口をつぐんだ。確かめに行く、という言葉には有無を言わせぬ強さがあった。
    「――お前は、今、何か望むことはあるのか」
     ふと口を出た言葉に自分でも驚いた。しかし表情を変えないくらいには落ち着いていた。鶯丸の顔をじっと見つめていると、「そうだなぁ」と柔らかい声を出しながら、鶯丸は視線を上げた。そのまま、煙った優しい色合いの緑の目で大包平をまっすぐ捉えると、その大きな目を細めた。
    「今まではお前が来るのを待っていたのだが、お前はやって来た。だから、これからはこうしてお前がいてくれれば良い」
     そもそも俺の望みはずっとそうだ、と言うとまた長い睫毛を伏せて茶碗に視線を戻した。その言葉と、鶯丸の長い睫毛が小さく震えるのを心に留めながら、大包平は何も応えられず茶碗の中身を飲み干した。



     博多藤四郎の帰還を祝して始まった宴会は、いつの間にか飲み比べに発展した。自身の歓迎会で日本号と次郎太刀に潰された大包平は今回の飲み比べは辞退し、そのふたりに加え、笑い声をあげっぱなしの陸奥守吉行と岩融、いつもは隅で静かに飲んでいる長谷部、そして顔色ひとつ変えずに盃を空けていく小烏丸という面々が車座になっているのを横目で見ながら、自分の盃で唇を湿らせていた。向かいの席では同じように飲み比べの様子を苦い顔で見守る膝丸が座っている。おそらく膝丸も自分の歓迎会で潰されたのだろうと、大包平は踏んでいる。
     主役の博多は日本号の膝の上できゃあきゃあと楽しそうな声をあげている。博多は晴々しい顔で修行から帰ってきた。その顔の晴々しさは覚えていても、理由は知らず、大包平はたまに目でその様子を追っている。
    「やはり飲み比べに参加したいか?」
     酒を飲むのを早々に止めた鶯丸が、隣の大包平に訊ねると「そういうわけではない」と応えが返ってきた。
    「刀剣の横綱ともあろうものが、それで良いのか」
    「その手には乗らん」
     なんだつまらん、と言う鶯丸は酒を多く飲んではいないが、宴会の空気に酔っているらしかった。いつもよりすぐ笑う、と思いながら大包平は自分の盃を見る。膝丸の隣の髭切が飲み比べの様子に「おお、すごい」と間の抜けた感嘆をもらした。
    「あのときの飲み比べは傑作だったな。お前、顕現したばかりなのに日本号に挑むとは」
    「顕現したばかりだからこそだろう。もう同じことはやらん」
    「そうか、学びはするんだな」
     むっとして鶯丸を睨むと、前髪のために顔がよく見えなかった。口許の微笑はいつも通りで、大包平は小さく舌打ちをする。
    「――修行のことが頭から離れないか」
     心を見透かされたようで、自分より低い位置にある鶯丸の小さな頭を見つめると、鶯丸は今度は大包平を上目に窺った。緑の目が、じっと大包平の目を見ていた。
    「お前の観察は面白いからな、お前の考えていることが分かるときもある。しかし、修行についてはまだお前には関係のない話だろうよ」
     わかったような口をきくのが面白くないものの、言い返す言葉が見つからず大包平は鶯丸から目を逸らしてむくれた顔をした。その顔に鶯丸は楽しげに笑った。
    「馬鹿なことをやりそうな顔だ」
    「馬鹿と言うな」
     条件反射のように応えると、鶯丸は無邪気に頬を緩ませていた。顕現するより前、遠い昔に共に仕舞われていた頃から、大包平はこの鶯丸の笑みに弱かった。普段何もかも見通したような微笑を浮かべているのに、時々驚くほど無垢な笑顔を浮かべた。顕現してからはその無垢な破顔を目にすることが多い気がしたが、離れていた時間が長いからかもしれなかった。
     今回もその笑みに黙り込んでいると、「なんだ、兄弟喧嘩か?」とゆったりした声が割り込んできた。小烏丸が表情を変えず、髭切の隣に腰を下ろした。
    「もう飲み比べはいいのかい?」
     髭切が訊ねるのに、小烏丸は頷く。
    「父は子らと存分に飲めて満足した」
    「その割りには酔っておらんように見えるが」
    「ふふ、酒はほどほどにするものぞ」
     膝丸の言葉に応えながら、小烏丸は大包平に頷いた。こいつも前回の飲み比べのことを言っているのだろうと、大包平はその白い顔を睨み付けたが、小烏丸は目を細めただけだった。
    「しかし、博多もしっかりした子よ。自分に何ができるのかしっかり見極めて帰ってきた。博多だけでなく、短刀たちはよく働くな。今も、平野や前田などは配膳の手伝いに動き回っているではないか」
     我も茶が飲みたい、と続けて呟いた小烏丸は、顔には出ていないが随分と酔っているのかもしれなかった。普段よりとりとめもないことを話し続ける。その様子に膝丸が立ち上がって、茶をもらいにいった。
     小烏丸は大包平と鶯丸の顔を見比べて、ふうっと息を吐いた。
    「兄弟喧嘩もほどほどにな」
    「喧嘩しているわけではない。そもそも兄弟とは」
    「うーん、あまり細かいことは気にしないでいいんじゃないかな」
     髭切が間延びした声で口を挟むのに、大包平は開きかけた口をつぐんだ。このふたりは元々の鷹揚さに加え、今は酔っぱらいなのだ。相手をするだけ疲弊するのは分かりきっていた。隣の一応素面だろう同胞は、味方にはなってくれないだろう。
    「まぁ、この父からすれば、どの刀も皆、子のようなもの。すなわち皆兄弟よ」
    「うんうん、生まれが近ければ尚更だよ」
     髭切がそう付け加えたとき、薬缶を持った膝丸が戻ってきた。
    「何の話をしていたのだ?」
    「兄弟は良いねって話さ」
     髭切がにこやかにそういうのに、膝丸は「そうだろうとも」と満足げに笑った。
    「君たちは仲の良い兄弟だからな」
     膝丸の言葉を受けて続けたのは鶯丸だった。その言葉に得意気に頷く膝丸に視線を向けていて、大包平からはまた表情を窺えなくなっていた。
    「仲の良さを保つ秘訣を知りたいものだな」
    「細かいことを気にしないことだよ、名前とか」
    「こういうのも受け入れることだ」
     図ったような兄弟の応えに、小烏丸が笑った。
    「だそうだぞ」
     鶯丸も笑っていた。笑っていたが、大包平と目を合わせなかった。
    「こいつも神経質なところがあるからな。俺も他人の言うことなど気にするなと言っているんだが」
     わざとらしい溜め息より、目が合わないことがどうしてだか不快で、大包平は苛ついた。苛つくが、その不快の理由がよくわからず、眉間に皺を作る。
    「うんうん、そうだよね、名前とかはどうでもいいよねぇ」
    「兄者、もう酒はやめておけ」
     髭切から盃を取り上げた膝丸が、茶を注いだ湯飲みを手渡す。髭切は文句も言わずに笑ったまま、その湯飲みを受け取った。
    「なんだ、思ったより深刻な兄弟喧嘩だったか?」
     我にも茶をくれ、と膝丸に湯飲みを差し出しながら、小烏丸は小さな頭を傾げる。膝丸は「自分で入れろ」と言いながらも注いでやっていた。
    「だから喧嘩などしていない」
    「まぁ、それは確かにそうだ。喧嘩しているわけじゃない」
     鶯丸も同意した。大包平はまた鶯丸の方に視線を落としたが、鶯丸はやはりこちらを見ない。
    「なんだ、そうなのかい? 君が何か知りたがるなんて珍しいと思ったのだけど」
     髭切の言葉に鶯丸は笑う。その口許を見ながら、大包平はぐっと眉間の皺を深くした。
    「特に意味はない。まぁ、俺も酔っているんだろう」
    「――どうだか」
     苛つきを抑えられない大包平は、鶯丸の前髪に隠された顔を見ながら言った。鶯丸はほんの少し、大包平の方に顔を動かしたが、やはり視線は合わせなかった。
    「お前、俺に何か不満があるんじゃないのか」
    「どうしてそうなる」
    「ないならこんな席で俺のことを愚痴ったりしないだろう」
     大包平が畳み掛けると、鶯丸の口許から微笑が消えた。向かいに座った三人は、言い合いを始めた古備前ふたりを面白そうに、あるいは心配そうに見守っている。
    「……愚痴ったつもりはなかった」
    「そうか、俺が神経質なだけか」
     憮然とした声で続けると、鶯丸は小さく口を開いて何か言いたそうにしたが、一度口を閉じるといつもの微笑に形作った。その動きに次に来る言葉を察知して、大包平は頭に血が上るのがわかった。
    「まぁ、他人の言うことは気にするなと言っているだろう」
    「お前はまたそう言う!」
     大声が響いて広間にいる刀たちはぎょっとしたが、その出所が大包平なのを知るとそれぞれの話に戻った。当の大包平はそれに気づかず、鶯丸に大声で続ける。
    「言っていることはもっともだが、お前は自分の言ったことにもそう言うのはどうなんだ! 俺に言うことに逃げ道を作るな! そもそも俺とお前の間柄を他人とはどうなんだ‼ 兄弟と言いながら! 都合の悪いときは他人と言って‼」
     そこまで言うと大包平は目を見開いた鶯丸がこちらを見ているのに気がついて、言葉を詰まらせた。大きな目を見開いた顔は、やけに幼く見えた。その幼けな表情を意識すると、何と続けようとしたのか分からなくなって、「部屋に戻る!」と言い捨てて立ち上がった。
     そのまま大包平は鶯丸に目もくれず、どすどすと足音を立てながら去っていった。大声をあげる大包平を面白そうに見ていた三条たちに誘われたようだが、それも大声で「結構だ‼」とはね除けて、広間を出ていった。その後ろ姿を見送った源氏兄弟と小烏丸は、鶯丸の方に顔を戻すと揃って目を丸くした。
     台所から顔を出したばかりの平野も、大包平の大きな背中を見送った後に座ったままの鶯丸の顔を見て目を見開いた。
    「鶯丸さま、今日はお酒をよく飲まれたのですか? お茶を持ってきましょうか」
    「ああ……いや、茶はある。大丈夫だ」
    「そうですか? おかわりが必要なときは、お声をかけてくださいね」
     心配そうに鶯丸の顔を覗き込んだ後、平野は空の皿を持って台所へ戻っていった。膝丸と髭切は目を丸く見開いたままの同じ顔で、鶯丸を見つめていた。
    「……君、そんな顔もできたんだな」
    「野暮だよ、酒丸」
     いつもは即座に名前を訂正する弟も、鶯丸の珍しさにそれを忘れた。小烏丸は愉快そうに「まだまだ若いな」と笑って、鶯丸の湯飲みに茶を注いでくれた。

     先に部屋に戻った大包平が律儀にふたり分の布団を敷き、自分の布団にくるまって目を閉じた頃、鶯丸も戻ってきた。戸を静かに閉める音、移動に床が軋む音を聞いても大包平は目蓋を上げなかった。なんとなく気配で傍に膝をつくのを感じながら、寝たふりをする。
    「大包平」
     細い声だったが、周りが静かだったために問題なく耳に届いた。確かめるような沈黙が続いた後、頭に何かが触れた。
     髪をすくように動いたそれに、鶯丸の手だと大包平は思い至った。何度かそうして櫛を通すように動いた後、なだめるような重みが頭にかかった。しばらく確かめるように置かれていた手は、ふと離れていって、また床の軋む音が聞こえてきた。
     暗い部屋の中で、鶯丸が寝巻きに着替える衣擦れの音を聞きながら、大包平は眠りについた。



     目を覚ましたときには、鶯丸の姿はなかった。部屋の隅に寄せられた布団をしばらく眺めた後、大包平は身支度を始めた。今日は久々の非番だった。
     朝食をとるために広間へ向かうと、昨日の宴会の名残は既になかった。食事を受け取って部屋を見渡す内に目の合った髭切が、大包平にひらりと手を振った。
    「弟はどうした」
     髭切の向かいに腰を下ろしながら訊ねると、茶椀を持った髭切は笑みを崩さないまま、目をぱちくりさせた。
    「弟は今日は、君の兄弟と遠征だよ。結構前から決まっていた予定みたいだけど」
     聞き覚えのない話に、次は大包平が目を丸くした。しかしすぐにしかめ面になって、味噌汁の椀を持つ。その大包平の変化に、髭切はほんの少し、目を細めた。
    「だから昨日、彼と僕の弟はあまり飲んでいなかっただろう? 僕はてっきり、君も知っているのかと思っていたのだけど」
    「――あいつは、あまり自分のことを話さない」
     口に出して、自分が鶯丸に抱える苛立ちはこれに拠るところが大きいのではないか、と思い付いて大包平は唇を引き結んで目を伏せた。鋼の目が睫毛の影に濃い色に変わるのを見ながら、髭切も「うんうん」と相槌を打った。
    「確かに、彼は君の話ばかりしているよね」
    「は?」
    「おや、知らなかったのかい。彼の口から出ることなんて君のことばかりだよ。それこそ、君を待つ間もそうだったし」
     まぁ僕たちは彼を一年しか知らないんだけどね、と続ける髭切の顔を見ながら、大包平は胸に何かが詰まるような、奇妙な感覚を覚えていた。
     二年。二年待ったと、審神者や世話焼きな脇差たちが大包平に言うことはあったが、当の鶯丸は「まぁ、細かいことは気にするな」と静かに笑うだけだった。大包平を馬鹿だとからかうときや手合わせに臨むとき、昔より表情豊かになった気がして目を見張ることもあったが、大包平とふたりで茶を飲むときの緩やかな呼吸、行儀良く茶碗に添えられた形の良い爪などの些細だが誤魔化しのきかないところに、「これこそが鶯丸だ」と大包平を納得させる説得力があったため、顕現して久々に顔を合わせたとき以上には離れていた時間を強く意識することはなかった。
     大包平から見た鶯丸は、昔と何ら変わっていないように見えた。力まずして伸びた背筋、口許の薄い笑み、落ち着いた緑の目、すべて見覚えがあるものばかりなのに、こうして他人から聞く鶯丸は、知らない者に思えた。
     沈黙した大包平から目を離して、髭切はひとりごとのように続ける。
    「僕もよく、細かいことはいいとか言って投げ出すなって弟に叱られるのだけど、僕から言わせればどうでもよくないことがあるから、それ以外はどうでもいいだけなんだよね」
     そうして汁椀の中身を空にすると、「弟はお昼過ぎに戻ると言っていたよ」と付け加えて、湯飲みを手に取った。
     大包平も黙って食事を進め始めた。しばらく黙々と箸を進めていたが、ふと箸を止めて「おい」と声をかけた。呼び掛けられた髭切は、右手で運んでいた湯飲みを口から離した。
    「ここにいる刀たちの中で、鶯丸と一番親しかったのはどいつだ」
    「ううん、誰だろうね。あの、粟田口の目端の利く行儀の良い子じゃないかな。よく一緒にお茶している」
     髭切の返答に、そうか、と短く応えて大包平はまた箸を進め出した。髭切も深く詮索はせずに、ゆっくりと食後の茶を味わった。

     平野藤四郎は久しぶりの非番を書庫で過ごしていた。修行から帰ってきたばかりの博多が、脇差や練度の上がりきっていない短刀たちと池田屋へ出陣することになったためだった。兄弟たちはほとんど出陣していたから、平野はひとりで時間を潰すために本でも読もうと思ったのだ。
    「平野はいるか」
     書庫の奥に座り込んでいた平野はよく通る声に驚いたが、反射的に「はい!」と返事をした。その返事に平野の居場所を知ったらしい声の主は、迷わずに平野の許へやって来た。大包平は、床に腰を下ろした平野の前で仁王立ちした。
    「この後、時間はあるか」
    「はい」
     声が震えないように気をつけて返事をした平野は、座り込んだまま背の高い大包平に見下ろされるといつもより威圧感が増すのを感じていた。書庫の空気は、大包平が現れてから平野を押し潰しそうとするものに変わっていた。無意識にぐっと唇を噛み締めながら、平野は高い位置にある大包平の顔を見上げていた。大包平もしばらく、平野をじっと見下ろしていた。しかし、ふと視線を逸らした。
    「――頼まれてくれ」
    「は?」
     思わず聞き返すと、大包平はじろりと平野に視線を戻した。うっと肩を竦めはしたが平野は聞き返した手前、目を離さなかった。大包平は今度は平野と視線を合わせたまま、なぜだかばつが悪そうな顔で言った。
    「万屋に買い物へ行くから、同行してくれ」
    「は」
     はあ、と辛うじて同意の意を示した息を漏らした平野に、大包平も大きく頷いて息を吐いた。

     出陣するわけではないが内番着のまま外へ出るのも気になって、平野と大包平は戦装束の武装を解いた状態、すなわち平野は粟田口揃いの紺色の制服、大包平は鶯丸と揃いの黒い詰襟で門を潜った。玄関で同じく非番だった三日月宗近がふたりを見て「買い物か? 俺も行きたいなぁ」と声をかけたのに大包平が「天下五剣はついてくるな‼」と怒鳴ったのを見て、平野はいつだったか鶯丸が言っていた「馬鹿をやらかすだろうがよろしく頼む」とは、こういうときのことだろうか、と密かに考えた。怒鳴られた三日月は愉快そうに笑っていたが、通りすがりの大典太がびくりと大きな体を竦ませたのは申し訳なかった。
     しかし大包平が大声を出したのはそのときだけで、門を潜った後のふたりは無言で歩いていた。少し後ろをついていこうとすれば、大包平が歩幅を落とすので隣に並ぶしかなかった。平野の視界の端には、いつもは黒い手袋で隠された大包平の右手の肌が映っている。
     買い物の同行を頼まれたのはわかったが、なぜ自分なのか、何を買いに行くのかわからないまま、平野は歩いていた。万屋が近づくうちに沈黙に堪えきれず、平野は「あの」と声をかけた。思ったより細い声が出たが、大包平の耳には届いたらしく「ああ」と短い返事が寄越された。
    「僕は何のお手伝いをすればいいのでしょう」
     ちらりと上目で窺った大包平は、思案するように中空を眺めていた。
    「お前は、鶯丸と親しいと聞いた」
     割合に穏やかな声が語り出すのに、平野は顔を上げた。大包平は前を見たまま話している。
    「いつも茶を入れてもらってばかりで、茶菓子の用意もしたことがなかったのでな。お前なら、鶯丸の好む菓子も知っているだろう」
     いっそ小気味良いほどの驚きだった。その驚きのまま大包平の顔を見つめる平野に気づいて、大包平は「何だ」と唇を尖らせた。そういう表情をすると随分幼い顔に見えた。
    「いえ……お茶菓子ですね。お任せください」
    「ああ、よろしく頼む」
     ――どこか言い回しが鶯丸に似ている、と感じて平野は少し笑った。

     平野が見繕った詰め合わせと、いくつか単品で菓子を買った後、ふたりは帰路についた。大包平はほとんど平野の勧める通りに菓子を買ったから、買い物に時間がかからなかった。
     帰路はまたも無言だったが、平野の気分は来たときよりも少し楽だった。このまま歩いていって本丸の門を潜れば解放されるのがわかっている安堵からでもあり、頼まれたことを問題なく果たせた自負からでもあった。
     万屋のある通りから離れ、人の数もまばらになった頃、大包平が話し出した。
    「お前はいつも、鶯丸とどういう話をするんだ」
     普段の居丈高な調子は控えめの声で、平野はまた上目で大包平を窺った。この方は鶯丸さまの話をするときはお優しい声なのかもしれない、とふと思った。やはり大包平は平野を見ずに、前を見ていた。
    「お茶やお菓子の話をすることもありますし、本丸であった出来事の話をすることもあります。でも、僕が一番鶯丸さまから聞いたのは、大包平さまのことです」
     平野の言葉を聞いた大包平は、表情を変えず、しかし何かを噛み締めるような重さで「そうか」と応えた。またしばらく沈黙が下りた。平野は腹を決めて、大包平に話を切り出した。
    「あの、大包平さま。先日の修行のことについてなら、お気になさらないでください」
     大包平はその言葉に足を止めて、平野の方へ顔を向けたが、恐ろしいほど無表情だった。そうして無表情でいると、整った顔立ちのためか、切れ長の目の鋭さがよく分かって恐いくらいだった。しかし、平野は怯えずに話を続けた。
    「大包平さまの言うことはもっともなのだと、僕も思うところがあります。僕たち短刀は、夜戦や室内戦こそ得意ですが、単純な力はやはり弱いですし……それでも僕たちは、この体を得たからにはやはりどうにかして、もっとお役に立ちたいのです」
     短刀というのはそういうものなのです、と平野は大包平から視線を外すと、優しく垂れた目を伏せた。
    「……なるほど、良い刀だ」
     大包平の言葉に、平野はその伏せた目を次は丸く見開いた。無表情だった大包平は、はあ、と息を吐くとむくれたような顔をした。
    「俺は言い訳をしたいわけではないし、お前に文句を言わせたいわけでもなかった。しかし、気がかりを放っておくのもどうにも収まりが悪い。そう思ってここ数日過ごしていたが……こういうのを上手く納めるのは、俺は不得手のようだ」
    「――そうおっしゃるなら、もうこのお話は終わったことに」
     そうする、と頷く大包平を前に、ようやく平野は子どものように笑った。
    「しかし、鶯丸は本当に俺の話ばかりなのか」
    「ええ、そのようです」
     再び歩き出したふたりは、どうにか息をするのが楽になったように感じながら話し出した。もう以前のように、張り詰めた空気の心配はしなくて良かった。
    「あいつは自分の話はしなかったのか」
    「あまりなさらないですね……でも、僕は、大包平さまのお話をする鶯丸さまが好きです」
     大包平は怪訝そうに眉根を寄せた。平野はそれに笑いかけて、秘密を打ち明けるような声色で話した。
    「鶯丸さまはお静かな方ですが、大包平さまのお話をしているときが一番楽しそうに見えます」
    「……どうせ馬鹿だと言っていたんだろう」
     大包平の言葉は、ふふ、と笑って流して、平野は笑顔のまま前を向いた。本丸の門が既に見えていた。
    「しかし二年も、よく話題が尽きなかったな」
    「いえ、それは、同じお話を聞くこともありましたが」
    「……よく我慢できたな」
     門を潜りながら、大包平がしみじみそう言うと、平野はどこか笑いをこらえるような、むず痒そうな顔をした。
    「ふふ、あの、二年とおっしゃいますが、僕にとっては二年ではなかったので」
     大包平がまた足を止めたので、平野も足を止める。門の辺りでは数日前に咲き始めた梅が、良い匂いを漂わせていた。
    「僕は、東の御所で鶯丸さまとお会いしたときから、大包平さまのお話を度々お聞きしておりました。ですから、実を言うと、こうして大包平さまと実際お話しできるようになって、とても嬉しいのです」
     子どもらしい晴れ晴れとした笑顔に、大包平は呆気にとられて瞬きした。そのまま「お手伝いできて良かった」と立ち去ろうとした平野が一礼するのに我に返って、慌てたように呼び留めた。
    「まだお手伝いできることがあるでしょうか」
     何なりとお申し付けください、と胸を張る平野に「そうじゃない」と断って、大包平は万屋の袋を漁る。
    「平野、手を出せ」
    「はい」
     平野が行儀良く差し出した両手に、大包平は袋から取り出した可愛らしい包みを置いた。大包平の手には随分小さく見えたそれは、万屋で買った菓子のひとつだった。
    「栗きんとん、ですか」
    「ああ。鶯丸が、お前はこれを好むと言っていた」
     手の上の包みを見、大包平の顔を見た平野は目をぱちぱちと瞬かせた。
    「今日の駄賃だ。もらっておけ」
    「――ありがたく、頂戴いたします。大切にいただきますね」
     ふにゃりと頬を緩ませると余計眦が下がって随分幼く見える、と思いながら、大包平は頷いて返事とした。

     平野は大事そうに両手で菓子の包みを持ったまま去っていった。大包平は未だ門の近くに立ちながら思案している。先日平野が顔を綻ばせて見上げていた梅は、良い香りを惜しげもなく風にさらわせている。
     ――あのとき平野から、鶯丸は花を見ながら茶を飲むと聞いたのだった。
     思案を止められないのは、鶯丸のせいだった。自分のことを語らないから、他人から聞いたことを元に、何を考えているのか推測するしかない。
    「他人のことなど気にするな」と言う当の本人がこの様なのはどうなんだ、と悪態をつきたい気分にもなったが、胸の内に詰まったもの、ずっと引っ掛かっているものが何なのかもう少しで分かりそうな気がして、考えるのをやめられなかった。
     大包平の不在の二年を「細かいこと」と涼しく笑った。体を得てから習得したらしい茶の腕を、ほぼ毎日飽きもせず大包平に振る舞う。「お前を観察するのは面白い」とまっすぐ見つめてくると思えば、「他人が何て言うかはどうでもいい」と嘯いて目を逸らす。
     大包平の話ばかりしているという。飽きもせずに同じ話を、二年。いや、平野が言うにはそれ以上――。
     糸口を掴んだ気がして、大包平はその大きな手で口許を覆った。
     兄弟と言いながら、他人と逃げる。精緻な美貌を崩して、無邪気に笑う。望みは、と問われて、お前がいてくれれば良い、と言う。そうして伏せられた、あの長い睫毛は、なぜ震えていたのか――『俺の望みはずっとそうだ』と付け加えながら。
     望み。鶯丸の望むこと。鶯丸が語った、数少ない自らのこと。それを思い出し、震える睫毛の理由を理解して、大包平は顔を一気に赤くした。そうして自分が鶯丸に覚えた苛立ちの理由も一挙に得心して、鶯丸とふたりで使っている部屋へと向かうために歩き出した。
     靴を脱いで足音を控えもせずに歩いていけば、広間の前で内番着姿の髭切に戦装束のままの膝丸が小言を垂れていた。膝丸は向かってきた大包平を見てぎょっとした顔をしたが、何も言わなかった。そのまま通り過ぎていった大包平の背中に、髭切は「おお、こわ」と取って付けたように呟いた。廊下を歩いていく途中ですれ違った、どこか眠そうな顔の小烏丸は、大包平の顔を見て微笑みながら頷いていた。道中で会うすべてが煩わしくて、大包平は足を急がせる。今は早く、鶯丸と話がしたかった。話して、自分の思うことを確かめたかった。
     辿り着いた自室の戸を勢いよく開けると、詰襟を脱いでシャツ姿になった鶯丸が、茶を入れようとしていた。足音で気づいていたのだろう、顔も上げずに「あまりうるさいと歌仙が怒るぞ」と言った。いつもと同じ、涼しい声で。
     行儀良く正座している鶯丸の表情が長い前髪で読めないことに舌打ちしそうになりながら、大包平もどっかりと座り込んで鶯丸に万屋の袋を差し出した。鶯丸はそれにようやく顔を上げ、大包平が詰襟姿なのを見て「買い物に行っていたのか」と袋を受け取った。
    「これはこれは」
     袋の中身を覗いた鶯丸は、控えめではあるが嬉しそうな声を出した。
    「今日はこれで茶を飲むか」
     鶯丸に、昨晩細い声でふて寝する大包平の名を呼んだ残滓はなかった。このまま、昨日の言い争いを酒の席の戯言として流してしまうつもりなのだろう。大包平は睨み付けるように鶯丸の顔を見ていたが、鶯丸はやはり目を合わせなかった。それに奥歯を噛みしめながら、大包平は俄に左手で鶯丸の右手を握り込んだ。大包平よりは小さい、長い指の先に形の良い爪の揃ったその手は、しっかりした骨と筋を持ちながらも滑らかな肌をしていた。
    「どうした」
     突然手を握り込まれた鶯丸は普段の微笑を引っ込めながら、それだけ絞り出した。随分驚いているのだと、大包平にはよく分かった。
    「――この二年を“細かいこと”にしてしまえるほど、お前は俺を待っていたのか」
     大包平の言葉に鶯丸は息を飲んだ後、眉を下げた泣き出しそうな笑顔になった。初めて見る顔だった。
    「気づいたのか」
     馬鹿だな、と懲りずに軽口を叩くのに、どちらが馬鹿だ、と言い返したくなったが、大包平は左手の中の感触を確かめながら、鶯丸の目をじっと見つめた。
    「鶯丸、俺から逃げるな。俺はお前を他人とは思わない。だから、この手を放す気もない」
    「……いきなり、どうしたんだ」
    「お前が煮え切らないことをしているからだ。お前、昨日俺に自分の望みを言っただろう」
     鶯丸は一度、きゅっと唇を噛んだ。
    「望みが叶うとは限らない」
    「叶わないとも限らんだろう」
     言い返されて黙り込んでしまった鶯丸に、大包平は続ける。
    「お前は他人の言うことなど気にするなとはよく言うが、お前自身のことを言わないから、俺はどうもお前のことを見落としてばかりいるようだ。俺はそれが気に入らない。他でもない、お前のことだからだ」
     長い睫毛が震えるのがよく見えた。その睫毛の下でやはり、緑の目も揺れていた。
    「いいか、よく聞け。俺はお前の思いに報いたい。しかし、いてくれるだけで良いというのは、待っていた時間に比べて小さすぎる。お前はもっと望んで良い。そして、ちゃんと俺に求めろ――どうでもいいことでないなら、ちゃんと分かるように言え」
     鶯丸は大包平の言葉に、唇を何度か微かに動かした後、笑みを形作るように引き結んだ。しかしそれは普段の整えられたものではなく、感情の揺れを隠せない、必死の微笑だった。
    「――俺の望みなど、ずっとひとつだ」
     お前が欲しい、と言いながら目を細めるのに合わせて、その濡れた緑の上を光が滑るように揺れるのが見えた。
     大包平は、「聞き届けた」とでも言うように一度頷くと、鶯丸の形の良い唇に自分の唇を寄せた。


     平野は皿に出した栗きんとんを前に、頬を緩ませていた。小さく切り取って口に含むと、上品な甘さが舌の上に広がる。
     これが平野の好物だという鶯丸の見立ては正しい。しかし、この味以上に平野がこの栗きんとんを好む理由になっているのは、これを一緒に食べた鶯丸そのものだ。
     その日も、平野は鶯丸が語る大包平の話を聞いていた。御堀の内側にいた頃から何度も聞いた話だったが、鶯丸が楽しそうに話すものだから、遮ることはできなかった。ただその日は常々思っていたことが、口をついて出た。
    「鶯丸さまは、本当に大包平さまのことがお好きなのですね」
     口に出した後で失言だったか、と思って鶯丸を窺うと、鶯丸はいつもより甘く目を細めて「内緒にしておいてくれ」と言った。
     図らずとも覗き見た鶯丸の秘密は、平野の小さな胸にも甘く残った。普段自分のことを多く語らない鶯丸の秘密を共有した嬉しさもあって、平野はその日のことを忘れられないでいる。
     平野は律儀に約束を守ってきた。鶯丸の思いが大包平に届くと良い、と思いもするが、自分にはできることはないので、鶯丸と茶を飲むときに「今日の大包平」とでもいうような報告を聞くだけだ。大包平も直情的すぎるきらいはあるが、決して愚鈍な質ではなかった。いつか、鶯丸の長い恋煩いを知るかもしれない。
     室内にはほのかに庭からの梅の香りが漂っている。暖かい日も多くなってきた。冬が去っていくのを肌で感じながら、平野は菓子を口に運ぶ。この菓子もどうか大包平の口に合うと良い、と思っていると、遠くウグイスが歌うのが聞こえた。春はそこまで来ていた。
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    2022/09/07 22:43:19

    幾夜寝覚

    春の来る話です

    #大鶯 ##大鶯

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