俺と兄者と上衣と大根
「ほんっとーにごめん!」
加州清光が手を合わせながら頭を下げる前で、膝丸は困った顔をして言葉を探していた。加州の隣の大和守安定も、申し訳なさそうに小さくなっている。
広間の真ん中には衣類で山ができている。その山からひとつ手に取っては畳みまたひとつ取るのを繰り返しながら、堀川国広は少し苦い笑いを膝丸に向けた。膝丸の困惑に申し訳ないと思っているのか、はたまた同情しているのかもしれない。
「気をつけてたんだけど、取り込むときにうっかり……」
取り込むというのは洗濯物のことである。連日続いた雨が嘘のようにあがった今日、本丸は庭全体を使って洗濯物を干した。溜まりに溜まった洗濯物は、気温が高いのと風が強いのもあってすぐに乾いた。
乾いたら次を干す。本丸は大所帯だ。一度の洗濯で全員の衣服が間に合うわけがない。
皆の服やら手拭やらは洗われては干されていった。「もう乾燥機買おうぜ」と言った清光に「もし買えるとしてもいくつあれば間に合うんだろう」と安定が苦笑いしたとき、強い風が吹いた。
安定は「うっかり」と言ったが、実際は運悪く偶然が重なったのだ。そのとき安定が腕に抱えていたのは髭切と膝丸の戦装束のシャツで、たまたま風に煽られて飛んでいったのが白いシャツの方で、しかも偶然飛んでいった先が連日の雨をじっとりと吸ったぬかるみだったのだ。
そうして膝丸のシャツは全部が全部、洗い直しとなったのである。
「明日の遠征、僕が代わります……」
「いや、君も出陣だろう」
「そっちは俺が行くから」
「しかしな」
普段は厳めしく吊り上げた眉を八の字にして膝丸が項垂れるふたりを前に途方に暮れていたとき、その薄緑の頭のうしろからよく似た顔がひょっこりと現れた。
「弟には僕のシャツを貸すから大丈夫だよ」
えっ、と同時に声をあげた安定と清光の視線の先で、膝丸もちょうど振り返るところだった。どこか安堵したような、気安い笑みを浮かべながら。
「今頼もうと思っていた」
「うん、僕は明日非番だしね。丈も変わらないし、遠征ならなにも問題ないよ」
兄弟は目を合わせると、揃ってまた前を向いた。まるで何か合図があったかのような、自然なタイミングだった。
「だから、シャツについては気にしないでくれ。洗い直しだけ頼む」
「そうそう、大らかにいこう」
言いたいことはすべて言ったのか、髭切はゆるりと去っていく。膝丸はそれを「兄者! 自分の服は持っていってくれ!」と言いながら追っていった。安定の脇に置かれていた洗濯物の山から、素早く自分たちの衣服だけを手にしながら。
顔だけ振り返った髭切は弟が追いつくのを待って、並んで歩き出した。結局膝丸が洗濯物を持ったままだ。
髭切は髭切で小脇に抱えているものがあるのだ。泥を落とした瑞々しい白さ、青々とした葉、動物じみた四つ脚の珍妙な形——
「……大根?」
「大根だね」
「大根でしたね」
大きい大根だったなぁ、と堀川は感心したような声をあげた。清光は「そういえばあのふたり今日畑当番だったな」と思い返していた。その隣で安定は「尻尾まである」とほんのり笑った。
とりあえず、汚してしまったシャツの件はどうにかなったらしい。
とにかく謝らなきゃ、と身構えていた安定と清光は、髭切と膝丸が去った方向を見ながら、ふぅーっと同時に息を吐いた。そのあと顔を見合わせて、真似すんなよ、と小突き合う。堀川も頬を緩ませた。
「でも意外だったね」
「俺も思った〜」
「何がですか?」
安定と清光はふたりで通じ合っている。足りない言葉に堀川が首を傾げると、ふたりも同時にこてんと首を曲げた。
「膝丸さんが髭切さんのシャツを借りるなんて思わなかったなぁって」
「髭切はいかにも言いそうだけど、膝丸の方は一回は断りそうじゃない? 『惣領たる兄者の服に俺が袖を通すことなどできぬ!』とか言って」
「ね、だから『頼もうと思っていた』なんて意外」
頷き合うふたりを見て、堀川はまた首を捻った。そんなに意外だろうか。
「そうかなぁ。兄弟なんだし、そういうものじゃないですか?」
「そう?」
「兄弟って、そういうもん?」
「うーん、それぞれとは思いますけど……」
各々考え込みそうになったが、堀川が最初に現実を思い出した。まだ広間には山盛りの洗濯物があるのだ。これをさっさと畳んでしまわなくてはならない。
翌日、膝丸は普段よりも黒い装いで門の前に立った。
「お前、そうなると真っ黒だねぇ」
「そうだな」
「僕もお前のシャツを着たら真っ白かな」
「ああ、明るいところに立たれるとまぶしそうだ」
「鶴丸なんかもそうだものね」
兄弟はけらけらと軽口を叩いている。膝丸と同じ部隊で遠征に向かう物吉貞宗が「そちらの装束もお似合いですね」と微笑んだのにはなぜかふたりで礼を言って、あとはこの調子だ。当の膝丸がまったく気にした様子がないのだから、部隊の他の面々も「そんなものか」といった感じで特に触れない。
ただし、安定と一緒に部隊を見送りに来た清光は、膝丸の視線が髭切の手許に落とされがちなことに気付いていた。視線を落としては、顔を歪めるほどではないにしろ腑に落ちないような、不可解そうな表情を浮かべる。本当に微妙な、わずかに眉間にしわを寄せた真顔。
「そろそろ出発ですよ」
朗らかな物吉の声に一度だけそちらを向くと、膝丸は兄に向き直った。
「では兄者、俺は遠征に行くが、非番だからといってずっと寝ていてはだめだぞ」
「はいはい、分かっているよ」
「部屋で本でも読むのなら、茶は用意しておいたからそれを飲んでくれ」
清光は内心で「過保護か?」とツッコミを入れたが、兄の方は「うんうん」と頷くだけだった。清光の隣で安定が「過保護じゃない?」と声をあげる。
安定の言葉に膝丸は虚を突かれたような顔をしたあと、やや頬を赤らめて咳払いした。自覚がなかったらしい。
「それでは、行ってくる」
「いってらっしゃーい」
片手を上げた膝丸に応えて、安定と清光も手を振る。髭切は両手で抱えたものをゆるゆると動かした。緑の葉が揺れる。膝丸がまたあの微妙な真顔になる。兄がご機嫌そうに掲げた、例の大根を目にして。
——それ、なんで今日も持ってんの?
やはり内心で考えるだけだった清光は、安定が「そ」と開きかけた口を素早く手で塞いだ。
遠征部隊は予定通り帰ってきた。部隊長の物吉が執務室へ報告へ向かい、部隊の残りは各々思う場所へと散っていく。昨日の今日で再び洗濯物を畳んでいた清光と軽い出陣から戻っていた安定は、広間の前を通りかかった膝丸に声をかけた。
「シャツ、全部洗い直したから」
「ほんっと〜にすみませんでした」
膝丸の白いシャツを捧げ持つように頭を下げたふたりに、膝丸はまた困ったような顔をした。ただしその顔は今回は笑っていて、広間の奥で同じように洗濯物を畳むのを手伝っていた堀川も微笑ましいと言わんばかりの顔をしている。
その困った笑顔のまま膝丸は自分のシャツを受け取ろうと手を伸ばしかけ、すんでのところで手を引っ込めた。
「どうせなら持ってきてもらえないか」
安定と清光が揃って顔を上げる。同じく、目を丸くして。
「兄者への土産に饅頭を買ってきたのだが、どうせ誰かと食べるだろうと多目に用意したのだ。君たちも食べていくといい」
「いいの?」
「でも……」
同時に声を出した安定と清光は、互いを見合ってからまた上目に膝丸の顔を窺った。毎日丁々発止のやりとり、遠慮のない口は自分たちを腐れ縁と呼び合うが、ここまで息ぴったりなのを「仲がいい」以外に言いようがあろうか。
膝丸はやはり笑って、頷いた。
「兄者も実はあれで話好きだ。君たちが八つ時に付き合ってくれれば喜ぶ。茶もまだあるだろうしな」
「洗濯物はもう終わりましたよ」
奥から堀川も声をかける。小柄な脇差の周りには、今日の洗濯物がきれいに畳まれて並んでいた。
「……じゃ、お邪魔しよっかな」
髪をいじりながら応えた清光に、隣で安定が「やった」と小さな声をあげた。
「膝丸さん、いつも髭切さんにお土産買ってくるの?」
「時間のあるときだけだが、買えるときは大体買ってくるな」
「ふーん、髭切さんも?」
「そうだな、たまに茶や花を買ってきてくれるぞ」
茶を淹れるのも花を活けるのも俺だが、と付け足して膝丸は笑う。安定も同じように笑ったが、清光はふたりの少しうしろで頬を掻いた。
「膝丸さんは花とかは買わないんだ?」
「ああ、花を買ってきても活けるのは俺だから、どうも土産という感じがしなくてな……それに、兄者はこういうのが好きだからな」
そうして饅頭の包みを持ち上げる。髭切が甘いものを好むのは、清光もなんとなく知っていた。出陣の補給食として出る団子や普段のおやつも、目にした途端普段より機嫌よさそうな笑みを浮かべるからだ。
「僕もそこのお饅頭好きなんだ」
同じくおやつの時間を楽しみにしている安定が締まりのない顔で膝丸に笑いかける。
「ね、清光もおいしいって言ってたよね」
「ん、そこのは俺も好き」
振り返った安定に頷くと、膝丸は「それはよかった」と目を細めた。どうやら膝丸にとっては、初めて寄る店だったようだ。
話すうちに髭切と膝丸の使っている部屋に着いて、安定が数歩先に出て外から声をかけた。
「髭切さん、開けていい?」
「いいよ」
安定は遠慮なく引戸をがらりと目一杯開ける。清光の前、安定に少し遅れて部屋を覗き込んだ膝丸は兄に帰還を報告しようとして、頬をピシリと強張らせた。
「おお、弟もおかえり」
髭切は座卓について本を広げていた。そばには湯呑みが置いてある。膝丸の用意したという茶だろう。
そして、その前、髭切と向き合うように例の大根が置かれていた。しかも何やら前とは様子が少し違う。
「……ひげ?」
清光が片眉を上げたとき、安定は呟いていた。例の大根にひげが書かれている。
「そうそう、結構うまく書けたんだよ」
しかもお手製か。
いや、髭切以外に誰が髭切の大根に落書きするというのだ。落書きの好きな短刀たちに頼まれたら髭切も「いいよ〜」なんて軽く応じそうだが、わざわざ好きこのんでこの大根に、他ならぬひげを書く者などいるまい。
「随分お気に入りじゃん? それ」
横目でちらりと伺った膝丸はやはり固い真顔で大根を睨みつけている。それまでの不可解な顔というよりは、明らかに不機嫌な様子で。
源氏の重宝が大根に嫉妬。笑えない。笑えるのは多分鶴丸国永や三日月宗近といった平安生まれの刀だけだ。今剣なんかは呆れた顔を見せるかもしれない。
「おもしろい形をしているからね、つい」
言いながら髭切は大根の頭らしき部分を撫でる。その手に葉が揺れる。
隣から小さく舌打ちが聞こえてきたのは気のせいだろうと思い込もうとしながら、清光は「あーでもさ」とわざとらしく声をあげた。
「大根もそろそろ料理しちゃわないと、しなびちゃったらもったいないじゃん」
「むむ、確かに」
髭切は大根を持ち上げると目を細めてじっと見つめる。そういう表情をすると膝丸によく似ている。当の膝丸は清光の「大根さっさと食べちまおうぜ」発言にこくこくと頷いている。安定と清光を茶に誘ってくれた年長者の落ち着きはどこへいったのだろう。
「そっかぁ……ま、おいしく食べてあげるのも大事だよね」
「そもそも、なんでそんなに気に入ってたの?」
ばか安定、と声に出しかけたが安定は膝丸の向こうだ。口を塞ぐことはできなかった。純粋に訊く安定の手前、いっそ幼さすら覚えさせる不安げな表情で膝丸は安定を見ては髭切と大根を見てを繰り返している。清光はもう知らねぇ、と髭切たちの部屋の天井を眺めた。そもそもいつまでこうして部屋の前に突っ立っていないといけないのだろう。
「うーん、珍妙な形だから持ってきてしまったんだけど、似てると思ったら少し愛着が湧いてきてしまってね」
「愛着……?」
膝丸の震えた小さな声には誰も応えなかった。代わりに安定の「似てるって何に?」というよく通る声が髭切には届いたらしい。
髭切は普段より柔らかく、おやつを前にしたときにはない照れと共に笑みを浮かべた。
「ほら、大根って白いけど、頭の方は緑色だろう? それも結構、薄い色の」
そうして手に持った大根を、机の上から戸の方へ動かし、姿を重ねるようにする。無論、その戸に突っ立っている自分の弟と。
えへへ、と髭切が笑ったとき、清光は正直「もう茶も饅頭もいいからシャツだけ置いてさっさと帰りてぇ」と思っていた。のろけを浴びにこの兄弟の許へやってきたわけではない。
兄の「えへへ」を浴びた弟は、顔を片手で覆い俯いている。薄緑色の髪から覗く耳や頬は、真っ赤になっていた。
「……え、あれで喜ぶんだ?」
安定が追い討ちをかけたため、隣から「ぐぅ」と低い唸り声が聞こえたが知ったこっちゃない。兄のシャツを着るのには照れも遠慮もしないのに? なんてからかう気力もわかない清光は「俺、大根だったら豚汁がいいなー」と嘯いた。髭切も「いいね」と頷いていた気がするが、あとのことはあまり覚えていない。
翌日、夕飯に豚汁が出て、配膳していた膝丸がなぜか清光に大根を多めによそってくれた。やや頬を赤らめてご機嫌そうな膝丸に、清光は何も言う気になれず「さんきゅ」と応じるだけだった。
このときはまだ、本丸の誰も知るよしもなかったのだ。以降、髭切が畑当番として大根を収穫するときには、必ず例の大根が姿を現すことになるのを。