イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    留守のたより
    兄者

     遠征のとき、せっかくあなたが顕現したのに顔を合わせる暇がないと話していたら、部隊にいた三日月宗近が文を残してはどうか、と言っていたので、これを書いている。万屋で買った紙と万年筆だ。文机の二段目の引き出しに仕舞っておくから、あなたも使いたいときに使うといい。
     万年筆は替えのインクも一緒に買っておいたが、中身を替えれば何度も簡単に使えて便利だ。鶴丸国永などはこういうカートリッジというものではなく、インク瓶をいくつか所持していると言っていた。口振りから少々軽薄そうに見えることもあるが、あれはなかなかこだわりの強い刀らしい。
     あなたも、ここでの暮らしに慣れてきただろうか。時間が合わず、ろくに話もできないから、少し心配している。困ったことがあったら獅子王か、脇差連中を頼ると良い。脇差は特に世話好きが多いから、喜んで手伝ってくれるだろう。
     こうして改めて文を書くというのは、不思議なものだ。しかし、人の体があるのだから、こういうことも良いだろう。
     また何かあったら書く。あなたも、何かあったら書き置いてくれ。

    膝丸


    兄者

     今日は歌仙兼定と同じ部隊で出陣したのだが、あなたが彼と遠征に行ったとき、彼の名前を三十六歌仙から満遍なく間違えていたと聞いた。なぜ三十六歌仙はそれぞれ覚えていて、歌仙、と覚えていないのだ。俺の名前を覚えていないことも聞いたぞ。膝丸、だ。しっかり覚えておいてくれ。
     前の文は、俺が帰ってきたときにはなくなっていたが、あなたは読んだのだろうか。あなたも、何かあれば書いて置いてくれ。

    膝丸


    兄者

     久しぶりに文を残す。ここ最近、遠征と出陣が特に忙しくて、部屋に帰ってくると眠るだけだったから、こうして筆をとる余裕もなかった。以前はそれでも良かったのだが、部屋に俺の知らぬ本が置いてあるので、あなたがいるのだと実感できて、そうすると何か書き残したくなるのだ。あなたも何か書いてくれると、俺も嬉しいのだが。
     にっかり青江から石切丸と一緒に饅頭を食べていたと聞いたが、給湯室に置いてある菓子は誰のものか確認して食べた方がいいぞ。以前、今剣が小狐丸の稲荷寿司を勝手に食べたときは、大層機嫌を悪くして、今剣がしばらく俺の部屋に寝泊まりするはめになった。ここは三条たちが使っている部屋から遠いからな。
     とにかく、食べ物のことには気をつけてくれ。

    膝丸


    兄者

     昨日は門のところで擦れ違ったな。怪我をしていたようだったが、大事なかったか。あなたが怪我をしていても傍にいられないので、遠征中ももどかしい思いをした。
     書いておこうと思いながらずっと忘れていたのだが、夕飯のとき、酒を飲んでいる連中がいるだろう。次郎太刀や日本号といった面々だ。誘われて飲むこともあるだろうが、気をつけろ。俺は以前、あいつらと一緒に飲んで酷い目にあった。一緒に飲むなら、岩融か蜻蛉切の方がいい。
     しかし、俺が一番酒を飲み交わしたい相手はあなただ。人の身があるからには、あなたといろんなことを楽しみたいものだ。酒もいいだろう。非番の日が合えばいいのだが。
     俺は夜から遠征だ。あなたが手入れ部屋から出る頃にはもう出立しているだろう。俺が明日戻る頃にはあなたが出陣しているだろうから、また顔を合わす暇もなさそうだな。

    膝丸


    兄者

     蜂須賀虎徹から、彼の弟の浦島虎徹と仲良くしてくれてありがとうと伝えておいてくれと言付かった。浦島はあなたと出陣することが多いのだな。蜂須賀が、誰とでも仲良くできる良い子だ、と言っていたから俺も安心した。
     以前書き忘れたが、蜂須賀はこの本丸の最古参で、やはり面倒見が良いから、困ったことがあればこの刀にも頼るといい。ただし、長曽祢虎徹の話題を出すのはやめておけ。どうも複雑な兄弟仲らしい。兄弟仲が拗れるのは人間たちだけだと思っていたが、刀であっても我々のように仲の良い兄弟ばかりではないようだ。
     最近は雨ばかりだな。洗濯が大変だと堀川国広が言っていた。山姥切国広の、あの白い布の洗濯が間に合わないそうだ。山伏国広も隙を見て裏山に登って服を汚してくるらしく、この間はこのふたりが堀川に正座で説教されていた。あの脇差は目端が利いて、よく気のつく良い刀だが、なかなかに厳しい。いろんな兄弟がいるものだ。
     これから暑くなるらしいから、掛け布団を薄いものに変えておいた。寒かったら、もう一枚押入の上段に置いておくから、それを出して重ねて使ってくれ。

    膝丸


    兄者

     最近暑くなってきたが、体調は崩していないか。刀が体調を崩すというのもおかしな話だが、昨年の夏は宗三左文字が夏バテというものになって、長らく寝込んだらしい。弟の小夜左文字が言っていた。長兄の江雪左文字は俺と同じ時期に顕現したから同じ部隊になることが多いのだが、確かに暑そうな格好をしている。あなたも気をつけてくれ。
     遠征に行ったときに小夜からその話を聞いたのだが、この小夜という短刀は控えめではあるが、たまになかなか風流なことを口に出すので驚く。歌仙とは昔なじみらしい。このふたりは書庫をよく利用しているそうで、あなたが本を持っていくとそのままにすると言っていた。読み終わったらすぐ返しに行ってくれ。箪笥の近くに散らばっていたのは俺が返しておいた。文机に置いてあったのが読みかけのものだろう。間違っていたらすまないが、自分で返すか一冊ずつ借りてくるようにしてくれ。
     それと、同じ部隊に一期一振がいたのだが、信濃藤四郎もあなたと一緒に出陣することが多いそうだな。いつも懐に入れてもらっているそうで、と礼を言われたのだが、最初何を言われているのかわからなかった。しかし仲良くしているなら何よりだ。あなたが出陣しないときは、粟田口の短刀が遊びに来ることが多いとも聞いたので、饅頭を置いておく。明日あなたは非番だろう。遊びに来た者と食べてくれ。

    膝丸


    兄者

     あなたに特がついたと聞いた。俺も二度特がついたが、あなたも三度特がつくと報告されているそうだ。だから、祝いとして主が宴を催してくれるのはまだ先だが、それにしても喜ばしいことだ。俺も本当に嬉しく思っている。それが態度に出ていたようで、蜂須賀が気を利かせてくれて、次の非番が合うように調節してくれるそうだ。部屋で共に酒でも飲んで祝おう。本当に顔を合わすことがないから、今から次の非番が楽しみだ。
     面と向かって言うのが面映ゆいので、ここで書いてしまおうと思う。俺は、あなたと共に在れることが、本当に嬉しいのだ。出陣の予定が合わないせいで、共に過ごせないのは口惜しいが、あなたのことだ、すぐに俺の練度に追い付いてしまうだろう。そうすれば、同じ部隊で出陣することもあるだろうし、今より顔を合わせる時間も増えるだろう。俺はそれが待ち遠しい。昔のようにあなたの隣に並ぶのを楽しみにしている。
     どうも俺は、文だと普段より饒舌になるらしい。今まで書いてきたものでも思ったのだが、今回ほどそれを痛感したことはない。しかし、あなたは文を読んでくれているのだろうか。俺が書き置いておくことばかりだから、それが少し不安だ。あなたのことだから、こういうこともあるだろうとは最初から思っていたが。
     前にも書いたが、この文を読んでいるなら書庫の本は一冊ずつ借りてくるようにしてくれ。今日も床に置いてあったのは返しておいた。

    膝丸


    兄者

     先日はあのように書いておきながら、せっかくの非番に俺が手入れ部屋で過ごすはめになってしまうとは思わなかった。本当にすまない。二度とこのような不覚はとらない。
     最近新しい調査が江戸で始まっただろう。そこが難所らしく、俺もそこに出陣するために練度をもう少し上げねばならぬらしい。これからはまた出陣ばかりになるから、やはりあなたと話す時間はほぼないだろう。また非番が合うのは、ずっと先になりそうだ。次こそ、共に酒を飲もう。
     あなたがそろそろ出陣する戦場にも、検非違使が出現するところがあるだろう。今回俺が負傷したのも、この検非違使と交戦してのことだ。あなたなら大丈夫だとは思うが、十分気をつけてくれ。
     あなたが出陣の時間になるまで手入れ部屋から離れようとしなかったことを蜂須賀から聞いた。心配させてしまって本当にすまない。俺はあなたとまた離れるなど御免だ。離れてしまっては、こういう書き置きもできなくなってしまうからな。しかし、あなたは本当にこれを読んでくれているのだろうか。また本が置いてあったので、返しておいた。
     俺は、今日は出陣ではなく遠征になった。乱文、申し訳ない。

    膝丸


    兄者

     俺は今日は非番だったので、特に書くような出来事はないのだが、せっかくあなたがいるのだから何か書いておこう。
     同じ所にいるはずなのに、共にいられないとは皮肉だ。俺は、ここに顕現してからあなたが来る日をずっと待っていた。再び共にいられるのだと、それが嬉しかったのだ。
     しかし、こうも共にいられる時間がないとは思わなかった。あなたは気にしないかもしれないが、俺は不満だ。話したいことがたくさんあるのだ。あなたは、文を残してくれないということは、俺には何も語ることはないということだろうか。
     どうもひとりでひたすら話しているようで、寂しいものだ。

    膝丸


    兄者

     雨が降ることも少なくなって、本当に暑くなってきたな。この部屋は日当たりがいいから、日中は薬研藤四郎の部屋の近くにいるといい。一階の北側だ。薬研は、薬草を保存しておくために日の当たらない部屋をもらったそうなのだが、あの辺は風通しも良いので涼めるだろう。それに、薬研がいるときは囲碁や将棋の相手を探していることが多い。俺も先日畑当番の後、涼んでいたら声をかけられて相手をしたが、なかなかの腕だ。あなたも行くと良い。囲碁は得意だろう。
     俺は、将棋は現行のものを長曽祢虎徹から教えてもらっているが、駒が少なくなっているのですぐ覚えられそうだ。あなたも興味があれば覚えてみるといい。あと、俺の名前もいい加減覚えてくれ。浦島からど忘れしていたことを聞いたぞ。
     長曽祢と浦島は、蜂須賀とは違って真作、贋作関係なく仲良くしているようだ。浦島と指している長曽祢は楽しそうだった。俺もあなたと、囲碁でも将棋でも良いから一局勝負したいものだ。

    膝丸


    兄者

     帰ってきたら部屋に碁盤が置いてあって驚いたぞ。鶯丸が教えてくれたが、誉をたくさん取っているからと、褒美にもらったのだな。さすが兄者だ。しかし出しっぱなしは良くないので、押入にしまっておいた。あと、文を読んでくれているようで少し安心した。
     今日は池田屋から帰還した薬研と夕飯が一緒になって、そのとき聞いたのだが、やはり囲碁の腕は健在のようだな。せっかく盤があるのなら、次の非番には酒を飲みながら一局、いや、何局でも打とう。
     明日は墨俣へ出陣する。俺が墨俣へ行くのも、なんというか因果なものだ。しかし、源氏のいた時代に出陣できるのだ。できれば、あなたと共に出陣できれば、もっと良かったのだが。
     詮もないことを書いた。すまない。あなたは長期遠征だったか。そちらも源氏の時代だな。また、顔を合わせたときに、思い出話でもしよう。

    膝丸


    兄者

     万屋から帰る途中にある屋敷で、この花が咲いていたのを見ていたところ、屋敷の主人がわざわざ分けてくれたので、挿して置いておく。泰山木というらしい。これも見事な枝だ。紫陽花の見事な屋敷だったのだが、知っているだろうか。その紫陽花は、色が褪せてきたからすべて伐ってしまったらしい。そういうことを聞くと、花は枯れてしまうものとはいえ、何とも言い難い気分になる。本丸にも紫陽花が植えられているが、知っているか。日に日に色濃くなっていたのだが、早いうちに書いてあなたに知らせておけば良かったな。もうそろそろ、あれも褪せてしまう頃だろう。
     泰山木という花は俺も知らなかったのだが、分けてもらえて良かった。どうも俺たちの部屋は物が少なくて寒々しいから、こういう花があった方が良いだろう。それに、この大振りで白く、丸い花はあなたによく似合う。
     おかしなことを書いた。気にしないでくれ。今日はあなたは遠征だったな。また出しっぱなしだった碁盤は片づけておいたぞ。

    膝丸


    兄者

     前田藤四郎から泰山木が枯れてしまったのを片づけてくれたと聞いた。手を煩わせてすまない。前に書いたとおり、この味気ない部屋に花があるのも良いだろうと思って置いておいたのだが、自ら世話ができないのならそうするべきではなかった。ちゃんと世話をしてやれば、まだ枯れずに済んだだろうに。
     俺もここ最近で練度が上がった。いよいよ以前書いた江戸へ出陣することになりそうだ。しばらくはそちらに掛かりきりになるだろう。そうすると、花の世話をする時間も惜しくなるだろうから、もう花を置いていかないようにする。あなたに世話をさせるのも、申し訳ないので。
     あなたも二度目の特が近いと聞いた。そうなると、出陣する場所が増えるだろうから、お互い今までより忙しくなるだろう。またしばらく、顔も合わさないだろうな。

    膝丸


    兄者

     本はまた書庫に返しておいたぞ。



     あなたは、俺の言葉を聞いて、それに応えてくれたことがあっただろうか。

    膝丸


    兄者

     どうも俺ばかりが文を書いているが、あなたは本当に読んでくれているのだろうか。もし煩わしいなら、誰かに言伝てるなどして教えてくれればいいのだが。
     我々が共にいた頃は、男が女に文を送ると、女はたとえつれない返事でも律儀によこしてきていたな。返事すらなくなると、本当に望みなしだった。
     あなたをそのような女に重ねたいわけではないのだが、そういうことを思い出してしまう。すまない。

    膝丸


    兄者

     一言でいいのだが、何か言葉をくれないだろうか。

    膝丸


    兄者

     言葉も届かぬ距離に離されているより、傍にいながら言葉も交わせぬ方が辛いものだな。

    膝丸


    兄者

     あなたが手入れ部屋に入ったと聞いて、これを書いている。以前俺が一日中手入れ部屋で寝ていたとき、あなたはどんな気分だったのだろうか。俺はあのとき、あなたが手入れ部屋の傍から長い時間動こうとしなかったと蜂須賀から聞いて、あなたに心底申し訳ないと思ったものだ。あなたが来る前、俺はこの部屋でひとりで暮らしていたから、いや、それより以前、あなたと離されたことがあったから、ひとりでいるのが、我々が離れ離れになるというのがどういうものか、わかっていたつもりだった。しかし、あの熊野であなたを想って袖を濡らした頃と、こうしてこれをしたためている今と、何が違うというのだろう。
     すまない、あなたを責めるつもりはないのだ。しかし、どうも俺は自分が思っていた以上に堪え性がないらしい。あなたにこうして文を書くことにしたとき、あなたのことだから、読まずに置いたままだったり、読んでも忘れてしまったりすることもあるだろうとわかっていたつもりだった。わかっていたつもりだったが、やはり俺ばかりが言葉を残して、あなたからは何の応えもないのは、思った以上に寂しいものだった。声の届かない、触れられぬ距離にいた昔より、あなたが読んだままの本や、置いたままの碁盤など、あなたがいることを知らせるものがある今の方が、辛いのだ。そして今日のように、そのままあなたがまたいなくなってしまうかもしれないと思うと、尚更。
     本当はこんなことを書くつもりではなかった。しかし、どうしても書かずにはいられぬ。あなたと同じ所にいながら、言葉すら貰えないことに痛むこの胸の内を、あなたにそっくり見せつけてしまいたい。暴力的な考えだが、どうも筆が止まりそうにない。俺ばかりがあなたを想っていて、あなたは俺のことなどどうでもいいのだと、それを思い知らされ続けて、惨めだ。たまに擦れ違ったとき、俺があなたを目で追っていたことも、あなたは知らないだろう。己の独り善がりを思い知らされることほど、恥ずかしいことはない。あなたが一言、文は要らないとでも伝えてくれれば、まだここまで思い詰めはしなかったかもしれぬ。それすらもないから、辛いのだ。
     先ほど、俺が手入れ部屋にいたときあなたが離れようとしなかったと聞いて申し訳なかったと書いた。それも確かに事実であるが、俺は嬉しくもあった。人伝てであっても、あなたが俺のことを何かしら思ってくれていると知れたのが嬉しかった。自分でも浅ましいと思うが、あなたが俺に何かを思ってくれるのが嬉しいのだ。俺にとって、あなた以上の大事はないのだから。
     花を置いていったのも、正直、あなたが気にかけてくれないだろうかと思ってのことだ。人間たちがしたように、文と共に花を贈るなど我ながらどうかしていると思ったのだが、あの花があなたに似合いそうだと思いつくと、そうせずにはいられなかった。あなたがあの花を見て、顔をほころばせたりしないかと思うと、どうしても。しかし、あんなに早く枯らしてしまうのなら、それほど興味がないなら贈るのではなかった。すまない。
     俺は今ほど、自分を恥ずかしいと思ったことはない。あなたへの独り善がりを何度も何度も思い知らされて、あなたを恨んでしまいそうなのだ。今まで、あなたが次は応えてくれるかも知れぬと自分に言い聞かせてきた。俺が手入れ部屋に入ったときは、あなたも傍から離れようとしなかったと、俺と同じ気持ちなのだと。それすら独り善がりだというのに。
     もうわかっているだろうが、あなたへの俺の想いは、弟が兄へと向けるようなものではなくなっている。賤しい弟と軽蔑してくれて構わない。あなたが、今日このように手入れ部屋に入るようなことがなければ、こんなことを書こうとは思わなかったかもしれぬ。しかし、いつかまた離れ離れになるかもしれないならば、あなたにすべて伝えてしまいたい。独り善がりな、浅ましい弟ですまない。今日の江戸への出陣から戻ってきたら、部屋を分けてもらうよう願い出ようと思う。あなたもその方が良いだろう。俺たちは出陣予定がまったく合わないから、誰も変には思わないはずだ。
     最後になってしまったが、手入れ部屋から出たらよく休んでくれ。すっかり直るとはいえ、疲労は別だ。あなたは次に遠征を組まれているだろう。それまでしっかり休んでくれ。これを書き始めたとき、これだけを書いておくつもりだったのだが、俺は本当に堪え性がない。この文は、いや今までの文も、あなたの手元にあるなら、すべて焼いてしまってくれ。こんなことを言えた義理ではないが、弟としての最後の我儘だと思ってほしい。
     では、お元気で。

    膝丸



    「冷えてしまうから部屋に戻った方がいいよ、髭切さん」
     蜂須賀虎徹が声をかけると、廊下で膝を抱えて座り込んでいた髭切は持っていた本から目を上げ、軽く微笑むとゆるゆると首を横に振った。
    「でも、あなたも知っているだろう。手入れ部屋では眠りっぱなしだよ。膝丸さんも明日の夜まで目を覚まさない」
     新しく調査の始まった延享の江戸へと向かった今日の第一部隊は、重傷者だらけになって帰還した。運良く軽傷で済んだ蜂須賀は既に手入れを終え、運悪く破壊寸前まで追い込まれた膝丸は、未だ手入れ部屋にいる。
     久々の新しい戦場での被害は予想以上で、蜂須賀も近侍として対処に追われている。池田屋での夜戦のために打刀、脇差がよく育っていたのだが、この戦場のために太刀の育成を急がねばならない。
     連隊戦で顕現して練度を順調に上げていた膝丸だけでなく、二ヶ月ほど前に検非違使から顕現した髭切もその育成のためにほぼ毎日出陣していた。その甲斐もあって、この短期間で練度を恐ろしく上げたが、昨日の出陣で検非違使と交戦し負傷して、昼過ぎまで手入れ部屋にいた。そして今日の夕方に帰還した第一部隊の膝丸は、兄と入れ替わるように手入れ部屋で過ごすこととなった。
    「あなたも負傷していたんだから、今日は休まないと」
     髭切はまた首を横に振る。蜂須賀はこの齢千を超えた太刀のこういう態度に、時折自分の弟より幼い者を相手にしているような気分になる。膝丸はこの兄をよく気にかけていて、迷惑をかけていないだろうか、と眉を下げることがあるのだが、これは確かに心配だろうな、と蜂須賀も小さく息を吐いた。
     膝丸が、文を残しても返事がない、とこぼしていたのは何度か聞いたことがあった。その嘆息が片手の指の数を超えたとき、この兄はあまり弟をかわいく思わない質なのだろうかと勘繰ったこともあったが、それには蜂須賀の弟が反論した。浦島が言うには、兄弟がいる者同士で自分の兄弟の話をよくする、そのときは楽しそうだから弟を嫌いなんてあり得ない、とのことだった。蜂須賀は自分のかわいい弟がこういうことで嘘を吐かないのは知っていたし、勘の鋭いところがあるのもよくわかっていたから、思っていることをあまり表に出さない質なのだろう、という理解に落ち着いていた。実際、こうして手入れ部屋から離れようとしないのだから、それは間違っていないのだろう。こうして手入れ部屋に面した廊下に座り込んでいる姿を見るのは、二度めだ。
     髭切は手に持っていた本を閉じて、俯いている。強情な子どものような頑なさだが、子どもと違って薄い微笑に内心を覆い隠してしまっているから、質が悪かった。
     蜂須賀は今日の報告は終えて、後は眠るだけだったから、その髭切の隣に同じように腰掛けた。普段なら、廊下に座り込むなんて真似は絶対にしないのだが、髭切をこのままにしておくことはできなかった。
     髭切はそんな蜂須賀を目を丸くして見た。そういう顔をすると弟太刀にそっくりで、蜂須賀は思わず笑う。
    「俺は膝丸さんとよく同じ部隊になるんだ。彼は今年の始めに顕現したんだけど、ものすごい速さで練度を上げていったから、もう第一部隊にも入ってる。これまで打刀はよく育ってたんだけど、太刀の育成が後手になっていたから、どうも新しい戦場では苦戦していてね。そのなかで彼は大事な戦力だよ」
     蜂須賀が静かな声で、しかしはっきりと話すのを、髭切は無言で聞いていた。
    「俺は膝丸さんと、弟の浦島からあなたの話を聞くことが多いのだけれど、部屋に戻る気がないなら、ここで兄同士話すのはどうだい? そうだな、互いの弟自慢でも」
     蜂須賀から目を逸らさなかった髭切は、そう言って蜂須賀が微笑むのを見て、手に持ったままだった本を床へと静かに置いた。そうしてその本を見つめたまま、思案するように、二、三度口を開けたり閉めたりすると、ぽつりと話し始めた。
    「僕の弟は、いい子なんだ」
     柔らかい声だったが、その顔にもう微笑はなかった。思い詰めているように見える横顔が続きを話すのを、蜂須賀は無言で待つ。
    「僕と違ってよく気がつくし、いつも僕の心配ばかりしている。いつも文を残しておいてくれるのも嬉しかった。僕はまだここに来て日が浅いから、それを心配してくれているのだろうとわかったし、実際いろんなことを書いて教えてくれた。文とは、不思議なものだね」
     夜は更けて、辺りは静かだった。夏になり始めた今の時期は庭から微かに虫の声が聞こえるだけで、耳をよく澄まさないと手入れ部屋からも寝息は聞こえない。ここに暮らす者は皆、今は微睡みの中にいる。
    「昔は顔を合わせて話してばかりで、弟から文をもらったことはなかったから、文がこういうものだとは知らなかった。弟が何を見ているか、それを見せられているような気分になるんだ。弟はこんなふうにものを見ているんだって、感心することばかりだったよ」
     髭切に緩い微笑が戻ったのを、蜂須賀は黙って見ている。浦島が言ったことはやはり間違えていなかったのだと、今こうして髭切本人から話を聞いてやっと腑に落ちた気分だった。弟を疑っていたわけでは決してなかったが、顔を合わさないとわからないこともあるものだな、と妙に感心した。
    「僕も返事を書こうとはしたのだけれど、どうしても、何も書けないんだ。紙を広げてはみるのだけど、どうしても筆が動かなくて。文章が思いつかないのが悪いのかと思って、たくさん本を読んではみたんだけど、それでも弟に何を伝えればいいのかわからないんだ。弟はいつも僕に何かをくれるのに」
     髭切はそう言うと、抱えたままの膝に額をつけた。
    「僕は、花の世話の仕方も知らなかった」
     せっかく一緒にいられるのに、あの子を悲しませてばかりだ。
     それを聞くと蜂須賀も深く息を吐いた。兄弟への儘ならない思いはわかる気がした。近いと思っているからこそ、何か見落としたとき、恐ろしく心が痛むのだ。
    「このまま弟がいなくなってしまったら、と思うと、眠れないんだ」
     髭切は膝に頬をつけたまま蜂須賀に微笑んだが、蜂須賀にはその完璧な微笑は痛ましかった。何もかける言葉が思いつかず、沈黙がしばらく夜の底を漂った。この夜は、まだ続くのだ。
    「膝丸さんなら、何が書いてあっても喜んだだろうけどね」
     蜂須賀はそんなことしか言えない自分が少し腹立たしかったが、髭切は蜂須賀の気遣いを受け取って、そうだね、と応えた。
    「今日の文に、部屋を変えてもらおうって書いてあったんだ。僕は、それは嫌だって思うんだけど、今まで何も応えてやらなかったのに、あの子があの子なりに考えたことに今さら口を出すなんて、とも思ってしまって、でも落ち着かなくて」
     後は続かず、髭切はまた膝に額をつけた。
     この兄弟は互いのことをよくわかっているからこそ言葉が足りないのだ、と蜂須賀は思案する。兄弟仲については他から口を出されるのは煩わしいと自分の経験から思っていたが、膝丸がそこまで思い詰めているなら何もせずにこの仲違いを見送ることはできないと思った。
    「……髭切さん、俺はこの本丸の初期刀なんだ」
    「うん?」
     蜂須賀が突然言い出したことの意図が掴めず、髭切は隣にある顔を見る。その初期刀は、優美な形をした唇を引き結んで、頬を強ばらせていた。
    「だからね、この手入れ部屋の隣は俺の部屋なんだ。審神者の執務室とか、鍛刀所とか、そこに一番近い部屋は俺がもらったんだよ。このせいで浦島と一緒に部屋を使うことはできなかったのだけれど」
     蜂須賀が弟のことを口に出したときに苦笑したのを見て、そういえばあの明るい脇差はもうひとりの兄と共にいることが多いと言っていたな、と髭切は思い出す。そのせいで、兄とよく喧嘩になるのだと唇を尖らせていた。
    「だからね、髭切さん」
     髭切の肩を掴んで、至極真面目な顔でそう呼び掛けるこの打刀は、よく見るとその脇差に面差しがよく似ていた。
    「今から、俺の部屋で膝丸さんに文を書こう」
     その勢いに押されて頷きながら、髭切は兄弟とはこういうものなのだと初めて知った気分になった。

    「何でもいいって、何を書けばいいんだろう」
    「確かに困るね」
     蜂須賀がくれた紙と、貸してくれた万年筆を手に、髭切は固まっていた。その隣で、蜂須賀も固まっている。大の大人の姿をしたふたりが肩を寄せ合って小さな文机に向き合っている光景は異様なものであったが、それを笑う者はここにはいなかった。
    「今日何があったかとか」
    「昼過ぎまで手入れ部屋で寝ていたね」
    「昨日は?」
    「……千年も刀やってると」
    「わかった、すまない」
     こういうのは俺より歌仙の方が得意だろうな、と思ったが、時計を見るととても今から部屋を訪ねる気にはなれず、蜂須賀は隣の髭切を窺う。普段は微笑んだその口許が、一文字に結ばれているのを見ると、なるほどこの太刀は弟によく似ていた。
    「今までの手紙の感想とか」
    「ううん……感想と言われるとね」
    「俺の言い方が悪いかな。返事なんだから、膝丸さんの文に応える形でいいのでは?」
    「そうか……そうだね……」
     同じようなやりとりを、かれこれ半刻ほど続けていた。昼間出陣していた蜂須賀だけでなく、髭切も少し目が険しくなってきている。朝になるまで、まだ時間がある。明日は昼からでいいよ、と言ってくれていた審神者に感謝しながら、蜂須賀はばれないように小さくあくびした。
     髭切は紙を見つめたまま、微動だにしていなかったが、軽く息を吸うと、そのまま吐くのも吸うのも止めて、手を一気に動かした。そうして短い一文をしたためると、ふう、と吸った量には見合わないほど深く、ゆっくり息を吐いた。
    「……これでいいのかい?」
     突然のその動きに呆気にとられていた蜂須賀は、文机に広げられたままの紙を見て、そこに書かれた難しくない言葉を把握すると、拍子抜けした気分になってそう言った。一方の髭切は、まだ敵と対峙しているかのような顔でその紙を見ている。
    「長々と書くより、こっちの方が良い気がするんだ」
    「そうかい?」
    「うん。……それに」
     髭切は万年筆を置いて、やっと蜂須賀に笑いかけた。
    「僕はやっぱり、弟のように上手く文を書けそうにない」
     その諦めたような苦笑に蜂須賀も笑ったのを見ると、髭切は再び真顔に戻って、蜂須賀に体ごと向き直った。
    「ありがとう」
     そうして頭を下げる姿に、蜂須賀は軽く、どういたしまして、と応えると、その肩を叩いた。それに髭切は頭を上げる。まだ真顔のままだった。
    「ここまでしてもらっておいて申し訳ないんだけど、もうひとつお願いがあるんだ」
    「いいよ、承った」
     髭切が続けるより早く、また軽い調子で蜂須賀が応えた。髭切はその、少し目蓋が降りてきた優しい形の目を見つめる。
    「まだ何も言ってないけれど」
    「まぁ、俺も兄だからさ。それにそろそろ明石国行にも長期遠征を経験してもらわないとねって主と話していたんだよ」
     髭切はそれに目を丸くしたが、すぐにその両目を細めた。
    「なるほど、あの脇差くんの兄だね」
    「どういうことだい?」
     突然弟の話題が出て、蜂須賀も目を丸くする。
    「よく気がついて、優しい……本当によく似ている」
     蜂須賀はその言葉に、弟と同じ色の目を二、三度瞬かせると、嬉しそうに顔をほころばせた。
    「あなたたちもよく似ているよ」
     ふたりの兄は、そうして楽しげに笑い合った。



     手入れを終えた膝丸は憂鬱な気分で自室までの道を歩いていた。丸一日と数時間を手入れ部屋で過ごすと、もうすっかり日は落ちきっていた。今日の出陣や遠征の業務は終わっているだろうと踏んで、近侍の蜂須賀に部屋替えを願い出ようとその部屋を訪ねたのだが、蜂須賀は膝丸の申請に曖昧に微笑むだけだった。その優美な笑みと共にもたらされた「明日も同じ気持ちだったらこちらも考えるよ」という言葉に部屋を追い出されて、膝丸はこうして廊下をひたひたと歩いている。頭を冷やせということだろうか、と思わず溜め息をついたとき、廊下の向かい側からやって来た前田が子どもらしい無邪気な笑顔で「今日はゆっくりお休みください」とこちらを気遣ってくれたのにも胸が痛んだ。その無邪気さが、膝丸の目蓋の裏にずっと住み着いている白い微笑を思わせたからだ。そういう無邪気さが時に辛いものであることを、膝丸はここ数日で痛感していた。
     しかし、その兄は今日も遠征に行っているはずだ。今日もひとりでこの夜を明かし、明日になれば違う部屋をもらえることになるだろう。この最後の夜をめいいっぱい使っても、自分の決意が変わるとは思えなかった。ひとりで考えるのなら、今までにもずっとやってきたことだからだ。そのことを思うと、体の内を冷たい風が吹いていくような心地がした。
     兄がいないとわかっていても足が進まず、のろのろと辿り着いた暗い部屋の戸を、膝丸は溜め息と共に開けた。室内灯を点けると、これまでは身に覚えのない本や碁盤が兄の存在を教えてくれたが、今回はただ、棚と座卓がいつものようにあるばかりで、他には何もなかった。そのことにまた冷たい風に晒されているような気分になったが、かつてはこうだったのだ、と思い直した。またこの暮らしになれねばならない。文に使っていた紙も処分してしまおうと思って、目に入れないようにしていた部屋の隅の文机に体を向けると、そこに見慣れないものがあって、膝丸は眉をひそめた。
     文机の上には、膝丸がかつて泰山木を活けた花立てに桔梗が二輪挿されている。そのそばに、ふたつ折りの淡黄色の紙が置かれていた。膝丸は、信じられないものを見る気持ちで、文机によろよろと近づき、その前に膝をついた。自分の呼吸が逸るように感じられて、目の前にある薄い紙に期待する心と、それをまた身勝手だと言い聞かせようとする頭で忙しかった。
     ひとつ、大きく息を吸うと、膝丸はその紙を開いた。そこにはたった一行、初めて見る字で書かれていた。

    僕にはお前以外はない。

     膝丸はその文を何度も読むと、静かに目を閉じた。膝丸が今まで兄に伝えようとしてしたためた多くの文字に比べれば随分素っ気なかったが、膝丸が欲しい言葉はこれで十分だったし、また、きっと自分が兄に伝えたかったものもこれに尽きると思った。自分の唯一はやはり兄なのだと思って、ゆっくり目蓋を上げる。手の中の紙を置いてあったときのようにふたつに折ると、また静かに机に置いた。
     廊下からだんだん近づいてきた足音が、この部屋の前で止まったことに気がついたが、膝丸は二輪寄り添うように挿された桔梗を見つめている。そのまま振り返らずにいると、戸がゆっくり、静かな音をたてて開いた。
     戸を開けた髭切は、既に湯浴みを終えた後らしく、酒器と瓶を載せた盆を手に、寝間着姿で立っていた。膝丸は文机に置いた兄からの文に手を添えて、上体だけを兄へと向けた。
    「遠征は、どうしたのだ」
    「初期刀くんが、他の太刀と入れ替えてくれてね」
     膝丸の声を聞いた髭切がどこか安心した様子で部屋に入るのを、膝丸は新鮮な気持ちで見た。髭切は部屋の中心にある座卓に持っていた盆を置くと、開けたままだった戸のもとに戻って、入ってきたときと同じように静かに閉めた。
    「この桔梗は」
    「ええっと、粟田口の、あのおかっぱ頭の……」
    「前田か」
    「そうそう、前田くんに花がないか聞いたら、庭にこれがあると教えてくれて」
     また礼をせねばなるまい、と思っていると、髭切は自分が先ほど置いた盆の傍に座って膝丸を窺っていた。膝丸の記憶での姿と同じく微笑みを崩していなかったが、文机の傍までは来ないことに、この兄も距離を測りかねているのだ、と思いつくと膝丸の口許にも笑みが浮かんだ。髭切は弟が笑んだことに、目を瞬かせた。その様子がまるで子どものようで、膝丸は今度は声をあげて笑った。
    「なんだい?」
    「いや、なに」
     髭切は口許に手を当てて肩を震わせる弟に、首を傾げる。その様もかわいらしく思えて、膝丸は目の端から零れ落ちそうなものには気がつかないふりをした。そうして一呼吸つくと、
    「あなたは、こういう字を書くのだな」
     と、万感の溜め息混じりに呟いた。膝丸が手を添えたままの文に書かれた字は、角張って格調高い、端正なものだった。
    「お前の字とは随分違うよね」
    「そうだな。不思議なものだ」
    「お前のように、たくさん書くことが思い浮かばなかったのだけれど」
    「いや、十分だ」
     膝丸は兄からの文を、文机の二段目の引き出しにいったん仕舞うと、立ち上がって座卓についた。
    「その酒は?」
    「ええと、業平くん、だったっけ?」
    「……歌仙か?」
    「ああ、それだ、歌仙くんが用意してくれたんだ。器は、彼の馴染みだという短刀が貸してくれた」
     礼を言わねばならない者たちが増えたな、と思いながら兄が話すのを膝丸は見つめる。兄は中空を見たり、こちらを見て目を細めたり、忙しなかった。
    「あなたは、俺と共にいてくれるのか」
     思った以上に低い声が出て、膝丸は呼吸が逸らないように気をつけながら髭切の表情を窺う。髭切も息を飲んだ。
    「最後の文が、俺の本心だ。あなたはそれでも、俺と共にいられるか?」
    「当たり前だ」
     返事は速かった。髭切も膝丸を真っ直ぐに見つめて、その両目から目を逸らさなかった。
     数秒そうして、揃いの目が互いを静かに見ていた。庭の虫が鳴く声すら遠くなる心地のする頃、膝丸が長い息を吐いて左手で顔を覆った。
    「俺は、駄目な弟だ」
     その言葉より、姿に弟が何を思うのかを感じ取って、髭切は目を細める。
    「いいや、僕の自慢の弟だよ」
    「甘やかさないでくれ」
    「嫌だ」
    「今までは冷たかったのに、勝手を言う」
    「ありゃ、お前も今までは優しかったのに、今日は意地悪だね?」
     ふたりはくすくすと笑い合った。そうしているだけで満たされていく気分だった。
    「文を書いていたときは、あなたに言いたいことがたくさんあって筆が追いつかないと思っていたのに、こうして顔を合わせると言いたいことが吹き飛んでしまった」
    「おや、不思議だね。僕は紙を前にするといつも言葉が出なかったのに、こうしてお前と顔を合わせてから話したいことが多くて口が追いつかないよ」
    「紙を前にしたことがあったのか?」
     額に当てていた左手から頭を起こすようにして、膝丸は目を丸くした。髭切は、それに頷くと、押入にちらと目をやってから、膝丸に微笑みかけた。
    「まぁそれも、これから話したいと思うのだけれど。酒を楽しみながら一局、どうだい?」



     ぼんやりとした心地で目蓋を上げると、壁際に寄せられた碁盤が見えた。髭切は何度か瞬きしてそれを見つめる。昨日は念願叶って、久しぶりに顔を合わせた弟と一局勝負したのだ。碁盤を間に挟み、酒に唇を湿らせながら、髭切が思いつくままに話すのを膝丸は相槌を打ちながら聞いていた。これまでにないくらい満たされた気持ちで夜が更けていって、結局どちらが勝ったのだったか、それを思い出そうとしながら身を起こすと、枕元に見慣れた紙が置かれているのに気がついた。髭切に文を残していくのはひとりだけだったから、そのふたつ折りの紙を見て髭切は思わず微笑む。朝の光は障子に柔らかく遮られてはいたが、文を読むのに十分な明るさだった。外からは鳥たちが囀ずる声と、庭で遊んでいるのだろう短刀たちの声が聞こえる。
     まるで後朝だな、と思いながら文を開くと、弟も同じことを考えていたようで、紙面にその二文字が書かれているのが目に入った。それに笑みを深くしながら、髭切は文を読み進める。膝丸の書く字は、鷹揚さを感じさせるほどに線に抑揚のついた柔らかい、しかし収まりの良い字だった。髭切は、弟の書くこの字が好きだった。生真面目な態度に隠れがちな、弟の穏やかな心根が表れているように思えるからだ。髭切の弟は優しい。そして、髭切に甘い。流れるように綴られた文章にもそれを感じて、髭切は軽く息を吐く。この優しさが、弟自身の首を絞めないかと髭切は心配するのだが、弟が自分に甘いことに充足を感じているから、どうにも言いづらいな、と思うと、言葉の代わりに溜め息が出るのだ。
     文を読み終えて、そこに書かれていたとおり座卓に昨日空けた瓶と酒器がないのを確認して、髭切はひとつあくびをした。世話になった者たちに礼をしにいくと書いてあったから、弟が酒器を洗って朝食を済ませてしまう前に、着替えて合流した方が良いだろう。この文を置いていった手前、弟が髭切をわざわざ起こしに帰ってくることはなさそうだ。
     そう考えながらも、髭切は着替えを仕舞った箪笥ではなく、押入の方に向かう。押入の下段、いつも弟が碁盤を片づけるスペースの後ろには、冬物を仕舞った箱がある。その上に置かれた、竜胆の意匠を施された黒塗りの文箱を取り出して、髭切はその蓋を開けた。
     そこには、これまで膝丸が髭切に宛てて書いた文がすべて仕舞われていた。弟と顔を合わせずにいた時間、髭切はこれらを読み返すことで自分は今ひとりではないのだ、無二の弟と共に在るのだと実感していた。膝丸はどうも身辺を整えるのが上手すぎて部屋を一切乱していかないから、髭切は出陣から戻っても、そこにいたはずの弟の痕跡が見当たらない部屋に随分寂しい思いをしたものだ。そこにある日現れた文がどれだけ嬉しかったか、言い表すことはとてもできない。
     箱の中の薄紙は、髭切が箱を傾けるとかさりと音をたてた。それに満足気に微笑みながら、髭切は新しい文を丁重な手つきでその上に重ねた。そして、なるべく音をたてないように文箱に蓋をすると、最初にそうしてあったように元の場所に仕舞った。髭切は、今日はふたりとも非番だと知っていたから、礼を終えたらまた弟と碁を打とうと考えながら、寝間着の帯を解く。穏やかで満ち足りた朝だった。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/07 22:33:15

    留守のたより

    練度差が大きく時間の合わないふたりの話です

    #膝髭 ##膝髭

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品