やがてまほろば
薄青い影が一面の雪原に落ちている。
なだらかな傾斜の先には吹き溜まりのように黒く寂しい林がある。その向こうの海もまた、墨をこぼしたように黒々としている。
日の差さない青ざめた景色を眺めながら、五月雨江は息を吐いた。吐息も視界を白く煙らせたあと、解けるように消えていく。
「五月雨」
音量を抑えてはいるがよく通る声に呼びかけられた。振り向けば、防寒具を羽織って身体を縮こませた後藤藤四郎がいる。
ごそごそと雪を踏み締めながら後藤の元へ辿り着くと、勝気な目が呆れた色を浮かべた。
「鼻真っ赤じゃん。もっと厚着しろよ」
「そうですか? あまり長居したつもりはなかったのですが……」
防寒具だって去年用意してもらったものを一通り身につけている。この本丸の冬は厳しく、長いから、五月雨もさすがに普段と同じ内番着でこの雪の中に繰り出すほど向こう見ずではないし、この寒さにも対処できているつもりだった。
「襟巻もしてきた方がよかったんじゃねーか? 朝は一番さみーよ」
「そうでしょうか」
「ま、平気ならいいけどさ。お前も連隊戦の見送りだろ? 行こうぜ」
俺もチビたちの見送り、と笑うのに促されて五月雨は後藤と歩き出した。雪に阻まれる足許で、長靴がガポガポと鳴る。
「……あれ、五月雨、それ自分の?」
「いえ、桑名とちょうど入れ違いになったので借りました。居住棟の裏口に置いておけばいいと言っていたので」
「そっか」
入れ違い? と後藤の頭には疑問が浮かんだが、朝早くから賑わう中庭に近付くとそんな些細なことは追いやられていった。相変わらず置き去りにされたような佇まいの扉の前に、部隊が集まっている。白い雪の間から黒々とした木肌と深い緑が覗く中に、弱々しい朝日が差し込もうとしていた。雪が一層まぶしく照り返して、後藤も五月雨も思わず目を細める。
年の瀬、雪に覆われた山中の本丸では、連日連隊戦への出陣と新年の準備に追われている。
一方、居住棟の一室、松井江は布団に包まって微睡んでいた。曇りがちな天気のせいもあってこの時期は分かりにくいが、とっくに朝になっているのは知っている。しかし冬の朝の布団ほど離し難いものはない……人間みたいなことを考えている、と頭の隅で自嘲しながら、松井はさらに身を丸めた。床を通して伝わってくる振動に嫌な予感を覚えながら。
「松井、朝だよ」
予感は当たった。戸を開けながら、柔らかくも有無を言わせぬ響きで目覚めを促したのは同室の桑名江の声だった。明け方にそっと部屋を出ていったのは気配で気付いていたが、雪かきか厨の手伝いにでもいったのだろうと思っていた。戻ってくるのは珍しい。
それにしたって、今日は自分は非番のはずだ。松井は返事をする代わりに布団の中へ潜り込んだ。まだ起きる気はない。
「ほーら、松井、起きて」
布団の上から揺さぶられる。思わず唸り声で抗議してしまった。聞いてくれた試しはないので無駄だと分かってはいるのだが。
「松井さん、すみません」
揺さぶられてゴソゴソと布団が立てる音に混じって、聞き慣れた控えめな声が届いた。まだ覚醒しきらない頭で、松井は布団から顔を出した。
「……篭手切……?」
「はい、おはようございます。申し訳ありません、お休みのところ」
「休みすぎだからいいよお」
なぜか代わりに応える桑名を無視して、松井は身体を起こした。篭手切が来るなら身支度だってちゃんと調えておいたのに。
「どうかしたか?」
手櫛で髪を撫でつけながら、なるべく普段と同じような声になるように訊ねる。今さら格好をつけても手遅れなのは分かっていたが、松井の枕元に膝をついていた脇差は特に気にしている様子はなかった。篭手切は松井の顔を少し上目に覗いて、申し訳なさそうに微笑んだ。
「実は、私は今日桑名さんと買出しに行く予定だったのですが、別の仕事を頼まれてしまいまして……」
「だから松井、お手伝いよろしくね」
「手伝い?」
桑名の手伝いということで畑が頭をよぎり顔をしかめかけたが、篭手切の手前どうにか抑えることができた。しかも今は年末、農閑期の真っ只中だ。
「新年の準備のための買い出しなのですが……」
「ああ、なんだ。それなら大丈夫だよ」
やっぱり畑ではなかった。
返事した声にはあからさまに安堵が滲んでしまった。篭手切は「ありがとうございます」と頭を下げ、桑名は「じゃあ早く起きて」と急かす。
「今から行くのか? 僕は何も食べていないのに」
「起きるの遅いからでしょ。非番だからって朝ご飯食べないのはよくないよ」
「別にいいだろう、普段と違ってこの時期は朝食も自由なんだし……」
「連隊戦で忙しいですからね」
さっさと片付けてしまいたいのだろう、膝にかけたままの掛布団を剥ぎ取ろうとする桑名に腕だけで抵抗しながら、松井は窓を窺った。少し明るくなっている。晴れ間が差してきたようだ。
「ほら、ご飯も僕が用意してあげるから」
腕力だけでは桑名に勝てなかった。回収されていった布団に追いすがりかけ、やめる。温かい布団を奪われて身震いすると、篭手切が勝手知ったるといった感じで松井の着替えの手伝いをしようとしていた。
「何を用意してくれるっていうんだ……」
「あほだき」
「……あ゛?」
——このとき松井の喉からもれた地獄を這うような低音について、篭手切は後に「冬の朝より底冷えする響きでした」としみじみと語り、それを聞いた遠征帰りの豊前江は笑いすぎて咽せたという。
「あほだきっていう料理があるのか……」
「そうだよ」
はい、とおにぎりを載せた皿とともに桑名が丸鉢を出してくる。茶色くてらてらした薄切りの大根が入っていた。
「去年漬けたたくあん、ちょっとだけどまだ残ってたんだよね」
「去年……」
いつの間にたくあんなんか漬けていたのだろう。去年もずっと同じ部屋で暮らしていたのに気がつかなかった。
松井の呟きに桑名は「塩漬けされてたんだし、食べられるって」と呆れた顔をしている。松井が古い食材に不平を抱いていると思ったらしい。
「……倹約はいいことだな」
文句をつけているわけではない、と示すために一口食べる。普通に大根を煮たのとは違う食感で、濃いめに味をつけられていておにぎりもすぐに片付いた。桑名は松井が食べ終わるまで、一緒に座ってゆったり待っていた。
着膨れするのはあまり好きではないけれど、背に腹はかえられない。厚い外套を着込み、松井は桑名と門を潜った。ニット帽まで被った桑名も、内番のときの長靴とは違いスノーブーツを穿いている。
「えっと、正月用の料理の買い出しだって聞いたんだけど……」
桑名が手に持ったメモを、松井は横から覗き込んだ。つらつらと書き連ねられた食材は、読んでいくだけで後日どのような姿で食卓に並ぶのか楽しみになってくる。一目見て分かる歌仙兼定の字に松井は笑みを浮かべた。
「今年も豪華だな」
「そうだね。いい野菜を選んできてくれよって頼まれちゃった」
「で、僕は散財に待ったをかける要員というわけか」
「僕は散財なんかしないよ」
本当は歌仙が自ら食材を選びたかったのでは、と思ったが、すぐにだから篭手切が買出しにいく予定だったのかと納得した。歌仙の目利きは確かだが、本丸にも予算がある。
「燭台切は今年は腕を振るわないのか? 兄弟が来るんだろう」
今年の連隊戦で告知された報酬の刀を思い出しながら松井が言うと、桑名が何やら曖昧に笑いながら首を傾げた。
「うーん、鶴丸は『弟心は複雑らしい』って言ってたな……それに、出陣の方に回ってるしね」
「それもそうだな」
突然の「お兄ちゃん」の登場告知が玄関脇に掲示されたとき、固まる燭台切の肩を膝丸が親しげに叩いたのは松井も目撃していた。兄弟仲は複雑怪奇だ。
本丸から万屋のある街まではそう遠くはないが、何せ本丸があるのが山の上だ。まずは山を下りなければならず、二振りは蛇行した道をだらだらと歩いていった。
「時空転移装置がそのまま街まで繋がれば便利なんだけどなあ」
「そうだな」
それは技術的に難しいらしく現状不可能だと山姥切長義が言っていたことを松井は覚えていたが、桑名が口にした願望には同意した。大荷物を持ってこの山道を上っていくのは、体力には問題ないとしても、単純に面倒くさいのだ。
そんなことを話しながら歩いていれば街に着いた。松井は桑名にもう一度メモを出させて、再びそこに書かれているものを二振りで確認すると、手分けして買物に乗り出した。
お互い何に腐心しがちかの違いはあるが、合理性を好むのはよく似ている。手分けした買物を松井が済ませて、あらかじめ決めていた待合せ場所まで赴いたとき、ちょうど桑名もやって来るのが見えた。
「メモ、本当にそっちが持ってかなくてよかった?」
「大丈夫だ。でも、一応確かめるからもう一度見せてくれ」
冬場にこれ以上外に出歩きたくない一心でそう言うと、桑名も面倒がらずに「はい」とメモを取り出してくれた。
「ついでにもう領収書も渡しといていい?」
「ああ」
松井が自分の買ったものを手早く確認すると、二振りはまた本丸に戻るために外に出た。
「……げ」
「あちゃあ、予報は降らないって言ってたのにねえ……」
昼間でも薄暗い空からちらちらと白いものが降っていた。吹雪くわけではないだろうが、すぐに止みそうにもない。
「……早く帰ろう」
松井が溜息をこぼしつつそう言ったとき、桑名が松井の頭にニット帽を押しつけてきた。自分が被っていたのを雑に取ったのだろう、髪がぼさぼさになっている。
「また積もるかなあ」
「……積もるだろうな」
荷物を片手に提げていたから、空いた手だけでニット帽を被せにくるのは「押しつける」という方がしっくりくる。笑顔で貸すとも何とも言わないあたり、こちらにも有無を言わせない感じがして、松井も自分の空いている方の手で帽子を引っ張り耳まで覆うように被った。
二振りは来たときと同じように、ただし雪の降る中を歩いていった。不思議と行きよりも言葉少なになった。街中はまだ歳末特有の気怠げな賑わいに満ちていたが、やがてそれも遠くなり、しんとした道中になった。それも、雪のせいかもしれなかった。
冬特有の張り詰めた空気に頬を切られるような感覚を覚えながら、松井は自分と桑名の足が雪を踏む音、互いの息遣い、手に提げた新年を迎えるための荷物がたてる音しか聞こえないのを感じていた。やがて白い雪と黒々した木肌ばかりの景色になった。
寒々しいばかりの水墨画じみた風景を眺めながら、本丸までのだらだら蛇行した上り坂を行くうちに、隣の息が震えるのが分かった。
「何笑ってるんだ」
「いや、松井のまつ毛に雪がついてるから」
それの何がおもしろいのか、桑名はまたふふふと笑った。いつの間にか髪はしおしおと萎びたように落ち着き、頭の上に白いものが積もっている。それを払ってやろうと手を伸ばすと、撫でられる犬のように大人しく頭を差し出してきた。
「……五月雨みたいだな」
「ん? 何が?」
松井が手を下ろしたのを見計らって顔を上げた桑名が首を傾げる。
「こんな天気でもどこに行っているのか、よく雪まみれで帰ってくるだろう。頭につけた雪を払ってやっているうちに、僕が近付くだけで頭をちょっと下げてくるようになった」
「あは、そうなんだ」
荷物を持ち直し、また歩き出す。本丸の門まではもうすぐだった。
「五月雨はこの雪の中でもよく出掛けるよね。村雲とどこに行くか考えてるのかなあ」
「どこに行くか?」
「うん。ほら、夏は連れ回しすぎちゃったでしょ」
「もう練度も随分上がったし、付き合わせても大丈夫じゃないか?」
「そうだねえ。でも、寒いとお腹が痛くなりがちらしいし」
ふうん、と松井が相槌を打つ間に本丸に着いた。二振りは玄関で外套についた雪を払うと、厨に荷物を運んでいった。
「帰ったよ。買い忘れはないはずだけれど」
「ああ、ありがとう」
歌仙は内番着で立っていた。仕込みをする量も多いのだろう、手の空いているらしい脇差や短刀たちが所狭しと動き回っている。その中にいた篭手切が松井と桑名に気付いて目礼をした。松井も軽く手を振って応える。
歌仙はその小さい刀たちの間を縫うようにして松井たちの許へやって来ると、袋の中を一瞥して目を細めた。
「確かに受け取ったよ……ちょっとそのまま、待っていてくれ」
そう言うとまた厨の奥へと引っ込んでいく。鍋から何かよそい、その椀をふたつ、小さな丸盆に載せて戻ってきた。
「これは、駄賃代わりに」
椀の中は汁粉だった。まだ勢いのある湯気を立て、小豆の中に焼き目のある餅が埋もれている。やったあ、という桑名の声に歌仙は「あとで感想も聞かせてくれ」と微笑むと、すぐ忙しそうな厨へと踵を返していった。
せっかくの温かい汁粉だ。温かいうちに食べたい。
そう思った松井が「仕事部屋に行こう」と言うと、桑名も頷いてついてきた。仕事部屋は事務仕事用にいくつか使うことを許されている小部屋の総称だった。松井はよく待機番のときに使うが、すべての部屋に小さなヒーターが置かれているのだ。連隊戦で忙しい中、単におやつを食べるのに使うのは気が引けるが、食堂も大広間も刀たちが出払っている時間は広すぎて寒々しい。
空いている仕事部屋を見つけた二振りは、電源を入れたヒーターの前に並んで座った。くっついていても部屋は冷えていたが、歌仙のくれた汁粉は腹の内を温め、口の中に嫌味のない甘さを残していった。
「おいしかったねえ……」
「そうだな……」
食べ終えた椀を返しに行かなければならないが、ヒーターの前から離れがたい。揃って熱源に手をかざしながら、二振りはとりとめもないことを話した。
「豊前は今日遠征だっけ」
「ああ、帰りは夜だな」
「五月雨は非番?」
「そうだな。僕もそのはずだった」
「あはは。村雲は、もうすぐ練度が上がりきりそうって言ってたなあ」
「うん、年内に上がりきったら正月休みをもらう約束を取り付けたから頑張っているらしい」
「そうなんだ」
楽しそうに声をあげた桑名が、本棚を気にした。各棚に、色分けされたファイルがいくつもしまわれている。
「あれ戦績?」と訊くので、松井は「いや、内番や購入物の記録だよ」と応えた。戦績や資材の記録は、審神者のいる執務室に保管されている。
へえ、と頷いた桑名がのっそりと立ち上がり、その本棚へと近寄っていった。桑名がいたことで温かかった部分が冷えて、松井は身を縮めた。
「これって好きに見ていいの?」
「いいよ。ここの全員の記録だからな」
「そっか」
桑名はいくつか取り出してはしまいを繰り返したあと、次に取り出したファイルを開いたまま動かなくなった。それが畑の収穫物に関するものだと、庶務を買って出ることの多い松井は知っていた。
ぺら、ぺら、ぺら、と短くはない間隔で頁をめくる音がする。やや俯きがちに、しかし寒さも忘れたようにそこから動かない桑名の後ろ姿を見ながら、帽子を返すのを忘れていたのを思い出した。手を伸ばせば、少し濡れた感触がある。
本丸は至る所が温かく保たれているけれど、それでもここの冬は厳しい。松井は桑名から借りたニット帽を脱ぎながら、ヒーターのスイッチを切った。椀も返しにいかないといけないし、外套だって脱いで、もっと温かい部屋にいる方がいい。例えば、自分たちの部屋や、賑わう食堂などといった場所に。
「桑名」
「うん?」
もう行こう、と伝えるつもりで声をかけたが、桑名は生返事を寄越しただけだった。相変わらずやや俯いて、収穫物の記録を当たっている。いつの間にか手にしていたファイルはこの冬のものだった。
「桑名」
「うん」
呼びかけても返事だけでこちらを向く様子のない桑名に、松井は近寄った。隣にぴったりくっついても、そのままだ。軽く結んだ唇は少し乾いていた。
仕方のない気持ちで、松井は桑名の前髪をめくりあげた。やはりまだ、少し濡れている。
いきなり目許を晒された桑名は言葉も出ないといった顔で松井を見つめていた。冴えたようでも温かい色味でもあるような、澄んだ黄色い瞳が見開かれている。
ようやく自分を見たことに頷くと、松井は前髪を放してやった。
「僕もずっと確認しているし、他にも信頼できるものが確認している。収穫物も財政もまったく問題ない。正月に相応しい贅沢をして、その上で春まで暮らしていける——ここでは、誰も飢えないよ」
誰も凍えずに春を迎えられる。じっと前髪の向こうにある目を見つめながらそう説くと、桑名は何度かゆっくり呼吸をしたあと、小さく言葉もなく頷いた。
松井はそれに微笑み返すと、桑名が手に持ったままのファイルを取り上げ、本棚へとしまった。いつの間にか、そろそろ食堂に皆の集まり出す時間だった。