春を惜しまず
ふとしたときに、何度も思い出す光景がある。淡い色をした桜の花弁が、霞のように薄青い空を彩っている。風が吹く度、花を持て余すように枝が震える。その下で、明け方の柔らかい陽光を束ねて作ったような兄の髪が揺れている。
春はいい。風も肌を刺さなくなって、顔を上げるのも億劫でなくなる頃には、美しい兄の笑みも鮮やかに蘇る。ただ、春は速やかに去っていく。その去り際に、膝丸はいつも兄との別れを思い出すのだ。
別れなんて、自分たち兄弟にとっては珍しいものではなかった。幾度も離され、その都度袖を濡らしてきた。しかし、だからといって、別れに慣れてしまうことはなかった。それに、膝丸が最も近くに経験した兄との別れは、これまでと少し勝手が違っていたのだ。
その日は、本丸が閉じられる日だった。審神者はずいぶんな高齢だったため、刀たちは主が家族の許で人として最良の最期を迎えるのを望んだ。だから、この別れも寂しくはあったが、悲しくはなかった。主が笑顔で去っていくのを見送ることができたのだから。
さて、問題は残された刀たちである。その刀たちの許へ、これからの説明をしに現れたのは黒いクダギツネだった。
「まずは、長年の御勤めご苦労様です」
こんのすけに似ているのに、政府直属のエリートだという黒いクダギツネはどこかもったいぶった話し方をする。主と別れたばかりで鼻の頭が赤い和泉守兼定が、ぐっと眉間に皺を寄せるのを、膝丸は視界の端で捉えていた。
「さっそく本題に入りますが、あなた方は長年の時間遡行軍との戦闘で魂が疲弊しております」
疑問の声が、黒いクダギツネを前にした刀たちから漏れた。クダギツネはわざとらしい咳払いをしてみせる。
「ご存じの通り、肉体的な怪我は審神者による手入れで元に戻ります。ここにおられた審神者も、その点において大変優秀でした。あなた方は肉体的には問題ない、もちろん刃も鈍ってはいない。しかし、魂は別なのです。あなた方は人間ではないから、時間遡行も行えたし、遠征や修行先で何年も過ごした後に、その出発から幾日も経っていない本丸に戻っても、何事もなく暮らすことができた。しかし、魂というのは、人型に押し込まれていながら人間とは違う生活をしていると、磨耗してしまうものなのです」
刀たちはクダギツネの言葉に聞き入っていた。クダギツネはそれに満足そうに一度頷くと、続きを話し始めた。
「政府としましては、あなた方の魂をこのまま疲弊させたままにしておくのは惜しい。あなた方は貴重な戦力なのです、取り返しのつかないところまで魂を磨耗させてしまうなんてもっての他です。そこで、政府はあなた方の魂に治癒を施したいと考えており、それを実行する所存です。そして、その方法なのですが」
こほん、とクダギツネはまた軽い咳払いをした。
「あなた方には、転生していただきます」
「いやぁ、千年も刀やってるけど、転生しろと言われたのは初めてだね」
「そうだな、兄者」
本丸の近くには、川沿いに立派な桜並木があり、膝丸は兄とそこを散歩するのが習慣になっていた。どの季節もそれぞれ枝振りや空の色、遠くに霞む山の様子をふたりで話しながら歩いていたが、一等見事なのはやはり春だった。膝丸は、陽光が桜の花弁を透かして兄の髪に降り注いでいるのを見るのが好きだった。淡い空と花弁の色合いも美しいが、そこに兄の髪が添えられると、その色が一層美しく映えるように思われるのだ。
「人として一生を終えることが魂の慰労になるとは、鶴丸ではないが驚きだ」
「うんうん、面妖だよね」
「しかも、政府によって幸福な一生を用意されるとは……政府とは一体……」
「うんうん、面妖だよねぇ」
「兄者、さては眠くなっているな?」
「ありゃ、バレたか」
髭切は楽しげに笑っている。これまで何度も過ごしてきたような時間だ。川の水面がチラチラと光を返すように兄の滑らかな髪が一筋ひとすじ輝いている、いつもの春の午後だった。
「刀であった頃の記憶は原則封じられると言っていたが、それだと俺たちが兄弟だと忘れてしまうのではないか? 俺はそれが不満だ」
「おや、そうなのかい? いいじゃないか、たまには兄弟じゃない僕たちだって」
「何を言うのだ!」
膝丸は信じられないものを見る思いで兄を見た。当の髭切は、いつものように薄い笑みを浮かべている。
「いやいや、お前と兄弟でいたくないなんて言っているんじゃないよ。だけど、人の子として過ごす以上は、そっくり今の僕たちのままではいられないだろう。だったら兄弟でなくてもおかしくないし、それを悲観しなくてもいいんじゃないかな」
「そういうものだろうか……」
「そういうものさ」
膝丸に寄越していた視線を、髭切は川へと向けた。
「それに、どうやったって、今ここにいる刀の僕たちは兄弟なんだしね」
「それもそうだな」
「そうそう、何も心配いらないよ」
兄の横顔を見ていた膝丸は、自分たちの頭上に広がる桜を見た。春はすべてを淡く彩ってしまい、転生の話もどこか夢物語のようだ。
「しかし、あなたとまた離れてしまっては、こうして並んで桜を見られなくなるだろう。俺はそれが残念だ」
「うーん、それは僕も少し残念だな」
髭切のその言葉に顔を見合わせると、ふたりは同じ顔で笑い合った。寂しさを分かち合う笑いだった。
「それにしても『記憶は原則封じられる』というのは、引っかかる言い回しだね」
「ああ、それは俺も気になってな。例外でもあるのか聞いてきたのだが、単純に記憶が完全に封じられない場合もある、ということらしい」
「おお、そんなことが」
「その場合はクダギツネが個々に対処するそうだ。あやつらも大変なのだな……」
「あやかしも政府に雇われている時代だからねぇ……」
吹いてくる風が少し冷たく感じた。そろそろ日が傾いてきたのだ。
「しかし、もし記憶を持ったまま転生してしまったとしたら、自分だけ周りが覚えていない何かを覚えているかもしれないんだろう? 自分は覚えていることを相手は覚えていないなんていうのは、結構な生き地獄に思えるなぁ」
「そうだな、俺もそう思うからあなたに名前を覚えていてほしいのだが」
「ありゃ、墓穴だ」
「墓に入るのは俺の名前を覚えてからにしてくれ」
軽口のようになったが、本気の発言だった。兄は笑って聞き流してしまっていたが。
「――もし、転生しても俺の記憶が消えなかったら」
「うん?」
そろそろ散歩も終えなければいけない。最後の散歩だ、言えることはすべて言ってしまおうと、膝丸は珍しい冗談を言った。望みを織り混ぜた、口約束の形で。
「転生しても、もし俺がここでのことを覚えていたら、必ずやあなたを見つけ出し、またこうして花見がてら散歩に誘うとしよう」
「おお、それはいい。約束だよ」
「ああ、約束だ」
戯れだったのだ。こんな口約束くらいは赦されてもいいだろう。兄も戯れと分かっているから了承したのを、膝丸も分かっていた。
ふたりは互いの目を覗き込んだ後、声をあげて笑い合い、揃って本丸へと帰った。今まさに、刀帳順に刀剣たちの転生が行われている本丸へ。
そうして膝丸が気がついてしまったとき、生活は穏やかな地獄となったのである。きっかけはやはり春だった。
それまでは何となく、自分が経験するすべてから一歩引いているような心地で過ごしてきた。自分は元々は自分ではなかったのではないかというぼんやりとした感覚が、ずっと自分の中から消えなかった。春にはその感覚が一層強くなって、ぼうっと、眠る前のような淡い放心に意図せず沈み込んでしまうのだ。
そんなある日、春の微睡みに誘われるように、膝丸はふと桜の木の下から空を見上げた。空は薄暗く曇っていて、薄い花弁が揺れていた。その花弁の向こうで、青みがかった灰色の雲の切れ間から金色の陽光が細長く垂れていたのである。
――ああ、兄者の髪のようだ。
そう思ったとき、膝丸の目からは滂沱の涙が溢れ出た。止めどなく、止めどなく涙がこぼれた。戸惑い顔のまま泣き続ける膝丸を周りの者は困惑し、同時に心配して、口々に名前を呼んだ――「膝丸」ではなく、「××」と。
××というのは、自分の名前だった。しかし自分は、紛れもなく膝丸だった。この混乱は当時の膝丸のまだ小さかった頭の中を忙しく飛び回って、膝丸はしばらく、わけもなく涙を流す日々を過ごした。
膝丸にとって幸運だったのは、××としても頑丈な精神を持っていたことだ。涙はすぐには止まらなかったが、少年は自分に何が起こっているのかを理解しようとし、積極的に記憶の整理を行っていった。そうして自分はかつて刀であったこと、それは周りの人間には言うべきではないことを導き出し、また、兄との春の約束も思い出したのである。
膝丸は責任感の強い刀だったから、いたずらに人間たちに時間遡行の話をして混乱させるのはよくないことだと考えていた。だから××の友人たちに、自分には刀だった頃の記憶があるのだ、などという話は冗談でもしなかった。しかし、自分だけが人の知らないものをひとり抱えている寂しさはいつもあって、その寂しさは膝丸および××の頑丈な精神をもってしても顔を出すことがあり、それは決まって春だった。春に桜を見る度、兄と桜を見上げた日々を思い出し、兄のいないことが寂しくて仕方がなくて、××の目から膝丸がポロポロ涙をこぼしてしまうのだ。毎年そうして泣いているので、友人たちは××を酷い花粉症だと思っていて、膝丸の涙を春の風物詩として受け取っているのである。膝丸としては、そうして深刻にせず受け流してくれる友人を持ったことは××として幸運だったと思っている。
こうして春にかつての別れを思い出し、どうしようもない寂しさに涙を流しながら成長し、××は十九歳になった。入学した大学にも見事な桜があって、新入生オリエンテーションを終えた帰途で膝丸はそれを視界に捉え、またいつものようにポロッと涙をこぼしてしまったのだ。
「大丈夫か?」
たまたま傍を歩いていた人が、膝丸の涙に目を留めて話しかけてきた。いつもなら適当に誤魔化すのだが、今回は長年――人間としての長年だが――の寂しさもあって、桜から目を放すことができず、つい本音を漏らしてしまった。
「……兄との別れを思い出してしまって」
「兄弟との別れか。それはつらいな」
「まったくだ。また一緒に桜を見ようと約束したのに、未だに守れていない」
記憶が戻ってしまった以上、兄のことはずっと探していた。しかし、見つからなかった。そもそも、未成年にできることには限りがあった。その自分の力不足も悲しくて、膝丸に涙を流させるのである。
「兄弟を待つのは楽しくもあるが、つらい時間でもあるからな」
「ああ、そうだ。しかし、俺は兄を探すと約束したのだ。兄者を探し出すから、一緒に桜を見ながら散歩しようと……」
「兄者?」
相手の声が少し弾んだ。それに膝丸が相手の方を振り向いたとき、
「お前、膝丸か!」
と相手が嬉しそうな声を出した。
混乱した膝丸が、は? とか、え? だとか意味のない声を出していると、相手は「確かに分かるわけがないな」と頷いて、口笛を吹いた。
――ほう、ほけきょ。
見事なウグイスの鳴き真似だった。目を見開く膝丸の顔を満足げに眺めながら、「今生でも上手いものだろう?」と自慢げに浮かんだ笑みは、他でもない鶯丸のものだった。
「なるほど、桜で思い出すとはなぁ」
「君は何がきっかけだったのだ?」
「俺? 俺は、歳の九つ離れた弟に『馬鹿と言う方が馬鹿なんだ』と泣かれたときだな」
「……まさか……」
「そのまさかだ。おかげで退屈せずに済む」
あわれ大包平、強く生きろ、と膝丸は心から願った。口には出さなかったが。
ふたりは学食に移動して、これまでの自分たちの生活を話し合っていた。構内は新歓やサークルの勧誘で賑わっているが、入り口から見えない学食の奥は静かに話ができた。
「それで、兄探しはどうなんだ?」
「さっぱりだ。バイトで金を貯めて、探しに行く場所を増やそうとは考えているのだが」
「そうか。バイト情報なら学務課の前の掲示板にもあったぞ」
「それはありがたい」
膝丸は目の前にいる男の顔をじっと見詰めた。かつての鶯丸と同じ顔立ちをしているわけではなかったが、何か形容できないところで、この男は紛れもなく鶯丸だと納得させるものがある。
——兄者も、顔を合わせればこういうふうに分かるだろうか。
「……君はいいな。弟のようなものが、今生では本当に弟だったのだな」
「ああ。九年待たされたと言えるかもしれないが、まぁ細かいことだ」
まったくあいつは人になってもおもしろい、と笑う鶯丸が、ふと思い出したように真顔になった。
「膝丸、もうクダギツネには会ったか?」
「いや、会っていないが」
「そうか……」
鶯丸は顎に指をあてて考える素振りをしたあと、すぐに膝丸に視線を戻した。
「あいつは俺が大包平に気付いて記憶を戻した日に、俺のところへ来たんだ。俺は大包平がいても観察しているばかりだからか、政府から特別対処されるということはなかったんだが、君のところにも来るかもしれないな」
「そもそも政府が転生先を選んでいるのだろう? 君と大包平が同じところにいるのは政府の折り込み済みだったのではないか?」
「ははぁ、言われてみればそうだな」
何でもないことのように笑う鶯丸に、「このふたりはひとまとめにしておいた方が色々と楽なのだろう」と膝丸は不思議と納得した。
鶯丸は腕時計を見ると、「では弟と約束があるのでな」と言って席を立った。膝丸も合わせて立ち上がって、ふたりは食堂を出ようと歩き出した。
「付き合わせてすまなかった」
「いや、俺も話したかったんだ。記憶のある奴に会うのはあまりないからな」
「あまり? ということは他にもいるのか?」
「高校の同級生に鶴丸がいてな。といってもあいつは、遠くの大学に進学してしまったんだが。まぁ、お前に会ったことを話して、髭切を探すよう頼んでおこう」
「それはありがたい! ぜひとも頼む!」
「ああ。では、これからも改めてよろしく。あと」
並んで歩いていた鶯丸が、膝丸の顔を覗き込むように首を傾げて苦笑いした。
「俺の名前は□□というんだ」
それだけ言うと鶯丸は門へ向かって歩いていった。背筋の伸びた美しい後ろ姿は、刀のときから変わっていなかった。
アルバイトは、掲示板に貼り出されていた家庭教師をやってみることにした。とりあえずは一年やってみて、ある程度金を貯めてから、自分たち兄弟に所縁のある土地でも回ってみようと思ったのである。
派遣先もすぐに決まった。相手は中学受験を控えていて、その中学は膝丸の母校だったため、すぐに話がまとまったのだ。
桜が花をすべて落とした頃、顔合わせに向かった家は、お屋敷という言葉が相応しかった。その広い玄関で、春も終わろうというのに、膝丸は陽光に兄の髪の色を見たときのような衝撃を味わうこととなった。
「あなたが××先生? 僕が○○です。よろしくお願いします」
そう言ってはにかむ少年が、他でもない兄だったからである。
「兄者が俺より年下など考えもしなかった……」
「言葉を単純に受け取るだけならあり得ないことだからな」
鶯丸はペットボトルの口を緩めながら笑った。学部も同じでともに過ごすことの多くなった彼はいつも同じ茶を飲んでいて、最近は膝丸もつられて同じものを手に取ってしまうことが増えていた。
「しかし、髭切が見つかってよかったじゃないか」
「よかった……のだろうか……」
「何か問題が?」
「兄者は……兄者は俺を、覚えていないのだ……」
そこまで絞り出すと、膝丸の目からまたボロッと涙がこぼれ出た。鶯丸は黙ってポケットティッシュを差し出した。
「玄関先で泣き出さなかったことをほめてくれ……もしかしたら人違い、いや刀違い、まぁどちらでもいい、間違いだったらとんだ迷惑だから、俺は××として彼の部屋まで案内してもらったのだ。しかし話せば話すほど、そして見れば見るほど、彼は兄者だった。俺が兄者を間違えるはずがない」
「ははぁ」
「それで、何となく打ち解けてきたとき、『俺のことを覚えていないか?』と聞いてみたのだ。そしたら何と応えたと思う?」
「知らん」
「兄者は少し眉を下げて笑いながら、『うーん、僕、人の名前と顔を覚えるの苦手で……どこかで会いましたか?』だ! 人の名前をよく覚えていないなんて、兄者はそんなところまでそのまま転生してしまうとは……俺の名を聞いても思い出してはくれまい……」
「それはそうだろうなぁ」
「どうすれば、俺のことを思い出してくれるだろうか……」
鼻をかむ膝丸に新しいティッシュを渡しながら、鶯丸は意を決したように小さな声で話し出した。
「なぁ膝丸。俺の弟は、大包平だったことを思い出していないんだ」
突然の告白に、膝丸はティッシュを受け取った格好のまま固まった。
「あいつが大包平なのは間違いない。この俺があいつを間違えるはずがない。しかし、この転生は魂の治癒のためだろう。俺は自分が鶯丸であることを思い出した状態でも治癒に問題ないと判断されたわけだが、大包平もそうなのかは分からないんだ。実際クダギツネも俺の許へ来たとき、わざと大包平の記憶を喚起させるようなことしないようにと釘を刺していった」
鶯丸は少し罰の悪そうな顔で、膝丸に笑いかけた。
「だから、髭切に接しているのか、○○に接しているのか、よく考えた方がいい。お前も、髭切の魂の治癒が上手くいかないのは本意ではないだろう」
鶯丸の珍しい表情に、膝丸は何も言えなかった。
「先生、調子悪いの?」
「え、いや」
少年の形をした兄が、自分の顔色を窺うような目で覗き込んできて、膝丸は我に帰った。自分は今、××として○○に勉強を教えているのだ。膝丸が、髭切に対してではなく。
「……すまない、少し上の空だった」
「大丈夫? 体調が悪いなら、無理しちゃ駄目だよ」
敬語を使わないように頼んだのは自分だった。兄が年下であるという違和感も大きかったが、その上で敬語も使われるとなると、あまりのよそよそしさで泣いてしまいそうだったのだ。○○は敬語を使わないことを最初は渋ったが、結局はそれがふたりの距離を縮める役割を果たした。○○は××を歳近い大人として信頼しつつある。
「ああ、大丈夫だ。このページを終わらせてしまおう」
「はぁい」
兄者は返事はよくても話を聞いていないことがあったな……などと思いながら、言われた通り問題集に取りかかる少年を前にして、膝丸は緩みそうになる涙腺を堪えるのに必死だった。
バイトを終えて家までの道を歩いていると、日が落ちて辺りはすっかり暗くなっていた。暗くて目に見えるものが少なくなるほど、膝丸には先ほどまで向き合っていた少年の姿が脳裏に浮かんでくる。しかしその姿はすぐ揺らいで、兄の姿になる。
鶯丸の言葉は、膝丸の胸の内に重く残っていた。言われてみれば当たり前のことだった。自分を思い出すことが、今の兄にとって幸福なのかは、誰にも判断できないのだ。
「膝丸ですね」
そんなことを考えながら夜道を歩いていると、突然背後から懐かしい名前で呼ばれた。声も、どこか聞き覚えのあるものだった。
振り返ると、闇に溶け込むようにこちらを見ている丸い動物がいた。隈取りのような装飾が施されたそれは、本丸解体の日に会ったクダギツネだった。
「……久しぶりだな」
「ええ、お久しぶりです。さっそく本題に入りたいのですが」
ここでクダギツネは周りをキョロキョロ見渡した。
「外では何ですし、あなたの部屋でもよろしいですか?」
断らせる気のない口調にムッとしながらも、膝丸は頷いた。
「さて、既に分かっていると思いますが、あなたと髭切のことです」
「そうだろうな」
クダギツネは膝丸の部屋に上がり込むと、さっそくと言った感じで話し始めた。
「政府としては、○○に髭切であることを思い出させるのは推奨しません。どういう影響が出るのか予測できないので」
やはりそうか、と思うと、膝丸の目にはじんわりと涙が溜まってきた。クダギツネはそれを目にすると、「あとそう、それですよ!」と床を丸い前足でバシバシ叩いた。肉球のせいか大して音は立たなかったが。
「それ! あなたの精神状態です! 今までは髭切を想って泣くことがあっても、まだ経過観察の範囲だったんです! しかし○○に会ってから、魂の治癒状況に影響出まくりなんですよ!!」
どこか怒ったような口調でクダギツネが捲し立てるのを、膝丸は若干引き気味に聞いた。それを気にもせず、クダギツネはヒステリックに声を荒げる。
「刀剣男士の転生体同士が近くにいればね、そりゃ接触することも増えるでしょうし、接触すりゃ記憶が喚起されることだってあるでしょうよ。でもね、我々も歴史に影響の出ない形であなたたちに治癒を施さなきゃいけないんです! そうなると、管理しやすいようになるべく固まっていてほしいし、そもそも歴史への影響を考えて時代や場所を散らばらせるにもある程度にしておかないと演算に負荷がかかりすぎるし、我々だって暇ではないのですよ! 忙しいんです!! 大変なんです!!」
「そ、それは面倒だな……」
「そうです! しかしそれも、あなた方の治癒が滞りなく済んでほしいからです!!」
そこまで言うと、クダギツネはぜいぜいと肩で息をした。背中でも撫でてやった方がいいだろうか、と膝丸が手を伸ばしかけたとき、クダギツネは重そうな頭をぐっと持ち上げた。
「そんなわけで、私は最小の労力で最大の結果を得たいのです。仕事は合理的に済ませたいわけです」
「それは分かるぞ。仕事はなるべく早く、確実に為されるべきだ」
「そうでしょう、そうでしょう。そんなわけで、失礼します」
クダギツネが前足で床をひとつ叩くと、半透明の小さなウィンドウがいくつも浮き出した。かつて出陣のときにこんのすけが出していたものと似ていたが、そのウィンドウに書かれているのは××の情報らしかった。
「それは俺か?」
「そうです。この××の魂の情報の、ここをこうして、こうです!」
クダギツネが前足をちょこちょこ動かして何かを操作するのを、膝丸は止められなかった。
「待て、何をしたのだ」
「あなたの魂にあるコマンドを組みました」
「コマンド!?」
「今から説明します」
こほん、とクダギツネは咳払いをした。
「まず、あなたの魂の治癒が遅れてしまう原因ですが、我々の見解によると、あなたの髭切への思い入れが深すぎることが原因のようなのです」
「それはそうだろうな」
「あっさり納得されるのも反応に困るのですが……あなた以外にも兄弟だったり、関係が強くて思い入れの深い刀たちというのは存在します。あなたも会ったようですが、鶯丸と大包平もそうした刀たちのひとつです。しかし、鶯丸は大包平に強い興味を抱いているが、あの刀はある意味で淡白な質なので、大包平が自分のことを忘れていても諦めてしまえるわけです」
「そう言われると悲しいことに聞こえてくるのだが」
「しかし、諦めるというのは悪いことばかりではないでしょう。現に鶯丸の心は、その淡白さで守られているところがありますから。しかし、あなたはどうです! 髭切に対してだけおっそろしく諦めが悪い!!」
「当たり前だろう。兄者だぞ」
膝丸が事もなげに頷くのにクダギツネはキィーッと金切り声を出して床を激しく叩いた。
「ですから! その執着が! 魂を疲弊させるのです! 刀としては忘れるのが無理でしょう、それはあなたの刀としての存在の根幹に関わることですから!! しかし! 今の人間としては! その執着を脇に置いておかないと治癒が進まないのですよ!!」
床を叩きながら迫ってくる黒い頭を、膝丸は両手で受け止めると、犬猫にするようにわしゃわしゃと撫で回した。クダギツネは喉から低い声を漏らして不満げな顔をしたが、やめろとは言わなかった。
「だから、私は先ほど、あなたの転生体の魂に、その執着を手放すためのコマンドを組んだのです」
「だから、そのコマンドとは何だ」
膝丸の首元を撫でる手に、クダギツネは横になって腹を見せた。愛らしいポーズだったが、あやかしにももはや野生は残っていないのだな……と膝丸は少しあわれにも思った。
「まず××の魂というのは、政府が用意した殻のようなもので、大部分は膝丸の魂なのです。膝丸の魂はほとんど眠らされていて、表面に出ている××の魂が代わりに働くはずだったのですが、今回のあなたの魂は目覚めてしまった。ですから、あなたの魂をもう一度強制的に眠らせたら、それで丸く治まるというわけです」
「つまり、××の膝丸としての記憶を封印するということか?」
「そういうわけです。しかし」
ごろん、とクダギツネは身体を起こした。膝丸の手を抜け出し、少し距離を取って膝丸をにらむ。
「今までの××は、膝丸としての記憶がある××として生きてきました。これを突然、自分が膝丸であることを知らない××としてしまっては、あまりにも不自然に人が変わってしまうのではないか、ということが懸念されるわけです。我々としてはそれはなるべく避けたい。その人の変わった性格での生活が、新たな影響を生まないとも限らないので」
「うむ。つまり?」
「あなたが心を平穏にして暮らしてくれるのが一番なのですが、それができそうにない場合には、魂の治癒のためやむを得ず強制入眠させるしかありません。そんなわけで、私がさっきあなたに組み込んだコマンドは、次のようなものになります」
クダギツネは得意気に鼻を鳴らした。
「“膝丸が髭切に関連して感情を昂らせ、涙を流した場合、即座に膝丸の魂を××の魂の内部で強制的に眠らせる”、分かりやすく言い換えますと、“兄を想って泣いたら膝丸としての記憶が消える”ということです」
そこまで言うと、クダギツネは呆気にとられている膝丸を置いて窓から去っていった。「あなたの撫で方、結構よかったですよ。それではよき人間生活を!」と言い残して。
「どうしたらよいのだ……」
「さぁ」
膝丸が春に涙をこぼしたキャンパスの桜も葉を青々とさせて、晴れた空が一層色を深くする季節になったが、膝丸にはその青さを見上げる余裕がなかった。クダギツネの警告から一ヶ月を経て、外を歩けば汗の滲むようになった。しかし、汗よりも涙の方が心配だった。
膝丸がクダギツネと邂逅した翌日、大学で膝丸に泣きつかれた鶯丸は、泣きつきはしたもののすぐに目頭を押さえて「いや泣いてはない、泣いてはないぞ」と唸った膝丸の姿に、なんとなく事情があるのを察したらしい。察してしまえば驚くこともなかったらしく、膝丸がクダギツネに言い渡されたという制約を聞いても「ははぁ」と感心したのかしないのか、曖昧に頷いただけだった。その反応は当時の膝丸には薄情にも思えたが、今となっては鶯丸が下手に慰めを言わない性格であることに感謝していた。同情されたら涙腺が決壊してしまうかもしれない。
「ところで、○○の勉強の方はどうなんだ?」
「順調だ、何せ兄者だからな」
「そうか、それはそれは」
よかったな、と微笑む鶯丸に、膝丸も得意気に頷いた。ついさっきまで泣きそうだったのに、兄が絡むと単純だなぁ、と鶯丸は現世の兄を褒め称える膝丸の顔を見ながら微笑ましい気持ちになっていたのだが、当の本人は知るよしもない。
「夏の間に授業を先取りして進めておいて、秋からは入試問題をこなしていく予定なのだ」
「そうか」
「この予定ももしかしたら前倒しにできるかもしれん、教えたことを一回でよく覚えているから……」
少し早口で話していた膝丸が突然黙り込んだ。それまで笑みの浮かんでいた口許は、凍ったように固まっていた。
この現世で再会した膝丸が、兄である少年について語るときに表情をコロコロ変えるのを鶯丸は何度も見てきた。ただし、かつて本丸で兄の挙動に一喜一憂していたのとは違って、現在は兄のどの挙動が引き金になっているのかがすぐには分からないために、感情の振れ方が随分危うく見えた。
「どうした?」
鶯丸の問いかけに、膝丸は苦い笑みを浮かべた。自嘲に似ていた。
「○○は……社会科で習う名前の類いを忘れたりしないのだ」
ふ、と小さく息を漏らすと、膝丸はぎゅっと目を瞑った。彼が涙を堪える時間を、鶯丸は何も言わず待った。
「俺はどうやっても彼を兄者だと思ってしまうのに、ふとしたことに兄者との違いを見つけてしまうのだ。見目の違いや年齢のことではない、ちょっとした言葉の選び方や俺への態度にだ。これが、転生するということなのだろうか。人間になってしまえば、刀であったときのようにはいられぬだろうと兄者は言っていた。だから、兄弟でいられずとも不思議ではないだろうと……これは恐ろしいことだ」
話すうちに、膝丸の顔からは自嘲も苦しみも消え、ただ虚無だけを映した目付きになった。
「彼は紛れもなく兄者であるのに、それ以上に○○なのだ。会う度に兄者だと思うのに、かつて兄者に見なかったものばかり見える。俺にはそれが恐ろしい。○○は兄者として生きていない。ならば俺は、今生で兄者を見つけて、これからどうすればいいのだ。ここでは、兄者は兄者として暮らさずともよいのに」
そこで初めて、膝丸の目に恐れの色が滲んだ。濡れた光をたたえた瞳が、鶯丸を捉えた。
「兄者と兄弟でないなら、“俺”とは何なのだ?」
唇が震えるのを見ながら、鶯丸は自分の鞄から取り出していたポケットティッシュを膝丸の目許に押し付けた。膝丸は反射的に目を閉じた後、呆然としながらそのティッシュを受け取った。
「……俺には、お前に答えを与えることはできない。泣く前にティッシュを出してやることはできるが」
鶯丸の言葉に、膝丸は押しつけられたティッシュを見詰めて小さな声で「すまない」と漏らした。
「謝ることじゃない」
少し困ったような鶯丸の微笑に、膝丸も辛うじて笑い返した。ふたり揃って情けない表情だったが、鶯丸は膝丸の笑みを見ると、自分の顔から困惑を拭い去った。
「この流れで何なんだが、そろそろ時間なんじゃないか」
鶯丸の静かな声に促されて、膝丸も自分の腕時計を見た。もうすぐ○○の家へと向かわなければならない時間だった。
「ああ……では、今日も行ってくるとしよう」
ではまた、と去っていった膝丸の後ろ姿を、鶯丸は黙って見送った。
「――“俺たち”とは一体何者だろう」
思わず呟きながら、まだ日も傾かない青空を見上げると、葉桜がわずかに枝を揺らしていた。外に出れば、風がじっとり肌にまとわりついてくるだろう。そう考えてから、鶯丸は立ち上がった。そろそろ弟を迎えにいく時間だった。
目の前で机に向かう少年の顔を、膝丸は見つめている。丸い頬は、以前会ったときより少し色が濃くなっている。「そろそろプール開きなんだ」とはにかんでいた顔を、膝丸はすぐ思い出せる。そこに兄の面影はあっただろうか。
「できた!」
「ん、ああ」
少年が差し出す冊子を受け取って、膝丸はそこに書かれた文字を見る。大きさは整っているが、震えるように右上にぶれる、子どもらしい文字だ。兄の文字は――
「先生?」
不安げな声に、膝丸ははっと瞬きした。○○は心配そうな表情を隠さず膝丸を見つめている。微笑で何もかも包み隠してしまう兄にはついぞ見られなかった表情だった。
「すまない、ぼうっとしていた」
「そう……」
○○は小さく相づちを打つと、机の上に視線を落とした。堪えるような表情に、膝丸も暗い予感を感じ取った。
「……あのね、先生」
「ああ、何だ」
「先生が僕の家庭教師を続けたくないなら、無理して続けてくれなくていいんだよ」
予想もしてなかった言葉に、膝丸は目を見開いた。○○は恐る恐る顔を上げて、続きを話した。
「僕は先生の授業、分かりやすくて好きだけど、先生いつもつらそうな顔をしているから……僕の成績が駄目なのかなと思って頑張って勉強したけど、先生はやっぱりつらそうだし……先生、無理して僕のところに来てくれなくてもいいよ」
「違う!」
大きな声に、○○がびくりと肩を揺らした。すまない、と言いたいのに、目の奥が熱くなっていくのばかりが気になって、膝丸は目許を押さえながら「違うのだ」としか言えなかった。
「俺は、無理をしているのではないのだ」
辛うじて続けた言葉に、頭の中では、それは本当か? という自問が消えなかった。実際膝丸は○○のためではなく、髭切のために苦しんできたと、そう自覚していた。自分は兄の影を見ているのに、その兄の影は××を見ても、膝丸を見ることはなかった。兄の影が揺らぐほど、自分もいなかったものになっていくようで恐ろしかった。
――しかし、自分こそ、兄を見るために目の前の少年を見てこなかったのではないか。
――自分と兄がいなくなることに怯えて、どうにか兄の輪郭を掴もうとするばかりで、目の前にいる子どもに気がついていなかった。
「……すまない、君にそんな想いをさせていたことに気がつかなかった」
恐ろしさがじわじわと喉元に競り上がってくるのをどうにか抑えようと、膝丸はしばらく深い呼吸を繰り返した。その間も、○○は膝丸の顔を心配そうに見詰めていた。
――ただの子どもだ。どこにでもいる、優しい、人間の子。
膝丸はどうにか笑ってみせた。
「本当にすまない、君が悪いのではないのだ。誓って、君は悪くない」
膝丸が笑うほど、○○は心配になるようだった。膝丸は少し考えて、○○の顔は見ないまま話し出した。
「実は、君は俺の兄に似ているのだ」
「え? 先生、お兄さんいるの?」
「……いるはずなのだ。今は、もういないのかもしれない」
おかしなことを言っていると思われるだろうとは分かったが、取り繕う余裕がなかった。それでも、○○は膝丸の話の続きを待っているらしい。
「俺と兄者は、本当に仲の良い兄弟だった。ずっと兄弟であるはずだった。しかし、兄弟でなくなってしまった。俺には、これが本当に辛いのだ。ずっと一緒にいた兄がいなくなってしまって、自分までいなくなってしまいそうに思えてきた。そんなときに、兄に似た君に会ったのだ」
彼は自分にとって紛れもなく兄だが、彼自身にとってはただの○○なのだ。ひとりの子どもの人生に、どうして自分の兄としての生を押し付けられるだろう。
「本当に驚いた。自分より年下なのに、兄だと思ってしまうほどだった。しかし、当たり前のことだが、君は君だ――“俺”の兄ではないのだ」
自分で話しながら、どれが嘘で、何が本当か、分からなくなってきていた。ただ、泣いてはならないと、それだけを意固地になって堪えていた。
「俺は、自分のことばかり考えて、自分だけがつらいと思っていた。それが、君につらい想いをさせていることにまったく気がつかなかった。本当にすまない。先生失格だ」
ぐっと目を瞑りながら、膝丸は頭を下げた。数秒間、自分の呼吸の音ばかり聞いていると、○○が小さな声で言った。
「……ええと、先生は、僕の先生をやっているのが嫌なわけじゃないってこと?」
「ああ。むしろ、嬉しいくらいなのだ」
言いながら、一瞬、初めて玄関で会ったときの「やっと見つけた」という歓喜と安堵を思い出した。春の陽光に兄の面影を見たときにも似た、あのどうしようもない感情の昂りを。
「そっか、そうなんだ……それならいいんだ」
○○の言葉に、膝丸が顔を上げると、少年は丸い頬をこれ以上ないほど緩めて笑っていた。膝丸が目を丸くするのにも、嬉しそうに声を漏らした。
「ね、先生、じゃあずっと僕の先生でいてね。さっきやめてもいいよって言ったけど、絶対やめないで。僕、先生がいい」
――兄者ならこんなことは言えまい。
この期に及んでそんな考えが頭に浮かんで、膝丸の口許には自嘲がわいてきた。
「君につらい想いをさせてきた奴なのに、いいのか?」
「うん、いいよ、先生の考えていたことが分かったから。だから大丈夫」
「分からないぞ。俺はまた君につらい想いをさせるかもしれん」
意地の悪い言葉が口をついて出た。それに○○は首を傾げたが、ぱちりと瞬きすると、目を細めた。諦観すら滲んでいるような、子どもには似つかわしくない大人びた笑みだった。
「これからどうなるかなんて、考えてもどうにもできないのだから、僕にとってはどうでもいいかな」
見たことのある笑みだった。聞いたことのあるような言葉だった。膝丸が驚くのには気付かず、少年はひとつ頷いて、確かめるように言った。
「もっと大らかに、ゆったり過ごそう」
――ああ、なんだ、どこにもいなくなってなどいなかったのだ。
どうしようもなく安堵してしまうと、考えるより早く、膝丸の目から涙がぽろりとこぼれ落ちた。