イラストを魅せる。護る。究極のイラストSNS。

GALLERIA[ギャレリア]は創作活動を支援する豊富な機能を揃えた創作SNSです。

  • 1 / 1
    しおり
    1 / 1
    しおり
    名前もつかない
     障子の向こうが明るかった。雪が積もったのだと知った。同じ朝でも昨日より静かに感じる。雪は音も吸い込んでしまうのだと言っていたのは審神者だった。初めて近侍を任されたときに聞いたのだ。
     山姥切長義は、自分にとって決まりきった手順で簡単な身支度を終え、庭を望む障子窓を開けた。寒さが肌に張り付いて、眠りで鈍っていた感覚が冴えていった。思った通り、本丸の景趣は冬に差し替えられたらしい。
     この本丸にやって来てからの一年は簡単に過ぎ去ってしまった。時の流れるのが簡単と思えてしまうほど、毎日やることに追われていた。ある程度身体の使い方に慣れるまでは遠征と内番を、それからやっと出陣――ここの本丸にとっては、新入りは一定の練度になるまでは戦場に送らないのが手順だったらしい。監査官として以前から政府にて身体を得ていた長義にとっては無用の心遣いにも思えたが、この本丸の手順に従った。刀たちが折れてしまうのをできるだけ避けたいのだろう審神者の心理は理解できるつもりだったし、ここが自分の住処になる以上、余計な揉め事はしたくないという打算もあった。
     審神者の心遣いに感じるむず痒さは、笑って少し皮肉ってやればそれで事足りる。突然本丸に配属されてきた監査官への違和感は、毎日の仕事をこなしていくうちに皆忘れる。長義が考えた通り、本丸に長義がやってきたことで生じた摩擦は、わざわざ余計なことをせずとも、時間と、何より長義の仕事ぶりが解決していった。
     では、余計でない揉め事とは、何か。
     ちょうどその相手を庭に見つけて、長義は目を細めた。白布に覆われていない髪は、雪景色の中で一層眩しかった。頬の強張りを意識したとき、向こうもこちらに気付いた。長義は笑ってみせた。
    「――やあ、偽物くん」
     山姥切国広は、冬には不釣り合いに思えるほど鮮やかな、若葉を映し取ったような瞳で真っ直ぐにこちらを見た。
    「写しは、偽物とは違う」
     またそれか、という嘲りを口許に浮かべてみせると、長義は国広が何かを続ける前に、窓を閉めた。

     山姥切国広はこの本丸の最古参である。前田藤四郎とともに、審神者を迎えた日から着実に任務をこなしている。犠牲を払わずに今日まで来られたわけではないが、その犠牲を無駄にはしていないと評価していいだろう。それに、ここ数年はその戦果に比べて被害は小さくなっている。強くなっているのだ。
     本丸の運営は上手くいっている。ここの監査を任されたのは運が良かったかもしれない、と監査官として接しているときから長義は考えていた。監査官を怪しむものはいても、同じ刀剣同士で足を引っ張り合うような挙動はなかった。あるいは監査官にはそれを見せないようにしているだけかとも考えはしたが、配属されてみれば杞憂だと分かった。刀剣たちは皆健やかに暮らし、強かに戦った。
     それを思うと、この本丸に監査にきたとき既に山姥切国広が金の髪と碧の瞳を日の下に晒せていたのは道理かもしれない。ここでは卑屈であり続ける方が後ろめたかっただろうし、主にも仲間にも、応えてみせたかったのだろう。山姥切国広は、そういう刀だった。
     偽物くん、と語りかけたのはこちらだった。それを「また話をしよう」と打ち切ったのは向こうだったが、大した会話らしい会話はすることなく、長義は本丸での二度目の冬を迎えている。
     若干どころではない肩透かしをくらっているが、進んで話をしたいわけではない。自分とあの写しは決裂している。長義も任務で必要なこと以上は応えないし、なるべく顔を合わさないように過ごしてきた。南泉一文字は長義の態度からふたりの仲のこじれっぷりを察して苦い顔をした。先に本丸で暮らす間に、随分と国広に肩入れするようになったらしい。
     しかし、それでも生活は続くのだ。本丸の運営は滞りなく進み、戦果は上がる。手こずるときもあるが、それには対処できることを知っている。なにせ、ここの本丸は経験も実力もある刀揃いだし、自分だっているのだから。自分が自分らしくあれば、自ずと結果は出るし、また、周りも自分という刀がどんなものかを知るだろう。俺は、俺であればいい。
     俺であればいい、と思ってはいるのだが――やはりこれは気に入らない。
     寒さに鼻を啜りながら草を引き、長義は内心でひとりごちた。土いじりなど俺の仕事ではない。
     冬の土は氷のように指に張り付いて不快だった。鼻の奥に張り付くような濡れた匂いも気に障る。それに。
    「そろそろ休憩にしないかい、銀色くん」
    「……山姥切だ」
     一緒に当番を任された相手がいただけない。長義が睨み付けても、髭切は「ああ、そうだったっけ」と笑うだけで、堪える様子はない。名前を覚える気はあるのだろうかーー絶対にない。
     弟の方は、以前一緒に当番になったときに、いかに畑が自分たち向きの仕事ではないかを話題に会話も弾んだが、兄とは話が噛み合わない。膝丸は愚痴をこぼしながらも真面目に仕事をこなしたが(無論長義も任された仕事は完璧にこなした、できないと思われるのは癪なので)、髭切はすぐ天気だとか、今日の献立だとかの話をし出す。そして何より、これだ。
    「名前なんて、僕にとってはどうでもいいからねぇ」
     間延びした声に、長義はぐっと唇を噛んだ。髭切は長義の名前も、それどころか弟の名前も覚えようとしない。それが、長義には赦しがたかった。
    「……今日の畑仕事は草引きだけだろう。休憩して長引かせるより、さっさと終わらせたい」
    「そうかい?」
     腰を上げない長義を、髭切は少しの間見つめていたようだったが、しばらくすると同じように座り込んだ。

     草引き以外にも、毎日やっている備品の点検がある。昼食を挟んでそれも手早く終えると、長義は自室へと引きこもった。今日は第一部隊は戦場へ、第二・第三・第四部隊はそれぞれ遠征へと本丸はフル稼働していたが、長義の名前は部隊にない。練度がある程度上がってくると、出陣する回数が緩やかに減ってきた。ここの主は、部隊を練度の近しいもので組みたいようだった。つまり、今、上限が見えてきた長義の練度に合うものは一部隊を組めるほどいないのだ。
     だったら演練でも遠征でもいいから出してくれ、とは審神者に顔を合わせる度言ってみるのだが、主は困った顔で笑うばかりである。大方調整が難しいのだろう。この大所帯になるとそういうものだと、長義にも分かってはいる。そのため追い討ちをかけられない長義に「まぁ戦に出るのだけがここの仕事じゃねぇだろ」とニヤついていたのはその日近侍の南泉だった。後手に回る長義が面白かったのだろう。こちらは面白くなかったので、その日は戦に出られない鬱憤を南泉をからかい倒すことで発散した。
     戦働きができないことへの焦りは確かにある。自分を知らしめる場がないからだ。書類仕事も得意だが、へし切長谷部と前田藤四郎が上手く回しているらしく、長義に助っ人の声はかからない。声がかかるようなことがあれば上手く仕事が回せていないということなので、それはいいのだが。
     昼下がりの自室は、障子紙を挟んで入ってくる淡い陽光でほんのり明るい。換気のつもりで窓を開けると、うら寂しい冬の裏庭からは冷え冷えとした空気とともに、道場から木刀の打ち合う音が聞こえてくる。手合わせとはいえ、お互い本気で向き合っている。打ち合う音の強さや早さから、それくらいは見なくても分かる――片方に至っては誰なのかさえ、分かってしまう。窓枠に預けた腕に頬を乗せると、冷気で頬が赤くなるのも厭わず、澄んだ響きを耳に長義は目蓋を下ろした。


     不要な揉め事を起こしたくないのは、誓って本当だった。しかし、いつか起こり得る揉め事でもあったと、長義は思い返す度嘆息したくなる。
     髭切との畑当番は数日に渡った。長義は毎日、最低限の会話だけで過ごした。ただ、その日は備品の点検以外に中々の量の肥料を納屋に運び込んでくれと頼まれて、いつものように昼過ぎには当番を終えられなかった。
     八つ時には遅いが、夕飯には早すぎる。そういう時間、残りの仕事が備品の点検だけになったときに、髭切がまたいつもの笑みをたたえて長義を茶に誘った。
     連日、休憩を断り続けている。それを少し負い目に感じてしまい、長義は髭切の誘いに応じた。
     弟がいつも淹れておいてくれているんだよ、と髭切は保温容器と湯飲みをふたつ、よく磨かれた盆に載せて縁側に持ってきた。弟の方はどれだけ過保護なんだ、と軽口を叩きたくなったが、ぐっと飲み込む。冬場の休憩を風に晒される場所で取るのもおかしなことだったが、これ以上髭切のペースに巻き込まれたくなかった。
    「結構いい眺めでしょ」
     まだ真っ直ぐ湯気を立たせるほうじ茶を脇に置いたまま、長義は促されて中庭を見た。中庭は、長義の部屋から見える裏庭に対して棟を挟んで逆にある、刀たちの居住区の中で一番大きな庭だった。枯淡という言葉の似合うような裏庭と違い、中庭は見られるための華やかさがある。髭切と膝丸の使っている部屋は、その華やかな庭園に面している部屋の中でも、画の構図を取るならここだろうと人間たちが選びそうな位置にあった。
     髭切の言う通り、眺めは悪くなかった。他の季節の鮮やかさこそなかったが、陽光に濡れた雪の表面も、椿の赤い花弁も濃い色の葉も深い艶を返して光っていた。雪に覆われても寂しくないのは花の着く木の場所もその枝振りもよく手入れされていて、悪目立ちしないように抑えられてはいても暮らしているものの気配が隠されていないからだ。
    「ここに来たときから、この眺めは気に入っていてね。いつも弟が帰ってくるのをここで待っていたなぁ」
     笑う髭切は、同じように茶を注いだ湯飲みで暖を取っているらしい。それを横目で見て、「へえ」と適当に相づちを打ちながら、そういえばあの膝丸はこの髭切より一年近く後にやって来たのだったと、以前本丸の記録を当たったときに見かけたのを思い出した。今はともに練度上限に達し、たまに遠征に赴いたり、時には近侍として主の補佐に回ったりしているようだ。
     ふと話が途切れた。一杯で休憩を切り上げるためにどう言おうか考えていたときだった。
    「――彼の名前で呼ばれるというのは、やはり不服なものかな」
     氷を腹の内に差し込まれたようだった。思わず睨み付けると、当の髭切は中空を見つめながら首を傾げている。
    「あれ? 逆か? 自分の名前で彼が呼ばれている、の方か」
     髭切がいきなり自分にそうした話題を振ってくるのは何かしら意図があると、頭にちらつかないわけでもなかったが、怒りに追いやられてすぐその思考は焼き切れた。
    「名前などどうでもいいという奴に話しても分からない」
     茶の残りを引っかけてやりたかったが、かろうじてそれは抑えられた。カン、と音を立て湯飲みを叩きつけたが、割れはしなかったようだ。
     髭切は、身体を庭に向けたまま、顔だけを長義の方へ傾けた。いつもと同じ微笑、冬の日に照らされ、薄い色の髪が寒々しい。飴色の丸い目が、きゅっと細められた。
    「確かに、僕にとっては名前はどうでもいいのだけれど……でも、話してみないと分からないかもしれないよ」
    「分かる奴はそんな言い方をしない」
    「ありゃ、手厳しいね」
     声をあげて笑ってみせるのも憎たらしい。長義は立ち上がり、座ったままの髭切を見下ろすと、常々思ってはいたが口に出すまいとしていたことを吐き捨てた。
    「名前なんてどうでもいいと、わざわざ言わずにいられない奴こそ、一番名前に囚われているんじゃないのか」
     ――喧嘩を吹っ掛けてみても、髭切の表情は変わらなかった。長義は思わず舌打ちをすると踵を返し、自室へと向かった。

    「おう、化け物斬り」
     夜、長義の部屋を訪れたのは南泉だった。窓から夜に沈んだ裏庭を眺めていた格好の長義は、視線だけを戸を開け放した南泉に寄越した。
     南泉は大袈裟なくらい顔をしかめて、嫌がっているのを隠そうとしなかった。長義が機嫌の悪さを隠そうとしなかったから、古馴染みのその反応は当然でもあった。
     半ば呆れたようにも見えるしかめ面で南泉はぶっきらぼうに口を開いた。さっさと用だけを済ませることにしたらしい。
    「主が、話があるから執務室に来いってよぉ」
     じゃあ伝えたからにゃ、と残し、猫のように足音を立てず南泉は足早に去った。

     一日を終えようとする本丸は昼間賑やかな食堂や広間からは人影が消え、各部屋からそれぞれが思い思いに過ごしているのが伺えた。その遠いさざめきを背に、長義は執務室に辿り着いた。
    「お待ちしておりました」
     迎えてくれたのは前田藤四郎だった。執務室に足を踏み入れた長義は、先客を見つけてつい眉をひそめた。
    「主はさっき、政府から連絡が入ったそうだ。前田が伝言を頼まれたらしい」
     膝を開いた正座姿で山姥切国広が話しかけてくるのが新鮮だった。今まで決まった返事しか受け取らないようなやりとりしかしてこなかったから、違う言葉の響きすら物珍しく感じる。
     返事はせず、長義も国広から並ぶ格好で、ただし距離を取って座った。
    「お話はすぐに終わります」
     前田藤四郎も審神者の代理として、山姥切たちの前に行儀よく正座した。品のいい微笑を浮かべた口許が、落ち着いた声色で長義に語りかけた。
    「山姥切長義さん。こちらに呼ばれた理由を、おそらくご自分でご存じかと思います」
     昼間に揉め事を起こしたことへの叱責だろうとは予測していた。だから審神者本人が席を外しているのは意外だったが、長義は前田の言葉を待った。そもそも、国広がいる理由も分からない。腑に落ちない状況にいる。下手に口を開きたくなかった。
     背筋を伸ばしたままの長義が言葉より態度で先を促しているのを感じ取った前田は、少し困ったように眉尻を下げた。
    「内番を、途中で放り出されてしまっては困ります」
     ……そっちか、と思うまでにも少し間が開いた。隣から不躾に見つめられている気配を感じながら、長義は言葉を探した。
    「……仕事を放り出したのは、確かに悪かった」
     ようやく探し当てたのは謝罪だった。あのまま髭切と一緒に作業を続けられたかといえば絶対に無理だと自信を持って言えたが、それはそれとして、確かに任された仕事を放り出すのは褒められたことではないことぐらい分かる。例えそれが畑仕事でも。
     長義の謝罪に前田は少年らしさの滲んだはにかみを見せた。
    「ええ、謝罪は確かにいただきました。ですが一応、主君が罰則を科すことにする、と」
     髭切とのやりとりに触れてこないのをみると、前田には伝えられていないのかもしれない。残りの仕事を押し付けられる形になった髭切が大して深刻に報告しなかったのか――ありそうなことだと思い、情けをかけられたようにも感じて不快だった。
    「それで、その罰則なのですが」
     そこで前田は国広を見た。国広は頷いて、続きを引き取った。
    「明日から俺と遠征だ」
    「――は?」
     こうして、ふたつの山姥切の久々の対話は、長義の間の抜けた声から始まった。



     思い返す度に、ああしなければ、あるいは、ああしていればと考えてしまう瞬間はある。例えば、髭切からの休憩の誘いに乗らなければ、あの後畑仕事の続きも我慢できていれば。考えてみて、無理だな、と毎回思う。どうにもならなかった。
     南泉なんかは後悔で態度を崩すことのない長義に「うわ」とでも言って顔を歪めてみせるが、長義に言わせれば後悔をする余地がない。いつだって、自分のやろうとすることに手を抜いたつもりはなかった。気を抜いた時間を持つことだって、本当のところで手を抜かないためだ。もし理想的な結果を得られなかったとしても、反省点を得られれば及第点である。後悔や失敗を恐れて臆する必要がない。そもそも、致命的な失敗など、しない。
     自分では真っ当も真っ当、前向きにすら思えるこうした考え方を、南泉は「息苦しい、にゃ」と評した。嫌そうな顔というよりは、なんだか寂しそうにも見えたので、その日は念入りに可愛い語尾をからかってやった。憐れまれるのはごめんだ。
     そんな話をしたのはいつだったか――ぼんやりと靄がかってはっきりしない記憶などに気を取られたのは、今の状況について極力考えたくないからだ。前を歩く金髪に肩まで垂れた朱色の鉢巻が、足の運びに合わせて揺れるのすら腹立たしい。その下の襷も併せて揺れている。南泉なら思わず飛びかかっているだろう。
     現実逃避からの思いつきに笑ったとき、思わず息が漏れた。耳聡く長義の声を聞き逃さなかった国広が足を止めた。
    「何かあったか?」
    「何もない」
    「……本当か?」
    「ないったらない」
     にべもない長義の応えに、渋々といった体で「そうか」と引き退ると、国広はまた歩き出した。遠征のはじめから、ふたりはずっとこういうやりとりしかしていない。
     あの夜の執務室、前田は、おふたりでの遠征は初めてですからまずは短めのところにしますね、と微笑んでいた。よろしく頼む、と頷いたのは国広だった。長義といえば、まずは、という三文字に不穏な気配を察知はしたが、進んでいく話を止められずにいた。口を挟めたとしても「主命です」の一言で押し返されただろう。本丸の初日から極めた今でもなお主戦力として君臨する前田は、物腰こそ柔らかいが実は押しが強い。
     内心納得できぬまま、翌朝の出発を迎えた。近侍は膝丸だった。
     第三部隊の隊長章を国広に手渡すと、膝丸は長義に向き合った。髭切によく似ているが、まったく違う弟太刀は、少し眉根を寄せた固い表情だった。
    「兄者が、すまない」
     絞り出すような声に、膝丸は事の顛末を知っているのを察した。おそらくは兄太刀から詳細を聞いたのだろう。名前は覚えずとも、その帰りをいつも待ったという弟に対して、兄は話をするらしい――兄弟というのは不思議だと、改めて感じた。
     謝ってほしいわけではなかったし、膝丸がそうする必要はこれっぽっちもないと考えていたが、謝罪を突き返すことはできなかった。常々見ていた自分の名前を乞う姿を、憐れむこともできないからだった。
    「兄者大好きくんなら、俺に切ってかかるかな、とも思っていたんだが」
     深刻にしたくなくて出した軽口は、膝丸にはそこまで通用しなかったようだ。困ったような笑顔になった。
    「もし、君が、ただ兄者を辱しめるために何かを言ったのであれば、確かに俺は君を切らねばならなかった――しかし、そうではないだろう」
     本当に不思議な兄弟だ。兄は長義の心を突き落とすようなことを言うが、弟は掬い上げるようなことを言う。そしてその正反対にも思える兄弟は、互いを思い遣ってもいる。
    「お気遣い、どうも」
     言葉選びが嫌みに聞こえると言ったあとで気付いて笑ってみせると、膝丸も応えるように笑った。今度の軽口は通じたらしい。このとき、せめて見送りがこの刀でよかった、と思った。
     出発こそ膝丸のおかげで和やかだったが、すぐ長義は後悔したくなってきた。写しとの間が持たない。道途はほとんど山中である。薮やら細い木やらが立ち並ぶばかりで、秋になろうとする今の時季、目に楽しいものはない。国広は事務的に次の道がどうだの何の調査をするだの口にしたが、それは既に本丸に配属されて一年以上経っている長義も知っていることであった。かと言って「分かっている」と応えれば一言、「そうか」で終わりである。こんなに静かな遠征は初めてだった。道中の時間が無為に潰されていく気がして、後悔とやらをしてみたくなったのだが、先ほども述べた通り長義にそんな余地はないのである。
     調査を終え、資材を確保し帰途についても無聊は変わらず、ふと浮かんだ古馴染みの猫じみた振舞いを思い描いてみてようやく笑いを思い出した気分だった。その笑いは、国広にとっては異変として受け取られたようだが。
     国広は相変わらず朱色を散らすように揺らしながら、資材を入れた袋を手に闊歩していく。本丸には予定より少し早く戻れるかもしれない。それまであと少しの辛抱だな――そう思ったとき、目の前で揺れていた朱色が止まった。背中にぶつかりそうになった長義が文句を言おうとしたが、前を向いていたはずの国広の横顔が何かを凝視していて、その視線の先を辿った。
     それは屋敷だった。薮を垣代わりに、立派な門があつらえられている。軒の低さが古いものであることを思わせたが、みすぼらしさはなかった。初めからそこにあり、かつ今も誰かが住んでいるかのような佇まいで山の中に馴染んでいる。しかし、国広が立ち止まった理由は長義にも分かった。
    「こんな屋敷は、今まで見かけたことがないな」
    「ああ。お前が来るより以前も、ここに家が出たという報告は受けたことがない」
     家が出た。まるで化け物のように言う。言葉の上だけならば不釣り合いだが、しかし、これは「出た」というのがしっくりくる。そして化け物ならば、山姥切の領域である。
    「不確定要素は」
    「調査の対象だな」
     意見が合った。ふたつの山姥切は、客人を迎える重々しい門へと足を踏み出した。

     玄関以外にはすべて雨戸が閉められていたため、ふたりは大人しく戸口に立った。
     引戸に手をかけようとした国広は、ちらりと隣に立つ長義に目配せした。長義も頷く。軒先は落ち葉や砂埃に汚れてはいたが、無人による寂れ方ではない。この屋敷には、何者かがいる。
     国広が静かに引戸を滑らせた。引っ掛かる様子もなく、戸は軽い音を立てて開いた。
     ふたりは何も言わず、しばらく玄関の向こうを眺めた。廊下は暗く真っ直ぐに伸びている。随分と間を空けて置かれている行灯が点々と連なり、やがて廊下の闇に溶け込んで分からなくなった。山道から見ても大きな屋敷であったが、廊下が長すぎる。長義は刀を握り直した。
    「――上がるか」
     声を落とした国広が先に足を踏み入れた。
     上り框も土足で跨ぎ、廊下を歩く。ふたりの靴についた砂を踏む音と、廊下がわずかに軋むのが響いた。襖はすべて閉めきられていて、廻廊だけが延々と続いている。行灯を横切る度、壁に映ったふたりの影は大きくなり、小さくなり、それが繰り返された。
    「さっきので行灯は二十を越えたぞ」
    「そうか。戸口から離れすぎるのもよくない、な……」
     長義の申告に応えて、国広はふと、といった感じで振り返り、そのまま足を止めた。
     行灯の赤く暗い火の中でも、緑の目が見開かれているのが分かり、長義も振り返った。ふたりのやって来た玄関は見えなくなっていた。
     行灯は二十、二丈ほどの感覚を置いて続いてきた長すぎる廊下ではあったが、まだ日の高い陽光の差し込んでくるのが見えなくなるほどの距離ではない。
    「……招かれたか」
     長義が呟くと、国広は長く息を吐いた。先ほど見開かれていた目は平静に戻り、それどころかどこか呆れたような顔で頭の後ろを掻く。口許が一瞬、不貞腐れた子どものようにへの字になった。
    「迷家、とかいうやつか?」
    「違うだろ」
    「違うのか」
    「迷家は山で迷った人間に出るやつだろう。そもそも俺たちは迷ってなんかいなかったし、家の中に閉じ込められるなんて聞いたことがない」
    「……閉じ込められた奴らは帰れなかったから話が残らなかった、とか……」
    「却下だ。迷家は訪れた人間に富をもたらすことのある家であって、訪れた人間を喰ってしまうものではない。……安易に違う名前で呼んでいると、中身も変質しかねないからやめろ」
     長義の指摘に、国広は押し黙った。山中なら本丸まであと少しと我慢できた沈黙だが、見知らぬ暗い廊下では重すぎる。
    「まぁ、喰われてやるつもりはない。さっさと帰るぞ、偽物くん」
    「……写しは偽物とは違う」
     国広の返事に鼻で笑ってやると、長義は足許にあった行灯をひとつ持ち上げた。通路からは隠れるように、手で提げられる取手がついている。それを顔の高さまで掲げると、ぐるりと廊下を見渡してみる。
     歩いてきた方向、歩いていこうとしていた方向、どちらも同じように暗い中に溶け込んでいる。行灯だけがぽつぽつと導くように置かれているが、どこまで歩かされるのか。
     少し考えたあと、長義はそれまで無視していた襖のひとつを開いた。襖の向こうは、本丸で宴会に使われるのと同じくらいの広間があり、掲げた行灯からの明かりが、他の三方も閉めきられた襖で覆われているのを照らし出した。
    「こちらも、開け放していってもずっと部屋、といったところかな」
    「埒が明かないな。切るか?」
     靴の下からでも分かる畳の柔らかさを感じながら、ふたりは部屋の中央に来た。行灯の明かりに揺すられて、襖絵の山水も動いているかのようだった。
     国広が今にも鯉口を切れるように刀を握っているのを見てとって、長義はまた思案に入った。切ってしまう方が手っ取り早いのは同意見だ。あの廊下の様子からして、この家自体が何らかの怪異であるのは間違いない。怪異ならば、切れる。
     ――切ることはできるのだが、なぜ招かれたのかが気にかかる。
    「この遠征の経路にこの家が出たのが初めてなのは間違いないな」
    「ああ」
    「お前がさっき言っていたような人間を取って喰う怪異が家の形をしているなんてことも、もしかしたらあるかもしれない。しかし、喰うために出てくるとしたら、なんで今回に限って俺たちの前に出てきたんだ? 今まで俺たちの本丸は何度もこの辺を通っているだろう。よもや付喪神と人間を間違えるなんて、お粗末な怪異もいないとは言い切れないだろうが……それにしたって、政府にいたときにもこういう報告は受けたことがない」
     話しながら、長義は部屋を横切り、入ってきたのと向かいにある襖の前に立った。歩き出した長義についてきた国広が、右手で行灯を掲げ左手に刀を握ったままの長義に代わり、襖を開いた。やはり同じような広間が広がっている。
    「何かしら理由があって、俺たちを招いたはずだ。何か頼みたいことでもあるのか……」
    「頼みたいこと?」
     不意に国広が声を上げた。顔を見ると、目を丸くしてまじまじと長義を見ている。何をそんなに驚いているのか、長義が眉を吊り上げると国広は自分が不躾だと気付いたのだろう、さっと顔を逸らした。
    「すまん。何でもない」
    「……なら、いいが」
     国広の反応に煮え切らないものを感じはしたが、長義は追及しないことにした。目下、大切なのは本丸に帰ることだ。不慮の事態はさっさと解決できるに越したことはない。
    「頼みを叶えてやれるかどうかは、その頼みが何なのかが分からないと判断できないが、切るならそれを叶えてやれないと分かったあとでもいいだろう。それに、何か目的があって招くのが大体だが、目的なしに旅人や迷い人を招くようなやつもいると聞いたことがある」
    「目的なく、か。たちが悪いな」
    「今日はよく意見が合うじゃないか。まぁ、そいつらの中にも、迷い込んできた者の抱えている迷いが晴れたら放してやる、なんてのもいたらしいが」
    「迷いが晴れたら……」
     呟く国広の声が妙に幼げに聞こえた。自分の写しがこういう声を出すというのも、長義には新鮮だった。こんなに長く話したことがないのだから、当たり前なのだが。
    「結局怪異に呼ばれる人間なんてのは、迷い多い者だからな。一種の施しのつもりなんだろう。巻き込まれた人間にとっては堪ったものではなかっただろうが」
    「……なぁ」
    「なんだ」
     畳の目に砂が噛む感覚と、行灯の明かりが揺れるのと、国広の低い声が響くのが、今部屋の中で分かるすべてだった。
    「あんた、そういう話はどこで仕入れてくるんだ」
    「政府にいたとき、俺が“山姥切”だからそういう話がよく持ち込まれたんだよ。まぁ、当然だな。俺が適任の仕事だった」
     うっかり口を滑らせた。国広も気がついたらしい。
    「……その持ち込まれた仕事とやら、あんたはどうしたんだ」
     聡くて結構。つい、口許に笑みが浮かぶ。
    「それは機密事項だ」
     国広は、それ以上は訊いてこなかった。

     広間もだらだらと続いた。国広も襖を最初は静かに滑らせていたのが投げ捨てるように開け放つようになった。もっとも、所作に粗暴さが出るのは苛ついているというより慣れのせいだと長義にも分かった。相変わらず、屋敷の中にはふたり以外の気配がない。
     迷家ならそろそろ食事の席にでもありつけそうなものだが、と栓もないことを思ったときだった。
    「なぁ、この遠征についてなんだが」
    「……何だよ」
    「髭切はあんたに何て言ったんだ」
     刀を握る手に力が入った。横目で窺った国広は、長義の顔を見てはいなかった。
     襖絵がやはり行灯に不安定に照らされ、岩間にバラバラと伸びた木々が葉を揺すられているようだった。狭くはないが確かに仕切られた部屋の、その仕切り一枚の中に触れられない世界が漠然と広がっている。それを背景に、自分の写しが背筋を伸ばし、遠くを力強く見据えて立っている。
     ――似合わないな、と思った。この刀は、もっと明るい場所にいるのがいい。
     墨に描かれる世界にも、広いだけの暗い部屋にも、この刀は鮮やかすぎた。
     鮮やかなもの、美しいものは時に見る者に切りかかる。その美しさで切って、打ちのめして、どうしようもないほど捕らえて放さない。
     だからこそ、自分は、この刀のいる本丸までやって来たのだ。
    「初期刀で、罰則の監視を任されているなら、事の詳細は聞いているんじゃないのか」
     固い声の長義の返答に、国広は不可解そうな色を浮かべた。
    「それが分からない。内番のサボリなら、これまでならまた向こう一ヶ月内番に固定だとかが多かった。罰則で遠征をというのもなくはないが、だとしても俺を監視役にする理由が思いつかない。前田や長谷部、あとは膝丸なんかに任せそうなものだが……それに」
     国広は一度言い淀んだが、低い声でこぼした。
    「髭切も、同じように遠征に出されている」
     そっちには長谷部がついていった、と続いた。
    「……それで、どうして髭切が俺に何か言ったと思うんだ?」
    「自分と喋っていたら長義を怒らせてしまった、という報告だったと聞いている。他愛ない話と思って何を言ったか覚えていないから、何がお前を怒らせたのかも分からないとも言っていた、と」
     嘘だ。膝丸の口振りは、髭切が何を言ったのか知っていた。
     自分が長義を怒らせたことは正直に申告しながら、肝心の言葉は打ち明けなかったのだ。自分の弟以外には。
    「出発のときにも、膝丸がお前に謝っていたから……あと髭切は、何というか、話すのが下手なところがある」
    「……お前が言うことか……?」
    「えっ」
     国広が小さく驚きの声を上げたのは無視し、長義は溜息を吐いた。
     ますます、髭切という刀が分からなくなってきた。あのとき自分に何を問いたかったのか、どういう腹積もりだったのか。長義が内番を途中で投げ出したことと同時に自分の言葉が切欠でそうなったとも伝える、それは清廉な振舞いのようにも思えるが、やはり意図は読めない。髭切という刀が読めなくなる代わりのように、ただ弟太刀が彼にとって特別だということばかりが精細に見えてくる。
     髭切の柔和な笑みが浮かんだ。何に向けられる笑みなのか、分からない。緩められた飴色の瞳は、自分の後ろにある、自分でも知らないものを見通している――嫌な想像が走ったところで、長義は考えるのをやめた。今やらなければいけないことではない。
     隣に立つ国広がおろおろしているのに気がついた。何だよ、と目で促してやると、言いにくそうに口を開いた。
    「俺は、そんなに話すのが下手だろうか……?」
    「ド下手だよ」
     長義の即答に、国広は目を見開いたあと視線をふらふらと泳がせた。目を逸らす間に右手を頭の上に伸ばして何か摘むような動きをし、何も掴めないまま下ろされる。暗い部屋では少し褪せた色に映る金髪の下で、口許がわずかに強張っていた。心なしか足取りも弱々しくなった気がする。
    「ちゃんと前を見て歩けよ、口下手くん」
    「口下手とか、言うな……」
     細い声のあとは呻き声だけが漏れた。落ち込んでしまったらしい。初めて見る国広の表情を、長義は思わずまじまじと見つめた。拗ねたようにも見える俯き顔に、いつもの堂々とした風情はない。
     今更へこむことか? とは正直思ったが、おそらくこいつの中では随分と話せるようになっていたのだろうと推測できた。ずっと国広を知っている本丸の刀たちも、国広が話そうとするのを聞こうとしてやったのだろう――新しくやって来た、俺以外は。
     ――話してみないと分からないかもしれないよ。
     鬼を切ったには優しすぎるとさえ感じる声まで思い出されてきた。それが気に入らず、長義は足を早めた。長義に置いていかれかけた国広は、すぐさま顔を上げ、横に並んだ。
    「それにしたって、お前の口下手はどうでもいいんだよ。問題はここから出ることだ」
    「言う通りだが、どうでもよくはない」
    「どうでもいいだろ」
     国広が手を伸ばす前に、長義が行灯をぶら下げた右手ですぱんと襖を開け放した。よく手入れされている本丸の敷居と同じように襖は端まで滑り音を立てた。
    「よくない! 俺はお前と話がしたい!」
    「またそれか!」
     次の襖は国広が飛び込むようにして開けた。国広の脇をすり抜けるように長義は大股で進み続ける。国広も半ば走るような歩幅で長義に追いつきながら語りかける。自分たちの防具や袋の中の資材が揺すられてガチャガチャと音を立てた。
    「俺には大事なんだ!」
    「俺には大事じゃない!」
    「大事だ!」
    「大事じゃない!」
    「ここから出られるかもしれない!」
     国広の大声に、長義はぴたりと足を止めた。
    「……説明しろ」
    「……あんたがさっき、怪異には施す奴がいる、と……」
     肩で息をしていた国広は、そこで一度大きく息を吸い、また恥ずかしそうに目を伏せた。
    「今回の遠征は、なぜ俺に任されたのかは分からないが、いい機会を貰ったと思った。お前と話せる時間を貰えたと思って……しかし、全然、思った以上に話せなかったから……この屋敷の前を通りがかったとき、俺はもっと話したいと思っていたんだ。だから、」
    「だから、この屋敷が現れたと?」
    「……そうだ」
     ちらりと国広が長義の顔を窺ってくるのに、長義はわざとらしく深い溜息を吐いてみせた。
    「……だとしたら、もう解放されてもいいんじゃないか?」
     国広は困ったような、申し訳なさそうな表情をした。
    「それは、そうだが……自分でも、こんなに欲深いのかと驚いている」
    「欲深い、ねぇ……」
    「話すほど、話し足りない」
     小さい声でそう呟くのを聞くと、子どもに対して怒っているような気分になってきた。目の前にいるのは自分と背丈の変わらない、戦地での場数は自分より多いはずの刀なのだが。
     暗い屋敷には飽きた。行灯を掲げていくのにも疲れてきた。国広の新しい顔を見るのも、正直言うと面白くないわけではなかったが、仕事が片付かないのはごめんだ。
    「……お前ね、話をしたいというなら――」
     自分の口からなだめるような声が出たのに少し驚いていると、国広が顔を上げた。
     先ほどの心細そうな子どもみたいな表情は失せ、周囲に警戒する獣のようにじっと自分の左側を見つめている。
     怪訝に思ったのも一瞬、長義も気がついた。先ほどまではなかった気配がある。音が近付いてくる。
     顔を突き合わせていたふたりは、音のする方向の襖に向き直った。行灯と資材を足許から距離をとって後方に置く。襖絵にはふたつの山姥切の影が揺れた。聞き覚えのある音は、だんだんと大きくなっている……襖を開け放つ音だ。
     ぱん、と目の前の襖が小気味いい音を立てた。光に目が眩んだのは一瞬だった。正面で開け放たれた襖の二部屋向こう、空中を泳ぐ蛇のように身をくねらせるものがいる。
    「短刀二体だな」
     言いながら、国広は踏み出していった。駆け出したのは同じだったが、長義の一足の間に一部屋を踏み越えている。
     国広が奥にいた、後退しようとしている短刀を追いかけたのを見てとると、長義は残された一口へと走った。
     襖が開け放たれたときは惑うように漂っていた短刀は、長義に向かい構えていた。
     ――いい度胸だ。
     長義は笑ってやると、一閃、刀を振り抜いた。



    「……二体とも、破壊を確認」
     歩いて戻ってきた国広は、既に刀を鞘に戻した長義に事務的に告げた。長義の足許で真っ二つになっていた短刀は塵になると風にさらわれていった。
     先ほどまでの暗い部屋が嘘のように、屋敷の中には光が満ちている。襖はすべて開け放たれていた。外の雨戸も外されたのだろう。
    「出られるな」
    「ああ」
     広間を進んでたときは数えるのをやめていたが、部屋数も屋敷の大きさに見合ったものに戻っているようだ。戻る途中で荷物を拾い、数秒進めば、なぜあんなに歩かされないといけなかったんだ、と小言を言いたくなるほどあっさり縁側に辿り着いた。
     見覚えのある色の葉をつけた雑木が風に揺れていた。日差しは強いが、風は涼しい。
    「ここは、これから秋になるんだな」
    「ああ。実りの季節だ」
     庭の隅に竜胆を見つけ、国広が寄っていった。先ほどしまったばかりの刀を出すと、静かにその茎を切る。
    「主に持っていく」
     深い青紫は、金と朱色を引き立て合うように映えた。やはり、明るいところにある方がいい。自分の見立てが間違っていなかったのを確かめると、長義も笑った。
     長義が笑ったことに国広は目を丸くすると、また軒先に戻ってきた。
    「なぁ」
    「何だ」
    「さっきの続きを聞かせてくれ」
    「続き?」
     遅れて縁側を下りた長義は片眉をつり上げた。国広の目が陽光を受けて輝いている。
    「話をしたいというのなら、の続きだ」
     どこか落ち着かない様子で国広は長義に向き合う。長義は顔を逸らすと、入ってきた門の方へ歩き出した。
    「そんなこと言ったかな」
    「言った」
    「忘れたよ」
    「嘘だろう!」
     早足で門を抜けた長義を、横から国広が覗き込んだとき、赤いものが飛び込んできた。
    「いてっ」
     その赤いものが国広の頭に当たり軽やかな音を立てた。そのまま地面に落ち、雑木に隠れるように転がっていく。
     頭をさする国広を置いて導かれるようにそれを追った長義は目を見張り、しばらく立ち竦むとおもむろに肩を震わせて笑い出した。
    「おい、どうした」
     怪訝な顔の国広の問いかけには応えず、長義は拾い物をするために腰を折る。
    「安易に呼ぶなと言ったが、今回はお前の見立ても正しかったようだよ」
     笑いを堪えきれないといった顔で、長義は拾い上げたものを国広に振って示してみせた。
     国広の頭に小気味いい音を立てて転がっていったそれは、赤い漆塗りの椀だった。
     そして、歩み寄った国広に長義が示した雑木の影には、掘り起こされたように土にまみれた小判が、こぼれんばかりに積まれていた。
    「訪れた者に富をもたらす――これも土産にしようか」
     漆椀をひっくり返して眺めながら、上機嫌に長義が言う。さっと見たところ、椀も随分上等のようだ。国広も「ああ」と応じたが、ふと疑問が口をついた。資材を入れるために持ってきた袋は、満杯である。
    「この小判、どうやって運ぶ」
     長義の笑顔がひきつった。ひきつった顔のまま椀を見ていたが、絞り出された声は固い。
    「偽物くん、布は」
    「写しは偽物とは違う。あと内番のときでないと布は持っていないんだ、すまない」
     応えながら、長義の外套に視線が向いてしまったのは仕方のないことだろう。長義は笑顔を引っ込めて数秒思案したようだったが、結局「……くそっ」と誰に向けたとも知れぬ悪態をついた。

     できるかぎり土を払い、長義の外套に小判を載せていく。長義は心底嫌だという顔をしていたが、この他に方法が思いつかないのだから仕方ない。
     結構な量の小判を外套に包み終えてふたりが立ち上がったとき、ふと顔を上げた国広が固まった。長義も視線の先を追い、ああ、と納得の息を漏らした。
    「目的を果たしたから、もう消えたんだろう」
     重厚な門と軒の低い屋敷のあった場所は、見慣れた一面の薮になっていた。
    「結局、あの家の目的は何だったんだ」
    「さあ」
     小判を包んだ外套は有無を言わさず国広が抱えてしまい、長義は代わりに国広の切ってきた竜胆と資材を持たされた。自分の外套が他の手の中にあるのは落ち着かないが、土の中に埋まっていた小判を持つのも気が進まなかったから、文句はなかった。
     長義の応えが素っ気ないのが気に入らないのか、国広は横からじっと長義を見つめてくる。左側に国広がいるから前髪で幾分か視線を遮れているが、煩わしいものは煩わしい。
    「まぁ、いずれにせよ帰ったら報告書を書かなければいけないだろうしな」
    「そうだろうな」
    「お前も同じ部隊だろう。いやに他人事だな」
    「罰則での遠征は罰を受けている者が報告書を担当する」
     ぐ、と息が喉で潰れる音がした。しばらくまた無言が続いたが、国広がめげずに長義の横顔を見つめ続けていると、根負けした長義が「仮説でしかないが」と話し出した。
    「初めは、あの迷家にたまたま遡行軍が迷い込んだんだろう。どう迷い込んだのかは分からない。遡行軍が誰かにつきまとっていて、その誰かが迷家に招かれる運命の人間だったのかもしれない」
     ふたりは薮に埋もれるように祀られた道祖神の背後へと分け入った。本丸が移動に使ってる時を越える道は、この先にある。そのまま歩いていけば、本丸の裏山に立てられた社の境内に出るのだ。
    「とにかく、遡行軍はあの迷家に目をつけた。富をもたらす屋敷だ、使いようはいくらでも思いつく。欲深い人間になら迷家は姿を眩ますだけでいいが、まがりなりにも遡行軍だ。時も越える、土地も飛べる……あの短刀たちは先遣隊といったところだろう。迷家の気配とでもいうのか、特徴みたいなものを確認してしまえば、本隊もやって来たんじゃないか。だから、そうなる前に逃げ切りたかったんだろう」
     国広は感心したように息を漏らした。
    「誰にでも与えてくれるわけではないんだな」
    「当たり前だろう。与えるのは自分が見定めた相手にだけだ。そもそも、与えるのと奪われるのでは、まったく違う」
     ざあ、と葉擦れが一層大きくなった。山の匂いが変わった。帰ってきたのだ。
     小さな境内は、夕日に照らされていた。
    「待たせてしまったかな」
    「ああ。報告書の前に少し詳しい報告が必要だろう」
     本丸の厨から炊事の煙が立ち上っているのを見ながら、ふたりは裏山に這う石段を下り始めた。

     報告が長くなるのを察した膝丸は、ふたりに先に夕食を摂らせた。審神者に国広と長義が報告を終えたとき、現実の時間に合わせて時刻を変えるように設定された景趣によって夜は更けつつあった。
     執務室から居住棟まで一緒になるのは仕方のないことだったが、居住棟の中でも国広の部屋は一番古い棟にあり、遅く来た長義の部屋は新しく増築された棟にある。本丸はとっぷりと夜に浸かっていたが、月明かりを照り返す雪で明るかった。国広が声をかけたのは、硝子戸だけを閉めた窓から雪明かりの差込む廊下の、ふたりの行先がちょうど分かれようとするときだった。
    「なぁ」
    「……何だよ」
    「このあとも、少し話さないか」
    「嫌だ。俺はもう休む」
    「そうか。……今日で少し、上手くお前と話せるようになったと思ったんだが……」
     新棟へ向かおうとしていた足を止め、長義は国広に向き合った。そのまま距離を詰めると、顔を真っ直ぐ見据える。国広は長義のその行動に虚を突かれたようで、目を丸くして後退さった。
    「話をしようと言いながら、お前、本当に話をする気があるのか」
     は、と息が漏れるのが聞こえた。口を挟む隙を与えず、長義は続ける。
    「話をするというのは、お前の言いたいことだけを言うということではないんだ。なのにお前は、自分のことでいっぱいいっぱいじゃないか」
     睨みつけると、言われるままだった国広の目にも力が戻った。
    「お前だってそうだろう。いつも一方的に、俺に言いたいことを言って」
    「だから俺はお前と話す気はないんだ」
     遮るように突き返した長義の言葉に、国広は押し黙った。
    「お前はただ、自分のことでいっぱいだ。俺だって、自分の名前を取り戻したいだけだ。それでいいんだ。分かり合おうとする必要はない」
     冬の夜は重く、ふたりの周りに満ちていた。青みがかった月明かりによって、国広の顔色も白く見えた。
    「俺とお前は、自分であろうとすると、相手を削るしかないんだ」
     それだけ言い残すと、長義は去ろうとした。夜を振り払うような早足で。
    「――だが、自分が自分であることを分かるというのは、自分とは違う者といなければできないことじゃないか」
     なぁ本科、と呼ぶ細い声だけが背中にすがりついた。

     一日も開けていないはずの自室がひどく懐かしかった。長義は真っ直ぐ窓へと向かう。外套を外そうと手を伸ばしたところで、外せるものがないのを思い出した。小判を包んでしまった外套は、そのまま執務室に置いてきたのだ。
     障子も硝子戸も開け放てば、部屋も随分冷えていると思ったのに、外の方が冷たかった。月明かりばかりが煌々と雪に照り、草も花も暗い影に沈んでいる。白い息を吐きながら空を見上げると、満ちる直前の月は薄雲を淡い金に染めていた。今夜は月が明るすぎて、星が目立たない。
     昔、人間たちが雲を金泥で描くのに感心したことがある。よく写せている。特に月の綺麗な夜は、雲が夜空に金を掃く。
     よく写せていても、本物の雲ではないというのに。
     長義はそっと窓枠に腕を預け、そこに頭を預けて夜を見た。青く暗く、静かな夜だ。景趣という環境管理システムは、本物以上に本物らしい夜を見せる。
     指先が冷える。瞼が冷たい。すぐに温かい湯に浸かって、それから厚い布団にでも潜り込まなければ、この身体は自由がきかなくなるだろう。だというのに、動きたくない。
     ――本物でなくとも、美しく見える。もしかしたら、本物よりも。なぜそれが美しいのか、知っている。人は、美しいそれそのものを写したのではなく、美しいと想う心をも写し、創り出した。
     だからずっと、知っているのだ。話す前から知っていた。俺とお前はどうしようもなく別のもので、お前は悩む必要なんてなかった。悩むことなんて、なかったのに。
     言いたいことはある。だが話したくはない。お前の美しいのを知っている。お前がどれだけ美しいかを知りたくない。
     お前が俺を見て、声を上げ、表情を変えることに、自分がどうなるのか――知りたくなんてなかった。
     だからお前を探し、目で追い、胸の内に火を飼うようなこの気持ちには、名前もつかない。



     山の稜線を縁取って日が昇り始めた。冬の朝日が景色を白々と映し出した。
     ここ一年で日課となってしまった朝の散歩を、国広は今日もこなしていた。散歩といっても、本丸の敷地をぐるりと巡るだけだ。居住棟を出て、審神者の住む棟の前を周り、畑を眺めながら道場を過ぎ、居住棟の裏に戻ってくる。そうして裏庭に差し掛かると、時々、彼が窓から庭を眺めている。
     今日も少し足を止めてしまったが、彼は顔を出すことはなかった。
     そのまま自室に近い中庭へ回る。すると今朝は、そこに珍しい姿があった。
    「やぁ、金色くん」
    「……山姥切国広」
    「ああ、そうだったね」
     この「そうだったね」が次に活かされた試しはない。慣れきった国広は、手招きする髭切に応えて縁側に腰かけた。
    「あんた、寒くないのか」
    「いやぁ、結構冷えるね」
    「上着でも膝掛けでも持ってきた方がいいぞ」
    「次はそうするよ」
     その次を覚えているのか、と思ったが口には出さない。保温容器から注がれたほうじ茶は、真っ直ぐに湯気を立てている。
    「遠征はどうだった?」
    「やはりあんたの差し金だったか」
     やだなぁ差し金なんて、と笑う髭切にはばつの悪そうなところはない。
    「あんた、膝丸と主をどう言いくるめたんだ。俺はこれから向こう一年、本科と遠征の予定を入れられたんだぞ」
    「ありゃ、嫌なのかい?」
     う、と言葉に詰まり、誤魔化すように国広は茶を啜った。まだ熱すぎた。舌が痺れる。
    「……嫌ではない、が……」
    「うん」
    「昨日、最後に少し言い争いになってしまった……」
    「おや」
     項垂れる国広に、髭切は眩しいものを見るように目を細めた。
    「君は昨日、弟に「口喧嘩なんて本丸に馴染めばよくあることだ」と言って慰めてくれたと聞いたんだけどなぁ」
     確かに言った。遠征に発つ前に執務室に寄ると、膝丸が難しい顔をしていた。理由を訊けば、髭切と長義が揉め事を起こした、よりによって長義に、と苦しそうな顔をする。それがあまりに不憫だったから出た言葉だ。実際、この本丸に住む刀剣同士、口喧嘩なんてそれこそ数えきれないほどやってきた。特に珍しいことではないのだ。
    「……上手くいかない」
    「まぁ、悪くなっているわけでもないと思うよ」
    「そうだろうか」
    「僕の見解だけどね」
     冷えた手に、湯飲みはまだ痛いくらいに温かい。湯気は今も静かに上り続けている。
    「今までも、自分が上手く話せたと思ったことなんてないんだ。修行に行って、主に書いた手紙で本当に言いたいことをやっと伝えられたと感じたくらいで……だからそうそう上手くいかないことは分かっていたつもりだったんだが、その、本科と言い争いになると、どうしようもなく苦しい」
     俯いたままそう言った国広に髭切は、内番の赤いジャージの上に彼が羽織っている白い布をかつてのように被せてやった。布に隠れた頭から、小さく笑う気配がした。
     髭切もそれに笑うと、庭に視線を戻した。太陽に色を取り戻しても、墨で描いたように潔い冬の庭だ。他の季節の鮮やかさがなくても、負けない烈しさがある。
    「あの子が――弟が来る前、押入れの暗い中に鏡を見つけたことがあったんだ」
     髭切が話し始めたのに、国広は顔を起こした。さっき被せられた布はそのままだったから、まるでかつてそのものだった。
     あのとき、膝丸を待つ髭切に、この庭で「膝丸をつれてくる」と言ったのは、第一部隊を任されていた国広だった。そして実際、彼は兄の許へ弟をつれてきた。その日も、髭切はこの庭を眺めていた。
    「忘れていたんだけど、押入れの中にしまってあってね……それが、暗い中に映った自分を弟と思って、驚いて飛び退いてしまったんだよね」
     珍しく笑いに苦いものを交えて、髭切が語る。国広は笑わなかった。笑わないで、髭切が話そうとするのを聞いていた。
    「あのときに初めて、自分と弟がよく似ていると思った。そして、全然違う、と思ったんだよね」
     似て非なるもの。二振一具でそうなら、本科と写しは尚更だろうと、国広はまた手元に目を落とした。香ばしい匂いを立てる茶碗の中、自分の顔が映っている。誰かに似ている、誰でもない自分の顔。
    「きっと君たちも、相手に自分を見てしまっているんじゃないかなぁと思って、お節介をしてしまったんだけど……僕はあまり上手いやり方ができなかったみたいだ」
     遠征に監視役でついてきてくれた彼にも少し小言をいただいてしまったよ、と苦笑いする。長谷部も名前にこだわった刀だから、大方髭切と長義が揉めたと聞いた時点で何か察したのだろう。
     ――かつて、自分の名前が疎ましかった。自らであるはずなのに、自分のものではないと、予め自分は名によって裏切られているとさえ思った。そうした自分にはどうにもできない存在を疎み、恐れ、振り払うために旅に出た。
     もうこだわらないと決めて帰ってきた。帰ってきた先で出会った彼は、名前なんかではなかった。
     ただひとつ、名前より先に、彼が在った。ようやくそれを知った。
    「あいつも、俺にあいつ自身を見たりするんだろうか……」
    「するんじゃない?」
    「軽く言うな、あんたは……」
     あはは、と髭切は無邪気に笑ってみせる。笑ってみせる強さを持っている。
     名前なんてどうでもいいと、この刀のようには笑えない。これほど思い切りよく、手放してしまうことはできなかった。かつてまとった布が手放せないように、あの悩んだ日々は国広を今の国広たらしめている。強く在るために帰ってきた刀として。
     ――俺は俺だ。
     結局、話は戻ってきた。何度も呟いてきた言葉が、自分にとって確かなことだった。自分が自分であるように、長義は長義以外の何物でもないのだ。
     国広は被せられた布を後ろに払ってから、ぐっと湯飲みの中身を飲み干した。いい温度になっていた。
    「茶をありがとう。あんたももう戻れ。風邪なんかひいたら膝丸が泣くぞ」
    「おお、そうだね」
     髭切に微笑んでみせると、国広は自室へと歩き出した。本丸の一日が、今日も始まろうとしている。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2022/09/15 23:02:44

    名前もつかない

    ふたつの山姥切がひょんなことをきっかけに対話を始める話
    本にしたもののうちの一話目です(自家通頒で取り扱っています▷ https://jimbaride.booth.pm/items/2544931 )

    #くにちょぎ ##くにちょぎ

    more...
    Love ステキと思ったらハートを送ろう!ログイン不要です。ログインするとハートをカスタマイズできます。
    200 reply
    転載
    NG
    クレジット非表示
    NG
    商用利用
    NG
    改変
    NG
    ライセンス改変
    NG
    保存閲覧
    NG
    URLの共有
    OK
    模写・トレース
    NG
  • CONNECT この作品とコネクトしている作品