名前もつかない
障子の向こうが明るかった。雪が積もったのだと知った。同じ朝でも昨日より静かに感じる。雪は音も吸い込んでしまうのだと言っていたのは審神者だった。初めて近侍を任されたときに聞いたのだ。
山姥切長義は、自分にとって決まりきった手順で簡単な身支度を終え、庭を望む障子窓を開けた。寒さが肌に張り付いて、眠りで鈍っていた感覚が冴えていった。思った通り、本丸の景趣は冬に差し替えられたらしい。
この本丸にやって来てからの一年は簡単に過ぎ去ってしまった。時の流れるのが簡単と思えてしまうほど、毎日やることに追われていた。ある程度身体の使い方に慣れるまでは遠征と内番を、それからやっと出陣――ここの本丸にとっては、新入りは一定の練度になるまでは戦場に送らないのが手順だったらしい。監査官として以前から政府にて身体を得ていた長義にとっては無用の心遣いにも思えたが、この本丸の手順に従った。刀たちが折れてしまうのをできるだけ避けたいのだろう審神者の心理は理解できるつもりだったし、ここが自分の住処になる以上、余計な揉め事はしたくないという打算もあった。
審神者の心遣いに感じるむず痒さは、笑って少し皮肉ってやればそれで事足りる。突然本丸に配属されてきた監査官への違和感は、毎日の仕事をこなしていくうちに皆忘れる。長義が考えた通り、本丸に長義がやってきたことで生じた摩擦は、わざわざ余計なことをせずとも、時間と、何より長義の仕事ぶりが解決していった。
では、余計でない揉め事とは、何か。
ちょうどその相手を庭に見つけて、長義は目を細めた。白布に覆われていない髪は、雪景色の中で一層眩しかった。頬の強張りを意識したとき、向こうもこちらに気付いた。長義は笑ってみせた。
「――やあ、偽物くん」
山姥切国広は、冬には不釣り合いに思えるほど鮮やかな、若葉を映し取ったような瞳で真っ直ぐにこちらを見た。
「写しは、偽物とは違う」
またそれか、という嘲りを口許に浮かべてみせると、長義は国広が何かを続ける前に、窓を閉めた。
山姥切国広はこの本丸の最古参である。前田藤四郎とともに、審神者を迎えた日から着実に任務をこなしている。犠牲を払わずに今日まで来られたわけではないが、その犠牲を無駄にはしていないと評価していいだろう。それに、ここ数年はその戦果に比べて被害は小さくなっている。強くなっているのだ。
本丸の運営は上手くいっている。ここの監査を任されたのは運が良かったかもしれない、と監査官として接しているときから長義は考えていた。監査官を怪しむものはいても、同じ刀剣同士で足を引っ張り合うような挙動はなかった。あるいは監査官にはそれを見せないようにしているだけかとも考えはしたが、配属されてみれば杞憂だと分かった。刀剣たちは皆健やかに暮らし、強かに戦った。
それを思うと、この本丸に監査にきたとき既に山姥切国広が金の髪と碧の瞳を日の下に晒せていたのは道理かもしれない。ここでは卑屈であり続ける方が後ろめたかっただろうし、主にも仲間にも、応えてみせたかったのだろう。山姥切国広は、そういう刀だった。
偽物くん、と語りかけたのはこちらだった。それを「また話をしよう」と打ち切ったのは向こうだったが、大した会話らしい会話はすることなく、長義は本丸での二度目の冬を迎えている。
若干どころではない肩透かしをくらっているが、進んで話をしたいわけではない。自分とあの写しは決裂している。長義も任務で必要なこと以上は応えないし、なるべく顔を合わさないように過ごしてきた。南泉一文字は長義の態度からふたりの仲のこじれっぷりを察して苦い顔をした。先に本丸で暮らす間に、随分と国広に肩入れするようになったらしい。
しかし、それでも生活は続くのだ。本丸の運営は滞りなく進み、戦果は上がる。手こずるときもあるが、それには対処できることを知っている。なにせ、ここの本丸は経験も実力もある刀揃いだし、自分だっているのだから。自分が自分らしくあれば、自ずと結果は出るし、また、周りも自分という刀がどんなものかを知るだろう。俺は、俺であればいい。
俺であればいい、と思ってはいるのだが――やはりこれは気に入らない。
寒さに鼻を啜りながら草を引き、長義は内心でひとりごちた。土いじりなど俺の仕事ではない。
冬の土は氷のように指に張り付いて不快だった。鼻の奥に張り付くような濡れた匂いも気に障る。それに。
「そろそろ休憩にしないかい、銀色くん」
「……山姥切だ」
一緒に当番を任された相手がいただけない。長義が睨み付けても、髭切は「ああ、そうだったっけ」と笑うだけで、堪える様子はない。名前を覚える気はあるのだろうかーー絶対にない。
弟の方は、以前一緒に当番になったときに、いかに畑が自分たち向きの仕事ではないかを話題に会話も弾んだが、兄とは話が噛み合わない。膝丸は愚痴をこぼしながらも真面目に仕事をこなしたが(無論長義も任された仕事は完璧にこなした、できないと思われるのは癪なので)、髭切はすぐ天気だとか、今日の献立だとかの話をし出す。そして何より、これだ。
「名前なんて、僕にとってはどうでもいいからねぇ」
間延びした声に、長義はぐっと唇を噛んだ。髭切は長義の名前も、それどころか弟の名前も覚えようとしない。それが、長義には赦しがたかった。
「……今日の畑仕事は草引きだけだろう。休憩して長引かせるより、さっさと終わらせたい」
「そうかい?」
腰を上げない長義を、髭切は少しの間見つめていたようだったが、しばらくすると同じように座り込んだ。
草引き以外にも、毎日やっている備品の点検がある。昼食を挟んでそれも手早く終えると、長義は自室へと引きこもった。今日は第一部隊は戦場へ、第二・第三・第四部隊はそれぞれ遠征へと本丸はフル稼働していたが、長義の名前は部隊にない。練度がある程度上がってくると、出陣する回数が緩やかに減ってきた。ここの主は、部隊を練度の近しいもので組みたいようだった。つまり、今、上限が見えてきた長義の練度に合うものは一部隊を組めるほどいないのだ。
だったら演練でも遠征でもいいから出してくれ、とは審神者に顔を合わせる度言ってみるのだが、主は困った顔で笑うばかりである。大方調整が難しいのだろう。この大所帯になるとそういうものだと、長義にも分かってはいる。そのため追い討ちをかけられない長義に「まぁ戦に出るのだけがここの仕事じゃねぇだろ」とニヤついていたのはその日近侍の南泉だった。後手に回る長義が面白かったのだろう。こちらは面白くなかったので、その日は戦に出られない鬱憤を南泉をからかい倒すことで発散した。
戦働きができないことへの焦りは確かにある。自分を知らしめる場がないからだ。書類仕事も得意だが、へし切長谷部と前田藤四郎が上手く回しているらしく、長義に助っ人の声はかからない。声がかかるようなことがあれば上手く仕事が回せていないということなので、それはいいのだが。
昼下がりの自室は、障子紙を挟んで入ってくる淡い陽光でほんのり明るい。換気のつもりで窓を開けると、うら寂しい冬の裏庭からは冷え冷えとした空気とともに、道場から木刀の打ち合う音が聞こえてくる。手合わせとはいえ、お互い本気で向き合っている。打ち合う音の強さや早さから、それくらいは見なくても分かる――片方に至っては誰なのかさえ、分かってしまう。窓枠に預けた腕に頬を乗せると、冷気で頬が赤くなるのも厭わず、澄んだ響きを耳に長義は目蓋を下ろした。
不要な揉め事を起こしたくないのは、誓って本当だった。しかし、いつか起こり得る揉め事でもあったと、長義は思い返す度嘆息したくなる。
髭切との畑当番は数日に渡った。長義は毎日、最低限の会話だけで過ごした。ただ、その日は備品の点検以外に中々の量の肥料を納屋に運び込んでくれと頼まれて、いつものように昼過ぎには当番を終えられなかった。
八つ時には遅いが、夕飯には早すぎる。そういう時間、残りの仕事が備品の点検だけになったときに、髭切がまたいつもの笑みをたたえて長義を茶に誘った。
連日、休憩を断り続けている。それを少し負い目に感じてしまい、長義は髭切の誘いに応じた。
弟がいつも淹れておいてくれているんだよ、と髭切は保温容器と湯飲みをふたつ、よく磨かれた盆に載せて縁側に持ってきた。弟の方はどれだけ過保護なんだ、と軽口を叩きたくなったが、ぐっと飲み込む。冬場の休憩を風に晒される場所で取るのもおかしなことだったが、これ以上髭切のペースに巻き込まれたくなかった。
「結構いい眺めでしょ」
まだ真っ直ぐ湯気を立たせるほうじ茶を脇に置いたまま、長義は促されて中庭を見た。中庭は、長義の部屋から見える裏庭に対して棟を挟んで逆にある、刀たちの居住区の中で一番大きな庭だった。枯淡という言葉の似合うような裏庭と違い、中庭は見られるための華やかさがある。髭切と膝丸の使っている部屋は、その華やかな庭園に面している部屋の中でも、画の構図を取るならここだろうと人間たちが選びそうな位置にあった。
髭切の言う通り、眺めは悪くなかった。他の季節の鮮やかさこそなかったが、陽光に濡れた雪の表面も、椿の赤い花弁も濃い色の葉も深い艶を返して光っていた。雪に覆われても寂しくないのは花の着く木の場所もその枝振りもよく手入れされていて、悪目立ちしないように抑えられてはいても暮らしているものの気配が隠されていないからだ。
「ここに来たときから、この眺めは気に入っていてね。いつも弟が帰ってくるのをここで待っていたなぁ」
笑う髭切は、同じように茶を注いだ湯飲みで暖を取っているらしい。それを横目で見て、「へえ」と適当に相づちを打ちながら、そういえばあの膝丸はこの髭切より一年近く後にやって来たのだったと、以前本丸の記録を当たったときに見かけたのを思い出した。今はともに練度上限に達し、たまに遠征に赴いたり、時には近侍として主の補佐に回ったりしているようだ。
ふと話が途切れた。一杯で休憩を切り上げるためにどう言おうか考えていたときだった。
「――彼の名前で呼ばれるというのは、やはり不服なものかな」
氷を腹の内に差し込まれたようだった。思わず睨み付けると、当の髭切は中空を見つめながら首を傾げている。
「あれ? 逆か? 自分の名前で彼が呼ばれている、の方か」
髭切がいきなり自分にそうした話題を振ってくるのは何かしら意図があると、頭にちらつかないわけでもなかったが、怒りに追いやられてすぐその思考は焼き切れた。
「名前などどうでもいいという奴に話しても分からない」
茶の残りを引っかけてやりたかったが、かろうじてそれは抑えられた。カン、と音を立て湯飲みを叩きつけたが、割れはしなかったようだ。
髭切は、身体を庭に向けたまま、顔だけを長義の方へ傾けた。いつもと同じ微笑、冬の日に照らされ、薄い色の髪が寒々しい。飴色の丸い目が、きゅっと細められた。
「確かに、僕にとっては名前はどうでもいいのだけれど……でも、話してみないと分からないかもしれないよ」
「分かる奴はそんな言い方をしない」
「ありゃ、手厳しいね」
声をあげて笑ってみせるのも憎たらしい。長義は立ち上がり、座ったままの髭切を見下ろすと、常々思ってはいたが口に出すまいとしていたことを吐き捨てた。
「名前なんてどうでもいいと、わざわざ言わずにいられない奴こそ、一番名前に囚われているんじゃないのか」
――喧嘩を吹っ掛けてみても、髭切の表情は変わらなかった。長義は思わず舌打ちをすると踵を返し、自室へと向かった。
「おう、化け物斬り」
夜、長義の部屋を訪れたのは南泉だった。窓から夜に沈んだ裏庭を眺めていた格好の長義は、視線だけを戸を開け放した南泉に寄越した。
南泉は大袈裟なくらい顔をしかめて、嫌がっているのを隠そうとしなかった。長義が機嫌の悪さを隠そうとしなかったから、古馴染みのその反応は当然でもあった。
半ば呆れたようにも見えるしかめ面で南泉はぶっきらぼうに口を開いた。さっさと用だけを済ませることにしたらしい。
「主が、話があるから執務室に来いってよぉ」
じゃあ伝えたからにゃ、と残し、猫のように足音を立てず南泉は足早に去った。
一日を終えようとする本丸は昼間賑やかな食堂や広間からは人影が消え、各部屋からそれぞれが思い思いに過ごしているのが伺えた。その遠いさざめきを背に、長義は執務室に辿り着いた。
「お待ちしておりました」
迎えてくれたのは前田藤四郎だった。執務室に足を踏み入れた長義は、先客を見つけてつい眉をひそめた。
「主はさっき、政府から連絡が入ったそうだ。前田が伝言を頼まれたらしい」
膝を開いた正座姿で山姥切国広が話しかけてくるのが新鮮だった。今まで決まった返事しか受け取らないようなやりとりしかしてこなかったから、違う言葉の響きすら物珍しく感じる。
返事はせず、長義も国広から並ぶ格好で、ただし距離を取って座った。
「お話はすぐに終わります」
前田藤四郎も審神者の代理として、山姥切たちの前に行儀よく正座した。品のいい微笑を浮かべた口許が、落ち着いた声色で長義に語りかけた。
「山姥切長義さん。こちらに呼ばれた理由を、おそらくご自分でご存じかと思います」
昼間に揉め事を起こしたことへの叱責だろうとは予測していた。だから審神者本人が席を外しているのは意外だったが、長義は前田の言葉を待った。そもそも、国広がいる理由も分からない。腑に落ちない状況にいる。下手に口を開きたくなかった。
背筋を伸ばしたままの長義が言葉より態度で先を促しているのを感じ取った前田は、少し困ったように眉尻を下げた。
「内番を、途中で放り出されてしまっては困ります」
……そっちか、と思うまでにも少し間が開いた。隣から不躾に見つめられている気配を感じながら、長義は言葉を探した。
「……仕事を放り出したのは、確かに悪かった」
ようやく探し当てたのは謝罪だった。あのまま髭切と一緒に作業を続けられたかといえば絶対に無理だと自信を持って言えたが、それはそれとして、確かに任された仕事を放り出すのは褒められたことではないことぐらい分かる。例えそれが畑仕事でも。
長義の謝罪に前田は少年らしさの滲んだはにかみを見せた。
「ええ、謝罪は確かにいただきました。ですが一応、主君が罰則を科すことにする、と」
髭切とのやりとりに触れてこないのをみると、前田には伝えられていないのかもしれない。残りの仕事を押し付けられる形になった髭切が大して深刻に報告しなかったのか――ありそうなことだと思い、情けをかけられたようにも感じて不快だった。
「それで、その罰則なのですが」
そこで前田は国広を見た。国広は頷いて、続きを引き取った。
「明日から俺と遠征だ」
「――は?」
こうして、ふたつの山姥切の久々の対話は、長義の間の抜けた声から始まった。