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    生者の出奔名残りの幽霊生者の出奔二等星のための葬列名残りの幽霊



     帰り道がすっかり暗くなってしまっていて、居心地の良さに鶯丸宅に長居してしまったことを、平野は少し後悔した。学校からランドセルを背負ったまま鶯丸の家に寄ったのだが、秋も深まって日が落ちる時間が思った以上に早くなっていたのだ。兄弟たちが心配する、急いで帰ろう。そう思って足を早める。そうして歩き慣れた人気ない帰路の、いくつめかの角を曲がった先に、それはいた。
     住宅に挟まれた小さな公園の中の、点滅する街灯の下にそれは立っていた。平野には背を向ける形だったから顔は見えなかったが、髪も服も真っ白で、夕陽も落ちきった薄暗い中でぼんやりと街灯に照らされている後ろ姿は作り物めいて見えた。その白い後ろ姿は、平野のよく知っている街からは浮いている。細身で背が高い。骨っぽく見えるし男だろうか、と考えたとき、その白い影が振り返った。小作りな顔にバランスよく収まった目鼻の中で、金色にも見える目が無表情に、しかししっかりと平野を捉えた。このときになって初めて、平野は自分が足を止めてその見知らぬ人をじろじろと見ていたことに気付いた。もう目をそらしてごまかすことはできなかった。平野もそのまま、金色のふたつの目を見る。どうしよう、と思っていると、人形のように何の表情も浮かんでいなかった白い顔がくしゃりと歪んだ。
    「君はこの辺りの子か?」
     聞こえてきた声は予想以上に低く、その人が男だと確信する。白い男は人好きのする笑顔で平野に尋ねたが、平野は答えず男をじっと見つめるだけにした。失礼にも思えたが、知らない人には注意しろと小さい頃から言い含められている。男との距離は三メートル以上はある、変な素振りを見せたら近くの家へ全力で逃げ込もうと算段をつけて、男を注視する。白い男も警戒されていることには気づいているのだろう、頭を掻きながら、俺は怪しいもんじゃない、いやこの台詞は怪しいか、などと言っている。
    「……道に迷ったのですか」
     警戒は解かないまま男に尋ねると、そういう訳じゃないないんだが、と言って眉尻を下げた。そういう表情をすると、振り返ったときのような人形めいた雰囲気はなくなって、外見に似合わないほど人間臭くなった。
    「いや、ひとりでぼうっとしていたら君が来たもんだからな、つい」
     つい声をかけた、ということらしい。
    「僕に何かご用でしょうか」
    「ううん、用があるわけでもないんだが」
     この男は何がしたいのだろう、と思って少し呆れていると、男は何に気付いたのか、平野の顔をじろじろと観察しだした。そうして顎に手を当てて、何かを考えているようにも見える。自分も先程は男を観察していたのだが、いざ面と向かってそうされると不快に感じて、立ち去ってしまおうと思った。では失礼します、と声をかけて歩き出そうとしたが、男はまた話し始める。
    「ちょっと待ってくれ、少し話さないか」
     俺は久々にここに来たんでな、聞きたいこともあるし、と続ける男の顔は人好きのする笑顔に戻っている。こちらを緊張させるような素振りのない表情と声だったが、興味深そうに目を輝かせ初対面の少年を見つめる男というのは、やはり怪しいことには変わりない。
    「知らない人には気を付けろと言われておりますので」
     牽制のつもりで言ったが、男はわざとらしく肩を竦めて、おどけた様子で言った。
    「今知り合ったじゃないか」
     馬鹿にしているのか、と思った。平野は冷静で頭の良い少年だったが、子ども扱いされることに腹を立てる幼稚さも持っていた。このときも堪えようとはしたが、この返答に自分でも頭に血が昇るのがわかった。
    「僕はあなたがどなたか存じ上げないので知り合いではありません」
     早口ではっきり言いながら男をにらむと、男は虚をつかれたような顔をして、一呼吸おいて、そうか、とだけ言った。その反応に、少しだけ溜飲が下がったように思って、平野はふっと息を吐いた。すると途端に男の顔が歪んだ。あまりに唐突な変化に、何も反応できない。だというのに、背骨を冷たい手で掴まれたかのような心地がした。男の顔は先程までの人懐こい笑顔ではなく、作り物のように、冷たく笑っている。歪んだと感じたにしては、ぞっとするほど綺麗な笑顔だった。
    「では名乗ろう」
     辺りはもうとっくに暗く、人通りは相変わらずない。点滅し続ける街灯の下、男の白い顔の中で瞳が満月のように煌々と光って見える。冷笑を顔に貼り付けた男は平野から目を逸らさない。平野も固まったように目を逸らせずにいると、白い男はそのふたつの目をきゅうっと細めて、滑らかに告げた。
    「俺は、幽霊だよ」




    「——なんてな、驚いたか?」
     おどけた声と同時に、男の表情はまた人好きのするものに戻った。その言葉を聞いて、意味を理解すると、平野は体からどっと力が抜けるのを感じた。知らない内に緊張していたらしい。初対面の人間、しかもランドセルを背負った子ども相手に何をするのだこの男は、と思ってその顔を見やると、いたずらを成功させた子どものように満足げだった。にこにこと笑いながら「なかなかの演技だっただろ」だのなんだの言っている。やはりからかわれているのだ。からかわれているのは気に入らないが、自分の弟のように叱ることはできない。文句くらい言いたかったが、背中から力が抜けてしまって何も言うことが思い付かなかった。男はその平野の様子を見てまた満足げに頷いた後、「もう暗いから急いで帰った方がいいな、兄が心配するだろう」と優しい声で言った。幽霊だと名乗ったときの、底冷えのする響きはもうなかった。返事をするのが癪に思えて、一応男に軽くお辞儀だけすると、平野は帰路の続きを早足で歩き出す。男は平野のお辞儀には何も言わず右手をひらひらと振った。やはり愛嬌のある笑顔を浮かべていた。
     公園のあった通りを左に折れると、左右に並んだ住宅の軒先の玄関灯と、ぽつぽつと配置された街灯だけが道を照らしている。夕暮れはとっくに過ぎて、もう夜と言っても良い時間だった。一番上の兄が既に帰ってきていたら、小言をもらうかもしれない。長兄は仕事だけでなく、平野以外の弟の世話にも忙しいのだから、まだ帰ってきていないといいなぁ、と考えて溜め息が出た。平野は、自分が手のかからない弟であることを自負していた。その自負に加えて、兄は自身を蔑ろにしているのではないかと感じてしまうほど、自分たち弟のことを大切にしてくれているのをよくわかっているから、ちょっとしたことでも兄に迷惑をかけるのが怖かった。兄弟が多いのはどうしようもないから、せめて自分の負担だけでも減らしたい。自分を幽霊だと名乗る不審者に遭遇した、なんて伝えたら、いつも優しげに微笑んでいる兄の眉がつり上がるだろう。それか眉を八の字にして、平野に鶯丸の家に行くのをしばらく控えるよう言いつけ、鶯丸にもそのように連絡してしまうかもしれない。鶯丸はあまり他人に干渉しない男であるから、元から行儀の良い平野には何も求めなかった。鶯丸のそうした態度は、自分を子どもというよりひとりの人間として扱ってくれているように感じて心地よい。兄に迷惑をかけたくなくて甘えないようにする代わりに、自分の好きなようにさせてくれる鶯丸は平野にとって大事な居場所なのだ。この居場所に、少しの間でも通えないかもしれないなんて考えるのも嫌で、兄には忘れ物を思い出して学校に一度戻ったのだと言おうと決めた。我ながら信憑性の高そうな言い訳だ。嘘を吐く後ろめたさはもちろんあったが、それよりも兄を心配させたくなかった。そもそも、帰るのが遅くなってしまったのがいけないのだ。これからは日没の時間にも気を付けなければ。あの白い男も「もう暗いから急いで帰れ」と言った——。
     不審者の親切な忠告を思い出して、あれ、と思った。思わず足が止まる。あの白い男は、急いで帰った方がいい、と言った。そして続けて、兄が心配するだろう、と。違和感の正体に気付いて、平野の背筋を冷たいものが這っていった。秋の夜のせいではなかった。
     ——なぜ、あの白い男は、自分に兄がいると知っていたのだろう。
     瞬きする目蓋の裏に、あの男のぞっとする笑顔がちらついて、平野はたまらず家までの残りの道を全力で走った。

     ただいまも言わず、息を乱したまま、平野は居間に駆け込んだ。普段物静かな平野のその様子に、机に夕食を並べたり本を読んだり銘々に過ごしていた兄弟たちは、ぽかんと目と口を開けて出迎えた。顔立ちが似ていないと言われる兄弟たちが、皆同じ表情をしているのを見ると途端に安心して、平野はそこに座り込んだ。
    「どうした? 平野」
     本を読んでいた薬研が、栞を挟みながら近付いてくる。骨喰も何も言わないが、平野の肩に手を置く。いえ、と返事はしたが、息を整えるのに忙しく、続きはしゃべれなかった。
    「何かあったのかい」
     台所から長兄が出てきた。白い男の笑顔がまたちらついたが、兄が心配そうな顔をしているのを見ると、何も言うわけにはいかなかった。手間をかけない、良い弟のままでいたい。
    「暗くなってしまったので、走って帰ってきたのです。それだけです」
     遅くなってすみません、と頭を下げると、少し間を置いて、そうか、とだけ返ってきた。納得していない声色だったが、追求はしないらしい。では荷物を置いて手を洗っておいで、と言うと、兄は台所に戻っていった。息も戻ったから、まだ心配そうにこちらを見る兄弟たちにも笑って「大丈夫」と伝え、自室に荷物を置きに行く。明日も鶯丸宅に行くが、あの道を使うのはやめよう、と思った。

    「随分トンチキな幽霊だな」
     鶯丸がくつくつ喉を鳴らして笑う。平素から薄く笑っているかのような品の良い顔立ちをしている男だが、平野が昨日出会った幽霊はお気に召したらしく、楽しそうだ。鶯丸がそういう反応をしてくれるだろうと見越してこの話をした平野だが、憮然とした顔を作ってみせる。
    「トンチキもトンチキですよ、驚いたか? なんて」
     そう言って隣に座る鶯丸が入れてくれた茶を一口含む。今日はかぶせ茶だ。渋味はあるが、甘い。
    「幽霊というよりは狐狸の類いのようだな」
     まぁ違う動物かもしれんが、と鶯丸も自分の茶を飲む。
    「しかし、古式ゆかしい幽霊じゃないか」
    「どこがですか?」
     幽霊と言えば白装束というイメージは平野にもあり、昨日の不審者はそれには合致していたが、経帷子ではなく洋服だった。それに、靴まで白かったのを平野は覚えているから、あの幽霊は足があったということになる。どこが古めかしいのだろう。
    「謡曲なんかに出てくる幽霊は自ら正体を明かすだろう。それを思い出したんだ」
    「はぁ」
     この人お茶以外にも興味があったのか、ということに平野は少し驚いていた。鶯丸は茶を教えて生計を立てている。詳しくは知らないが資産を持っているそうで、のんびり好きなように暮らしているというのが周りの評だ。贅沢な暮らし方かも知れないが、鶯丸自身はあまり金のかからない男のようで、暮らしぶりは清貧と言っても良いほどだった。平野からすればあくせく働く鶯丸はまったく想像できないので、彼は今のようにのんびりと茶を教えて暮らしているのが良いのだと思う。
    「しかし、そういう幽霊は正体を明かすと自分の無念を語っていくものだが、そいつは何も言わなかったのか」
    「先ほども言ったように、驚いたか? でしたから」
    「それはそれは」
     難儀な奴だなぁ、とこぼして、鶯丸は自分の湯呑みに口をつける。そして口を離した後、湯呑みの縁を親指でなぞるように拭った。その動作を何気なく見ていた平野は、鶯丸が首をこちらに向けるとつられてその顔を見上げた。今日もいつも通り、アルカイックスマイルといった感じの微笑を顔に浮かべている。
    「俺はその幽霊はトンチキだが、悪い奴ではないと思うぞ」
    「え?」
     思わず目を丸くする平野に、鶯丸の方はその長い睫毛に縁取られた目を細めてみせる。
    「君は、もう一度その幽霊に会って話してみるといい」
     思いもよらぬ提案に平野は訳を聞こうと口を開いたが、鶯丸はそれだけ言うと自分の湯呑みに目を戻して、さっきと同じ動作で茶を飲んだ。この様子だと何も答えてくれないだろう。毎日のように鶯丸に会って学んだ行動パターンが、そう導いていた。鶯丸は平野を自由にさせてくれるけれど、鶯丸も自由に振る舞って、平野を踏み込ませないときがある。これも、そういうときだった。鶯丸は平野に答えてくれないことがあるという事実は、平野を寂しい気持ちにさせる。自分がどこにも拠る辺のない、宙ぶらりんな存在のように思えるのだ。きゅうっと胸が締まったような心地がしたが、それを鶯丸には悟られたくなくて、平野も俯くように自分の手の中の湯呑みを見る。その小さな頭を、鶯丸がちろりと横目で見ていたことに、平野は気がつかなかった。



     平野はまた昨日と同じ帰り道を歩いていた。今日はまだ明るい時間に鶯丸宅を出たが、空が赤くなってきている。とぼとぼ歩いていると、公園の前の曲がり角についた。思わず足が止まる。平野は、鶯丸の提案を無視できなかった。突拍子もないことを言い出すことの多い人だが、意味もなくそういうことをするわけではないことを知っていたからだ。わざわざ平野にああいうことを言ったということは、鶯丸の中になにか考えがあるのだ。ただ、平野にその考えを教えてはくれないだけで。
     鶯丸は平野に踏み込ませてくれない場所がある。今までも感じてきたことが、今日はやけに心細く思えた。自分は鶯丸にとっては友人の弟であって、それ以上の存在ではないのだ。当たり前のことだったが、自分はどこにいればいいのかわからなくなってしまいそうだった。兄弟たちは、平野がそうであるように、平野を大切に思ってくれているだろう。しかし、大切に思っていることと、自分を委ねられることは違うことだった。このことに気づくと、平野は愕然とした。自分は自分を誰かに委ねないと安心できないのだ。その事実を思い知ると、自分が情けなくて仕方なかった。早く大人になりたい。自分で何でもできるようになって、誰かに迷惑をかけなくても生きていけるようになりたかった。
     じわりと鼻の奥が熱くなってきて、それを誤魔化そうと平野は止まっていた足を動かした。角を曲がると昨日と同じように小さな公園がそこにあり、そして白い男も街頭の下に立っていた。ただ昨日と違い、最初から平野が来ることを知っていたかのようにこちらを向いていた。平野と目があった男は笑って右手をあげかけたが、平野の表情に気づくと笑顔を引っ込めてしまった。自分はそんなにひどい顔をしているのかと思うと、また平野の足が止まる。目頭の熱を抑えるのに必死で、顔をあげることができなくなってしまった。
    「どうした?」
     男は小走りで平野の前にやって来ると、目線を合わせるようにしゃがんだ。普段なら何とも思わないその動作も、自分の小ささを思い知らされるように感じて平野は唇を噛む。男はじっと平野を見ている。瞬きする度に、夕日の赤い光が金色の瞳の中で揺れるのが見えた。
    「……あなたは、幽霊、なんでしょう」
     喉がひくつくせいで、言葉が途切れ途切れになる。それを恥ずかしいと思いながら平野が話すと、その男は少し表情を緩めて、ああ、と答えた。
    「何の未練があって、僕と会おうとするんです……僕に、どうしろっていうんですか……」
     幽霊は、慈しむかのような優しい表情で、平野が絞り出す言葉を聞いていた。知らない男の前で涙を堪える醜態を晒していることは、平野にとっては堪え難かったが、幽霊はまったく気にしていないようだった。
    「未練か、そうだなぁ」
     わざとらしいとも感じるほど間延びした話し方だった。平野をじっと見つめていた金の目が、思案するように逸らされた。そうして一度、ゆっくり瞬きすると、また平野の方を向いた。
    「残念だが、俺の未練は君にはどうしようもないな」
     泣き出しそうな笑顔だった。幽霊がこんなに人間臭い表情をしていいのかと思って、平野は一生懸命堪えている涙が今度こそ溢れてしまいそうだった。こんなに寂しそうに笑う幽霊の未練も、自分にはどうにもしてあげられないのだと思うと、自分の無力さを再認識させられるようで無性に悲しかった。
    「僕には、話せませんか」
    「いや、そういうわけではないんだが」
    「僕は」
     僕は、ともう一度絞り出したところで、平野は言葉に詰まった。喉の下には多くの思いが渦巻いているように思えるのに、どれひとつ言葉になりそうになかった。幽霊はまた優しい顔で平野の言葉を待っている。微笑みを浮かべていると、初めて会ったときに感じた人形じみた無機質さはまったくなかった。生きている幽霊、という矛盾した言葉が平野の目の前の男の微笑に相応しかった。この幽霊の微笑みは優しいけれど、平野は自分をこの微笑みに委ねることはできないだろうとぼんやり思った。そしてまた鶯丸のことを思い出した。鶯丸の微笑も優しいけれど、一定以上は懐に入れてくれない触れ難さもある微笑だ。こんなに情けない自分は、どこに行けばいいのだろう。
    「僕は、どうしたらいいんでしょう・・・」
    「うん?」
    「迷惑をかけたくないんです。でもちゃんとしようとすればするほど、どうしようもなくなってしまって」
    「うん」
     平野が帰る場所は、兄弟たちがいるところに違いないのはわかっていた。兄弟たちは、平野にとって大切な存在だ。笑っていてほしい。目頭の熱を逃がそうと瞬きする瞼に、兄弟たちの笑顔が浮かぶ。その笑顔が向けられる先には、兄弟の中で一際大きな背中がある。
    「苦しいんです」
     兄弟たちがその背中に駆け寄っていくのを、平野は見送る。自分は大丈夫、弟たちに譲ってあげよう。弟たちはその背中に抱きついて笑う。そして、背中に抱きつかれた長兄が振り向いて笑いかける——平野以外の、弟たちに。弟たちの方が兄を必要としているから、自分は譲ろう。そして兄が心配せず済むように、手の掛からない弟でいよう。そうやって、兄によくできた弟だと思われたくて過ごす内に、兄との距離が開いていった。自分はそれが苦しいのだ。
     自覚すると、本当にどうしようもなかった。涙はまだ堪えられていたが、言葉はもう出てこなかった。幽霊はやはり平野を優しく見つめている。その金色の目の、目尻がわずかに下がったと思うと、幽霊はまた滑らかな声で話し出した。
    「なぁ君、本当に自分のものになるのは自分の頭に納まるものだけだぜ」
     その微笑は変わらず優しかったが、寂しそうにも見えた。しかし、その寂しげな表情は許容からくるものに思えた。この幽霊は、自分の言葉には真実があると、それをわかっているのだ。そのまま幽霊は話し続ける。
    「そして、自分の頭に納めるものは、ある程度選べるんだよ。確かに選べないものはあるし、それはどうしようもないが、それ以外は自分で選んでいいんだ。君には、まだ選べるものがあるんじゃないか?」
     折り畳んでいた長い脚を伸ばし、幽霊は平野を見下ろす。立ち上がったときに、白い髪の表面を夕日の赤い光が滑っていった。軽く跳ねた毛先まで滑っていくと、火が消えるように光は毛先から滑り落ちて見えなくなった。赤い光の中にあっても、瞳はそのままの色で平野に優しく細められている。
    「君が選びたいものは、何だ?」
     一際優しい声で、幽霊は尋ねた。その声は、平野の選択を尊重してくれる響きがあった。
     世界は、選べるものと選べないもので、できている。聞いてみれば当たり前のその事実は、パズルのピースが定められた位置にはまるかのような明白さで、平野の頭にすとんと落ち着いた。
     選びたいもの、自分のものにしておきたいもの。考えるより早く、わかっていた。兄弟たちは大事だ。でも、兄に、自分にも笑いかけてほしいのだ。
     喉の下で渦巻いていた思いは驚くほど簡単に大人しくなって、平野は大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。吐く息に混じって、胸の内に沈んでいたものも一緒に出ていったかのようだった。その様子を見て幽霊は笑った。
    「さぁ、もう帰るといい」
    「兄が心配するから、ですか?」
     平野は幽霊を見上げる。幽霊は平野の問いかけに少し悪戯っぽく口の左端をあげてみせた。
    「そう、君の兄は君の心配をしている。弟が甘えてくれないってな」
     二人は顔を見合わせて笑った。この幽霊がなぜ兄を知っているのか、そして鶯丸がなぜこの幽霊と平野を話させたがったのかは、平野にとって今はどうでもいいことだった。そのうち兄か鶯丸か、あるいはこの幽霊が教えてくれるだろう。
     平野は帰ろうとランドセルをもう一度背負い直す。そして、もう一度幽霊に向き直った。聞きたいことがあって口を開きかけたが言うことはできず、昨日のように軽くお辞儀をして歩き出した。幽霊はやはり、白い右手をひらひらと振って平野を見送った。
     ——あなたは、何を選んで、今ご自分を幽霊だと言うのですか。
     幽霊を名乗る者は無念を語るものだと鶯丸は言った。しかし、あの幽霊は自分の未練は平野にはどうしようもないことだと言っていた。そう言っていたときの泣き出しそうな笑顔を思い出すと、平野の胸がまた締め付けられるように感じたが、今の平野はそれが自分にはどうしようもないことなのだとわかっていた。自分の未練はどうにもならないのに平野の前に現れた優しい幽霊が抱えているものが、いつか昇華されればいいと祈りながら、平野は家路を急いだ。

     玄関の引き戸を開け、一番大きな靴が揃えて置いてあるのを確認して、平野は唇をきゅっと引き締めた。選ぶということは勇気がいるのだと、今更ながら認識した。しかし、決めてしまった今は、もう引く気はなかった。
     自分の靴を兄の靴の隣に揃え、居間へ行く。おかえりと声をかける兄弟たちにただいまと返して兄の居場所を聞くと、自室にいると薬研が教えてくれた。平野も自分の荷物を置いて、兄の部屋へと向かう。大人数の兄弟で暮らす平屋は襖を開けっ放しにしていることが多く、それは兄の部屋も変わらない。平野が室内を覗いたとき、兄は襖に背を向けて自分の背広をハンガーに掛けているところだった。そう遠くない距離を、平野は慎重に進む。そうして兄の服に手が届くところまで来ると、その裾を軽く引っ張って、いち兄、と久々に呼ぶ名前で兄を呼んだ。兄はすぐに振り返った。そうして自分を見上げる平野を見て少し目を丸くした後、「何だい? 平野」と柔らかい声とともに微笑んだ。そのときに、柔らかく細められた瞳の中で光が揺れたのを見て、この人は自分を受け入れてくれているのだと確信できてすっかり安堵した平野の両目からは涙がぽろぽろと零れてしまった。



     日がすっかり落ちた住宅街の一画にある小さな公園に、白い男は今日も立っていた。昨日会った少年のことを考えてたのだ。少年と会ったのは、昨日と一昨日だけだったが、その短い付き合いであっても、彼が帰った後で自分の思うような選択をできたのかが気にかかっていた。昨日は日暮れの時間にやって来たのだが、今日は来る様子がない。今日は通らないのかもな、と思ってすっかり暗くなった空を見上げた。街灯のすぐ近くにいるせいか、星は見えなかった。
     そのままぼんやり空を見上げていると、足音が近づいてくることに気づいた。革靴の歩く音が、少年が昨日帰っていった方向から聞こえてくる。そのまま上を向いて足音を聞いていたが、ふと足音は止まった。そこで上を向いていた顔を道路に向けると、懐かしい青年が立っていて、男は破顔した。
    「よっ、久しぶりだな」
     右手を軽く挙げて声をかけると、青年——少年の兄が、男を胡散臭そうな顔で見ていた。
    「うん、やっぱり君の弟だったんだな、一期」
     俺を胡散臭そうに見る顔が高校のときの君そっくりでな、顔立ちは似てないがそうだと思ったんだ!
     白い男はそう言いながら一期と呼ばれた青年に近づく。一期は男が言い終わるのを待つと、それはそれは深い溜め息をついた。
    「君、久しぶりに会う先輩にそれは酷くないか」
     男は楽しそうな声で一期に話しかける。一期が胡乱な目で男を見ると、そういう表情もそっくりだな!とけらけら笑った。一期は、この男が学生のときから変わっていないことに少し安心していた。会うのは久しぶりだったからだ。
    「平野から話を聞いているうちに、あなたしか思い浮かばなくなったんですが、やっぱりあなたでしたか、鶴丸殿」
     ようやく一期が笑う。苦笑いではあったが、その笑みを向けられた男——鶴丸は、繊細な印象を与える顔立ちには似合わないほどに口を横に開いて笑った。そういうところも、一期の記憶と変わっていなかった。
    「そうか、あの弟は平野と言うんだな」
     君の弟は多いからなぁ、と言いながら一期の肩を叩く。一期はふと真顔になると、鶴丸に向かって腰を深く曲げた。
    「弟がお世話になりました」
    「やめてくれ、世話なんてした覚えないぜ」
     鶴丸の困ったような声に一期は顔をあげる。そうして久しぶりに高校の一学年上の友人の顔を見ると、何から話せばいいのかわからなかった。
    「平野は、大丈夫だったか?」
     鶴丸の方は平野のことが気になって仕方なかったらしい。少し心配そうな声で一期に尋ねると、一期は今度は柔らかい笑みを浮かべた。
    「ええ、あまり甘えたりすることのない子で少し心配していたのですが・・・昨日は久しぶりに長く話せました」
    「そうか、それは良かった」
    「しかし、幽霊とは考えたものですな」
     鶴丸は曖昧に笑っている。それを見て、目の前にいるこの男が紛れもない生者として今話していることに一期が少し安堵したことを、本人には伝えないことにした。
    「それにしても、本当によくわかりましたね? いくら表情が似ているといっても、顔立ちはそんなに似ていないのに」
    「いや、表情もだが、話し方とかも似ていた。言葉選びとか」
    「そうでしたか……一緒に暮らしているとわからんものですな」
     一期が感心していると、鶴丸がにやりと笑う。
    「いやほんと、初対面で俺を不審者のように見る顔は高校で初めて会ったときの君そっくりだったぞ。その後の「何かご用でしょうか」も」
    「だってあなた不審者でしょう」
    「酷いな!?」
     鶴丸は心外だ、というポーズを作ってみせる。それに軽く笑った後、一期は真剣な顔で鶴丸の目を見た。
    「本当に、卒業してから一度も帰らず連絡もせず、何をしてらしたんです。東北に進学したとはお聞きしましたが」
     一期の視線に、今度は鶴丸が苦笑いした。こうなった一期が誤魔化されてくれないのはわかっていたが、鶴丸に説明できることはなかった。
    「普通に大学生やってたぜ。院生にもなったが」
     一期はじっと鶴丸を見つめたが、それ以上鶴丸が何も話さないだろうと判断すると、溜め息を吐いた。
    「歩きながら話しませんか」
    「それは良いが、どこへ行くんだ?」
    「鶯丸殿のお宅ですよ」
     いつも平野がお世話になっているので、そのお礼も兼ねて、と一期は左腕に持った鞄を少しあげてみせる。鶴丸は鶴丸で、平野は鶯丸の家から帰ってきていたのだな、と合点した。
    「本当に、鶯丸殿もあなたを心配してらしたんですよ」
    「いや、あいつに限ってそれはないだろ」
    「いえ、半年に一回はあなたの話をしていましたよ」
    「それは……結構な頻度だな……」
     あの鶯丸が、と鶴丸は素直に驚いていた。自分の同級生は、他人のことなど気にしない男だったからだ。
    「ええ、それであなたを連れてこいと言われているのですよ」
    「おっと、そりゃ驚きだ」
     鶴丸は愉快そうに笑う。
    「そういうわけですので、今日は安眠できると思わないでください」
    「は?」
     不穏な発言に鶴丸が一期の顔を見ると、一期はにっこり笑っていた。高校のときからまったく変わっていない笑顔だったので、鶴丸にはわかっていた。この笑顔は、ろくでもないことを考えている。
    「お覚悟」
     笑顔のまま一期が鞄から取り出した一升瓶を見て、鶴丸は自分の近い未来を憂いた。鶯丸はウワバミとは思えないが、二対一で確実に潰されるだろう。しかし、逃げ出す気も起きず、大人しく連行されることにした。懐かしい顔を見て、懐かしい話をしたい気分だった。
     ——俺は、幽霊だよ。
     自分の言葉が反芻される。自分の残した未練。選べなかったもの。それを懐かしむのも、それはそれでいいだろうと思った。
     さあ、と木々を揺らして、夜風が鶴丸の長い襟足の髪を撫でていく。
    「冷えてきたなぁ」
    「そうですね」
     そのうちすぐ冬になってしまうだろう。ますます幽霊が出ない季節になる。
     鶴丸は歩きながら、また空を見上げる。やはり星は見えなかった。
    生者の出奔


     記憶を辿っていったとき、いつも思い出すのは暗い天井だ。目を覚ましても真っ暗で周りはよく見えず、ただ天井がそこにあるのだと理解すると、幼い俺は今棺桶の中にいるのだと連想し、そして死を思い、泣き出したものだ。しかし、傍らには俺の嗚咽を聞きつけて、優しく頭を撫でてくれる兄がいた。小さい俺はその兄にしがみついて、背中を撫でる手に安堵し、再び眠りにつく——結局俺は、この優しい手の持ち主を内心では兄と慕いながらも、兄と呼ぶことはなかった。

     この暗くも優しい記憶は、いつもまどろみの中に訪れる——ちょうど、今のような。

     見慣れぬ明るい天井が見えて、鶴丸国永はその木目に見覚えがないことを動きの鈍い頭から導き出して二、三度瞬きした。腹も手足も重く感じられて、起きあがるのが億劫だった。軽い吐き気に、昨晩のことをゆっくりと思い出す。久しぶりに帰ってきた故郷で、懐かしい顔を見て懐かしい話をして、ひたすら酒を飲まされた。そうだ、あの少年、平野は弟として兄と過ごすことを選ぶことができたのだ、良かったな。吐き気とは違う暖かいものが胸を満たして、鶴丸は少し笑った。兄弟でいられるならば、兄弟でいるのがきっと良い。とりわけ、あんなにも互いを思いやっている兄と弟ならば。
     足音が聞こえてきて、鶴丸は重い体を引き起こす。動くと吐き気が増すように思えたが、堪えられそうだった。後頭部をぼりぼり掻いて思わずあくびすると、家主が静かに障子を引いて現れた。
    「起きていたか」
     意外だ、とも言いたげに少し目を大きく開いて、鶯丸が鶴丸を見る。鶴丸は腹の不快感を隠そうともせず、昨日共に飲んだ割にすっきりした顔の友人を恨めしげに見た。
    「さっき目が覚めたんだよ」
     声は掠れていた。酒と、昨晩大いに笑ったせいだと思った。鶯丸はその鶴丸の様子に声をたてて笑った。
    「朝食ができたが、食べられるか?」
    「……君、料理できたのか?」
     高校時代からは想像できないことだった。端から見れば失礼な反応だったが、鶯丸は気にせず薄い微笑をたたえたまま、簡単なものならな、と答えた。そういう他人の反応に振り回されないところも、高校のときから変わっていなかった。
     昨晩飲んでいた居間はきれいに片づけられており、そこで待っていろと言う家主に甘えて、鶴丸は机に体を預けて座り込んだ。鶯丸が運んできた朝食は、ご飯とシジミの味噌汁、大根下ろしのついた卵焼きに梅干しという質素ながらもしっかりしたものだった。美味そうだな、と思いながらもメニューが二日酔い仕様であることに計画的犯行を感じ取って、鶴丸はまた鶯丸の顔を恨めしげに見た。鶯丸はそれに気がつかないふりをして、鶴丸の向かいに座る。いただきます、と手を合わせて味噌汁に口をつけた鶴丸は、合わせ味噌の味が口内に広がるのを味わった後、椀の中身に目を落としたままぼそっと言った。
    「一期、酒強すぎないか」
     俺昨日いつ落ちたか覚えていないぞ、という言葉に、鶯丸は悪戯が上手くいった子どものように笑う。普段アルカイックスマイルを崩さないから大体の人間は誤解するが、この男の笑いは割とバリエーション豊富なのだ。
    「あいつはザルだからな」
     しかも笑い上戸で良い酒だし記憶もなくさない、と喉を鳴らして笑う鶯丸が卵焼きに箸を伸ばす。それを聞いて鶴丸は深い溜息を吐く。まだ呼気にアルコールが混ざっているような心地がした。
    「あいつの計画通りってわけか……」
    「いや、酒を持ってくるよう頼んだのは俺だ」
    「は?」
    「お前が酒に強くても一期と俺なら潰せると思ってな、一緒に潰そうと誘ったら思いの外乗り気になってくれた」
     ははは、と上機嫌で笑う鶯丸に、鶴丸の口元がひきつる。
    「お前を客間に運んでくれた上に片づけも手伝ってくれて、そして夜帰っていった」
    「ええ……」
     二日酔いとは別の頭痛を感じて、鶴丸は左手で額を覆った。高校生のときしか知らなかったから、友人の酒の飲み方も知らなかったのだが、瞼の裏の後輩の笑顔に薄ら寒いものを感じた。
    「俺はシジミの用意をするだけで良かったな」
     鶯丸はそのシジミの入った味噌汁を、上品な動作で口へ運んだ。鶴丸も言いたいことはあったが、恨み言を言うのは諦めて卵焼きに箸を伸ばす。薄味の出汁巻きで、重い腹には優しく感じた。
    「しかし、君も平野のことがよくわかったな?」
     椀を口元で持ったまま鶯丸は、上目で鶴丸を見る。
    「昨日も話したが、表情が一期によく似ているだろう」
    「いや、そうではなく、平野が考え込んでいるものがよくわかったなと」
    「ああ、そういうことか」
     梅干しをご飯と共に口に放り込んで、鶴丸は頭の中を整理する。
    「高校のときの一期は、ひとりで何でもこなそうとしただろ」
    「そうだな」
    「しかも、なまじそれをできる力量があるもんだから、ひとりで抱え込んでしまう」
     ふむ、と鶯丸は無言で頷く。
    「あれは弟だらけの責任感からそうだったんだろうが、平野を見たときに、弟としてそういう一期を見ていたらどう思うのかってふと思ったんだよ」
    「なるほどなぁ」
    「しかも一期によく似て責任感が強そうでしっかりしているじゃないか。それこそ一期と同じように、抱え込んでいそうだと思ったんだ」
     味噌汁を飲み干して椀を置くと、鶴丸は鶯丸の目を見た。本心が見え辛いのは、この薄い微笑に覆われた男も同じだった。
    「俺は君が平野を放っておくようには思わないんだが、君は平野をどうにかしてやれなかったのか」
     鶯丸は目を伏せる。微笑はそのままに、長い睫毛が影をおろす様は少し寂しげに見えた。
    「俺は、平野と一緒に茶を飲んでやることしかできないからな」
     俺が兄のように振る舞うのは違うだろう、と言うと鶯丸は残りのおかずを口に運ぶ。言葉は少なかったが、何を言いたいかはわかった気がして、鶴丸も何も言わず食事を進めた。
     食事を終えると、鶯丸が茶を入れてくれた。朝食を腹に入れたことで、二日酔いの気だるさはましになっていた。
    「まだしばらくこっちにいるのか?」
     両手で茶碗を持つ姿は高校時代にもよく見たものだ。こういうところも変わらないな、と思って鶴丸も茶を口に含む。相変わらず、鶯丸の入れる茶は美味かった。
    「今日向こうに戻る予定だ」
    「なんだ、そうなのか」
    「……もともと、気まぐれで来たんだ。そろそろ大学に戻らんとまずい」
     そうか、と鶯丸も茶碗を口に運ぶ。
    「まぁ、もし戻ってくるときは連絡をよこせば泊めてやるから、気が向いたら来るといい」
    「そいつはありがたいな」
     そうしてふたりで笑い合ってみると、友人が昔と何も変わっていないのがわかって嬉しかった。
     平野によろしく、と伝えて鶯丸宅を出ると鶴丸は駅へ向かった。コインロッカーに置いてある荷物を出すと、今暮らす街へ戻る切符を買う。この数日間、故郷に何があるかは大体わかっていたから、漫画喫茶で夜を明かしたり銭湯を使ったりしていたのだが、布団で寝た今日は肩も軽くなったように感じた。しかしわざわざ戻ってきた故郷で隠れるように過ごすとは、と鶴丸は自嘲する。ただ、最後の夜を楽しく過ごせたのは良かった。このおかげで今日は、昔のように腹に重いものを抱えたまま電車に乗らずに済むだろう。その昔を思い出して、鶴丸はふと足を止めて改札を見る。目の前に広がる改札のある風景は、以前にそれをくぐった春と何ら変わりないように見えた。そうしてまたしばらく帰ることはないだろうと思い、ひとつ息を吐くと、鶴丸は振り返らず改札を通り抜けた。



     鶴丸は自分と話す両親の顔を覚えていない。顔よりも、おぼろげに柔らかい記憶があるだけだ。両親の顔を見せてくれたのは、両親の事故死の後に鶴丸を引き取って育ててくれた母方の祖母だ。鶴丸を膝の上に乗せて、母の昔の写真を、そして父との写真を見せてくれた祖母の記憶も、鶴丸の心の柔らかいところの一部を占めている。この祖母に引き取られて苗字も父方の五条から祖母と同じ鶴丸に変わったのだと知ったが、同じ名を持った祖母との暮らしも長くは続かなかった。就学する前に訪れた祖母の死が、鶴丸の記憶の中では初めて直面した死であり、祖母が仕舞われていった箱が鶴丸にとっての死の象徴となった。その箱に入れられた祖母は燃やされ、少なくなった体をさらに小さい箱に移し替えられ、埋められていった。それを見送る自分の周りで、大人たちは死者の祖母を見るのと同じように鶴丸を見ていた。動かなくなった祖母より、その目の方が冷たく感じて恐ろしかった。幼い頃の鶴丸が夜の明かりを消した室内を怖がったのは、その暗さに箱に詰まった死を思い出すからだ。ただ、その部屋には生きている兄がいて、温かい手で鶴丸に触れ、心臓の音が聞こえるくらい傍にいてくれた。

     父方の親戚だった三条宗近と一緒に暮らすようになった経緯を鶴丸自身はよく知らない。祖母の死の後、経済的な理由から鶴丸をひとまず預かったのがこの三条の家で、祖母の死に誰とも口を利かなくなった鶴丸が一緒に暮らすうちに宗近には笑うようになったから引き取った、というのが宗近の兄たちから聞いたことだ。宗近も自分たちとは年が離れていたから弟ができて嬉しかったのだろうと、小さい鶴丸の頭を撫でてその兄たちも笑っていた。もっとも、当時の鶴丸には六歳年上の宗近も随分年が離れていると思えたのだが。
     当時の三条家は、宗近の兄たちは家を出ており、両親は多忙で家を開けることが多かったから、鶴丸の記憶ではあそこは本当に「宗近の家」だった。食事や掃除の世話をしてくれる人が雇われていたから厳密には宗近以外の人もいたのだが、当時の鶴丸の関心事の一番は宗近だったから、あまりよく覚えていない。宗近は美しい少年だった。出来過ぎていると感じるほど整った顔にはいつも柔和な表情が浮かんでおり、人を威圧するわけではないがどこか触れがたかった。その他人のものにはなりそうにない少年が鶴丸に笑いかけ、一緒にいてくれることは、鶴丸にとって当時一番の歓びだった。鶴丸が小学校に入学し、三条の家の周辺を覚えると、宗近が帰ってくる時間まで宗近の通学路にある小さな公園で待つのが鶴丸の日課になった。ぼうっと公園で空を見ながら待っていると革靴の足音が聞こえてきて、その足音が大股でゆったり歩く宗近のものであるとわかれば、鶴丸は駆けだして宗近の足許にまとわりついた。宗近は家にまっすぐ帰らない鶴丸を口先では叱りながら、いつも一緒に手を繋いで帰ってくれるのだった。

    「どうして宗近は俺と一緒にいてくれるんだ? 兄弟じゃないのに」
     ふと疑問に思って、鶴丸は聞いてみたことがある。そのとき、鶴丸はテーブルで本を読んでいた。宗近のやることを自分もやりたかったのだが、年の差のためにできないことがあまりに多く、ならば、と宗近と同じ歳になったときにできないことがないように、当時できることをなるべく何でもやっていた。そのために学校の勉強も手を抜かず、宗近に進められるまま本もたくさん読んでいたから、夜は宿題をする宗近に合わせて鶴丸も静かに読書したり自分の宿題をすることが多かった。
     テーブルの向かいで自分の宿題をしていた宗近は、鶴丸の突然の言葉に手を止め、目を丸くしながら鶴丸の顔を見た。いつも柔らかく微笑んでいることの多い宗近には珍しい表情で、鶴丸はその宗近から目を離せなくなった。宗近はじっと鶴丸の目を見た後、またいつもの微笑みを取り戻し、そうさなぁ、とペンを持った右手で頬杖をついて語り出した。
    「鶴は、俺と初めて話したときのことを覚えているか?」
     鶴丸を鶴、と呼ぶのは宗近の特権で、鶴丸はその呼び方を他の誰にも許していなかった。それほど鶴丸にとって宗近は特別な存在だった。
     宗近の問いかけに鶴丸は小さい頭に納まった記憶を探ってみるが、どうも見当たらない。この頃、目を引くものや覚えることが増えて、鶴丸の頭には毎日多くのものが仕舞われていっていた。それらに埋もれてしまったのか、思い出せず黙り込んでしまった鶴丸を見て宗近は声をたてて笑った。
    「お前がこの家に来たばかりのときだ。お前は俺の父親や母親には一言も口を利かなかったというのに、俺の顔を見ると目の色を変えてな。あまりにじっと見てくるものだからしゃがんでみれば、俺の頭を鷲掴みして、じーっと目を見てくるではないか。そうして目をまん丸にした後、くしゃっと笑って『君は目にお月さまがあるんだな』だ」
     宗近の深い青の瞳は瞳孔の近くは色が薄くなっていて、その部分は光の加減によっては黄色に見える。それが夜空の三日月に似ていて、そのときの鶴丸はそう言ったのだろう。言った本人は覚えていなかったが。
    「だから俺もお前のほっぺたをぷにぷにして、『お前の目も満月のようだなぁ』と言ったのだがなぁ」
     覚えていないか、と宗近は笑った。鶴丸はまったく覚えていなかった。覚えていなかったが、それが宗近の兄たちから聞いた、鶴丸がこの家で暮らすようになったきっかけなのだろうと思った。
    「皆、誰の顔を見ても人形のように表情を変えなかったお前が声をたてて笑っているので大層驚いてな、しかしほっとしておったよ」
     宗近の言っていることの意味がよくわからず、鶴丸は首を傾げる。宗近はその様子に笑みを深くした。
    「人間は誰でも、生きやすいところで生きるのが良いのさ」
     だからここはお前の家になって、俺とお前は一緒に暮らしているというわけだ。
     宗近はそう言うと、自分の前に広げたノートに戻っていった。鶴丸もわかったようなわからないような気分で、自分の手の中の本に視線を戻した。

     この頃の宗近との記憶が、鶴丸の心の、柔らかい芯の大部分だ。鶴丸はそのうち一人で眠れるようになり、宗近が高校、大学と進学すると生活時間も合わなくなって、夜一緒に過ごすことも少なくなった。そうするうちに、宗近以外が鶴丸の関心事に加わっていった。もちろん宗近が関心の外になったわけではなかったが、背丈が伸びるにつれて見えるものが増えれば、宗近以外にも美しいものはあった。宗近に追いつこうと勉学に手を抜かなかったのも、鶴丸が自分の新しい関心事を理解するのを手助けした。感じ、考え、理解するのは楽しかったし、知識や感覚を採集し、自分のものとするのは歓びだった。それは一人で暮らすようになった今も変わっておらず、それを教えてくれたのも宗近だと思えるほどだった。少年だった頃、どれだけ世界が広がっても、鶴丸の心の芯を作ってくれた人が鶴丸のすべての前提だった。すべての前に、宗近がいた。

     宗近は俺の一番の理解者だった、と電車に揺すられ一人暮らす街へ戻ってきた鶴丸は考える。窓の外の景色は、ここで何年も暮らすうちに見慣れてしまった。数日前にも見ていたその街を見て、戻ってきたな、と鶴丸は目を伏せる。故郷からこの街までの距離も、今となってはあっけなかった。



     鶴丸は宗近が通った高校に進学し、友人たちとふざけるように過ごすうちに三年生になった。月日が流れるのが早いことを、高校の三年間ほど実感したことはなかった。一年生のときに同じクラスになった茶の好きな友人に誘われてほぼ帰宅部のような茶道部に入部したり、二年生になったときに新入生の勧誘をしようと新入生代表の挨拶をしていた後輩に声をかけたら不審者を見るような目を向けられたり、愉快な出来事は多くあったが、ますます顔を合わす時間が減った宗近とはほとんど話さなくなっていた。どこからずれが生じたのか、どれだけ考えてみてもわからなかった。鶴丸にわかっていたのは、自分が宗近の後を追うように生きていたことだ。自分からそうしていたのもわかっていたが、その生き方を、自分の生であるのに自分の手の届かないもののように感じたのが、違和感の最初なのだと思う。宗近と長く暮らしてきた鶴丸のすべてにはまず宗近があり、しかしながら宗近は宗近自身のものだから、鶴丸には何もなかった。それは宗近のせいではなかったし、少年だった鶴丸は他の生き方を知らなかったからそうすることが自然だったが、自分は宗近のように生きるのだろうと思うと、やはり自分のものは何もないのだ、とも思えた。世界は多くのものでできているが、鶴丸が帰るのはあの家であり、そしてあの家で眠るのだ。この頃まどろみの中で、やはりあの暗い天井は墓場なのだ、俺はまだ生きているのに、と思って、一人で目覚めた鶴丸は人知れず目を拭った。墓場と思ってしまえば宗近の家にいることに息苦しく感じるようになり、そう感じることに罪悪感を持っていた。

     晩秋になれば三年生は自由登校になって、学校にいる受験生はまばらになっていた。鶴丸は家にいるより学校にいる方が気楽だったから、ほぼ毎日学校に顔を出していて、早々に推薦で進学を決めていながら「もう習慣だから」という理由で毎日登校してくる鶯丸に茶道部の部室で毎日のように茶を振る舞ってもらっていた。
     昼休み、人の減った教室より落ち着くという理由で茶道部の部室で昼食をとった後、鶯丸がわざわざ家から持ってきた茶葉で入れた茶と鶴丸が持ってきた菓子で一服していると、一期が現れた。
    「失礼いたします。やはりここにいらっしゃいましたか」
     よっ、と右手を挙げて挨拶した鶴丸を見て、一期が笑う。
    「先生が呼んでましたよ、鶴丸殿」
    「君、わざわざそれを伝えるためにここまで来たのか?」
    「先生に呼んできますよと言ってしまいまして」
     放っておいても問題ないだろうに、生真面目な後輩はそう言って笑った。鶯丸は新しい湯飲みを用意して、ドア付近に立ったままの一期に声をかける。
    「君も一杯飲んでいくといい」
    「茶菓子もあるぞ」
    「ではお言葉に甘えて」
     勧誘し続けて結局茶道部に入部させたこの後輩と、鶯丸と三人で過ごしてばかりだったのに、こうして三人で茶を飲むのも久しぶりだなぁと思いながら、鶴丸も茶碗を煽る。
    「進路のことで話があると先生はおっしゃっていましたが、鶴丸殿はどこの大学をご志望で?」
     両手で行儀良く茶碗を持った一期が伺うように鶴丸を見ている。一期も一年後に受験を控えているから、先輩の進路が気になるのだろう。
    「鶯丸と同じ大学だよ」
     そうでしたか、と納得した一期に、受験で使う選択科目の話や、参考書を譲る約束をしていると、昼休みはあっという間に過ぎていった。茶の礼を鶯丸に言いながら慌てて教室へ戻る一期を見送ると、それまでほぼ黙っていた鶯丸が口を開いた。
    「俺は、君は違う大学へ行きたいのだと思っていたんだがな」
     違ったか、と言いながら鶯丸は一期の湯飲みを片づけている。
    「……何故そう思う」
     いつもは何とも思わない鶯丸の静かな声に、自分の背筋に何か冷たいものが触れた気がした。
    「君、推薦をもらえる成績だったのにもらわなかったじゃないか。大方先生の話というのもそれだろう」
     話した覚えはなかったが、確かに図星だった。推薦を勧められたとき、「他に志望校があるから」と東北にある大学を教員に伝えながら、模試や進路調査票でその大学を記入しなかったから、教員はそれが気になるのだろう。学生の不安や悩みを放置するのが嫌な質のようで、そういう意味では良い教員だった。おそらく、鶴丸が決めかねていることに気づいているのだ。
    「まぁ、他人の言うことなど気にするな」
     自分がやりたいようにやればいいのさ、と言って友人は持ち前の上品な仕草で茶菓子を食べた。

     教員の話はやはり鶴丸の志望校のことで、東北のその大学も難関校ではあるが鶴丸の成績であれば今から準備しても可能性は大いにあること、そこを受験するのであればサポートすることを丁寧に伝えてくれた。鶴丸はその話を、どこか冷めた頭で聞いていた。教員が親身になってくれているのはありがたいことだとわかっていたが、鶴丸にとっての問題は偏差値だとか点数ではないことは、自分がよく知っていたからだった。
     自分が何かを決めなければならないとき、家の天井がちらつくようになったのはいつ頃からだったのか、これも鶴丸には今でもわからないことのひとつだ。その家とは鶴丸が育った宗近の家であり、天井とはあの死の象徴を思い起こさせる暗い天井だった。そこに住む宗近が、兄弟でもない鶴丸と一緒にいてくれるということは、成長しても鶴丸の心を温かなもので満たしてくれた。これまでと同じように、この家で宗近と一緒に暮らした方が良い。そう思うと、なぜだかあの暗い天井が迫ってくるような心地がして、鶴丸はやはり象徴化された死を思った。あの家で生きることが身動きがとれなくなることではないとわかっていても、あの暗い箱の中に押し込められるような気分になって苦しくなるのと同時に、その家を墓のように思う自分に悲しくなった。自分のすべてに等しい宗近との優しい記憶も、自分のせいで苦しいものに変えられてしまっているのだと、そう思うとますます宗近と顔を合わせられなくなっていた。そうしてひとりで毎日、自分はここで生きるのだと、自分に言い聞かせていた。

     返事を濁したまま職員室を退出すると、外はもう日が沈み始めていた。晩秋にきて夜は長くなっている。部室で本を読んでいた鶯丸を拾い、昇降口を出ると一期が二年の使う下駄箱にいた。自由登校になって学校行事なんて意識しないようになっていたから、テスト期間に入って部活動が禁止されていたことにも気づかなかったのだ。
    「我ながら薄情だよなぁ、三年近く通っているというのに」
     一期にテスト期間だと指摘されて、思わず口から出た言葉は真実だと思った。自分は薄情な人間なのだ。
    「まぁ、そういうものだろう」
    「そうですよ、受験でお忙しいですから」
     高校から見て同じ方向に三人の家はあって、そのまま一緒に帰ることになった。一番近くにある鶯丸の家に着く頃には日は完全に落ち、夜が街を覆った。二年のテスト範囲の話をしながら歩いていくと、幼い頃に宗近の帰りを待った小さな公園が現れて、鶴丸は思わず空を見上げた。秋の空は目立つ星が少なく、夜は寂しさが嵩を増す。鼻を啜ると、冷たい風が鶴丸の長い襟足の髪を撫でていった。
    「冷えてきたなぁ」
    「そうですね」
     風邪などひかないようにお気をつけください、と言った一期と公園の通りの角で分かれると、鶴丸は暗い道を一人で歩いた。こういうときに限って、宗近と手を繋いで帰ったことを思い出した。



     暗い道の先には、玄関灯の灯された家があり、その戸を開けて革靴が揃えられているのを見つけると、鶴丸は少し息が詰まる心地がした。大学を卒業して父親の事業を手伝い始めた宗近がこういう時間に家にいるのは珍しかった。
    「やあ、おかえり」
     宗近は昔鶴丸と囲んだテーブルに一人座って、本を読んでいた。そのテーブルには、ラップのかけられた食事がふたつ並べられていて、それを見て、鶴丸は宗近が鶴丸の帰宅を待っていたのだと気づいた。おそらく、話があるのだろう。
    「ただいま」
     返事をしながら、話を済ませてしまおうと、鞄を椅子の下に置いて鶴丸は宗近の向かいに座った。こうして向かい合うのは久しぶりだった。
    「珍しく早い時間に帰ったら、学校から電話がきてな」
     あの教員だと思った。余計なことを、と思ったが、顔には出さないよう唇を軽く噛むだけに留めた。
    「鶴、お前は家のことなんて気にしなくていいのだがな」
    「俺は自分で考えている」
     やはり柔和な微笑みを浮かべる宗近に、咄嗟に出た言葉は吐き捨てるようになって、鶴丸は視線を落とす。自分で考えているとは言いながら、こんな受け答えでは説得力がないだろうと、上手く取り繕えない自分に腹が立った。そして、取り繕おうとした自分に気づいて、思わず目を閉じた。
    「うむ、お前は頭の良い子だからなぁ」
     視線を上げることはできなかったが、宗近の声はいつも通り柔らかい。
    「なぁ、鶴。人間が本当に自分のものにできるのは、自分の頭に納まるものだけだと思わぬか」
     宗近は淀みなく話している。切羽詰まった自分と違い、余裕があるように思えて、そういう態度がなぜか腹立たしかった。
    「幸い、お前の頭はどうもたくさんのことを納めることができるし、お前もそれが苦でない質だろう。お前はきっと、いろんなものを見て、それを蓄えていくのが良いと、俺は思うのだがなぁ」
     お前の考えを聞かせてくれ、と言うと宗近も黙ってしまった。鶴丸は唇を噛んだまま、まだ顔を上げることができない。
     こういうときであっても、宗近は俺の一番の理解者なのか、と鶴丸は目眩を感じた。宗近は気づいている。自分がこの家を窮屈に思っていること、出て行きたいと思っていること。昔、まだ少年だった宗近が鶴丸に、「人間は誰でも、生きやすいところで生きるのが良いのさ」と言ったのを思い出した。かつて、鶴丸にとってこれほど生きやすい場所はなかった。だというのに、いつから、自分の墓場のように思うようになってしまったのだろう。鶴丸は今も宗近と一緒にいたかった。しかし、宗近とこの家で暮らすうちに、きっと上手く息ができなくなって、死んでしまうだろうとも思っていた。自分は宗近の傍にいるのが息苦しくなっている、それに宗近も気づいている。そして、宗近は、鶴丸がこの家から出て行くことを止めないのだ。
    「俺は、君の、何なのだろう」
     ようやく絞り出した声は、それだけだった。問いかけにしてはあまりに不躾で、鶴丸は俯いたまま宗近の答えを待った。秋の夜の、虫の音だけがしばらく聞こえていた。
    「……俺は、お前の兄になりたかった」
     宗近の声が少し震えているように思えて、鶴丸はやっと顔を上げた。宗近は少し眉を下げて、困ったように鶴丸を見ている。何を言おうか迷っているように見えた。
    「しかし、それはお前の枷であってはいけない。お前のことは、お前が本当に自分で選んで決めなければ・・・なぁ鶴、お前はお前でしかない。俺が俺でしかないのと同じだ。お前は俺に合わせて此処にいなくても良いんだ。もう、どこにでも行けるのだぞ」
     三日月の浮かぶ青い瞳が揺れているように見えて、たまらず鶴丸は席を立って、今来たばかりの玄関に行き靴を履くと、そのまま外へ出た。

     暗い道を、鶴丸は早足で歩いている。そうせずにはいられなかった。家を出てからずっと、選ぶことは選ばないことだ、という言葉が頭から離れなかった。
     ——そうだ、選ぶことは選ばないことだ。俺は、あの家を、宗近を選ばない。
     墓場とまで思っていた家は、早足で歩くうちに遠くなっていた。しかし、もっと遠くへ行きたかった。自分の知らないもの、自分を知らないものがあるところへ行ってしまいたかった。
     頭の中に、宗近の顔や、言葉や、自分が何者なのか、どうしたいのかがぐちゃぐちゃに絡み合って、たまらず鶴丸は走り出した。長くは続かない疾走とわかっていても、足が止まらなかった。幼い頃に見上げた宗近の顔や、その顔が年を追う毎に近くなるのが嬉しかったこと、宗近と一緒にいたかったこと、でもいられないこと、自らを生きるためには宗近と一緒にはいられない、選ばないことしか選べないのだと、多くの痛みが脳裏をひたすら回っていたが、走っていれば呼吸がままならず、体の痛みがあるからまだましだと思えた。
     宗近のいない世界は、きっと寂しいものだろう。しかし、それでも、美しいものがあることを、鶴丸は既に知っていた。
     鶴丸国永は走っている。暗い夜道を一人で、喉がひりついて、上手く息は吸えず、胃が胸を押し上げるような心地がした。目の奥も腹の底も熱いのに、濡れた頬だけが風を受けて冷たかった。
     今、自分には何もない。何もなくなってしまった。ずっと頭の底を占めていた、心の芯を形作ってくれた人は、選ばないと決めてしまった。だから視界が滲む中で、この呼吸の苦しさと胸の痛みだけが、自分の生を教えてくれる、自分だけのものだった。
    二等星のための葬列


     あの青いのがおおいぬ座のシリウス、全天で一番明るい星。その近くにこいぬ座のプロキオン、オリオン座の赤いベテルギウス。この三つで冬の大三角。オリオン座は一番見つけやすい、その真ん中あたりの三つ星を挟んで、ベテルギウスの対角で青白く光るのがリゲル。そのリゲルから、ベテルギウスの方向へと視線を動かしていくと見えるふたつの星がふたご座の、赤い一等星の弟ポルックスと白い二等星の兄カストル。またオリオンに戻って、その左腕に当たるところの先にはおうし座のアルデバラン、そのさらに先にはプレアデス星団こと昴。アルデバランとカストルの間、ベテルギウスを挟んでシリウスと逆側に見えるのが、ぎょしゃ座の赤いカペラ。プロキオン、シリウス、リゲル、アルデバラン、カペラ、ポルックスを結べば、ベテルギウスを囲む形で冬の大六角形、またの名を冬のダイアモンドができる。

     大学から家までの道はとっくに暗くなっている上に、そんなことでも考えていないと寒くて仕方がないから、光忠は漏れる息が白いのを気にしないようにしながら、星の名前を思い出していた。冬の空に、星の名前をひとつひとつ確かめながらそれを見ていくのは、小さい頃からの癖だった。提出期限の近くなった修論で忙しい頭でも、この癖は抜けないらしい。光忠にこの星々の名前を教えてくれた年下の幼なじみは、同じく卒業研究で今忙しいと言っていた。
     ただそれを聞いたのも一ヶ月くらい前で、同じ大学なのに面白いくらい会わないな、と思いながら、光忠はまだ空を見ている。オリオン座の傾きからして、光忠が向いている方向が南らしい。ということは、光忠の背の向こうには、北極星があるのだ。一年中ほとんど位置の変わらない、黄色い二等星。それを目印に、人は自分の現在地を見定め、進むべき方向を判断してきた——この話も、幼い頃に幼なじみが教えてくれたことだ。
    「わっ」
    「うわぁ!!」
     突然背中を押されて、光忠はみっともない声をあげた。反射的に振り向くと、白い男が満足気に笑っている。
    「どうだ、驚いたか?」
    「やめてよ、鶴さん」
     ひとつ年上のこの男は、子どものように人を驚かせて楽しむ癖があって、同じ学部で仲の良い光忠は学部生の頃からよくその餌食になっていた。今回も、光忠の反応にご満悦らしい鶴丸は、小綺麗な顔に似合わないほど、くしゃりと顔を歪めて笑っている。
    「いや、君の後ろ姿が見えたもんだからな、つい」
    「時と場所を選んでよ、夜道でそんなことされたら変質者かと思って裏拳入れちゃうかもしれないじゃないか」
    「それはやめてくれ。そもそも君みたいな大男を狙う変質者なんているのか?」
     笑顔を控えた鶴丸は、わざとらしく表情を取り繕って光忠にそう言うので、光忠もわざとらしく笑ってみせる。
    「鶴さん、どうしてもって言うなら、僕は喧嘩を買うよ?」
    「悪かった」
     鶴丸は軽く両手をあげて、降参のポーズをしてみせた。わざとらしい会話も、お互いの呼吸をよくわかっているからこそ、こうして冗談になる。光忠は神妙な顔をしてみせる鶴丸に、軽く声をあげて笑った。これは、わざと取り繕った笑いではなかった。
    「何を見ていたんだ?」
     何か見えるのか、と鶴丸は光忠の隣に並んで、先ほどまで光忠がしていたように空を見上げた。鶴丸はよく見かける白いコートと、左手にコンビニの小さな袋をひっかけているだけの姿だった。靴もよく履いている黒革のブーツで、散歩でもしようと外に出てきたのだろう。
    「星を見ていただけだよ」
    「へぇ、さすが宮沢賢治を専門としているだけあるな」
    「ふふ、そうかもしれないね」
     光忠が曖昧に笑うのを聞き流して、鶴丸は「俺はもうオリオンくらいしか覚えてないなぁ」と長閑な声を出した。
    「えーっと、シリウス、ベテルギウス、プロキオンで大三角だったか」
    「そうそう。冬の星は華やかだからね、覚えやすいよ」
     そんなことを話しながら、ふたりは歩き出した。それぞれが住む家までは、ここから途中まで道が同じなのだ。
    「シリウスはやっぱり明るいな」
    「そうだね。一番明るい星だしね」
    「そうか。君はどれが好きなんだ?」
     星にもいっぱいあるが、と右手の人差し指で天球をくるりと指し示すように動かしながら鶴丸が訊ねるのに、光忠は、そうだなぁ、と考えるふりをする。本当はわざわざ考えなくても、ずっと昔から一番好きなのはひとつだった。
    「どれも好きだけど、あえてひとつ決めるなら北極星かな」
    「そりゃまた何で」
    「いつでも、ずっとあるから、かな」
     ふぅん、と興味があるのかないのか、鶴丸は空をまた見上げる。
    「えーっと、こっちは南か」
    「そうだね、北はあっちだ」
     そう言いながら、ふたりは振り返った。北の空も同じように、いくつか星が光っている。今日はよく晴れていたから、建物に隠れる際の部分まで星が光るのが見えそうだった。
    「あー、北極星は、どれだっと」
    「今の時期はカシオペアから探した方がいいかな」
    「カシオペアは、M字形のだったか」
    「うん。ほら、あれだよ」
     光忠が空の星をなぞって、潰れた形のMを指先で書くのを覗くようにしながら鶴丸も頷く。
    「で、このMの両端の二辺があるだろう」
    「ああ」
    「このふたつを延長すると、交点ができる」
    「ふむ」
    「その交点と、Mの中心の星を結んで、そのまま五倍くらい伸ばした先にある黄色い星が北極星だよ」
     ほう、と感心したような声をあげながら、鶴丸は北の空を見つめる。光忠が言ったとおりに北極星を探しているらしい。その横顔が無垢とすら感じるほど真剣なのを見ると、光忠は不思議な気持ちになった。鶴丸という男は、いつも飄々としてふざけていることが多いのに、何かを知ろうとするときは、それがどんな小さなことであっても茶化さないで真剣に取り合うのだ。
    「おっ、あれか」
     北極星を見つけたらしい鶴丸は、歓びの声をあげた。今度は光忠が、鶴丸の指さす先を覗くような格好になる。
    「うん、多分合ってる。その黄色い二等星が北極星だよ」
    「へぇ、二等星なのか」
     鶴丸はしみじみとその二等星を見た後、光忠の方を向いて、にっと笑った。それで、光忠も鶴丸と、また家路の続きを歩き出した。
    「君は、星が好きで宮沢賢治に興味を持ったのかい?」
    「うーん、どうだったかな。元々本は好きだったんだけど」
     もちろん『銀河鉄道の夜』も、と付け足しながら、光忠は中空を見る。
    「でも、星の名前を知ってるのは伽羅ちゃんのおかげかな」
    「ああ、幼なじみだったな」
    「うん。伽羅ちゃんの方が、元々星が好きだったんだよね。僕は、伽羅ちゃんから聞いていたことに宮沢賢治の話がくっついちゃったって感じかな。補強されちゃったというか」
    「はは、なんとなくわかるぞ」
    「僕の星の知識は大体、伽羅ちゃんから聞いたものだなぁ。まぁ本人は、星からいつの間にか物理学に行っちゃったんだけど」
    「今は卒業研究だったか、伽羅坊は」
    「そうだね、多分」
    「多分?」
     鶴丸は目を丸くして光忠を見上げた。光忠はそれに、苦い笑いを返す。
    「僕も修論があるし、最近全然会わないんだよね」
    「そうか」
     鶴丸はそう応えると、また前を向いた。今度は光忠がその横顔に話しかける。
    「今日はよく僕の話を聞くね? 鶴さん」
    「なんだ、俺はいつも話は聞くだろう」
    話“は”、という言い方は気になったが、それは今は些末なことなので放っておく。
    「確かに聞いてくれるけど、話すに任せるって感じで、今日みたいに自分からいろいろ聞くのは珍しいじゃないか」
    「そうだったか?」
    「そうだよ。星はともかく、人の興味とか人間関係とか、自分からは聞かないだろう、鶴さんは」
    「うーん、そうかぁ」
     軽い気持ちで話し始めたのが、鶴丸の声が嘆息混じりになったことに光忠は、おや、と思って鶴丸の顔を見た。鶴丸も光忠を目で窺いながら、どこかばつの悪そうな表情をしていた。
    「……何か、あったのかい?」
     鶴丸が、秋の暮れに数日姿を消したことは光忠も知っていた。鶴丸の指導教員は元々鶴丸から欠席の連絡を受けていたそうで、大して問題視されたわけではなかったが、帰ってきた鶴丸の姿がどこか寂しげに見えて、光忠は少し気になっていた。秋だしな、などと詮もないことを思ったりもしたが、話しかけてみればそれまでと同じように軽妙な返事がくるので、訊ねることもなく、もう十二月になっていた。
     鶴丸が光忠の質問に曖昧な返事をするうちに、分かれ道に着いた。光忠も、どうしても鶴丸に口を割らせようという気概は今夜は出なかったから、とりあえず鶴丸の方を向いて、
    「ね、鶴さん、僕の修論が終わったらまた一緒にご飯を食べようよ」
     僕がまた作るからさ、と笑いかけると、鶴丸もそれに笑顔だけを返した。
     そうして手を振り合って、分かれた道の先で、鶴丸の細い背中が歩いていくのを見送る。遠ざかっていく白い後ろ姿が幽霊みたいだと光忠には思えた。夜に浮く白い服からの連想だったが、すぐに失礼だし季節外れだな、と思い直した。幽霊の相応しい夏はとっくに消え去り、今はもうその名残は欠片もなかった。



     光忠は、自分の家の引き戸を開けながら、小さく「ただいま」と呟いた。返事がないのは知っていたが、幼い頃からの習慣は抜けなかった。星を見ることといい、返事のないこの挨拶といい、自分にどれだけの幼い頃からの名残があるかと思うと、つい笑ってしまう。それは可笑しく思えるからでもあったし、少し寂しく思えるからでもあった。
     光忠の暮らす家は、光忠の育った家であり、元々は祖父母が暮らしていた家だ。母が事故で亡くなり、父は仕事で忙しかったから、光忠は祖父母の許で、当時お隣に住んでいた年下の幼なじみと共に少年期を過ごした。幼なじみの大倶利伽羅は、その当時から無口で、人と積極的に関わろうとはしなかったが、母と一緒に事故にあって右目を悪くした光忠にとっては、その大倶利伽羅の距離感は心地よかった。祖父母も大倶利伽羅が物静かなのは彼の個性として、大人たちがよく持っている子どもらしさの美徳を彼に押しつけることはなかったから、両親が仕事で忙しかった大倶利伽羅は、光忠の家で過ごすことが多かった。
     大倶利伽羅はあまりしゃべらなかったが、聡明な子どもだった。光忠は年下の彼に、学校では深く学ばないような星の名前や、動物の習性を教えてもらうこともあった。光忠が物語を好んだように、大倶利伽羅は図鑑を好んだらしい。自分たちの興味を補い合うように、ふたりは育ってきた。
     それを見守っていた祖父が高校のときに、祖母が学部生の頃に亡くなると、遠くに単身赴任していた父は光忠にこの家を守るように頼んだ。ひとりにさせて悪いな、と少年の頃から何度も聞いた謝罪に、気にしないで、と光忠はそれまでと同じように笑って、変わらずこの家で暮らしている。勝手知ったる我が家であったし、生活に必要な家事は祖母に仕込まれていたから、光忠は自力で生きていく自信があった。その自信は自分を裏切ることなく、現在も光忠はひとりで暮らしている。
     ただ、どうにもひとりに慣れなくて、両親の引っ越しと進学を期にひとり暮らしを始めていた大倶利伽羅に、冗談めかして「一緒に暮らすかい?」と聞いたことがある。そのときは、祖母を亡くしたばかりで、大倶利伽羅は光忠に誘われてこの家に夕飯を食べに来ていたのだ。何も言わずに家に来た彼は、おそらく祖母を亡くした自分を気遣ってそうしてくれたのだろう。ふたりで、祖母と同じ味がする光忠の手料理を食べて、そのときに大倶利伽羅に軽い口調で同居を打診した。大きくはない家だが、ふたり暮らすのには十分だったし、幼い頃からよく知る者同士、デメリットは見当たらなかった。
     しかし、大倶利伽羅はそれに「遠慮する」とだけ応えて、何もなかったかのように箸を進めた。光忠も何となく断られるだろうと思っていたから、「だよね」だとか何とか返して同じようにご飯を食べた。大倶利伽羅は何も言わずとも、箸の進みで料理をどう思っているのかわかるので、後はそうした料理のことばかりを話題に出したと思う。大倶利伽羅は優しいし、光忠に遠慮のない近しい人間だったが、安易な同情で自分の主義を曲げたりはしなかった。光忠も、それをわかっていた。
     その大倶利伽羅も、今は「俺ひとりで十分だ」と言いながら市内のアパートでひとり暮らしをしている。作りすぎたおかずを渡そうとすると複雑そうな顔をしながらも律儀に受け取るのが面白くて、何度か料理を渡してみたが、あまりに頻繁に渡すと苦々しい顔を隠さなくなるので、最近は時期を見計らって、時々渡すようにしている。遠慮しないでもらっときゃいいのにな、とは昨年の今頃修論に追われて光忠にご飯を集りに来た鶴丸の談だ。

     鶴丸は光忠の進学した学部の一学年上に在籍していて、学科は違ったが何かの拍子に話して、気があったために今も仲良くしている。
    「君は何というか、見た目と性格にギャップがあるな」
     細身の体に小綺麗な顔の真っ白な男は、一見儚げではあるが、悪戯好きで大抵はざっくばらんな物言いをした。そのギャップに光忠は最初目を丸くしたが、鶴丸の方もそうだったらしい。
    「そう、ですか?」
    「あー、そんなに畏まったしゃべり方しなくていいぜ。タメ口でいい」
     俺は直接の先輩でもないし、と笑った鶴丸の言葉に甘えて、それ以来ふたりで話すときは砕けた口調になった。
    「まぁ名前の方も好きに呼んでくれ」
    「えっと、じゃあ、鶴さん?」
     彼の苗字の一文字からそう言うと、鶴丸はわずかに頬を強ばらせた。しかし、そのことに光忠が言及する前に、「それでいいぜ」と口を大きく横に伸ばして笑ったので、結局このことについては今も訊けないままだ。
     鶴丸は、飄逸とした物腰に軽妙な物言いで誰とも特別距離を開けることはなかった。ただ、同じように、特定の誰かと近くなることもないようだった。光忠がそれに気づいたのは、彼がいつも他人の話に耳を傾けるばかりで、自分のことを多く語ろうとはしないからだった。自分は彼のことをどれだけ知っているだろう、と思って鶴丸をよく見てみると、自分のことは極力語らず、そして他人の事情も自分から掘り下げていくことはないようだった。他人と共有する情報は少ないのに、それを物腰と物言いで取り繕っているのだ。光忠はそれに気づいたとき、気分を害するというよりは、単純にその器用さに驚嘆した。そして何が彼にそうさせているのか、それに興味を持った。
     正直言うと、光忠にとって、その鶴丸の態度は心地よかった。彼は自分を人に明け渡さない代わりに、人に何も要求しないのだ。それは見ようによっては冷たいのかもしれないが、徒に心を磨り減らすよりそちらの方が賢いように思えたし、鶴丸は決して不誠実ではなかった。
     ただ、寂しくないのかな、と思うことはよくあった。彼は殊更孤独を主張することはなかったが、誰とも特別親しくない分、どうやってもひとりに見えた。
     ——これも、余計なお世話かな。
     眠る準備をしながら、光忠はぼんやり考える。自分が世話焼きな気質であることの自覚はあった。これは、無口な幼なじみと接していくうちに育てられた気質だろうと自分では思っていたが、世話を焼かれるのを疎ましく思う人もいるだろう。たとえば、その幼なじみのように。
     長い付き合いだからこそ、光忠は大倶利伽羅が自分と暮らすのを断ったわけをわかっていた。彼は、自立するというのがどういうものかをよくわかっているのだ。光忠を嫌っているのでは決してないけれど、おそらく光忠とずっと一緒にいることは、彼のひとりで生きる自由を邪魔するだろう。彼もまた、ひとりで生きようとしている。誰がその自由を邪魔できるだろう。光忠は、自分で選び、決めることを重んじる幼なじみの気質を尊重したかった。
     皆、ずっと一緒にいられるわけではないのだ。大倶利伽羅がひとりを好むように、鶴丸も自由を好むだろう。彼らは、きっとひとりで歩いていける。自分もそうできないわけではないけれど、今まで自分の傍にあったものがいつか離れていくことを思うと、光忠は暗い夜道にひとり、行き先も現在地もわからないまま放り出された気分になる。
     これは深く考え出しても埒があかないのをわかっていたから、寝てしまう前に修論で使う資料の整理に集中することにした。機械的にできる作業が、暗い夜が忍び寄ってきたときの、良い対処法だった。

     自分の指導教員に論文の写しを渡して、ひとまず落ち着いたな、と意識すると光忠は深く息を吐いた。白い息が目の前に広がって、すぐに消えていった。冷たい空気は刺すように頬や耳に触れたが、肺に満たすと何か清らかなもののように思えるから不思議だった。それを感じながら、光忠は軽くはない足取りで大学を出ようと門へ向かう。ちょうどその門の手前に、見慣れた白い後ろ姿を見つけて、光忠は少し早足で近づいた。
    「鶴さん!」
     白い男は、寒さで頬と鼻の頭を真っ赤にしながら、こちらに振り向いた。光忠に気がつくと、繊細な面立ちに似合わないほど口を広げて笑って、片手をひらひらと振った。
    「修論か?」
    「うん、さっき教授に渡してきたから、後は返事を待って提出」
    「余裕の提出だな」
    「修論も格好良く決めたいよね」
     はは、と鶴丸は声をあげた。
    「鶴さん、今日は何か用事はあるの?」
    「いや、ないぞ。飲むか?」
    「やった、スーパーに寄ってうちで飲もう」
     そのまま歩き慣れた道をふたりで歩くと、年の瀬の街は気怠い賑わいを見せていた。買い物を終えてスーパーから出た頃にはもう日が落ちようとしていて、星がいくつか見え始めたのを見て、一番星だな、と鶴丸が呟いた。



     光忠の家の、古き良きといった佇まいの居間に置かれた座卓に、たくさんの料理が並べられるのを見て鶴丸は感嘆の声をあげながら目を輝かせた。
    「鶴さんは本当に良い反応をするよね」
    「そりゃ、この料理を見ればな」
     そわそわと落ち着かない様子で料理に目を落としていた鶴丸は、光忠が向かいに座ったのを見ると、手元に置いていた袋から缶ビールを取り出して光忠に渡した。
    「じゃ、修論お疲れさん」
    「ふふ、ありがとう」
     乾杯して、酒を一口飲んだ鶴丸は早速手前にあった料理を口に運んで、飲み込むと、「美味い」と言って頬を緩ませた。それに光忠も笑って返す。
    「伽羅坊は来ないのか?」
     箸は止めずに光忠を窺う鶴丸に、光忠は目を伏せる。
    「卒業研究で研究室から離れられないみたいだね」
    「理系は大変だな」
    「そうだね」
     以前、構内で見かけたとき、少し頬から肉が落ちていたように見えた。きっと気が回らなくて、食事が後回しになっているのだろう。
    「年越しはここに呼ぼうと思ってるんだけどね」
    「そうか」
    「鶴さんも来るかい?」
    「そりゃいいな、お邪魔しようか」
     君の料理が楽しみだなぁ、と鶴丸は緩い笑いのまま、酒を煽る。そのまま缶ビールのラベルを見ながら、少し意外だな、と呟くので、光忠は口に含んだ料理を咀嚼しながら、目で続きを促す。
    「なに、俺が勝手に思っていただけだが、君は伽羅坊にもっと世話を焼くものと思っていたからさ。割と放っておいているんだな」
    「そりゃ、伽羅ちゃんも子どもじゃないからね」
    「言うねぇ」
    「そうかい? でも伽羅ちゃんは無理しないタイプだから大丈夫だよ」
    「伽羅坊のことをよくわかっているんだな」
    「そりゃね」
     鶴丸は料理を口に運ぶと、それをゆっくり飲み込んで、ぽつりとこぼした。
    「君たちは兄弟みたいなんだな」
    「え?」
    「兄弟みたいに、互いのことをわかっている」
     伏せられた睫毛が長いのを、光忠は初めて見たような気持ちになって、じっと鶴丸の顔を見ていた。目を伏せていると、人形じみた精緻さがあった。
    「・・・僕たちは兄弟にはなれないよ」
     光忠は自分の缶を口に運んだ。鶴丸は静かに視線を上げて、光忠が箸を動かすのを見た。
    「きっと兄弟だったら、鶴さんが言ってたみたいに、僕は伽羅ちゃんの世話を焼きに行ってたと思う。でも、兄弟じゃないから、そんなに踏み込めないよ」
     そこまで聞くと、鶴丸は自分の手に持っていた缶の中身をすべて飲み干した。新しい缶を出したとき、光忠の缶も空になったようで、何も言わずに光忠に次を差し出す。光忠はそれに、ありがとう、と笑った。
    「前に、俺がいなかったときがあっただろう」
     鶴丸は口元に缶を近づけたまま話し始めた。光忠はそれを、自分の酒を飲みながら聞いた。
    「故郷に帰っていたんだ。何年かぶりだったんで、昔よく行った場所でぼうっとしてたら、知らない子どもに会ってな」
    「へえ」
    「特に何も考えずに話しかけたんだが、変質者と間違えられたのかものすごく警戒された」
    「ちょっと、それ大丈夫だったの」
    「まぁ大丈夫だった。話してるうちに、その子が俺の知り合いに似ていることに気づいて、弟が多いやつだったから、その弟のひとりだろうと踏んで話してたら正解だったんだ」
    「危ないことするなぁ」
     違ったらどうするつもりだったんだい、と呆れた声を出す光忠に、鶴丸は笑うと、自分の酒をまた煽った。今日はやけに飲むな、と思いながら、光忠も自分の缶の中身を減らしていく。
    「その知り合いってのは俺の高校の後輩なんだが、その子はその兄に気を使い過ぎて、ろくに話せなくなっていたんだ」
    「気を使うって?」
    「本当に男兄弟だらけの大家族でな。自分の弟たちが甘えるから、自分は甘えないように我慢していたらしい」
    「はぁ、兄弟がいるっていうのも大変だね」
    「まったくだ」
     料理をつまみながら、鶴丸も自分もいつもより早いペースで酒を空けていることには気づいていたが、止めないことにした。光忠は自分の頬が熱くなっているのを感じていた。鶴丸の白い顔も、赤くなってきている。
    「しかし、久々に高校の知り合いと会って楽しかったぜ。やたらと飲まされて潰されたが」
    「はは、災難だったね」
     光忠の覚えている限り、鶴丸が故郷へ帰っていると聞いたことがなかった。前々から、大学に来なくなるときがあったが、そのときは帰ってきてから、どこそこに行っていた、と本人が土産話を聞かせてくれたから、どこに行ったのかは大体知っていた。「故郷に行っていた」というのは、今初めて聞いた。
     光忠は酒を飲み込んで、思わずふと呟いた。
    「やっぱり鶴さんが自分の話をするのは珍しいね」
     鶴丸は酒気で赤くなった顔で、光忠をじっと見た。その目が、光忠が何を考えているのかを窺うように、少し悪戯に光っているので、光忠も目を細める。
    「鶴さんは考えたことないかもしれないけど、大学で僕にこの目のことを聞かなかったのは鶴さんだけなんだよ」
     光忠は長く伸ばした前髪で隠した右目を指さす。大抵は目を隠していることを聞かれたときに、小さいときに事故で、と答えてそれで終わりだ。大概の人は光忠を気の毒そうに見て、謝ったりするので、光忠はそれを笑って受け流すのだ。
    「誰かから聞いたからわざわざ聞かなかっただけだぜ」
    「うん、でも、鶴さんって自分から人のことを知りにいかないだろう」
     鶴丸は座卓に、酒の缶をいくつか並べ出した。もう自分で取って渡すのが面倒になったのだろう。光忠は並べられたそれから、さっそくひとつ取って、プルタブを引いた。
    「その代わり、自分のことも積極的には話さないからさ。・・・僕が勝手に思ってるだけなんだけど、人に踏み込まれたくないところがあるのかと思って」
     鶴丸も新しい缶のプルタブを引いたが、それを起こしたところで手を止めた。そのまま、その缶に視線を落としたまま黙ってしまったのを見て、光忠は失敗したかな、と思った。余計なお世話を焼いてしまっているのかもしれない。
    「……それは、君こそそうじゃないか」
     少し空気が静かになった気がした。閑静な住宅街にある家には、窓の外もしんとしている。
    「君こそ、何か言われてもにっこり笑って、それ以上踏み込ませないだろう。別にそれが悪いって言うつもりはない。だが、そんなことを思うのだって、自分に思うところがあるからじゃないのか」
     鶴丸が言い終わると、まったくの沈黙がしばらく流れた。ふたりは向き合って座っているのに、互いを見ていなかった。
    「そうかもしれないね」
     その沈黙が、光忠の腹の内と同じように静かだったので、光忠の口からは自然と肯定がこぼれ出た。鶴丸がこちらの顔を窺う気配を感じながら、光忠は手の中の新しい酒を煽った。
    「僕は、格好付けなんだよ」
    「……関係あるか?」
    「あるよ。格好付けだから、人にペースを乱されるのが嫌なんだ」
     取り繕えなくなっちゃうだろ、と光忠は穏やかに笑った。
    「……君は本当に格好良いな」
    「今気づいたのかい?」
     おどけて笑ってみせる光忠に、鶴丸もいつものくしゃっとした笑いを返した。
    「そういうことを、言えてしまうのがな」
    「ふふ、褒められているのかな」
    「褒めているさ」
     持っていた缶を置いた鶴丸がまた目を伏せるのを、光忠は新鮮な気持ちで見ている。知らない顔だった。
    「俺は時々、自分が幽霊のように思える」
     低い声は滑らかに語り出した。光忠はその告白を、なぜだか敬虔なものを前にした気分で聞いていた。
    「生きていると、選ばないといけないだろう。生きることは選択の連続だ。どれかを選べば、必ず選べないものも出る」
    「キルケゴールかい?」
    「そういうわけじゃ……いや、そうかもしれん。俺は専門じゃないが」
     上目に光忠を窺った鶴丸の顔には自嘲が確かに浮かんでいたのに、視線を下ろしてしまえばまた静謐な顔だった。
    「本当に自分のものになるものなんて、自分の頭に納まるものだけだ。だから、選ばないといけない。自分の頭に何を入れておきたいのかを、自分で——」
     何も見ていないような目だった。もしかしたら、鶴丸は今、彼の頭に納まっているものを見ているのかもしれなかった。
    「しかし、選べないものもあるだろう。選ばないことしか、選べないようなものも」
     酒気で潤んだ金色の目が、光忠には揺れているように見えた。
    「そういう、選べなかったもののことを考えることがある。選びたくても選べなかったものを——俺は、時々自分を、その選べなかったものを未練に留まっている幽霊のように思えるんだ」
     どうしようもないんだがな、と笑う顔は泣き出しそうに見えて、ひどく人間臭かった。
    「昔の自分が、墓みたいな場所から化けて出てくるんだよ」
     例え話のようなそれを語り終えると、鶴丸はまた酒を煽った。きっと話さずにいられなかったのだろう。光忠も手の中の缶に目を落として、何かを言おうとする。酒のせいか上手く考えがまとまらず、代わりにずっと思っていたことが舌に滑り落ちた。
    「——鶴さん、僕はね、小さいとき、伽羅ちゃんの兄弟になりたかったんだ」
     鶴丸は目を大きく見開いて光忠を見つめたが、視線を落としたままの光忠はそれに気づかなかった。気づかず、酔っぱらった舌で話を続ける。
    「家がお隣で、勝手に自分の弟みたいに思ってたんだ。伽羅ちゃんは積極的に人と話す子じゃなかったから……でも昔から頭が良くて、僕だけがそれを知ってるんだって、妙な優越感を持ったりしてた」
     今いる部屋で、ふたりで小さな体を寄せ合って図鑑を広げたり物語を読んだりしたことを思い出していた。それは光忠が、今の光忠になるまでの、優しい記憶だった。その記憶の大部分に、大倶利伽羅がいるのだ。
    「でも、伽羅ちゃんは、それは正しくないって知ってたんだ。いや、別に間違ってるわけじゃないんだろうけど……でも、僕とずっと一緒にいるのは、伽羅ちゃんのやりたい生き方じゃなかった」
     話しながら、自分がどこにいるのかわからなくなっていた夜を思い出していた。しかし、今は、オリオン座の傾きから方角を知るような明確さで、答えが見えてくるのを光忠は感じていた。
    「伽羅ちゃんは選んだんだ。自分がどうするべきか、ちゃんとわかっていた——多分、僕がどうするべきかも」
     幼い頃に、大倶利伽羅が光忠に教えてくれたのだ。天の北極にごく近い黄色い二等星は、いつでもそこにあって、自分の場所を、行くべき方向を教えてくれる。
    「僕は、もうそれで十分かなって思うんだ。僕たちは絶対兄弟にはなれないけれど、それでも、一緒に過ごしたことがあるって覚えていれば」
     いつまでも一緒にはいられないのだろうけど、それでも、一緒にいたことは、ずっと自分の中に残り続ける。
    「きっと、それだけで大丈夫なんだ」
     絞り出すように言ったのを、鶴丸は何も言わずに聞いていた。光忠は、自分の言葉に裂かれるような痛みを感じながら、しかしこれが自分の選ぶべきものだと感じていたから、後は荒くなりそうな呼吸が落ち着くのを待っていた。
     そうしてどれほど黙り込んでいたのか、外の道路を走る車の音に顔を上げると、アルコールで顔を赤くした鶴丸と目が合った。光忠も同じように赤い顔に、潤んだ目をしていたから、ふたりはしばらくお互いの顔を見ると、示し合わせたかのように笑い出した。きっとふたりとも、この夜のことを誰かに話すことはないだろう。ただずっと、ふたりの記憶に残り続ける。
    「なんだ、伽羅坊は昔からよくできた奴なんだな」
    「そうだよ、皆知らないけど。無口過ぎてわからないだけだよ」
    「ディラックみたいだな」
    「ん? 何みたいだって?」
    「ポール・ディラック。物理学者だよ。無口すぎて、寡黙さの単位にされたとかの逸話もある」
     光忠は声をあげて笑った。鶴丸はそれに、口の左端をあげて笑ってみせた。
     後は笑いの絶えないまま、箸を進めていった。年の瀬の夜に相応しい、静かで、少し寂しい夜だった。



    「よっ」
     構内で久しぶりに会った白い男を、大倶利伽羅は睨むような目つきで見た。冬休みなるものはとっくに来ているはずだが、卒業研究に追われて日付の感覚がなくなってきていた。今が年末だということくらいしか、大倶利伽羅は知らない。
    「そんな怖い顔するなよ、帰る前に君にも会っておこうと思ってな」
     幼なじみと仲の良いこの男は、時々こうやって大倶利伽羅にも絡みにくる。また来たか、と思うことはあっても、実のところそんなに鬱陶しく思ったことはない。この男は、他人と距離を測るのがめっぽう上手かった。
    「何か用か」
    「いや、年末に光坊のところに呼ばれていたんだがな、俺は行けないことになったから」
     君の様子でも窺っておこうかと思ってな、と語る顔は貼り付けたような笑顔で、大倶利伽羅はそれを鼻で笑う。鶴丸はそれに唇を尖らせてみせたが、それもポーズだと大倶利伽羅にはわかっていた。
    「別に、お前に強制されることじゃない」
    「しかしなぁ、光坊がごちそうを作るって言ってるもんだから」
    「……興味ないな」
    「俺は食べたいなぁ、今年はお節も作ろうか、なんて言ってたんだ」
     いいなぁ、光坊のお節絶対美味いぜ、と言う鶴丸を、大倶利伽羅は胡乱な目で見る。研究に没頭しているとご飯が簡略化されがちで、それも気にしていなかったのだが、今の言葉を聞いたせいで腹が鳴りそうだった。幼なじみの作るご飯は、文句なしに美味しいのだ。
    「……お前は何で来ないことになったんだ」
    「ん? あー、帰るのさ」
     芝居じみたやりとりのときとは違って、帰る、という鶴丸は眉を下げて苦い笑いをした。そうしてみると、人形じみた外見には似合わないほど、人間臭かった。
    「そうか」
    「そうさ。ま、お土産も買ってくるから楽しみに待っててくれ」
     別にいい、と返す前に、鶴丸が思い出したように言葉を続ける。
    「なぁ、光坊に星の名前とかを教えてたのは君だったんだろ」
     大倶利伽羅はその言葉に眉根を寄せた。この男と、幼なじみは何を話していたのだろう。大倶利伽羅は、幼なじみの話を別の人とするのは、なんだかくすぐったい気分になって落ち着かなくなるから苦手だった。
    「いや、俺も光坊から北極星の探し方なんかを教えてもらってな。しかし、どうして、星座はあんなに上手いこと神話に合うのかね」
    「……逆だろう」
    「ん?」
    「星が話に合うんじゃなくて、話が星に合うようになっているんだ」
     へぇ、と鶴丸は目を丸くした。金色の目が、ちかちかと輝くようにも見えた。
    「そりゃまたなんで、話が星に?」
    「——話を語り継ぐときに、言葉だけじゃなく、絵とかがあった方がいいだろう。それにあたるのが星座だった」
    「はぁ、しかし、なんでまたわざわざ星を」
    「どこにいても、何も持たなくても、夜になれば見えるからじゃないか——と」
    「うん?」
    「光忠が昔言っていた」
     ただしこの説が正しいかどうかは知らん、と付け加えると、ぱちぱちと目を瞬かせていた鶴丸は、顔をくしゃっと歪めて笑った。
    「君たちは仲が良いな」
    「やめろ」
    「年末年始くらい光坊と一緒に過ごしてやれよ」
    「……考えておく」
     それに満足げに笑うと、鶴丸は白いコートを翻して去っていった。

    「へぇ、鶴さん大学に寄ってたんだ」
    「会わなかったのか」
    「修論を教授に預けた後に、一緒にご飯食べたけど、それだけだなぁ」
    「……もう書いたのか」
    「後は年明けに提出するだけだよ」
     格好良く決めたいよね、と表情を作って言う幼なじみに、大倶利伽羅は溜め息を吐く。何気なくつけられたテレビからは、今年最後の夜のための気怠い賑わいが流れている。あと数時間で、今年も終わるのだ。
    「なんだい、君だってそろそろ研究も終わりなんだろう」
     蕎麦の入った丼を大倶利伽羅に寄越しながら、光忠は眉を下げて笑う。昔から変わらない、大倶利伽羅を甘やかすときの笑い方だった。
    「それにしても、僕たちもまだまだ腐れ縁だね」
     大倶利伽羅は、既に大学院への進学を決めていたから、この幼なじみと、あの白い男と、まだ顔を合わせる日が続くのだ。
    「僕もまだ博士があるし、これからもよろしくね、伽羅ちゃん」
     向かいで同じように丼を持って笑う幼なじみに、大倶利伽羅は溜め息で返事をすると、ちょっと、と不満そうな声が聞こえた。それには何も言わずに、手を合わせると、光忠も同じように手を合わせる。食事のときは、喧嘩をせず静かに食べる。幼い頃から変わらない、ふたりの習慣だった。いただきます、と言う声もぴったりで、きっとこういうのが、ずっと自分に残り続けるのだ、と思いながら、大倶利伽羅は湯気を上げる蕎麦に箸を伸ばした。



     もう大晦日とは早いものだな、と思いながら、三条宗近は出かける準備をした。今年最後の買い物に行くためだ。何年か前から、年越しは一人で過ごすようになっていた。兄たちは年末年始くらい一緒に過ごそうと宗近に声をかけてくれていたが、ここ二、三年はそれもなくなり、二日になると長兄の石切丸が住む家に来るよう、次兄の小狐丸から連絡が来るだけになった。兄たちは末っ子の宗近を好きにさせることにしたらしい。弟はそういうやつだから、と思っているのだろう。実際、宗近にその兄たちの許容はありがたかった。宗近が一人で年を越すのは、弟がいつか帰ってくるかもしれないという到底起こりそうのない願望があるからだ。宗近は何年も、一人で懐かしさに浸りながら年を越していた。
     かつて、宗近には弟がいた。正しくは弟のような存在であり、歳の離れたその少年を宗近はかわいがっていた。両親は忙しく、兄たちとは歳が離れているせいで一人で過ごすことの多かった宗近にとって、ただ純粋に宗近を慕って傍にいようとするその少年が、どれだけ心を満たす存在だったか、その日々が十年以上前となった今でも、宗近は彼を思い出すと頬が緩んでしまう。金色の丸い目をふたつ、星のごとく瞬かせて世界を見ていた少年は、宗近にとって忘れ得ぬ存在だ。彼の一番傍にいるのが自分であることが、同じく少年だった宗近にとっては、この上なく嬉しかったものだ。

     年の暮れも日が沈むのが早く、買い物を終えた宗近は空に星々がいくつか光るのを見つけて、白い息を吐いた。首筋に冷たい空気が入ってこないようにマフラーをきつく締め直しながら、薄暗い夕べに光る星を見ていると、耳の奥で、一番星だな、と笑う幼い声が聞こえるようで、こういう些細なものにも彼を思い出すことに少し苦笑いした。宗近の世界のすべてが彼なわけではなかった。それでも、折々に彼の影が宗近の視界を掠めていく。その影はいつも、彼と宗近が一番近しかった頃の幼い姿をしている。
     初めて話したとき、宗近は自分の目に映る月を見て顔をほころばせた彼に、お前の目も満月のようだと意趣返しのつもりで言ったが、あれはあまり上手い例えではなかったと今では思う。彼には月より星が相応しい。月のように他の光を受けずとも、自らを燃やして光るもの。彼は自分の生にある虚を埋めるために他人を求めずに済む人間だった。ひとりで歩いていけるほど、誇り高かった。

     宗近は弟のように思っていた彼に、ある日、「兄弟じゃないのに」と言われたとき、頬を叩かれた気分になった。自分が知らぬ間に、彼を自分のもののように思っていたことを、その無垢な声に知ったための衝撃だった。彼自身は深く考えずに言ったのだろう。それでも、宗近は気づかずにいた自分の幼さを、自分より幼い声に突きつけられた。あのときの宗近の頭は、今自分で思い出してもよく回ったと思う。兄弟でないなら、なぜ彼と自分が一緒にいるのか。単純にそれが心地良いからだった。心地良いところで過ごすことに、何の罪があるだろう。それを少年に言えば、少年はわかったようなわからないような顔をしていた。宗近の方は、自分が言ったことを自分に言い聞かせていた。人間は生きやすいところで生きるのがいい、それは何も悪いことではない。ただ、そのときに、彼の生きやすい場所は移ろうのかもしれないという漠然とした予感があって、宗近は自分は本当には彼の兄にはなれないことを思い知った。そのためか、それからしばらくはよく眠れない日が続いた。
    「兄弟じゃないのに」と言われた日から、彼と自分の関係の危うさを知ると、彼は本当に自分とは違うのだと、それを確認してばかりになった。彼が自分と一緒にいるのは、彼がどうしようもなく子どもであり、一人だからだ。いろんなものに目を向けることに戸惑いのない少年だったし、自分で考えることに歓びを感じているのは傍目で見ていてもわかったから、成長すれば彼一人で、自由にどこにでも歩いていけるようになるだろう。しかし、宗近と一緒にいる彼は子どもだった。彼はまだ子どもだから、自分を必要としているのだ。自分もまだ未熟な少年であったというのに、宗近はそんなことを考えて、彼が離れていくまでに、彼が自由を損なわずに生きるための手助けをするのが、彼のために自分のできることなのだと思うようになった。彼に必要な自由とは、自分で何かを考え、選べるようになることだと宗近は考えていたから、そのための道具をできる限り与えたつもりだった。その道具は形のないものがほとんどで、だから彼の手元には何もないかもしれないが、そのために無くなってしまうこともなく、彼の優秀な頭の中に今もしっかり納まっていることだろう。その道具が、宗近が彼にあげられるものだった。自由に生きるのはつまり、一人でも生きていけるようになるということだった。それは寂しいことにも思えたが、彼の自由を食い潰す資格は誰にもないと考えて、彼がいつか自分から離れていく日を思いながら過ごすようになった。そうするのがきっと正しいと感じる自分の直感を、宗近は信じた。
     そう考えるようになった頃には宗近はもう青年で、この少年が自分の歩いてきた道順をそのまま辿っていることの危うさもわかっていた。その道順は、宗近の考える彼の自由の用意には何ら問題のないものだったが、青年になり始めた彼がそれに悩んでいることを知ると胸が痛かった。その頃になると、幼いときには自分をじっと見つめたふたつの金の星と、目が合わなくなっていた。
     人の思い詰めているところに直面するのは辛いものだ。あの冬になり始めた夜、彼はどこでどう過ごしたのだろう。そしてその次の春から今、どう生きているのか。宗近は自分のできる限りの、彼が生きる用意をしたつもりでいた。そして彼が頭の良い人間であることも十分わかっていたから、心配はいらないだろうと思ってはいたが、それでもふとしたときに幼い彼の影が自分の目をさらっていくので、そういうときは我慢せず彼を思った。本当に自分のものにできるのは、自分の頭に納まるものだけだった。彼の自由を奪うことを自分に赦さなかった代わりに、彼との日々をかけがえのない、自分のものとするのを宗近は赦した。

     だから、家までの道も、昔を思い出して自分がかつて何度も通った道を歩いた。彼も歩いた道だったし、ふたりで歩いた道でもあった。歩くうちに日は落ちきって、暗くなった冬の空気に星が澄み渡るのを見上げながら、ゆっくり家路を辿っていた。そうしていくつかの角を曲がった先、彼との思い出の残る小さな公園に、それはいた。
     それは、白い青年だった。点滅する街頭に照らされて立っている後ろ姿は、髪もコートも真っ白で、靴だけが黒い革のブーツだった。その街頭を見上げる背中に、宗近は幼い郷愁の面影を見た。
    「……やあ、俺は幻でも見ているのか」
     ひとりごとのように口から滑り出たそれに、青年はコートの裾を翻して振り向いた。小作りな顔に、バランスよく納まった目鼻の、その見開かれた金色の目が宗近を捉えた後、青年は眉をひそめるようにして笑った。そういう寂しい笑い方をする顔は、宗近の記憶にはなかった。
    「まぁそんなものだ」
     青年は絞り出すように言いながら、宗近に体ごと真っ直ぐ向き直った。金色の目がふたつ、いつも思い出す幼い姿のそれと変わらず、宗近を見つめていた。
     青年は何も言わず、窺うように宗近をじっと見て、何度か瞬きしたが、ふと何かを諦めたように、優しく笑った。
    「俺は、幽霊だよ——君の弟になりたかった子どもの」
     その声が、幼い頃より低く響くものであっても滑らかで、いつか自分を呼んだ少年の頃と何ら変わりない柔らかさであることを知ると、宗近は息を奪われた。そのまま青年がこちらを見ているのに、目を逸らせずにいたが、しばらくすると顔を伏せた。彼の輪郭がぼやけていくのを見るのは堪えられなかった。

     宗近が俯いてしまったのを見て、鶴丸は彼から目を逸らすために、彼の向こうの空を見上げた。これだけを言うのに、何年かかったのかと思うと、笑ってしまいたい気分なのに、自分も宗近も、どうも今は笑い合えそうになかった。だからただ、視界が滲んでしまうのだけは堪えようとして星を見上げる。星の粒がいくつも集まる中に、M字に結べるカシオペアを見つけて、光忠から聞いたことを思い出した。M字の両端の二本の線の延長上、その交点と、Mの真ん中に当たる星を結んで、その線分を約五倍延長した先にある黄色い二等星。鶴丸から見た宗近の向こうに、その北極星があった。自分の場所を教えてくれるという星の下、宗近がまだ左手で顔を覆って俯いたままでいるので、鶴丸はやはり我慢できなくなって、滲んでいく視界のままどうにか笑おうと取り繕いながら、宗近の方へと歩き出した。
    真白/ジンバライド Link Message Mute
    2023/02/24 8:35:47

    生者の出奔

    鶴丸中心の現パロ、三本立てです。
    今読み返すと「それはどうなんだ……」と思うところもあるのですがご容赦ください。
    書き始めたきっかけは平野の一期一振との手合わせ特殊台詞が実装されたことでした。
    確かこの話の鶴丸は「即実利に結びつかない専攻であってほしい」という理由で哲学科にいる設定でした。
    文章を書き始めた頃の話なのであまりにも懐かしい。

    タグは後で編集するかもしれません。

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