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    大暑 岩は一面の苔に覆われ、緑に輝いていた。正確には、深緑へ置き去りにされた雫が陽光を受け、光を不規則に反射させていた。それら雫は水面から跳ねる魚や、或いは水面へ飛び込む鳥が忘れていった影とも言えるだろう。苔はただ、偶然としてそこに生い茂っているにすぎない。
     柔らかな繊毛に指を遊ばせながら、鉢屋は輝きの底を覗き込んだ。小さな蟻が二匹、忙しなく岩の上を行き来している。この先に獲物があったことを伝えにいくのか、それとも、あるかも分からない宝を探しにあてどなく進んでいるのか。苔を遮るものを失くした岩の表面には反射ではない、生きた日差しが降り注ぐ。黒い身体は余すことなく熱を集め、いつか燃えてしまうだろう。
     緑の原に掌を埋めれば、蟻の姿は薄黄色の肌に隠れ、行方知れずとなった。皮膚の表面を滑る微かな振動が蟻の行進のためであるのか、緑の微動のためか、彼には分からなかった。或いは、小さな生き物は既に指に押しつぶされているかもしれない。鉢屋はゆっくりと手を離す。掌を見やれば、僅かに濡れた肌の光が俄かに網膜を焼いた。
     蟻の影はどこにも見えなかった。
    「暑いな」
     隣から声がした。彼は顔を上げ、暑さの正体を確かめるように天を仰いだ。白光を放つ球体は丁度空の頂きを通り抜けようとしている。速足で過ぎてしまえと願うその熱も、季節が変わればもっとゆっくり進めと願われるのだろう。
    「暑いな」彼は眩む視界に目を眇めながら答える。隣に並んだ輪郭がぼやけ、波のようにうねる黒髪だけが、奇妙なほど明瞭に揺れる。じっと見つめれば、次第に視界は正常を取り戻し、汗に眉を顰めた級友の表情がはっきりと写り込む。「兵助が暑いと言うとは、よっぽどだ」隣に並ぶ少年の名前を、彼は不意に思い出した。或いは、思い出したということに気付いた、というべきか。
     久々知は長い睫毛を二度瞬かせ、それから、青空によく似合う微笑みを一つ零した。「俺だって、暑い時は暑いと思う」
    「思うことと、口に出すことには大きな差がある」
    「三郎も暑いと思っていただろう?」久々知が表情を変えずに言った。「だから、隠す意味がない」
    「それなら、言う必要もないな」
    「意地が悪い」きっと暑さのせいだね、と彼は額を拭った。言葉に反し、皺のない曲面に不快の色はない。
    「こうして喋っていたら、すぐに喉が渇いてしまうな」
    「課題にしたって、こんな夏にやらなくてもいいのに」岩の側面、苔の生えていない表面に指を遊ばせながら彼は言った。
    「任務に季節は選べないからなぁ」
    「春の間だけ活動する忍だっているかもしれない」
    「間違いなく信用に欠けるな」
     鉢屋の答えに久々知は肩を竦め、冗談だと言いながら口の先を尖らせた。やけに幼い仕草も暑さのせいかと尋ねるべきか、鉢屋は三秒の間迷い、それから静かに唇を閉ざした。額、本物の皮膚と面との隙間に生じた空間を流れる汗を指で拭う。一瞬の沈黙。乱れなく流れていく水音を突き破るように、一羽の鳥が大きく飛沫を立てる。
    「いつまでここにいればいいんだっけ」久々知が訊ねた。
    「後一刻ほどだな」鉢屋は太陽を見上げて答えた。「それまでに勘右衛門が来なければ問題なし。私たちはこの灼熱地獄から撤収できる」
     久々知は額を川の方へ向けながら長いな、と呟いた。
    「あちらが上手くやっているか心配か?」
    「勘右衛門がいるし、雷蔵と八左ヱ門も一緒だからね、心配はしていないのだけど……」
    「退屈?」
    「少し」久々知が悪戯気な口調で言う。真面目、穏当、そういった言葉に表現される少年にしては珍しい声音だった。
    「いいことじゃないか。向こうが上手くやっている証拠だ」
    「そうだね。だから、これは俺の我儘」
    「珍しい。兵助が……普通のことで我儘を言うなんて」
    「普通のこと?」
    「つまり、豆腐が絡まないこと」
    「……気を付けるよ」
    「それも、暑さのせい?」
    「どうかな、隣にいるのが三郎だから」
    「私だから?」
    「隠す必要がない」先と同じ言葉を繰り返し、久々知は微笑んだ。「口にする必要も、本当はないのだけれど」
    「それなのにどうして?」
    「暑さのせいだよ」
     久々知の、浅く窪んだこめかみで汗がせき止められる。一秒ほどの静止の後に滑り落ちるその雫へ、鉢屋はそっと指を伸ばし、触れる手前で動きを止めた。
    「三郎?」首が右に傾く。雫は皮膚を流れ落ち、苔の上に消える。
     鉢屋は宙に止まったままの指を伸ばし、川縁から僅かに離れた木々の群れを指で示した。「……日陰に移ろう」
    「そちらだと、森の方から見えてしまう」
    「日の角度が変わるのを待っていたら、私たちが倒れてしまう」
     太陽は緩慢な歩みを続けている。天上から降り注ぐ白い矢は川面に跳ね返り、一層強い光で二人を包み込む。久々知は流れ行く輝きに逆らうかのように上流へ視線を向けた。
    「あ、」乾いた声が落ちる。
     森へ向いていた顔が一つ、反射的に振り返った。
    「あそこ」久々知が指先で川の先を示した。「洞穴みたいになっていない?」
     指先に従い視線を向ければ、確かに空洞のようなものが視界に映る。岩を越えた先、対岸の先であったが故に気が付かなかったのだろう。
    「本当だ」
    「あそこなら日陰だし、勘右衛門が来ても気付けるんじゃない?」
     川は悠々と流れているが、岩を伝えば移動できないほどではない。己は勿論、久々知も難なく渡ることは想像がついた。
    「目敏いな」鉢屋は頷いた。
     返された言葉を肯定と受け取った久々知は岩場の上へと軽く飛び乗った。一つに結ばれた髪が宙に踊り、遅れて肩に落ちる。首筋に絡んだ一房を手で払い、彼は足場を探るように岩を見据え、すぐに次の岩へ飛び乗った。髪は再び舞上がり、僅かに風に流される。二度は直すことなく、飛翔。そのまま足を止めることもなく、彼は対岸までを渡り切った。
    「三郎」久々知が名前を呼ぶ。「苔が滑るから、気を付けて」
     鉢屋は了承を示すように片手を挙げ、眼前の岩へ視線を落とした。短い繊毛が圧迫され、根から折れ曲がっている。ちょうど、足の形に。鉢屋は苔の柔らかさを思い出し、しかし、その跡に己の足を重ねた。足袋の裏に、岩の硬い質感が伝わる。次の石へ移ろうと片足を持ち上げる。流れていく視界の中で、苔の上に残された蟻の死骸が見えた。
     全ての岩を飛び移るまでに時間はかからなかった。久々知は先に洞穴の入り口に佇み、鉢屋を手招いた。振り返ることなく近付けば、どこからともなく吹き出した風が、肌に張り付いた汗を冷やす。冷涼を湛えた感覚に却って眉をひそめれば、久々知が音も無く微笑んだ。
     その場所は対岸から見えていたよりも、幾らか頑丈さを感じさせた。身の丈の二倍は優に超える空白は乾いた岩に囲われ、露わになったままの表面はごつごつとした手触りを想像させる。光に眩んだ目では却って暗闇が深く垂れこめて見えた。未知の空間に身を寄せながら、しかし、不気味さは感じられなかった。
    「涼しい」鉢屋は言った。「良い場所だな」
    「良い、という割には硬い表情だけれど」
    「予想外だった。日差しを免れれば良いとは思っていたが、ここまでとは」
    「意外と奥まで続いているのかもね」久々知が洞窟の奥を振り返った。
    「入り口で十分だ」
    「勘右衛門が来ても分からないのは困るしね」まさかここにいるなんて思わないだろうし、とかれは続けた。「こちらで見逃さないようにしないと」
    「一先ずは、目の前に任務に集中しよう」
    「冒険はその後?」久々知が首を傾げる。
     鉢屋は答えずに、ただ、岩肌へと背を凭せ掛けた。久々知も一度頭を振り、反対側の壁にもたれかかる。二人はそれ以上口を開くことはなく、ただ川の上に跳ね返る陽射しを数えていた。



    「一刻経った」
     どちらからでもなく、彼らは声を揃えて言った。岩壁に二つの声が反射し、奇妙に混ざり合って響き渡る。その影を響きを追うように蝙蝠が一匹、洞窟の奥へと潜って行った。
    「来なかったね」誰が、とは言わず、久々知が確かめるように呟いた。
    「来なかったな」鉢屋は答え、肩の力を僅かに緩めた。「あちらも問題なく撤収したんだろう」
    「お役御免?」
    「学園へ帰るまでが実習って、低学年の頃言われなかったか?」
    「……俺たちは万一の時の伏兵だったけれど、このやり方、待っている側にとって指示が曖昧過ぎるな」久々知が目を眇めながら首を振った。「勘右衛門に次はやり方を変えるように頼もう」
    「反省会も、学園へ戻ってからやればいい」鉢屋が呆れを含んだ笑みを零す。「なにも、急ぐ必要はない」
     久々知は反対側の壁にもたれたまま、鉢屋の顔を一瞬見据え、頷きを一つ落とした。顔が上がると同時に、視線が洞窟の奥、暗闇の方へ戻される。暗がりから、丁度、冷え切った風が一つ過ぎて行った。
    「三郎、」滑らかな流れに前髪を遊ばせながら、彼は名前を呼んだ。「この洞窟の奥に、何があると思う?」
    「何って、」面の奥に潜む黒目が瞬きを落とす。「何もないんじゃないか?」
    「どうして?」
    「兵助は、何かあると思うのか?」鉢屋が疑問符を返す。
    「どうだろう」
    「なぜ、こんな質問を?」
     久々知は一度唇を結び、鉢屋の顔を真っ直ぐに見返した。それからゆっくりと瞬きを一つ。何を言わんとしているか、或いは何を言ったのか、理解しているだろうと詰め寄るような視線。鋭利な刃物を彷彿とさせる視線を堂々と見返し、鉢屋は小さく溜息を吐いた。諦めと呆れの裏に好奇が滲んだ笑みを作れば、久々知もまたそれを正しく読み取ったのだろう、口の端に笑みが一つ浮かべられる。
    「冒険がしたい?」鉢屋が訊ねた。
    「急いで帰る必要は無い、だろう?」久々知の前歯が薄く覗く。
     彼らは同時に岩肌から背を離し、洞窟の中央に立った。片目を閉じ、しかし真っ直ぐに歩きだす。生き物の気配に影響されたのか、岩陰に留まっていた蝙蝠が一匹、二人の先を行った。
     足音が岩壁に跳ね返る音は、一間ほど歩いたところで僅かに響きを変えた。陽の光は後方、掌に隠れるほどに遠ざかり、視界は夜半に似た暗闇に満ちている。星明かりが足りないことを思えば、より純粋な暗闇か。閉ざしていた片目をそれぞれに開けば、薄闇の中で岩の壁面に映る色彩が微かに変化していることが見て取れた。
     彼らは言葉の代わりに、近付けられた手へ合図を送った。かつての、まだ彼らが低学年であった頃、遊びとして二人が作り、友人たちと共有していた印。人差し指を一度叩けば右を見ろ、中指は左、親指は前方で薬指が背後。五指の位置と回数によって定められた符丁は簡単な会話であれば可能なほどの種類が用意されている。それらを全て覚えきることの煩雑さから実際の実習では使われることのなかった暗号を、彼らは未だ正確に記憶していた。当時から今まで、全てを覚えているのはきっと二人だけだろう。遊びの延長にすぎない稚拙な暗号よりも効果的で、実務的な技を手に入れた今、忘れられるのは当然だった。それでも、この場所で彼らはどちらからともなく、かつての符丁を持ち出した。覚えておく意味のない、児戯の一つを、覚えていることを確かめるかのように。
     久々知の人差し指が、鉢屋の中指に一度触れた。鉢屋はすぐに左側へ顔を向ける。そこには俄かに濡れて、焦げ茶色の染みを浮かべた岩壁があった。入り口からよりも幾らも狭まった道では、歩きながらでも容易に壁に手が届く。鉢屋は己の側にある壁に触れ、砂の付いた指の腹を着物の裾で拭った。久々知の歩いている側の壁は濡れているが、己のいる方は濡れていない。久々知も同じことを思ったのだろう、今度は三度、彼は親指を叩いた。それから、首を傾げて見せる。鉢屋は久々知の小指を一度叩く。
     獣?
     さあ、どうだろう。
     二人は歩みを止めずに進んだ。道は次第に狭く、暗くなっていった。分かれ道はなく、ただ真っ直ぐな道だけがある。暗闇に慣れた視界は絶えず岩壁の無秩序な凹凸を捉え、見えていようと見えていなくとも、変わらない景色が続く。時折、向かい側から冷風が駆け抜けては、彼らの頬を冷やしていく他にはあまりにも単調な道程。未知の空間であることを考えれば、迷う恐れのないことは幸運なことだろう。彼らは危険を楽しむために洞窟へ足を踏み入れたわけではないのだから。それならば何故、自分はこの場所を歩いているのか。思考の片隅に疑問が浮き上がる。久々知の誘いに乗ったから。久々知は、しかし、何故彼を誘ったのだろう。
     冒険?
     鉢屋はすぐ隣を歩く少年にそれを尋ねようとし、問うべき言葉が暗号の中に用意されていないことに気が付いた。曖昧に伸ばした指が行き場を失くす。鉢屋の様子に気付いているのか、久々知の指が宙に抗ったままの人差し指を一度叩いた。
     右側を見て。
     鉢屋は返事の代わりに、首ごと右手の壁を振り返った。ずっと続いていた深い茶色の岩肌が、いつの間にか、艶のある白い岩へ変わっている。闇に慣れた目では幾らか眩しいほどに。網膜に薄く広がる光を馴染ませようと瞬きを繰り返せば、久々知は何も言わず、ただ黙って笑みを浮かべた。景色が変わったことにも気が付いていなかった彼をあざ笑う笑みではない、悪戯が成功したような笑みだった。
     下。
     鉢屋は唇を尖らせながら、久々知の指に触れた。それから右手の人差し指を地面に向けて軽く振って見せる。久々知はその仕草に首を傾げながら一度俯き、続けて背後を振り返った。
     坂だ。
     久々知の指が鉢屋の指に。鉢屋は頷き、先ほどまで久々知が浮かべていた笑みと同じ種類の笑みを浮かべて見せた。周りの岩模様に気が付かなかったのは、彼の意識が周囲ではなく、己の足元にあったからだと示すように。笑みの意図を正しく汲んだのだろう、久々知は小さく肩を竦めると、僅かに傾斜した地面を臆することなく進んで行った。
     彼らは黙ったまま、言葉のない会話さえも交わさず、黙々と坂を下りた。岩の壁はそれ以上に変化することなく、ただ薄白い岩肌が長く続いた。暫く歩いている内に、彼らを取り囲む岩は一つの巨大な岩ではなく、幾つもの層が重ねられているのだと分かった。色が変わった場所と、洞窟の最奥は、元々一つながりの場所ではなかったのだろう。
     道は真っ直ぐ続いた。奥へ続く道は次第に細くなり、今では鉢屋と久々知の肩は殆ど常に触れ合っているほどだった。夏の最中にこうも近付いては、暑くてたまらなかっただろう。尤も、洞窟の中に入ってからは汗の一つもかいていない。陽が遮られているために、数刻ほど前まで苦しんでいた暑さが嘘のように取り払われていた。或いは、どこからともなく吹き付ける冷風のためか。風は依然として冷たさを湛えたまま、むしろ、その冷涼は深部へ進むにつれて一段と威力を増している。来訪者に終点をつたえるかのように。
     やがて二人は並んだまま、洞窟の中に入ってから初めて、足を止めた。細く続いていた道が、突然大きな弧を描いている。弧の反対側には同じほどの幅を持った窪みが一つ。かつて道であったのだろう空間が、明らかに人間の手で積み上げられた岩の山に塞がれている。彼らは同時に顔を見合わせ、素早く指先で信号を送り合った。
     どうする。
     道は一つだけみたいだ。
     進もう。
     目で頷きを交わし、彼らはゆっくりと足を踏み出した。これまでの道と変わらない雰囲気は曲がり角を渡る前の、一瞬の躊躇いをすぐに萎ませた。大きく湾曲した道も半分ほどすぎれば、先が見えてくる。螺旋階段のように、曲がり続けているわけではないので当然のこと。その当たり前に、しかし、鉢屋は俄かに驚きを覚え、隣を盗み見た。並んだ横顔に張り付いた大きな目が、二度瞬きを繰り返した。
     永遠に続くようにも思われた道を、鉢屋は歩く速度を緩めずに、淡々と最奥へ向かって歩を進めた。道の先は特別に明るくも、暗くもなかった。ただ、茫洋と浮かぶ黒い影が、道の終わりであると想像させる。もしそこが終点ではなく、また違う道へ続いていたとしても、そこで来た道を戻った方が賢明だろう。彼はそう思考し、それから、奇妙なほどに冷静な己に小さく笑みを零した。風が頭を冷やしているのか。或いは、この状況をひどく楽しんでいるからこそ、はっきりと線を引くのか。子供の遊びは常に見えない線に塗れている。それは大抵暗黙の了解で、それを守れる子供同士の間にだけ、一種の繋がりが生まれていく。その意味で鉢屋と久々知は正しく暗黙の了解を共有しているだろう。五年前から、そして、今もなお。
     終点の手前で、二人は揃って足を止めた。影に覆われた横顔を盗み見れば、視線が重なり合う。双眸の輝きだけが、不自然に浮かび上がっていた。
     じっと、二つの光を見据える。二秒。己の双眸も同じように浮かび上がっているのか、それとも面と肌の間に生じた影に隠れてしまっているのか、と鉢屋は考えた。
     彼らは一度頷きを落とし、やがて、影の中へ足を踏み出した。
     風が一つ。
     駆けて行く音は膨らみ、どこまでも広がっていく。
     冷たさだけが肌に残されて。
     眼前に、音も無く波紋が裾を翻す。
     その隙間に光。
     小波に彩られた水面の下から、青い輝きが湧き上がり。
     星のように散っている。
    「わ、」久々知が言葉にならない音を漏らした。
     洞窟に入ってからずっと聞いていなかった声は、岩に囲われた空間の中で反響し、知らない人間の声のように聞こえた。
    「すごい」
     出口の先には湖ないしは池と呼ぶべき水溜まりがあった。二人の歩幅で二歩にも満たない位置に水が迫っている。湖は広く、見えている限りずっと広がっているようだった。天井は高く、岩の色さえうかがうことができない。左右を見渡せば、道はやがて水に飲まれ、反対側まで回ることは不可能であると分かる。水底には鉱石が眠っているのか、光を放つ岩が一面に広がっている。水中のどこかに穴があり、そこから射し込む光を反射しているのだろう。
    「きれいだ」これまでの細い道のりからは想像し難い空間の中で、鉢屋が言った。
    「あの狭い道の先に、こんな場所があったなんて……誰かがこの場所の為に引いた道だったんだね」
    「風が冷たかったのは、ここの冷気を含んでいたからか」
    「それに、」久々知は一歩足を踏み出した。「この、光」
     膝をつき、水面を覗き込む。澄んだ水は絶えず波紋に歪みながらも、底までを真っ直ぐに映し出す。水面の下に揺れる、その輝きを。
    「星みたいだ」
     鉢屋も膝をついて、水面を覗き込んだ。
     暗闇に慣れた黒目が、一瞬の鋭利に眩む。
     反射的に細めた双眸でそっと見やれば、微細な光の点が明滅している姿が網膜に滲む。
    「星というには、寂しいな」
     数秒か、永遠か、時の感覚もないままに、彼は言った。それは瞬間の閃きであり、長く見つめた末の思考でもあった。
    「寂しい」久々知が繰り返した。
    「ここには青しかない……星は、一つ一つ色が違うだろう。赤、白、銀。輝きはそれぞれに色を変えて、同じ色には染まらない」
    「濃淡の違いはある」水底の一点を指で示す。「ほら、あそこは明るい青だけれど、」別の一点へ指先が移される。「向こうは深い藍色に光っている」
    「それは影のせいだ」
     水底に隆起した岩、遠く水面の揺れる影。光があれば影があり、目に届く色彩を変化させる。或いは、底に輝く星々は中心から離れるほど淡く溶け、水中で反射を繰り返し、同じ青のように見せるのか。夜空の星が、地上へ届く前には色彩のない光に変わるように。
    「調和がある」
     鉢屋は返された言葉に、久々知の鼻先へ視線を向けた。彼はもう一度「調和」と繰り返し、それから、小さく微笑んだ。
    「意外って顔」
    「兵助がそんなことを言うとは思わなかった」鉢屋が素直な口調で言った。
    「俺も、こんなことを言うとは思わなかったよ」久々知は笑った。「だけど、好ましいと思うんだ」
    「同じであることは好ましい?」
    「多分、この岩は全部で一つなんだよ。星のように、ばらばらな存在じゃない。大きな一塊。だけど色々な面があって、外からの影響を受けるのも様々。だけど、一繋がりだから、最後には同じ色になる。元に、戻る。その一歩手前の状態を俺たちは見ているのかもしれない」
    「同じではなく、唯一だから」
     久々知は表情を変えずに頷いた。「だから、調和」
    「様々な側面を映し出すことで、平衡が保たれる」
    「人間もそう。無数に重ねられた考え、感情、直感、経験があって、いつも同じ色なはならない。他人へ見せる顔もまた」
    「それでも根源は一つで、そこに向けて整えられている?」
    「三郎は分かるよね」
     鉢屋は首を縦でもなく横でもなく、曖昧に動かした。返すべき言葉を探す唇が微かに震える。振動を伝えるように、水面へ掌をそっと押し付けた。
     井戸水よりもずっと冷えた温度が肌から骨へ浸み込んでいく。
     その温度と引き換えるように、波紋が小さく水面の上に模様を描く。
    「兵助には、私が一人に見えている?」掌を沈めながら、鉢屋が訊ねた。手首を過ぎても水底は遠く、人間には届かない深淵に錯覚させる。
    「もし三郎が一つでなく、夜空の星のように、個が無数にあるとしたら、何が変わる?」
     久々知が鉢屋の手首を掴んだ。人間、生物に根付いた温もりが肌を覆う。
    「……私は私でしかあれないよ」水の中から腕を引き、鉢屋は微笑んだ。「残念なことに。誰の顔を借りようと、私から始まり、私へ溶け出し、私になる」
     爪の先から滴り落ちた雫が、三重の円と共に水面へ還る。
    「だから、調和は好ましいと思うよ、俺は」
     手は繋がれたまま。反対側の手で久々知が水面に渦を作りながら微笑んだ。水底のどこかに外から光が流れ込む穴があるのか、一瞬、舞い込んだ光が影を払い、一斉に青い光が水底を燃やす。
     星の光は遠く、しかし、熱はそこにあった。
    417_Utou Link Message Mute
    2022/09/11 0:03:28

    大暑

    #鉢くく
    別サイトからの移転です。
    初出:2022-07-24

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