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    【刀剣】ちにとわにちにとわにあるひとつのみらいちにとわに その姿を幼い頃に一度だけ見たことがあった。
     白いかんばせに深紅の瞳。
     光に透け七色に変じる髪。
     そして、人にはありえない角が一本。
     視線に気づいたか上げられた顔は直ぐさま逸らされ、眼帯に覆われた左の横顔から表情を読み取るには難しく、近くに寄ろうとするも傍付きの者に、なりませぬ、と腕を取られた。
     あれに寄っては穢れてしまいます、と険しい顔で忠告され、後ろ髪を引かれる思いでその場を後にした。
     あれからいくつも季節は巡り、病魔を退け不浄を払う者として特別に守られてきた子供もいつしか大人になり、本家の一族が代々分家にすらひた隠しにしてきた秘密を明かされた。
     それを聞くや居ても立ってもいられなかった。
     足音も荒く屋敷の敷地の奥の奥、鬱蒼と茂る木々の更に奥に存在する『門』へと駆ける。
     突然に拓けた視界に思わず蹈鞴を踏めば、なにしに来た、と瞬きひとつの間に忽然と現れた男に低く問われた。
    「ここはお前が来るところではないだろう」
     白いかんばせに深紅の瞳。
     光に透け七色に変じる髪。
     そして、人にはありえない角が一本。
     在りし日に見たものと一切変わらぬ姿に言葉もなく立ち尽くす。
    「もう一度言う。ここはお前が来るところではないだろう。大典太光世」
     すぐに立ち去れ、と背を向けた男の手には一振りの刀。
     門の向こうよりこちら側へと這い出ようとする厄災を斬り続けている男。
     気の遠くなる歳月を独りでひたすらに食い止めている男。
     その名を鬼丸国綱という。
    ■   ■   ■

     護符作りに剣術の稽古、そして時折行われる不浄払いの儀式と、物心ついたときからなにひとつ変わらぬ生活を送ってきた。屋敷の外に出ることは極稀で、出たとしても庭先を散策するくらいの物だ。
     生まれてこの方、大典太家の敷地内から出たことはなく、当主になり一族が隠してきた秘密を知った今もこれまでの生活に一切の変化はなく、高い塀に囲まれたここが大典太光世の知る世界の全てであった。
     毎日の務めである護符作りの手を止め、緩く息を吐く。集中出来ていないことは自覚しており、傍付きの者に一声掛けてから腰を上げた。
     気分転換にと庭に出てからふと思い立ち、使われなくなってから久しい蔵へと足を向ける。鍵の掛かっていない扉は重たく鈍い軋みを上げながらも、かろうじて人一人が通れる幅が開いた。
     一歩足を踏み入れれば動きに合わせて澱んだ空気がまとわりつくようで、正直長居をしたい場所ではない。しかもなにを探したいのか、大典太自身にもわかっていないのだった。
     それでもなにかを探しにその日から毎日、蔵へと通い続けた。自ずと蔵で過ごす時間が多くなったが、当主のすることに口出しをする者は居なかった。
     根気強く棚のひとつひとつを検め、その甲斐あって大典太は求めていた物を見つけたのだ。
     薄暗い蔵に籠もり、奥の奥へと仕舞い込まれていた黴臭い巻物を解き、慎重に床へと伸ばしていく。
     
     ──鬼丸国綱。
     女人の腹より三月で出でし鬼。
     厄災を斬るためだけに鬼と契りし一族の最後の一人。

     家系図と思しき物に記された名は彼の先に続く者はなく、尚かつ後世に付け加えられたであろう彼に関する内容はあまりにも簡素であった。
     彼の一族に関して他に記された物はないかと探してみたが、不自然なまでになにもなく、それどころか己の一族に関する記録にも改竄の形跡があり、劣化具合から判断するにここ数年の物ではない。それこそ百年単位に及ぶだろうと見て取れた。
     秘密と共に明かされた大典太家当主に課せられた使命は、深く心に突き刺さっている。誰しもが当然のこととして受け止めている事実に衝撃を受けもした。なにかの間違いではないか、他にやりようがあるのではないかと、その方法が見つかりはしないかと、微かな望みを掛けてもいたのだ。
     だが、結果は解決の糸口が見つかるどころか、別の疑惑が持ち上がっただけであった。
     鬼丸家のことについても、これでは家人に問うたところで改竄後の話をされるだけであろうと、大典太は、ふるり、と頭を振った。
     袴の埃を払い、蔵の外へ出る。陽の光に一瞬、目が眩んだ刹那、視界の端に七色が見えた気がして慌ててそちらへ目をやるも、当然の事ながら「彼」がいるわけもなく。
     数度、眼を瞬かせ自嘲の笑みを口端に浮かべる。
     このところ寝ても覚めても思うは「彼」のことばかりだ。
     こうまで心を占められてはたまったものではないと、足を『門』へと向ける。
    「彼」のことを知ろうにも知る術がないのならば、直接「本人」に聞くしかないではないか。


    「……そんな理由で来たのか」
     言外に、莫迦か、と滲ませる鬼丸は隠すことなく眉根を寄せ、犬の子を追い払うかのように、しっしっ、と手を振ってきた。
    「帰れ」
    「……話を聞くくらいはいいだろう?」
    「穢れが渦巻くこの場にお前が来ていることが問題なんだ」
     食い下がる相手に喉奥で低く呻き、すい、と刀の切っ先で『門』を指し示す鬼丸に、大典太はゆるりと首を傾げる。
    「ならば、場所を移ればいいんだな」
    「先に言っておくが、おれはここから出られない」
     ぐるり周囲を見回し眼で問うてくる鬼丸の言わんとすることは、大典太にもわかっている。
     一体、いつ、誰が施したのか、人の業とは思えぬ強固な結界が編まれており、それは人の身である大典太には作用しない。だが鬼丸は人ではないのだ。
    「わかったら帰れ。二度と来るな」
    「あそこならいいだろう?」
     すっ、と迷うことなく大典太の指が指し示したのは、小川に掛かった橋の向こうだ。その先には鬱蒼と茂る木々しかなく、端から見ればなにを言っているのだと心配されるところだが、鬼丸は一瞬、目を見張るも直ぐさま渋面を作り、くそ、と苦々しく呟いた。
    「……見えるのか」
    「たかが人と侮るなよ」
     一杯食わせてやったとどこか満足げな大典太に再度、くそ、と悪態を吐きながら、鬼丸はひとりさっさと橋を渡る。それを了承と受け取り遅れることなく大典太も続き、橋を渡りきれば景色は一変していた。
     陽を遮っていた木々はなく拓けた庭には手入れされた草花が咲き誇り、御殿と呼ぶに相応しい建物は長い年月が経っていると見受けられるも、重厚さこそあれ傷みひとつない。
    「あまり長居はするな。お前はそうだな、せいぜい一時間といったところだな」
     彼岸でも此岸でもない。強いて言うならば神域だろうか。庭に並ぶ季節が合わぬ花々に、ちら、と目をやりながら大典太はあたりをつける。
     庭を突っ切り濡れ縁から屋敷に上がり、そのまま正面の広間へと足を進める鬼丸に続き、促されるままに畳へ腰を下ろした。
    「先に言っておくが誰になにを勧められようが、飲み物、食べ物問わず絶対に口にするな。ただの水でもだ」
     いいな、と念を押してくる鬼丸に頷きで返し、大典太は遠慮することなく室内を、ぐるり、見回す。だだっ広いだけでなにもない室内で目を引くのは、鬼丸の横にある水盆だ。深さは鬼丸の踝より少し上だろうか。榊の葉側が浸されており興味深げに見つめていれば、その視線に気づいているにも関わらず鬼丸は無言で二度、三度、榊で水を揺らしてから、つい、と大典太に顔を向けた。
    「それで、おれのなにを知りたいと?」
     改めて問われ、大典太は言葉に詰まる。「全て」と言いたいところだが、それではあまりにも抽象的過ぎると思えたからだ。
    「その前に、俺の話を少し聞いて欲しい」
     まずは現状疑問に思っていることをひとつずつ順を追って聞いていけば、おのずと鬼丸個人のことに辿り着くのではないかと結論づける。
    「俺は……大典太家当主に伝えられている話を始め、親や親族から聞かされた話も、蔵にあった記録も、正直……信用していない」
     胡座をかいた自分の足に肘をつき掌に頬を乗せ、畳に目を落としていた鬼丸が、ほぉ、と低く漏らす。
    「だが、彼らが嘘を言っているとも……思えない。どこかで、話が変質してしまったのではないか……もしくは、故意に変質させた者がいるのではないか、そう思えてならない」
     記録に改竄の形跡があったこと、鬼丸の一族に関しての記録が一切ないこと、唯一残っていた物が行李と壁の隙間に隠すようにねじ込まれていたこと、それらを全て包み隠さず明かせば、ゆうるり、と紅玉が上目に大典太を見た。
    「そもそもお前は何故、聞かされた話に疑問を抱いた?」
     根本的なことを問われ、大典太は、はっ、と目を見開いた。蔵にある記録を見てから話を聞いたのではなく、聞かされた話が信用ならぬからと蔵にある記録を調べようと思ったのだ。
     これでは順番があべこべではないかと鬼丸に指摘され、そこに至るまでを必死に思い返す。
     大典太の家は古くから厄除けや病の治癒を生業としてきた。同時に裏では妖物退治や人の理解の及ばぬ現象の解決も請け負っていた。妖物退治を請け負っていたのが鬼丸の一族で、大典太家の分家筋だという。
     彼らが事もあろうに『門』を開いたというのだ。
     決して表舞台に立つことのない彼らが力を誇示するためであったとも、妖物退治の謝礼目当てで金に目が眩んだからとも言われており、どちらにせよ私利私欲のために厄災を解き放ったことには変わりなかった。
     被害が広がらぬようにと結界が張られ、大典太家の敷地内に留めることは出来た。たとえ『門』を開けたのが一部の者だったとしても、一族全体の責任として鬼丸は今でもひとりで厄災を斬り続けているのだと。
     大典太の一族がひた隠しにしてきた秘密というのが『門』と鬼丸国綱に関することであった。
     この話を聞かされた時に違和感を覚えた。
     何故、そこで違和感が生じたのか。

     ──あれは確かに強いが、不器用な上に寂しがりでなぁ。
     青い衣を翻し、すい、と形の良い指が指した先には、白いかんばせに深紅の瞳。光に透け七色に変じる髪。そして、人にはありえない角が一本。
     ──長いことひとりでお前の家のため……いいや違うな。お前のためにあのように身を削りながら、負わなくてもよい業を背負い続けている。
     刀を振るう姿はとても荒々しい。だが、不思議と恐ろしくはなかった。
     ──はは、難しくてよくわからんか。良い良い。そうだな、ではこれだけは覚えておけ。お前だけはあれを信じてやれ。
     膝を折り、目を合わせてきた男の瞳には三日月が輝いていた。
     ──お前ならあれを救ってやれると、俺は信じている。おっと、もう見つかってしまったか。ではな大典太光世。俺に会ったことは誰にも内緒だぞ。

    「……三日月」
     ぱちり、とひとつ瞬きをすれば、何故今まで忘れていたのか脳裏に鮮明に描かれるあの日の記憶。鬼丸の姿を初めて見たあの日の記憶だ。
     傍付きの者と共に庭を散策していたはずが、気づけば自分ひとりが森の中におり、そこであの男に会ったのだ。飄々とした話し方と青い衣、瞳に宿る三日月は思い出せるが、どうしても顔は霞が掛かったように判然としない。
     名も顔もわからぬ男に「鬼丸を信じてやれ」と言われただけで、親や親族を疑うに足る根拠などなかったことに大典太は愕然となる。
     だが、鬼丸が弾かれたように身を起こし、「三日月が……どうした」と低く喉奥で唸るように声を押し出してきたことにより、あの謎の男と鬼丸が無関係ではないのだと察した。
    「……初めてあんたを見た日に不思議な男に会った」
    「それで?」
    「なにか話したと思うが、俺も小さかったからな。……覚えていない」
     さらり、と真顔で嘘を吐き、大典太は逆に鬼丸に問いを投げる。
    「あの男は三日月というのか。一体何者だ」
    「お前が知る必要はない。むしろ関わるな」
     ぴしゃり、とこれ以上はない明確な拒絶を示し、鬼丸は榊で水面を揺らした。
    「もう戻れ。そして二度と来るな」
     一方的に話を打ち切り立ち上がった鬼丸を追うように大典太も腰を上げ、背を向けた肩を強引に掴み引き止める。
    「まだだ。まだなにも、あんたのことを聞いていない」
    「うるさい、いいから戻れ」
     振り返りもせず大典太の手を振り払おうとするも、存外強い力に鬼丸は驚いたように一瞬目を見張る。意志に反して反転させられそうになった身体に力を込めてその場に踏み止まろうとすれば、それを読んでいたか大典太は即座に手を放した。後ろに引かれる力がなくなり前につんのめった鬼丸が畳に倒れ込むよりも早く、大典太が再度腕を伸ばし両の肩を掴む。
     無様に転ぶことはなかったが大典太にいいように遊ばれたようで、鬼丸は怒りに任せて声を荒げようとするも、廊下を音もなく滑るように移動してきた人影に、ちっ、と舌打ちをした。
    「お客人だ」
    「宴の用意をしなければ」
    「急いで戻ることもありませぬ」
    「ごゆるりとおくつろぎなさいませ」
    「いっそお泊まりになられるのがよろしいかと」
     それぞれが口々に勝手なことを言い出し、大典太に近寄ろうとする者達の顔には狐の面。
    「散れ」
     腕を一振りし、鬼丸が低く告げれば、狐面は名残惜しそうに二度、三度と大典太と鬼丸を見やるも、現れたとき同様、するする、と音もなく廊下の向こうへ消えたのだった。
    「……必要以上に構うなと、言っておいたはずだが」
    「それは貴方に対しての話でしょう? お客人は別ですよ」
     一体いつ現れたのか、気がつけば大典太の背後に男がひとり立っており、鬼丸は振り向きもせずその男に話しかけている。
    「ですが、そうですね。人の子に対して少々軽率ではありました。申し訳ありません鬼丸殿」
     詫びてはいるがどこか楽しげな響きに鬼丸は眉間にしわを寄せたまま、ゆうるり、と振り返った。金糸雀色の衣を身に纏った男は口角を上げ、獣の耳のように跳ねた白髪を揺らす。
    「……言いたいことがあるならはっきり言え」
    「はて? この小狐、鬼丸殿に申したいことなどございませんが?」
     くつり、と喉奥で笑う男に、もういい、と疲れたように返し、鬼丸は大典太の二の腕を軽く叩くと黙って歩き出した。大典太はその背に続いて足を踏み出すも、どうにも気に掛かって肩越しに振り返れば、「またのお越しをお待ちしております」と物腰の柔らかな狐は深々と頭を下げたのだった。


     来た時と逆の道筋を辿り、橋を渡りきったところで鬼丸は不意に足を止めた。
     前を塞がれた大典太は何事かと鬼丸の横顔を覗き込もうとするも、すっ、と上げられた右手に制され動きを止める。
     どこか警戒するような空気を滲ませる鬼丸の視線を辿り、ゆうるり、と頭を巡らせれば、視界に飛び込んできた鮮やかな青に知らず息を飲む。
     辺りは夕陽に照らされ赤く染まっているにも関わらず、彼だけが世界から切り離されたかのように青はなにに染まることなく記憶にある青のままだ。
    「……三日月宗近」
     低く重くまるで呪詛かのように、鬼丸の喉奥からその名が吐かれる。
    「なにをしに来た」
     警戒心も露わに鬼丸は三日月の視線から大典太を隠すかのように一歩前に出た。
    「随分とつれないことを言う。良い酒が手に入ったのでな、お裾分けだ」
     ほれ、と手に提げていた風呂敷に包まれた瓶を軽く持ち上げて見せ、三日月は柔く眦を下げた。
    「大典太光世も一緒にどうだ?」
    「それが狙いか……ふざけるな」
     静かな声音ではあるが途端に眦を吊り上げた鬼丸の反応に三日月は、きょとん、と目を丸くするも、合点がいったか大仰に溜息をついて見せる。
    「もう童ではないのだから一晩くらい良いだろう?」
    「一晩で済めばいいんだがな」
     一方的な鬼丸の刺々しい物言いには大典太もさすがに眉をひそめた。ふたりの間になにかしら確執があるにしても、誘われた本人を無視して話を進めるのはいかがなものかと、若干ではあるが苛立ちが募る。
    「あんたが決める事じゃないだろう」
     隠しきれない不満が滲み出た声音に、ゆうるり、と鬼丸が振り返った。また威圧するような「うるさい」が飛び出すかと思いきや、その面に浮かんでいたのは怒りや苛立ちではなく、憂いや危惧、そこに幾ばくかの寂寥感を湛えていた。
     だがそれは一瞬のことで、直ぐさま口をへの字に引き結び、じっ、と睨み付けるかのように大典太の瞳を見据えてくる。
    「わかっているのか? 真っ当ではない場所での『一晩』だぞ」
     改めて問われ、大典太は弾かれたように赤く染まった空を見上げた。蔵を出てすぐに鬼丸の元へ来たのだから、時間は昼を少し過ぎた辺りだったはずだ。
     正確な経過時間を知る術はないが己の感覚を信じるならば、屋敷で鬼丸と話していたのは一時間にも満たなかっただろう。だとするといくらなんでも陽が落ちるのが早すぎると、大典太は驚きと軽い混乱で口を僅かに開くも言葉が出ない。
    「なるほど。それなら俺がちゃんと送り届けてやれば問題ないな」
     はっはっはっ、と声を上げて笑う三日月の言っている意味はよくわからないが、ぐぅ、と喉奥で低く唸った鬼丸の様子からして反論できない事のようだ。
    「よし、では行くか」
     先のやり取りで大典太が唯一わかった事と言えば、鬼丸が三日月に押し切られたという事だ。回れ右をさせられ橋を戻り、屋敷に入ってからも鬼丸の表情は険しいままで、そこまで自分は拒まれ煩わしく思われているのかと、大典太は悲しくなる。
     どこからともなく現れた狐面が盃を三日月と大典太に渡し、そのまま音もなく去っていく。
    「ふたりで勝手にやってろ」
     そう言うとひとり腰を下ろさなかった鬼丸は大典太に目をやることなく、大股に部屋を出て行った。
    「……俺は、随分と嫌われているようだ」
     空の盃に目を落とし、ぽつり、漏らされた大典太の呟きに、三日月は、くつくつ、と喉を鳴らす。
    「鬼丸がお前をか? まさか。そのようなこと天地がひっくり返ろうともあるわけがない」
     しゅるしゅる、と風呂敷を解きながらどこか愉快そうに言葉を紡ぐ三日月は柔く眦を下げており、しょうのない奴め、と呟かれた声音もとても柔いものだ。
    「あれはな、お前のことが大切で大切でたまらんのだ」
     傍らの水盆に手を伸ばし、鬼丸がやっていたように三日月も榊で水面を揺らす。来い来い、と手招きされ大典太が水盆を覗き込めば、そこには鬼丸の姿が映し出されていた。
    「このようにな、あれは昔からずっとお前の事を見ていてなぁ。あの仏頂面からは想像もつかないだろうが、お前を見ている時はとても穏やかな顔をしていて……正直言うとだな俺も驚いている」
    「……俺はその話に驚けばいいのか、今見ているものに驚けばいいのか」
     水盆の中の鬼丸は別の場所にいる現在の彼なのだろう。
     湯に浸かりながら手掴みで白桃にかぶりついている鬼丸の姿に、大典太は眼が吸い寄せられる。
     ちらり、と覗いた鋭い犬歯が柔い果肉に突き立てられ、口端から垂れた果汁が顎を伝い滴り落ちていく。濡れて艶やかな唇を真っ赤な舌が一舐めする様に、大典太の喉仏が、こくん、と無意識に上下する。
    「さすがに……風呂を覗くのは趣味が悪い、と思うのだが……」
     はっ、と我に返り目を逸らした大典太に、それもそうだな、と三日月がからからと笑いながら榊を揺らせば、波紋と共に鬼丸の姿は消え去った。
    「では先に始めるとするか」
     酒瓶を手に取った三日月に促され大典太も盃を手にする。
    「酒しかなくてすまんな」
    「……いや、十分だ」
    「これ以外をお前に出したら俺が鬼丸に叱られてしまうのでな。許せ」
     はっはっは、と声に出して笑う三日月は冗談を言っているようだが、その実これは重要なことなのだな、と大典太は問いたい気持ちを酒と共に飲み下した。
    「その代わりといってはなんだが、ひとつ昔話をしてやろう」
     大典太が手を伸ばしてきたのを緩く制し、三日月は手酌で注いだ酒を、ゆらゆら、と揺らしながら眼を細める。
    「昔々あるところにひとりの娘がおった。大層美しいその娘は家柄にも恵まれ、本人にも特別な力があり、蝶よ花よと育てられた娘はなにひとつ不自由のない生活を送っていた──」

     ──祈りは病魔を退け、触れれば不浄を払う力は一族の中でも特に強いが故に、その身が危険に曝される事を危惧した両親は彼女に守人としてひとりの男をつけた。
     分家筋であるその男の一族は妖物退治を生業としており、当然のことながら武に長け、形を成さぬ厄災を両断できるとまで言わしめた手練れであった。
     職務に忠実で寡黙。影のように付き従う男に愛想はなく、感情を表に出すことはなかった。彼の容姿が整っていたこともあり、まるで絡繰り人形のようだと、ひそひそ、と影で言う者達もいた。
     守人といっても四六時中、娘と共にいるわけではない。男が呼ばれるのは娘が屋敷の外へ出る時と、生業としている病の治癒や不浄払いの時だけであった。
     秀でた力を持っていようとも年頃の娘である。接する人間は限られており、更に年の近い異性は極僅かだ。そのような状況下で娘が守人に懸想するのは、当然の結果と言えた。
     だが、男はあくまで娘の守人でしかなく、靡くことは決してなかった。
     思いに応えてくれずとも傍にいてくれるのなら、と思っていた娘だが、日を追う毎に募る愛しさは増すばかりで、どうすれば一秒でも多く彼を己の傍に留めておく事ができるだろうかと、そればかりを考えるようになっていた。
     病気を治してくれ、お払いをしてくれ、と門を叩く者が増えれば、今以上に彼と居ることができる。そう気づいた娘は口角を吊り上げた。
     そこで娘は道を踏み外したのだ。
     土地神が祀られている祠の更に奥、そこに僅かな綻びがあることを娘の一族は皆知っていた。
     結界の要である祠を壊せば綻びは広がり、ぽっかりと口を開ける穴が厄災を撒き散らすことを、皆知っていた。
     深夜に屋敷を抜け出し、ひとり森へ踏み込んだ娘の眼は爛々と光っており、美しいかんばせは見る影もなく歪んでいる。手にした鉈を振り上げ、一心不乱に木製の祠に叩きつける姿は鬼気迫るものがあった。
     ばらばらと無惨にも木片へと変わり果てた祠の後ろから、不意に生ぬるい風が吹いた。それは徐々に勢いを増し、轟と逆巻く風が娘の髪を天に向かって巻き上げた。
     開いた、と娘の面に喜色が浮かぶ。これで彼はずっと自分と一緒だと、高らかに嗤いながら一歩、二歩と後ずさり、そのまま屋敷に向かって駆けていく。
     乱れた髪の間から天に向かって伸びる二本の角に、娘自身は気づいていないのだった──

    「──いやはや、情念とは時に人を狂わせる。恐ろしいものよな」
     くい、と三日月が盃を傾けたことで話に聞き入っていた大典太は、そこでようやく息をついた。かさかさに渇いていた口内を酒で潤し、促されて再度三日月に盃を差し出す。
    「それで、その娘は……」
    「愛しい男に斬られて終いだ」
     勿体ぶるでもなく淡々と返された答えに、大典太は応じる言葉が見つからない。
    「俺としては勝手をやって土地を穢した一族など滅んでしまえと思ったんだが、どうしてもと頼まれてな。『門』を作って結界も張ってやったぞ」
     褒めろ褒めろ、と鷹揚に笑う三日月の発言に、大典太は即座になにを言われたのか理解できなかったが、じわじわ、と言葉の意味が脳に浸透するに従って目が見開かれていく。
    「……『門』を、作った……? あんたが……?」
    「そうだ。結界もだがあれが人に作れる物かどうか、お前ならわかるだろう?」
     そもそもの始まりからして嘘だったのだと、なにひとつとして本当のことなど伝えられていなかったのだと、愕然とする大典太を気の毒そうに見やるも、三日月は話をやめる気はない。
    「今でこそ『門』は閉じかかっているが、それは鬼丸の一族が何世代もかけて此方と彼方の繋がりを断ち切ってきたからこそだ。障気渦巻くこの地に留まり昼夜問わず、ただひたすらに、狂うていく娘を救ってやれなかったと悔いて、ただただそれだけを理由に刀を振るう男を愚かと思うか?」
     そっ、と目を伏せた三日月の睫毛が頬に落とす影を、大典太は黙って見つめるしかできない。
    「鬼丸は……鬼丸国綱は鬼などではない。あれの一族はみな人だ。姿形は変われど、人なのだ」
     障気に侵され異形へと変ずる彼らを少しでも救いたいと、三日月はこの屋敷を造った。神の領域であるここに居続けては、いずれ人の理を外れてしまうのはわかっていた。それでも、人の心を持ち続ける者達に手を差し伸べたかったのだ。
     ひとり、またひとりと、櫛の歯が欠けるように消えていく彼らの姿を、三日月は誰一人欠けることなく全て覚えている。
    「……大典太の家の者もな、初めのうちは責任を感じてか色々と協力していたんだが、時間が経つにつれ、自分たちが手を貸さずともいいだろうとの空気になり、世代を重ねる毎に伝えられる話は都合良く変えられ、歪み、あとはお前が知る話が残されたというわけだ」
    「……なら、どうして」
     掠れた声を押し出す大典太は苦しげに眉を寄せ、己の胸の辺りをきつく掴んだ。
    「俺は恨まれこそすれ、大切に思われるのはおかしいだろう!?」
     やはり自分は鬼丸に嫌われている、いやそれどころか憎まれていてもおかしくないと、大典太は、くしゃり、と顔を歪める。そう思っただけでどうしてこんなに悲しいのか、理解の追いつかない感情に、更に眉根が寄った。
    「どうして、か。それは俺にはわからんなぁ……なぁ鬼丸よ。いつまでも立ち聞きしていないで、こちらへ来たらどうだ?」
     瞼を伏せ盃に形の良い唇を寄せた三日月の言葉に、大典太は弾かれたように顔を廊下へ向ける。暗がりから、じわり、と滲み出るように現れた鬼丸は凪いだ眼差しで大典太を、ひた、と捉えた。
     乾ききっていない髪から、ぽたり、と滴が垂れ、鬼丸の着物を色濃く染める。足袋に包まれた足は畳を踏むことはなく、その場から動く気配はない。
     暫し無言で視線を絡み合わせていたふたりだが、大典太が僅かに唇を震わせた刹那、鬼丸の握る刀が、かちゃり、と鳴った。
    「自分が殺す相手のことを知る必要などないだろう」
     それが嘲るような声音であったのなら、どれだけよかっただろう。静かに、ただ静かに紡がれたそれは、諦観と懇願の響きでもって大典太の心を抉った。鋭く切り裂かれる痛みではない。じくじくと鈍く疼き蝕み続ける痛みだ。
    「お前が聞いた話は全てが嘘じゃない。ひとつだけ、正しく伝わっている」
     すっ、と鬼丸の右手が己の首を真横に薙いだ。
    「事が全て収まった後、最後のひとりを斬る。大典太家の当主に課せられた使命だ」
    「……ふざけるな」
    「ふざけてなどいない」
     強張る唇から押し出された固い声音に、表情ひとつ動かさず鬼丸は淡々と返す。
    「鬼となった娘を斬った男の末裔を、斬られた娘の末裔が斬る。これで因縁は断ち切られ、双方後腐れ無く終われるというだけの話だ」
     なによりも間違いであって欲しいと思っていた事だけが正しかったのだと断言され、大典太は奥歯を、ぎりり、と強く噛み締める。
     そんなものは詭弁だと、喚き散らして鬼丸の横っ面をぶん殴ってやりたい衝動に駆られるも、それでは子供の駄々と何ら変わりないではないかと、なけなしの理性が押しとどめてくる。
    「そんな話……知ったことか」
     震える拳を隠しもせず腹の奥底から絞り出した大典太の言葉に、鬼丸の眉が僅かに上がった。
    「昔の因縁なんぞ知ったことか! 俺は、今ここに居るあんた自身の話を聞きたいんだ!!」
     勢いのままに立ち上がった大典太が大股に鬼丸に近づこうとするも、滑るように現れた狐面に進路を阻まれる。思わず蹈鞴を踏んだ大典太の目の前に一体、気づけば鬼丸の傍にも一体。
    「……そうか」
     僅かに身を屈め、狐面の耳打ちに短く返した鬼丸は、くるり、と踵を返すと暗がりに溶け込んでいく。
    「三日月、あとは頼んだ」
     それだけを残し、鬼丸の姿は完全に消え失せたのだった。
    「頼まれたからには仕事をせんとなぁ」
     一切、口を挟んでこなかった三日月が、仕方ないと言わんばかりの口調で腰を上げた。
    「今日の所はこれでお開きとするか。鬼丸と飲めなかったのは残念だが、致し方あるまい」
     ひとり話について行けていない大典太は、目の前から動こうとしない狐面を見やり、次いで困り果てた様子で三日月を見た。
    「この者は俺が連れて行くから、お前は下がって良いぞ」
     三日月が緩く手を払えば狐面は身を引き、廊下の暗がりへと消えて行く。その背を見届け、三日月は大典太に向き直った。
    「では行くか」
    「待ってくれ。なにが起こっているか説明してくれないか」
    「いらぬことを言って鬼丸に怒られるのは俺なんだがなぁ」
     はぐらかすように笑う三日月に業を煮やしたか、大典太は三日月を無視して鬼丸が消えた方向へと足を向ける。
    「どこへ行く」
    「決まっているだろう。追いかけるだけだ」
     誰を、とは言わなかったが相手はひとりしかいない。
     更に言うなれば、鬼丸が刀を携えて行ったということは、行き先は『門』しかない。
    「待て待て。それは困る」
     相も変わらず緩い口調ではあるが、大典太の腕を取った三日月の手に込められた力はそれを裏切るには十分であった。
    「あれの足を引っ張りたくはないだろう?」
     ぐっ、と顔を寄せ、下から覗き込んでくる瞳に輝く三日月は冴え冴えとした色をたたえており、それを目にした大典太は、ぞわり、と首筋の産毛が逆立つ心地を覚えた。
     困った子供らだ、とぼやき大典太の腕を掴んだまま三日月は水盆へ寄り、並んで座るよう促してから榊で水面を叩く。揺れる水面の向こうに人影が現れ、徐々に焦点が結ばれていく。
     閃く白刃が黒い靄を切り裂き、青白い炎が鬼丸の目の前で、ぱっ、と弾ける。
    「……小狐丸が手を貸す程か」
     状況を読み取ったか、ふむ、と漏らした三日月の表情はどこか浮かない。
     鬼丸と共に映っているのは、金糸雀色の着物を身に纏った大典太も見覚えのある男だ。手助けが必要ならばやはり行くべきだ、と腰を浮かしかけた大典太を、三日月が視線だけで止める。
     行動を制限されるばかりで説明は一切成されず、いい加減にしろと言わんばかりに大典太の目に険が滲む。さすがにしらばっくれるのも限界かと、三日月は緩く息を吐くとまっすぐに相手の目を見た。
    「あれらはお前の残り香に誘発されて来たと見て間違いないな」
    「……俺の?」
     どういうことだ、と大典太の顔にありありと出ている。
    「あれらとお前は性質が真逆だからな。わかりやすく言えば『敵認定』されているということだ」
     三日月が話している間も鬼丸は刀を振るい続けている。
     靄が鬼丸の左腕にまとわりついたと思うや、着物が黒く染まりボロボロと崩れ落ちていく。露わになった白い肌が瞬時に焼け爛れたように色を変え、大典太が息を飲んだ瞬間、狐火が鬼丸の腕を覆い靄を焼き尽くした。
    「……腕ごと焼かれたが大丈夫なのか」
    「大丈夫ではないが、爛れ腐るよりはマシといったところだな」
     実体のない物を斬り続ける鬼丸の姿に、大典太は唇を噛み締める。彼は刀で斬っているのではない。刀に乗せた己の生命力で斬っているのだ。幼い頃に見た鬼丸の戦う姿が美しいと感じたのは、彼の生命の輝きが穢れのない純粋な物であったからだと今ならわかる。
    「……いつもこうなのか」
    「そうだ。だが此処まで戻ってくれば俺がどうにかしてやると約束しているからな」
     存外、強く響いた声に大典太は驚いたように三日月を見た。
    「なんだ?」
    「いや、あんたと鬼丸は仲が悪いとばかり……」
     鬼丸のあの刺々しい態度を見たばかりではそう思われても仕方がないのだが、三日月はどこか愉快そうに眼を細め、そんなことはないぞ、と喉奥で笑う。
     実際、鬼丸は口は悪いが三日月にも小狐丸にも悪感情は抱いていない。ただし、大典太が関わっていなければの話だが。
     これを大典太本人に告げてはさすがに斬られてしまいそうだ、と三日月は内心で苦笑する。
     細く開いた門の隙間から這い出る靄が途切れたところで、鬼丸は刀を己の身体の正面に上げると水平に持ち、刃を上に向けるや突き出した左腕を勢いよく刃の上で振り抜いた。びしゃり、と放射状に門に叩きつけられた大量の血に大典太の喉が、ひゅっ、と鳴る。
    「一体、なにを……」
    「一時的だが、封印だな。だが、積み重ねていけば強力な封印となる。鬼丸達はこれまでもそうやってあそこまで門を閉じてきた」
     軽く刀を振って血を払い、そのまま鞘に収めようとするも小狐丸に止められ、鬼丸は渋々刀を彼に渡すと、腕を伝い地面に流れ落ちる血を気にした様子もなく歩き出した。
    「お前を帰さなかったことを叱られてしまうなぁ」
     程なくして鬼丸は此処に戻ってくるだろう。本気か冗談か、眼を細める三日月に大典太は口角を吊り上げる。
    「その時は俺が勝手に居座ったと言えばいい」
     なにも言わない鬼丸が悪いのだ、と大典太も眼を細めれば、それくらい強かな方が鬼丸には丁度いい、と三日月も口角を吊り上げた。
     戻ってきた鬼丸がどのような反応を見せるのかと、今か今かと待っていた三日月と大典太だが、彼が姿を見せる気配は一向になく互いに顔を見合わせる。
    「遅いな」
    「途中で倒れているんじゃ……」
     見る間に、さぁっ、と大典太の顔から血の気が引いていく。三日月が止める間もなく部屋を飛び出そうとするも、ひょこり、と現れた小狐丸とぶつかりそうになり、寸でのところで踏み止まった。
    「どうしました、そんなに慌てて」
     不注意な行動を咎めることなく穏やかに問うてきた小狐丸に、すまない、と頭を下げてから、大典太は口早に鬼丸の安否を尋ねる。
    「あぁ、心配せずとも大丈夫ですよ。湯殿に直接放り込んできましたので、三日月殿を呼びに来ました」
    「そうか。ではちょっと行ってくる」
    「はい。よろしくお願いします」
     特段急いだ素振りもなく悠々と部屋を出て行く三日月の背中を見送り、大典太は所在なさげに視線を彷徨わせた。共に行きたい気持ちはやまやまだが、了承を得ずに着いていくのはさすがに無礼であると理解している。
     おとなしく部屋の中程へと戻り水盆の傍に腰を下ろせば、何故か小狐丸も向かいに座った。
    「あんたは行かなくていいのか」
    「えぇ、私は刀の手入れがありますので」
     携えていた刀は先ほど手渡された鬼丸の物で、畳に置かれたそれを大典太は食い入るように見つめる。鞘には大小様々な傷が刻まれているが、刀身は刃こぼれひとつ無く、表面は濡れたようなしっとりとした輝きを放っている。
     手入れと言うからには目釘を外したりと細々とした作業をするのかと思いきや、小狐丸は真っ直ぐに揃えた右の人差し指と中指を刀身に触れるか触れないかの位置で、ゆっくりと横に沿わせていくだけだ。
    「余計な物がついてきていたらことですからね」
     ジジッ、となにかが焼け焦げるような小さな音に、大典太は僅かに眉根を寄せる。一瞬ではあったが、非常に不快な臭いが立ち上った気がしたのだ。
    「彼の生命の灯火を受け止め続けている、この世にふたつとない逸品です。神刀とまではいきませんが、霊刀といって差し支えないかと。とても美しいと思いませんか」
    「あぁ、まるで……鬼丸そのもののように美しいな」
     手を伸ばすことはしなかったが、大典太の目はそれに触れたいと切望している。
    「貴方、本当に鬼丸殿を好いているのですねぇ」
     微塵も照れることなく讃辞を口にした大典太に感心の声を上げれば、当の本人は不思議そうな顔で小狐丸を見返してきた。
    「俺が、鬼丸を、好いて……?」
    「えぇ、恋い焦がれて、片時も離れたくない、離したくないと言わんばかりの熱情を感じましたが、違いましたか?」
     ほぼほぼ名前しか知らぬ素性もわからぬ男相手によくもここまで熱量を注げる物だと、これまでの行動に小狐丸は心底感心していたのだが、大典太のこの反応は正直予想外であった。
     一方、指摘された大典太は胸のつかえが、すとん、と落ちた心地だ。
    「そうか、俺は……」
     鬼丸に嫌われている、憎まれていてもおかしくないと、そう思っただけで悲しくなった理由がやっとわかったのだ。
     おそらく幼い頃に一目見た瞬間から、その美しい姿に、その魂に、心奪われていたのだ。
     難しいことはなにひとつなく、ただただ、彼のことが好きなだけなのだ。
    「自覚したのが今とか。人は本当に面白いですね」
     表情の変化から大典太の心境を読み取ったか、小狐丸は柔く眦を下げる。
    「私も三日月殿も人のフリはできますが、所詮は真似事です。そんな我らとしか過ごして来なかった鬼丸殿は、人というものをわかっていないのでしょうね」
     瞳に若干の痛ましさを乗せてしまった小狐丸は、それを隠すように瞼を閉じた。
     鬼丸が生まれると同時に母はこの世を去り、それから緩やかにではあったが血族はひとり、またひとりと命の火を消し、永い永い歳月の後とうとう鬼丸は独りとなった。日々厄災を斬り続けることだけを目的とし、それ以外を知らずに生きてきた者が、情緒など育つはずもなかった。
     だが、ある日を境に鬼丸に変化が現れた。
     人の世で大典太光世が生を受けた日だ。
     これまでも大典太家に子が生まれるたびに鬼丸は水盆で様子を見ていたが、それはただの作業でしかなかった。自分を殺すやもしれぬ相手を知っておくという、ただの確認事項でしかなかったのだ。
     絡繰り人形のようであった男が初めて笑みを浮かべた日を、小狐丸は昨日のことのように覚えている。
     三日月が幼い大典太にちょっかいをかけた時、烈火のごとく怒り狂った鬼丸の姿を昨日のことのように覚えている。
    「鬼丸殿のところに行きますか?」
     人に対する好意の示し方を知らぬ鬼丸の態度に少なからず傷ついているであろうに、それでも相手を気にかけ心配する大典太への小狐丸なりの気遣いだ。
    「いいのか」
    「はい。ただし、様子を見るだけですよ」
     そう言いながら、ごそ、と小狐丸が懐から取り出したのは狐の面。
    「これを着ければ他の者からは背格好からなにから違って見えるようになりますので、貴方だとは気づかれないでしょう」
     刀を鞘へ仕舞い、すっ、と立ち上がった小狐丸の背に続き、大典太も部屋を出る。歩きながら面を着けたが不思議と視界は狭まらず、本当に面が顔を覆っているのかと不安になり何度も着けては外しを繰り返していれば、ちら、と肩越しに振り返った小狐丸に、大丈夫ですよ、と笑われた。
     途中の部屋で揃えた鬼丸の着替えは大典太が持ち、湯殿へ入る前に小狐丸から改めて「なるべく声も出さないように」と念を押される。
    「では参りますか」
     戸を横に滑らせ足を踏み入れた小狐丸が声をかける前に、顔を向けてきた三日月が、おや、と小さく漏らした。
    「着替えを持って参りました」
     小狐丸の背後に隠れるように立つ大典太は、三日月から寄越される視線で彼にはバレていると悟ったが、なにも言ってこないところを見ると居ても構わないということなのだろう。
    「具合の程はいかがですか」
    「なに、腕が千切れたわけでなし。すぐに良くなる」
     洗い場より下にある湯に浸かっている鬼丸は若干俯いており、子供をあやすように頭を撫でてくる三日月の手を、意外なことに振り払う素振りもない。
    「ただ少々、へこたれてしまったようでな」
    「……『門』が完全に閉じるまで、あとどれくらいかかる」
     ぼそり、と零れ落ちた声はとても弱々しい物で、大典太は面の下で目を見張る。
    「光世が、生きている間に……閉じられるのか?」
     ぱしゃり、と湯から引き上げられた右手が、眼帯に覆われた方とは逆の目を隠す。
    「おれは……光世に殺されたい」
     震える唇が、震える声が紡いだ言葉に大典太は息を飲む。
    「光世以外に殺されたくない」
     ぽつぽつ、と零れ落ちる滴が水面にいくつも波紋を作る。
    「光世以外に殺されるのは、いやだ……」
     大典太家の当主に斬られて終わる。
     それに疑念を抱くことはなかった。
     鬼丸の一族が存在する理由はそれしかなかった。
     それ以外の道を示す者は一人として居なかったのだ。
     選り好みが出来る立場ではないと、鬼丸は痛いほど理解している。だが、それでも湧き上がる衝動を抑えることが出来なかった。
     胸の奥から次から次へと湧き出す熱く重く苦しい物の正体はわからず、言葉が出ない代わりのようにただただ涙が零れ続ける。
     あまりのもどかしさに喉元や胸元を掻き毟りそうになるも、三日月に、そっ、と頭を抱かれ、昂ぶっていた感情が徐々に落ち着きを取り戻し始めた。
    「そうかそうか。お前自身の気持ちを聞くのはこれが初めてだなぁ」
     着物が濡れるのも厭わず鬼丸を抱擁する三日月の姿に、大典太は胸の奥が、しくり、と痛む。幼い自分に鬼丸を救えると信じていると言ってきた彼は、傷を負いながらも刀を振るい続ける鬼丸を今日までどのような気持ちで見てきたのだろうか。
    「大典太光世はお前にとって特別なのだな」
     微かに揺れた頭髪で鬼丸が頷いたのだとわかった。
    「どうして特別なのか聞かせてくれぬか?」
     ゆるゆる、と濡れた髪を撫でながら、三日月が穏やかに歌うように言葉を紡ぐ。まるで子守歌を聴いているかのような心地好さに、大典太の頭の芯が若干ぼんやりとしてくる。ふわふわとした綿雲に乗っているかのように身体の重さを一切感じず、目に見えぬ腕に優しく抱き込まれていくようだ。
     それに気づいたか、小狐丸が狐面の鼻面を指先で軽く弾いた。面を通して伝わった衝撃はさほど大きな物ではないが、脳を揺さぶられたかのような感覚に大典太は、はっ、と正気を取り戻した。
    「神様の甘言など人が聞く物ではありませんね」
     大丈夫ですか? と小声で問うてくる小狐丸に頷きで返し、大典太は正気を保ち続けるために血が滲むほどに強く唇を噛み締める。
     優しく頭を撫で続ける三日月に促されたか、きつく引き結ばれ微かに震えていた鬼丸の唇が薄く開いていく。
    「おれを、見たんだ……」
     右手は湯へと沈み、代わりに上がった左手が眼帯の上から左目を軽く押さえた。
     大典太の家に新たな子が生まれたと三日月に教えられ、水盆を通して見た赤子は誰の腕に抱かれているのか、穏やかな眠りについていた。
     今日に至るまで凡百の当主を見てきたが、世代を重ねるに連れて強い霊力を持った者は消え極々平凡に成り下がっていき、大典太の家も落ちたものだ、と落胆しか覚えなかった。
     だが、彼は違ったのだ。
     これまで同様、確認のために赤子を見た。刹那、前触れ無く開かれた眼が、確かに鬼丸を捉えたのだ。ばちり、と音がしたかのような錯覚に、思わず左目を掌で覆い隠してしまった。それほどまでに受けた衝撃は大きく、口内がカラカラに渇いていく。
     鬼丸の左目は特別なモノを映す。同時にそれを認識できるモノからも特別に映る。
     生まれたばかりの赤子は視界が不明瞭で、しっかりと物を知覚できないことは理解している。たまたま目を開けただけだ、と己に言い聞かせるように左目を隠したまま再度水盆を覗き込めば、周りの者にあやされているのか赤子は声を上げて笑っていた。
     やはり偶然だ、と知らず力が入っていた左手を下ろした瞬間、赤子は笑いながら小さな手を此方へと伸ばしてきたのだ。端から見ればなにもない虚空に向かって手を伸ばすという、異様な光景であっただろう。
    「おれが此処にいると、気づいたのは光世だけだった」
     この時、胸の奥から湧き上がってきた感覚を説明できる言葉を、鬼丸は持っていなかった。ただただ、胸が苦しく、だが不快ではない。むしろ彼をずっと見ていたいと、見守りたいと、そう思ったのだ。
    「あぁ、だから眼帯をするようになったのか。俺はてっきりお洒落に目覚めたのかと思ったぞ」
    「……そんなわけあるか」
     ふふ、と柔く笑う三日月にいつも通りの口調で返してきた鬼丸の様子から、もう大丈夫だと判断したか小狐丸がふたりの元に歩み寄る。
    「いつまでも湯に浸かっていてはふやけてしまいますよ。三日月殿もいい加減、童扱いはおよしなさい」
    「俺からすれば人はいくつになっても童と同じようなものだぞ。それに、鬼丸のことを頼むと言われてしまったからなぁ」
     ひとり、またひとりと先に逝ってしまった者達に託された子は、とても真っ直ぐで不器用に育ってしまった。それでも三日月なりにやれることをしてきたつもりだ。独りでは眠ることもままなるまいと、そうなる前に知己の狐に助力を願い出れば、貴方が頭を下げるなど珍しいこともある物だと笑われた。
     それでも鬼丸は狐達には見張りしかさせず、たとえ眠っていようとも知らせを受ければ飛び起き刀を振るった。
     身を削り、心を磨り減らし、喜びも、愛されることも知らぬまま、その行き着く先が死しかないのでは、あまりにも不憫ではないか。
     最後に、そっ、と柔く髪を撫で、離れていった三日月の手を追うように鬼丸が顔を上げた。見上げた三日月の表情はいつもの飄々としたものではなく、悼みと慈愛が綯い交ぜになった柔らかなもので、こういう時にどう返したものかと困ったように鬼丸は眉を寄せる。
    「急には無理かもしれんが、お前は思ったことを言葉にする練習をした方がいいな」
     すっ、と立ち上がった三日月が不意に大典太へと顔を向けた。
    「おぉそうだ。暫くそこの狐を相手に練習してみるのはどうだ。壁に向かって話すより、相手が居た方がいいだろう?」
     小狐丸に手を借りて湯から上がった鬼丸の視線が大典太を捉える。これまで大典太が見てきた鬼丸は常に険しい表情をしており、視線も射るように鋭い物が多かった。だが、濡れた前髪の合間から覗く眼は険のない穏やかな物で、知らず大典太の口から感じ入ったような溜息が漏れ出た。
    「我らは人の機微には疎いですが、相槌くらいは打てますよ」
     着替えを持ったまま立ち尽くしている大典太の様子に気づいたか、小狐丸は相手を手招きつつどこか悪戯っぽく笑う。
     化かされている鬼丸が愉快なのではなく、鬼丸を大典太が化かしてるという事実が単純に愉快なのだろう。小狐丸に悪気がないことはわかっているが、ばれたときのことをなにも考えていないのではないかと、大典太は気が気でない。
    「先に行って布団の用意をしてください。着替えを取りに寄った部屋ですよ」
     わかりますね? と問われ無言で首肯すれば、では頼みましたよ、と言葉で追いやられた。
     湯殿を後にしたはいいが背後に、ぴたり、とついてくる三日月が大層居心地悪く、大典太は意を決して、くるり、と振り返る。
    「……なんだ」
    「いやなに、道に迷いはしないかと心配でな」
     はっはっは、と呑気に笑う三日月を探るように見てくる大典太の視線に、前置きは不要と察したか、わざとらしい笑みを引っ込めた三日月は大典太と並んで歩き出した。
    「鬼丸は三日ほど床から動けん。普段からこまめに薬湯に入って回復はしているが、まぁ、あれをやった後はいつものことだ」
     左腕を斬る仕草をしてみせた三日月の姿に、門を染めた朱を思い出したか大典太は隠すことなく眉根を寄せる。
    「世話をしつつ、あれが話をしてくるようなら聞いてやってくれ」
    「俺でいいのか?」
    「むしろお前以外にあれを任せられる者を俺は知らないぞ」
     面倒をかけてすまんな、と眉尻を下げる三日月に、今更だな、と大典太は小さく笑んだ。
    「幼い俺に声をかけた時点で、こうなることがわかっていたんじゃないのか」
    「さぁ、どうだろうなぁ」
     三日月が素直に本当のことを言うとは思っていないからか、大典太は惚ける相手を追求することはせずそこで話を終わらせた。
     未来は無数に枝分かれしている。悲しいだけの終わりを回避し、その中での最良を進むべく、三日月は可能性という種を蒔いたに過ぎないのだ。
     仮に蒔いた種が芽を出さず、また根腐れを起こしたとしても、それは仕方のないこととして受け止めるだけであった。
    「お前と共に生きられれば良いのだがなぁ……」
     思わず口を突いて出た望みは大典太の耳には届かず、三日月は失言を隠すかのように袖に隠れた手で口元を覆った。
     小狐丸に言われた通り鬼丸の寝室に入った大典太だが、なにをするでもなくそこにいるだけの三日月の視線が気になって仕方がない。
    「……なんだ?」
     敷き布団を広げ、続けて掛け布団を出すも、ずっとついて回る視線に耐えきれず布団を抱えたまま問えば、三日月は口元に笑みを刻んだまま、ゆうるり、と眼を細めた。
    「いやなに、家ではお付きの者がそういったことをやっているのだろう? 使用人の真似事をさせてしまって、改めて申し訳ないと思っていた」
    「そんなことか」
     どうということはないと言わんばかりの大典太に、三日月の笑みが更に深くなる。
    「鳶が鷹を生むとはこういうことか」
     くつくつ、と喉を鳴らす三日月に胡乱なものを感じたか、大典太の眉間に深いしわが刻まれる。だが、それに気づいているにも関わらず三日月は取り繕うこともしない。
    「そろそろ戻ってくる頃だな。あぁ、そうだ。鬼丸に水盆を持ってくるように言われたら、俺が割ってしまったと言ってくれ」
     大典太は三日月が送り届けたものと鬼丸は思っているに違いない。身体を休めている間も、これまで通り水盆で大典太の様子を見られては困るのだ。
    「鬼丸も狐達を問い質しても無駄なことはわかっているから、深く追求されることはまずないと思っていい。もしなにか聞かれても知らぬ存ぜぬで通せば大丈夫だ」
     では頼んだぞ、と先とは打って変わった飄々とした笑みを浮かべ足取り軽く去っていく三日月の背を見送り、大典太はいつの間にか止めていた息を緩く吐いた。
     敵意や悪意は感じなかったが、三日月はなにかしら思うところがあるらしい。先程の「鳶が鷹を」発言は、褒め言葉のようでその実、なにかを貶めているように大典太は感じたのだ。
     もやもやとした感覚を胸に残しつつも気持ちを切り替え、寝床を整えたのとほぼ同時に小狐丸が鬼丸を連れて戻ってきた。
     肩を貸してはいないがいつでも支えられるようにと、小狐丸の腕が鬼丸の腰に回っている様子からして、相当体力を消耗していると見受けられる。ふたりが布団に寄ったのに合わせて大典太が掛け布団を捲れば、若干俯いていた鬼丸が顔を上げ、すまない、と小さく漏らした。
     その眼差しが、その声音が、一度も向けられたことのない柔い物で、大典太の喉が、ひゅっ、と奇妙な音を立てる。見てはいけない秘密を覗き見てしまったような後ろめたさに、今度は大典太が俯いてしまう。
    「鬼丸殿、こういう時は詫びではなくお礼を言うのですよ」
     もぞもぞ、と横になった鬼丸に布団を掛けながら小狐丸が進言すれば、言われたことを咀嚼しようとしているのか、そうなのか……、と考え込むように鬼丸は目線を落とした。
     三日月も小狐丸も鬼丸の人となりを知っているため、少ない言葉でも彼の言わんとすることや真意を察することが出来る。だが、それ以外の者には鬼丸の意図は正しく伝わらない。現にそれのせいで大典太は鬼丸の好意を好意として理解できずにいる。
    「いきなり練習しろと言われても無理な話ですから、僭越ながら助言をひとつ。正直申し上げて鬼丸殿は言葉が圧倒的に足りないのです。相手になにか伝える時はくどいと思うくらい言葉を連ねなさい。最初は拙くても構いません。伝えようとする姿勢が大事なのです」
     良いですね? と幼い子供に言い聞かせるように静かに問うてくる小狐丸に、あぁ、と頷いてから、ややあって鬼丸は、わかった、と言葉を連ねた。
    「そうそう。眠る前に紹介しておきますね。これが今日から鬼丸殿の世話をします。呼んだばかりで不慣れなこともあり粗相をするやも知れませんが、そこは大目に見てやっていただきたく存じます」
     これ、と大典太に目をやりながら小狐丸が説明すれば、鬼丸は素直にそちらへ顔を向ける。彼の目には一体どのように映っているのかと内心気が気でない大典太だが、黙っているのも不自然かと口蓋に張り付く舌を無理矢理に動かした。
    「よ、ろしく……お願いします」
     ゆっくりと頭を垂れ同じ速度で元の位置に戻せば鬼丸はこちらを凝視したままで、大典太の背に冷たい汗が流れる。
    「どうしました?」
    「いや……良く似ていると……光世の声に」
     ぽつりぽつり、と雨だれのように辿々しくはあったが、問いに対する鬼丸の答えに小狐丸は、その調子ですよ、と満足そうに眼を細めた。
     三日月に託した大典太がここに居るわけがないと、思っているが故に疑うこともないのだろう。大典太の良心はチクチクと痛むが、今更やめるわけにはいかないと腹を括る。
    「あとで様子を見に来ますね」
     お休みなさい、と促し鬼丸が瞼を下ろしたのを確認してから、小狐丸は大典太を伴って退室したのだった。
     水盆のある広間へとふたりが戻れば、三日月がなにやら楽しげに水面を覗き込んでいる。
    「なんですか、ひとりでニヤニヤといやらしい」
     小狐丸の言葉に気を悪くした様子もなく、盃を傾けながら三日月は尚も愉快そうに眼を細める。
    「向こうは大騒ぎだぞ」
    「そうでしょうね」
     ひょい、と水盆を覗き込んだ小狐丸が呆れたように相槌を打つ。自分も見て良い物かどうか判断のつかない大典太は、三歩離れたところで足を止めふたりの様子を窺う。
    「お前が神隠しにあったと大騒ぎだ」
    「それを肴に酒を飲むなど、趣味が悪いにも程がありましょう」
     盃を軽く掲げながら三日月が大典太に向かってご陽気に状況を説明すれば、やはり小狐丸が呆れたように言葉を返す。
    「神隠しとは……とんだ言いがかりだな」
     自分の意志で此処に留まると決めた大典太からすれば、三日月に濡れ衣を着せてしまっている状態だ。
    「なぁに丁度良い。その勘違いを利用させてもらおうではないか」
     くつくつ、と喉奥で笑う三日月には最早なにを言っても無駄だと諦めたか、小狐丸は、それで? と話の先を促した。
    「前当主の夢枕に立って『光世を無事に帰して欲しくば供物を捧げよ』とでも言ってやるか。光世にこちらの物を食べさせるわけにはいかないからなぁ」
    「言い分はわかりましたが、それではまるで邪神ですよ」
    「ダメか?」
    「言い方次第ですね」
     話を拗らせかねない三日月の案に小狐丸が苦笑いで返す。
    「わかったわかった。あと念のため、分家の方にも行っておくとしよう。……昔から分家の方が俺を大事にしてくれたからなぁ」
     ぱしゃぱしゃ、と水面を榊で叩きながら三日月が漏らした言葉に、大典太はどこか後ろめたい顔をした。
     あの一件以降、妖物退治は鬼丸の一族とは別の分家が担っている。土地神の祠は分家の者が住んでいる離れの傍にあり、本家の者は滅多なことでは近づかないのだった。幼い頃からそれを不思議に思っていたが、三日月から本当の話を聞いてしまった今ならば理由がわかる。
    「……正直言うとだな、大典太光世。俺はお前を帰さなくてもいいと思っている」
     怜悧な光を帯びた眼に宿る三日月に見据えられ、大典太の背が粟立った。腹の奥底から湧き上がるのは神に対する畏怖か、それとも純粋なる恐怖か。
    「俺の土地を穢した者を、俺は一度たりとも赦した覚えはない。滅びてしまえと、今でも思っている」
     これまで聞いたことのない凍てつくような声音に、大典太は本当に身体が凍り付いてしまったかのような錯覚に陥る。
    「昔から傲慢で、都合の良いときだけ俺に頼る、そんな者達だった」
     今よりも神との距離が近い時代だった。綻びが広がらぬようにと祠を建てて、結界の要になって欲しいと懇願してきたのは本家の者だ。
     だがその後、祠の手入れを行い三日月への供物を捧げ、大事に守り続けてきたのは鬼丸の一族だった。
    「……なら、どうして……『門』と結界を……」

     ──どうしてもと頼まれてな。『門』を作って結界も張ってやったぞ。

     三日月の言葉を思い出し、大典太が震える唇で必死に言葉を紡げば、神は場に不似合いなほどの柔い笑みを浮かべた。
    「大典太の者に頼まれたとは、俺は一度も言っていないぞ」
     解き放たれた厄災が渦を巻き、天に向かうにつれて大きく広がっていく。あぁこのまま四方八方へと散るのだな、と澱んだ眼差しで黒煙にも黒雲にも見える禍々しいそれを見上げていた三日月の背後から、異変をいち早く察知し駆け付けた者が神の名を呼んだ。それは娘の守人であり鬼丸家で一番年若い男であった。
     その男が地面に額を擦り付け、懇願してきたのだ。
     ここに来る前に娘を手にかけたことを告白し、己の力不足を悔やみ、どれだけ時間が掛かろうとも後始末は自分がすると、差し出せる物は己の身ひとつしかないがどうか力を貸して欲しいと、愚直なその姿に呆れよりも愛しさが勝った。
     常日頃から三日月を敬い、尊重してきた一族の者だ。ならば力を貸しても良かろうと、曇っていた眼の三日月が輝きを取り戻す。
     まずはすでに解き放たれた物をこの場に押し止めるべく結界を張る。宙に指を滑らせ刻んだ紋に、ふっ、と息を吹きかけ要所要所へと飛ばす。地を擦るように移動しながら紋を刻み、先に飛ばした物と強固に結びつけていく。
     袂を翻しまるで舞っているかのような優美な姿を、気がつけば複数の者が見守っていた。
    「これまで彼らは失うばかりだった。それに引き替えなにも対価を支払ってこなかったあやつらは、そろそろツケを払ってもいいと思わんか? なぁ、大典太光世」
     瞼の裏に焼き付いて離れない光景に、三日月の声音は低くなるも浮かんだ笑みはそのままだ。
    「そこまでになさい。三日月殿」
     きゅむり、と不意に小狐丸が三日月の鼻頭を指先で摘み上げた。途端に張り詰めていた空気は霧散し一気に和らいだ物へと変わったことで、呼吸が楽になった大典太は色の失せた唇で喘ぐように空気を貪る。それを横目に小狐丸は訥々と言葉を繰った。
    「親の因果が子に報うとは言いますが、本当のことを知る術の無かった彼の事情も汲むべきです。それは貴方もわかっているでしょうに」
    「力もあり話のわかる者が久々に現れたのだ。少しくらい俺の愚痴を聞いて貰っても良いではないか」
     愚痴では済まない内容だったが……、と物申したいところだが、三日月から視線を外された瞬間、膝から力が抜けその場にへたり込んでしまった大典太は口を開く気力もない。
    「お前のことは好ましく思っているからな。危害を加える気は全くないぞ」
     ひょい、と大典太の顔を覗き込むように首をやや傾げ、カラカラ、と笑う三日月に、たった今危害を加えんばかりであった者が良く言う、と大典太に代わって小狐丸が苦言を呈せば、お前はどちらの味方だ、と三日月が不満たっぷりに狐を上目に睨む。
    「どちらの味方でもありませんよ。面倒事がご免なだけです」
     三日月の側を離れ大典太に寄った小狐丸は、立てますか? と手を差し伸べた。いつまでも座り込んでいるのも体裁が悪いと大典太が素直に手を取れば、適度な力加減で引き起こされよろめくこともなかった。
    「神隠し騒動の真相は分家の者には伝えておいた方が良いと思いますよ」
     大典太の手を取ったまま、味方は多いに越したことはないでしょう、と小狐丸が進言すれば、三日月は傍らの酒瓶を手に取り、まじまじ、と眺めてからひとつ頷いた。
    「そうだな、話のわかる者がもうひとり居たな」
     分家で話がわかる者と言えば、大典太もひとり心当たりがあった。
    「もしかして、ソハヤ、か?」
    「そうだ。これを寄越したのもお前の弟だぞ」
     ご機嫌な様子で軽く酒瓶を掲げて見せてきた三日月だが、ふとなにか思い当たったか顔を曇らせる。
    「もう何年も会っていないのだったな」
     大典太が三日月の手引きで鬼丸に初めて会った日からさほど日を置かず、弟のソハヤは分家へ養子として出されてしまったのだ。
     これまでは過去の威光でどうにか分家を抑えていたが力関係は既に逆転しており、表だった動きはなくとも燻る不満を抱えていた分家は本家を見限る寸前であった。
     そのような状況下で生まれたのが光世で、彼の類い希なる霊力の強さに本家の者達は虎の威を借る狐の如く増長した。翌年に生まれたソハヤも光世には及ばぬ物の良質な霊力を持っており、剣の稽古では光世よりも筋がいいともっぱらの評判であった。
     大典太家の当主とするべく光世は屋敷の外へは一切出さぬという軟禁状態で手元に残し、ソハヤは分家を繋ぎ止めるためといえばまだ聞こえはいいが、実際は本家が介入しやすくするための手駒扱いであった。
     ただし、ここで大きな誤算が生じる。ソハヤも光世同様聡明で、傀儡になるような愚かな男ではなかったのだ。
     それが徐々に顕著になるや同じ敷地内であるにも関わらずソハヤは本家と疎遠になり、屋敷からなかなか出ることのない光世とは会う機会がほぼ失われてしまった。
    「元気でやっているなら、それでいい……」
    「あれは良い気を持っている。幸を呼び込む陽の気だ。あれが居る限り分家は安泰だな」
     朝昼晩と毎日欠かさず祠に手を合わせに来る弟を褒める三日月の言葉が、大典太は自分のことのように嬉しくなる。子供の頃から彼の笑顔は胸に暖かな物を灯してくれたのだ。
    「なにか言伝があるなら承るが?」
    「……無茶はいいが無理はするなと、伝えてくれ」
     行動力もずば抜けていた弟を思い出し、大典太が苦笑と共にそう告げれば、三日月は眦をゆうるりと下げ、あいわかった、と請け負ったのだった。


     水差しの載った盆を枕元に置き、大典太は、そっ、と鬼丸の顔を覗き込む。話が一段落したところで小狐丸から鬼丸の様子を見てくるよう頼まれ、狐面の用意した盆を手にやってきたのだった。
     行燈の柔らかな光に照らされる鬼丸は僅かに眉根を寄せており、額には汗が滲んでいる。薄く開いた唇から漏れる寝息も若干熱を帯びている。
     なにか拭く物を、と思うも勝手に箪笥を開けるのは憚られたため、袂に入れていた自分の手拭いを軽く押し当て頬の汗を拭っていく。前髪が降りてこないよう左手で掬い上げ、額にも手拭いを宛がう。
     水を張った桶を持ってこようと腰を上げかけるも、ぱちり、と開いた鬼丸の目が真っ直ぐに大典太を捉え、ぎくり、と身体が強張った。
    「……すまない、起こしたか」
     ぎこちない動作で元の位置へと戻り大典太が声をかければ、鬼丸は一旦瞼を伏せてから気怠げに息を吐き、ゆっくりと再度瞼を持ち上げた。
    「いや……少し、うとうとしてた……」
     瞬間的に覚醒はしたが緩やかに睡魔は寄ってきているようで、ぽつぽつと零れ落ちる声はどこか覚束ない。
     熱の度合いを確認するように鬼丸の額に掌を充て、思ったよりも熱いな……、と大典太は内心で漏らす。
    「冷やした方がいい」
     するり、と額から離れた手を追うように、鬼丸の手が布団から伸びた。
    「それ……」
     揺れる袂を掴み、くい、と引いてくる。
    「……もう少し、その……頼む」
     言葉が出てこないのか、それでもどうにか伝えたいと、真っ直ぐに見上げてくる瞳が告げている。
    「こう、か……?」
     間違っていたら居たたまれないと思いながら、大典太が恐る恐る先程のように掌を額に宛がえば、鬼丸は黙って目を閉じるもその口角は微かに上がっていた。
    「……苦しくないか?」
    「あぁ、大丈夫だ……」
     吐かれる呼気は熱いままだが、鬼丸の表情は先に比べれば穏やかだ。このまま眠りに落ちればいいと、掌を少しずらし目元まで覆い隠す。
     ぱちぱち、と瞬きをしたのか鬼丸の睫毛が掌をくすぐった感触に、大典太の口角も微かに上がったのだった。
     その後、鬼丸の唇から寝息が漏れるまでさほど時間は掛からず、大典太は宛がっていた手を、そろり、と外した。常にピリリと張り詰めていたせいで近寄りがたい雰囲気を醸し出していた男も、今は穏やかな表情で夢の中におり、僅かな時間とはいえこのまま何事もなく安寧の中に身を置いて欲しいと願うばかりだ。
     改めて見下ろす寝顔は疲労が滲み、目の下にはうっすらとだが隈ができている。これまでの立ち居振る舞いや言動にばかり目がいっていたせいで気づかなかったが、よくよく見れば頬の曲線には柔さが僅かに残り、どこか幼さを感じさせる相貌に大典太の胸が不意に大きく鳴った。
     外見的には自分と同じくらいの歳であろうと思っていただけに、受けた衝撃は予想外であった。
     気持ちを落ち着かせるべく、ゆうるり、と息を吐き、水桶を持ってこようと腰を上げれば、くんっ、と袖を引かれる感覚に、また起こしてしまったかと背が強張る。
     だが、それは杞憂であった。
     相手の寝顔を窺うも目を開ける気配はなく、寝息も乱れていない。視線を下ろせば袂を掴んだままの鬼丸の手があった。きつく握られたままのそれを、相手を起こさぬよう細心の注意を払い、ゆっくりと丁寧に一本一本指を外していく。
     節の立った指に、数えきれぬほど肉刺を潰してきたであろう硬い掌。
     その感触を確かめるように、そっ、と両の掌で包む。
     これは戦っている者の手だ。
     世間から遠ざけられ狭い世界で守られてきた自分とは、根本的に在りようが違うのだと改めて思い知らされる。
     自分に殺されたいと言った鬼丸が、正直理解できなかった。
     特別に思ってくれているのならば、なぜ共に居たいと言ってくれなかったのか。
     その溝を埋めない限り、この男もこちらの気持ちは理解できないだろう。
     言葉が足りないのは鬼丸だけではなく自分もだな、と大典太は自嘲の笑みを浮かべた。


     湯殿に向かって廊下を進んでいる途中で小狐丸の姿が目に入り、大典太は声をかけようとそちらへ足を向けるも、そこには彼ひとりではなく相手が居ることに気づき動きを止めた。
    「あいつらきらい」
    「いなくなっちゃえばいいのに」
    「喰っていい?」
    「喰っていい?」
    「ダメですよ」
     不穏な会話に大典太の背に冷たい物が伝う。小狐丸の話相手は狐面がふたりだ。童のような話し方に相応しく、背格好も年の頃は十前後であろうか。
    「あれでも光世殿にとっては大切な者たちです。彼が悲しむようなことはしてはいけませんよ」
    「光世ないたら国綱もなくからダメ?」
    「国綱が光世だいすきだからダメ?」
    「そうですよ。わかったらお戻りなさい」
     ぱん、と小狐丸が掌をひとつ打ち鳴らせば子狐たちは濡れ縁から庭へと降り、そのまま暗闇へと消えていった。
     ふー、と息をつき、くるり、と顔を向けてきた小狐丸の面には苦笑が浮かんでいる。
    「あまりよろしくないところを見られてしまいましたね」
    「今のは……?」
     一体いつから気づいていたのか、声を掛けそびれていた大典太が気まずそうに問いを発すれば、小狐丸は彼らが消えた闇の向こうを見透かすように眼を細めた。
    「私には三日月殿のような神通力はありませんので、あちらの様子を窺うために何人か潜り込ませているんですよ。化かすのは狐の十八番ですので」
     手指で狐を形作り、こん、と戯けるその口ぶりから昨日今日の話ではないと気づき、大典太の顔色が瞬時に変わる。人に化けた妖が本家に何体も居るのだ。そのことに自分を含め誰一人として気づいていなかったのだ。
    「貴方には鉢合わせないよう言ってあるので、気づかなかったのも仕方のないことです。ただ……」
     そっ、と目を伏せた小狐丸の言わんとするところは、大典太には痛い程にわかる。
     妖物の正体どころか気配すら見破れぬ程に、大典太家は力が衰えていたのだとの現実をまざまざと見せつけられたのだ。
    「……お腹は空いていませんか?」
     知らず俯いてしまった大典太に掛けられた言葉は不意を突いた物で、思わず、は? と間の抜けた声を出してしまった相手に小狐丸は、にゅっ、と口角を上げる。
    「そろそろ三日月殿がなにか調達して戻る頃でしょう。鬼丸殿が眠っている間に一度面もお取りなさい」
     すっかり馴染んでいて失念していたが、そういえば面を着けたままであった、と大典太が己の頬に手を伸ばせば、返ってきた感触は確かに硬質な物であった。
    「いや、その前に水桶を……」
    「それは私が用意しておきましょう。食事が済んだら大典太殿もお休みなさい」
     ほんの数時間で状況が目まぐるしく変化した怒濤の一日であり、言われて初めて大典太は心身共に疲弊していると自覚する。
     これまで生きてきた中で興奮と緊張と身の危険を僅か半日足らずで体験した、大変希有な日でもあった。
    ■   ■   ■

     ひた、と枕元に寄った足音で、大典太の意識が眠りの淵から浮上する。真っ先に視界に入った天井は見慣れぬ物で、昨日のことは夢ではなかったのだと確認できた。
    「よく眠れたか」
     僅かな衣擦れの音と共に腰を下ろした三日月の問いに肯定を返し、大典太は上体を起こす。
    「本当はもう少し寝かせておいてやりたかったのだが、朝餉を貰ってきてしまったのでな」
     昨日はお前も疲れただろう? とその主な原因である本人に言われ、どう答えた物かと大典太は考えるも結局は曖昧に笑うに留めたのだった。
     昨晩、宛がわれた部屋にある物は好きに使っていいと言われ、箪笥に入っていた浴衣を寝間着として拝借したが、長身である大典太にあつらえたかのように身丈もぴったりで、布団も足が出ることはなかった。
     不思議なこともあるものだと思いつつ、ここはあの三日月が作った屋敷だ。そういうものなのだろうと納得する。
     テキパキと布団を仕舞い、その間にするりと入ってきた狐面が持ってきた水の張られた桶で顔を洗い身支度を調える。その様を黙って見ていた三日月に、待たせたな、と大典太が声を掛ければ、どこか愉快そうに喉を鳴らされた。
    「……なんだ」
    「いやなに、つくづく物怖じしない男だと思っただけだ。俺のことも小狐丸のことも、ここのこともすんなり受け入れているだろう?」
    「あぁ……いや、驚きはしたが、だが、そういうものなのだろう?」
     三日月は土地神で、小狐丸は狐で、ここは神域で、大典太からすれば目の前の事実をそのまま自分の裡に落とし込んだだけなのだ。
     事実を事実として受け入れる。言葉にするのは簡単だが、人には理性ではどうにもならない感情という物がある。未知の物や信じ難い物、己の理解を超えた物には、無意識下で恐怖や畏れといった物が付き纏う。
     だが、大典太にはそれがない。そういうものなのだと割り切ってしまえるのだ。
     あの娘のように蝶よ花よとまではいかないものの、外界との接触を極力断ち、狭い世界に閉じこめられ単調で歪んだ日々を送っていたこの男もある意味、情緒が育っていないのだと三日月は内心で憂えるも、だからこそ鬼丸をそのまま受け入れることが出来るのだろうとも思う。
    「まぁ下手に騒がれるよりは、その方がこちらとしても助かるな」
     はっはっは、と笑いながら三日月が、ぱん、とひとつ手を打てば、狐面が膳を持ってやって来た。
    「食べ終わったら鬼丸のところへ行ってやれ。あぁ、膳はそのままでいいぞ」
     では頼んだぞ、と言い置いて三日月は狐面と共に音もなく部屋を出て行く。ひとり残された大典太は湯気の上がる汁椀を手に取り、一体どのようなお告げをしたのやら、と苦笑を漏らした。


     忘れずに狐面を着け鬼丸の部屋へと向かえば襖は開け放たれており、中には小狐丸の姿があった。上体を起こしている鬼丸は、もそもそ、と木の匙を口に運んでいる。
    「すまない……遅くなった」
     一声掛け小狐丸と並んで腰を下ろせば、鬼丸は動かしていた手を止め、ひた、と大典太を見据えた。
    「……なんだ?」
    「いや、狐は化かすのが……本当に巧いなと、思ってな」
     再び、もそもそ、と膝上に置いた器の中身を口に運びだした鬼丸は、それ以上話す気配はない。小狐丸もこれは読み取れなかったか小首を傾げている。
    「どういう意味だ」
     訳がわからないと大典太が隠すことなく問いを投げれば、鬼丸は一瞬、きょとん、とするも僅かに目を泳がせ、なにかしら考え込んでいるのか口をへの字に引き結び、喉奥で低く唸った。
    「……その声。三日月に頼まれたんだろう? おれが話す練習をするために、わざわざ……光世を、真似て……」
     あぁ……、そうきたか……、と大典太と小狐丸は顔を見合わせ、互いに苦笑しないよう牽制しあう。
    「この声は、不快か……?」
     そっぽを向いて口籠もってしまった相手の表情からは底意が掴めず、躊躇いがちに大典太が口を開けば、鬼丸は、かり、と匙を軽く噛んで暫し黙り込んだ。大典太は身動ぎすることも憚られ、ただひたすらに鬼丸の出方を窺う。
     僅かに伏せられた睫毛が朝の光に透ける。瞳の色を映しているのか赤味が強いそれは、さほど長くはないが密に茂っている。昨夜、掌をくすぐった感触を思い返し、眦が緩く下がった。
    「……不快、ではない」
     ややあって零れた言葉で我に返った大典太は鬼丸に見取れていたと気づき、狐面の下で表情を引き締める。
    「水盆では聞けなかった声が、こうも近くでするのは……その……少しここが、苦しい……」
     とん、と緩く握られた拳が叩いたのは胸の真ん中で。
     不快ではないが、苦しい。それの意味するところを考え、大典太は言葉を詰まらせる。
    「本人ではないとわかっていても……光世と話しているようで、嬉しい……」
     ……のだと思う、と自分のことでありながらも確証が持てないのか不安げに瞳を揺らし、鬼丸は答えを求めてか小狐丸を窺うように見やる。言葉だけを聞けば、初恋に戸惑ううぶな青年といったところなのだが、この男の行き着く先は「相手に殺されたい」なのだから、一筋縄ではいかない。
    「本人相手にもそれくらい素直になれれば良いのですけどねぇ」
     その本人がまさかここで聞いているなど、鬼丸は夢にも思わないであろう。
    「まずは食事を済ませましょうか」
     すっかり止まってしまった手を指摘すれば、鬼丸は黙って器に向き直った。大典太はと言えば心中穏やかではない。直接言葉を交わした時は突き放すようなつっけんどんな物言いしかしなかった相手が、内心ではそのようなことを思っていたのかと、動揺を表に出さず平静を装えたのは奇蹟に近かった。
    「湯殿まで行けそうですか?」
     空になった器を受け取りながら小狐丸が問えば、鬼丸は暫し考えた後、ふるり、と首を横に振った。
    「少し寝る」
    「では軽く身体を拭いてからになさい」
     明け方まで熱が下がらなかった事を知っている小狐丸にそう言われては鬼丸も頷くしかなく、湯を張った桶を持った狐面が現れたのとほぼ同時に汗で湿った浴衣を肩から落とした。
    「後はお願いします」
     そう言って大典太に手拭いを握らせた小狐丸は、狐面と共に音もなく部屋を出て行く。その背を見送ってから大典太は鬼丸に向き直った。
     まずは首筋を、と伸ばした手が微かに震えていることに気づき、らしくもなく緊張している己を内心で叱咤するのであった。
     透けるような白い背中に息を飲み、手が止まることもあったがなんとか作業を終え、新たな浴衣に袖を通した鬼丸が横になったのを確認してから、大典太は桶と彼が脱いだ浴衣を手に立ち上がった。
    「水盆を持ってきてくれ」
     閉じかけた目が大典太を見上げ要望を口にするも、頼まれた側は即座に返事が出来ず、一瞬ではあったが不自然な間が開いてしまう。
    「……水盆は、三日月が割ってしまったそうだ」
    「三日月が……?」
     目を丸くした鬼丸が確認するかのように当事者の名を口にしたので、大典太はそうだと言う代わりに首を縦に振った。それを受けて鬼丸は一旦瞼を伏せ、改めて大典太を見上げる。
    「そうか。ならば仕方がないな」
     てっきり悪態や文句が飛び出すと思っていた大典太は、あっさりと引き下がった鬼丸に驚くのと同時に、三日月が言っていた通りだなと納得もする。
    「いいのか……?」
    「割ってしまった物は仕方ないだろう。そもそもあれは三日月の物でおれの物ではないのだから、おれがとやかく言うことではない」
     口ではそう言いつつも眉尻が若干下がっていることに、鬼丸自身は気づいているのだろうか。表情に大きな変化はなくとも、その声音が寂寥感を滲ませていることに気づいているのだろうか。
     膝を突き、手にしていた物を一旦、畳へと下ろす。
     なんだ、と目で問うてくる鬼丸の額に掌を宛がい、そのまま瞼を覆い隠す。
    「あまり話しているとまた熱が上がる。目だけでも閉じていろ」
     鬼丸のこれは病ではない。だから大典太の力では癒せない。だが、人肌の温かさは安堵をもたらすという。独り静かに身を休めることが当たり前になっている鬼丸には煩わしいことかもしれないが、それでも大典太は彼のためになにかしてやりたいのだ。
    「お前は本当に、人間の真似事が巧いのだな」
     穏やかな声音に相応しく、鬼丸の口角が緩やかに上がっている。拒否されなかったことに大典太は内心でほっと息をつき、形の良い唇をそのまま見つめていれば、視線を感じてか鬼丸がどこか居心地悪そうに、きゅっ、と唇を一旦引き結んだ。
    「……お前たちには、面倒を掛けていると思っている」
     ぽつり、小さく漏れ出た声に、大典太は言葉で応える代わりに、ぽん、と軽く鬼丸の胸を叩く。
    「もう何年……何十年経ったのかおれにはわからんが、頭に言われたからとこんな所に拘束されて、人の世話をさせられて。お前たちは本来、自由気ままなモノなのだろう?」
     ぽん、ぽん、と肯定でもなく否定でもなく、ただ次の言葉を促すように大典太は優しく鬼丸の胸を叩き続ける。
    「おれがお前たちにくれてやれる物は、なにもない。この身すらおれの物ではない。すまない……」
     淡々と紡がれる言葉に大典太は、ぎゅっ、と眉根を寄せる。
    「こういう時は詫びではなく礼を言うのだと、小狐丸が言っていただろう」
     狐たちの心情を理解する術は大典太にはないが、少なくともあの子狐たちは鬼丸のことを嫌ってはいなかった。むしろ好いているように思えた。おそらく言葉や態度と言った目に見える物ではなく、本質を感じ取っているのだろう。
    「あぁ……そうだったな。感謝している……」
     小難しく考えることなく、するり、と出てきた言葉に、鬼丸は「人と話す」という感覚はこうであったかと思い出しかけている。
     そして、あまりにも遠い記憶過ぎて朧気ではあるが、こうして他者に触れられたことが確かにあったのだと、眠りに落ちかけた意識の中、鬼丸はその感触を思い返す。
     ごつごつと固く、今の自分と同じように何度も肉刺を潰したであろう大きな掌。
     深手を負い、死にかけている自分の手をきつく握り締めた大きな掌。
     国綱、国綱、と必死に呼ぶ声は──


     すとん、と眠りに落ちた鬼丸を残し、大典太は桶と浴衣を手に部屋を後にする。これらをどうするか聞くべく小狐丸を探すも姿は見えず、先手を打ってくる狐面たちも現れない。
     なにかあったのかとざわつく胸を押さえつつ、ひとまず水盆のある広間へと向かえば、途中の部屋から出てきた小狐丸と、ばったり、出くわした。
    「あぁ、丁度いいところに。私はこれからちょっと出ますので、鬼丸殿の所に居てください」
     これまでに見てきた柔和な笑みと寸分も違わぬものを浮かべてはいるが、どこか緊張感を漂わせた様子に大典太の背が知らず伸びる。
    「なにか、あったのか……?」
    「なに、大したことではありません」
     では、と軽く頭を下げ去っていく小狐丸の腰には白鞘の太刀が佩かれており、ただ事ではないと大典太は理解した。
    「待ってくれ! 俺にできることがあるなら言ってくれ」
     追い縋るように大典太が声を張れば、ぴたり、と足を止めた小狐丸は、ゆうるり、と振り返り、暫しの間じっと大典太の顔を見ていたが、不意に、にこり、と笑みを浮かべて見せた。
    「なにがあろうとも鬼丸殿がここから出ないよう、傍に居てください」
     頼みましたよ、と言い置いて離れていく小狐丸の背を黙って見送ってから、大典太は弾かれたように駆け出し、三日月を探すも彼の姿はどこにもなかった。
     シン、と静まり返った屋敷に大典太の心臓の音だけが響く。
     なにが起こっているのかわからない不安をどうにかできるのならと、見様見真似で水面を叩き水盆を覗き込んでみたが、揺れる水面には波紋が広がるばかりで、それは胸中を表しているようで一層不安も広がっていった。
     落ち着け、と自分に言い聞かせ、大典太は先の小狐丸の言葉を思い出す。
     鬼丸がここから出ないように、と彼は言っていた。
     鬼丸が屋敷を出るのは『門』に向かう時だけだ。
     ならば『門』でなにか起こっていると考えるのが妥当だろう。
     消耗しきっている鬼丸が今、厄災を斬りに行ったとしたら……
     手にした刀身は砕け、頽れる彼の姿が脳裏を過ぎり、最悪の想像に大典太の身が、ぶるり、と震えた。
     氷のように冷え切った指先を、ぎゅっ、と握り、そんなことは絶対にさせない……、と低く漏らすや毅然と顔を上げ、まっすぐに鬼丸の部屋へと向かった。


     ひたひた、と我が物顔で廊下を進み、物置場と思しき部屋を、ひょい、と覗き込めばお目当ての人物はそこにおり、三日月は躊躇うことなく声を掛けた。
    「調べ物か?」
    「ん? あぁ、三日月様」
     畳に胡座を掻いたまま、どうも、と頭だけを軽く下げ、ソハヤは手中の書物を脇に置いた。
    「調べ物というか、確認というか。ガキの頃、暇潰しにいくつか読んだのを思い出したんですよ」
     目の前に積まれた次の書物を手に取り、慎重な手つきで頁を繰りながらも目だけは素早く文字を追い、すぐに次の物へと手を伸ばす。
    「歴代当主の日記なんですけどね、なかなか興味深いことが書かれてたなって」
    「なるほどな」
     すとん、とソハヤの近くに腰を下ろし、三日月は彼が確認済みの書物を一冊、手に取った。中を見れば日付は飛んでおり、毎日綴られていたわけではないようだ。なにか特筆すべき事があった時にだけ、備忘録として残したのだろう。
    「本家の意向で記録には残せない事なんかも、当主の日記としてなら残せるという、ちょっとした裏技みたいな。昔からなんだかんだで本家に不満があったんだなって、これ見ると察せますよねぇ」
     はは、と苦笑しながらも手と目は止まることなく、目的の記述を探し続けている。
    「三日月様から聞いた話に嘘偽りがないことはわかってる。なんてったって全てを見てきたんだからな。だが、それを裏付ける物がないと俺も動けないし、保守派を説得するのも難しい」
     本家と決別するための決定打が欲しいのだと、ソハヤは言葉少なに三日月に語った事がある。
     今の本家は落ちぶれたという言葉では片付かず、もはや狂ってしまっている。
    「自分の親のことを悪くは言いたくないけどな……三日月様は知ってるだろ? 母は外から連れて来られたって。家に来る前から、気が触れていたって……」
     ぽつり、悲しそうに漏らし、ソハヤは瞼を伏せる。
    「あぁ、そうだったな……」
     代を重ねるにつれ霊力の衰えは顕著な物となり、これまで血筋にこだわっていた大典太家が形振り構わず霊力が高いというだけで迎え入れたのが、光世とソハヤの母親であった。
     常人には過ぎた霊力であったが故に精神は蝕まれ、更には人ならざるモノにその身を曝かれた形跡があった。
     いつも夢を見ているような眼差しで、ふわふわ、と笑う娘であった。
     正常な判断ができないが故に、光世を屋敷に閉じこめている事を疑問にも思わず愛で続ける哀れな娘であった。
     家の存続に固執する者達に利用された犠牲者でもあった。
    「……できれば母のことは見逃してほしい」
     真摯に見つめてくるソハヤの視線を真っ向から受け止め、三日月は、ゆうるり、と眼を細める。
    「はて、なんのことかな?」
    「……はぐらかすならそれでもいい。でも、頼む」
     聡い男は土地神がこのまま黙っているわけがないと、薄々気がついているのだろう。臆することなく一切逸らされることのない強い眼差しに、三日月は僅かに眉尻を下げた。
    「俺とてあの娘が憎いわけではない。むしろ憐れにすら思っている」
     今はこれで赦せ、と話を終わらせた三日月に頷きで返し、ソハヤは気を取り直して書物に目を落とし始める。
     ソハヤの探し物の邪魔にならぬよう、三日月は棚に積まれた更に古い日記を手に取った。ぱらりぱらり、と頁を進め、そこに記された悪態の連なりに喉奥で低く笑う。
     当時の当主曰く、鬼丸家と比較されるこちらの身にもなれ、とのことだ。読み進めていけば不満なのか賞賛なのかわからぬ愚痴が延々と続いている。
     とにかく鬼丸家は規格外、格が違う、あんな化け物達と一緒にするな、等々。確かに彼らは他とは一線を画していたな、と三日月は記憶を辿る。
     本家に重用されていたのは鬼丸家だが、同時期に妖物退治を生業にしていた分家は他にもいくつかあった。だが、生業にしているからと言って、その家の者全てが戦力になるわけではない。各家五人いれば十分優秀であったのだが、鬼丸家はそうではなかった。
     成人している者は当然のことながら、修練中の者も戦力として勘定しても差し支えないほどであった。全員が何かしらに秀でており、剣術が得意な者は前衛として矢面に立ち、魔眼持ちは弱点を素早く見破り、術士はその場の状況を判断し臨機応変に攻守を担う。中には全てを兼ね備えた者もおり、端から見れば確かに化け物じみていただろう。
     本家同様、血筋を重要視していた他分家と違って、鬼丸家は積極的に外からの血を取り入れ力を高めてきた。彼らの強さは先見の明とたゆまぬ努力の産物であったのだ。
     血筋という物に胡座を掻き、他とは違うとの自尊心ばかりが育っていた者達からすれば、鬼丸家は異質で異端で、侮蔑と畏怖の対象であったことは想像に難くない。
     そのような彼らを従えていた本家は、誰も逆らうことの出来ない絶大な力の象徴だったと言える。
     ともすれば本家よりも力を持っていた鬼丸家がおとなしく従っていたのは、偏に彼らが愚直で真面目であったからとしか言い様がない。野心を抱くこともなく、仕えると決めた相手に尽くす。ただそれだけの事であったのだ。
     その真面目さ故に、今最後の一人である鬼丸国綱が全てを背負い、その身を、魂を燃やし尽くそうとしている。
    「……俺はどこで間違えてしまったのだろうなぁ」
     このような結末を彼らは本当に望んでいたのか。今となっては知る由もないが、残される子の行く末を案じていた彼らの気持ちに嘘はなかった。
     ふるり、と首を振り感傷を振り払う。
     一旦戻るか、とソハヤに顔を向けると同時に、あった……、との呟きが三日月の耳に届いた。
    「見つけた。見つけたぞ三日月様!」
     見てくれ、と緊張からか若干強張った表情で一文を指さすソハヤの傍に寄り、三日月は文字を目で辿る。
     そこには本家から鬼が出たこと、噴き出した厄災を土地神が結界に封じこめたこと、鬼丸家全員が厄災の排除に専念するため本家の守りがこちらに回ってきたこと等、当時のことが乱れた筆跡で綴られていた。
    「兄弟が言っていた改竄された形跡のある本家の記録と、三日月様の話。そしてこの日記があれば説得の材料には十分だろ」
     分家の現当主は幸いにもソハヤの話に耳を傾ける器を持ち、柔軟な思考を有する者だ。筋道立てて順序よく話をすれば、本家が代々伝えてきた話が間違った物であると理解してくれるだろう。
     逸る気持ちを抑えきれぬまま立ち上がったソハヤに続き、三日月も静かに腰を上げる。ふたりが部屋を出ようとしたその時、鞠のように飛び込んできた童がソハヤの足にぶつかり、ごろん、と廊下を転がった。
    「うわっ!? 悪ぃ!」
     怪我ねーか!? と慌てて童を抱き起こしたソハヤだが、直ぐさま怪訝な顔になり、探るように背後の三日月に目をやった。
    「三日月様んトコの狐だよな、この子」
    「おや、わかるか。さすがだな」
    「国綱ふういんしっぱいしてた。小狐丸様がんばってる」
     ソハヤてつだって、と腕の中の子狐に言われ、ソハヤはなんのことだ、と首を傾げる。
    「昨日『門』に封印を施したんだが、もうほどけてしまったか。いつもなら五日はもつんだがなぁ。いやはや鬼丸はまだ動けんし、これは困ったことになった」
    「それって一大事じゃねぇか!?」
     三日月の呑気な口調に、へー、と気の抜けた相槌を打ちそうになったソハヤだが、内容を理解した瞬間には声を張っていた。
    「案内してくれ!」
    「手を貸してくれるのか?」
    「当たり前だろ!? 知らなかったとはいえ任せっきりだったんだ。むしろ遅すぎて申し訳ねぇくらいだ」
     三日月の問いに歯がみせんばかりの返答を叩きつけ、ソハヤは手にしていた日記を子狐に握らせる。
    「俺が戻ってくるまで誰にも渡さないでくれよな」
     頼んだぜ、と子狐の両肩を、ぽん、と軽く叩き、ソハヤは即座に表情を引き締めると先を行く三日月の背を追って走り出したのだった。


     じわり、と滲み出てくるおぞましい靄を手にした刀で薙ぎ払いつつ、小狐丸は背後に、ちら、と視線を走らせる。
    『ひとり……いやふたりか。全くもって煩わしい』
     木の陰から様子を窺う気配に若干ではあるが気を散らされており、小狐丸は喉奥で低く唸りを上げ鼻の頭にしわを寄せた。
     鬼丸が刀を振るっている時も毎回では無いとはいえ、こうして物陰から見ている者がいることは知っていた。それもいつでも逃げ出せるような及び腰でだ。だが、今回は覗き見している者達の油断と安堵がひしひしと伝わってくる。大方、小狐丸の容姿が鬼丸よりも人のように見えるせいだろう。
     あわよくば隙をつきなにか仕掛けようとでも言うのか、じりじり、と距離を詰めてくる相手に小狐丸の忍耐も限界に近い。
     広範囲に狐火を灯し、腕の一振りで放射状に放つ。分散させたせいで威力は落ちるが、視覚的な派手さで威嚇としてなら効果は抜群だ。狙い通り足の止まった気配に、一歩でも結界に踏み入ればその首喰い千切ってくれる、と背を向けたまま獰猛な表情で口端を吊り上げ、牙を剥き出しにする。
     それにしても……、と小狐丸は昨日の鬼丸の様子をふと思い返し、重い溜息を逃がした。上の空とまでは行かないが明らかに集中できておらず、普段ならば貸す必要のない手を貸す羽目となった。
     鬼丸本人は認めないであろうが、小狐丸はその原因に心当たりがある。
    「すまんな、遅くなった」
     思考を遮る知己の声に、まったくです、と不満をたっぷり乗せて振り返れば、三日月は微塵も悪いとは思っていない様子で口端を、ゆうるり、と上げている。
    「助っ人を連れてきたから赦せ」
     つい、と隣に立つ男に目をやった三日月につられるように、小狐丸も男を見やった。頼んだぞ、との言葉に背中を押され一歩踏み出したソハヤは、任された、と静かに頷きつつ、腰の太刀を、すらり、と抜く。
    「お手並み拝見といきましょうか」
     入れ違いに下がった小狐丸の言葉に、はは、と笑いで返し「無様を曝すようなことだけはしねぇよ!」と吼えるや一気に踏み込み、煌めく刃を一閃させた。
     燐光を纏った刃は易々と靄を両断し、尾を引くように伸びた仄かな輝きですら触れた靄を消し去っていく。
     鬼丸の戦い方に似ているが、ソハヤのそれは純然たる霊力の固まりだ。身の裡から絞り出すように生命力を乗せている鬼丸とは、似て非なるものだ。
     鬼丸家亡き後、第一線で妖物退治を担ってきた分家ということもあるが、その中でも主力を務め実戦数がずば抜けているだけのことはある、とソハヤの思い切りの良さと無駄のない動きに、小狐丸は素直に賞賛の眼差しを送る。
    「……今日一日は保つと思ったんだがなぁ」
     ぽつり、漏らされた三日月の言葉に、小狐丸はソハヤから隣に視線を移した。
    「私はむしろよくぞここまで保ったと思いますよ。夜明け頃にはほどけてしまうと思っていましたから」
     大典太を先に休ませ、夜が明けるまで小狐丸が鬼丸についていたのは、それを危惧してのことだ。封印が不完全であったことを知れば、鬼丸は無理をおしてでも自分で始末をつけようとするのは火を見るよりも明らかであった。
     だが、夜が明けても見張りの狐から報せはなく、朝餉のあと鬼丸のことを大典太に任せられたのは僥倖と言えた。
     ただし、その大典太が理由でこのような事態になっているのだが。
    「随分と心乱されていましたから、これは当然の結果かと」
    「共に酒を飲むことをお前も止めなかったではないか」
    「貴方があそこで昔話をするとは思いませんでしたから」
     しれっ、と涼しい顔で返した小狐丸だが、不意に声を潜めた。
    「なにを考えているのです? もし良からぬ事であれば……」
    「良からぬ事、か。そうだな……そうかもしれんな」
     常ならば明言を避け煙に巻く三日月が、まさか肯定の言葉を返してくるとは夢にも思わず、小狐丸は軽く目を見張り相手を凝視する。
    「最後の一人になった時も、手足が腐り落ちた時も、腹に大穴が開いて臓物が溢れた時も泣き言ひとつ言わず、涙のひとつも零さなかったあの男が、初めて精一杯の我が儘を言って……泣いたのだ」
     訥々と語る神は一体なにを見ているのか。眼に刻まれた三日月が内側から、じわり、と滲み出すように仄かな光を放っている。
    「なにかしてやれることはないかと、俺はずっと思っていたのだ」
    「……短慮は身を滅ぼしますよ。貴方は直々に手を下すのではなく、人々を煽るだけ煽って高みの見物をしていればいいんです。それがお似合いですよ」
     辛辣な物言いではあるが、その言葉の裏に隠された憂慮に気づかぬ三日月ではない。
    「それに、ソハヤ殿がここに来てしまった以上、面倒事は避けられないのでしょう?」
     本家がひた隠しにしてきたこの場所に、分家の者が踏み込んだのだ。それも三日月の手引きでだ。
     しかも本家からすれば、三日月は大典太家当主である光世を拐かしている真っ最中である。
     更に言うなれば、元より三日月と繋がりが一番深い分家にソハヤは属している。状況だけを見れば、本家が疑心暗鬼に駆られてもおかしくないのだ。
    「それは相手の出方次第だな」
     一旦、瞼を伏せ、そっ、と背後を窺った三日月の視線の先には、もつれる足を懸命に動かし、逃げるように走り去るふたつの背中があった。


     眠る鬼丸の顔を覗き込み、閉ざされている左の瞼に大典太は、そっ、と指先で触れる。昨夜、湯殿から戻ってきた鬼丸の顔に眼帯がなかった時は、正体が看破されるのではないかと心臓が竦み上がったが、面に施された術が鬼丸の能力を上回っていたか、はたまたここが三日月の領域内であるからか、理由はわからぬもそれは全くの杞憂であった。
     ひとつでも目を奪われそうになるというのに、ふたつ揃った柘榴の瞳は吸い込まれるかのような美しさで、口に含めば甘く蕩けてしまうのではないかと思う程に蠱惑的だった。
     髪も肌も透き通るように美しく、こうして実際に触れているにも関わらず、触れた箇所が、凛……、と涼やかな音を奏でるのではないかと錯覚してしまう。
     する、と顔の輪郭を辿るように指を滑らせ、名残惜しくはあるが手を引いた。
     思い返せば短い時間の中で鬼丸の様々な面を目にしてきた。厄災を前に威風堂々たる立ち居振る舞いを見せていた男の、強く美しいと思っていた男の、脆く、そして弱い部分を目の当たりにし、胸が締め付けられる思いをした。
     この男を守るなどとおこがましいことは言わない。
     ただ、隣に立ち力を貸してやりたいのだ。
     対等の立場でこの男と共にありたいのだ。
     もうなにも知らない守られるだけの子供ではないのだ。
     ぎゅっ、と膝上で握った拳に力が籠もり微かに震えるそれに、そっ、と手が添えられ、大典太は知らず閉じていた眼を、はっ、と見開く。
    「……どうした」
     静かに問いかけてきた鬼丸の表情は、眠りから覚めたばかりであるせいかどこか柔く、年端もいかぬ子供を彷彿とさせた。無防備とも言えるそれに、鬼丸は狐達に心を許しており、そしてここが彼にとって心の底から安心できる場所なのだと実感せざるを得ない。
    「あんたが……このまま目を覚まさなかったらと、思ったら……」
     咄嗟に思っていたこととは別の言い訳めいたことを口にすれば、そんなわけあるか、と鬼丸は苦笑を漏らした。だが、すぐになにか思い当たったか、困ったように眉尻を下げる。
    「そうか……お前は来たばかりだったな。なに、いつものことだ。心配には及ばない」
     大丈夫だ、とまるで安心させるかのように、ぽんぽん、と大典太の手を軽く叩いてから一瞬、ほんの一瞬ではあったが拳を掌全体で包むように握り込み、するり、と離れていった。
    「……っそれでも」
     巧く言葉が紡げずどもってしまったが、大典太は布団に隠れる前に鬼丸の手を必死に掴み、強く強く握り締める。
    「いつものことでも、それが心配しなくていい理由には……ならないだろう?」
     両の手で胸の前に捧げ持つように持ち上げられた己の手を鬼丸は驚いた顔で見上げるも、かける言葉が思いつかないのか、ただただ黙って様子を窺うだけだ。
    「あんたのことが心配なんだ。あんたの力になりたいんだ。あんただけに、辛い思いを……してほしくないんだ……だから、頼むから……」
     そんな悲しいことを言わないでくれ、と消え入りそうになりながらも、ようよう伝えた言葉は鬼丸にどう響いたのか。狐如きがなにを言っているのだと、笑い飛ばされても仕方がないと大典太は面の下で唇を噛む。
     恐らく三日月も小狐丸もこれまで口にはして来なかっただろう。だが、こうしてはっきりと言葉にして彼に伝えるのは、決して無駄なことではないと、大典太は信じている。
    「……鬼丸?」
     身動ぎひとつせず呆気に取られたかのように見上げてくるだけの相手の名を呼べば、どこか気まずそうに目を泳がせた後、のそり、と身を起こした。片手を離した大典太がその背を支えてやれば、鬼丸は近くなった狐面を横目に見やり、困ったように眉尻を下げた。
    「お前は本当に、人のようなことを言う……」
     どう答えればいいのかわからん、と素直に漏らし、余り困らせないでくれ、と白旗を揚げた鬼丸は壁際に置いてある背の低い茶棚を目で示す。
     茶器と共に置かれた蓋付きの菓子鉢を取るよう促され、大典太は小振りなそれを手に取り鬼丸へ手渡そうとするも、持っていっていいぞ、と言われてしまい、突然のことにどう振る舞ったものかと動きが止まった。
    「三日月がな、向こうから菓子を持ってくるんだが、おれには味がよくわからなくてな。かといって手を着けずに駄目にしてしまうのも忍びない」
    「だから、俺達に分けている、と。そういうことか?」
    「そうだ」
     何度も行われているであろうこの鬼丸の行動を、三日月が気づいていないわけがない。それでも素知らぬ顔で菓子を持ってくるのは、なにか意味があるのだろうか。考えても詮無いことであるが、あの三日月が無意味な行動を繰り返すとはとても思えず、知らず知らずのうちに大典太の口がへの字に曲がる。
    「だが、貰うだけというのは、さすがに気が引ける」
     鬼丸からすれば思った以上に心配させてしまった事に対する詫びのつもりだったのだが、相手はそうは受け取らず、だから言葉が足りないのだとあれ程、と想像の中の小狐丸に苦言を呈され、思わず額を押さえてしまった。
    「大丈夫か?」
     その仕草が調子の悪さからきたものだと思ったか、気遣わしげに再度背を支えてきた大典太に、大丈夫だ、と返しつつ、鬼丸は視線を布団へ落とした。
    「そうだな……なら、少しおれの話に付き合ってくれ。昔のことを思い出したんでな。また忘れてしまわないうちに、聞いて欲しい」
     そう言って、ぽつぽつ、と語られる内容は時系列が前後したりと決して巧みな物ではなかったが、淡々と語られるそれに大典太は次第に鉛を飲み込んだかのように、腹の奥底が、ずん、と重くなった。
     唯一残されていた鬼丸の一族に関する家系図は、これは我らが生きた証であるのだと、鬼丸国綱が生まれ落ちた日に父親の手により最後の名が記され、三日月を介し大典太家に渡された物であった。他者によって不要な書き込みが成されたとはいえ処分されなかったのは、一概に三日月を畏れてのことだろう。
     たとえ彼らの心が人のままであろうとも、その身は障気に侵され性質は人とはかけ離れた物に変貌してしまっていた。子を宿した女は出産までに必要な月日が八ヶ月、六ヶ月、三ヶ月と徐々に短くなり、終いには出産と同時に命を落とすようになった。鬼丸国綱を産んだ女が、鬼丸家最後の女であったのだ。
     子が育つ速度も尋常ではなく、十日で己の足で立ち上がり、二十日で刀を手にし、三十日で『門』の前に立っていた。
     母というものを知らぬも刀を振るうにはなんの支障もなく、戦い方を教えてくれた父親や兄弟、叔父達は厳しかったが、互いが互いを大切に思っていたのは疑いようのない事実だ。
     腕や足を失い戦えなくなった者は残った生命力を最後の子に託し、疲れ切ってはいたが穏やかな表情で一生を終えた。
     皆の生命を託されたが故にこの身すら己の物ではなく、使命を果たすためだけにあるのだと、微塵も疑うことなくここまで来たのだ。
    「それなのにおれは、過ぎた望みを抱いてしまった……」
     ぽつり、悔恨の念を吐露し鬼丸は口を噤んでしまった。
     そうじゃない、と大典太は喉元まで出かかった言葉を無理矢理に飲み下す。それは望みではなく呪いだと、酷い言葉が口を突いて出そうになり、咄嗟に鬼丸の手を掬い上げるや強く握り締めた。
    「俺は……使命とは関係無しにあんたには生きて欲しい、生き延びて欲しいと、皆そう願って後を託したんじゃないかと思っている」
     少しでも生き長らえることが出来るようにと、皆の生命を束ね最後の子に譲り渡したのだと、大典太はそう思いたかったのだ。そうでなければ、鬼丸国綱という男がこれまで進んできた道は、あまりにも非情で、無情で、虚しく悲しいだけではないか。
    「おれがただ生き延びて、どうなるというんだ」
     心底不思議そうな顔で問いかけてくる鬼丸の姿に、大典太は胸にこみ上げてくる激情を抑えきれなかった。
     長い腕を背に回し、覆い被さるようにきつくきつくその身を抱き締める。すぐ横で聞こえた息を飲む音に腕の力が緩みそうになるも、ぐっ、と歯を食い縛り耐えた。
     突き飛ばされるか、怒声を浴びせられるか、どちらにせよただでは済むまいと覚悟はしていたが、鬼丸の次の行動は大典太の予想とは大きく違えた物であった。
    「どうした。なんでお前が泣くんだ」
     ぽんぽん、と宥めるように大典太の背を叩く鬼丸の声音は柔く穏やかで、言われて初めて大典太は食い縛った歯列の隙間から嗚咽が漏れていることに気がついた。
    「俺は、あんたに、死んで欲しくない……」
     ひくり、と震える喉を叱咤しどうにか言葉を押し出せば、鬼丸は大典太の背に回した腕にほんの少し力を込め、そうか……、と静かにただそれだけを零した。


     ひゅん、と軽く風を切る音と共に最後の靄を切り払い、ソハヤは肺に溜めていた息をゆっくりと吐き出した。呼吸を乱すことなく疲労感すら感じさせぬしっかりとした足取りで三日月達の元へと戻ってきた彼は、抜き身のままの刀の切っ先を天に向けたかと思えば、ぱぁっ、と表情を輝かせた。
    「三日月様がくれたこれ、すげーな!」
    「そうか、気に入ったか」
    「あぁ、身体に馴染むっていうか、霊力の乗り方が違うというか」
     喜びと感謝が混ざった声音で興奮気味に、とにかく凄い、と子供のようにはしゃぐソハヤを前に、小狐丸だけが一瞬ではあるが渋い顔をした。
    「本当に貰っていいのか?」
    「構わんよ。仕舞い込まれているより使われた方が刀も喜ぶだろう。それがお前のような手練れであれば言うこと無しだ」
     お前もそう思うだろう? と話を振られ、小狐丸は僅かに逡巡するも、そうですね、と感情の乗らぬ声で返し、改めてソハヤに向き直った。
    「ご助力感謝いたします」
    「力になれたのならなによりだ」
     謙遜するでもなく増長するでもなく、にかり、と歯を見せて笑うソハヤは、なるほど確かに陽の気に満ち溢れている。
    「ひとまずはおさまったが、次いつ出てくるかわからないんだろ? あとちょっとだし、三日月様あれ閉じらんないんですか?」
    「こらこら、じじいばかり働かせるんじゃない」
     はっはっは、と戯けたように笑いながらもその足は『門』へと向かいかけたが、血相を変えた小狐丸に腕を取られ、ぐい、と強く引き止められてしまった。
    「なにをするおつもりですか!?」
    「いやなに、ちょっとした足止めくらいはしておこうかと……」
    「なりません! 見張りでしたら狐達がおりますし、この小狐もおります」
     ですから! と先までの余裕をかなぐり捨て声を荒げる小狐丸の姿に驚いたか、ソハヤは気まずそうに後ろ頭を掻いた。
    「すまん、俺がいらんことを言っちまったみたいだな」
    「……いえ、私のほうこそ申し訳ありません」
     はっ、と我に返ったか掴んでいた三日月の腕を放し、小狐丸が俯きながら詫びの言葉を口にする。
     すっかり項垂れてしまった小狐丸を慰めるように柔く背に手を添え、三日月は見惚れるほどに美しい笑みをソハヤに向けた。
    「よいよい。ソハヤがそう思うのももっともだ。なんせ俺は『神様』だからな」
    「『神』だからこそ、今の三日月殿にはできないのです」
     地面に目を落としたまま、ぽつり、漏らされた小狐丸の声は、悔しさともどかしさと若干の恨みが綯い交ぜになり、ざらり、とした不快感をソハヤにもたらした。
    「信仰されてこその神です。今、ここで、三日月殿を信じ、崇め奉っている者がどれだけいるとお思いか」
     ぎり、と歯の擦れる音に三日月は困ったように眉尻を下げ、添えていた手で小狐丸の背を撫でさする。
    「つまりは『門』と結界の維持、あと奥の屋敷の維持で手一杯ということだ。鬼丸の面倒も見てやらねばならぬしな」
     無茶をするので目が離せんのだ、と表情と声音から滲み出る愛しさを隠しもせず、三日月は彼が居る屋敷の方へ目を向け、ふふ、と柔く笑んだ。
    「光世も屋敷に居るから会わせてやりたいのは山々だが……」
    「わかってる。『神隠し』に分家が噛んでると思われたら厄介だからな。俺はこのまま戻りますよ」
     兄弟によろしく伝えてください、と頭をひとつ下げ、ソハヤは結界から抜けようとしたがふと足を止め、くるり、と振り返った。
    「あー……その、また余計なことだったら申し訳ないんだけど、俺はいつでも駆け付けるんで手が必要だったら呼んでください」
     それじゃ、と再度頭を下げてから今度こそ結界を抜け、ソハヤは立ち去ったのだった。
    「お前も疲れただろう? 屋敷へ戻るとするか」
    「……あの刀」
     促され一歩を踏み出した小狐丸が漏らした言葉に、三日月は問われることがわかっていたか、うん、とひとつ頷いた。
    「ソハヤなら使いこなせると思ってな」
     守人であった男の助けになればと、三日月自らが力を込めた刀であったが故に男の没後使える者はおらず、今日まで日の目を見ることはなかった最上大業物である。
    「そうですね、彼が味方になってくれて大変心強いです」
     言葉とは裏腹に、小狐丸はどこか暗い眼差しで地面に目を落としたままだ。今にも呪詛を吐きそうな気配に三日月は一瞬、片眉を上げるも直ぐさま眦を下げる。
    「俺の心配をしてくれるのは嬉しいが、それでお前が野干になってしまっては困るぞ。戻ったら髪を梳いてやるから機嫌を直せ」
     小狐丸の顔を覗き込み、ぽんぽん、と胸を軽く叩いてやれば、ふっ、と小狐丸の表情が和らぎ、ゆっくりと頭が上がっていく。
    「申し訳ありません。少々、障気にあてられたようです」
     いけませんね、と頭を振りしっかりと前を見据える小狐丸の眼には既に曇りはなく、いつもの聡明な狐に戻っていた。
    「鬼丸のことは光世に任せてあるのだろう? 戻ったらゆっくり休め」
    「えぇ、そうさせていただきます。さすがに少し疲れました」
     腰に佩かれた刀に触れ小狐丸は、化かせぬ相手はやりにくいですね、と冗談めかしたことを口にし、ゆうるり、と眼を細めた。
    ■   ■   ■

     ソハヤの手を借り事なきを得た日から三日が経った。
     なにか仕掛けてくるかと警戒していた本家に動きはなく、小狐丸は正直肩透かしを食らった気分だ。それでも、なにもないに越したことはない、と大典太と話している最中に笑みを浮かべる回数が増えた鬼丸を、そっ、と窺い口角を僅かに上げる。
     和やかな空気を壊さぬよう穏やかに、大事を取って今日一日はおとなしくしているよう伝えれば、鬼丸は一瞬、不安そうな顔を見せるも大典太に、そうしろ、と促され首を縦に振った。
     小狐丸は知る由もないが先日の大典太の必死の訴えは、この狐を心配させ悲しませるのは良くない、と少なからず鬼丸の心に残ったようだ。
    「だが、なにかあったらすぐ呼んでくれ」
    「わかりました」
     そう返しつつも小狐丸は呼ぶ気などさらさらない。それが筒抜けであったか大典太が面の下で苦笑したのを感じ取り、小狐丸はわかっているなら話は早いと言わんばかりに「頼みましたよ」と殊更強く念を押してから部屋を後にしたのだった。
    『門』を見張っている狐から報告はないが、念のため様子を見に行くか、と思いながら廊下を行けば、庭で誰かと立ち話をしている三日月の姿が目に入った。その相手が大典太の屋敷に送り込んでいる狐だと気づき、小狐丸の表情が一瞬で硬くなる。
    「どうしました」
     庭に降り立ち声を掛けながら近づけば、三日月がどこか愉快そうに口角を吊り上げた。
    「いやなに、どうやら光世を取り戻しに来るらしいぞ」
     はぁ、と隠すことなく呆れを含んだ溜息を漏らし小狐丸は、ゆるり、と頭を振る。
    「……そこは嘘でももう少し深刻そうな顔をなさったらいかがですか」
     いくら三日月の力が全盛期の頃と比べ弱まっているとはいえ、そもそも人如きが太刀打ちできる相手ではない。大典太家の者が押しかけてきたところで痛くも痒くもないであろうが、その行いそのものが問題なのだ。
    「貴方を『敵』と見なしたのですよ」
     己が守る地に住まう者に反旗を翻されたのだ。こうなってしまった以上、三日月が取る行動はひとつしかない。
    「そうだな。だが、あやつらが実際に動けば、の話だ」
     報告を終えた狐に戻るよう促してから、三日月は小狐丸にきちんと向き直った。
    「行動力の差が明暗を分けたというところだな。ソハヤは実にいい仕事をしたぞ」
     くつくつ、と喉を鳴らす三日月は心底愉快そうで、どうやら本家の計画が頓挫するであろうこともあらかじめ知っていたようだ。
    「戻ってすぐにソハヤは見つけた分家歴代当主の日記と『悪戯者』が持ち出した本家の記録、そして俺の話。実際に見た結界と『門』の話、それらを当主と重鎮共に全部ぶちまけたのだ。いやぁ、見ていて胸がすく思いとはこのことを言うのだな」
     信じていた物が根底から覆されたときの人々の顔を思い出したか、くふくふ、と袖に隠した下で頬を緩めている三日月を、小狐丸は、じとり、と半眼で見やる。
    「私の髪を梳きながら覗き見までしていたわけですか。抜け目のないことで」
    「その気になれば全てを把握できるが疲れるのでな。今は必要なときにしか見ておらんよ。お前の狐達が優秀なので四六時中見ていなくていいのはとてもありがたい」
     感謝しているぞ、と三日月は小狐丸をひたと見据え、ゆうるり、と眦を下げた。
    「でしたら、皆に油揚げを振る舞ってやってくださいな」
     仲間を褒められ幾分か表情が柔らかくなった小狐丸に、三日月は内心で安堵の息をつく。情に厚いこの狐は三日月と鬼丸両方に心を砕きすぎているきらいがあるのだ。本人に自覚があるかは定かではないが、両名に何かあれば身を投げださんばかりの危うさがある。
     ここ数日でそれを一層強く感じた三日月は、慎重に動かねばな、と若干、反省する。彼とて無駄に心配させたり悲しませたりしたいわけではないのだ。
     説明が途中だったな、と三日月は話を戻す。
    「これで分家は本家と決別する意志を本格的に固めたようだ」
     荒事は分家任せであった本家が重い腰を上げたときには既に遅く、分家当主は本家からの要請をただ拒否するだけではなく、強い言葉で明確に跳ね除けたのだった。
    「光世を拐かしたのがそこいらの賊であれば話は違ったのだろうがな。それに分家の者には光世が自分の意志で俺の元に居ることを知らせてあった。本家と俺、どちらの言い分を信じるか、そこは正直、賭だったが……」
     分家の中でも三日月の姿が見える者、見えない者で意見が割れたが、土地神の存在そのものを疑う者がいなかったのは僥倖と言えた。
     小狐丸が口にした「信仰されてこその神」との言葉の重みを痛感せざるを得ない。互いに持ちつ持たれつの関係が崩れだしたのは、はたしていつであったか。
    「……三日月殿?」
     名を呼ばれ、自分の口がいつの間にか止まっていることに気づいた三日月は、わざとなにか含みがあるように、ふむ、と小さく頷いてから、つい、と顔を上げた。
    「本家は孤立したと言っていいだろう。あやつらだけの力などたかが知れている。だが、窮鼠猫を噛むとも言うしな」
    「えぇ、気は抜けませんね」
     三日月も小狐丸も悪戯に騒ぎを大きくしたいわけではなく、鬼丸が動けるようになったら光世には戻るよう促すつもりでいたのだ。そうなると理解の早い光世はともかく、心配なのは鬼丸の方だ。これまで付きっきりで傍についていた狐が居なくなるのだから、表には出さないであろうが寂しい思いをさせてしまうことになる。
     鬼丸には今日一日は静養を言い渡しており、今はふたりでいる。ならば今晩話をし、別れを惜しむために明日もう一日だけ光世にはとどまって貰おうということで、ふたりの意見は一致したのだった。


    「……戻るつもりはない」
     黙って最後までふたりの話を聞いていた大典太の返答に、三日月は笑い転げ、小狐丸は口が半開きのまま固まっている。
    「いやはや、そうきたか」
     此方での一時間は彼方での三時間に相当する。大典太が来てから此方では五日しか経っていないが、彼方ではそれ以上の時間が経過しているということだ。
    「ずっと戻らないと言ってるわけじゃない。もう少し、もう少しだけでいい。鬼丸の傍に居させてくれないか」
     頼む、と土下座せんばかりの勢いで頭を下げる大典太を前に、三日月と小狐丸は顔を見合わせ、どちらからともなく再び大典太のつむじを見下ろす。
    「俺としてはいつまでも居てくれて構わんのだが」
     三日月は一度、大典太に向けて「お前を帰さなくてもいいと思っている」とはっきりと口にしている。その考えは今も変わっていないのだろう。
    「人の身で此方に長居をするのは良くないのですが……それはこの際、横に置いておきましょう」
     神の発言に一瞬、片眉を上げた小狐丸は表情を引き締めると、大典太に頭を上げるよう促した。そろり、と上げられた顔から狐面を外すよう更に促し、現れ出でた緋色の瞳を、ひた、と見据える。
    「家のことから逃げているわけではありませんね?」
     真摯に問うてくる小狐丸に大典太は一度唇を引き結んでから、ぐっ、と腹に力を入れ言葉を押し出した。
    「無論だ。間違いは正すべきであるし、それが血の繋がった者であれば尚のことだ」
     家中の者が敵に回るかもしれない。
     それでも真実を無かったことには出来ない。
     過ちを過ちのままにしておくわけにはいかないのだ。
     揺るがぬ決意をその瞳に見て取ったか、小狐丸は、すぅ、と小さく息を吸い頷いて見せる。
    「……わかりました。ですが、本家になにか不穏な動きがあればすぐに戻っていただきます」
     よろしいですね? と念を押してくる小狐丸に頷き返し、大典太は「すまない」と再度頭を下げた。
    「そこは詫びではなくお礼でしょう?」
     先とは打って変わった柔い声音で、ふふ、と笑う小狐丸に驚いた大典太が顔を上げれば、今度は逆に白い頭が、ゆうるり、と沈み込んだ。
    「鬼丸殿のこと、よろしくお願いします」
     甘やかすばかりではなくきちんと釘を刺してくるこの狐が居るから、三日月は自由に振る舞えるのだろう。それは長い年月を掛けて培われてきた信頼が合ってこそだ。
     狐面を着けなければ鬼丸に気持ちを伝えられぬ今の自分がもどかしく、大典太は悔しげに手中の面を、ぎゅう、と握り締めた。
     話が纏まったところで不意に三日月に顔を寄せられ、大典太は声こそ出さなかったが喉が、ひゅっ、と情けなく鳴った。
    「な、んだ……」
    「鬼丸となんぞあったか気になってな」
     猫のように細められた眼に浮かぶのは興味よりもからかいの色が濃く、真面目に答える気も失せる、と眇められた大典太の目が雄弁に語る。
    「そうやって茶化すのは貴方の悪い癖ですよ、三日月殿」
    「そう言うな。俺はあれが見せる不器用なりの好意の示し方が好きでな」
     随分と好かれたではないか、と大典太に向けられた笑みに含みは一切無く、三日月は幼子に対するかのように宵闇色の頭を撫でてきた。
    「辛い立場に立たせてしまってすまないと思っている」
     この時生じた微かな違和感に大典太は隠すことなく眉根を寄せた。三日月は大典太のことを好ましく思っていると言ってはいたが、これまではどこか突き放した感があったのだ。だが、今この瞬間、懐に招き入れられたような、庇護対象に含まれたような、絶大な安心感と同等の不安感が大典太の身の裡を駆け抜ける。
     穏やかな顔の下でなにを考えているのかわからぬ神を、大典太は初めて心底おそろしいモノであると認識した。
    「らしくないことをするから固まってしまっているではありませんか」
     ふざけるのも大概になさい、と冗談めかして間に入ってきた小狐丸に三日月は、はっはっは、と軽い笑いで返し、最後に、するり、と大典太の髪を一撫でしてから腰を上げた。
    「寝る前に鬼丸の様子を見に行くなら、これを持っていってくれ」
     どこから取り出したのかいつの間にか三日月の手には菓子鉢があり、大典太は驚きを隠しもせず二度三度と瞬きをする。
    「あんたはどうして鬼丸に菓子を……ほとんど手を着けないのは知っているんだろう?」
    「理由などないぞ。ただ俺がくれてやりたいだけだ」
     人は子や孫に菓子をくれてやるのだろう? とはんなりと笑みを浮かべる三日月は、人が見せる子の可愛がり方を真似しているのだと気づき、大典太は先ほど感じたおそろしさを忘れてしまいそうになった。
    「鬼丸が彼方の食べ物の味がよくわからないことは俺も知っている。だが、酒の味はわかると言っていたのでな、もしかしたら他にも……と望みを掛けていないと言ったら嘘になるか」
     口元を袖で隠し、ふっ、と一瞬、瞼を伏せた三日月から垣間見えた寂寞感に、大典太は改めて情の深さを思い知る。
    「それに、お前が食べていた物の味を知ることが出来たら、あれも喜ぶのではないかと……いやいやこれは本当に俺の願望でしかないな」
     忘れてくれ、と困ったように笑って、三日月は踵を返すと悠然と部屋を出て行った。
    「……ひとつ聞いていいか?」
    「なんでしょう?」
     黙って三日月の背を見送った大典太がどこか呆然とした様子で口を開き、小狐丸は怪訝に首を傾げる。
    「三日月は俺が食べた物を全て、把握しているのか……?」
    「さぁ? 私からはなんとも」
     でも三日月殿ですからねぇ、との小狐丸の言葉に、大典太は深く考えるのをやめたのだった。

    ■   ■   ■

     ひゅおん、と刃が空を斬る音と流れるような身のこなしに、大典太は面の下で密かに感嘆の息を漏らす。すっかり身体が鈍ってしまった、と小声でぼやきながら庭に出た鬼丸から大典太は近からず遠からずの距離を保ち、藁束を黙々と斬り続ける背を見つめている。
     鞘走りの音がしたかと思った時には既に藁束は両断されており、更に藁束の先が地に落ちるよりも早く、二度、三度と閃いた白刃が更に細かく切り刻んでいく。
     大典太も剣技には多少の覚えはあるが、実戦で培われたものを目の当たりにしては、己のものは遊技の範疇であったと言わざるを得ない。
     斬るという感覚を身体が覚えていることを確認し終えたか、鬼丸は刀を鞘へ収めた。
    「『門』の様子を見てくる」
    「俺も行って構わないか?」
     さっさと歩き出した背に言葉を投げながら大典太が距離を詰めれば、鬼丸は弾かれたように振り返り若干苦い顔をしたが、あぁ、と短く了承と取れる声を出した。
    「なにかあっても守ってやる余裕はないぞ」
    「わかっている。絶対に足は引っ張らない」
    「……すぐに逃げるんだ。いいな」
     丸腰の上、自身の持つ不浄を払う力がどこまで通用するかわからない以上、鬼丸を危険に曝さないためにも彼の言うことに大典太は素直に頷く。
     橋を渡り人の世に戻ってきた瞬間、どろり、とまとわりつくような濁った空気に、大典太は思わず喉奥で低く呻いた。「人の身で此方に長居をするのは良くない」と小狐丸が言っていた意味が実感として押し寄せる。
     神域の清涼な空気に慣れてしまった身には、ここが障気に侵されていることを差し引いても、人の世は息苦しく汚れていると感じてしまうのだ。
    「大丈夫か」
     足の止まった大典太に気づいたか、鬼丸が心配そうに眉を寄せる。
    「妖物はここの影響を受けやすいと聞く。障りが出る前にお前は戻った方がいい」
     狐達も三日月の加護を受けているとはいえ、長時間ここには居られない。見張りはこまめに交代し影響を最小限に抑えている状態だ。
     影響の程度は精神状態にも左右され、格の高い小狐丸でも先日は危うく飲まれかけた。それほどまでにこの地に染み込んだ障気は根深く濃いのだ。
    「少し……驚いただけだ」
     深く深く息を吐き一歩を踏み出せば、鬼丸は気遣わしげな視線を寄越しつつもなにも言わず、こちらに気づいて近づいてきた狐達に「戻っていいぞ」と声を掛けた。
     無言で頭をひとつ垂れ、橋の向こうへと消えていく狐達を見送り、鬼丸はゆっくりと門の正面へと立つ。大典太はなるべく橋の近くに居るよう心がけ、門を見上げる鬼丸からふと視線を外した途端、視界の端を掠めた人影に、きゅっ、と心臓が縮み上がった。
     ひとり、ふたりと、木々に身を隠す人数が問題なのではない。
     鬼丸の背に蔑みと憎悪と畏れの眼差しを向ける人々の顔を、大典太が見間違えるはずがなかった。


     水盆に張られた水を手遊びでもするかのように緩やかに揺らす三日月を正面から見据え、小狐丸はどこか困った顔で窘めるように神の名を呼んだ。
    「なにか私に言いたいことがあるのでしょう?」
     ちら、と目だけで応えた相手を促すように首を緩く傾ければ、三日月は一度水盆に目を戻してから再度窺うように小狐丸を見やる。
    「貴方がなにをしようとも今更驚きませんし、仮に私が止めようとも……もう遅いのでしょう?」
     それこそ今更という奴です、と戯けたように肩を竦める小狐丸は諦めているわけでも、三日月を咎めているわけでもない。三日月の決断がどのようなものであろうとも受け入れると、そう腹を括ったのだと真っ直ぐに見据えてくる瞳が語っている。
    「お前には苦労を掛けてばかりだな」
     伏せた睫毛が微かに震え、三日月は自嘲気味に口端を吊り上げた。その歪な笑みに小狐丸は眉を寄せるも口を開くことはない。
    「俺は、どうしてこうなったのか、どこで間違えたのかと、ずっと考えていた」
     真っ直ぐに面を上げた三日月の表情は、月光を思わせる冴え冴えとした物であった。
    「なに、答えは簡単だった。最初からだ。あれの願いを聞き入れてはいけなかったのだ。心からの切実な願いであったとしても、あれだけは聞いてはならなかったのだ」
     あの男の願いは嘘偽りのない純粋なるものであった。それ故、三日月も聞き届けたのだ。だが、それはあくまでもあの男だけの願いであった。男の願いに一族の者全てが納得し手を貸したが、生まれてくる子はそうではなかったはずだ。
    「最後の子の望みを聞くまで、俺は……気づいていなかった。わかっていなかったのだ」
     男の切なる願いは純粋であったが故に、今や強固な呪いとなってしまった。
    「悔やんだところで時間は戻せぬ。ならば、せめてあれの特別をずっと傍に置いてやろうと思った。だが……」
     ふるり、と首を横に振り、三日月はまたしても自嘲じみた笑みを浮かべる。
    「それは俺の望みであって、菓子をくれてやってるのと同じでただの押し付けでしかない」
     神の口から紡がれる悔恨の念に打てる相槌はなく、小狐丸はただただじっと、一言一句聞き漏らすまいと耳を傾け続ける。
    「光世が間違いは正すべきであるとはっきり言った時、俺は嬉しかったのだ。大典太の者が過ちを認め、鬼丸家の尊厳を取り戻してくれると、彼ならばそれができると、そう期待したのだ」
     本家と分家が話し合いの場を設け、記録改竄や捏造を指摘された際の本家側の反応を鑑みるに、一筋縄ではいかないであろうことは容易に想像できたが、現当主の言葉を蔑ろにするところまでは落ちていないだろうと、信じたい気持ちも三日月にはあったのだ。
    「いずれは大典太の者を赦せる日が来ると、そう信じたかった」
     不意に低くなった神の声音に小狐丸の肩が、ぴくり、と跳ねた。すっ、と音もなく立ち上がった三日月の腰に佩かれた刀に、小狐丸の喉が、ひゅっ、と小さく鳴る。
    「では、まいろうか。俺もここいらでけじめをつけねばなるまいよ」
     狐相手に長々と語っていたのは足止めと、事を起こす頃合いを見計らってのことだったのだ。小狐丸が反射的に水盆を覗き込んだのと、弾き飛ばされた狐の面が宙を舞ったのは同時であった。


     じゃり、と土を鳴らし結界を越えてきた者達に鬼丸は剣呑な眼差しを向ける。これまでも結界の外から様子を窺う者はいたが、境界線を越える者はなかったからだ。
     良からぬ空気を感じ取り即座に門の前から離れるや、侵入者の行く手を阻むようにその前へと進み出る。
    「何の用だ。人が踏み入って良い場所ではないぞ」
     凛と張られた声は威圧する物ではなかったが、びり、と空気を震わせたかのような錯覚を産んだ。これが相手の力量を本能で察することの出来る妖物であれば、この一声だけで事は済んだであろう。だが、それが言霊の強さによるものだと気づいたのは残念なことに大典太だけで、正面から受けた者達は一瞬ひるむも尻尾を巻いて逃げ出すようなことはなかった。
     先頭に立っていた年配の男は柳眉を吊り上げたまま「お前などに用はない」と吐き捨て鬼丸の横を抜けて行こうとするも、当然のことながら鬼丸の手に遮られる。
    「もう一度言う。人が踏み入って良い場所ではない」
     戻れ、と低く告げられ、その落ち着き払った声音が癪に障ったか、男は腰に差していた刀を鞘ごと抜くと、それで鬼丸の手を強かに打ち払った。
    「化け物ごときが俺に指図をするな!『門』のひとつも閉じられぬ無能が!! 一体何年経ったと思っているんだ。お前が役目を果たさぬから、我が家がどれだけ苦労してきたと……」
    「お前たちはなにもしていないだろう?」
     激昂する男を前にしても鬼丸の態度は変わらず、憤ることもなく淡々と相手の発言を否定する。火に油を注ぐとは正にこのことである。
     鬼丸と対峙しているのは大典太の父親だ。息子には見せたことのない怒りと悪意に満ちた表情は、どちらが鬼かわからない程に醜悪な物であった。
    「愚弄しおって……ッ!」
     怒りからか息を荒げ、ぶるぶる、と震える手が鞘を投げ捨てた。鬼丸が後れを取るとは思わない。だが、父親が鬼丸に刃を向けてしまったのだ。大典太の身体は無意識のうちに走り出しており、ふたりの間に割って入っていた。
     乾いた音を立て、面が弾き飛ばされる。
     刹那、眼前に広がった宵闇色に鬼丸の目が見開かれた。
    「邪魔をするな! この狐めが!!」
     衝撃からか体勢を崩した『狐』に再度刃が襲いかかる。
     目の前の光景に、はく、と鬼丸の唇が戦慄いた。

     ──狐? この男は一体なにを言っている?

     振り下ろされる刃とその先に居る男が膝を着く様がやけにゆっくりと見える。

     ──それは、その男は……

     腕を伸ばし背後から抱きかかえ、勢いのままに地面を転がる。時間の流れが瞬時に戻り、鬼丸は知らぬうちに詰めていた息を吐いた。
     間一髪避けた白刃は地面を叩き、舌打ちと共に呪詛にも似た呻きが男の口から吐かれた。
    「おのれ、光世に化けるなど小賢しい真似を……だが、そのようなことで惑わされるとでも思ったか」
     その言葉を聞いた瞬間、鬼丸の腕の中の背が小さく震えた。信じられない物を見るかのような目で、鬼丸は大典太家前当主を見上げる。
    「何故、わからない……?」

     ──この男は大典太光世本人ではないか!

     俯きなにも言わぬ男を殊更強く抱き、鬼丸は脳が沸騰しそうな程に怒りを覚えた。実の息子と妖の見分けも付かぬ程に大典太の者達は目が曇ってしまったのか。彼らは一体、大典太光世のなにを見てきたというのか。
    「その無礼な狐から叩き斬ってやるわ!」
    「やめろッ!」
     刀を抜く時間は十分にあった。怒りに任せて斬り伏せることも出来た。だが、鬼丸は知っているのだ。大典太光世が両親を、家の者を大切に思っていることを。幼い頃から見守ってきたのだ。そんな彼の大切な者を傷つけるなど、どうして出来ようか。
     鬼丸が咄嗟に出来たのは、大典太に覆い被さることだけだった。
     ガッ、と背に受けた衝撃で肺の空気が無理矢理に押し出される。
     覚悟していた痛みではなかったことを怪訝に思う間もなく二度三度と続けて背を殴打され、食い縛った歯列をかいくぐり呻きが零れ落ちる。
    「鬼丸、離せ!」
    「……ッおれなら、平気、だ」
     真剣だと思っていた物はどうやら木刀のようで、これなら耐えられると鬼丸は、ふるり、と頭を振った。
    「……はは、そうか……巧いことやって、くれたのか……」
    「おい、なにを笑って……」
     なにか思い至ったか急に笑みを浮かべた鬼丸に驚いた大典太が声を上げたのと、足音がふたりの横を駆け抜けたのは同時であった。
    「さて、これはどういうことか説明して貰えるか」
     決して大きくはないが涼やかな声が響き渡る。その場に居た者全員が弾かれたように顔を上げ、目に映った神の姿に知らず一歩後ずさった。
    「三日月様、小狐丸様、おそい」
     大典太家の者に紛れて着いてきていた子狐が変化を解き、小狐丸の袴を、ぎゅう、と掴み唇を尖らせる。
    「はは、すまぬな」
    「よくやってくれました」
     前当主が握っている木刀に目をやった小狐丸が褒めるように子狐の頭を撫でるも、その表情は怒りを隠すことなく野性を剥き出しにし、鼻の頭にしわを寄せている。
    「こ、れは一体……」
     己の手を見下ろし唖然とした前当主の様子から察するに、彼の目には血飛沫が上がり辺りを赤く染め上げた光景が見えていたのだろう。狐の幻術にまんまとしてやられたと気づき怒声を上げようとするも、ざわり、と膨れ上がった彼以上の怒気に、ひっ、と引きつった声を上げた。
    「あなた達の言う通り、喰い殺しておけば良かったですねぇ」
     子狐の頭を撫でながらも漏れ出た小狐丸の言葉の不穏さに、その場の空気が張り詰める。だが、それを打ち破ったのは三日月であった。
    「これ、そのような物騒なことを言うものではない」
     場に不似合いな朗らかな声音に毒気を抜かれたか、小狐丸は眉尻を柔く下げるも苦笑を漏らした。宥めるような事を言いながらも、三日月の目はまったく笑ってなどいなかったからだ。
    「まずは……そうだな。わざわざここまでやって来た理由を聞こうか」
     なぁ前当主殿、と全てをわかっていながら敢えて問う三日月は穏やかな笑みを浮かべているが受ける印象は真逆で、恐怖からか痺れた舌では言葉を紡ぐことが出来ず、前当主は顔面蒼白のまま金魚のように口をパクパクとさせるばかりだ。
    「なんだ、言葉を忘れてしまったのか? なら、そこのおまえ」
     三日月が顔を向けたのは前々当主であった男だ。だが、こちらも前当主同様、死人のような顔色で強張った表情のまま、目だけが忙しなく動き回っている。
     ならば次、次、と問う相手を変えるも誰一人まともに口を開くことすら出来ず、三日月は大仰に溜息をつくと、わかった、と小さく頷いた。
    「俺と交わす言葉などないということか。そうか」
     すぅ、と眼を細め全員を一瞥した後、薄い唇から氷よりも冷たい言葉が吐かれた。
    「ここで殺されるか、この地から去るか選べ」
     一度も聞いたことのない声音もそうだが、なによりその内容に鬼丸が弾かれたように顔を上げる。抱き合うように鬼丸の身体を支えていた大典太は俯き、きゅっ、と唇を引き結んだ。
     大典太自身、心のどこかで覚悟はしていたのだ。明日、何事もなく自分が家へと戻り、伝えられていた話は間違いであったと認めるよう皆を説得する。これが三日月が大典太家を赦す、最初で最後の機会であったのだと。父親の短慮な行動によって、その機会は永遠に失われたのだと。
     その先に待つのは神の裁きだ。
     神からの無慈悲な言葉は恐怖を上回ったか、顔色を失ったままの前当主の喉奥から引き攣れた声が押し出された。
    「なっ何故、そのような……我らが一体なにを、なにをしたと言うのか」
    「なにを? なにをと問うか。はは、簡単な事よ」
     袖で口元を隠し、くつくつ、と嗤った後、その手を刀の柄に下ろす。
    「俺の機嫌を損ねた。それで十分だろう?」
     ただの人がそれを言えば傲慢以外の何者でもない。だが、相手は神だ。人の理など彼の前ではなんの意味も持たぬのだ。
    「それで、どうするのだ? あぁ、ここでいつまでも悩んでくれて構わないぞ。じわじわと障気に侵され姿形が歪み、鬼丸を化け物と罵ったお前自身がその化け物になり、身も心も変わり果てて惨めに死んでいくのだからな。俺としてはそちらの方が愉快で良いのだが……」
     不意に言葉を切った三日月が、うん? と微かに首を傾げたかと思えば、にんまり、とその口元が笑みの形に歪んだ。
     ほれ見てみろ、と口角を吊り上げる三日月の視線が、すい、と前当主の手へと向けられる。思わせぶりなその仕草に前当主は額に脂汗を滲ませ、恐る恐る持ち上げた自分の両掌を見た。
     五本の指は健在なれど一本一本が太く短く、まるで芋虫のようにぶよぶよとした肉の塊に変貌しているではないか。ひっ、と上がった声もガラガラと喉に絡む音でしかなく、反射的に他の者に目をやれば、辛うじて二足歩行の形は保っているものの、口は裂け牙が伸びている者、腕だけが極端に伸び地面を擦っている者、頭髪は抜け落ち眼球があった場所がぽっかりと黒くなっている者など、それぞれがおぞましい姿へと変じていた。
    「まやかしだ! まやかしに決まっている!!」
     そう叫んだつもりだが、実際に響いたのは獣の雄叫びであった。
    「今なら不浄祓いをすれば間に合いますよ。三日月殿の治めるこの地から出て行くのなら、彼はなにもしませんよ」
     命は惜しいでしょう? と穏やかに諭してくる小狐丸は先のような怒りの形相こそ見せてはいないが、爛々と光る目は鋭く獲物を狙う獣のそれだ。
    「あぁ、俺はなにもしないと約束しよう。わかったら荷物をまとめて早々に出て行くことだ」
     その言葉を聞くなり数人が背を向けて一目散に駆け出し、独り取り残されてはたまらぬと前当主も慌てて踵を返す。縺れる足で必死に走るその背に、ぽん、と三日月の言葉が投げられた。
    「光世とソハヤ、それと奥方を連れていくことは赦さぬ。よいな?」
     返答はなかったがこれ以上神の不興を買うような真似はしないであろう。全員が逃げ帰ったのを確認し、三日月は表情を緩めひとつ息を吐いた。それを合図に手指で狐を作り、こん、とひとつ戯けた仕草をした小狐丸に三日月が、くふくふ、と笑う。
    「お前もなかなかに意地が悪い」
    「これくらい、貴方に比べれば可愛らしいものでしょう」
     先程までの人とのやり取りがまるで夢であったかのように、常と変わらず和やかに会話をしていた神と狐だが、子狐に、くん、と袴を引かれ、うん? と意識をそちらへと向けた。
    「国綱、いたいいたい」
    「おっとそうでした。立てますか?」
     声を掛けながら小狐丸が傍に寄ろうとするも、それより早く大典太が「俺が運ぶから大丈夫だ」と言うやしゃがんだまま鬼丸に向かって背を向ける。
    「……なんだ」
    「乗れ。おぶっていく」
     あからさまに顔を顰めた鬼丸だが、それは迷惑に思っているのではなく遠慮をしているのだと、今の大典太にならわかる。
    「いい。歩ける」
     ふい、と顔を逸らし断りの言葉を口にするも、鬼丸に立ち上がる気配はない。大典太は悲しそうにやや目を伏せると、ぽそり、と何事かを呟いた。
    「なにか言ったか?」
    「俺が狐じゃないから駄目なのか……?」
     その一言で重要なことを思い出したか、鬼丸が三日月に向かって険しい顔を向ける。
    「どういうことか説明しろ! なぜ光世がここに居る!?」
     声を張った瞬間、身体を強張らせるや低く呻き、蹲りそうになった鬼丸を大典太が慌てて抱きかかえた。
    「その話はあとだ」
     ぐぅ、と歯を食いしばる鬼丸の顔を覗き込み、まずは屋敷に戻ろう、と大典太が促せば、鬼丸は不承不承といった体ではあったが、差し出された背に素直に身を預けたのだった。


     騒ぎは既に屋敷中に知れ渡っていたか大典太が湯殿目指して廊下を行けば、着替えや手拭い、湿布薬など必要な物を手にした狐達を筆頭に、なにも持たぬ者もぞろぞろと着いて来る。
    「いい、いい。大丈夫だから戻れ」
     背負われている鬼丸が顔を背後に巡らせ困ったように眉尻を下げれば、手ぶらの狐達は素直に足を止めるもその背が見えなくなるまで、じっ、と見送り続けた。
    「お前たちも、それを置いたら戻れ」
     脱衣所に到着した狐達は棚にそれぞれ持ち寄った物を置き、そのまま出て行くかと思いきや、物言わぬ面が一斉に大典太へ向けられた。一瞬瞠目するも無言の圧力を物ともせず大典太が小さく頷いて見せれば、狐達は、ゆうるり、と頭を下げてから音もなく出て行ったのだった。
    「……好かれているな」
     ひた、と湯殿へ足を踏み入れながら、ふふ、と大典太が微笑すれば、鬼丸はどこか居心地が悪そうに、もぞ、と身動ぎするも悪態が飛び出すことはない。大典太とは気づかずに他の狐達と同じように、否、それ以上に気を許した姿を見せてしまった以上、今更なにを言ったところで軽くいなされるのが目に見えているからだ。
    「もういい、下ろせ」
     すたすた、と迷い無く一直線に湯へと向かう大典太に声を掛けるもその足は止まることはなく、おい、と若干焦りを滲ませた鬼丸の声が聞こえているにも関わらず、大典太はそのまま、ざぶり、と湯に踏み込んだ。
    「おい、なんでお前まで」
     静かに身を沈めてから鬼丸を下ろし、身体の向きを変えた大典太に正面から問うも不思議そうに首を傾げられ、鬼丸の眉間に深いしわが寄る。
    「……着物のまま入ったことは咎めないんだな」
    「元からそうするつもりだったからそれはいい」
     脱ぐのも面倒だ、と溜息混じりに漏らす鬼丸を、じっ、と見据えていた大典太は、ぬっ、と腕を伸ばすや鬼丸の肩を強く掴んだ。
    「なん……っ」
     問う声は最後まで音にはならず、鬼丸は今の状況が瞬時に理解できないまま、視界に入る光景が、ゆるり、と回るのを眺めながら、は? と間の抜けた声を上げる。
    「凭れている方が楽だろう?」
     湯船の縁を背に大真面目な顔で問うてくる大典太と向き合った状態で膝に抱え上げられているのだとようやっと理解し、鬼丸は苦虫を噛み潰したような顔になった。
     思い返せば大典太を庇ったあとはずっと抱きかかえられるがままに身を預けており、今はそれと大して変わらぬ状態だ。それでも改めてこうされるのはどうにも落ち着かず、視線からも逃れようと身動げば、傷に響かぬよう柔く回された手に背を押され胸と胸が触れた。
     抵抗するのも疲れるだけだと諦め、鬼丸は肩から力を抜く。
     大典太の髪に頬をくすぐられながら、ぼんやり、と先のことを思い出す。
     どうして突然、大典太家の者達は現れ、どうして三日月はあのようなことを言ったのか。なにひとつとして状況が理解できず、自分の預かり知らぬところで事態は動いていたのかと、独り蚊帳の外に追いやられていたのかと、無力感に苛まれる。
     だが、それでもひとつだけわかったことがある。
    「……光世」
    「……なんだ」
    「おまえはそれで、いいのか」
     なにを、とは言えなかった。
    「……覚悟はしていた」
     返された穏やかな声に鬼丸は、ぐっ、と唇を引き結ぶと身体を起こした。
    「どうした?」
     見上げてくる大典太の眼差しは声音同様穏やかで、鬼丸は険しい表情のまま両の掌で湯を掬うや、ばしゃり、と相手の頭にそれを落とした。
    「なっ、いきなりなんだ!?」
     驚いた大典太が声を上げるも鬼丸はその動作をやめようとはせず、二度三度四度と繰り返し繰り返し湯を掛け続ける。
    「鬼丸!」
     しとどに濡れた髪を掻き上げ、顔を伝う湯を乱暴に掌で拭う端から再度湯が降ってくる。いい加減にしろと言わんばかりに大典太が鬼丸を見上げれば、悪戯を仕掛けてきているとしか思えぬ行動を取っているくせに何故か悲痛に顔を歪ませていた。
     喉元まで出かかった叱責はそのまま飲み下される。
    「覚悟はしていたから悲しくない、辛くないとでも言うのか」
     じっ、と逸らされることのない紅玉は胸の内の裡まで見透かすようで、大典太は、すぃ、と視線を下げると僅かに俯いた。
     ぽつ、ぽつ、と毛先から、頬から零れ落ちた滴がいくつも波紋を作る。
    「そう、だな……」
     ぽつん、ともうひとつ滴が落ち、鬼丸の武骨な掌が大典太の頬を、ぐい、と拭った。


     狐達の案内で湯殿へと辿り着いたソハヤは扉を開けるや、兄弟、と直ぐさま声を掛けた。鬼丸と対面するのが初めての身では、無言で近づいては警戒されると踏んでの行動であった。
     呼び掛けに顔を巡らせた大典太と彼に凭れている鬼丸の憔悴しきった様子に、挨拶代わりに上げていた手が一瞬揺れる。しかも大典太の眼は赤くなっており、じっ、と無言でこちらを見据えてくる鬼丸も同様だ。
     あぁこれは……、とソハヤは三日月に聞かされた話はしない方が良さそうだと判断する。
     本家が俄に騒がしくなり何事かと思っていれば、いつぞやの子狐がソハヤを呼びに来たのだ。狐が来たと言うことは『門』でなにかあったのだと察し、刀を掴んで駆け付けてみれば今まさに禍々しい物が『門』から這い出ようとする場面に出くわした。
    「少々騒がしくしてしまったからな」と事を終えた後に悪びれた様子もない三日月を小狐丸が窘め「ご助力感謝いたします」と丁寧に頭を下げられるも、前回とあまりにも態度が違い戸惑ったのが相手にも伝わってしまったか、再度詫びと共に頭を下げられた。
     気を取り直しなにがあったのかと尋ねれば、そもそも光世殿を取り戻しに来る計画は頓挫したのでは? と小狐丸も首を傾げたのだ。それに対する三日月の返答は呆れればいいのか憤ればいいのか、言葉と反応に窮する物であった。
     この数日で一気に地に落ちきった大典太家の威厳を取り戻すために、ソハヤが集めた証拠と証言が偽りであったと、更には三日月がそれを肯定したことを撤回してくれと、そう陳情しに来たというのだ。
     どうしようもない者達だな、と一瞬遠くを見た三日月だが、全て片付いた今ではどうでもよいことだな、とはんなりと笑ったのだった。
    「どうしてお前がここに?」
    「あぁ、本家が騒がしかったんでな、何事かとちょっと様子を見に来たら兄弟がここに居るって教えて貰ったんで、折角だから顔を見ていこうかと」
    『門』の前で一仕事したことは伏せたままソハヤが、にかり、と笑って見せれば、大典太は僅かに目を伏せ、そうか、と小さく漏らした。
    「わざわざすまなかったな」
     柔い笑みと共に眼を細める大典太を横目に、鬼丸が離れようとゆっくり身を起こそうとする。だが、逃がさないとばかりに背に添えられている手が緩むことはない。
    「離せ」
    「何故だ」
    「積もる話もあるだろう? おれはもう出る」
     大典太の肩に手をつきどうにか身体を離そうとするも、駄目だ、の一言で返され、背中だけではなく後頭部にまで回された掌で、やんわり、と拘束される。
    「なんのために入っていると思ってるんだ」
     大典太が心を鬼にして鬼丸の背を強く押せば、ぐぅ、と低い呻きをひとつ漏らし、腕の中の男は素直におとなしくなった。
    「兄弟もだが、鬼丸さんにも聞いて欲しいことがある」
     ひたひた、と湯船へと寄ったソハヤは濡れるのも厭わずすぐ傍で、どかり、と腰を下ろした。
    「三日月様には先に話して了承を得ている。鬼丸さんのお役目、俺に引き継がせちゃくれないか?」
     突然の申し出に大典太はもちろんのこと、鬼丸も言葉が出ない。一体なにを言い出したのかと驚きで目を見開いている兄弟を、ちら、と見やってから、ソハヤは至極真面目な表情で鬼丸を真っ直ぐに見つめる。
    「寝耳に水なのは百も承知だ。三日月様は兄弟と俺、母を見逃してくれた。だが、養子に出されたとはいえ俺も大典太の人間だ。大典太の人間である以上、責任は取らなきゃならねぇ」
     右手側に置いていた刀を手に取り、両手で捧げ持つ。
    「こいつを三日月様が俺にくれた意味を考えた。そして出した答えがこれだ。合っていようといまいと、俺はそうすべきだと思った」
    「責任を取るというなら、俺もだろう」
     ぐっ、と鬼丸を抱く大典太の腕に無意識に力が籠もる。そんな大典太の声が聞こえているのかいないのか、鬼丸は軽く目を見開いたまま寄る辺ない子供のような顔でソハヤを見つめ返している。
    「兄弟は何十年、何百年と変わらなかったこの状況を打破する切っ掛けを作った。次は俺がこの腕を奮う番だ」
     どこまでも力強く真っ直ぐな眼差しと言葉に、大典太は込み上げてくる熱い物を、ぐっ、と堪える。どんな時でも前向きで希望に満ち溢れている弟の姿に勇気づけられ、今なら鬼丸に大典太光世として自分の思いが伝えられると思ったのだ。
    「……おれは、光世にはもう、不要か……?」
     ぽろり、と零れ落ちた消え入りそうな声に大典太は鬼丸の肩を掴むや、正面から相手と向き合った。
    「光世のために、おれは……おれは光世に殺されないと、いけないのに……じゃあおれは、どうすれば……」
     どうすればいい光世……? と色の失せた唇が紡ぐ己の名に大典太は一旦、ぐっ、と口を引き結び、鬼丸の肩を掴む手に力を込めた。
    「だったら、今度は俺のために生きろ! 守人が娘を護れなかったことが発端だというなら、今度はあんたが! 鬼丸家の末裔であるあんたがッ、大典太家の末裔である俺を最後まで護れッッ!! それこそ死ぬまでだ」
     だから頼むから俺と一緒にいてくれ……、と縋るように抱き締めてくる大典太の言葉が受け止めきれないのか、唇を震わせたまま鬼丸は頬をくすぐる宵闇色の髪を横目に見やる。
    「でも、おれは……」
    「一緒に生きて、それでも俺に殺されたいという気持ちに変わりがなければ、俺が死ぬ間際に必ず……」

     ──殺してやる……

     逡巡を斬り伏せるかのように耳元で囁かれた言葉は酷く甘美で、この先たとえ叶わぬとしても今はそれで十分だと、鬼丸は大典太の背に、ゆうるり、と腕を回し愛しくて愛しくてたまらぬ男を初めて抱き締めたのだった。
    ■   ■   ■

     本家の者達が文字通り逃げるようにこの地を去ってから三日が経った。誰も居ないのではなにかと不便であろうと、小狐丸の指示で狐達も何人か大典太の屋敷へ移り、残りはソハヤの手助けをするべくこれまで通り三日月の屋敷へと残った。元から大典太の屋敷へ潜り込んでいた者達は本家の人間達と共に出て行ったが、頃合いを見て戻ってくる手筈となっている。
     家財道具はそのまま残されていたがその他の金目の物は持ち去られており、書き貯められていた護符類も当然のように根こそぎ消え失せていた。三日月と共に屋敷内を回っている小狐丸は、抜け目のないことで、と心底呆れたように溜息をつく。
    「ところで、貴方は一体なにをしに来たんですか?」
     鬼丸達には「準備ができたら呼ぶ」と言い置いて出てきた三日月は、初日は確かに仕事をした。分家当主へ事の顛末を伝えソハヤの話をし、まさか断るまい? と口には出さぬが微笑を浮かべ無言の圧を発する様は、傍で見ていた小狐丸を苦笑させた。
     他にも細々とした根回しを済ませ、大典太と鬼丸が共に居るために考え得る障害は極力排除し、小狐丸も此方へ移り住むにあたり、屋敷内や付近の把握に努め時間を費やしている真っ最中だ。
     三日月の用事は既に済んでいるはずなのだが一向に戻る気配はなく、陽が中天に差し掛かるまでのんびりと過ごしてから、小狐丸を供に先程から屋敷内を練り歩くばかりである。
    「うん? なに、大したことではないのだが、俺の屋敷と繋げるにはどこが最適かと思ってなぁ」
     さらり、と口にされた内容に小狐丸は二度三度と瞬きをし、はい? と思わず問い返す。
    「ソハヤを俺の屋敷に住まわせるのは鬼丸が猛反対しただろう? かと言ってなにかあるたびに森の中を走らせるのも気の毒だ」
     なるべく使用頻度の低そうな部屋を見て回っているが、普段使用するであろう部屋から遠すぎても良くないと、三日月は、うんうん、唸りながら廊下を進む。
    「それに、鬼丸は自分が結界から出られないと思い込んでいるからなぁ」
     ぽつり、漏らされた言葉に小狐丸も神妙な顔つきになる。
    「お前に助力を求めたときに一度術式を変えて張り直したが、元々鬼丸家の者には影響のないものだった」
     鬼丸がそう思い込んでしまった背景を思い、ふたりは僅かに瞼を伏せた。人と相違ない姿をしていた頃は、まだ大典太家の者も協力的な時期であった。だが、時を経て両家の関係性が変化していき、徐々に姿が人とは異なっていく鬼丸家の者を迫害する時代もあった。
     結界の外は害のみで利はないと判断し、三日月が造った屋敷に身を寄せ、彼らは結界内に留まるようになったのだ。
    「本当は出られることをずっと黙っていた身としては、今更打ち明けるのは少々勇気がいる」
     まいったまいった、と戯けたように笑う三日月だが、それに関しては小狐丸も同罪であるため、その時は首を差し出しましょう、と潔く頭を垂れたのだった。


     またよからぬことに利用されないよう、療養も兼ねて大典太兄弟の母親は三日月の知り合いが居るという神社へ預けられた。
     平穏とは言えぬがそれなりに落ち着いた日々を送り、狐の付き添いこそあれ、これまで一度も敷地内から出たことの無かったふたりが共に町へ繰り出す姿を、ソハヤは笑みを浮かべて見送る。
     さて、と卓へ目を落とし、広げられた和紙に筆を滑らせる。これまでは鬼丸が血で行っていた封印を、ソハヤは符と陣を用いてそれに代えようと考えているのだ。「封印だけならおれが」と言い出した鬼丸をどうにか説得した以上「できません」は通用しない状況だ。
    「術は兄弟の方が長けてるとはいえ、頼りたくはねぇしなぁ」
     すぅ、と眼を細め穂先に意識を集中させるも、俄に騒がしくなった庭先に心乱されてしまい、何事かと腰を上げ縁側へと出てみれば、分家の人間と小狐丸が書状を手に言葉を交わしているところであった。
     ただ事ではない雰囲気に表情を引き締め、話を聞くべく庭へと降り立つ。余程動揺しているのか巧く言葉の継げぬ男に変わり、小狐丸が書状に軽く目を通した後、お亡くなりになったそうですよ、と事も無げに言い放った。
     書状の差出人は本家の者達が身を寄せるはずであった家の者で、飛脚が文を持ってきたがそれ以降音沙汰が無く、幾日経っても訪れる気配もない。おかしいと思い探してみたところ、街道から外れた山道で遺体が発見されたとのことであった。
     野犬に襲われたと思しきその姿は見るも無惨で、共にいたはずの従者の死体はなく、また金目の物も奪われていたとも記されていた。
    「外は物騒ですねぇ」
     袖口で口元を隠し、ゆうるり、と眼を細めた小狐丸の姿に、ぞわり、と寒気にも似たものがソハヤの背筋を駆け抜ける。
     口元を隠したまま書状を使いの者へと返し、小狐丸は血の色をした瞳をソハヤへ向けるや、にたり、と確かに笑んだのだった。


     じぃ、と手元を覗き込んでくる鬼丸に、どうした? と大典太が穏やかに問えば、僅かに口を開き掛けるも相手は、いや、と言葉を切ってしまった。特に追求することでもないだろうとそのまま筆を走らせ作業を再開すれば、鬼丸は黙って部屋を出て行ったが機嫌を損ねたわけではないことはわかっている。
     だが、なにやら難しい顔をしていたなと、気に掛けたのが三日前の話だ。
     そっ、と目だけで隣室の様子を窺えば、鬼丸は真剣な顔で木箱の中に砂を敷いた物と向き合っている。すぐ横で同じ物を前にしている小狐丸の手元を見てから、手にした棒で砂を、さりさり、と引っ掻いていく。
     襖を開けたままにしてあるのは鬼丸、大典太双方の希望だ。互いに口にはしなかったが、別の時間を過ごしていようとも視界に入るところに居てほしいのだろう。
    「本当はお前が教えてやりたいのではないか?」
     気もそぞろな大典太に気づいていたか、三日月が柔く目尻を下げた。
    「……否定はしないが、鬼丸の気遣いを無駄にする気はないからな」
     続けよう、と大典太が促せば三日月はわざとらしく、こほん、とひとつ咳払いをしてから、音楽を奏でるかのように言葉を紡いでいく。
     書き換えられてしまった日々を正しい形で残したいと、大典太は本家の記録を一から綴り直すことに決めたのだ。三日月に協力を仰ぎ、彼が語る過去を書き留めていく。それはとても膨大で、如何ほどの時を要するのかもわからない。
     それでも、これは自分にしか出来ぬ事なのだと、自分がやらねばならぬ事なのだと、そう告げた大典太に鬼丸はただ一言、だが、噛み締めるように、ありがとう、と泣き笑いのような顔で言ったのだった。
    「国綱、へたっぴ」
     不意に耳に届いた声に大典太は、ふふ、と小さく笑った。
    「国綱、よめない」
    「……うるさい」
     子狐達の忌憚のない意見に喉奥で低く唸るも事実であるため、鬼丸は反論できず黙々と砂に線を引くしかできない。
    「これ、邪魔をするなら追い出しますよ」
     先生である小狐丸が手にした棒で、ぴしぴし、と続けざまに子狐達の頭を軽く叩けば、ごめんなさーい、と声を揃えて詫びてから、国綱がんばって、ときゃらきゃら笑いながら表へ飛び出していった。
    「あの子達も悪気はないんですよ」
    「わかっている」
     続けるぞ、と鬼丸が促せば小狐丸は、はい、と穏やかに応じ砂の上に文字をしたためていく。
     読み書きを覚える余裕もなくただひたすらに刀を振るっていた男が、大典太が綴っている物を読みたいと、だから教えてくれと、真っ直ぐに頼み事をしてきたその事実が狐の心の奥を揺さぶった。
     なにかを求めることに罪悪感を抱いていた男が、こうして意思表示をしてきたことが嬉しくてたまらなかったのだ。
     どこに断る理由があるものかと二つ返事で引き受け、できれば紙と墨を無駄にしたくないという鬼丸の要望に応えて道具も作った。
     生来の生真面目さがいかんなく発揮され、読みの方は驚くほどの速度で習得しているが、書きの方は残念なことに芳しくないのが現状であった。
     だが、そこがいい、と小狐丸は心密かに思う。
     なんでもすぐにこなせてしまうよりも、なにか苦手な物がひとつくらいある方が人らしくて良いではないかと。
    「……毎日、目が回りそうだ」
     見る物聞く物全てが真新しく知らないことばかりで、出来ることが多すぎて、今はまだ戸惑いの方が大きいのだろう。
     ぽつり、漏らされた呟きに、そうですね、と相槌を打てば、だが悪くない、と返され、小狐丸は眦を柔く下げた。


     ふと目を開ければ、折り畳まれた座布団が頭の下にあった。
     確か小狐丸と三日月が退室してから、大典太が護符を作っているのを見ていたはずだ。
    「……起きたか」
     頭上から降ってきた笑みを含んだ柔らかな声に目だけで応じれば、大典太の左手が覆い被さり反射的に瞼を下ろす。ぱちぱち、と二度三度瞬きをすれば、くすぐったい、とやはり笑みの滲んだ声が降ってくる。
    「終わったら起こしてやる。もう少し寝ていろ」
     掛けられていた羽織を引き上げれば、焚きしめられた香が仄かに香る。口角が上がったことに気づいたか、大典太が、どうした? と問うてきたが、鬼丸は添えられている相手の手に軽く触れ、するり、と撫でるだけでなにも言わなかった。
     手が届かないと思っていた者がすぐ傍にいる。
     言葉を交わすことが出来る。
     これ以上なにを望むことがあろうか。
     今にもはち切れそうなこの胸の内を表すに相応しい言葉があるのだろうか。あるのならば是非に知りたい。そうだ、明日にでも小狐丸に聞いてみよう、と夢現に思いながら、鬼丸の意識は再び温かな闇へと沈んでいく。
     すぅ、と薄く開かれた唇から静かに漏れ出る寝息を耳にし、大典太は手を離した。現れた穏やかな寝顔に、自然眦が下がる。
     このような時間を過ごせることが、今でも信じられないというのが本音だ。
     なにを憂えることなく安心して眠ることができる。
     その姿を見守ることができる。
     あぁきっとこれが幸せということなのだろうと、大典太は柔らかな銀糸を梳きながら笑みを零したのだった。
    ■   ■   ■

     しとしと、と降りしきる雨が庭の草花を打つ様を肴に、縁側で盃を傾けていた神の視界に、ぬぅ、と濡れそぼった男が映り込んだ。
     なんだ、殺されなくて良かったのか? と揶揄してくる神に対して一瞥くれるに留め、男は屋敷に上がり込むや、てんてん、と水を落としながら昔使っていた自室に向かった。
     懐から取り出したのは、葬儀のどさくさに紛れ持ち出した一冊の書物。
     濡らすまいと幾重にも幾重にも巻いていた手拭いを解き、ぱらり、と頁を繰る。
     ただひとつ、彼にこう記してほしいと望んだ部分を、そっ、と指でなぞる。
     ぽつ、と落ちた滴が、じわり、と文字を滲ませた。
     雨はしばらく止みそうにない。


     ──鬼丸国綱。
     大典太家最後の当主、大典太光世の護鬼。


    2020.12.30
    あるひとつのみらい ふわ、と鼻先を掠めた香りに重い瞼が、ゆうるり、と持ち上がっていく。
     花の香、雨の香、獣の香、そのどれでもない、柔く、だが、どこか懐かしい香りに誘われるかのように、ごろり、と寝返りを打てば逆光の中、庭先に佇む人影があった。
    「……お休みのところ申し訳ないのだが」
     ぼそぼそ、と口内にこもるような陰気な声に、ぱちり、と鬼丸の眼は完全に開かれた。
    「勝手に入ってきた事も謝罪する。だが、道に迷ってしまったようで、その……」
     鬼丸が身じろぎ一つせず、更に物言わず凝視してくるのを警戒からと判断したか、宵闇色の髪をした青年は申し訳なさそうに大きな背を縮こめている。
    「あぁ、いや、来客など滅多にない事なんでな、ちょっと驚いただけだ。こちらこそ見苦しい姿で申し訳ない」
     乱れた着物の裾を直しながら鬼丸は立ち上がるも濡れ縁へ近づく事はせず、ただただ、じっ、と庭先の男を見下ろす。
     宵闇色の髪に紅玉の瞳。
     遙か昔に共に生きた男と瓜二つのその姿に、ただただ、足が竦み、根が生えたかのように動けぬのだが、そうとは知らぬ男は申し訳なさからか満足に顔を上げる事もなく、鬼丸の足下ばかりを見ている。
     男が纏っているのは濃紺の浴衣で、はてこの時代はすでに洋装になっていたのでは? と鬼丸は内心で訝った。大半の時間を夢の中で過ごしてはいるが、時代の移り変わり程度ならば把握している。
    「……おかしな事を言っていると思うが、聞いてほしい。神社の祭りに来たんだが、連れとはぐれて、探しているうちに森に入り込んで、その、気がついたらこちらに……それに、陽が傾いていたはずなんだが……」
     煌々と照りつける太陽を恐る恐る見上げる男に、さてどう答えてやるべきかと、鬼丸は組んだ腕を指先で、とんとん、と叩く。
    「それは……災難だったな」
     考えた末の言葉は当たり障りのない平凡な物であったが、声音に滲んだ柔さに強張っていた男の肩から若干ではあったが力が抜けた。
    「この歳にもなって迷子とは情けない限りだ。勝手のわからぬ初めての場所で動き回る物ではないな」
    「初めて?」
    「あぁ、遠縁になるが俺も一応この神社と関わりがあるらしいんでな、前から一度来ておこうと思ってたんだ」
     祭りはそのいい切っ掛けといったところだったのだろうが、まさかこのような事になるとはまさに災難としか言い様がない。
     大典太家本家は光世の代で終わっているため大典太の名を持つ直系は残っていないが、大方ソハヤの血筋であろうと鬼丸は見当をつける。
    「……そうか。ではここで祀られているのがナニかは聞いているか?」
     神社のあちらこちらに狐の像はあれど稲荷とは関係ないといい、三日月を象った紋が刻まれているも由来は不明。そして土地を守護する神は――
    「……鬼が、祀られていると……聞いている。名前は……」
     土地を守護する神の名は――
    「鬼丸国綱だ。神の寝所に迷い込むとは、本当に災難だったな」
     暗く沈んだ室内から日の差す濡れ縁へと歩み出た鬼丸は、自分を見上げたまま言葉を失った青年を見下ろし、隻眼を細めた。
     七色に変じる髪を掻き分け突き出た一本の角に注がれる視線を意にも介さず、鬼丸は、とっ、と庭へ降り立つと青年の横をすり抜けそのまま、スタスタ、と歩き出した。
    「着いてこい。送ってやる」
     振り返りもせず先を行く鬼丸の背を男は慌てて追い、隣に並ぶのはさすがに憚られたか、一歩後ろを着いて行く。
    「……もう少し強くしておくか」
     ブツブツ、と何事かを口中で算段してる鬼丸の背後では、目の前で揺れる角に魅入られたかのように男の視線は釘付けである。
     橋を渡り終え、振り返った鬼丸は男の表情に、ぐっ、と唇をへの字に曲げた。
    「……触るなよ」
    「……まだ何も言っていない」
     上がりかかっていた腕をさりげなく下ろした男は、しれっ、と言い放ち、耳に届く祭り囃子に気がついたかそちらへ顔を向けた。
    「ここまで来れば大丈夫だろう。音に向かって真っ直ぐ行け。決して振り返るなよ」
    「……黄泉比良坂でもあるまいし」
     鬼丸の言葉に苦笑を漏らしながら青年が振り返れば、今の今までそこに居たはずの神の姿はなく、一瞬前までは確かに開けた場所に立っていたのだが、今は林立する木々の間に、ぽつん、と一人佇んでいる。
     辺りを見回しても薄暗い森が広がるばかりで、橋や家屋など影も形もなかった。
    「一体どうなってるんだ……」
     夢でも見ていたのかと男は首を捻り捻り、木々の間からちらちらと届く明かりへと向かって足を踏み出していく。徐々に近づいてくる喧噪に、ほっ、と無意識のうちに安堵の息が漏れた。
     鬱蒼とした森から抜け出し、吊られた提灯をぼんやりと見上げていれば、運良くはぐれた連れとも合流できたが、思っていた以上の時間が経っていたのだった。

     懐かしい姿が森から出た事を確認し、鬼丸は深く息を吐いた。森に施した人避けの結界に綻びはないが結界の性質が物理的に侵入を阻む物ではないため、今日のように極々稀にではあるが抜けてしまう者が居る。
     不穏な物には近づきたくないという心理を利用し、本人にはそうと意識はさせず核心部分から離れるよう誘導するのがこの結界の特質なのだが、極端に感受性の鈍い者、またはそれらを打ち消すほどに霊力の強い者には効果はないといっても過言ではない。
     おそらく先の青年は後者だ、と鬼丸は眉をひそめる。しかもたちの悪い事に無自覚であろう。誘導の結界の先に張ってある隠蔽の結界を難なく抜けてきた事からも明らかだ。
     誘導の方はこれ以上強くしてしまっては最悪、森から抜け出せない者が出るため、強めるなら隠蔽の方となり、青年の意識が外へ向くのに合わせて強度を増した。そのせいで不自然に景色が変わってしまったであろうが、これ以上踏み込まれる事と天秤にかければ、それは鬼丸にとっては些末な事であった。
     三日月のように自分の土地を、ぶらぶら、と自由気ままに回る事はせず、鬼丸はほぼほぼ眠っている。
     狐が逝き、月は隠れた。
     少しばかり疲れてしまってな、と物言わぬ狐の髪を梳いてやりながら、ぽつり、零した三日月の最期の頼みを断る事など出来ようはずもなかった。
     彼が居なければとうに潰えていた生命だ。
     人の一生からすれば短くない時間を愛しい男と共に過ごす事が出来たのも、彼が居たからこそだ。
     最後まで共に居ると言ってくれた狐が二体居たが、もう自由になっていいのだと解放した。
     屋敷へと戻り、ごろり、と畳に寝転がる。
     昔のように人と関わる事はなくなり、ひとりで過ごす事にも慣れた。微睡みの中、ぷつぷつ、と泡が弾けるように聞こえる様々な声は子守歌にも等しかった。


    「……おい、起きてくれ」
     ゆさゆさ、と肩を揺すられ鬼丸は低く呻きながらその手を払った。
    「……うるさい」
     そのまま寝返りを打ち背を向けた瞬間、ぞわり、と背が粟立つ感覚に鬼丸は反射的に角を押さえ跳ね起きた。
     声も出ぬまま目を見開けば、視界に飛び込んできたのは手を伸ばした体勢のまま、こちらも驚愕に目を見開いている陰気な男であった。
     不意に角の根元に触れられた事と、居るはずのない男が目の前に居る状況に、鬼丸はただ唇を震わせるしか出来ない。
    「……あー、その、すまなかった」
     そんなに驚くとは……、と半ば呆然と漏らした男の言葉に、だから触るなと言っただろう、と鬼丸が力なく返せば、すまなかった、と再度詫びの言葉と共に宵闇色の頭が下げられた。
    「……なんでお前が居るんだ」
    「昨日、礼を言う前にあんたが居なくなってしまったからな」
     鬼丸の問いの意味はそうではなかったのだが、結界の事など知らぬ男は真っ正直に答える。
    「理由はわかった。だが、人が踏み込んでいい場所じゃない。そもそもお前はおれが恐ろしくはないのか?」
     明らかに人とは異なった姿をしており、実際に触れたのだから角が作り物ではない事も理解したはずだ。
     鬼丸が改めて問えば男は感情の読めない表情で僅かに首を傾げ、そう言えばそうだな、とどこか他人事のように呟いたのだった。
    「お前、周りから変わり者だとよく言われるだろう」
     問いではなくほぼ断定的な鬼丸の言葉に青年は一瞬片眉を上げるも、ふむ、と僅かに目を伏せ、そう……かもしれないな、とやはりどこか他人事のように漏らす。
    「……用件はわかった。礼などいらんから帰れ」
     嘆息混じりに鬼丸が、ゆうるり、と手を振るも男はそれを見てはおらず、広い室内を、ぐるり、見回してから、ひた、と鬼丸の目を見据えた。
    「あんたひとりなのか」
     こんなに広いのに……、と怪訝な顔を隠しもしない相手に鬼丸は、ぐぅ、と喉奥で低く呻く。この男に他意も悪意もないことはわかっている。だが、触れて欲しくない事には違いなく、あからさまに鬼丸の顔つきが険しくなった。
    「お前には関係ないことだ。また送ってやるから帰れ。二度と来るな」
     そう言い放つや相手の返答を待たず鬼丸は立ち上がり大股に外へ向かおうとするも、不意に、はっし、と腕を掴まれ不本意ながら足を止める。
    「なんだ」
    「大典太だ」
     男の口から出た名に、鬼丸の思考が白に塗り潰された。
     衝撃の強さから思考も身体の動きも止まる。
     自分を見上げてくる紅玉が、宵闇色が、ぐらぐら、と揺れ、焦点を結ぶ事が出来ない。
     痺れたように動かぬ脳に、じわり、と真っ先に浮かび上がってきたのは「ありえない」という言葉であった。
     大典太家は光世で終わったのだ。確かに見届けたのだ。彼の生涯を、すぐ隣で。
    「なに、を……言って……」
    「俺の名だ。ずっとお前呼ばわりは正直、気分がよくないからな」
     震える唇はそれ以上音を紡ぐ事もできず、鬼丸は強張った表情のまま青年を凝視する。
    「……なんだ、そんなにおかしな名か?」
    「そんなわけあるか! その名を貶すのはおれが赦さない……」
     ぎり、と音がしそうな程に拳を固く握り締める鬼丸の剣幕に度肝を抜かれたか、どこか茫洋としていた男は軽く目を見開くと、掴んだままであった相手の手を、そう、と離した。
    「悪かった。そんなつもりはなかった」
     その言葉に嘘はないのだろう。珍しい名字故にこれまでも名前に関する事でとやかく言われた事があるのかもしれない。
    「……いや、いきなり怒鳴って悪かった」
     そういえばここまで大きな声を出したのはいつ以来であろうかと、鬼丸はぼんやりと考える。
     三日月相手にはよく怒鳴った記憶はあるが、光世にはどうであったか。
     近くで囁き交わす事は多々あった。初めて見る物に歓喜の声を上げた事もあった。
     常に穏やかで、波ひとつない湖面のように静かな、染み入るような声をよく覚えている。
     ほたり、と畳に水滴が落ちた。
    「……あ」
     無意識にか男から上がった小さな声に、鬼丸の意識が目の前の男に戻ってくる。
     なんだ、と言いかけ、ぽたぽた、と滴っている水滴の正体にようやっと気づき、違う意味で、なんだ……? と言葉が零れ落ちた。
    「泣くほど腹に据えかねたのか……本当にすまなかった」
     立ち上がった男に押し込むように肩を押され、鬼丸は、すとん、と畳に尻をついた。
    「そんなことはないんだが……」
     己の状態が理解できず視線を泳がせつつ懐紙を取り出そうとするも、それよりも早くハンカチが差し出され、鬼丸はどこか気まずげに眉を寄せながらそれを素直に受け取った。
    「……大典太、か」
    「そうだ。俺は『鬼丸様』と呼んだ方がいいのか」
    「それはやめてくれ」
     心底嫌そうに唇を歪める鬼丸の様子に、大典太は僅かにだが肩に入っていた力を抜く。なにが鬼丸の逆鱗に触れたかは不明のままだが、とりあえず落ち着いて話が出来る状態にはあるようだ。
     濡れた頬と目元をハンカチで押さえる鬼丸を眺めていれば、不意に、つきん、と走った痛みに思わず胸を押さえる。
     うん? と怪訝に首を捻る大典太の様子に気づいた鬼丸が、どうした? と問うも自分でも理由のわからぬ大典太は曖昧に首を横に振るだけだ。
    「みっともない姿を見せたな。忘れてくれ」
     到底不可能な事を、さらり、と口にし、鬼丸は手にしたハンカチをそのまま返そうとするも、さすがにそれは失礼だと気づいたか、中途半端な位置で手を止めた。
    「……洗ってくる。ちょっと待ってろ」
    「いや、いい。その代わりと言ってはなんだが、俺に少し付き合ってくれ」
     半ば強引に鬼丸の手からハンカチを受け取り、大典太はその勢いのまま相手の手を掴むや、ぐい、と共に立ち上がった。
    「祭りに行こう」
    「は?」
    「今日は元からあんたを誘うつもりで来たんだ」
     ぽかん、と立ち尽くす鬼丸を上から下までつぶさに眺め、乱れた着物を手早く整えていく。
    「何を言ってる? 礼を言いに来ただけだと……」
    「? 礼だけとは俺は一言も言っていないが?」
     行くぞ、と再び手を掴み、そのまま歩き出した大典太に鬼丸はまろぶように着いて行く。決して振りほどけぬ強さではないが、節の立った大きな手すら記憶にあるままで、その感触に、温かさに、ぐっと唇を噛み締めた。
     自分の下駄を突っかけてから、あんたのは……、と大典太が振り返ったところで、鬼丸はなにかを斬り捨てるかのように相手の手を強く振り払った。先日同様、地に立つ大典太を見下ろし鬼丸は目を眇める。
    「莫迦な事を言うな。おれは行かない」
    「何故だ?」
     小首を傾げ不思議そうに見上げてくる大典太にはとぼけている様子はなく、鬼丸は一旦唇を引き結んでから、ゆうるり、と細く息を吐いた。
    「……おれの姿を見て平気な顔をしているのはお前くらいだ」
     白磁の肌に柘榴の瞳。
     光に透け七色に変じる髪。
     そして、人にはありえない角が一本。
     愁いを帯び伏し目がちになった瞼を縁取る睫毛は、瞳の色を映しているのか薄赤く染まっている。
     改めて見ずとも異形と言える姿形をしている。だが、鬼丸がこの姿である事に大典太はなんら違和感を抱かなかったのだ。
     鬼丸に角があるのは当たり前の事であり、その姿をまるで最初から知っていたかのように今更驚く事でも忌避する事でもなかったのだ。
    「平気、ではないな……」
     胸を片手で押さえ大典太は辿々しく言葉を漏らした。
    「あんたを見てると、ここが苦しい、気がする……」
     眠っている鬼丸の角に触れたのも、自分だけは、自分ならば赦されるのではないかと、根拠がないにも関わらず何故かそう思ったからだった。
     仄かに温かな根元の感触を思い出し、大典太の胸の奥で、じくり、となにかが疼く。このまま得体の知れないなにかに身体の内側から食い破られそうな焦燥感を覚えると同時に、ぐるぐるとわだかまる重苦しい熱の塊を全て吐き出したいとの欲求に駆られる。
     奥底に熱を秘めた眼差しを一心に向けられる事に耐えられなくなったか、鬼丸は掌に爪が食い込むほど強く握り締め、唇をきつく引き結んだ。
    「……わかった」
     ようよう押し出された絞り出すかのような呻きにも似た声に、大典太の顔に期待感が広がる。
    「今回だけは付き合ってやる」
     ここで無駄に時間を使い彼方との時間の流れのズレを大きくするよりは、自分が折れた方がマシであると鬼丸は苦渋の選択をしたのだ。
    「だが、おれに関わるのはこれっきりにしろ」
     いいな、と釘を刺せば喜色満面であった大典太は途端に眉尻を下げ、しょぼくれた大型犬を彷彿とさせるその姿に若干心が痛んだが、鬼丸は敢えて見なかった事にしたのだった。


     するり、と木々の間から参道へと抜け出すや、大典太は、ちょっと待っててくれ、と言い置き、器用に人波をすり抜けある露店へと向かって行った。頭ひとつ以上飛び出しているためその姿を見失う事はないが、急にどうしたのかと訝る鬼丸は自身の角を隠すように左手を頭に当てている。
     祭りに行くにあたりこの角をどう隠すかという話になった時、大典太は「考えがある」と言い切ったのだ。変化や目眩ましといった事も出来ない事はないが正直、鬼丸は得意ではない。相手に策があるというのならば、これ幸いと任せる事にしたのだ。
     目の前を行き交う人波を見るともなしに眺めていれば、ぬぅ、と大典太が視界を塞ぐように立った。
    「待たせたな」
     端から見れば上背もあり体格のよい男がふたり、道の端とはいえ立ち止まっている姿は人目を引く。なるべく人目に触れたくない鬼丸からすれば、大変望ましくない状況だ。
    「それで、どうするんだ」
     参道に対して気持ち身体を斜めにし、出来るだけ角の存在を隠そうとする鬼丸の手を大典太は、そう、と除け、代わりに手にしていた物を相手の頭に着けた。
    「……祭りなら定番だろう」
     そう言って大典太自身も同じ物を、鬼丸とは逆の側頭部へと着ける。
     宵闇色の頭部を飾る鼻先の尖った白塗りの狐面に、鬼丸は一瞬瞠目し、微かに震えだした唇を隠すように口元を掌で覆った。
     くそ……、と何に対してか判然としない悪態を漏らし、鬼丸は、じとり、と半眼で大典太を見やる。
    「なんでお前まで」
    「あんたひとりだけじゃ嫌がるかと思ったんでな」
     目立つ容姿のふたりがこれ以上目立ってどうするのかと、鬼丸は頭を抱えたくなったがここまで来たら後には引けず、大典太の手に引かれるまま人波に乗って歩き出した。
    「逃げたりしないから離せ」
     掴まれた手を鬼丸が緩く振れば、ダメか? と何故か問い返され、言葉を失う。即座に返答がなかったことを肯定と受け取ったか、大典太は柔く笑むとそのまま前を向き上機嫌に進んでいく。ここでわざわざ振りほどくのも大人げないと、鬼丸はひとつ嘆息を漏らすだけに留めた。
     金魚すくいやヨーヨー釣り、射的などといった定番の遊びを一通りこなし、自分などを連れ回して一体なにが楽しいのか、と鬼丸が思っているのを知ってか知らずか、大典太は、小休止だ、と参道から外れ買い求めたラムネの瓶を一本、鬼丸に差し出した。
     カラ……、と軽やかに鳴るビー玉に目をやり、次いで目の前の男を見やる。光世も何かを分けてくれる時はこのような優しい眼差しであったな、と記憶が甦り、意識せぬままに鬼丸の眦が僅かに下がった。
     礼と共に受け取ったそれを口に含むもやはり味はわからず、鬼丸はそのことを気取られないよう、ゆっくりと瓶を傾けた。味はわからぬが炭酸が口内で弾ける感覚はむず痒く、思わず、ふふ、と笑みが零れる。
     瓶を下げ、ふと顔を上げれば大典太に凝視されている事に気づき、鬼丸は、なんだ、とぶっきらぼうに問うた。
    「初めて笑ったな……」
     そっ、と掌全体で頬を撫でられ、親指の腹が目の際をゆっくりとなぞる。あまりにも当然の顔で行われたそれに、鬼丸は言葉もなく立ち尽くす。
    「……やっと見つけた気がする」
     ぽそり、と秘め事を打ち明けるかのような声音に、なにを、と問う事は出来ず、真摯な眼差しを向けてくる大典太を突き放す事も出来なかった。
    「昔から俺はなにかが足りない、なにかが欠けているような感覚が、ずっとここにあった」
     とん、と己の胸を拳で軽く叩き、大典太は苦く笑う。
    「なにをしていても虚無感があって、なにをしても満たされなくて……」
     覇気がない、ぼんやりしている、何に対しても無関心、などと周りから言われる事も少なくなかった。足掻いたところでこれはどうすることも出来ないのだと、自分はそういうものなのだと、心のどこかで諦めていたのだ。
    「でも今は違う。逆に何かが溢れそうで、はち切れそうで、苦しい……」
     苦しいんだ、と喘ぐように訴えてくる大典太の手は、鬼丸の頬から首筋へと滑り、うなじを撫で上げ、くしゃり、と五指が銀糸に絡む。
    「鬼丸、俺は……」
     ぐっ、と後頭部に添えられた手に力が籠もり、鬼丸は、はっ、と我に返ったか反射的に腕を伸ばすや、大典太の面を勢いよく正面へとずらした。
    「そこまでだ」
     熱烈な告白を冷めた声音で一刀両断する。
    「それをおれに言ったところでどうなるものでもないだろう?」
     するり、と大典太から離れると、鬼丸は振り返る事なく森へと向かって歩みを進める。
    「付き合うのは今宵だけという約束だ。達者でな、大典太」
    「ッ待ってくれ……!」
     吸い込まれるように闇へと消えた鬼丸の背中を追いかけるもその姿は煙のように掻き消えてしまい、大典太は月光も届かぬ中、ただ立ち尽くすしかなかった。

     涼しい顔で大典太に別れを告げ姿を消したが、鬼丸の心中は穏やかではなかった。ギリッ、と歯を食い縛り飛ぶように森を駆け抜ける。結界を抜け屋敷へと着くや面を毟り取り、そのまま握り潰しそうになる程に手指は小刻みに震えていたが、徐々に落ち着きを取り戻していく。
     部屋の中央に立ち尽くしたまま面を胸に抱き、深く深く息を吐く。
     触れ方も、名を呼ぶ声音も、全てが記憶にあるままで、だからこそ鬼丸はあの男を大典太光世であると認める訳にはいかなかった。
     光世を失い、狐が逝き、月も隠れた。
     ひとりである事に慣れるまで如何ほどの年月を費やしたか。
     ひとりである事を当たり前に受け止められるようになるまで、一体どれだけの夜を越え朝を迎えたか。
     彼が大典太光世であると認めてしまえば、また次があると期待してしまうではないか。
     期待して、期待して、いつまでも待ち続けて、いっそあの出会いがなければと、後悔する日が必ず来る。
    「……それはあまりにも……」
     すとん、と糸が切れたかのように座り込み、胸の狐面を両手で掻き抱く。
    「ひどいじゃないか……」
     零れ落ちた言葉は酷く震えており、畳に額がつきそうな程に丸まった背は小刻みに震えている。
     ひとりであるにも関わらず、鬼丸は声を上げて泣く事すら出来なかった。


     そう、と前髪を払い、泣き腫らした顔に大典太は痛ましげに眉を寄せる。
     あのあと大典太は息を切らしながらそれこそ一晩中、明かりも持たずに森を駆け回り、空が白み始めた頃、見覚えのある橋を見つけるや疲労感で今にも止まりそうになる足を叱咤し、一息に走り抜けようやっと屋敷へと辿り着いたのだ。
     よほど深い眠りについているのか、鬼丸が目を覚ます気配はない。
     何度も強く擦ったのか赤くなっている頬を労るように包み、伏せられた睫毛を親指の腹で順繰りに辿る。
     一撫でするごとに、ぱちん、と胸の奥で小さな小さな白い花が開いていくような不可思議で、だが心地よい感覚が広がっていく。
     決して長くはないが柔らかく密に茂ったこれに、確かに触れた事があるのだと咲き誇る花が訴えてくる。
     静かに伸ばした指先で眼帯を柔く撫でる。髪も肌も透き通るように美しいが、この下にある柘榴の瞳が揃った時の、吸い込まれるかのような美しさも知っていると、胸を満たす花々が教えてくるのだ。
     あの重苦しい熱の塊は今や、柔らかく綻ぶ花へと姿を変えている。
     暗闇を走りながら、失いたくないと、失ってはならないのだとの思いが強く湧き上がった。
     名しか知らぬ相手に何故ここまで胸を震わせ、気持ちが揺さぶられるのか、理解出来なかった。
     感情は一切追いついていないにも関わらず、足りない物を埋めてくれるのはこの男であると、確信した。
     今はただただ、愛しいと。胸の奥底、それこそ魂がこれ以上ないほどに震えている。
     愛しいと。
     大切なのだと。
     触れたいのだと。
     声を聞きたいのだと。
     自分を見て欲しいのだと。
     溢れる花は胸にとどまらず、大典太の頬を濡らしていった。

    2021.03.26

    ::::::::::::::::::::

    このあと光世がSEED弾けさせて覚醒するもよし、中途半端なまま鬼丸さんにギュンッ!となりながら通うもよし。鬼丸さんを外に連れ出すもよし。お好きに料理して?
    光世の名字が大典太なのは、三日月の置き土産(神社に預けられたふたりの母親の系譜)だよってだけの話です。
    茶田智吉 Link Message Mute
    2021/08/19 4:59:30

    【刀剣】ちにとわに

    #刀剣乱舞 #腐向け #鬼丸国綱 #大典太光世 #三日月宗近 #小狐丸 #ソハヤノツルキ #パラレル ##刀剣
    【注意】
    ・パラレルです。
    ・基本的に天五みんな右側だと思ってるのでこの話は百合だと思って書いてます。
    ・小狐丸も右です。百合です(二回目)
    ・光世と鬼丸さんが相思になるお話ですが、左右がはっきりした話ではありません。
    ・リバというわけでもありません。とても説明しにくいふわっとした関係です。
    【通販】
    加筆修正した冊子を通販しています。
    https://hvkl.booth.pm/
    (『あるひとつのみらい』は含まれていません)

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