【刀剣】典鬼ワンライ再構成版 りぃん、しゃりん、りりぃん。
そこかしこから聞こえてくる摩訶不思議な音に誘われるように、大典太は薄闇の中を行く。
てぃりん、しゃらりん、りりりぃん。
音に合わせて、ぱっ、と宙に細かな燦めきが舞う。その源は混沌の闇よりも昏く深い池に浮かぶ蓮の華だ。
大典太の歩みに合わせて足下の華が、さぁ、と左右に分かれ、一本の道ができる。
波紋をひとつふたつと広げながら、蓮が導くその先へと進んでいく。
ぱっ、と散る燐光の先、仄白く浮き上がる人影があった。大典太とは違い黒い水面に腰を下ろしている相手の足は水中にあるにも関わらず、すらり、と伸びたそれは黒に隠される事無く、ゆらゆら、と戯れに揺らされている様が見て取れた。
白に見えた頭髪は蓮が放つ燐光のせいか、まるで万華鏡のように照らされるたびに色を変える。
あと三歩というところで、白いかんばせが、ゆうるり、と大典太へと向けられた。
「なんだ、迷子か」
低く凪いだ声が蓮の花を震わせる。ふたつみっつと同時に開いた華が放った燐光が、男の姿を漆黒の中に浮かび上がらせた。
左目を覆う眼帯。
オパールの髪を掻き分け天を差すのは一本の角。
特異な姿であるにも関わらず、大典太は不思議とその姿に違和感を抱かなかった。
「……ここは? それにあんたは一体」
「言った所でお前にはわからんだろうな。どこから迷い込んできたのやら」
隻眼を細め淡々と応じた男の発した言葉の後半は大典太に向けられた物ではなく、ほぼ独り言のような物だ。
僅かに身を屈め浸した手が、くるくる、と闇を攪拌するように動けば、それに合わせて開いた蓮が順繰りに男の前へ流れ着く。
その様子を大典太はただ黙って見つめる。男の仕草に見とれていたと言ってもいい。
「……あぁ、これか」
一際大きく美しい蓮を覗き込んだ男の眦が、ゆうるり、と下がった。
中には一体なにが? と興味を引かれた大典太が身を乗り出したのと同時に、とん、と腰の辺りを押された。さほど力は入っていなかったが重心のずれた身体はたやすく前のめりになり、抗う間もなく頭から蓮の中へと飛び込んでいく。
「早く戻れ」
堕ちる最中、無理矢理に首を捻り見上げれば、柔く笑む鬼の姿がそこにはあった。急速に遠ざかるそれを最後に、大典太の意識は、ぷつり、と途切れた。
「お、やっと気がついたか」
真っ先に視界に飛び込んできたのは御手杵で、きょろり、と目だけで辺りを窺えば、枝振りの良い大木の下に寝かされている事がわかった。
「……俺は」
「刀剣男士も脳震盪起こすんだなぁ」
みんなも気をつけろよ、と御手杵が共に出陣していた仲間に声をかけながら、身を起こした大典太に肩を貸す。
「よーし、大典太も大丈夫そうだし、帰投するかー」
一振りも欠ける事なく任務を遂行した部隊の面々の表情は明るい。それにつられるように大典太の口元も若干綻んだ。
りぃん、しゃりん、りりぃん。
てぃりん、しゃらりん、りりりぃん。
耳の奥深くで響く心地の良い音と夢で出会った鬼の事は、さらさら、と砂が零れ落ちるように記憶から消えていった。
◇ ◇ ◇
――起こりえるかも知れない過去。
――起こりえたかも知れない未来。
蓮が運んでくるのはどの時間とも知れぬ、どの世界線とも知れぬ、どの本丸とも知れぬ記録の断片だ。
現世と隠世の狭間。紗一枚を隔てた隣り合わせの、だが存在自体が不確かで不安定な場所。
これまでは流れゆく蓮を無作為に覗き込んでいた鬼丸だが、先日ふらりと迷い込んだ太刀に興味を抱き、彼と「自分」が関わっている記録を手繰り寄せる。
漏れ聞こえる会話に耳を澄ませ、遠くて近い二振りの一挙手一投足に目を細める。
無限とも言える時間の中、それは彼のささやかな楽しみとなった。
◇ ◇ ◇
すっ、と静かに差し出された物の意図がわからず、大典太は小さな袋を、じぃ、と凝視する。
「……なんだ」
「やる」
短い問いに短い返答。
なるほど鬼丸の行動の意味は理解できた。だが、意図は相変わらず不明のままだ。
じぃ、と袋に向けられた視線は変わらぬが鬼丸は気分を害した様子もなく、通り過ぎざまに大典太の胸に袋を押しあて躊躇なく手を離した。
「不要なら処分しろ」
反射的にとはいえ、袋が廊下に落ちるのを大典太の手が阻止したのを横目に確認し、鬼丸は微かに笑みを浮かべるとそのまま歩み去ったのだった。
ひとり残された大典太はわけがわからず、ぽかん、とその背を見送るしかない。
今日は誉を取ったわけでもなく、この本丸に顕現した日でもなんでもない。誰かになにかを贈られる覚えはないのだ。仮に誉の祝いだとしても、そもそも鬼丸とは個別になにかを贈られるような関係ではない。
理由もなく渡された手中の袋に目を落とし、知らず溜息が漏れる。考えたところで答えが見つかるわけもなく、大典太は諦めたように自室へと向かうべく足を踏み出した。
「あぁ、それ。アンタのだったのか」
風呂敷包み片手に呑気な声を上げたのは万屋に買い出しに行っていた御手杵で、なにを頼んだわけでもない大典太と顔を合わせたのはただの偶然だ。
だが、彼の言葉を耳にした大典太は無意識のうちに、なに? と声に出していた。
「鬼丸がなにか買ってたから珍しいなって思ってたんだ。ほら、あいつ自分の買い物ほとんどしないからさぁ」
ほら、と言われたところで共に買い出し当番になったことのない大典太は同意しかねるのだが、ますます鬼丸の意図がわからず大典太の困惑は深まるばかりだ。
「なにか頼んだってわけじゃなさそうだな」
大典太の表情から読み取ったか御手杵が首を傾げれば、そうだと言わんばかりに大典太の首が縦に振られる。
暫し何事か考えていた御手杵だが、不意にぱぁっと顔を輝かせるや、ばんばん、と大典太の肩をやや乱暴に叩いた。
「そうかぁ。鬼以外にも興味が出たのかぁ。いいことだな、うん。なに貰ったか知らないけど大切にしろよ」
そうかそうか、とひとり納得顔で去っていく御手杵の背を先と同様、ぽかん、と見送る大典太の手中で、味も素っ気もない無地の袋が、かさ、と小さく鳴った。
◇ ◇ ◇
そよ、と吹く風に乗っていくつかの花弁が舞い踊る。
常と変わらずゆっくりと盃を傾ける鬼丸を、ちら、と盗み見て、大典太はここに至るまでの経緯を思い返し、僅かに眉根を寄せた。
話は審神者に相談を持ちかけられた事から始まる。
聞けば鬼丸は顕現後、一度も桜を舞わせたことがないという。まさかそんな訳ないだろう、と大典太が疑いの目で見たのがバレたか、審神者はマジもマジ大マジと若干目が据わった。
「俺も誉取りまくってるのに花びら一枚舞わない男士をはじめて見たわけでして、えぇ……。もーなんなの、心のファイヤーウォール強固すぎない!?」
「……ふぁいや……?」
よくわからない例えにどう反応した物かと戸惑いつつ、大典太が「なんで俺にそれを?」と正直な気持ちを告げれば、あっさりと「仲いいんだろ?」と返された。
「珍しく自分から、ぐいぐい、行って一緒に酒飲むくらいだし、大典太相手なら鬼丸もセキュリティレベル下がるんじゃないかと思って」
「……せきゅ……?」
やはりよくわからないことを言う審神者に、もっとわかりやすく頼む、と言えば、審神者は一瞬難しい顔をした後、わっ、と両の掌で己の顔を覆ってしまった。
「なにか不満があるようなら聞き出して欲しいですぅー! 審神者頑張って改善しますからぁー!!」
「……いや、不満がどうという話ではないと思うんだが」
政府が大本との交渉をしくじり、顕現させるにも一筋縄ではいかないとの噂がある程だ。それが呼びかけに応じ顕現したと言うことは、鬼丸も納得してここに居るということだ。
「あまり期待はしてくれるなよ」
おぅおぅと汚い声を上げ泣く審神者が哀れになったか、大典太が小さくも了承の旨を伝えれば、審神者は酒瓶を一本差し出し、お願いします、と頭を下げたのだった。
「なんだ、全然飲んでないじゃないか」
そっちから誘っておいて、と片眉を上げる鬼丸に、そうか? と空とぼけて見せ、大典太は空の盃を鬼丸に向かって突き出す。
なんでおれが、などと悪態と共に注がれると思った酒は、大典太の予想に反して柔い笑みと共に盃を満たした。
夜闇に舞う淡く色づく花弁が一枚、ひらり、と舞い降り杯を彩る。
昼間に粟田口の短刀と脇差たちが兄と共にこの木の下で賑やかに花見をしている姿を、鬼丸が遠くから見守っていたことを大典太は知っている。
あんたも混ざればいいだろうなどと、返される言葉がどういったものか分かりきっていることを言う気はなかった。
その代わりというわけではないが、皆が寝静まってからひっそりと桜を愛でるのもいいだろうと、鬼丸を誘ったのだ。もちろん、審神者に頼まれたこともあったのだが。
「気の利いたつまみが用意出来なかったのが難だが……」
なにぶん急な話であったため買いに行く時間はなく、さてどうしたものかと料理が得意な面々に相談したところ、スモークチーズを作ったらどうかと勧められたのだった。
燻すのに必要な桜チップは確か兄弟が持ってるよ、と脇差が口添えしてくれたおかげで滞りなく準備は進み、どうにかこうにか一品だけ用意することが出来たのだ。
「初めて作ったんでな、酷評は避けてくれるとありがたい」
くい、と一気に酒を喉に流し込み、どこか自嘲気味に大典太が口端を歪に上げれば、鬼丸は今まさに口内に放り込もうとしていたチーズに目を落とす。
「お前がこれを?」
「そうだ」
大典太が頷けば鬼丸は、そうか、と噛み締めるように呟き、ふふ、と小さく笑った。
ふわ、と見慣れたものが低い位置で踊ったかに思った刹那、ごう、と予期せぬ突風が吹き荒れ、大量の花びらが渦を巻くように宙に舞い上がった。
鬼丸から溢れ出たように見えた花弁も一緒に夜闇へと散ってしまい、大典太がいくら目をこらしてもその行方を辿ることは出来なかった。
「……あんた、今……」
どう確かめようかと言葉を探している大典太を知ってか知らずか、鬼丸は澄まし顔で、ぽい、と今度こそチーズを口に放り込んだのだった。
◇ ◇ ◇
そろそろ夕餉の時間であるからか、出陣している者以外が動き出す気配が本丸のそこかしこから感じられ、大典太も手中の本に栞を挟んだ。急いで行くほど空腹というわけではないが、遅らせる理由もない。
腰を上げ襖に手を伸ばしたその時、大典太、と廊下から名を呼ばれた。夕飯の誘いかと深く考えず引き手に指を掛ければ、そこに居た鬼丸は予想に反した厳しい顔で大典太を待っていた。
「……どうした」
「ちょっと付き合え」
内番着ではなく完全武装のその出で立ちに、大典太の眉が隠す事なく寄る。
「……これからか?」
食事に行くつもりであった大典太からすれば至極真っ当な問いだが、鬼丸は微塵も躊躇わず、そうだ、と返してきた。
「腹を空かせるための手合わせだ……などとは言うまいな?」
「手合わせではないが、そうだな……いい運動にはなるかもしれないな」
準備しろ、と目で急かしてくる鬼丸に嘆息で応え、大典太は素早く装具を身につけていく。無理を言った自覚があるからか、はたまたただ待つだけの時間がもったいないのか、鬼丸も手伝い着々と身支度が調っていく。
「理由くらいは教えてくれるんだろう?」
部屋の明かりを落とし、玄関ではなく濡れ縁から隠れるように抜け出した鬼丸の背に大典太が言葉を投げれば、敷地内であるにも関わらず警戒を怠らぬまま、鬼丸は肩越しに一瞬だけ大典太を見た。
「杞憂ならいいんだがな……」
陽がある時間帯も木々が生い茂り、どこか薄暗い場所がある。足を踏み入れるとすれば、自生しているドクダミ等の薬草を採りに来る薬研くらいなものだ。
「昼間に買い出しから戻った誰かにくっついて来たのがいてな」
異質な気配を探って建物内を隈なく練り歩くも異常はなく、潜伏するのならひとけのない此処だろうと当たりを付けてきたと言うのだ。
「御神刀の神気やお前たちの霊力で自然と消えてくれる程度なら問題ない」
ただ、そうでないとしたら……、と言葉を続ける鬼丸に、気がつかなかったな、とどこか居心地悪そうに大典太が漏らせば、柄に掛けた手はそのままに鬼丸が足を止めた。
「此処には様々な者たちが居るからな。それこそお前たち兄弟のような強い刀の霊力が、逆に隠れ蓑になる場合もある」
「今は無害でも邪気や邪念を蓄えられては厄介だと、そういうことか」
「あぁ。おれたちは戦に赴けば少なからず、そういったモノを持ち帰ってしまうからな」
安全であるはずの場所が、気づかぬうちに危険な場所になってはならないと、夢に見た光景を現実にしてはならないと、鬼斬りの刀は唇を引き結ぶ。
「……あんたの言い分はわかった。なら、手早く済ませようか」
そう言うや、すらり、と刀を抜き放ち、大典太は深く息を吸った。
音もなく真横に振り抜かれた剣先は木の葉一枚揺らさぬも、確実に空気を揺らした。
一瞬とはいえ爆発的な霊力の放出に、遠くの厩から馬たちの嘶きが夜の静寂に響き渡った。
止める暇もなかった……、と鬼丸が唖然としている前で、大典太は何事もなかった顔で刀を納め、戻るか、と言い放った。
「……お前なぁ」
額を押さえ、はぁ……、と鬼丸が溜息をつく理由がわからないのか、大典太は怪訝に片眉を上げる。
「なんのためにこっそりやって来たと……」
遠くに、ざわざわ、とどよめく気配を感じ、思いのほか大事になったと察した大典太は、すまなかった、と素直に頭を下げた。
「それなら僕を呼んでくれてもいいと思わないかい?」
審神者から「一晩経っても馬がビビったままで使い物にならないから出陣できないんですけど?」と叱られたふたりが、罰として池の掃除をしている様を眺めながらの髭切の発言に、それは違う意味で大惨事が起こったのでは? とはさすがに言えず、黙りこくった膝丸を知ってか知らずか、髭切は切り分けた羊羹を口に運ぶや、うん、と満足そうに頷いた。
「仲いいよね、あのふたり」
見たままの感想であるのか、はたまた含みがあるのか判断に困り、膝丸はやはり黙ったまま兄同様、羊羹を口に運んだのだった。
◇ ◇ ◇
「これはねー、初めて誉を取った時にあるじさんが記念に撮ってくれた写真」
乱が持ってきたのは可愛く飾り付けがされた写真立てに大事に納められた写真で、写っている乱が元気いっぱいに笑っている横では、審神者がご丁寧にも日付と出陣先入りの紙を胸元に掲げている。
粟田口の短刀たちが、わいわい、とそれぞれ持ち寄った記念の品を見せ合っている場にたまたま居合わせた鬼丸は、何を言うわけでもないが楽しげな様子に若干眦が下がり、普段はきつく引き結ばれている唇も綻んでいる。
乱のように誉記念を持ってきた者が多いが、初めての給金で買った物や初遠征で持ち帰った花を押し花の栞にしている者も居た。
「鬼丸さんはなにかある?」
無邪気に問われ、しばし考えてみるもこれといった物はなく、鬼丸は素直に、ふるり、と首を横に振った。
考えたこともなかった、と小さく漏らせば短刀たちは顔を見合わせた後、口々に「なにか記念日になりそうな事柄は覚えていませんか?」「初めてあれやったとか、これが出来たとか」「初めて人妻とお話ししたとか」「初めて誰かの懐に入ったとか」と捲し立てる。
その勢いに押された鬼丸は僅かに身を引くも、初めてか……、とこの本丸に顕現してからのことを思い返してみたが、腕を斬り飛ばされたり腹に大穴を開けたりと、記念にするにはかなり難のある事柄しか出てこず、さすがにダメだろうとやはり首を横に振りかけるも、先の短刀の言葉を順繰りに思い出し、はた、と動きを止めた。
「……確認してみるか」
なにか心当たりのある様子に短刀たちは興味津々の体だが、期待するようなことじゃないぞ、と言い置いて鬼丸は部屋を後にしたのだった。
「――という話なんだが、お前と初めてした日は記念日扱いした方がいいのか?」
いつも通りに酒を片手に、ふらり、とやって来た鬼丸の話は酒の肴には到底遠く、むしろ酔いを覚ますような内容であった。
不意のことに、ぐほっ、と噎せた背を摩りながら、大丈夫か、と顔を覗き込んでくる鬼丸を大典太は、じとり、と涙目の半眼で見やる。
「……あんたなぁ……まさか言ってないよな」
ふたりの関係は特別隠してはいないが敢えて公言することでもなく、本丸内ではいわば暗黙の了解となっている。とはいえ、夜の事を大っぴらにする趣味は大典太にはない。
「当たり前だ。赤裸々に語る話ではないだろう?」
それくらい弁えている、と涼しい顔で盃を傾ける鬼丸の僅かに上下する喉元を見つめ、大典太は深々とため息をついた。
「そもそも覚えているのか」
「お前は覚えていないのか」
ちろり、と赤い舌が唇をなぞる様を目で追い、次いで柘榴の瞳を見据えれば、それは、にぃ、と意図的に細められる。
「……忘れるわけがないだろう」
その答えがお気に召したか、鬼丸は空になった盃を畳に下ろし、つい、と窓の外に目をやった。
「あの時と同じだな」
「そうだな」
夜空に浮かぶ月の形で答え合わせをし、くつり、と笑った鬼丸の腕を引けば、抗うことなくその身はあの日と寸分違わず大典太の懐に収まった。
◇ ◇ ◇
敵本陣をどうにか落とし、酷使した身体を引きずるように帰路につく。酷い手傷を負った者はいないが疲労具合はみな大差なく、普段ならばなにかしらお喋りをしている乱ですらだんまり状態だ。
ここまで重苦しい空気の帰路は初めてだな、と大典太は肩越しに、ちら、と振り返り嘆息する。
「本丸に無事戻るまでが任務です」と審神者は常日頃から耳にたこができるほど皆に言っており、この場合、一秒でも早く安全な本丸に戻り身体を休めるのが最善なのであろうが、小休止を入れるべきか迷っていた。
「この辺りは天然の温泉が湧いているそうだ」
不意に、最後尾からよく通る低い声が大典太の耳に届いた。当然のことながら間に居た他の男士たちにも聞こえており、一斉に背後を振り返る。
「汚れを落としたい」
いつも通りのぶっきらぼうな口調で鬼丸がそうぼやけば、張り詰めていた空気が、ふわり、と解けていくのがわかった。
「もー鬼丸さんは。本丸まで我慢できないの?」
「無理だな」
乱の軽い問いかけに頬の汚れを、ごし、とこれ見よがしに擦ってから、鬼丸は淡々と答える。
「いいだろう? 隊長殿」
「……わかった、小休止するとしよう」
芝居がかった呼び方に合わせ大典太も大仰に頷いて見せれば、短刀たちが「すぐ見つけてくるからね」と散って行ったのだった。
見張っててやるから入ってこい、と他の者を促し鬼丸が見張りに立った。一番に身綺麗にしたいであろう刀の、気遣いに気づかぬ者はこの本丸には居ない。
顕現時に象られた人の身体に影響され、短刀たちは太刀に比べると、一度の戦闘で消費する体力も気力も激しい。手傷を負わなかったということはそうならぬようにと、戦いに集中し気を張っていた結果であり、温かな湯に浸かりそれらが溶け出すにつれ皆の表情も柔らかくなっていく。
「大典太さん、次は僕たちが見張っていますので、おふたりでゆっくりどうぞ」
鬼丸とは反対の方角を警戒している大典太に前田が声を掛ければ、そうか、と短くはあったが穏やかな声が返された。
「なんだったらボクたち少し離れていようか?」
「………………」
なにか言いかけるも言葉にならなかったか、はくり、と僅かに口を開くもそのまま閉じてしまった大典太の様子に、了解ー、と乱は戯けたように片手を上げた。
ぱしゃり、と手で掬った湯で顔を洗い、鬼丸は小さく息を吐いた。
「……おい」
「……」
「離れろ」
背後に陣取り腹に手を回している大典太に、ちくり、と棘のある声をぶつけるも、背中の気配は微塵も揺るがず、それどころか回された腕に更に力が籠もった。
「折角あいつらが気を遣ってくれたんだ。少しくらいいいだろう」
「よくないな」
後ろに腕を回し手探りで大典太の耳を探し当て、きゅむり、とやや強めに引けば、低い呻きと共に吐息が項をくすぐり、鬼丸の肩が僅かに跳ねる。
「……これ以上はなにもしないからいいだろう?」
「……こんな所でされてたまるか」
珍しくも食い下がってくる大典太に呆れたような声を出すも、鬼丸は耳を掴んだ手で今度は宵闇色の髪を、くしゃくしゃ、と掻き回した。
「感謝してる」
角の根元に鼻先を擦り付けながらの言葉に、くすぐったいとの抗議は喉奥に戻される。
「あのまま戻っていたら本丸の皆に心配をかけていた」
「……おれはただ、温泉に入りたかっただけだ」
あくまでも自分の我が儘だと言い張る鬼丸の頑固さに、そうか、と返し、大典太は仄かに色づいた身体を抱きしめた。
◇ ◇ ◇
「あんたらって嫉妬とは無縁そうだよなぁ」
なんの脈絡もない御手杵の発言に鬼丸はボタンを付けていた手を止め、僅かに首を傾げた。
「Shit?」
「そんなスラングどこで覚えたんだ」
ちげーよ、と御手杵が返せば、今度はアイロンを掛けていた大典太が手を止め、先の鬼丸同様僅かに首を傾げた。
「しっとり?」
「ふたりして真顔でボケ倒すなよ。せめてどっちかはツッコミに回ってくれ。反応に困るだろ」
畳んでいたバスタオルを脇へどけ、御手杵が半眼でふたりを見やる。
「……そう言われてもな」
「そもそも何故おれとこいつで嫉妬がどうのという話になるんだ」
本気で意味がわからない、と言わんばかりにふたり揃って同じ表情をされ、んぇ? と御手杵の目が丸くなった。
「そういう関係じゃねーの?」
「?」
「?」
「いやだから、ふたり揃って『おまえ何言ってんだ?』って顔すんのやめろ」
三日に一回の頻度で互いがどちらかの部屋へと赴き共に飲むだけなら、まだ飲み仲間で括っていいだろう。
だが、他の者と比べて物理的に距離が近いのはどういった理由であるのか。
大典太お前、たまに鬼丸の腰抱いてるぞ?
鬼丸お前もたまに大典太の腰抱いてるぞ?
うわーマジかー無自覚こえー、と内心で漏らし、御手杵は天井を仰いでから、うん、とひとつ頷き「聞かなかった事にしてくれ」と真顔で言い放ったのだった。
◇ ◇ ◇
辺りを、ぐるり、見渡し鬼丸は、くそ、と悪態をついた。
敵の動向を探りつつ共に出陣した者たちと森の中を進んでいたが、見る間に立ちこめた霧に包まれ、先を行く仲間の姿が白く溶けるように消えていき、気づけばひとり孤立していたのだった。
敵が居るとわかっている場所で大声を出すわけにもいかず、出来るだけ木の陰に身を潜め気配を窺いつつ進んでいく。
みなバラバラになっていなければ良いのだが、との懸念を抱いたその時、ガサ、とほど近い場所の茂みが揺れ、鬼丸は瞬時に息を詰めた。
「……鬼丸? そこに居るのか」
聞こえてきた声に僅かではあったが鬼丸の眉が、ぴくり、と上がる。柄に手を掛けたまま木の陰から出て行けば、やや猫背気味な男は明らかに安堵の表情を浮かべて見せた。
「無事だったか」
「あぁ。他の者はどうした?」
辺りを警戒したまま鬼丸は大典太に歩み寄り、皆の安否を問うた。
「全員無事だ」
一瞬の躊躇もなく返されたそれに鬼丸は低く、ほぅ、とだけ答え、睨め付けるように相手を見た。
「それで、お前は何故ここに居る?」
「おかしな事を言う。あんたが心配だったからに決まってるだろう?」
どうしてそのような事を聞いてくるのだと言わんばかりに、大典太は不思議そうに首を傾げている。
「だから、お前ひとりでおれを探しに来た、と……」
「そうだ。早く皆と合流しよう」
ぐい、と掴まれた腕を見下ろし、次いで先を行く背中を見やる。
「……ここに来る途中で敵らしき影を見た」
「そうか」
「あんたが無事で良かった」
ぐいぐい、と引かれるがままに鬼丸は足を前へ前へと運ぶ。
脇目も振らず進み続ける大典太をよそに、鬼丸は通り過ぎていく周りの木や石、地面をつぶさに観察し唇を引き結んだ。
霧は多少晴れたとはいえ、視界が完全に戻ったわけではない。目の前の男は気が急いてるのか、見つかる危険を考慮せずただただ足早に進んでいくだけだ。
ここまで誰かが通った形跡はない。広大な森の中、目印も残されていない。ならば何故この男は仲間の居る方向がわかるのか。
「待て、一旦止まれ」
引かれる腕を逆に引き、鬼丸が足を止めれば大典太は怪訝な顔で振り返るも、なにかに気づいたか、はっ、と顔を巡らせた。
「……見つかったか」
「そのようだ」
共に刀の柄に手を掛け、ゆうるり、と背中合わせになる。霧の中から滲み出るかのように現れた影は四体。大太刀の姿がないのが不幸中の幸いと言えた。
先に地を蹴ったのは果たしてどちらであったのか。
引き絞られた弓から放たれた矢の如く真っ直ぐに駆け、一呼吸の間に首が立て続けに飛んだ。
返す刀でもう一体。
瞬く間に二体を屠った鬼丸が振り返れば、最後の一体を大典太が斬り伏せたところであった。
「……片付いたな。次が来る前に行くぞ」
軽く振った刀を鞘に収め大典太が先を急ごうと促すも、鬼丸は刀を手にしたまま何事かを考えているようで、その足が動く気配はない。
「鬼丸?」
「あぁ、ちょっと待て。やり忘れた事がある」
そう言うが早いか白刃が弧を描いた。
「……おに、まる……?」
信じられないと言わんばかりに目を見開き、大典太は斬られた胸に震える手で触れ、力なく鬼丸の名を呼んだ。
「やめろ。白々しい」
崩れ落ちるように膝を着く男を睥睨し、躊躇なく首を斬り飛ばす。
途端に、ぐずり、と形を保つ事の出来なくなった塊が黒い煤のような物に変じ、見る間に霧散し、跡形もなく消えた。
「……容赦ないな」
「なんだ、見てたのか」
背後から掛けられた声に驚く事なく、鬼丸は涼しい顔で振り返る。
「自分ではないとわかっていても、いい気はしないな」
たった今、鬼丸に斬られた男と同じ顔の刀が、隠す事なく眉を寄せ肩を竦めた。
「随分と思い切りよくやってくれたが、本物だったらどうするつもりだったんだ」
「あれが本物だと? 笑わせる。お前がひとりでおれを探しになど来るものか」
はっ、と鼻で笑う鬼丸に、信用されているのだろうがもう少し言い方があるだろう、と大典太の眉が先とは違う意味で寄せられる。
「それに……お前はおれの手を引いたりはしない」
「当たり前だろう? そんな事をしたら刀が抜けない」
当然と言わんばかりの顔で呆れたように大典太が口にすれば、鬼丸は、それでこそだ、と満足そうに口角を上げた。
◇ ◇ ◇
いくつかの店を回り買い込んだ品を抱え並んで歩いていれば、隣の鬼丸が、つい、と顔を向けてきた。
なにか買い忘れでもあっただろうか、と大典太が窺うように首を僅かに傾げれば、鬼丸は至極真面目な顔で口を開いた。
「お前はいつもそうだな」
身に覚えのない一言に大典太の首が更に傾げられる。
「なんの事だ」
「良くないモノが溜まっていると、頼まれてもいないのに散らしてるだろう」
「……あぁ、それか」
数多の刀剣男士が訪れる人の世と隔絶したこの場所は、邪気や邪念、人ならざるモノも入り込みやすい。
先ほど寄った万屋とその前に寄った和菓子屋での事を思い出し、大典太は大した事じゃないがな、と口端を上げた。
「なにかと世話になっているんだ。それに貸しを作っておけば後々いい事があるかもしれないだろう?」
口では、損得勘定だ、などと嘯いているが、この男がそのような下心で動く事はないと鬼丸はよくわかっている。
「いつもと言えばお前、必ずおれの左側を歩くよな」
モノはついでだと、普段から思っていた事を鬼丸が口にすれば、大典太は、ぱちり、と瞬きをしてから、あんたがそれを言うか、と驚きと呆れがない交ぜになった声を出した。
「俺から言わせれば、あんたが必ず右側に居るんだが」
どちらも相手が一方的に位置決めをしていたと思っていたが、なんのことはない。互いの視野を補う位置に、双方が無意識のうちに陣取っていただけの話であった。
この件をつついても痛み分けにしかならぬと、どちらからともなく目を逸らし、黙々と歩みを進める。
「……あぁ、まだあったな」
ふと、思い出したかのように鬼丸が、ぽつり、と漏らし、僅かに伏せられた目が、ちら、と意味ありげに大典太を見た。
「そういう気分の時はいつも、やたらとおれの角を触る」
くつり、と喉奥で低く笑われ、まさか往来で夜の事を持ち出されるなどとは夢にも思っていなかった大典太は咄嗟に言葉が出ない。
懸命に普段の行動を思い出そうとするも、無意識でやってるのであれば心当たりなどあろうはずもなく。
「……いや、待て、そんな事は……」
焦りか羞恥か、ぐるぐる、と思考が空回りし、大典太の顔がみるみる朱に染まっていく。
不意に、ふは、と小さく鬼丸が吹き出した。
「冗談だ。そんな事はまったくないから安心しろ」
くつくつ、と愉快そうに肩を揺らす鬼丸を、じとり、と恨めしげに見やった大典太は、ぐっ、と何かを飲み込むや、ふふ、とかろうじて聞き取れる程度の笑みを漏らす。
「……わかった、次からはそれを『合図』にしてやる」
昼夜問わず触ってやるから覚悟しておけ、と決して爽やかとは言いがたい笑みを浮かべて宣言する大典太から、揺るぎない意志と本気を感じ取り、調子に乗ったと鬼丸が後悔するも時既に遅しであった。
◇ ◇ ◇
なにが切っ掛けでそうなったのか、がっぷり四つに組み合った大典太と鬼丸を前に、御手杵は、ふわ……、と出かかった欠伸を噛み殺した。
あー団子うめぇ、と縁側に置かれた皿から一串取り上げ、数度咀嚼したのち茶を啜る。皿を間に挟み隣に座る三日月も同様に団子を口に運び、湯飲みを持ち上げた。
「止めなくていいのか? あれ」
一応、天下五剣のお仲間だろ? と聞いてみれば、三日月は湯飲みを膝に下ろしてから、ゆうるり、と眦を下げる。
「よいよい。いちゃいちゃを見せつけられるより、余程愉快ではないか」
どちらが勝つか見ものだな、と呑気にこの状況を楽しんでいる三日月に、御手杵は、うへぇ、と隠すことなく顔を歪めた。
お綺麗な顔をしているがさすが天下五剣のうちの一振り。肝の据わり方が違う。
「そう言うお前は止める気はないのか?」
「あ? なんで俺が? 止める理由ないし」
これが日本号と蜻蛉切であれば、御手杵は同じ三名槍として間に入るのだろう。なるほどそういう行動基準か、と三日月は更に愉快そうに口角を上げ、残った団子を串から引き抜く。
「打撃は鬼丸の方が上だけど、組み合ったら駆け引きの巧い方が強いよなぁ」
右に左に腕や身体を捻りどうにか相手の体勢を崩そうと躍起になっている二振りを眇めた目で見やり、なにも刺さっていない串を行儀悪く咥え、ぷらぷら、と上下に揺らしながら、御手杵は素直な感想を口にする。
「あとは忍耐力だな。粘って粘って勝機を見出すとなると……」
「大典太、かな。すげぇ安定感」
押しが強いのは鬼丸だが、それを先ほどから巧く受け流しているのは大典太だ。だが、鬼丸の体捌きが拙いわけではなく、大典太の対処が的確で次の一手に繋げさせないのだ。
実力の拮抗した相手との決着はなかなかつかず、そろそろ飽きてきたな、と御手杵が再度欠伸を噛み殺したその時、足元の小石でも踏んだか鬼丸の体勢が、がくん、と崩れた。
咄嗟に組み合っていた右手を離し、大典太が鬼丸の腰を支えたことで揃って倒れることはからくも免れるも、繋いだ左手は高々と上げられたままで、背を弓のように綺麗に逸らした鬼丸の今の体勢は競技ダンスの一幕のようだ。
「そこまでにしておけ。怪我をしては元も子もないだろう」
「お前たちの分の団子喰っちまうぞ」
三日月と御手杵に声を掛けられ、思いの外素直にふたりは縁側に腰を下ろした。
「喧嘩、してたわけじゃねぇのか?」
険悪な様子もなく皿を手に取った大典太が一串、鬼丸に手渡すのを眺めながら御手杵が問えば、早速団子を囓り取った鬼丸が、ゆるり、と首を傾げた。
「そんなわけないだろう。喧嘩をする理由がない」
「……あぁ」
同様に団子を口に運んだ大典太が鬼丸に同意すれば、三日月はなにが愉快であるのか、くつくつ、と喉を鳴らす。
「なんだ」
「いやなに、それで『恋人繋ぎ』とやらをした感想はどうだ?」
怪訝な顔で見てくる鬼丸に三日月が問えば、当事者ふたりは微妙な面持ちで互いを見やった。
「乱が言っていたのとは印象が大分違うなと……」
彼に一体どういう説明を受け、どう解釈したのか、聡明なようで居てどこか抜けている太刀ふたりに、御手杵は盛大に茶を噴き出した。
◇ ◇ ◇
いつものように酒を酌み交わし、いつものように頃合いを見て部屋へと戻ると思った鬼丸が、今日に限っては珍しい事に朝までここに居ていいかと切り出してきた時点で、おかしいと気づくべきだったのだ。
ここで夜のお誘いかと茶化せればよかったのだが、鬼丸はどうにも心ここにあらずな様子で、大典太の了承の言葉に生返事を返すや並べて敷いた布団に入り、すぐに寝息を立て始めてしまった。
思った以上に酒の回りが早かったのだろうかと、大典太は心配そうに鬼丸の顔を覗き込むも、顔色は常と変わらず呼吸も安定している。
いつまでも寝顔を眺めていても仕方がないと、酒器類を卓の上にまとめるだけまとめ、大典太も早々に床に着いたのだった。
だが、心地よい微睡みに浸っていた大典太は、三十分もしないうちに勢いよく跳ね起きた鬼丸によってそれは破られる事となる。
「……クソッ!」
絞り出すような悪態に只事ではない気配を感じ、大典太の眠気は一瞬して吹き飛んだ。
「どうした!?」
「しくじった……」
片手で目元を覆っている鬼丸に纏わり付く歪で重苦しいモノに、ぞわり、と大典太の首裏の産毛が逆立つ。
「あんた、それは……」
こくり、と大きく喉を上下させてからおそるおそる問いかければ、鬼丸は大典太を見ようともせず、ふるり、と頭を振った。
「夢を辿って放たれた呪だ。審神者までは届いていないのが不幸中の幸いだな」
「おい、どうした。こっちを見ろ」
嫌な予感に大典太の口調が強くなる。
「無理だ」
「おい」
顔を上げようとしない鬼丸の肩を強引に掴み、ぐい、と身体ごと引き寄せれば、外れた手の下から現れた柘榴の瞳は光を失っていた。
「……呪をおれの『夢の中』に押し留めている」
「あんた……夢の中でそれを『見続けている』のか」
そこに『ある』のだと呪の存在を認識し定義することで、形のない物をその場に縛り付けているというのだ、この男は。
「なんて無茶な事を」
「いざとなったらお前がどうにかしてくれるだろう?」
くつり、と喉奥で低く笑う落ち着き払った様子は普段と寸分も違わぬが、固く握られた拳が小刻みに震えている事に気づかぬ大典太ではない。
そっ、と両の手で拳を包むように握れば、鬼丸の肩が、ぴくり、と跳ねた。
氷のように冷たい手を持ち上げ、唇で触れる。
冷え切った手は緊張と恐怖を大典太に余す事なく伝えてくる。
「……大丈夫だ」
鬼丸に、また自分自身にも言い聞かせるように、大典太は言葉を紡ぐ。
「あんたの強さは俺がよく知っている。あんたの振るう刀の力強さも、その鋭さも、繊細さも、だから……」
優しく引き寄せた頭を胸に抱き、なにも心配するな、と耳元で歌うように囁けば、鬼丸は一瞬、息を飲むも、あとは任せた、と柔く返し、その身を大典太に委ねた。
◇ ◇ ◇
パチリ、と枝の爆ぜる音を聞きながら鬼丸がふと顔を上げれば、隣で同様に炎を見つめていた大典太が、どうした、と低く問うてきた。
「あぁ、いや。今日は星が見えないと思ってな」
迷った時は星を見る。
現在地点や方角を知る為の有効手段が使えない現状を、改めて口にした鬼丸に対して大典太は僅かに眉根を寄せるも、場にそぐわぬ穏やかな眼差しをしている相手に気づき、後ろ向きな発言は喉奥に引っ込めた。
陰気な刀の言わんとする事などお見通しか、鬼丸は目を手元に落とし小枝を、ぽい、と炎の中へ放り込む。
「星を見る理由なんておれもお前も大差ないだろう? だが、それだけというのは浪漫がないと言われた」
誰に、との明言はなかったが、鬼丸に対して気安くそのような事が言える相手など、ましてや星に対して『浪漫』などと夢見がちな事を口にする者は容易に想像が付く。
再び顔を上げた鬼丸は人差し指を立てた手で、つい、と瞬く星のない深い闇色をした空をなぞる。
「星座、というのだろう? 明るく輝く星をこうして繋いで図形を作って……」
おれにはさっぱりわからなかったが、と腕を下ろした鬼丸は、異国の神話も聞かされたがこちらもよくわからなかった、と肩を竦めた。
それでもキラキラとした瞳で月の女神や美の女神の話を語る短刀が、楽しげであった事だけはわかった。自分が好きな物、知っていることを惜しみなく伝えてくるその真っ直ぐな気質は、決して不快ではなくむしろ好ましいと思っている。
ただし、それを態度で示す事はないため、おそらく相手には伝わっていないだろう事も、鬼丸は理解している。
だが、それを憂いている訳ではない。伝わらずとも構わないのだ。
無意識にか薄く開いた唇から漏れ出た微かな息に、大典太の片眉が、ぴくり、と上がった。
「……なんだ」
ここまで一言も発せず、じぃ、と見つめてくるだけの相手に短く問えば、いや……、と口ごもった後に大典太は、ゆうるり、と口を開いた。
「自分で思っている以上に、あんたはわかりやすい部類だぞ」
心を読んだかのような発言に鬼丸が、は? と若干低い声を漏らせば、大典太は、そう凄むな、と軽く窘めてから空を見上げる。
「今は見えないが、そこに星があることを皆知っている」
大典太の持って回った言い様に鬼丸の唇が見る見るへの字を描いていく。一晩ここで共に過ごすことを余儀なくされている相手の機嫌を損ねるのは得策ではないと、大典太は困ったように小さく笑んだ。
「わかりやすい行動を取らずとも、見える者には見えるという事だ」
俺もそのうちのひとりだぞ、と大典太が臆面も無く口にすれば、鬼丸は唇を引き結んだまま顔を逸らし、集めてきた中でもとびきり太い枝を、ぼきり、と折った。
◇ ◇ ◇
ポツポツ、と軒先から滴り落ちる雫と、煙る道向こうを見るとはなしに眺めていた鬼丸の目の前に、赤い番傘がひとつ止まった。
「お困りのようどすなぁ」
「そんな事はない」
赤い紅を引いた形の良い唇が薄く開き、耳奥に粘り着くような声を発するも、鬼丸はにべもなく斬り捨てる。
艶やかな容姿に目もくれぬ男に憤慨する様子もなく、女はそのまま通り過ぎて行った。
暫くして今度は黒い蝙蝠傘が立ち止まった。
「お困りですかな?」
「そんな事はない」
黒い背広を着た老紳士の低く落ち着いた声にも、鬼丸は素っ気なく返す。
特に何を言うでもなく、紳士は山高帽を軽く傾け去って行く。
次に目の前で止まったのは、黄色い雨合羽を着た子供だ。
「傘あるよ」
そう言って差し出されたのは花柄の華奢な傘であった。
「それを使うのはおれじゃない」
正面を見据えたまま微動だにせず、ぴしゃり、と撥ね除ければ、黄色い頭は土砂降りの中消えて行く。
「……待たせたな」
「遅いぞ」
すぐ背後の万屋から出てきた大典太が声を掛ければ、鬼丸は、ゆうるり、と頭を巡らせる。相手の手に握られている物を目に留め、僅かに片眉が上がった。
「一本だけか?」
「生憎とこれで最後だそうだ」
買い出しの荷物とは別に買い求めた傘を軽く掲げ、どうしようもない、と大典太は肩を竦める。
「そうか。ならさっきの傘を借りておけば良かったか」
「……冗談でもそういうことを言うのはやめろ」
「ん? それのなにがダメなの?」
買い出しに行ったふたりの話を聞いていた審神者が、カニパンをちぎる手を止め首を傾げた。
「というか、鬼丸むちゃくちゃ声掛けられてるし。なんなの? モテモテか!」
非モテに対する当てつけか! とよくわからない憤り方をしている審神者をふたりは呆れよりも哀れみの籠もった目で見やり、まぁ落ち着け、とストローのついた牛乳パックを差し出す。
「そもアレらは人じゃない」
「……かつては人であったかも知れんがな」
「えっやだなにそれこわい」
ぷすり、とストローを差しながら審神者がぶるった声を上げれば、人外に囲まれて人外相手に戦ってる者の言う事か、とふたりは喉元まで出かかったが、どうにか飲み下した。
「じゃあ、仮に傘借りたり、相合い傘しちゃったら、どうなってたわけ?」
「ここには居ないだろうな」
あっさりと返された言葉に、ぶえぇぇぇー、と審神者が汚い鳴き声を上げる。
「いやですぅー困りますー! 鬼丸いなくなったら嫌ですぅぅぅー!!」
「仮に引っかかりそうになっても、俺がいる時は絶対大丈夫だ」
「それにこいつ以外と一緒の傘に入る気はないからな」
審神者の嘆きに呆れと哀れみの籠もった眼差しを向け、大典太と鬼丸はその可能性をばっさりと斬り捨てたが、言われた内容に「あれ? もしかしてさりげなく惚気られた?」と気づいてしまった審神者は瞬時に真顔になったのだった。
◇ ◇ ◇
繋がった腕を、ゆるり、と回し、次いで二度三度と拳を閉じたり開いたりする鬼丸を前に、大典太は半眼で溜息をついた。
「まさかお前を担いで戻ってくる事になるとは夢にも思わなかった」
初めて同じ隊に編成され、当然、鬼丸の戦い方を間近で見るのも初めてだった。短刀達のように小回りが利くわけではないが、機動に物を言わせた瞬発力と太刀の中でも高い打撃で着実に敵を屠る様は、なるほど御手杵が「アイツと組むとやりやすい」と言っていたのも納得であった。
だが、機動が高いが故にできることが増えるのは利点ばかりではないと、今回の出陣で大典太は痛感した。戦果だけを見ればなにも問題はないが、なにを犠牲にしての戦果であるかが問題なのだ。
結果から言えば、鬼丸の左腕が斬り飛ばされた。
戦っている以上、少なからず損傷を受けるのは想定内だが、今回は切り結んでの怪我ではなく他者を庇っての結果だ。
ここの審神者は二人一組、三人一組での戦術を取ることが多い。当然、状況に応じて変わることはあるが、短刀が牽制をし打刀もしくは太刀が追撃するなど基本形は決まっている。その中でも良く組んでいるのが御手杵と鬼丸だ。戦事に関しては思考が似ているのか、示し合わせずとも巧く噛み合っているらしい。
だが、基本形はあくまで基本形でしかない。戦況が動けば混戦状態になる事は珍しい事ではない。
短刀の頭越しに槍を突き出した御手杵の横手から、新たな敵が斬りかかってきたところに鬼丸が割って入り、大典太が仕留めた。鬼丸の一手がなければ大典太は間に合わず、懐に入られると打つ手のない槍は手酷い傷を負っただろう。
そう、鬼丸はただ『割って入っただけ』なのだ。正直、あの場で大典太は自分の足では間に合わないと思ったのだ。自分とそう変わらぬ距離に居た鬼丸が、躊躇なく地を蹴ったのにつられて走り出したと言っても過言ではない。
そして、その一瞬の足止めが明暗を分けたのだった。
「……せめて刀を構えろ」
「それじゃ間に合わなかった」
全く悪びれた様子のない相手を大典太が、じとり、と睨め付ければ、さすがにまずいと思ったか、鬼丸は左腕をさすりながら、ふい、と目を逸らし、もご、と不明瞭な言葉を吐いた。
「なんだ?」
「……お前がいたから、大丈夫だと思った」
大典太自身は鬼丸につられたと思っているが、最初の一歩を踏み出したのは実のところ大典太のほうが先であった。それが視界の端に引っ掛かったからこそ、鬼丸はただ駆け付けることに専念し、大典太に全てを任せたのだ。
「信頼してくれるのは嬉しいが、やり方が良くない……もうやるなよ」
心配して俺の方が折れそうだった、と言い置いて大典太は手入れ部屋を後にする。暫し廊下を進んだところで待っていた長谷部に「一応、釘は刺しておいた」と告げれば、部隊長であった彼は深々と溜息を漏らしてから、すまなかったな、と大典太を労った。
「三日月が言っても数珠丸が言っても聞く耳もたなかったからな。これで少しは心に留めてくれるといいんだが……」
「……どうだろうな」
扉を閉める際、ちら、と盗み見た鬼丸の様子を思い返し、大典太の口端が、ゆうるり、と上がる。
あの顔を見られるのは俺だけだろう、と。
◇ ◇ ◇
演練に参加する男士達が待機している部屋は特に区切りも無く、万屋を初めとする商店街に並んで本丸の垣根を越えて交流する場でもある。
「こんにちは」
ひょこり、と目の前に現れた乱藤四郎を見下ろし、大典太と鬼丸は、あぁ、と曖昧な返事を口にしながら僅かに会釈らしき物をした。
壁際にひっそりと佇んでいた二振りにわざわざ声を掛けてきた乱は、大きな目をきらきらと輝かせながら伸び上がるように見上げてくる。
「……なんだ」
すっ、と膝をつき短刀の目線に合わせる鬼丸に続いて、大典太も同じ姿勢を取った。
「えっとね、ボクの本丸には鬼丸さんも大典太さんもいないから、お話ししてみたいなぁって」
聞けばこの乱の本丸は審神者にとことん鍛刀運がなく、所謂レア太刀と呼ばれる者達がいないのだという。
「ふたりはすごく仲が良さそうだけど、なにか切っ掛けがあったりしたの?」
これまでも演練であった者達に積極的に声を掛けてきた乱の目から見ても、この二振りの空気感は特別に感じたのだ。
「切っ掛けか……」
ちら、とお互いに顔を見やり、大典太がなにかを確認するかのように僅かに首を傾げれば、鬼丸は無言で首を縦に振る。それを受けて大典太が口を開いた。
「……交換日記、だな」
この二振りが口下手な部類であるというのは、乱も小耳に挟んでいる。共に酒は飲むが会話が弾んでいるわけでもないとも聞き及んでいた。
「わぁ~、そうなんだ。それはすっごく素敵だね」
互いを知ろうと歩み寄るその姿勢は見習うべきだと、乱が素直に感嘆の声を上げれば、当人達はどこか困ったように眉尻を下げる。二振りの様子からなにかおかしな事をいっただろうかと首を傾げる乱の頭に、ぽん、と鬼丸の手が載せられた。
「一期一振が呼んでるぞ」
もう行け、と促され乱は後ろ髪を引かれながらも二振りに、どうもありがとう、と礼と共に頭を下げ、手招く兄に答えて駆けていった。
「ウチのがすまないな」
見計らったかのように側に寄ってきた薬研の言葉から察するに、この短刀は先の乱と同じ本丸に属しているようだ。
「いや、どこのあいつも変わらないな」
いい意味で遠慮が無い、と薄く笑む鬼丸を無言で見つめていた薬研だが、真面目な顔で頭を下げてきた。
「悪気はなかったにせよ、触れられたくない事だっただろう? 申し訳なかった」
「そうか、お前は事情を知っているんだな。いい、気にするな」
鬼丸が軽く薬研の腕を叩けば、それに促されるように小さな頭が上がる。
「日記に縦読み仕込んで助けを求めてきた刀の話は、一部で有名だからな」
実はウチにも救援要請が来た、と極秘任務をあっさりとバラしてきた短刀に、太刀二振りは、そうか、と答えただけであった。
程度の差こそあれ男士を不当に扱う、所謂ブラック本丸という物はいくつも存在する。
顕現から日が浅かったこの鬼丸には、抗う気力があったという話だ。
◇ ◇ ◇
チリチリ、と表皮を焼くかのような戦場の空気にあてられたか、隻眼の奥に、ギラギラ、とした獰猛さを押し込めている鬼丸に気づいた瞬間、大典太は言いようのない高揚感を覚えた。
身の裡から湧き上がる衝動そのままに声を上げ、刃を振るう男士とは対照的に、鬼丸は淡々と、だが確実に的確に敵を屠っていく。それがさも当然であると言わんばかりの涼しい顔をしていると、そう思い込んでいたのだ大典太は。
勝手な思い込みが覆され、ふは、と知らず笑いが転がり出た。側に居た短刀が一瞬、身を固くしたがそれを気に掛ける間もなく、大典太は手中の刀を握り直すや混戦の最中へと飛び込んでいく。
戦いが好きなわけではない。
だが、普段は温度を感じさせぬ言動の太刀が、静かに昂ぶり刃を閃かせ舞う姿は心が躍る。これが見られるのならば、望まぬ出陣も多少は許容出来るというものだ。
知らず上がった口角のまま大典太は刀を振り下ろした。
袈裟懸けにされ塵と化した遡行軍の向こうで、鬼丸の目が驚愕からか一瞬見開かれる。
敵の直中に飛び込み攪乱するのは鬼丸の役目で、浮き足だった相手を大典太が外から悠然と仕留めるのがこれまでの定石であったからだ。
その大典太が颯爽と切り込み、猛々しく豪腕を振るっている。
彼を駆り立てているのは一体何であるのか。
普段は伏し目がちなその目が真っ直ぐに敵を捉え、ぎらり、と獰猛に光る。
ぞくり、と背筋に走った感覚に鬼丸の口角が吊り上がる。
ここは連携を取るために近くへ寄るべきなのだろう。
だが、互いにそれを理解しているにも関わらず、足は相手に向かう事無く白刃は軌跡を描き続けた。
最後の一体に突き立てた穂先を抜き、御手杵は、ゆうるり、と顔を上げた。
味方の被害は……、と戦場を、ぐるり、見渡し、途端に眉をひそめる。
「アンタらなぁ……」
目の前に立ったふたりに、はぁー、と溜息をついて見せる御手杵に、当の本人達は表情ひとつ変えない。
「戦闘中の物騒なツラもそうだが、そんなところまでお揃いにするんじゃねーよ」
ふたりの足りない部位に目をやり、再度、はぁー、と深い息を吐く御手杵に対し、お前には言われたくないな、と鬼丸が口にしたのと、遠くから、見つけたぞー、との声が上がったのは同時であった。
「ほら、これだろー? 鬼丸の腕」
「お、大典太さんの腕は、こっち……です」
ぶんぶん、と手にしたものを勢いよく頭上で振って見せる愛染と、捧げ持つように両手で支える五虎退に、おーありがとなー、と御手杵が返す。
「……よくもまぁ無事だったな」
「いや、ある意味無事じゃねーからな?」
大典太のつぶやきに律儀に突っ込んでから御手杵は、短刀ふたりが回収した太刀の腕を両手にひとつずつ掴んだ歌仙の姿に、なんか食材持ってるように見えてきた、と遠い目をしたのだった。
◇ ◇ ◇
天気は良いとは言え未だ吹く風は冷たい。それにも関わらず庭に面した濡れ縁側の障子を開け放ち、せっせと何事かに打ち込んでいる鬼丸の背を、大典太は火鉢にあたりながら眺めている。
少し前に粟田口の短刀たちの間で絵を描く事が流行り、内番や出陣予定のない者は各々好きな場所で好きな物を描き、出来上がったそれを嬉々として他の者達に見せていた。
彼らの兄は息をするように良いところを褒め、無口な打刀もこの時ばかりは言葉は少なくともきちんと感想を述べ、お供の狐がここぞとばかりに事細かに補足していくという光景が見られた。
その流れで当然、鬼丸の元へもやって来るわけだが、意外な事に鬼丸は絵を描くという行為自体に興味を引かれたようで、後日、短刀たちに混じって庭に居る姿が目撃されたのだった。
一時期の熱狂は薄れたとはいえ、今でも思い出したように画板を抱えた短刀の姿を見かけることがある。
鉛筆でスケッチをした後、色をつける者も居ればそのままの者も居る。
一度、鬼丸が色を塗っているところを見かけた事があるが、かなり苦戦していたように見受けられた。
彼曰く「穂先がぐにゃぐにゃで塗りにくい」との事であった。
乱の小さな手が鬼丸の手を握り、こうやってそっと紙に筆の先をのせるように、と手ほどきを受けていたが、相も変わらず力加減に関しては要努力と言ったところか。
思い通りにならぬからと癇癪を起こすような男ではないが、飽きもせずよくもまぁ、と前に屈み込んで丸くなっている背に、大典太は感心の眼差しを向ける。
結局、鬼丸は筆を使う事を諦め、別の方法で絵を描いている。
傍らの梅皿に指をつけ、紙の上を滑らせる。
大典太の位置からでは鬼丸の手元は見えないが、彼が描いている物はわかる。
見事に咲いた紅梅だ。
のそり、と立ち上がり邪魔をせぬよう、そっ、と上から覗き込めば、小指が器用に細い枝を描いたところであった。
これが出来てなぜ筆が使えないのか理解に苦しむところだが、人には得手不得手があるのだと、人の身を得て実感する事は多々ある。鬼丸はそれが極端なだけなのだと自分を納得させ、大典太は彼の隣に腰を下ろした。
「……紅梅か」
庭の赤と鬼丸の横顔を交互に見やり、大典太が、ぽつり、漏らせば、鬼丸は滑らせていた指を止め、怪訝に隣の男を見た。
梅皿を、じぃ、と見ていたかと思えば大典太は顔を上げ、ぬぅ、と不意に鬼丸の顔に手を伸ばしてきた。
反射的に閉じられた瞼の上を親指の腹で触れ、すい、とそのまま眦まで動かす。
「なん、だ、いきなり……?」
指が離れると同時に目を開け鬼丸が大典太に問うも、相手は鬼丸を見てはおらず身を屈めると、今度は畳の上にある紙に手を伸ばした。
鬼丸の眦を拭った指が、ぐい、と一点に押しつけられ、ゆっくりと離れていく。
「……こっちの色の方がらしいだろ」
細い枝にひとつ咲いた紅梅に、大典太は、くつり、と喉を鳴らした。
◇ ◇ ◇
シトシト、と降り頻る雨が草木を濡らす様を、薄暗い蔵の中からうっそりと見やる。
大典太が蔵に籠もるのはなんら珍しいことではなく、行き会った者にどこへ行くのかと尋ねられても、蔵だと答えれば大半は納得顔ですれ違って行くのだ。
中には難しい顔をする者、なにか言いたげな者、先とは違う意味で納得したかのように軽く頷いて去って行く者なども居るが、止めてくる者はいない。
蔵は埃っぽくじめじめとした、決して居心地の良い場所ではない。そもそも物品をしまい保管する事を目的とした場所に快適さを求める事自体がおかしいのだが、最近の大典太は真剣に環境改善を考え始めている。
その理由は現在出陣中の鬼丸だ。
いつの頃からか彼は出陣後に、ふらり、と蔵に入り込むようになった。毎回ではないため気づいている者は極少数であるが、大典太は何度か蔵の中で鉢合わせている。
目を閉じ壁にもたれたその顔には疲労が色濃く滲み、彼を慕う短刀が見れば間違いなく心配するだろう事は想像に易かった。
戦場に出れば他の連中を守ってる余裕はないと言っているが、味方の状況を把握し、戦況の変化を見逃さず、引き際を見誤らないよう常に目を光らせている。
敵と斬り結べば知らず知らずのうちに気持ちが昂ぶり、冷静な判断が出来なくなることは多々あるものだ。部隊長としての責務を全うするには、並々ならぬ集中力と胆力、そして常に客観視できる冷静さが要求される。
突き放すような物言いでありながらも根が真面目なこの刀は、決して仲間をないがしろにはしないのだ。
それ故、力の抜きどころをわかっていないのか、疲れた姿を誰にも見せないようひっそりと姿を消す様は、野生の獣を彷彿とさせる。
だが、弱みを見せたくないという訳ではないようで、現に大典太の前では隠す素振りもない。大方、他者の手を煩わせる、ないしは気を遣われるのが性に合わないのだろう。
大典太がこれまでの事を思い返しているうちに、ギッギッ、と重く軋む音が上ってくる。殊更ゆっくりと響くそれに合わせて大典太が顔を巡らせれば、ぬぅ、と姿を現した鬼丸と目が合った。
唇を引き結んだ険しい顔にはやはり疲労が色濃く浮かんでおり、目が合ったにも関わらず表情ひとつ変えず壁に向かって真っ直ぐ進もうとする。
「……まぁ待て」
傍らのタオルを手に、のそり、と立ち上がった大典太を胡乱に見やるも、鬼丸は素直に足を止めた。ぽたぽた、と滴るしずくが鬼丸の足下に水溜まりを作っていく。
「……なんだ。今日は放っておいてくれないのか」
「さすがにそのままというのはな……」
鬼丸の頭にタオルを被せ、がしがし、と手荒く掻き回すも悪態のひとつも返ってこず、されるがままの相手に大典太は内心で、今日は相当難儀したようだ、と漏らす。
棒立ちの鬼丸にタオルを被せたまま大典太は、だらり、と垂れ下がった相手の腕を取り、断りを入れることなく着々と装具を外していく。正面に立ったまま抱きしめるように背面に腕を回し、手探りで留め具を外す間も鬼丸は微動だにしなかった。
疲労に加えて雨に打たれた事により更に体力が削られたか、覗き込んだ顔は半分以上瞼が下がっており、今にも首が、カクン、と落ちそうだ。
「まだ寝るな」
「……寝ていない」
「寝るなら全部脱いでからにしろ」
緩慢に外した本体すら頓着せず投げ捨てそうな様子の鬼丸の手から慌てて刀を奪い取り、濡れた音を立てて次々と床へと落とされる上着やインナーを籠へ集めていく。
言われるまでもなく下着すら脱ぎ捨てた鬼丸に毛布を押しつければ、決して早くはない動きで包まると、のそのそ、と壁に向かって歩いて行った。
壁に背を預け足を投げ出している鬼丸の隣に大典太が腰を下ろすも、相手は身動ぎひとつしない。大半が露出している白い足を見ながら、なぁ、と大典太が声を掛ければ、一拍の間を置いて、なんだ、と応えがあった。
「……ここの固い床じゃ、疲れも取れないだろう?」
返事があるかと待ってみるも、鬼丸の唇は引き結ばれたまま開く気配はない。仕方なしに大典太は相手が聞いている前提で話を進める。
「ソファベッドを置こうかと思うんだが……どうだ?」
次の非番の時に万屋に行って、と言葉を続ける大典太の隣で、のそり、と白い頭が動いたと思った刹那、大典太の視界が、ぐるり、と回った。
「……は?」
何が巻き起こったのかと大典太が目を白黒させていれば、床に転がった身体に、もぞもぞ、と乗り上げてきたのは鬼丸だ。
「……いらん」
収まりの良い場所が決まったか、大典太の胸に頬を、ぺたり、とつけ、鬼丸はもう一度、いらん、と口にする。
「布団ならお前がいるからいらん……」
そう言い切るや、スゥ……、と静かな寝息を吐くだけとなり、否応なしに敷き布団となった大典太は絡められた足を解く事も出来ず、鬼丸の肩からずり落ちかけた毛布を引き上げてやるしかなかった。
眠気に負けた鬼丸が目を覚ました時に今の発言を覚えているかはさておき、大典太は自分のためにソファベッドは導入しようと心に決める。
いつまでも敷き布団で居られる自信もないしな、と自虐的に笑んでから、さすがにこの発想は下世話であった、と内省し、大典太は詫びるように鬼丸の頭を、やわり、と撫でた。
◇ ◇ ◇
カナカナカナ……、と遠くから聞こえるひぐらしの声に誘われるかのように、鬼丸はゆっくりと瞼を持ち上げた。
天に向かってひしめく大輪の花々のその向こうは、紅と紫紺が混じり合った夕暮れの空で、一体いつからこうしていたのだったか、と頭を振りながら身を起こす。
幸いな事に等間隔にそそり立っている茎をへし折ってはおらず、ほっ、と安堵の息が薄く開かれた唇から漏れた。
短刀たちは今年も種の収穫を楽しみにしており、数本とはいえダメにしてしまっては合わせる顔がなかったからだ。鬼丸自身も秋の夜長に炒ったひまわりの種をつまみながら、酒を飲む事を楽しみにしているのもある。
去年と言えば、と鬼丸が無意識にか指先で唇に触れたその時、やや離れた場所から「鬼丸」と低く名を呼ばれた。そちらに顔を向ければ上背のある太刀が茎を折らぬよう、できるだけ身体を反らしながら隙間を縫うように進んでくる。
「こんな所に居たのか」
探したぞ、とすぐ側まで寄った大典太は鬼丸に向かって手を差し伸べた。地に尻を着いたままであった鬼丸が素直にその手を取ったと同時に、ぐっ、と引き上げられる。
掴まれた手を離す事無く立ち上がった勢いのまま、鬼丸は大典太の唇に己のそれを軽く押し当てた。
去年の夕暮れ、ふたりの背よりも高くなったひまわりに隠れて、大典太の方からこうしてきたのだ。
今年は先手を打ったと目を細めた鬼丸だが、相手の様子がおかしい事に気づき僅かに首を傾げる。
不意を突かれて驚いている事に間違いはないが、その反応はまるで――
その時点で鬼丸は過ちを犯したと悟った。
――この世界線の大典太と自分は、そのような関係にはなっていないのだと。
あぁしまった、と顔には出さぬが内心でごちる。
蓮の中に見た光景は記録のひとつであり、自身の記憶ではないのだと。
あくまで可能性のひとつに過ぎぬのだと。
わかっていた、理解していたはずだったのだ。
それでも日が落ちる一瞬の輝きに照らされたあの光景が、鮮烈に脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。
この本丸で初めて花開いたひまわりに囲まれ、鬼丸は口端をつり上げた。
「ほんの戯れだ。すまなかったな」
そう言って掴んだままの手を解放しようと力を抜くも、逆に、ぎゅう、と力が込められた。驚きに息を飲めば思いのほか真面目な顔で大典太は鬼丸を見つめている。
「気に障ったのなら謝る」
「……そうじゃない」
捕らえている手はそのままに、大典太のもう一方の手が鬼丸の頤に触れる。
「戯れで済ませたくない、と言ったら……?」
太陽が一日の最後に放つ眩い光の中、秀麗な顔が寄せられてくる二度目の光景に鬼丸ははんなりと笑んだ。
――鬼丸国綱顕現から一ヶ月後の出来事であった。
2021.10.25 加筆及び再構成