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    【刀剣】古城の怪物と迷い人【典鬼】 がさ、と膝下を覆う下草を掻き分け踏み出した靴底が捉えたのは、これまでの地面とは異なった感触であった。
     所々顔を覗かせる敷き詰められたレンガの隙間からは草が伸び、ほとんどが土に埋もれてはいるが緩いカーブを描いた道は木々の向こうへと続いている。
     知らぬ地を当てもなく進むよりはマシであろうと、青年は日が落ち始めた空を一旦仰ぎ、足早に進んだ先にあったのは蔦に覆われた城壁であった。
     城壁を囲む堀は干上がっており、堆積した落ち葉や土砂の様子からして長い事放置されていると知れた。
     堀に掛かった石造りの橋の先にある城門は朽ちており、その役目を終えている。
     誰に止められる事なく歩みを進め、庭園であったであろう場所を横目に進む。
     かつては大勢の者が居たであろう城は今は静寂に包まれ、黒い影を落としている。
     屋根があるだけ野宿よりはマシであろう、との思いでここまでやってきたが、意外な事に扉の前には枯れ葉もなく、土や砂も溜まっていない。
     荒れた印象は一切無く、これが意味する所は『人の手が入っている』と言う事だ。
     怪訝に思うも扉を押し開け一歩踏み入れば、違和感は更に増した。
     ホール正面には大階段があり、その左右には蝋燭が立てられた燭台が一本ずつ置かれている。
     左右を見渡し天井を仰ぐも、蜘蛛の巣ひとつ見当たらないのだ。
     廃城ではないと、ここには明らかに誰かが居るのだと、青年の顔が緊張からか僅かに強張ると同時に、コツ、と靴音が響いた。
     はっ、と反射的にそちらへ目を向ければ、大階段奥の通路から現れたのはひとりの男であった。
     白銀の髪に石榴の瞳。
     そして人にはあるはずのない角が一本、左側頭部から天に向かって伸びている。
     白地に黒の刺繍の施された豪奢な上着を纏った男は左目に黒の眼帯を着けており、服装とのアンバランスさに瞠目するも、それ以上に青年の目が釘付けになったのは白磁のかんばせにであった。
    「……誰だ」
     厳かに響いた声に青年は目の前の男を不躾に見つめていたのだと気づき、慌てて頭を下げる。
    「勝手に入ってすまない」
     人ではない者を目の当たりにするも不思議と恐ろしいとは思わず、詫びの言葉も自然と滑り出た。
    「道に迷ってしまってな、屋根のある場所で一夜を過ごせると思って来たんだが……」
    「そうか。勝手にしろ」
     最後まで話を聞く事なく、くるり、と背を向けた男に青年は困惑混じりに問いかける。
    「いいのか?」
    「今晩だけだ。明日には出て行け」
     淡々と返しながら通路向こうへと消えていく背中を、青年は黙って見つめるしかなかった。


     一夜明け、ホールの隅で丸くなっていた青年は背中に受けた衝撃に、さほど強い物ではなかったが不意を突かれ、うっ、と低く呻いた。
    「起きろ」
     頭上から降ってきた声に、のそり、と身を起こせば、ここの主が仁王立ちで見下ろしており、寝起きも相まって青年は、じとり、と上目遣いで相手を見る。
    「いつまで寝ている気だ。さっさと出て行け」
     窓から差し込む光は朝日である事に間違いはないが、強さや色合いからして昇ったばかりであろう。
     文句を言える立場ではないため青年は欠伸を噛み殺しながら、不平不満を喉奥へと押し戻し、のろのろ、と立ち上がった。
    「これをくれてやる。二度と来るな」
     そう言って男が青年の手に押しつけてきたのは、小さな風見鶏であった。
     なんでこんな物を、と視線だけで問いかけてくる青年に答えることなく、男は無情にも青年を外に追いやったのだった。
     固く閉ざされた扉を暫し呆然と見つめていた青年は、若干肩を落としたまま、とぼとぼ、と城を後にする。
     寝ている所を蹴られるわ、訳のわからないガラクタを押しつけられるわ、散々だった……、と手中の風見鶏に目を落とし、はー……、と深い息を吐いたその時、くるり、と鶏の頭が向きを変えた。
     風が吹いた訳ではない。
     勝手に向きが変わったのだ。
     いやまさか、と目の前で起こった事が俄には信じられず、青年は鶏を無視してそのまままっすぐ進み続ける。
     だが、どれだけ移動しようとも風見鶏は示す方向を変えようとはしなかった。
     レンガの敷かれた道も気づけばただの草むらになっている。
     このまま当てもなく進んでは昨日の二の舞であると、青年は半信半疑ではあるが風見鶏の向いた方へと足を向けたのだった。


    「……二度と来るなと言ったはずだが」
     あれから三日後、青年の姿は再び城にあった。
     風見鶏に導かれるまま歩みを進め、青年は無事に町へと辿り着いたのだ。
     森を抜けてきた青年にその町の住人は驚き、口々に「大丈夫だったか」「なにもなかったか」と心配の声を上げた。
     困惑する青年に彼らは森にある古城について色々と教えてくれたのだった。
     ――あの城の周辺一帯には魔物が出るのだと。
     ――そしてあの城には『呪われた王子』が住んでいるのだと。
     ――かつては人であったが呪いにより醜い怪物に変えられたのだと。
     真偽の程は定かでは無いが、わざわざ確かめに行く者はおらず、町の者はそれを信じ怖れている。
    「礼をしに来た」
     寄越される冷徹な眼差しなど意に介さず、青年は手にした包みを、ぎゅむり、と相手に押しつけた。
    「あんたのおかげで無事に町へと戻れた」
     あの風見鶏は魔法道具であったのだ。それも単純なようでいて実は複雑な術式が施されているという、大変貴重な物であった。
     どこで手に入れたのかと追及されたが、青年はそれを、のらりくらり、と躱し、決して城の事は口にしなかった。
    「……なら、おれの事も聞いただろう?」
     表情は変わらぬも心なしか硬さの増した男の声音に、青年は僅かに片眉を上げる。
    「それがどうした。あんたが俺を助けてくれた事に変わりはないだろう」
     事もなげに言い切った青年を驚愕の眼差しで見ていた男は、ややあって、ふは、と笑み混じりの息を吐いた。
    「おかしな奴だ」
    「俺が知っているのは目の前のあんただけだからな」
     他人から聞いた話などどうでもいいと、自分で見た物しか信じないと薄く笑う青年に、男は再度「おかしな奴だ」と眦を下げた。
     軋みひとつ上げぬ扉を押し開けた刹那、ひゅおん、と勢いよくなにかが鼻先を掠めた。
     咄嗟に首を引っ込めた青年に対し、モップを構えた少女は警戒の眼差しを向けてくる。
    「ここになんの用?」
     常であれば鈴を転がしたような可愛らしいものであろうその声は、今は低く棘を含んでいる。
    「いや、俺はここの主に……」
     一歩も足を踏み入れる事が出来ず、へどもど、と答える青年を、きっ、と睨み据え、少女が口を開き掛けたその時、こつ、と靴底が床を鳴らす音がホールに響いた。
    「また来たのか」
     淡々と、だがどこか呆れを含んだ声音に少女は振り返る事なく「鬼丸さんは下がってて!」と声を張った。
    「またって事は、鬼丸さんを狙ってるって事だよね」
    「いや、だから、俺は……」
     明らかな敵意を向けられ、青年は助けを求めるように城の主へと目をやる。
    「下がれ乱」
     通り過ぎ様に、ぽん、と軽く乱の肩を叩き、鬼丸は青年の正面に立った。
    「鬼丸さん! 危ないよ!? 離れて!!」
    「大丈夫だ。こいつに害意はない」
     悲鳴のような叫びを背に受けるも鬼丸は首を横に振り、半ば扉に隠れるように立ち尽くしている青年を、じぃ、と見据える。
    「なんの用だ大典太」
     名を呼んだということはふたりは知り合いであり、納得は行かぬまでも乱はようやっとモップを下ろした。
    「あんたに会いに来たんだ」
    「毎度毎度それか……」
     はー、と深々と溜息をつき、鬼丸は額を押さえる。
     ほんの一欠片とは言え受け入れてしまったのは失敗だった、と過去の自分を内心で罵るも時既に遅し。
     まさかこうも頻繁に訪れるようになるとは思いもしなかったのだ。
     臆面も無く「一目惚れだった」などとのたまう男に「戯れ言を」と素っ気なく返し続けて今に至る。
    「それで、このお嬢さんは……」
     鬼丸の背後で大典太を睨んでいる乱を、ちら、と見ながら問えば、即座に本人が「ボク女の子じゃないよ」と否定した。
    「……遠い血縁だ」
     乱の発言に目を丸くしている大典太を気にした様子も無く、鬼丸は短く一言で説明を終える。
    「ボクたち交代で鬼丸さんのお世話をしに来てるんだよ」
     知り合いだとわかった今も警戒心はそう易々と解けないのか、乱の口調は固い。
    「……危ないから来るなと言っているんだがな」
    「ひとりで魔物を狩ってる鬼丸さんの方が危ないんだからね!?」
    「魔物を……?」
     町の者が魔物が出ると言っていた事を思い出し、なぜそんな危険な事を……、と大典太が漏らせば、乱は眉間に、ぎゅう、としわを寄せ、どこか悔しげに唇を引き結んだ。
    「どうでもいいだろう」
    「良くないよ! 鬼丸さんが魔物を倒してるからあの町で暮らして行けてるのに、あの人たちはそんな事知りもしないで酷い事ばかり言って……」
    「おれが勝手にやっている事だ」
     お前が気にする事じゃない、と鬼丸は俯いてしまった乱の肩を宥めるように何度も撫でた。
    「なんだぁ? 取り込み中か?」
     場にそぐわぬ間延びした声に大典太が振り返れば、人の良さそうな男が首を伸ばすように城の中を覗き込んでいる。
    「御手杵さん、待ってたよ!」
     ぱっ、と顔を上げた乱は若干眦に涙の気配を残していたが、笑顔で本日ふたり目の来訪者を迎え入れた。
     先の自分に対する態度とのあまりの違いに大典太は、なんだこの差は、と思わずぼやいてしまう。
    「御手杵さんとは長い付き合いだもん」
     暗に信用度が違うと告げてくる乱に返す言葉も無く、目に見えてしょげてしまった大典太を、ちら、と横目に見た御手杵は、なんか良くわかんねーけどごめんな、と一声掛けてから乱と共に城の奥へと消えたのだった。
    「……すまなかったな。乱があぁも過剰な反応をするとは、おれも思わなかった」
    「物凄い剣幕だったな……」
     大典太が素直な感想を述べれば、鬼丸は口内で不明瞭な音を発してから、そうだな、と次の言葉を探すように、きょろり、と目だけを動かした。
    「おれがこんな形だからな。『城に巣くった怪物』を退治に来る奴が一時期多かったせいだろう」
     淡々と述べてはいるがそれはつまり、何度も殺されかけているという事だ。
     そのような危険な目に何度も遭っていながらここから離れない理由はなんであるのかと、大典太はつい口に出してしまいそうになるも、答えの半分は乱が既に教えてくれている。
     なぜ鬼丸がそうまでして人を守っているのかはわからないが、町の者が言っていた『呪われた王子』が本当であるのならそれが関係しているのだろう。
    「あの御手杵という男はなんだ? どういう関係だ?」
    「あいつは商人だ。おれが狩った魔物から取れる素材を買い取って貰っている」
     動物型や人型など魔物の形状にも寄るが、角や牙、皮、鱗や爪といった様々な部位は、武器や防具の素材として需要がある。
     なかなか市場に出回らない事もあり、高値で取引されると大典太も聞いた事があった。
    「生活に必要な物資も月に何度か運んできてくれるからな、いい取引相手だ」
    「……俺も」
     思わずと言った調子で口を開いた大典太を鬼丸は怪訝な顔で見る。
    「俺もあんたの為に出来ることはないか」
     ぎゅう、と鬼丸の手を両手で握り、身を乗り出さんばかりの勢いで言い募ってくる大典太に若干気圧されたか、鬼丸は僅かに背を反らした。
     熱っぽい眼差しを真っ向から受け、鬼丸の喉奥から低い呻きが漏れる。
    「……ないな。強いて言うなら、もう来るな」
     これまで何度も何度も言ってきたが、大典太が首を縦に振った事はない。今回も例に漏れず振られた首は横向きだ。
    「魔物に食われてもおれは責任もてんぞ」
    「それは、大丈夫だろう?」
     自信と確信を持った声音に鬼丸の眉が、ぴくり、と上がる。
    「あんたがくれた風見鶏、魔物避けの効果もあるんだろう?」
     方向を示すだけのアイテムでは説明のつかない、複雑な術式の正体のひとつはこれであったのだ。
     まさか解読されるとは思ってもいなかったのか、鬼丸は僅かに瞠目するも直ぐさま目を眇め、知らんな、と言い放ったのだった。
     にべもなく返され大典太は更に食い下がろうとするも、御手杵が戻ってきた事に気づき咄嗟に口を噤む。
    「引き取り分の一覧と買い取り額だ」
     確認してくれ、と差し出された板を受け取り暫し無言で目を走らせていた鬼丸は、微かに吐息のような声を漏らしてから顔を上げた。
    「多いな」
    「あぁ、元から希少な素材だが、ここ最近なかなか市場に出回らないのがいくつかあってな。その分の増額だ」
     当たり前の顔で説明する御手杵を鬼丸はどこか呆れた顔で見やる。
    「黙っていればわからないだろう。お前、商人として大丈夫か」
    「命張ってる相手に不誠実な事は出来ないだろ。その分、ふんだくれる所からはふんだくってるから心配すんなって」
     例えば毎日美味いモン食ってブクブク肥えてる奴とかな、と快活に笑っていた御手杵だが、なにか思い出したか、あ、と一声上げて肩に下げていた鞄の中を、ごそごそ、と探り出した。
    「そうだ……頼まれ物があったんだ」
     メモがわりの木片を取り出し、これなんだが、とどこか遠慮がちに差し出てくる御手杵を、ちら、と見てから鬼丸はそれを受け取る事無く内容を確認する。
    「……多いな」
     先と同じ言葉だが響きの違いに気づいた大典太が首を傾げる。失礼を承知で御手杵の手元を覗き見れば、そこには『代わり身三十』の文字があった。
    「先方には約束は出来ないと言ってあるから、断ってもいいぞ」
    「お前にも何割かは入るんだろう?」
     腕を組み思案していた鬼丸がそう問えば、御手杵は隠す事無く首を縦に振る。
    「あんたの作る護符の質がいいと一部界隈で広がってな、探索や討伐に出る奴らからギルドで売れって声が上がってるんだと」
    「そういうのは魔術ギルドの仕事じゃないのか」
     思わず口を挟んでしまった大典太に嫌な顔ひとつせず、御手杵は深々と溜息を吐くと、そうだよなぁ~、と肩を落とした。
    「でもなぁ、あいつらに高い金払ってもお粗末なモンしか寄越さねぇって、機微のない意見も散々聞いてるからなぁ」
     魔術ギルドには魔術ギルドの言い分があるのだろうが、実際に使った者からすれば請求される金額と機能が釣り合っていないと言う事だ。
    「遺跡から出てくるアイテムと同等の物を要求される魔術ギルドには同情するけどな。一部のずば抜けて優秀な奴にしか作れないだろそんなモン」
     その『ずば抜けて優秀な奴』が今目の前に居る訳だ。
    「実際、俺もあんたの護符があるからこうして無事に行き来出来てるし、何度も助けられてるから、欲しいって奴の気持ちも良くわかる」
     それでも、と真摯な眼差しで、ひた、と見据えてくる御手杵の言わんとする事を察したか、鬼丸は一度深く息を吐いてから腕を解いた。
    「六日貰えれば大丈夫だ。一日五個ならそう負担にもならない」
    「そうか。ありがとな」
     申し訳なさそうでありながら、どこかほっとした様子の御手杵に鬼丸は軽く鼻を鳴らすと、気持ちを切り替えるかのように、さて、と口にする。
    「出来上がるまでどうする。町に戻るか? それともここで待つか?」
    「急ぎの商談もないし、待たせて貰おうかな」
    「なら乱に言って部屋の準備を……」
     奥に行こうと鬼丸が御手杵を伴って一歩踏み出したのと、大典太が口を開いたのは同時であった。
    「俺も泊めてくれ」
     お伺いでは無く直球の要求に鬼丸の足も思考も一瞬止まった。
    「……は?」
     剣呑な眼差しと声音でゆっくり振り返ろうとする鬼丸を、まぁまぁ、と窘めたのは御手杵だ。
    「ヘタに追い返して毎日毎日来られるより、泊めてやった方がいいんじゃないか?」
     作業に集中したいだろ、と耳打ちされ、鬼丸は、ぐぅ、と喉奥で低く唸る。
    「……いいだろう。ただし、おれの邪魔はするな」
     絶対だぞ、と釘を刺してから大股に、ずんずん、と行ってしまった鬼丸の背を見送りながら御手杵は肩を竦め、大典太は口添えしてくれた御手杵に感謝しつつも、こいつの言う事には耳を傾けるのか、とモヤモヤしたのだった。

     はい、と突き出されたバケツとモップを前に大典太は首を傾げた。
    「これは……?」
    「お掃除されてない部屋で寝たいなら別にいいけど?」
     同様に、こてん、と首を可愛らしく傾げて問い返してきた乱の発言に、うん? と大典太の眉が僅かに寄る。
    「お布団は今から干せば間に合うかな」
     バケツとモップを押しつけ陽の高さを確認し、さぁ急いで急いで、と大典太を促しながら乱は躊躇う事無く進んでいく。その背に、待ってくれ、と戸惑いを隠す事無く声を掛ければ、足を止める事無く不思議そうな顔で振り返った。
    「なぁに?」
    「掃除に布団? 俺がやるのか?」
    「当たり前でしょ」
     何を言っているのだ、と声音と表情で返され大典太は言葉に詰まる。
     先に案内されていた御手杵はそのまま部屋に通されたというのに!
     口にはしなかったが大典太の不満は乱には十分伝わったようだ。はー……、と溜息をつき軽く肩を落としてから、あのね、と小さい唇がゆっくりと開く。
    「ボクは大典太さんをお客様だとは思ってないからね。これくらいはして当たり前だと思うな」
     そもそもここに定期的に来るのは、乱を初めとした彼の兄弟と御手杵だけなのだ。客間の清掃など一部屋で十分であった。
    「それにボクはそろそろ帰らないといけないし」
     むしろ長居しすぎた、と僅かに焦りを滲ませる乱は、あーでも、うーん、と何事か葛藤していたが直ぐさま諦めたように首を軽く振った。
    「お布団はここ、使うお部屋はどこでもいいから。あと、三階には絶対上がらないで。いい?」
     話をしながら目的の部屋の前まで着き、矢継ぎ早に言葉を繰り出す乱に気圧されたか、大典太は首を縦に振る以外の動きが出来ない。
    「食料庫にある物は好きに使っていいから。それから、くれぐれも鬼丸さんに迷惑は掛けないでよね」
     絶対の絶対だからね、と念を押しまくり、乱はまだなにか言い足りなさそうではあったが、本当に時間が差し迫っているのだろう。大典太の返答を聞く前に踵を返し軽やかに走り去ったのだった。

     どの部屋を使っても良いとは言われたが、大典太はあちらこちらを見て回る事無く御手杵の隣室を選んだ。
     乱とのやり取りが聞こえていたか、御手杵が手を貸してくれたおかげで思ったよりも早く部屋の掃除は済み、湿っぽい布団で寝る事は回避出来たのだった。
    「あの乱という子、本当に帰ったのか……?」
     整えたベッドに並んで腰掛け、大典太は奇妙に思っていた事を御手杵に漏らした。乱が走り去った先には下では無く上へ行く階段しかなかったのだ。
     それをそのまま口にすれば若干の間はあったが、御手杵は思い当たる節があるのか僅かに上を見る。
    「あー……鬼丸に挨拶してから帰ったんじゃね?」
     三階へは行くなと釘を刺してきたのはそういう事か、と大典太は思い当たり、なるほど、と小さく呟いた。
     その様子を探るような眼差しで見ていた御手杵だが、それは一瞬にして掻き消えた。
    「あんたはこの国の人間じゃないんだよな」
    「あぁ」
     軽い世間話のように切り出され、大典太も深く考える事無く肯定する。
    「見たところ商人て訳でもなさそうだし、なんでこんな物騒な所に来たのか聞いてもいいか?」
    「物騒……? あぁ、魔物が出るからか」
    「そうそう。俺も知ってはいたがこの森を抜けようとして、いやーあん時はマジ死ぬかと思ったぜ」
     たはー、と額を押さえる御手杵の話に興味が湧いたか、何があったんだ、と大典太は先を促した。
    「仕入れに手こずって予定が大幅に狂っちまってな、多少でも取り戻そうと近道したら魔物とばったりって訳だ」
    「それでも逃げ切ったんだろう?」
     そうでなければ今こうやって呑気に話す事など出来ないからだ。だが、当然の問いに、いや、と御手杵は首を横に振った。
     現れたのは一体であったが荷物を積んだ馬車では振り切れるはずも無く。仮に馬と荷物を捨て、身ひとつで逃げた所で容易に追いつかれるのは目に見えていた。
     焦りに塗り潰された思考では覚悟など決める事も出来ず、ただただ馬に鞭を入れるしか出来なかった。
     今にも呼気が首筋を撫でるのではないか。
     今にも背を引き裂かれるのではないか。
     今にも頭を食らわれるのではないか。
     恐怖で現実と想像の境界が不明瞭になった刹那、響き渡った絶叫に御手杵は、はっ、と我を取り戻した。
     手綱を緩め恐る恐る振り返った先の光景は目を疑う物であった。
     白銀の髪を返り血で染めた男が、魔物の首を跳ね飛ばしたところであったのだ。
    「これが鬼丸との出会いってやつだな。振り返りもしないでそのまま黙って行っちまおうとするから慌てて呼び止めて、礼をさせてくれと言ってもだんまりでさぁ……」
     肘を膝についた体勢で御手杵は口元を両掌で覆った。口調は軽いが僅かに臥せられた目には恐怖の欠片が見え隠れしている。
    「……恐ろしかったのは魔物か? それとも……」
    「莫迦言うな」
     ぴしゃり、と大典太の言葉を遮り御手杵は、ゆうるり、と顔を上げた。
    「……すまん」
     射殺さんばかりの鋭い眼差しを向けられ、大典太は直ぐさま詫びの言葉を口にする。
    「まぁ、驚いたのは確かだけどな。助かるとは思わなかったし、鬼丸は角生えてるし、魔物の死体を放置しようとするし。一度にいろいろありすぎて正直キャパオーバーだった」
     混乱しつつもその場で取引を持ちかけ鬼丸に了承させたというのだから、こいつも只者ではないな、と大典太は内心で感心したのだった。
    「俺の話はこんなところだ。次はあんたの番だぜ」
     ほら、と促され大典太は特に隠す事でもない為、素直に口を開く。
    「ここに辿り着いたのは偶然だ。文献や薬の材料になりそうな物を探して各地を回っている」
    「学者先生か?」
    「いや、一介の薬師だ」
     性格的にひとり籠もっての研究が向いている事は承知の上だが、それだけに専念できるほど世の中は甘くない。学友の中には人脈を広げ貴族の後ろ盾を得た者も居るが、残念な事に大典太はその方面には明るくなかった。
    「滞在した町で薬屋の真似事をして路銀を得て移動する。それの繰り返しだ」
    「自分で材料を探せるって事は鑑定も出来るのか」
    「それなりにはな」
     薬師全員が鑑定眼を持っている訳ではない。信用のおける相手との取引ならば良いが、タチの悪い商人が粗悪な品を高値で売りつけるという事も正直珍しい話ではない。
    「そうか、薬師か……」
     何事か考え始めた御手杵を前に話を続ける事は躊躇われ、大典太は相手が口を開くのをじっと待った。
    「ちょっと来てくれ」
     言うが早いか立ち上がった御手杵に促され大典太も腰を上げる。勝手知ったるなんとやらで連れられた先は中庭であった。
     寂れた庭園とは打って変わり、手入れのされたいくつもの花壇の他に、小さな温室がひとつあるだけの何の変哲もない光景だ。
     これが一体なんだというのか、大典太は疑問符を頭に浮かべながらも、足を止めた御手杵を、ちら、と横目に見てからひとり、花壇の横をゆっくりと進んでいく。
     ひとつ、ふたつ、と区分けされた花壇を通り過ぎる中、気づいた事がひとつあった。
     ここに植えられている植物は観賞用ではないのだと。
    「薬の材料ばかりだな」
     一周を終え御手杵の元へと戻りそう告げれば、そうだ、と首が縦に振られた。
    「初めのうちは薬を何度か頼まれたんだけどな、いつの間にかそれもなくなって、種とか苗を頼まれるようになったんだ」
     有名なハーブから名前すら知らなかったような物まで頼まれ、探すのに苦労した、と御手杵は当時を思い出し遠い目をしている。
    「あくまで俺の考えだけど、鬼丸は普通の薬は効きが悪いんじゃねぇかな」
     どこか言いにくそうに視線を泳がせる御手杵の言わんとする事を察し、大典太は僅かに眉を寄せた。
     元は人であったかも知れないが、今はそうではない。
    「あと、いつからかはわからないが、あいつが寝ているところを見た事がないんだ。それは乱も気にしてる。他人が口を出す事じゃないし、お節介なのはわかってるんだが……あんたどうにかしてやれないか?」
     思いも寄らぬ頼み事に大典太は瞠目するも、願ってもない事だと即座に首を縦に振る。
     ここに居る理由が出来た事もそうだが、なにより自分も鬼丸の為に出来る事があるのだと、役に立つ事が出来るのだと、どこか誇らしげな気持ちになった。
    「そうと決まれば善は急げだ。鬼丸のところに行くぞ」
     踵を返した御手杵の背に続くも、大典太は乱から鬼丸に迷惑はかけるなと釘を刺されている。このまま鬼丸の部屋へ押しかけて良いのか、不評を買うのではないかと気が気ではない。
     知らず足の進みが鈍くなった大典太に気づいたか、御手杵が不思議そうな顔で振り返った。
    「どうした? なんでそんな不安そうな顔してんだよ」
     腕に自信が無いのか? などと軽口を叩いてくる御手杵に冗談で返せれば良かったのだが、大典太は困ったように眉根を寄せ、もご、と口籠もる。
     その様子からなにを思ったか、御手杵は、うーん、と僅かに上を見てから、ひた、と大典太を真っ直ぐに見た。
    「確かに鬼丸の物言いはぶっきらぼうだけど、怒ってるわけでも嫌ってるわけでも……」
    「そうじゃない。その、乱に言われた。鬼丸に迷惑はかけるなと」
     態度のせいで損をしているが鬼丸は他者を思いやる優しい男だという事を、大典太は身をもって知っている。
    「迷惑? なに言ってんだ。むしろあいつの為になる事だろ」
     大典太の危惧をあっさりと否定し、御手杵は大典太の返事を聞く事無く大股に歩みを進め、大階段のあるホールまで戻ってきた。
    「なぁに、もし渋ったら乱の名前を出せばいけるって。なんだかんだで身内には弱いんだよな、あいつ」
     はは、と冗談めかした緩い笑みを浮かべていた御手杵だが、不意にその表情が引き締まった。
    「……あんた、戦闘の経験は?」
    「身を守る程度なら」
     途端に纏う空気の変わった御手杵に驚くも、僅かに緊張を滲ませつつ大典太が即座に返せば、上等だ、と抑え気味ではあるがどこか笑みを含んだ呟きが御手杵の口から漏れ出た。
    「今、城門を抜けた。三人、か」
    「見えるのか?」
    「さすがに透視は出来ないって。わかるのは気配だけだ」
     気配察知もそう簡単に習得できるスキルではないのだが、ひとりで長距離を移動する商人にこれほど有益なスキルもないだろう。
    「まぁ、戦闘は最終手段だ。まずは話してみないとな」
     そう言うが早いか御手杵は扉を開け放つや、即座にすぐ傍に止めてあった自分の馬車へと駆けた。
     荷台から取り出した長大な槍の石突きを地につけ、穂先は天へ向け、招かれざる客を待ち受ける。
     大典太は御手杵の間合いに入らないようホールから出ず、扉の影に身を潜める。仮に御手杵が抜かれても、不意を突けば足止めくらいは出来るだろうという算段だ。
     特に警戒した様子も無く進んできた者たちは、扉の前で門番よろしく仁王立ちしている御手杵に気づき、驚いたように足を止めた。
    「あんたら、ここに何の用だ」
     若干距離がある為、御手杵が声を張れば、冒険者と思しき者たちは敵意はない事を示す為か、武器に触れないよう掌が見えるように両手を軽く胸の高さに上げる。
    「先に言っておくけどな、ここは私有地だ。持ち主の許可無く入って来られたら困る」
     言外に帰れと告げているが、相手は「何を言ってるんだ」とまるで通じていない。
    「持ち主と言ったって本当に居るかどうかもわからない怪物だろ?」
    「どこから来たか知らないが、悪い事は言わないから帰れよ。ここに手ぇ出したら、ヘタすると首が飛ぶぞ?」
     空恐ろしい事を、さらり、と口にした御手杵に驚いたのは大典太だけだ。冒険者たちはただの脅し文句だと思っているのか、へらり、と緩い笑みを見せている。
    「そんな事言って、お前だってめぼしい物がないか探しに来たクチだろ?」
    「人の話聞けよ」
     コンッ、とひとつ石突きで地を叩いて御手杵は、はー……、と息を吐いた。
    「ここは廃城じゃないぞ。今も王族が管理してる城だ。城下町のギルドで確認して来いよ。それでも信じられないってんなら仕方ねぇ。気は進まないが相手になるぜ?」
     すぅ、と流れるような動作で穂先を向けられ、気色ばんだ冒険者たちが武器に手を掛けたその時、どすり、と鈍い音と共に幅広の剣が地面に突き刺さった。
     つま先数センチの位置に飛来したそれに冒険者たちの動きが止まる。
     何事かと反射的に上を見れば、そこには三階のバルコニーから睥睨してくる異形の姿があった。
    「おれの城で好き勝手されては困る」
     本当に居た……、と譫言のように漏らす冒険者たちの動きに気を払いつつ、御手杵は首から提げている札を服の下から引っ張り出した。
    「俺は商人でこの王子様と取引してる。これが王族と取引してる証明の札な」
     見えるかー? と呑気な声を上げながら札を、ぷらぷら、と揺らして見せれば、刻まれている王家の紋章が目に入ったか、冒険者たちの顔色が明らかに変わった。
    「でも、百年前に遷都してここは打ち捨てられたって話じゃ……」
    「正確には九十五年前だ」
     二本目の剣を片手に持ち、訂正の言葉を降らせる鬼丸を前にすっかり戦意喪失し、ひっ、と首を竦める者たちの姿が哀れになるも、自業自得だよなぁ、と御手杵は助け船を出す気にもならないのだった。

     彼らには二度と此所へは近づかない事を約束させ、更には他の冒険者たちにも王家の所有地である事を広めるよう頼んでから、お引き取り願った鬼丸の行動自体は穏便なものであったが、彼と至近距離で相対した者たちは相当な圧力を感じていた事だろう。
     死人のような顔色で言われた事全てに従順に頷き、逃げるように去って行った彼らの気配が門の向こうへと消えてから、御手杵は呆然と立ち尽くしている大典太に顔を向けた。
    「大丈夫か?」
    「あ、あぁ……いろいろと驚いてはいるが……」
     突然得られた情報の多さに混乱しているのか、どこか覚束ない口調の大典太を、ちら、と見遣り、鬼丸は何か言いかけるも小さく息を吸うにとどめ、くるり、と踵を返した。
    「待てよ。降りてきたついでに飯にしようぜ」
     臆する事無く鬼丸の背を、ばん、とひとつ叩き、そのまま並んで歩き出した御手杵に呼ばれ、大典太もなし崩し的に着いていく。
    「今日はシチューも持ってきてくれたらしいぜ。楽しみだな~」
    「……そうか」
     ふたりの会話を何気なく聞いていた大典太だが、ふとそこに違和感を覚え首を傾げる。
     誰が持ってきたかは言わずもがな。乱は鬼丸の世話をしに来ていると言っていたのだ。食事の用意もするのだろう。
     だが。
     食堂では無く厨房に足を踏み入れた大典太は違和感の正体に気づいた。
     形状は古いが魔力を動力源とした調理台の上に鍋があり、それが現役である事を示している。
     町の飲食店でも導入している所は増えており、今では珍しい物ではない。
     魔力の無い人間には使えないかと言えばそうではなく、所定の場所に魔力を帯びた物を置けば機能するのだ。
     装備品や装飾品を加工する際に出る欠片程度でも十分動力となる為、クズ扱いの魔石などはまとめて安く売られている。
     勿論、それ用に魔力付与された石は質も良く稼働時間が長い分、それ相応の価格だ。
    「……わざわざ持ってきた?」
     彼がどこから来ているかは知らないが、此所で作ったのでは無く『持ってきた』と御手杵は言ったのだ。
     作業台に置いてある籐の籠からはパンが顔を覗かせている。
     此所にもパン窯はあるが長らく使われた形跡はない。
     違和感ばかりが増す光景に大典太は戸惑いを隠せぬまま御手杵に促され、簡素な丸椅子に腰を下ろした。
    「夜は俺たちが作るからな。あんた、料理の腕はどうなんだ?」
     正面に腰掛けた御手杵が問いかければ、大典太は「出来ない事もない」と曖昧な返答をする。
    「まぁそれでも鬼丸よりはマシだろさすがに」
     ははは、と冗談めかして笑う御手杵を、じとり、と睨め付けながら、鬼丸は粗雑な手つきで、ごん、と調理台の端に何かを置いた。
     途端に調理台に刻まれた文様が仄かに光りだし、起動したのだと知る。
     何気なくその様子を見ていた大典太は、鬼丸が置いた物の正体に気づき、僅かに口元が引きつった。
     黒光りする爪と思しき物。大きさは大典太の掌ほどはあるだろうか。
     猛禽類を連想するその形状に、これは鬼丸が狩った魔物の一部か、と改めて彼の置かれている過酷な状況と、その状況下にありながらも生き延びている現状に驚嘆する。
     ふたりと同じように丸椅子に腰を下ろした鬼丸は、シチューが温まるのを待つ事無くパンに手を伸ばし、がぶり、とかぶりついた。
     行儀悪いぞ、と意外にも真顔で窘めてくる御手杵の言葉などどこ吹く風で、鬼丸はひとつ目のクロワッサンを平らげると、ぺろり、と指先を舐める。
    「お前たちしか居ないんだ。どうでもいいだろう」
    「そう言うなって。そんな姿を見たら一期が嘆くぞ」
     不意に飛び出した名に鬼丸の眉が僅かに寄った。
    「『鬼丸殿にそのような余裕のない生活をさせてしまったのは全て私の不徳の致す所』とか言い出すぞあいつ」
     いいのか? と半分本気、半分冗談だと言う事がわかっているのか、鬼丸は面倒くさそうに鼻を鳴らすと、お前こそ、と小さく反論を始める。
    「普段から呼び捨てにして、いざという時にボロが出るぞ」
    「商人舐めんなよ。使い分けはお手のモンだぜ」
    「すまないが、俺にもわかるように説明してくれないか」
     堂々と話していると言う事は聞いても差し支えないのだろう? と大典太が至極もっともな事を口にすれば、御手杵は特に驚いた様子も困った様子も無く、だってよ、と鬼丸に丸投げした。
     中庭の薬草畑を見せ鬼丸の事を任せた時点で、御手杵は大典太に全面的に協力すると決めたのだろう。
     不快とも面倒とも違う表情を見せた鬼丸の心情を察する事は難しいが、感じ取れたのは『諦観』であった。
    「一期、というのはこの国の第一王子の名だろう? それくらいは俺も知っている」
    「……そうだ」
     まずは簡単な疑問から切り出した大典太に鬼丸は静かに応じる。
    「どういう関係なんだ」
    「遠い血縁だ」
     乱に対しても同じ事を言っていたと大典太は思い出し、みるみるうちに俄には信じがたいと言った面持ちになった。
    「乱も、王子という事か……?」
    「そうだ」
    「上に何人も居るから王位継承権はほぼないけどな」
     御手杵から補足が入るも大典太は驚愕の表情を浮かべたまま、信じられん、と漏らす。
     言葉を選ばずに言ってしまえば、王族が小間使いのような事をしているのだ。
     大典太の様子から彼が何を思ったのか予想がついたか、鬼丸は緩く息を吐いてから僅かに目を伏せた。
    「当然、それを良く思わない者はいる。だから来るなと何度も言ってる」
     彼の立場を悪くするのは鬼丸の本意ではない。
     それでも乱は「鬼丸さんが気にする事じゃないよ。それにボクが好きでやってる事なんだし」と、きっぱりはっきり、言い放ち、自身の行動になんら恥じる所などないのだと堂々としている。
    「御手杵は鬼丸とは付き合いが長いのか?」
    「俺か!?」
     突然矛先が自分へと向き御手杵は素っ頓狂な声を上げるも、んん、と軽く咳払いをして誤魔化した。
    「そうだな、まだ十年は経ってないな。八年くらいか?」
    「もうそんなに経ったか」
     質問した大典太ではなく鬼丸が驚いたように顔を上げ、御手杵が、そうだよ、と笑いながら応じる。
    「乱たちとは五年になるか」
     指折り数えていた御手杵の言葉に大典太が意外そうな顔をした。てっきり乱の方が鬼丸との付き合いが長いと思っていたのだ。
    「……すまんが時系列がよくわからなくなってきた。そもそも、鬼丸がなぜ此所に居るのか、いつから此所に居るのか、そこから教えてくれないか」
     あの冒険者たちが言っていた、此所が百年前に打ち捨てられた背景には一体何があったのか。
     そして鬼丸はそれにどう関わっているのか。
     そこから知らなければならないと、大典太は思ったのだ。
    「……つまらん話だ」
     しばしの沈黙の後、鬼丸はそう切り出した。

     ――当時の国王は特に優れた面はなく、ただし劣った面もなかった。
     国政も安定しており民からの目立った不満もなかった。
     一言で言えば平和であった。
     だが、水面下では不穏な動きがあり、それは『謀反』と言う形で牙を剥いた。
     王宮魔術師や召喚士といった術者を中心とした者たちにより、数時間と経たずして王城は占拠された。
     城の周囲に展開された召喚陣から湧き出た魔物だけではなく、呪術師による呪いや、独自に研究を進めていた魔物と人間を融合させる肉体強化術の弊害で理性を失った味方の兵士も敵となったのだ。
     不幸中の幸いと言えばこれらは全て城壁内で起こっており、異変に気づいた周囲の住民が避難する時間的猶予があったと言う事だ。
     国王や兄王子たち他を逃がす為、殿を買って出たのが第四王子であった鬼丸だ。
     剣や魔法の才は兄王子たちより優れているともっぱらの評判であったが、鬼丸自身は周りの評価などまるで興味はなく、王位も自分には無縁であると、政の一切に口を出した事はなかった。
     王と三人の王子が無事に生き延びればいくらでも手はあるのだと、付き従う近衛騎士を鼓舞し、城に留まり、退路を死守した。
     混戦の中、今の今まで背を預けていた騎士が怪物へと変貌を遂げ、躊躇無く斬り捨てる事を余儀なくされる。
     神経を磨り減らし、心が折れ掛けた一瞬の隙を突かれた。
     ぞるり、と冷たい手で心臓を撫でられた心地であった。
     四肢に伝搬する震えと内側から爆ぜようとする力の奔流。
     身体が変異し始めているのだと気づくと同時に、頭の片隅が燃えるように熱くなった。
     自身を侵す呪いと意識を食らい尽くそうとする魔物を、血反吐を吐きながら逆に捩じ伏せる。
     真っ赤に染まる視界の中、妙に冷めた意識は的確に術者の首を斬り飛ばしていく。
     制御を失った召喚陣がどうなるかなど、その時は全く念頭になかった。
     ただひたすらに魔物を屠り、怪物と化した人間を斬った。
     何度陽が沈み、何度月が昇ったか。
     城内に動く者の影が一切なくなり城外に出た。
     だがそこは鬼丸の知る景色ではなかった。
     城を覆い隠すように森が広がっていたのだった――

    「その時は正直、何が起こったのか理解できなかった」
     ふー……、と息をつき、鬼丸は一旦口を噤んだ。
    「続きは食べてからにするか」
     話に夢中で気がつかなかったが、厨房内にはシチューの柔らかな香りが漂っている。
     提案しながら立ち上がった御手杵はまず水瓶から汲んだ水を鬼丸の前に置き、調理台の前へと移動した。
     ちびり、と口内を潤す鬼丸は、どこか疲れた顔で作業台の一点に目を落としている。
     話の内容もそうだが、普段滅多に喋らない事も影響しているようだ。
    「……あとはおれの話より、見た方が早いだろう」
     鍋をかき回す御手杵に話しかける鬼丸の口調は確認のそれであった。
    「まぁ、そうだな。つか、あんた喋るのが億劫になったんだろ」
     同意しつつも御手杵が突っ込めば、鬼丸は軽く鼻を鳴らしただけで明言は避けた。
     またひとり蚊帳の外かと大典太が物言いたげに鬼丸を見れば、さすがに黙っていく事は憚られたか、すぐ戻る、と言い置いて鬼丸は厨房を後にしたのだった。
     その言葉の通り程なくして戻ってきた鬼丸の手には、表紙すらない粗雑に綴じられた紙の束があった。
    「王の側近が残した手記だ」
    「そんな貴重な物を、俺が見ていいのか?」
    「構わん。ただの記録でしかない」
     内容もそうだが歴史的にも貴重な物なのではないかと尻込みする大典太を横目に、鬼丸は事もなげに言い放つと作業台の端へそれを置き、自分の椅子へと腰掛ける。
    「年代物だが保護の魔法が掛かっているから乱雑に扱っても問題ない」
    「いや、問題大ありだって」
     シチューの入った皿を鬼丸の前に置きながら御手杵が苦笑するも、鬼丸は涼しい顔でスプーンを手に取った。
    「御手杵も読んだのか?」
    「おう」
     大典太の問いに短く答え、御手杵はふたり分の皿を置いた。
    「ただ、そんな長いモンじゃないけど、ちょっと読みにくかったなぁ」
     ずっ、とシチューを啜りながら付け加えられた言葉に大典太は首を傾げる。
    「少しだけど現在の言語と差異があるんだよ。文節とか構文とか。そういや鬼丸と初めて会った時もなかなか言葉が通じなかったよな」
     助けられた礼をしたいと何度訴えても怪訝な表情でだんまりを決め込んでいた姿を思い出しつつ、御手杵が、な、と話を振れば、鬼丸はパンをちぎる手を止め、ちら、と視線だけを向けた。
    「お前は訛りもあったしな」
    「なんだよ、ちょっと発音が違う程度だっただろ」
     ぶー、と頬を膨らませる御手杵に、最終的に通じたんだからいいだろう、と鬼丸は話を終わらせパンを口に含む。
     ふたりのやり取りを聞きながら大典太は傍らの手記に手を伸ばし、冒頭の二三行に目を通してから顔を上げた。
    「これくらいなら問題ない」
    「あぁ、そっか。文献探してるって言ってたもんな。それなら古い言語にも馴染みがあるか」
    「……本を探してるのか?」
     スプーンを上下させていた鬼丸が動きを止め、御手杵の言葉を受けて問いかけてきた事に驚きつつ、大典太は首を縦に振る。
    「薬学やそれに関する物を探している」
    「そうか。地下に書庫がある。好きに見て構わん」
     意外な申し出に大典太が言葉も無く鬼丸を凝視すれば、なんだ、と秀麗な眉が寄せられた。
    「いや、それは大変ありがたいが……」
     無理矢理に居座り煙たがられていると思っていただけに、正直戸惑いの方が強い。
    「書庫でおとなしくしててくれればそれでいい」
     別にお前の為じゃない、と念を押す鬼丸に御手杵が肩を竦める。この男は基本的に善人だが、反感を買う物言いしか出来ない損な性分なのだ。
    「写本は……」
    「好きにしろ」
    「助かる」
     短いやり取りではあったがきちんと返答があった事に、大典太は安堵と歓喜が入り交じった顔を隠さず鬼丸に軽く頭を下げた。

     食事も終わり、御手杵は全員分の皿を洗い、大典太は手記に目を通している。
     手持ち無沙汰になった鬼丸は部屋に戻ろうとするも、俺に丸投げすんな、と御手杵に咎められ、渋々腰を下ろした。
     丁寧に文字列を辿っている大典太の表情が険しくなる様に、鬼丸は気づかないふりをしている。

     ――手記の冒頭にはこう記されていた。
    『失われてはならない歴史である』と。
     国王を初めとした逃げ延びた者たちがまずした事は、トレントやドライアドと交渉し北部の森を広げ、旧城を覆い隠すという実質の隠蔽工作であった。
     王たちは国内の安定を図る事を最優先とし、魔術師達の謀反は伏せられ『突如現れた魔物に襲撃された』と嘘の情報を流した。
     第四王子に関しては「身を挺して皆を守り、命を落としたのだ」と美談に仕立て上げた。
     同盟関係にあった隣国の助力もあり、一月と経たず体勢を立て直す事が出来た。
     新たな城も築かれ二ヶ月も経つ頃には元の生活に近い所まで持ち直した。
     魔物が森から現れる事もあり、旧城周りの現状を把握する為、斥候を出したのは旧城陥落から実に四ヶ月が経ってからであった。
     そしてもたらされた報せに一同は顔色を失った。
     死んだと思っていた第四王子が生きていたのだ。
     それを知った王らは、異形に変じていたとはいえ第四王子を見捨てた事が露呈するのを恐れ、報告を握り潰した。
     更には旧城の事は今後一切口にしてはならぬと、記録を残す事も禁ずるとの布令を出した。
     だが、これは到底許される事ではない。
     それ故、私は――

    「それ故、私はこれを書き記す、か……」
     苦い声音を漏らした大典太を、ちら、と見遣り、鬼丸は組んでいた腕を解いた。
    「それが見つかったのが五年前だ」
    「で、すぐに一期が飛んできたんだよな」
     たまたまその場に居合わせた御手杵は当時の事を思い出したか、うへぇ、と心底疲れた顔をする。
     正確には真偽を確かめるべく偵察隊を送り、結果手記が事実だと判明し、尚且つ鬼丸が存命であったからなのだが、それを聞かされたのは鬼丸のみだ。
    「こう言っては失礼だが、第一王子は署名もない手記をよく信じたな」
    「半信半疑だったようだが、実際おれがこうして居た訳だからな。それに、これを書いた者は筆跡でわかっている」
     間違いなく王の側近であったと、確認が取れた事も一期を後押ししたのだろう。
    「……おれの、剣の師匠でもあった」
     事実のみを告げるそれに感情の揺らぎはないが、僅かに逸らされた視線は悟られたくない何かがあるのだろうと、大典太は敢えて触れる事はせず手記を鬼丸へ返した。
    「ひとつ気になったんだが」
     これで話は終いだと言わんばかりに手記を受け取った鬼丸は腰を上げようとするも、大典太の一言で動きが止まる。
    「……なんだ」
    「召喚陣は今どうなっているんだ?」
     先の鬼丸の話では召喚陣は『城壁内』に展開されたとの事であった。
     だが、今現在それらは影も形もない。
     にも関わらず魔物は未だに出現している。
     痛い所を突かれたか鬼丸は一旦口をへの字に引き結んだ後、苦い表情を見せた。
    「今は……城を中心に現れる位置も時間も不規則に、開いては閉じてを繰り返している」
     おそらく召喚から送還までが組み込まれた術式だったのだろう。しかし途中で術者が死亡した為、制御を失い安定性を欠き不完全な状態という事だ。
    「調査に来た奴らは後数年で消滅するだろうって言ってたな」
     一期が派遣した調査隊に御手杵は物資面で協力しており、その辺りの内情も詳しく知っている。ただし、事が事なだけに積極的に情報開示をする訳にもいかず、補足を入れる程度しか出来ないのだが。
    「召喚陣を維持する為の魔力供給も無いまま、それでも百年近く残り続けているのか……凄まじいな」
    「全てはおれの浅慮が招いた結果だ」
     あの時はこれ以上召喚陣を増やさない為にも、術者本人を狙うしかなかった事は話を聞いただけでも理解できる。
     あぁそうか、と大典太は内心でごちる。
     鬼丸は自分のせいで今も近くの町の者を危険に晒していると、責任を感じているのだ。
     だから怪物と忌み嫌われ恐れられようと、鬼丸はひとり何年、何十年と剣を振るい続けてきたのだ。
     ここで「あんたのせいじゃない」と言うだけなら簡単だ。
     しかしそれは彼と信頼関係にある者しか許されない言葉だ。
     出会ってから日の浅い自分では「お前に何がわかる」と冷笑で返されるのが目に見えていると、大典太は膝上で拳を強く握り締める。
     もういいな、と今度こそ鬼丸は立ち上がり出入り口に向かうも、あっ、と御手杵から上がった声に、ゆうるり、と振り返った。
    「……今度はなんだ」
    「調剤室使っていいか?」
    「お前がか?」
     思いも寄らぬ要望に鬼丸の目が丸くなる。
    「あっ違う違う。こいつ薬師なんだってよ」
     言葉足らずであったと気づいたか御手杵が慌てて訂正すれば、突然当事者にされた大典太も目を丸くする。
    「自分で作るより本職に作って貰った方が効くと思うぞ」
    「……好きにしろ」
     否定されなかったと言う事は、御手杵の予想は正しかったと言う事だ。
    「薬箪笥の物も好きに使って構わん」
    「いいのか!?」
     ガタッ、と音を立てて立ち上がった大典太の勢いに再度鬼丸の目が丸くなる。
    「使い物になるかはわからんがな」
     なんせ素人が集めた物だ、と口端を上げ、鬼丸はそのまま厨房を出て行った。

     夕飯後、鬼丸は部屋へ戻ろうとするも大典太に引き留められ、そのまま連れて来られたのは浴室であった。
     わざわざなんだ、と訝りながら足を踏み入れれば、何十年も置物と化していたバスタブに湯が張られており、鬼丸は怪訝な顔で大典太を振り返る。
     給湯設備も調理台と同様の仕組みである為、動力源さえあれば誰にでも使うことが出来る。
     だが、稼働させたそれをわざわざ見せる意味がわからないのだ。
    「なにを使うにもおれの許可を取る必要は無い。好きにしろ」
    「そうじゃない」
     既にここまでやっておいて許可も何も無いのだが、即座に返された否定の言葉に鬼丸は更に怪訝な顔になる。
    「御手杵から聞いた。あんた、眠れてないんだってな」
    「それがどうした」
    「見たところ全部水で済ませて湯に浸かるなんてしてなかったんだろう?」
     鬼丸の問いを無視して大典太はぐいぐいと詰め寄り、勢いに押されたか鬼丸は思わず一歩二歩と後ずさる。
    「身体を解して、緊張も解さないと、眠るのは難しい」
    「は?」
     突然の主張に鬼丸は一瞬理解が遅れ、その間に大典太の手が上着のボタンに掛かった。
    「御手杵も、乱も、あんたの事を心配してる」
    「……ッ」
     ふたりの名を出され、何かを言いかけた鬼丸の口が引き結ばれる。これまでの言動から推察するに「お前には関係ない」「どうでもいい」とでも言おうとしたのだろう。
     半信半疑であったが本当に乱の名を出せば押し切れるのだと、非常に簡単に事が進む気配に大典太はある意味心配になる。
     暫し黙り込んでいた鬼丸だが、上着のボタンが全て外されるのとほぼ同時に緩く息を吐いた。
    「……それで気が済むならお前の好きにしろ」
     押し問答をするのも面倒になったか、投げやりな物言いではあったが大典太は鬼丸から了承の言葉を引き出したのだった。
     王子という身分故か、長い間人との関わりが薄かったからか、大典太の手で着衣が剥がされていくことには、なんら思う所はないらしい。
     促されるままに湯へ身体を沈めれば、ふわり、と立ち上った香りは爽やかな柑橘のそれだ。
     温かな湯も入浴剤の香りも記憶の彼方であった。懐かしさよりもその感覚を巧く受け止められず、鬼丸はやや戸惑った様子で軽く身動ぎをする。
     途端、鼻腔を擽る香りが変化した。
     新緑を思わせる清涼な香りは、森に囲まれて生きてきた鬼丸には、知らず馴染みの深い香りになっていた。
     少し湯を揺らすごとに変化する香りに僅かではあるが驚きを見せる鬼丸に、大典太はゆっくりと膝をつきながら、俺の自信作だ、と告げる。
    「どの町に行ってもよく売れる」
     白桃を思わせる甘い香りに目を細め、袖を捲った腕で鬼丸の手を湯の中から掬い上げる。
    「好きな香りはあるか?」
     鬼丸の掌を丁寧に揉みながら大典太が問えば、湯に目を落としたまま、別に……、と素っ気ない言葉が返ってくる。
     どうでもいい、と返ってこなかっただけでも御の字だと、大典太は僅かに口端が緩んだ。
    「そうか。特に嫌な物もないんだな」
     なら良かった、と素直な感想を述べれば、大典太の手中にある掌が一瞬ではあったが、ぴくり、と震えたのを感じ取る。
    「痛かったか?」
    「……いや」
     短い否定の言葉のみで口を閉ざした鬼丸を窺えば、眉間にややしわは寄っているものの幸いな事に不快な思いはしていないようだ。
     掌を揉んでいる間も弛緩する事なく緩く曲がったままの指に、力を入れている事が普通になってしまっているのだと、大典太の胸には悲しみが募る一方だ。
    「此所にはハーブが沢山あるから、ハーブティーとハーブピローも用意したぞ」
     痛む胸などおくびにも出さず大典太が笑みを向ければ、鬼丸は、ちら、と横目に見やってから軽く瞼を伏せ、物好きめ、とだけ呟いた。
     天秤に、そぅ、と分銅を乗せ、反対の皿に匙で掬った粉末を幾度かに分けて計っている大典太の背に、なぁ、と御手杵が軽く声を掛けた。
    「どんなカンジだ?」
    「古いが良く手入れされてるな」
     今使っている道具の感想を聞かれたと思ったか、大典太が大真面目に答えれば、御手杵は、がくっ、と肩を落とし、そうじゃなくて、とどこか呆れたような、困ったような声を出す。
    「入浴剤にハーブティにハーブピロー、効果はどんなカンジかって」
     この三日、大典太は鬼丸を毎晩入浴させ、私室兼寝室へと送り届けてからハーブティーを飲ませ、ベッドに押し込むを繰り返している。
     即効性のある物ではない事は御手杵も承知の上だが、それでも何かしらの変化があるのではないかと期待もしているのだ。
    「……芳しくはないな」
     隠す意味も必要もないと大典太が正直に告げれば、そうかぁ、と御手杵は書物の積まれた机に突っ伏した。
    「鬼丸は眠らなくても支障は無いと言っていたが、半分は本当で半分は嘘だと、俺は見ている」
     手元の板に何事かを書き付けながら大典太の脳裏に過るのは、大典太の行動を肯定もしないが否定もしない、本当にどうでもいいと思っている鬼丸の態度だ。
     人とは異なった強靱な肉体と回復力を持っている為、ほんの少しの休息で事足りているのかも知れない。
     だが、頑なにベッドへ入ろうとしない様は、何かを恐れているようにも感じられたのだ。
    「睡魔が来ない訳ではないようだしな」
     そう言って大典太は御手杵の傍まで寄ると、積まれていた本の間から一枚の紙を引っ張り出した。
    「それは?」
    「所謂『眠気覚まし』の処方だ。いろいろと試したのか、独自の配合になってるな」
     城に保管されていた書物を元に比率を変え、材料を変え、試行錯誤した跡が見受けられる。他の薬もこうして自らの身体で試しながら、今も改良を重ねているのだろう。
    「鬼丸の認識では自分は眠らないのが当たり前になってしまっているんだろうな」
     私室の大卓に置かれていた城を中心とした地図と、それにいくつも配置された魔石は『警報装置』なのだと、鬼丸は言っていた。
     森の外周部と内周部には等間隔に感知の魔法が付与された魔石が設置されており、魔物が近づくとそれに呼応して地図上の石も反応するというのだ。
     鬼丸が何十年も掛けて地道に設置したそれは現在、外周部の魔石に関してだけ言えば、一期が手配した王国の魔術師が保守の任を担っている。
     王都側の外周部には警戒、監視の為に一団が常駐しているが、あくまで一部でしか無く、全域をカバーできるまでには至っていない。
    「例え眠らなくとも、横になって目を瞑るだけでも違うだろう」
     だから鬼丸を毎晩入浴させ、私室兼寝室へと送り届けてからハーブティーを飲ませ、ベッドに押し込むのは無駄な事ではないのだと、大典太は迷いも無く言い切った。

     四日目もこれまで同様、鬼丸は入浴をし、ハーブティーを飲み、ハーブピローのセットされたベッドに横になる。
     ひとつ異なる点と言えば、部屋全体に漂う仄かな香りであった。
    「香を薫いてみた」
     入浴中は鬼丸にかかりきりになる為、御手杵に頼んでおいたのだろう。どちらもラベンダーを基調とした物で調和が取れている。
    「あとは……」
     僅かな振動を感じ鬼丸が伏せていた瞼を持ち上げれば、ベッドに片足を乗り上げている大典太と目が合った。
     なんだ、と問う前に身体の下に両腕を差し入れられ、えいやっ、と勢い任せに転がされる。
    「おいっ!?」
     不意を突かれあっさりとうつ伏せになってしまった鬼丸が抗議の声を上げるも、大典太は意に介した様子もなく膝立ちで鬼丸の腰を跨いだ。
    「マッサージもしよう」
     言うが早いか、ぐっ、と背中を押され、う……、と鬼丸は低く呻く。
    「力を抜いてくれ」
     いきなり馬乗りになられて緊張するなと言うのは無理な話である。
    「先に断ってからにしろ」
     恨めしげに睨め付けてくる鬼丸の言う事はもっともだ。しかし大典太は暫し無言で鬼丸を見ていたが上からどく気配はない。
    「……言ったら素直にやらせてくれたのか?」
     純粋な問いではあったが、大典太の顔は「絶対許可しなかっただろう?」と言っている。
     図星であったか喉奥で呻くにとどめた鬼丸を見下ろし、大典太は微笑を浮かべた。
    「気が済むまで俺の好きにしていいんだろう?」
     きちんと言葉を交わす事を放棄した結果がこれであると、後悔しても時既に遅し。
     まさかこうまでして大典太が力業でくるとは思っていなかったのだ。
     認識が甘かった……と鬼丸は枕に顔を伏せ、好きにしろ、と再度言うしかなかった。
     今日こそは聞く、と大典太は厨房に置かれた籐の籠を前に決意を固める。
     あの日以来、乱の姿は一度も見ていないが、明らかに毎日誰かしらが出入りしている形跡があるのだ。
     そのひとつが毎朝届けられるパンだ。
     何者かが気づかぬうちに訪れ、気づかぬうちに去っている。
    「お、今日はベーグルか」
     うまそーだな、と掛けられていた布を持ち上げ嬉々としている御手杵と、それを聞いてか棚からジャムの入った瓶を取り出す鬼丸は、そのことを不審に思っている様子は全くなかった。
    「……誰が持ってきているんだ?」
     隠しきれない不信感が声に乗っていたか、大典太の問いに御手杵が、うん? と怪訝な顔になるも少し考えてから、誰だろうなぁ? と首を傾げた。
     はぐらかされたと思ったか大典太の視線が険しくなる。
    「乱ならどれだけ時間が無かろうと必ず顔を見せるから、今日はわからねぇなぁ」
     鯰尾か、薬研か、いや博多かもしれないな、と複数の名を口にする御手杵には、それなりに心当たりがあるようだ。
     そう言えば乱は交代で鬼丸の世話をしに来ているのだと言っていた。
    「聞き方が悪かった。毎日どうやってここまで持ってきているんだ」
     ここは深い森の中で、辿り着くには一筋縄では行かぬ場所だ。魔物の出ない町中のお使いとは訳が違うのだ。
    「……あぁ、そっちか」
     困ったように後ろ頭を掻き、御手杵は、ちら、と鬼丸に目をやる。
    「『転移門』だ」
     ジャムの瓶に匙を突っ込みながら鬼丸は事もなげに言い放ち、御手杵は即座に勢いよく噴出した。
    「おっ、おま、それっ」
    「使えなければ知った所で意味は無いだろう」
    「そりゃそうだが……」
     説明は任せた、と言わんばかりの鬼丸の態度に、はー……、と御手杵は疲れたように深々と溜息を漏らし、えーとな、と大典太に向き直った。
    「向こうの城とこっちに転移門が設置されてる部屋があるんだよ。扉は向こうからしか開かないように設定されてるし、強化と防護魔法も掛かってるから、仮にこっちが占拠されても向こうに危険が及ぶ事はない」
     基本的にはな、と御手杵は心の中で付け足す。
     万が一を考慮し、王族、ないしは『通行証』を持っている者ならば、こちらからも扉を開く事は可能なのだ。
     実のところ、御手杵の持つ『取引証明の札』は『通行証』でもある。
     転移門の設置は鬼丸の事を知って飛んできた一期からの提案であった。
     当初は鬼丸を連れてここは放棄するつもりであったのだが、本人が頑なにそれを拒んだ為、折衝案としてあがったのが転移門の設置であった。
     ひとりではどうにもならない事態に陥った際、避難できる場が必要であると一期は主張したのだが、当然の事ながら鬼丸はそれを「必要ない」と一蹴した。
     これまでひとりでどうにかしてきた鬼丸からすれば、今更な話であったのだろう。
     部外者であるがたまたまその場に居合わせてしまった御手杵は、柔らかな面差しの第一王子の顔が曇るのは見ていて心が痛んだ。
     しかし、短い付き合いながら鬼丸の性格を多少なりとも知っているだけに、彼が首を縦に振らない事も理解していた。
     話は終いだ、と踵を返した鬼丸の背に向かって一期が「帰りません!」と声を張ったのは、正直意外であった。
    「鬼丸殿の了承を得るまで、私は帰りません!」と上体を倒し腰を直角に曲げた王子の姿に、度肝を抜かれたのは御手杵だけでは無かった。
     珍しくも狼狽し、公務が滞るだの、お前は自分の立場がわかっているのかだの、鬼丸が矢継ぎ早に口にするも、一期は「鬼丸殿の事が最優先です!」と力強く返し、一歩も引かなかった。
     そもそもお前には関係ないだろう、と鬼丸が突き放せば、途端に一期の纏う空気が変わったのだ。
    「関係ない、ですと……?」
     頭を下げたままであったが、低く漏らされたそれには怒りが滲んでいた。
    「鬼丸殿が命がけで守ってくださったからこそ、血が絶える事は無く、私は今、ここにこうして存在する事が出来ているのです! だから私は、貴方に報いたいのです!! 公務など知った事ではありません!」
     あろうことか国が傾くのも厭わないと、一期は断言したのだ。
     これは第一王子という立場がどういったものであるかをよく理解している鬼丸には、相当効いたらしい。
     おれが今まで一体なんの為に……、と言いかけた鬼丸は、はっ、と口を噤むも時既に遅し。
     今も国の事を、そこに暮らす人々の事を第一に考えているのだと悟られてしまった以上、一期が折れる可能性は無くなってしまったのだ。
     優しげな風貌に似合わず第一王子は超がつく頑固者であると、御手杵は後々乱から聞かされたのだった。
    「ただこれ、一期の独断で決めちまったからな、後で割と揉めたらしい」
    「それは、そうだろうな……」
     手記の存在を知らない者からすれば寝耳に水の話だ。
     しかも百年前の王族が生きており、それどころか人ではなくなっているというではないか。
     そのような得体の知れない者の為に予算と人員を割くなど正気の沙汰では無いとの意見に対し、一期は真っ向から「己の先祖が犯した過ちを隠蔽するのは恥ずべき行為である」「彼なくして今のこの国は存在しないのです」と主張したのだ。
    「今もまぁ、反発が無い訳じゃないが、方々で地道に説明と説得を続けて理解者も増えてる。城のお偉いさん連中じゃなくて、城下町の人間を先に味方につけようって動いたのは、考えたなって思ったよ」
    「あぁ、だからあの冒険者たちに『城下町のギルドで確認しろ』と言ったのか」
     様々な場所から様々な人間が集まる冒険者の情報網は侮れない。
     一部界隈で広がっている鬼丸の護符の件も、御手杵が『ギルド内で何気なく話した事』が発端だ。勿論それは御手杵が意図的に口にしたのだが。
     後数年で召喚陣が消滅すると知って、種を蒔いたのだ。
     魔物が出なくなった後、鬼丸が糧を得る手段が無くなると危惧しての事だ。
     いらぬ世話であろうが、何かせずにはいられなかったのだ。
    「……あいつらにはそんな事はしなくていいと言ったんだがな」
     黙々とジャムを挟んだベーグルを囓っていた鬼丸が、ぼそり、と漏らせば、あのなぁ、と御手杵が疲れたように肩を落とした。
    「皆あんたの事を心配してるんだよ。相手の気持ちを無碍にするような言い方するなよ」
    「おれはおれの役目を果たしているだけだ。他の事はどうでもいい」
    「それは、ひとりでやらなければならない事なのか」
     不意の問い掛けに鬼丸は一瞬動きを止めるも、何事も無かった顔で大典太を、ゆうるり、と見やる。
    「あいつらには関係の無い事だ」
    「『この国』で起こっている事だ。全員が当事者じゃないのか?」
     じっ、と見返してくる瞳は、ただただ真っ直ぐに鬼丸に問うてくる。そこには責める色も哀れみの色もなく、純粋な疑問しか見て取れない。
     だからこそ、誤魔化す事も、黙り込む事もせず、鬼丸は正直に告げた。
    「……過去の負債を、背負わせる理由にはならない」
     百年前に起こった事は現在を生きている者たちには一切関わりの無い『過去の出来事』なのだ。
     過去の事は過去の異物である自分が始末をつけなければならないのだと、初手を誤った責任を取らねばならぬのだと、鬼丸は淡々と述べる。
     嘆息混じりに緩く首を振る御手杵の様子から察するに、このあまりにも頑なな物言いは今に始まった事ではないのだろう。
     責任感が強く生真面目。
     そして頑固。
     先ほど話を聞いただけではあるが確かに一期は鬼丸の血を引いているのだと、大典太は場違いにも笑みを漏らしてしまい、ぎろり、と鬼丸に睨まれた。
    「すまない、つい……」
     あんたの事を笑った訳じゃない、と説明しようとした大典太の声は、突如鳴り響いた警戒心を煽る音に掻き消された。
     城全体を揺るがす大音響に大典太は咄嗟に耳を塞ぎ、反射で閉じてしまった目を開けた時には既に鬼丸の姿はそこには無かった。
     未だ鳴り止まぬ音に顔を歪めている大典太の腕を引き、御手杵は「出るぞ」と言葉少なに告げる。
     足早に廊下を行きホールを抜け外へと出れば、多少とは言え聞こえる音はマシになった。
    「これは一体……」
    「鬼丸の部屋で見ただろ? 魔物が出たんだよ。この音は内周部だな」
     例の警報装置に引っ掛かったという事なのだろう。
    「まさかこんな仕掛けだったとは……てっきり石が光る程度だとばかり思っていた」
     未だに耳の奥で音が響いているのか、顔を顰めながら耳をさする大典太に御手杵は、まぁそうだよな、と頷いて見せるも、それじゃ意味が無いからな、と険しい顔で城門の更に先を見る。
    「どうすればこの音は止まるんだ」
    「魔物が死ねば反応しなくなるから。それまでの辛抱だな」
     複数の鳥が騒ぎながら飛び立つ様に、あの辺りか、と独り言を漏らす御手杵に倣って大典太もそちらを見やった。
    「すぐに終わる時もあれば、数時間かかる事もある。何が出たのか、行ってみないとわからないからな」
     希少な素材が取れる魔物は例外なく能力が高く手強い。直接攻撃をする前衛だけではなく、補助や回復と言った役割を持った複数人構成で対処するのが定石だ。
     鬼丸は剣技だけではなく魔法にも長けているとはいえ、高々と天まで届くほどの火柱が上がるような大魔法が使える訳ではない。
     状況がわからぬままただ待つだけというのは、不安ともどかしさが募るばかりだ。
    「……様子を見に行こうなんて思うなよ」
     ふらり、と一歩踏み出した大典太を強い声音で御手杵が牽制すれば、無意識であったか大典太は弾かれたように相手を見てから、ぐっ、と唇を引き結んだ。

     如何ほどの時間が過ぎたか、不意に訪れた静寂に御手杵は緩く息を吐き肩の力を抜いた。
    「終わった、のか……?」
     細く漏れ出た大典太の声は、安堵ではなく未だ不安が滲んでいる。御手杵とてこの状況に慣れている訳ではないが、鬼丸の実力を知っている分まだ落ち着いていられるのだ。
    「あぁ、さすがに立て続けに召喚陣が出る事はないだろうから、暫くは大丈夫……」
    「鬼丸は無事なのか? 怪我をして動けないなんて事は……」
     口に出した事で一層不安が募ったか大典太の顔色がみるみる悪くなっていく。それを聞いて、あぁそっちか、と御手杵は大典太の不安の正体にようやっと気づいた。
     魔物が出た事に対してではなく、ただただ鬼丸の身を案じていたのだこの男は。
     絶対などあり得ないというのに、鬼丸が魔物を仕留め損なう事などないとの前提でいた自分に御手杵は慢心を痛感し、同時に深く反省もする。
    「そろそろ戻ってくるとは思うが、その場で解体する事もあるからなぁ」
     あまりにも遅いようなら馬車で迎えに行った方がいいかもしれない、と御手杵が思い始めた頃、こちらへと近づく気配を察知した。
    「無事みたいだな」
     魔物の元へ駆けた時とは違い加速魔法は使っていないのか、気配はゆっくりと移動している。
     城門を抜け石畳を進んできた姿に安堵の息をつくも、それは一瞬にして、ひゅっ、と引き攣った物に変わった。
     咄嗟の事に声が出なかったのは御手杵だけではなく、大典太も目を見開いたまま立ち尽くしている。
     コツ、と踵を鳴らして近づいてくる鬼丸のその面に眼帯は無く、前髪も一部が不自然に欠けており、白磁の肌は見る影も無く左側が無残にも焼け爛れていた。
     無言でふたりの間を通り抜けようとした鬼丸に、はっ、と我を取り戻したか、大典太が右腕を、御手杵が左腕を掴んだ。
    「……なんだ」
    「なんだじゃねぇだろ!」
    「すぐ手当をするぞ」
     僅かに顔を顰めた鬼丸に怯む事無く御手杵は声を張り上げ、大典太は掴んだ腕を、ぐい、と引くと同時に息も掛からん距離で顔を寄せる。
    「……酸か」
     傷の状態を検分し苦い顔をする大典太を、鬼丸はそれ以上に苦い顔で見返した。
     どうという事はないと言い張る鬼丸だが、掴まれた腕を振り払う素振りも無い。
     その気になれば人ふたりなど軽くいなせるであろうにも関わらずなにもしないのは、自身の特異性を理解しているが故に相手を傷つけまいと気遣ってか、はたまた相当のダメージを負っているからか。
     顔の負傷に気を取られていたがそれ以外も無事とは言い難く、そこから覗く肌も例外なく悲惨な事になっている。
     その事からおそらく両方であろうと、御手杵は睨み合ったまま微動だにしないふたりを前に、深々と溜息をついた。
    「腹に大穴開けた時よりはマシかもしれないが、今回も相当だからな?」
     ほら行くぞ、と御手杵が強めに腕を引けば、渋々ではあったが歩き出した鬼丸に並んで大典太も足を進める。
    「傷洗って薬塗って寝ろ。そんで回復したら残りの護符作り頼むわ」
     明日が期日だぞ、と淡々と告げる御手杵を、信じられないと言わんばかりの顔で凝視する大典太とは対照的に、鬼丸は一瞬目を見張るも、わかっている、と心なしか穏やかな声音で応じた。

     大典太が大急ぎで調合した薬を塗布した物を傷に充て、ぐるぐる、と手際よく包帯を巻いていく様子を横目に、御手杵は鬼丸の身体を拭いたタオルと湯の入った桶を手に寝室を出た。
     勝算があると判断すれば鬼丸は自身の身を顧みることはない。
     今回も傷の具合から察するに、攻撃を受ける事前提で速度に物を言わせ距離を詰めたのだろう。
     遠距離から酸を射出してくる手合いならば、懐に飛び込んだ方が勝算があるのは理解出来る。
     彼の戦い方を知っている御手杵からすれば、またか、としか思わないが、大典太はそうではないだろう。
     あいつほんと鬼丸の事好きだよなぁ、と大典太が此所に通う事になった経緯は知らないが、見ているだけでわかるその純粋な好意に御手杵は感心すらしているのだ。
     乱や一期たちは鬼丸に対して好意は勿論あるのだろうが、罪悪感からくる罪滅ぼしの方が強いだろう。
     御手杵は助けられた恩もあり好感も抱いているが、どちらかと言えば取引相手という意識の方が強い。
     色々と考えながら手中の物を片付け厨房へと足を向ければ、調理台の前に立つ大典太と目が合った。
    「手当ては済んだのか」
     さすが手慣れてる、と御手杵が軽くはあるが賞賛の言葉を口にすれば、大典太は困ったように眉尻を下げてから、曖昧に、あぁ、と漏らした。
     どこか煮え切らない態度に御手杵が首を傾げれば、大典太は意を決したかゆっくりとではあったが口を開いた。
    「先ほどのあれは、もう少し言い方というものがあったんじゃないかと、思うんだが……」
     言葉を選び選び口にしているからか少々ぎこちない口調ではあるが、それが何を指しているのか御手杵には十分理解出来た。
    「商売が絡んでるから仕方が無いとは思うが」
    「まぁそれもあるけどな。どうせ正面から休めって言ったところで聞きゃしねぇんだ。だったら休む口実を作ってやりゃいいんだよ」
     鬼丸の性格を理解してるが故の誘導の仕方であったのだと知り、短絡的に責めてしまった事を大典太が素直に詫びれば、御手杵は、気にすんなって、とおおらかに応じる。
    「あんたと違って全く下心がないって訳でもないしな。円滑円満な取引を続けたいから、そりゃいろいろ考える」
    「下心なら俺にだってある」
     苦笑する御手杵の言葉尻に被るように発せられたのは、思いも寄らぬ言葉であった。
     ぽかん、と呆気に取られた様子で目を丸くしている御手杵に、大典太はこれから一世一代の告白をするぞと言わんばかりの大真面目な顔で口を開いた。
    「俺は、鬼丸が、好きだ」
     一言一言を噛み締めるようにゆっくりと音にした大典太に対して、御手杵はただ一言。
    「うん、知ってる」
     としか言い様がなかった。
     あっさりと返されたそれに本気で驚いたか、大典太は途端にあたふたと動揺を見せ、いやだから、と尚も説明を続ける。
    「ただ好ましく思っているとか、そうではなく、恋愛対象として見ててだな……」
    「わかったわかった! それ以上は言うな。肉体的な接触も望んでるとか、そういう事だろ」
     このままではありとあらゆる事を赤裸々に語りかねない、と御手杵が慌てて制止をかければ、大典太は、うっ、と低く呻き続くはずであった言葉を無理矢理に飲み込んだようだ。
    「そういうのを隠して近づいたら、それは下心かもしれないけど。あんたの場合はなぁ……」
     見返りを求めるでも無く、端から見ても疑いようもない程に隠す事無く「好きだ」と前面に押し出している行動を下心と呼んで良い物か。
    「あんたほんといい奴だなぁ」
     しみじみと漏らした御手杵を前に、大典太は困ったように眉尻を下げるだけだった。

     ことり、とサイドテーブルにトレイを置き、大典太は包帯の巻かれた鬼丸の顔を、そっ、と覗き込む。
     無意識に呻き声を漏らしてもおかしくない傷であろうに、その胸は穏やかに規則正しく上下している。
     だが、黙って目を閉じてはいるが寝息以前に呼吸音そのものが聞こえず、眠っていないのは明らかだ。
    「起きているなら鎮痛薬を飲んでくれ」
     身体に触れる事はせず声だけを掛ければ、色素の薄い睫毛に縁取られた瞼が、ゆうるり、と持ち上がり、現れ出でた石榴の瞳が、ぎょろり、と大典太を捉えた。
    「……不要だ」
     放って置いてくれ、と言葉以上に雄弁に語る目に大典太は軽く肩を竦め、気休め程度にしかならんかもしれないが、と前置きしてから薬湯の入ったカップを手に取った。
    「あんたが書き留めた物を元に、俺なりに調合してみた」
     入浴剤や香を調合する傍ら、調剤室の机の上や乱雑に積まれていた本の間、薬棚や引き出しといった様々な場所に無秩序に散らばっていたメモを掻き集め、全てに目を通していたのだ。
     鬼丸に元から薬学の知識があった訳では無い事は、初期のメモや積まれていた書物から察する事が出来た。
     当時は城に常備されていた薬もあったのだろうが、何年も保つような物では無い。
     残っていた材料で試行錯誤し、それが尽きる前に代替品を探し、魔物すら使っていた事も詳細に記されていた。
     御手杵に会うまで鬼丸はどれほど過酷な環境に身を置いていたのか。今日までこうして鬼丸が無事に生きている事は、大典太からすれば奇跡と言って過言では無かった。
    「効果があった物、無かった物、副作用など、全て残して置いてくれて助かった」
     身を起こす様子も無い鬼丸に向かって大典太はカップを差し出してくる。強制もせず、催促もせず、ただただカップを差し出しているだけだ。
     当然、鬼丸にはそれを受け取る義務は無い。だが、受け取るまでは絶対にその姿勢を崩さないであろうと、なにより鬼丸が受け取ると純粋に信じているのだと、これまでの言動から不本意ではあるが予想出来てしまうのだ。
     いつまでも居られても困る、と鬼丸は渋々ではあったが緩慢に身を起こし、カップを受け取るのに腕を上げようとするも、それは大典太によってやんわりと止められた。
    「動かさない方がいい」
     全身の傷を手当てしたのは大典太だ。怪我の程度を一番把握しているのも彼だ。酸を受けた以外に打撲も複数あり、物を持たせるには一抹の不安があるのだろう。
     反論よりも早く口元に寄せられたカップに、鬼丸は、じとり、と大典太を睥睨する。
    「熱くは無いから大丈夫だ」
     そういう事じゃ無い、と胸中で叫ぶもカップの縁が唇に軽く触れ、全てが面倒になったか鬼丸は諦めたように薄く口を開いた。
     ゆっくりと口内へ流れ込んでくる液体は人肌程度の温度で、こくり、と嚥下したのを確認してから再びカップが傾けられる。
     二度、三度と繰り返し、まだ空にはなっていないカップが口元を離れ、濡れた唇が柔らかな布で拭われた。
     口内には微かな苦みが残っているがえぐみや雑味は無く、自分が作った物とは大違いだ、と鬼丸は内心でごちる。
    「熱冷ましも作ったから、少しでもおかしいと思ったらすぐ声を掛けてくれ」
    「……なんだと?」
     今聞き捨てならない事を言わなかったか? と鬼丸が険しい声を上げれば、大典太は不思議そうな顔で見返してきた。
    「いつまで居るつもりだ?」
    「今日はずっと付き添うつもりだが?」
     そう言うが早いか大典太は勝手に椅子を移動させ、トレイと共に持ってきたと思しき書物を手に枕元へと陣取ってしまった。
    「おい、なにを勝手に……」
    「数時間ごとに薬も塗り直さないとならないしな。俺の事は気にせず寝てくれ」
     穏やかな口調に反して折れるつもりは全くないようだ。パラ、と捲った頁に目を落とす大典太を、ぎっ、とひとつ睨んでから、鬼丸は黙って枕に頭を預けた。
     パラリ、パラリ、と不規則な間隔で届く乾いた音を意識の片隅で聞きながら、鬼丸は、じくじく、と痛む傷に顔を歪める。
     酸の直撃を受けた時、このまま目玉まで溶けてしまえばいいと思ったのだ。
     目に見える身体の変化は角のみであるが、左目も変質している。
     目が合ったものに肉体的、あるいは精神的に何らかの影響を及ぼすのだ。
     麻痺。
     発狂。
     即死。
     孤軍奮闘の最中、偶然にもこれらの効果に気づき何度も窮地を逃れたが、魔物の出現頻度が減った今では手に余る能力であった。
     これまでは時折訪れる、自分を『退治』に来る者たちに注意を払うだけで良かった。
     しかし今は乱や御手杵といった、害意の無い者たちが定期的に訪れるようになった。
     幸いにもこの能力で人を害した事は一度も無い。だが、今後もそうであるとは限らないのだ。
     一番の懸念は大典太だ。
     人では無いこの身を恐れるでもなく、平気で触れてくる。
     一定の距離を保とうとしても、躊躇いも無く踏み込んでくる。
     あぁ本当に、何故受け入れてしまったのか。
     どうせすぐに飽きるだろうと、一時の気の迷いだろうと、すぐに興味を失い去って行くだろうと、さほど深く考えていなかったのだ。
     見返りを望むでも無く、ただただ好意だけを寄せてくる者が居るなど、どうして思えようか。
     傷つける、害するのは本意では無い。
     なにかあってからでは遅いのだ。
     だからこそ放って置いて欲しいのだ。

     すぅ……、と静かな息が鬼丸の口から漏れ出た事に気づき、大典太は手中の本から顔を上げた。
    「鬼丸?」
     囁くように呼びかけるも応答は無く、ただ無視をされているのかとも思ったが、覗き込んだその顔は険の取れた穏やかなもので、規則正しく上下する胸と吐かれる息は、まさしく寝息であった。
     思わず立ち上がりそうになるも、ぐっ、と堪え、薄く開いた唇から聞こえる寝息に暫し耳を傾ける。
     普段の険しい表情や他者を圧する雰囲気が取り払われた状態を見るのは初めてであり、意外にも幼さを残した風貌であると知った。
     第四王子であったとは聞いたが、年齢までは知らない。
     成人はしているのだろうが、要職に就いていた訳ではなさそうだ。
     いくら非常事態とは言え第四王子が殿を務めるのを周りが止めなかったと言う事は、つまりはそういう事なのだろう。
     だが、手記を残した剣の師匠のように鬼丸の身を案じる者も確かに居たのだ。
     その手記を見つけた一期たちが時代を超えて鬼丸の身を案じている。
     新しい城で発見された手記がここにあるのは、向こうに置いておくと処分される可能性があるからだと御手杵が言っていた。
     国の内情や政治の話は大典太にはわからないが、それがあると都合が悪い者が居るのだと言う事は理解した。
     寝息に乱れは無いが微かに歪められた目元と、布団の下で僅かに動いた腕に大典太は一瞬息を詰め、それ以上の動きが無い事を確認してからゆうるりと息を吐く。
     浅い眠りで外界の音に反応しているのか、或いは夢を見ているのか。
     そう、と枕元を離れ用意していた香を焚く。
     塗布した薬の方が匂いが強いため正直なところ気休め程度にしかならないが、少しでも深く眠れるようにとやれる事はやっておきたいのだ。
     じわり、と滲んでいる汗は気になるが、拭うのは鬼丸が起きてからだな、と大典太は再度椅子に座り本を手に取った。

     ――どちらを向いても酷い有様だった。
     人。
     人であった者。
     魔物。
     肉塊。
     動く者はひとつとしてなく。
     血臭。
     異臭。
     死臭。
     腐臭。
     これらが辺りからするのか自分からするのかすら、もはやわからなかった。
     最後まで背を向ける事無く戦い続けた騎士達を弔おうにも、この死体の山から人のみを選別するのは不可能に近かった。
     だから全てを焼き尽くしたのだ。
     血も、肉も、骨も、灰も残らぬほどに。
     朝から晩まで延々と。
     何日も、何日も。
     城に残っていた食料が底をつけば魔物を食べた。
     生き延びる事が第一だった。
     だが、人である事を忘れたくは無かった。
     髭が伸びれば剃り、髪が伸びれば切った。
     僅かな時間でも書庫の書物を読んだ。
     それでも他者と会話をしなければ言語機能は衰える。
    『古城の怪物』を退治に来た者たちは端から話をする気など無く、一方的に襲いかかってきた為、やむなく返り討ちにした。
     御手杵とは結果的に会話は成立したが、彼の訛り云々以前に自分自身が他者との話し方を思い出せず、咄嗟に言葉の組み立てが出来なかったのだ。
     日用品が身の回りに増えるにつれ、人であり続けようと出来うる限りの事はしてきたつもりだったが、殺気だったギラギラした目と不揃いに乱れた髪、そして頭部から生えた角といった見た目では、怪物扱いされても仕方が無いと思ったものだ。
     わかっているのだ。
     バルコニーの片隅で剣を抱えまんじりともせず、ただひたすらに魔物を斬り続けてきた者が、発狂もせず理性を保ったまま何十年も生き長らえている者が、人であるはずが無いのだと。
     一期や乱たちは呪いを解く方法を探していると言っていたが、正直どうでもいい事であったため話半分に聞いていた。
     人からかけ離れたこの身であるからこそ、己の手で始末がつけられるのだ。呪いを解く理由がないのだ。
     今更、人と共に生きられるとは到底思えないし、生きようとも思わない。
     御手杵も、一期も、乱も、この姿を目にした瞬間、ほんの僅かではあったがその瞳に恐怖が走ったのだ。
     それが普通の反応だとわかっていたから、特に何も思う所は無かった。
     だというのに、大典太は、大典太が見せたのは驚愕だけであった。
     碌な扱いをしなかったにも関わらず、律儀に礼を言いにやってきた時は妙な男としか思わなかった。
     物珍しさで何度もやってきてるだけだと思っていた。
     一目惚れなど、方便だと思っていた――


     がばり、と前触れ無く跳ね起きた鬼丸は素早く首を巡らせながら、手は剣を求めてベッドの上を何度も往復した。
     だが、当然の事ながら手の届く範囲に剣はなく、驚きで固まっている大典太の胸座を反射的に掴み、剣はどこだ、と口早に問い詰める。
     その切羽詰まった様子に大典太は更に身を固くし、鬼丸は荒い口調で悪態を吐きながら突き飛ばすように大典太から手を離した。
    「あぁ、くそ、どうして……」
     迷う事無くベッドから降りようとする鬼丸を目にし、はっ、と大典太は我を取り戻す。
    「まだ動くな」
    「うるさい! おれは、なんで、くそ……っ」
     肩を掴んで無理矢理ベッドに戻そうとする大典太に抗いながら、鬼丸は錯乱したかのように声を荒げる。
    「眠ってはダメなんだ! おれが眠ったら……!!」
    「落ち着け大丈夫だ! 何も無かった!! 警報も鳴っていないだろう!?」
     振り回される腕を押さえ込むように強く抱き締めながら大典太が声を張れば、鬼丸は荒い呼吸を繰り返しながら探るように再度首を巡らせた。
    「立て続けに召喚陣が現れる事は無いんだろう?」
    「……だが」
     絶対ではないと言いたげな鬼丸は落ち着かない様子で、大典太の腕から抜け出そうと身動いでいる。
    「それに、人は眠るものだ。あんたが眠るのはなんらおかしな事じゃ無い」
     ぽんぽん、と宥めるように背中を叩きながら大典太が囁けば、ぴたり、と鬼丸の動きが止まった。
    「……人、だと? お前はおれを、人だと言うのか?」
    「人だろう? 俺はこれまであんたの事を人以外の何物でも無いと、思って……接していたんだが……」
     徐々に弱々しくなっていく声音と共に項垂れてしまった大典太から、なにも伝わっていなかったのか、と泣きそうな呟きが零れ出た。
     鬼丸の肩に顎を乗せ、すん……、と鼻を鳴らす大典太がさすがに哀れに思えたか、鬼丸は天を仰いでから、あー……、と低く呻いた。
    「お前のせいで昔の事を夢に見た。最悪な気分だ……」
     言葉に反して柔く回された腕が大典太の背に触れる。
    「本当に、なんなんだお前は。おれの事など放っておけばいいだろう」
    「言っただろう。俺はあんたの事が好きなんだ」
     ぎゅう、と縋るように抱き締めてくる大典太の宵闇色の髪を、ちら、と横目に見やり、鬼丸はゆるゆると息を吐いた。
    「知らんな」
     う……、と小さく漏らした大典太は悲しみに打ちひしがれ、言葉も出てこない。
    「一目惚れだとは聞いたが、それ以外は知らん」
    「……それはあまりにも意地が悪いぞ」
     淡々と続けられた鬼丸の言葉に大典太はのろのろと顔を上げ、じとり、と石榴の瞳を正面から見据えた。
     だが、全く意に介していない鬼丸の様子に、がくり、と肩を落とし、大典太は諦めたように傍らの桶に手を伸ばす。
    「起きたならちょうどいい。一度汗を拭いておこう」
     それはそれ、これはこれと割り切ったか、黙々と手を動かす大典太を鬼丸はただ見つめるだけだ。
     そして、一度眠ってしまえば二度眠るのも同じだろうと言葉巧みに丸め込まれ、残りの鎮痛薬を飲み干した鬼丸は黙って目を閉じた。
     すぐに眠気は来ないだろう事はわかっているので、大典太は床に落ちた本を拾い上げながら、あんたがくれた風見鶏だが、と静かに話し始める。
    「俺が寝ている間にわざわざ魔法を付与してくれたんだろう?」
     あの風見鶏には設定した場所を示す『案内』が付与されており、更には『魔物避け』も付与されていた。
     ひとつの品に複数の魔法付与は高度な技術を要する。数が増えるほど魔法が干渉し合わないよう術式の複雑さも増す。
    「もうひとつ、俺には解読出来なかったんだが、『代わり身』も付与してくれたんじゃないのか?」
     御手杵が持ちかけていた護符の話を聞いた時から、もしかして、と思っていたのだ。
    「……勝手に来た奴がどうなろうと、おれの知った事では無いが……」
     気怠げに開かれた唇から流れ出るのはこれまで同様にべもない言葉だが、途切れたそれに大典太は怪訝に眉を寄せる。
     言い方に気を遣う男では無い事はこれまでの言動でわかっている。
     話術に長けた男では無い事も。
     ならば恐らく思考の整理をしながら相応しい言葉を探しているのだろう。
    「……一度見た顔が死体になるのは、さすがに気分が悪い」
    『代わり身』は即死以外の致命傷を一度だけ、付与したアイテムが肩代わりするのだ。
     その特殊性からこれが使える術士は身の安全を考慮してかなかなか表に出てこず、アイテム自体もそうおいそれと出回る物ではない。
     たまたま迷い込んだ者に対して、破格の対応であると鬼丸はわかっているのだろうか。
    「誰に対しても、そうなのかあんた」
    「おれを殺す気が無い奴だけだ」
     滅多に居ないがな……、と吐息交じりに漏らし、鬼丸は一度深く息を吐いた。
    「鬼丸」
    「……なんだ」
     一拍遅れての反応に対し、大典太も一拍遅れて口を開く。
    「……俺はあんたが好きだ。抱き締めたいし、キスもしたい」
     静かに歌うように紡がれたそれに対する鬼丸の返答は、小さく漏れ出る寝息であった。
     どのような言葉が返ってくるのか聞けなかったのは残念だが、大典太は今の状況には満足している。
     鬼丸の書き残していた眠気覚ましの処方やその他のメモ書きを見て、これが効くのであれば逆の効能である睡眠導入薬も作れるのではないかと思ったのだ。
     感覚を鈍らせる痛み止めとの相性も良かったため、思い切って調合して良かったと胸を撫で下ろす。
     ただ、鬼丸からすれば騙し討ちのような物だ。
     もし知られれば不評を買うどころでは無いだろう。
     二、三発殴られる事は覚悟しているが、蹴り出され二度と顔を見る事が出来なくなる可能性もある。
     この事は墓まで持って行こうとの決意を胸に秘め、大典太は眠る鬼丸の前髪を軽く払った。

     そろそろ日も落ちようかという時間になっても鬼丸は目を覚まさず、少しなら席を外しても大丈夫だと判断した大典太は廊下に出た。
     昼食は御手杵が寝室まで運んでくれた物を腹に収め、看病を代わってもらっている間に調薬も大急ぎで済ませた。
     包帯や換えの清潔な布も準備万端ではあるが、起きてすぐ喉を潤せるようハーブ水も作っておこうと思ったのだ。
    「だから、今はダメだって!」
     鬼丸の寝室から数えてふたつ先の部屋のドアノブを必死に掴み、片足を壁につけて踏ん張っている御手杵の姿に、大典太は、ぽかん、と言葉も出ない。
    「心配なのはわかるが、な!?」
    「――っ――!」
     扉向こうから微かに聞こえる声には覚えがあり、大典太は一瞬見なかった事にしようかとも思ったが放っておく訳にもいかず、諦めたように息を吐きながら御手杵に近づいた。
    「どうした」
    「おっ、いいところに来てくれた! あんたからも言ってやってくれよ。乱が鬼丸に会いたいって言ってるんだが、今はダメだって」
    「顔を見るだけだってば!」
     御手杵の全力にはあの細腕では叶わないのだろう。ドンドン、と内側から叩く音はすれども、ガチャ、とも鳴らないドアノブに目を落としてから大典太はゆっくりと口を開いた。
    「……駄目だ。ゆっくり寝かせてやってくれ」
     ぴたり、と止まった音に大典太と御手杵は顔を見合わせ、それでも扉を押さえる力を弱める事は無い。
    「眠ってるの……?」
     これまでとは打って変わった静かな声音に驚く間もなく、扉向こうから別の声が届く。
    「申し訳ありません御手杵殿! こら乱、だめじゃないか」
    「だっていちにい、鬼丸さんが怪我したんだよ。心配じゃないの」
    「……どうなってるんだ」
     向こうの会話を聞きながら、ひそ、と声を潜めて聞いてきた大典太に御手杵は困ったように眉尻を下げる。
    「いや、なにかあったら報告しろって言われててな、それで一期のとこ行って話してたら乱が話の途中で飛び出しちまって……」
     慌てて追いかけ、かろうじて先に転移門のある部屋に飛び込んだ御手杵が、乱がこちら側にくるのを阻止している場面に大典太は出くわしたという訳だ。
    「大変失礼しました。明日、改めてお伺いしてよろしいですかな?」
     問いではあるが第一王子の言葉に逆らえる訳もなく。
     それでも御手杵は大典太に伺いを立てるように首を傾げて見せる。
    「……朝一で来るのは控えてほしい」
     そう大典太が答えれば、御手杵以外の声がした事に驚いたか、一瞬息を飲む気配はあったものの、一期は落ち着いた様子で「わかりました」と応じた。
    「大典太殿、でしたな。鬼丸殿の為にご尽力頂き感謝の言葉もありません」
    「俺は俺に出来る事をしただけだ。なにも特別な事はしていない」
     当たり前の事をしただけだと言い切った大典太に、一期がどのような顔をしたのかはわからない。
    「なるほど。謝礼の話をするのは無粋という事ですな」
     本気か冗談か、笑み混じりの声から察するに悪印象は抱かなかったようだ。
    「それじゃ明日は昼過ぎに来てくれよ」
    「えぇわかりました。なにか入り用な物はありますか?」
    「そうだな、あの牛乳と卵で出来た甘いやつがいい」
     プリンだったか? と確認する御手杵の様子からして冗談で言ってる訳ではないらしい。てっきり包帯やら手当に必要な物を持ってきて貰うのだと思っていた大典太は、驚いた顔を隠しもせず御手杵を凝視する。
    「新鮮な果物もあるといいな」
    「わかりました。用意しましょう」
     それでは明日、と話を終わらせた一期がまず扉から離れ、続いて乱も踵を返したようだが、五歩進んだところで不意に戻ってくる足音がした。
    「大典太さん、ありがとね」
     それだけを口早に告げるや、ぱたぱた、と足音が遠ざかって行く。
     先ほど物凄い剣幕で扉を連打していた人物とは思えないしおらしい声に、大典太は困惑も露わに御手杵と顔を見合わせた。
    「……一気に疲れたな」
    「明日は王子様と会うんだ。もっと疲れるぞ」
     互いに、はー……、と溜息をつき同時に肩を落とした。

     水の中を揺蕩うような微睡みから、すぅ、と意識が浮上し、鬼丸は細い息と共に瞼を持ち上げた。
     明かりの灯っていない室内は暗く沈んでおり、カーテンの引かれていない窓から頼りなく届く月明かりが、かろうじて物の輪郭を浮かび上がらせている。
     のそり、と身を起こし首を巡らせるも大典太の姿は無い。
     しくり、と微かに胸が痛んだ気がしたが、深く考える事はせずベッドから降りた。
     鬼丸の動きに合わせて空気が動き、ふわり、と鼻腔を擽った香りに足が止まる。
     それの正体は改めて探るまでもなく、大典太が焚いた香であることはわかっている。
     初めて嗅ぐ匂いでもない。
     だが、鬼丸は今、初めて、それを意識したのだ。
     心地の良い香りだと、初めて認識したのだ。
     自身の変化に驚愕し、理由を考えれば、答えはひとつしかなかった。
     これまで人でありたいと、人である事を忘れたくはないのだと思う反面、既に人ではないのだと諦めていた。
     それなのに大典太は異形の男を人だと言ったのだ。
     無意識に奥底へと沈めていた感情が、ほんの僅かな隙間を見つけ這い出ようとしている。
     ぶるり、と知らず鬼丸の身体が震えた。
     人々に愛されていた日々を、愛を持って触れてくる手のぬくもりを、失ってしまったそれらを恋しく思い、焦がれているのだと自覚してしまったのだ。
    『俺はあんたが好きだ。抱き締めたいし、キスもしたい』
     大典太の言葉を思い出し、ゆるゆる、と首を振る。
     純粋な好意を向けてくる大典太と同じ気持ちを抱けるかはわからない。だが、彼と共に過ごしてもいいと思い始めているのは、紛れもない事実であった。
     ひとしきり思考を巡らせたところで、鬼丸は本来の目的を思い出し書き物机へと足を向ける。
     御手杵との約束の品がこのままでは数を揃えられないのだ。
     体力、魔力共に万全では無い今、作成速度が格段に落ちるだろう事は目に見えている。
     ランプに火を入れ、引き出した椅子に腰を下ろした。
     術式を図形化した陣の描かれた紙の上に付与対象である素材を置き、集中するため目を閉じる。
     陣の端に触れ、指先から魔力をゆっくりと一定の速度で流していく。全体に行き渡った後も魔力は絶やさず、術式が素材に刻み込まれていくのを感じ取りながら、流す量を調整する。
     すぅ、と一筋、汗が頬を滑り、顎先から落ちていく。
     ちりちり、とこめかみの辺りが焦げ付くような感覚はいつもの事だ。
     仄かな光を発していた陣が徐々に光量を落とし、やがて消えた。
     ふぅ……、と詰めていた息を吐き出した途端、ぶわり、と全身から汗が噴き出す。
     いつも以上に激しく内側から胸を叩く鼓動と揺らぐ視界に、鬼丸は背もたれに寄りかかりながら天を仰いだ。
     さすがにこれは……、と顔を顰めたその時、ノックもなしに扉が開いた。
     上向いたまま顔を傾ければ、そこにはトレイを手にした大典太の姿があった。大方、夕食を持ってきたのだろうと鬼丸が立ち上がれば、大典太の表情が驚愕から、きりきり、と眉を吊り上げたものへと変貌を遂げる。
    「どうした」
    「なにをしているんだあんたは!」
     鬼丸の声に被ったのは初めて聞く大典太の怒鳴り声であった。
     さすがにトレイを投げ出すような事はしなかったが、荒々しい足取りで近づいて来た大典太に対し、鬼丸は一瞬目を丸くしたがすぐに平素通りの感情の見えない表情に変わる。
     このような時でさえも書き物机に音もなくトレイを置いた大典太に感心しつつ、鬼丸は間近に迫った手を避ける事はあえてしなかった。
     両頬を固定され、ぐっ、と顔が寄せられる。
     ランプの炎に照らされ陰影の強調された大典太の表情は、これまで見た事が無いほどに険しい。
    「頼まれた品を作っていただけだ」
     遅まきながら鬼丸が先の問いに答えれば、頬を押さえている手に力が籠もった。
    「それは、今やらなければならない事なのか」
     光量が足りない中でもわかる程に、鬼丸の顔色は優れない。元から白いそれが今は蝋のように白く、生気すら失っているのだ。
    「あんたが義理堅く真面目なのはわかった。だが、自分自身が今どういう状態なのかを考えてくれ」
    「お前には……」
     関係ないだろう、と続くはずであった言葉は音にならなかった。
     くしゃり、と歪んだ大典太の顔を見た瞬間、意識せぬまま唇が動きを止めたのだ。
    「頼むから……自分を大事にしてくれ」
     心配させないでくれ、と言いかけるも大典太はそれを寸でで飲み込んだ。
     これはあくまで自分の不安から来る要望であって、相手に押しつける物ではないと思ったからだ。
     じぃ、と互いに瞬きひとつせず見つめ合う。
    「……心配、させたか……?」
     ぽつり、零れ出た思わぬ言葉に大典太の目が大きく開いた。
     探るような、確認するような声は小さく、鬼丸がそれを発したのだと脳が理解するのに数拍を要した。
    「あぁ、あんたになにかあったらと思ったら、生きた心地がしないくらいには心配している」
     するする、と言葉を紡ぐ大典太の真摯な眼差しを受け、じわり、と胸に広がる温かでむず痒いそれに戸惑いつつ、鬼丸は僅かに目線を下げ、そっ、と瞼を伏せた。
    「……すまなかった」
     短くも口にした素直な気持ちは、すとん、と収まるべくして収まった感覚があった。
     本人は気づいていないが鬼丸の口元には自然と笑みが浮かんでいる。
     その柔らかな面差しに大典太の胸は大きく高鳴り、吸い寄せられるように顔を寄せていく。
     怪我の具合を確認した時と同じ距離であるにも関わらず、あの時とは違い大典太の頬は知らず紅潮している。
     僅かに顔の角度を変えれば唇同士が触れるといったその時、開いたままの扉が、コンコン、と叩かれた。
     はっ、とふたり揃って同じ方向を見れば、一体いつから居たのかトレイを持った御手杵が呆れと気まずさの入り交じった顔で立っていた。
    「野暮なのはわかってるが、今は勘弁してくれ」
     俺も来ること忘れてただろ、と御手杵が大典太に向かって言えば、図星であったか申し訳なさそうに目を逸らし、すまん、と小さく詫びた。
     ふたつのトレイに載った三人分の食事はひとまず置いておき、御手杵は卓上を一瞥してから、はぁ、と溜息をつく。
    「急かした俺も悪かった。すまん」
    「約束は約束だ」
    「いくつ出来てる?」
     鬼丸を椅子に座らせてから御手杵は改めて進捗を確認する。
    「これを含めて二十三だ」
     一日五個だと言っていたがそれでは計算が合わない。どうやら少々前倒しで作業していたようだ。
    「そうか。今回はこれで十分だ。ありがとな」
     思いも掛けぬ言葉に鬼丸は驚きを隠しもしない顔で御手杵を見た。
    「三十必要なんだろう? それでは取引が成立しないじゃないか」
    「いいんだよ。むしろ多いくらいだ。言った数をほいほい用意出来ると思われるのも、この先を考えたら良くないからな」
    「しかし……」
     言い淀む鬼丸の心情を察したか、御手杵は、からから、と笑う。
    「大丈夫だって。俺の信用が落ちたりはしねぇよ。むしろこれだけ揃えられるのは俺しか居ないって、株が上がるだろうな」
     それでも納得のいかない顔をしている鬼丸に、今度は大典太が口を開いた。
    「それだけ希少価値が高いという事だ。他の国でもなかなか出回らない類いの物だが、この国では更に貴重な物だ」
    「近隣諸国と比べてもこの国は魔術士が少ないんだよ。魔術ギルドが余所より劣ってるのはそのせいだな」
     今現在、魔術士が少ない事と過去に王宮魔術師が中心となって起こした謀反は、決して無関係では無いだろう。
     当時は迫害とまでは行かずとも、冷遇されていたと考えてもおかしくない。
    「なかなか手に入らないからこそ、価値という物は上がるんだ」
    「毎回注文通りに行くと思ったら大間違いだって、最初にわからせるのも大事なんだよ。人なんてありがたみを忘れてすぐ調子に乗るからな」
     他国の者が揃ってそう言うのであれば、納得するしかない。ふたりは鬼丸よりも外の事情に詳しく、なにより今の時代を生きている者たちなのだ。
    「だから無理しないで今は怪我を治す事だけ考えてくれ」
     それに、と御手杵はどこか気の毒そうな顔で鬼丸を見る。
    「明日、一期たちが来るから、その……いろいろと頑張れ」
     一瞬にして渋面になった鬼丸は恨めしそうに御手杵を睨め付け、くそ、と悪態をひとつ吐いた。
     お加減はいかがですか、と柔和な笑みと共に問われ、鬼丸は、どうということはない、と返す。
     しかし未だ顔の左半分は包帯で覆われており、手首から見え隠れする包帯に一期は何か言いたげにうっすらと口を開くも、それは直ぐさま閉じられた。
     ベッドの左右に用意された椅子に腰を下ろした一期の向かいには大典太が、乱の向かいには御手杵が居る。
     てっきり明るい声と共に飛び込んでくるものとばかり思っていた乱は、御手杵の予想に反してずっとだんまりを決め込んでおり、昨日お願いしたプリンと果物を差し出してきたのは一期であった。
     昼食も済んでおり食後のデザートにちょうどいいだろうと、まずはそれを頂こうと言うことになったのだった。
    「昨日は扉越しに失礼致しました。大典太殿、でよろしいですかな? 私は……」
    「さすがに知っている。この国の第一王子と直接言葉を交わせるとは、恐れ多いことだ」
     一度、深々と頭を下げてから大典太は真っ直ぐに相手を見やる。
    「大典太光世だ。薬師をやっている。此所へはたまたま迷い込んで、鬼丸と知り合った」
    「左様でしたか。乱から少し聞いていましたが……」
    「大典太さん!」
     和やかに進んでいたふたりの会話に割り込むように上がった声に、何事かと全員の視線が乱へと注がれる。
    「最初にはっきり言うね! ボク、すっごくくやしいんだよ!!」
     きゅっ、と眉根を寄せ、ともすれば泣き出すのではないかと思わせる悲痛な表情に、無礼を窘めることも忘れ、一期は驚いた顔で隣の弟を凝視した。
    「突然来て鬼丸さんを困らせて、でも鬼丸さんは大典太さんを追い返さないし。ずっとずっとボクたちがお世話してきたのに、ボクたちじゃ出来なかったことが大典太さんには出来たんだって思ったら、すっごくすっごくくやしくて……ッ!」
     膝上で握り締めた拳を小さく震わせながら、乱はそれでも真っ直ぐに大典太を見据える。
    「……あぁ、そっか。どこの馬の骨とも知れん奴に、横から鬼丸をかっ攫われたようなモンだしなぁ」
    「御手杵さん言い方! でも大体合ってる!!」
    「それは……すまなかった」
     初対面の時の反応を思い返し、大典太は素直に詫びの言葉を口にする。
     彼がどれだけ鬼丸の事を慕い、心を割き、心配しているのか、少し考えればわかった事だ。今も警戒されていても仕方の無い事だ。
    「でもね、感謝もしてるんだ。やっと眠る事が出来たんでしょ、鬼丸さん」
    「……あぁ」
     経緯はさておき事実には違いなく鬼丸が首肯すれば、乱ははにかみながら、良かった、と小さく漏らした。
    「だから、すぐには無理だけど、大典太さんと仲良くなれるようにボク頑張るね」
     決して嫌っている訳ではないのだと、ただ今は気持ちの整理がつかないのだと、わだかまりを残さぬ為に、乱は包み隠さず正直に明かしたのだ。
    「鬼丸さんが選んだ人なら、悪い人じゃ無いだろうし」
    「何を言っている? 選んだ……?」
     乱の発言に困惑の声を上げた鬼丸だが、直ぐさま向けられた無垢な瞳に、ぐぅ、と喉奥で低く呻く。
    「気付いてないの? 今の鬼丸さん、すごく優しい顔してるよ?」
     数日ぶりに会った乱だからこそ、その変化に気付いたのだろう。
     表情だけではなく醸し出す雰囲気そのものが変わったのだと。
     とても『人間らしさ』を感じるようになったのだと。
     彼をそうしたのは間違いなく大典太の存在あってこそなのだと。
     やっぱりちょっとくやしいなぁ、と乱は笑みを浮かべながら胸中でこっそり呟いた。
    「お前の気持ちはよくわかった。でも話を遮るのは良くない事だと、わかるだろう?」
    「はーい、ごめんなさい。いちにい、大典太さん」
     自分の負の感情を明かすのには勇気がいるだろう。勢いに任せなければ言い出せないかも知れない。それを理解しているからか、一期は強い口調で窘める事はしなかった。
    「こちらが話を中断させておいてなんですが、どうぞ食べながら聞いてください」
     申し訳なさそうに勧めてくる一期に、なら遠慮無く、と御手杵が木箱の蓋を開ければ、ひやり、とした冷気が流れ出る。
    「うぉ、わざわざ術式組んだのかよ!?」
    「だっておいしく食べて貰いたかったんだもん」
     冷気を発する箱の中に鎮座するプリンを、うへぇ……、と見下ろす御手杵の隣では、大典太も驚いた顔をしており、ふたりの反応が不可解であるのか鬼丸の片眉が僅かに上がった。
    「そんな物、珍しくも無いだろう」
    「ばっか、何言ってんだ!? 冷気を発生させ続ける箱だぞ!? そんな便利な物が容易に手に入るなら、俺みたいな商人が使ってない訳ないだろうが!」
     御手杵が新鮮な果物を一期に頼んだのはこれが理由だ。鮮度を保ったまま輸送する術が一般的には無いに等しいのだ。
    「鬼丸さんに借りた魔術書とおりにやってみたけど、ボクじゃ一時間くらいしか効果が持続しないんだ」
    「魔法に関しては鬼丸殿の時代では普通であった物が、残念な事に今は普通では無いのです」
     昨晩ふたりから聞いてはいたが、改めてこの国の人間である一期の口からそう言われてしまっては、鬼丸はただただ、そうか、としか言い様がない。
    「……必要なら、作ってやらん事もないが……」
    「いやいやいや! そんな大金、払える訳ないって」
     御手杵が即座に首を横に振った理由に鬼丸は首を傾げる。
    「誰も金の話はしていないぞ」
    「あのなぁ、俺だって欲しくない訳じゃないんだ。でも無償でほいほい作っていいモンじゃないんだよ。あんたの作る物には価値があるんだって、自覚してくれよ」
     はー……、と疲れ切った溜息をひとつ吐き、不意に天然発揮するのほんとカンベンしてくれよなぁ、とぼやきながら御手杵はようやっとプリンを取り出した。
     深く考える事無くそれを木の匙と共に隣に居る大典太へと渡せば、彼は当然の顔で自分の椅子をベッドへと更に近づけ、掬ったプリンを鬼丸の口元へと運ぶ。
     突然の事に、ぎょっ、となったのは一期と乱だ。
     だが、さらなる衝撃が待っているなど、思いもしなかっただろう。
     ぱかり、と開いたのだ。鬼丸の口が。
     親鳥がせっせと雛鳥に給餌するがごとく、一定の速度で淀みなくスプーンは器と鬼丸の間を往復する。
     その光景を昨晩、嫌というほど目の当たりにした御手杵は、今更言う事は無いのだろう。素知らぬ顔で自分の分を取り出し、ぱたん、と箱の蓋を閉じた。
     一期も乱も目の前で巻き起こっている信じがたい状況に動揺するも、先程から話が脇道へ逸れてしまっている為、あえて触れる事はせずにいこうと決めたようだ。
    「外周部の警備団配置は予定より少々遅れていますが、計画はきちんと進行しています」
    「仮に魔物が出なくなったとしても、災害時の対応や街道での事故なんかも起こるしな」
    「えぇ、近くに抑止力があるのと無いのとでは、犯罪発生率も変わりますから」
     街道は森を迂回するように設けられている為、長距離移動を余儀なく無くされる。
     中には過去の御手杵のように危険を承知で森を横断する者や、大典太のように迷い込んでしまう者も居る。
     村や町といった人の流入が頻繁な場所ばかりではなく、人とすれ違う事すら稀な区域も存在するのだ。
    「鬼丸殿の負担を少しでも減らす為に、一日でも早く配備が完了するよう尽力いたします」
    「無理はするな。強引に事を進めてお前の立場を悪くしては……」
    「以前も言った通り、私は貴方に報いたいのです」
     にこり、と人好きのする笑顔を見せる一期だが、その笑みからは決して譲らぬと言う強い意志がひしひしと感じられる。
     こうなっては何を言っても無駄とわかっている鬼丸は不要な問答はせず、そうか、とだけ返した。
    「召喚陣については観測班からデータを見せて貰いましたが、全体的に縮小傾向にあります。それに伴い出現する魔物も小型化傾向にあると報告を受けましたが、その点はいかがですか?」
    「……そうだな。稀に大型も現れるが」
     出現記録が必要ならあとで持って行け、と鬼丸は視線だけで書き物机を示す。
    「魔物の種類はいつも通り俺の買い取り一覧でいいよな?」
    「ありがとうございます」
     話の合間合間に差し挟まれていた給餌に怯む事無く、一期は礼と共に軽く頭を下げ、次の話を切り出そうとしたが、瞼を伏せた鬼丸に気付き開きかけた口を閉じた。
    「鬼丸さん、疲れちゃった?」
    「いや……」
    「無理をするな。昨晩はひとりで食事も出来ないくらい消耗していただろう?」
     大典太からすれば悪気の欠片も無い、むしろ鬼丸を思っての言葉だ。しかし鬼丸からすれば、余計な事を、と悪態のひとつもつきたいところだ。
     一度世話をされてしまえば二度も三度も同じ事だと、割り切るのは早かった鬼丸だが、その背景をふたりに知られたくないという気持ちはあるのだろう。
    「なんと!? 配慮が足らず申し訳ありません鬼丸殿!」
     勢いよく頭を下げたかと思えば慌てて立ち上がろうとする一期を、いいから、と制し、鬼丸は深々と息を吐いた後、続けろ、と促した。
    「次にいつ来られるかわからないのだろう?」
     今日の訪問もかなりの無理を通している事くらい、考えずともわかる。思いつきで即行動出来る立場の人間では無いのだ。
    「……わかりました。ですが、お辛くなったらすぐに言ってください」
     念を押してからきちんと座り直し一期は真っ直ぐに鬼丸を見るも、どこか悲痛さが滲んだ表情は隠し切れていない。
    「鬼丸殿の呪いを解く方法は、未だ見つかっておりません」
    「そうか」
     何度目の報告になるのか大典太には知るよしも無いが、鬼丸の凪いだ声から察するに彼はそもそも期待していないのだろう。
    「ですが、必ず、必ず見つけて見せます! 私の代では見つからずとも、私の子が絶対に……ッ!!」
    「おい、やめろ。これ以上過去の負債を背負わせる気は無いぞ」
     一期の発言は予想外であったか鬼丸は反射的に身を乗り出しかけ、揺らいだ身体を咄嗟に大典太が抱き留めた。
    「ならば、私の代でどうにかしなくてはなりませんな」
    「ボクもがんばるからね。呪いが解けたら町の人たちに大々的にお披露目して、この国を守ってくれた人なんだよって皆に知って貰うんだ」
     明るい未来を思い描き、えへへ、と楽しそうに笑う乱の隣では、一期も目を細め、うんうん、と小さく頷いている。
    「そうしたらずっとここでひとりって訳にもいかないよな?」
     そっちの城に引っ越しか? と御手杵もふたりの話に加わり、ぱぁっ、と乱の顔が輝かんばかりに綻んだ。
    「お部屋はボクの隣ね!」
    「役職もあった方が良いですな。知識も実力も他の追随を許さぬ鬼丸殿でしたら、魔術指南役など適任かと」
    「待て、勝手に話を進めるな」
     大典太に身を委ねたまま鬼丸は、ふー……、と静かに息を吐き、ゆうるり、とその面を上げた。
    「おれはここを出て行く気はない」
     この城で生まれ、育ち、今日まで守ってきた。
     冒険者たちに「おれの城」だと言い切ってしまう程に、思い出も愛着もあるこの地を離れるなど、あり得ないのだと。
     ここ以外に骨を埋める気は無いのだと、言葉は無くとも鬼丸の瞳は雄弁に語っている。
    「それに、呪いを解いた時点で、おれは死ぬ」
     淡々と発せられた内容が瞬時に理解出来なかったか、誰しもが鬼丸を凝視したまま身動ぎひとつしない。
    「人としてのおれは、呪いを受けたあの時に終わっている。呪いを解けばこの身は塵となり、跡形も無くなるだろうな」
     ぎゅぅ、と身体に回された腕に力が籠もったが、鬼丸は一切気にせず一期を見据えた。
    「そ、んな事、今まで一言も……」
    「言う必要もなかろうよ」
    「私は……貴方を殺す方法を、探していた、と……?」
     一瞬にして青冷め、震える声で問うてくる一期に、そうなるのか、と鬼丸は他人事のように呟く。
    「役目を果たせば、おれもいい加減『終わって』いいだろう?」
     約百年間、身を粉にして戦い続けた男の、偽らざる本音に誰が否やを唱えられようか。
    「その方法を見つけてくれたのなら、喜び感謝するだろう。だが……」
     これまで訥々と抑揚無く言葉を紡いでいた鬼丸の口が、ふと止まった。
    「今は、こいつが生きている間は、おれも生きていていいかと、思っている」
     震える腕を、ぽん、と叩き、鬼丸は、勝手を言ってすまんな、と控えめに、だが確かに柔く笑んだのだった。

     一期たちは城へ戻り、鬼丸の包帯を換え、ようやっと一段落ついた大典太はひとつ残っていたプリンを手に、はー……、と細い息を吐いた。
     もそもそ、とスプーンを口へと運びながら先程のことを思い返し、怒濤の時間だった……、とやや目が遠くなる。
     鬼丸の発言を皮切りに、話の矛先が大典太へと向いたのだ。
     一期が「ならば大典太殿には護衛をつけなければ」と言い出した時は、正気か!? と王子相手に無礼な事を言いそうになったが、どうにか耐えた。
     しかし、そんな大袈裟な、と思わず漏れ出た心の声は、何を仰いますか、と真顔で返されてしまった。
     御身には鬼丸殿の生死がかかっているのですぞ、と続けられ、更には、騎士団を動かす訳にはいきませんが私直属の兵なら、と言い出した一期には鬼丸も、無茶を言うな、と釘を刺していた。
     兄の勢いにさすがの乱も少々気圧されていたが、何らかの方法で大典太の身の安全を図ることには賛成のようだった。
     あちこち旅をしている大典太は確かに、一所に身を落ち着けている者と比べれば危険と遭遇する確率は高いだろう。
     だからと言って四六時中監視されるような生活は苦痛以外の何物でも無い。
     収拾がつかないと思われたその時、じっ、と黙り込んでいた御手杵がおもむろに口を開いたのだ。
    「だったらここに住んじまえよ」
     彼曰く、大典太が旅をしている理由が文献や薬の材料になりそうな物を探しているというのであれば、この城にある本を片っ端から読めばいいじゃねぇか、との事であった。
     薬の材料もこの広い森を虱潰しに探せばなにかあるかもしれないだろ、と続けられた言葉に、ですが……、と一期が険しい顔を見せれば、おれが一緒に行けば問題ない、と鬼丸が言い切った事により決着となったのだった。
    「随分と疲れてるじゃないか」
    「……あんたが死を仄めかすからこんな事になったんだぞ」
     鬼丸の声で回想から引き戻された大典太が、じとり、と恨めしげな眼差しを向ければ、原因となった男は枕に頭を沈めたまま、それは悪かったな、と全く気持ちのこもっていない言葉を返してきた。
    「そう言えばあんた、王子に何か言っていたな」
     話が済み立ち上がった一期を手招きし耳を寄せさせた為、彼が何を言ったのか他の者には聞こえなかったのだ。
    「なに、心配の種を減らしてやろうと思ってな。おれがまじないをかけるから大丈夫だと、そう言った」
    「まじない?」
     俺にか? と大典太が問うように僅かに首を傾げれば、そうだ、と即答された。
    「だが、今は無理だ」
     魔力が足りん、とあっさり言ってのけた鬼丸に、そうか、と返し、大典太は柔く甘い塊を口に含む。
     理由を誤魔化さずに素直に打ち明けてきたと言う事は、昨晩、無理をして大典太に心配させた事を気にしているのだろう。
     ほろほろ、と硬い外皮が剥がれ落ちて、中に詰まった柔く甘い物が顔を覗かせていることに、果たして鬼丸は気付いているのか。
     それを口に出来るのは自分だけなのだと、大典太は高鳴る胸に知らず唇が笑みの形を作る。
    「なんだ、にやにやして」
    「なに……美味いなと、そう思ってな」
     最後の一匙を鬼丸の口元へと持って行けば、疑いも躊躇いも無く口は開かれ、ちらり、と覗いた犬歯に触れてみたいと、不意に湧き上がった衝動を大典太が飲み込むのと同時に、鬼丸の喉も、こくん、と上下したのだった。
     一月ぶりに城を訪れた御手杵は荒れ果てていた元庭園の変わりように目を丸くしつつ、レンガの敷き直された道を通り扉前に馬車を止めた。
     破壊されたまま風化するに任せていた中央の噴水は撤去され、円を描くように作られた花壇には色取り取りの花が咲いている。
     他の場所も地均しされたのか瓦礫のひとつも落ちていない。
     視線を転ずればレンガで囲まれた一角があり、恐らく大典太が収集してきた薬草が植えられているのだろう。
     外観を気にする余裕が出来たのか、はたまた『古城の怪物』を退治に来る者から大典太を守る為か。
     どちらにせよこれなら廃城とは思われないだろう。
     うまいことやっていけてるんだなぁ、と御手杵は安堵の息を吐きながら扉を押し開け「来たぜー」と声を張った。
     特に急いだ様子も無く奥から現れたのは大典太だ。
    「あぁ、あんたか。待っていたぞ」
    「遅くなっちまって悪かったなー」
     ひとまず休ませてくれ、とわざとらしく腹を摩って見せた御手杵を伴い厨房へと向かう。定位置となった椅子に彼が腰掛けたのを横目に、大典太は「腸詰めとパンでいいか?」と言いながら、壁際に置かれた棚の扉を手前に引き開けた。
     途端、ひやり、と流れてきた冷気に御手杵は、うへぇ……、と脱力しきった声を漏らす。
    「本当に作ったのかよ」
     見覚えの無い棚だと思ってはいたが、まさか乱が作った箱を遙かに上回る大きさの『それ』だとはさすがに思わなかったのだ。
    「肉も野菜も保ちが良くなって助かっている」
    「あー、そうか。うん」
     鬼丸ひとりの時は腹が膨れれば良いという考えだった。大典太と過ごすようになって考えを改めたと思いたいが、恐らくそうではない。
     彼自身は今もそう思っているが、大典太には不自由な生活をさせたくないのだろう。
     ジュウジュウ、と音を立てながら焼かれる腸詰めから上がる香ばしい匂いに、御手杵の腹が、ぐぅ、と鳴る。
    「そうそう。あんたの入浴剤、評判いいぜ」
    「そうか」
     鬼丸に使っているのを見て、これは売れる、と思っていた事もあり、城から滅多に出る事の無い大典太に代わり、ここぞとばかりに御手杵が方々で売って回っているのだ。
    「頼んでおいた分は出来てるか?」
    「あぁ、後で持ってこよう」
     在庫が無くなってから戻ってきて注文すると、出来上がるまでここで足止めを食ってしまう。
     この問題をどうするかと頭を悩ませていた御手杵だが、話を聞いていた鬼丸が「少し待て」と言うや、目の前で作ったアイテムであっさり解決してしまい、今更ではあるがとんでもない男と知り合ったなと内心で震えている。
     大きさは掌ほどの金属の筒に、物品を入れれば対になっているもう一方の筒に転送されるといった、鬼丸曰く「転移門の下位互換である簡単な術式」だそうだ。
     これで予め必要な商品と個数を書いたメモを送っておけば、御手杵が到着する頃には用意が出来ているという訳だ。
     実際、広く活用されているアイテムではあるが、片手間にちょちょいと作れるような物ではないと、魔術士では無い御手杵でもそれくらいはわかる代物である。
     ちなみにそれなりに値も張る。
    「鬼丸とはうまくやれてるか?」
     四六時中誰かが鬼丸の近くに居るなど、これまでなかった事だ。無意識のうちに気を張り詰めてはいないかと、そこが心配であったのだ。
    「そう、だな……」
     コトリ、と御手杵の前に皿を置き、大典太も椅子に腰を下ろす。
     丸パンに入れられた切れ目に腸詰めがぎゅうぎゅうに詰められており、見た目は不格好ではあったが構わず齧りついた御手杵は、噛んだ瞬間、じゅわり、と溢れる肉汁と固いパンの相性の良さに満面の笑みを浮かべている。
    「嫌われてはいないと思う、んだが……」
     歯切れの悪い相手に、もご、と口を動かしながら御手杵が首を傾げれば、大典太はここで暮らすようになってからも、毎日欠かさず鬼丸の入浴時には付き添い、マッサージも続けていた事をまず告げた。
    「だが、ここ数日、断られる事が増えた」
     これまで通り服のボタンに手を掛けようとするも、すっ、と身を引かれ、ひとりで入る、と浴室から追い出されるようになった。
     そして、たまたま着替えているところに鉢合わせてしまった時は、さりげなさを装ってはいたが背を向け、クローゼットの扉の影に入ってしまったのだ。
    「なにか気に障る事をしてしまったんだろうか」
     しゅん、と見るからに萎れて肩を落としている大典太には申し訳ないが、御手杵は首を突っ込みたくない案件だと即座に察した。
     確証は何も無い。
     だが、おそらく鬼丸は大典太に対して肌を晒す事に羞恥を覚えたのだ。
     これが良いか悪いかはさておき。鬼丸が大典太を意識し始めているのは疑いようも無い。
    「あー、大丈夫じゃねぇかな」
    「そうだといいんだが……」
    「それ以外はいつも通りなんだろ? なら……」
    「まじないをかけてくれた時はあんなに間近で触れ合ったというのに……」
     気にする事は無い、と続くはずだった言葉を遮った大典太の呟きに対し御手杵は、なにやってんだあのやろう、と内心で頭を抱えたのだった。

     こつこつこつ、とノックを三回。
     これまで通り返答が無かろうと扉を開けるつもりで居た御手杵は、なんだ、と即座に寄越された声に正直驚いたのだ。
    「よぉ、商品を受け取りに来たぜ」
     顔を覗かせると同時に用件を述べれば、書き物机に向かっていた鬼丸は、ゆうるり、と顔を巡らせてから、お前か、と小さく漏らした。
    「ちゃんと返事するようになったんだな。これまではウンともスンとも言わなかったのによぉ」
     わざとらしく嘆いて見せれば鬼丸はどこかばつの悪い顔で視線を外し、あぁ、うん、と場を繋ぐように呟いてから、観念したように眉尻を下げる。
    「返事をするまで大典太がずっと部屋の前で待っていた事があってな……」
    「なるほど」
     あくまで想像でしか無いが、大典太は捨てられた子犬のような顔でずっと待っていたのだろう。いつまでも入って来ない事を怪訝に思いながら扉を開けた鬼丸は、一体どのような反応をしたのか。
     それを踏まえ、反省し、行動を改めたと言う事か。
    「大典太がここに住むのを了承したからには、譲歩しないとならない事もあるよなぁ」
     真面目くさった顔ではあるがそれが逆に嘘くさく、鬼丸は呆れたように、ふー……、と息を吐いた。
    「何度も言わせるな。あの時はそうでもしなければ、一期が納得しないと思ったからだ」
    「はいはい。そういう事にしといてやるよ」
     相も変わらず口実が無ければ素直になれない鬼丸に御手杵が、ははは、と笑えば、むっ、と口をへの字に引き結ぶも悪態が発せられる事は無かった。
    「……あー、それにちょっと関係してるかもしれない話なんだが」
     これまで流暢に動いていた御手杵の口が鈍くなり、鬼丸は怪訝に思うも相手を促しながらソファへと移動した。
     きちんと腰を据えて話を聞く体勢を取った鬼丸に内心で驚きつつも、御手杵は先程聞いた大典太の話をどう切り出すかと、そちらに意識の大半を割かれている。
    「俺だっていつでもお前らの中を取り持ってやれる訳じゃ無いから、できればふたりで解決して欲しいんだが」
     深いところに踏み込むぞ、と前置き代わりにそう言ってやれば、鬼丸は途端に表情を硬くし、何が言いたい、と低く問うてきた。
    「あんたの態度が目に見えて変わったから、大典太が気にしてる」
     出来るだけド直球な言葉を避けて説明するも心当たりが無いのか、鬼丸は怪訝に眉を寄せるだけだ。
    「あーもう、めんどくせぇ!」
     ガシガシ、と乱暴に髪を掻き回しながら御手杵が一声吠えれば、珍しく鬼丸の肩が跳ねた。
    「大典太に裸見られるの恥ずかしくなっちまったんだな!? そうだろ!?」
    「は!? 何言って!? は!?」
     ガタッ、と思わず立ち上がった鬼丸の上擦った声と態度に答えを得た御手杵は、わかったわかった、と頷いてから、うーん、と何事か考えるように腕を組んだ。
    「『まじない』ってのはなんの事だ?」
     一瞬にして赤く染まった鬼丸の目元と頬が、これまた一瞬にして色味が引いていく。
    「あいつから聞いたのか」
    「あんたが『まじない』をかけた事だけな。状況や内容は聞いていない」
     すとん、と腰を下ろした鬼丸は口元を隠すように手を当て、若干伏せた目で、じっ、と一点を凝視してから、ゆうるり、と顔を上げた。
    「厄除け、のような物だ」
     そう口にした刹那、ピッ、と鬼丸の指先に赤い筋が一筋走った。
     上げていた手を、そっ、と下ろし何食わぬ顔で指を隠すように握り込んだが、正面に座する御手杵が気付かぬ訳もなく。
    「おい、なんだ今の」
     途端に険しくなった眼差しに、どうでもいいだろう、と返すも、説明しろ、と強くはっきりと言葉にしてきた御手杵に引く気配は微塵も無かった。
    「……『代わり身』の亜種だ」
     ぽつり、と唐突に零されたのが『まじない』の内容だと瞬時に理解出来ず、御手杵は黙ったまま鬼丸の口が動くのを見ている。
    「あいつが負った怪我をおれが受けると言った物だ。それなら滅多な事じゃあいつは死なないだろう?」
     目的の為ならば手段を選ばないを清々しいほどに躊躇いなく実行する鬼丸に、御手杵は開いた口が塞がらない。
    「……で? そのまじないをかけるに当たって、あんた何したんだよ」
    「何、と言われても……」
     問いの意味が理解出来ず鬼丸が片眉を上げれば、御手杵が、あーもうっ! と再度吠えた。
    「大典太が『間近で触れ合った』とか意味深な事言ってたんだよ! ほんとなにしてんだよぉ!!」
    「おれとあいつを繋げないとならなかったからな。胸に描いた術式同士を重ねただけだ」
     互いの心臓の真上に描かれた術式は重なりひとつになる事で完成形となる。
     互いの指の間に入れた指先に力を込め、強く握り合う。
     僅かに身動ぐ大典太の耳元で「動くな」と囁き、呼吸を合わせ、心音を合わせ、巡る血潮と魔力を意識する。
     互いにうっすらと汗が滲み、触れた肌が吸い付く感覚が心地よかったと、ここまで思い返し、鬼丸は無意識のうちに、う……、と呻いた。
     大典太の事を意識し始めた今、あれはとんでもない事だったのではないかと、ようやっと自覚したのだ。
     かぁっ、と茹で上がった鬼丸を黙って眺めていた御手杵は、やれやれ、と内心で肩を竦める。
    「あとはふたりでどうにかしてくれよ」
    「……わかった」
     これ以上は首を突っ込まないと宣言した御手杵に、すまん、と一言詫び、鬼丸は静かに立ち上がった。
    「少し外す」
    「おぅ、行ってこい」
     何もかもお見通しの御手杵に、くそ、と照れ隠しか鬼丸が悪態を吐くも、快活な笑い声が返されるだけであった。

     薬の材料を刻んでいた大典太は、切ったと思った指が無事な事に首を傾げ、鬼丸はそんな大典太に『まじない』の内容をどう説明しようか、自分の態度が変わった理由をどう説明しようか考えながら彼の元へと向かう。
     ひとり残された御手杵は、鬼丸が『まじない』だと言ったそれは『呪い』と同じなのではないかと考える。
     だが、彼の事だ。
    「今更呪いがひとつ増えたところで、どうという事もない」
     と、あっさり言ってのけるのだろう。
     心優しい古城の怪物はひとりの迷い人から与えられた愛に、これからも不器用に応えていくのだろう。
     そしてこれらは多少の脚色を加えられ、物語として後世に語り継がれていくのだろう。
    「乱が喜んで……いや、ちょっと不満を言いながらも書いてくれそうだな」
     まだ見ぬ未来を思い描き、御手杵はひとり静かに微笑んだ。

    2024.10.13
    茶田智吉 Link Message Mute
    2024/10/13 3:34:36

    【刀剣】古城の怪物と迷い人【典鬼】

    #典鬼 #刀剣乱舞 #大典太光世 #鬼丸国綱 #腐向け #パラレル ##刀剣
    2024年3月から地味にえっくすに投げてたパラレルが完結したのでまとめて持ってきました。
    あなたは6時間以内に12RTされたら、古城に住む怪物と、そこに迷いこんだ青年の設定でプレゼントを送りあう茶田の典鬼の、漫画または小説を書きます。
    shindanmaker.com/293935

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