安心できる場所、それは…… 集団生活において健康に気を遣うのは大切なことだ。特にリックたちが暮らす刑務所のように数十人から成る大きなコミュニティーは感染症のリスクが高い。そのため一人ひとりの健康には特に気をつける必要がある。
その刑務所での暮らしの礎を築いた一人であるリックは今朝から体の火照りを自覚していた。額に手を当ててみても熱があるようには感じられないのだが、体の内側に熱が籠もっているのは確かだった。風邪を引いているといけないので幼いジュディスの世話を長男であるカールに任せて、一通りの仕事を片付けてからハーシェルの部屋となっている監房に顔を出す。
「ハーシェル、体温計を借りたいんだが構わないか?」
リックの頼み事の内容を聞いたハーシェルが眉間にしわを寄せて近づいてくると、乾燥気味の掌がリックの額に触れた。
「体調が悪いのか?熱はなさそうだが……」
「朝から体が火照るんだ。熱はないと思うが、一応な。」
「そうか。そこに座りなさい。」
リックはハーシェルからベッドに座るように促されたので監房内の粗末なベッドに腰を下ろす。そして差し出された水銀体温計を脇に挟んだ。
ハーシェルは机に置かれた砂時計を引っくり返してから椅子に座ってこちらを見る。
「体の火照り以外に普段と違うところは?」
その質問にリックは首を横に振ることで答えた。
寝付きが悪いことも夜中に目覚めることもないので睡眠に問題はない。食欲が落ちている自覚もなければ食欲不振を指摘されたこともなく、排便で気になることも特になかった。普段通りと答えるしかない。
リックの答えにハーシェルは「体調不良ではなさそうだな」と考え込む。
その他にも質問されている間に砂時計は引っくり返され、やがて体温を計り終える頃になった。リックは体温計を見て首を捻りながら結果を告げる。
「平熱だ。微熱でもなかった。」
リックがハーシェルに体温計を返すと、彼は自分でも体温計を確認してからケースに戻した。
「やはり発熱していないか。……思い当たるとすればオメガの発情期しかない。」
「発情期?そんな、まさか……」
男女の性とは別の性であるアルファ、オメガ、ベータという性別の中でアルファとオメガは希少であり、リックはそのオメガに該当した。オメガは男女共に妊娠・出産が可能で、三ヶ月に一度の発情期になると「子を成したい」という本能が前面に出て他者を惹き付けるフェロモンを放出する。ウォーカーも寄せ付けてしまう厄介な性質に加えて、一週間ほど続く発情期の間は生殖以外のことを考えられずに身動きが取れなくなるため、今の世界ではオメガの発情期は命取りなのだ。
しかし、リックにとって幸運なことが三つある。一つ目はフェンスに囲まれた刑務所の中にいればウォーカーに襲われる心配はないということ。二つ目は発情期の症状を抑える抑制剤の在庫がしっかり確保できているということ。そして三つ目はアルファであるダリルと番になっているということだ。
アルファと番になっているオメガは番のアルファ以外にフェロモンが効かなくなるので、他の人間やウォーカーを惹き付ける心配がなくなる。それだけでもオメガに掛かる負担や危険は減るというもの。
以上のことから、発情期が訪れても慌てることはないのだが、今のタイミングで発情期が来るのは早すぎる。リックが自分で付けている記録から予想すると半月後の予定なので、これではサイクルが大幅に狂ったことになる。
リックはベッドに座ったままハーシェルに問題点を伝える。
「今のタイミングで発情期が来たらおかしい。予定だと半月ぐらい先のはずなんだ。自分で記録を付けているから間違いない。」
「過去にサイクルが大きくズレたことはないのか?」
「一度もない。だが、発情期前の体の火照りが出ているから間近に迫っているのは確かだ。……ハーシェル、どうして早まったんだと思う?」
「ダリルと番になったことを報告してくれたのは一ヶ月前ぐらいだったな。推測でしかないが、番になったことが影響している可能性がある。オメガの本能が番のアルファの子どもを産みたがっているのかもしれない。」
ハーシェルの答えを聞き、リックは戸惑わずにいられなかった。
ダリルと想いを通わせ合って恋人になり、そして番の契りを交わしたのは一ヶ月ほど前のことだ。大切な家族である仲間たちに報告して温かな祝福を受けたことは幸せな記憶として心に刻まれている。
もしかしたらダリルとの子どもに恵まれる未来があるかもしれないが、発展途上の刑務所の環境整備を優先したいので今はまだ子どものことは考えられない。本能がアルファの子どもを欲しているとしても理性は違う。
子どもについては発情期間中の性交を避けることで対処できるので問題ないが、リックが特に心配しているのは自身の体についてだ。発情期のサイクルの変化は異常なことでないかと思うと不安が押し寄せてくる。
この異常をきっかけに自分の体に次々と異常が現れたらどうすればいいのだろうか?
思わず俯いて考え込んだリックの肩にハーシェルが触れる。それに促されるように顔を上げると優しく微笑むハーシェルがこちらを見ていた。
「リック、一人で考え込んで不安がるのはやめなさい。まずはドクターに相談して、それからダリルと話をするといい。彼ならこれからどうしていけばいいのか一緒に考えてくれる。」
「……ああ、そうだな。ドクターにも相談してみる。」
リックはそのように答えてハーシェルに笑みを返した。
刑務所には新たに住人となった医師がいる。親身になって診察や治療をしてくれると評判で、心強い仲間が加わったことに刑務所で暮らす誰もが喜んでいた。相談すればきっと力になってくれるだろう。
リックはベッドから立ち上がるとハーシェルと向かい合った。
「話を聞いてくれてありがとう。行ってくる。」
感謝を告げて立ち去ろうとしたリックをハーシェルの穏やかな声が呼び止める。
「リック、私たちは家族だ。君が困っていたり悩んでいれば必ず力になる。それを覚えていてくれ。」
ハーシェルの顔の下半分は真っ白な髭に覆われているため口元の動きがわかりにくいが、付き合いの長いリックには彼が微笑んでいることがわかる。
リックはハーシェルの包み込むような笑みが好きだった。その笑みを見ただけで心に巣食う不安が溶けて消えていくような気がする。
リックは笑みを返しながら頷き、ハーシェルの監房を後にした。
ハーシェルと話した後、リックは医務室に直行して発情期が早まっていることを医師に相談した。リックが「体に異常が起きているのではないか?」という不安を打ち明けたところ、医師は「珍しいことではないから心配する必要はない」と言ってくれた。
番を得たオメガの発情期のサイクルが短くなるのはそれなりに聞かれる話とのことで、その理由も「アルファと番になったことによりアルファのフェロモンの影響を強く受けるようになったから」と説明された。つまり異常ではないということだ。また、サイクルが短くなるのは一時的な場合もあるらしく、そうでなかったとしても対処方法を考えていけばいいだけだと言ってもらえたことはリックの心を軽くした。帰り際に「不安になったらいつでも相談しにきてほしい」との言葉を掛けてもらえたこともありがたい。
随分と心が軽くなったリックは自分の監房に戻ってベッドに腰を下ろした。ベッドに座った途端に疲れがのしかかったように体が重くなる。自分で思っていた以上に不安と緊張が大きかったようだ。
「後はダリルに話すだけだな。」
番になったことが発情期のサイクルに影響した可能性があると聞けばダリルは責任を感じてしまうかもしれない。彼が自身を責めることのないように上手く説明しなければ。
そのように考えると落ち着かなくなり、ソワソワしてしまう。こんな時はジュディスを構って気を紛らわしたいところだが、彼女は刑務所で暮らす老人たちに囲まれてご機嫌な様子だったのを監房に戻る途中で目撃したばかりだ。人見知りを知らない我が子は老人たちにとって可愛い孫も同然なので、しばらく父のところには戻ってこないだろう。
リックは「仕方ない」と溜め息を吐いてベッドから立ち上がると監房を出た。散歩でもして気を紛らわせようと考えたのだ。
行く当てもなく建物内を歩き回るうちにリックはダリルの監房に辿り着く。ダリル本人は調達で不在にしていると知っていても無意識に足が向いてしまった。
リックは導かれるように監房の中に入って中を見回す。
リックの監房も物が少ないが、ダリルの監房はそれ以上に物が少なくて生活感がない印象だ。備え付けの机の上にはクロスボウの手入れ道具が置いてあるだけで、下着も含めた衣服はケース一つに収めてベッドの下に押し込んである分だけ。彼はとにかく私物が少なかった。
過去に「本当に欲しいものがあれば遠慮せず私物にしたらいい」と言ったことはあるが、「必要最低限のものがあれば十分だ」と返ってきたのでダリルは物欲がないのかもしれない。
ダリルの人間性が表れているような室内の様子にリックは笑みを零し、無性にこの場に留まりたくなってベッドに座った。
ベッドに座って監房内を見ているとダリルが恋しくなってくる。調達に出かける彼を見送ってから数時間しか経っていないのに寂しくて、今すぐに顔を見たくて仕方ない。これも発情期が近づいている影響なのだろうか?
その時、リックの手は自然とベッドの下のケースに伸びた。ダリルの衣服が収められたプラスチック製のケースを引っ張り出せば彼のシャツやジーンズなどが目に映る。それらを着た彼の姿を思い出すだけで恋しさと寂しさが募った。
リックはケースの中身を取り出してベッドの壁際に次々と並べていき、傍らに合った毛布を胸に抱いてベッドに横になった。本当はもっとたくさんのダリルの持ち物を周りに並べたかったのだが、彼の私物は本当に少ない。
「ダリル……」
リックは愛しい人の名前を呟きながら毛布を強く抱きしめる。
ダリルが傍にいなくて寂しい。顔が見たくて、声が聞きたくて、抱きしめてほしいと望む。このままでは身の内に巣食う寂しさに全身を冒されて死んでしまいそうだ。
リックは毛布を鼻先に押し付けて目を閉じる。そうすることで毛布に染み付いたダリルの匂いを感じやすくなって少しだけ寂しさが和らいだ。
リックは恋人の匂いに安心感を得ながら、いつの間にか眠りの淵へと落ちていった。
*****
「リックの発情期が早まった?」
調達から戻ったダリルはいつも出迎えてくれるリックが出迎えの者たちの中にいなかったことが気になり、彼を捜して刑務所中を歩き回っていた。そんな時に遭遇したハーシェルからリックの発情期が早まっていることを聞かされ、驚愕に目を見開く。
発情期のサイクルが短くなるのは良いことだとは言えない。それだけリックに掛かる負担が大きくなるのだ。
ダリルが心配なのはリックの負担が大きくなることだけではなく、彼の体に異常が起きている可能性についてだ。もし命に関わることであれば見過ごせない。
ダリルが眉間にしわを寄せて考え込み始めるとハーシェルから「思い詰めるな」と肩を叩かれた。
「詳しい話はリック本人から聞いた方がいい。悩むのはそれからにするべきだ。」
「ああ、そうする。リックがどこにいるか知ってるか?」
その質問にハーシェルは首を横に振った。
「自分の監房か、それともダリルの監房にいるかもしれないな。君と話をするために監房で待っている可能性はあるだろう。」
「かもしれねぇな。ハーシェル、助かった。」
ダリルはハーシェルと別れると急いで自分の監房に向かう。
発情期が予定より早く来るとなればリックは不安を感じているだろう。恋人であり番でもある自分が支えてやらなければいけない。
焦った様子のダリルにすれ違う者たちが驚いて視線を向けてくることも気にならないくらいに、ダリルの頭の中はリックでいっぱいだった。
自分の監房に帰り着いたダリルはベッドを見て目を丸くする。
ベッドには毛布を抱きしめながら眠るリックがいて、その傍らには自分の服や下着が並べられていた。ベッドの下に収納していたはずのケースが出ていることから、リックが服や下着を取り出してベッドの上に置いたのは明白だ。
ダリルはリックの取った行動に戸惑いながらも監房の中に足を踏み入れて、床に尻を着けるとリックの寝顔を眺める。
リックは安心しきったように眠っていた。くたびれた毛布を大切そうに抱きしめる姿に頬が緩む。
その時、ダリルはある可能性に思い至った。
「──オメガの巣作り、か?」
番のいるオメガは発情期が近づくとアルファの服を使って鳥の巣のようなものを作ることがあるという。それを「オメガの巣作り」と呼ぶのだが、リックの状態はそれに当てはまるのではないだろうか?
ただ、残念なことに刑務所にある物資は豊富ではないので個人が所有する服や下着は数が限られている。巣作りを行うには数が少なく、単純に並べることしかできなかったのだろう。毛布を抱きしめているのはそれを補うためなのかもしれない。
発情期前の体調の変化による不安を緩和するために巣作りを行うという説を聞いたことがあるが、あながち間違いではないとダリルは思っている。
リックは発情期前になるとピリピリすることが多かった。アルファであるダリルが傍にいると精神的に安定するようだったので、ダリルは番になる前からリックの発情期が近づくと意識して彼と行動を共にするようにしていた。今回のリックの行動も不安を和らげるために行ったものだと考えれば納得がいく。
「俺のものに囲まれてると安心するか?」
ダリルは独り言のように囁きながらリックの頬に触れる。
ダリルは自分の監房でリックが巣作りを行い、安心して眠っているという事実が心の底から嬉しかった。それだけリックにとって自分が信頼できて安心できる存在なのだということが誇らしかった。
ダリルは喜びに顔を緩ませながらリックの頬を撫で続ける。
やがて、リックの目蓋がピクッと動いたかと思うと閉じられていた目がゆっくりと開いた。目覚めたばかりでぼんやりしているリックにダリルは「よう、戻ったぞ」と声をかける。
「──ダリル⁉」
目を丸くしたリックが勢い良く体を起こして座り直したので、ダリルはリックの隣に座る。そして驚きから抜け出せない彼の腰を抱き寄せた。
「ハーシェルから聞いたが、発情期が予定より早く来そうなんだってな。」
ダリルの言葉にリックは「そうなんだ」と頷いた。
「今朝から体が火照る。熱はないし、発情期が近づくといつも体が火照るから……間違いないと思う。予定だと半月先のはずなんだがな。」
「ドクターには相談したのか?」
「した。番になると相手のフェロモンの影響を強く受けるようになるから、番を得たばかりのオメガには珍しいことじゃないそうだ。一時的にサイクルが短くなるだけで元のサイクルに戻る場合もあるらしい。異常ではないから心配しなくていいって。」
それを聞いてダリルはホッと息を吐く。これで大きな不安が解消された。
「あんたの体に異常が起きてるんじゃないかって心配した。異常じゃないならよかった。」
「心配させて悪かった。……それと、お前の服をグチャグチャにしたことも謝る。すまない。」
リックは申し訳なさそうに謝ると、周りに散らばる服や下着に視線を向けた。
アイロンをかけて丁寧に畳んだ状態で収納しておいた服はクシャクシャでベッドに放置されている。しわが入ってしまったのは間違いないだろう。
ダリルは縮こまっているリックの顎を掴んで顔をこちらに向けさせると、驚く彼の唇にキスを落とした。そして愛しさを込めた笑みを向ける。
「俺の服であんたが安心できるなら遠慮なく使え。満足するまで巣作りしろ。俺はリックの役に立てるのが嬉しい。服にしわが入ってたって気にならねぇし。」
素直に思いを伝えればリックが瞬きをした後に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ありがとう、ダリル。もしかしたら同じことをしてしまうかもしれないが、その時は許してほしい。」
「だから構わないって言ってるだろ。」
もう一度口付けるとリックの両腕がダリルの首に回された。それを合図に繰り返しキスを交わす。
満足するまでキスをした後、ダリルはリックを腕に抱いたまま問いかける。
「リック、まだ巣の中にいたいか?それとも──俺が一緒にいてやろうか?」
リックから返される答えはわかっている。それでも彼の口から聞きたい。
リックはクスッと笑い、ダリルの頬に唇で触れた。そして耳元で甘く囁いてくれる。
「ダリルがいい。服じゃなくてダリルに一緒にいてほしい。」
その返事を聞いたダリルは「任せろ」と笑ってリックをベッドに押し倒し、ベッドの上に散らばる自分の服や下着を全て床に落とした。
リックに必要なのはお前たちではなく自分だ、という思いを込めて落としたのをリックは察したらしい。苦笑混じりに微笑みながらダリルの頬を宥めるように擦る。
「自分の服にまで嫉妬しなくてもいいだろう?」
「俺は意外と嫉妬深いんだ。あんたがこんな男に変えた。嫌か?」
ダリルがリックにのしかかりながら問えば、彼は「嫌じゃない」と言ってくれた。
「ダリルを心から愛してるよ。」
愛を告げながらリックは花が咲くように美しく笑んだ。それは幸福と愛しさに溢れた笑みだった。
ダリルはリックに笑みを返しながら胸の奥から溢れてくる愛しさを声に乗せる。
「俺も愛してる。リックを誰よりも愛してる。」
安心できる巣が必要ならば自分で作る必要はない。
二人が一緒にいて離れなければいい。ただ、それだけのことだ。
END