BEFORE=AFTER【 一章 】
支配者の気まぐれはいつも人々を振り回す。それに漏れなく該当するのがリックであり、彼の支配者であるニーガンの「サンクチュアリに遊びに来い」という一言によってリックは敵の本拠地に行かなければならなくなった。
ニーガンの指示でリックを迎えに来た救世主たちに挟まれながら車に揺られ、辿り着いたのは巨大な工場。ニーガンが治める救世主の城。ここにアレクサンドリアやヒルトップ、キングダムなどの被支配地域から徴収された物資が運び込まれるのだと思うと腹立たしい。リックは無意識に手を握り込んだ。
救世主たちに連れられて建物の中に入ると、待ち構えていたニーガンが「よく来たな!」と親しい友を迎えるように腕を広げた。
「ニーガン、俺に何の用だ?わざわざ呼び寄せたんだから用事があるんだろう?」
愛想の欠片もなく用件を尋ねたリックに対してニーガンが苦笑しながら肩を竦める。その仕草さえも憎らしい。
リックは自分に近づいてくるニーガンを真っ直ぐに見据えた。
ニーガンはリックの正面に立つと顔を近づけてくる。その距離の近さには未だに慣れない。
「お前に俺の部屋を見せてやろうと思ってな。それと、お前と楽しく酒を飲みたい。それだけだ。」
「俺たちは気安く酒を飲み交わすような関係じゃないと認識してるんだが。」
「そうだったのか?じゃあ、もっとお互いのことを知って仲よくならないと。それには酒が一番だ。」
ニーガンは「付いてこい」と言って指でリックを招き、悠然と歩き出した。
ニーガンの進行方向にいた人々はニーガンが近づくとサッと脇に退いて道を空ける。リックは「モーセの海割りのようだ」という目の前の男には相応しくない感想を抱きながら後に続く。
真っ直ぐにニーガンの部屋を目指すのかと思われたが、予想に反して寄り道が多かった。建物内のいろんな場所に立ち寄って説明するニーガンはとても楽しそうだ。支配下に置いた相手に自分の功績や権力の証を見せびらかすのが楽しいのだろう。リックはニーガンの話に耳を傾けながら何度も溜め息を押し殺した。
ニーガンのガイドツアーは救世主に仕える労働者たちが集うフロアを過ぎて、上階にある救世主の生活の場に進んだ。すれ違う救世主たちが面白がるような眼差しを向けてくることがリックには不快だった。
「リック、こっちに来い。俺の部下たちが寛ぐための部屋だ。」
ニーガンに促されて足を踏み入れた部屋にはテーブルと椅子のセットが複数あり、そのうちの一つで数人の救世主たちがトランプに興じていた。その他にはソファーに座って酒を飲んでいたり雑誌を捲る者もいた。ここは娯楽室になっているらしい。
部屋全体を見回すリックは部屋の片隅に立つ男がこちらを凝視していることに気づいた。男は中身が半分以下になったウイスキーの角瓶を持ってリックをジッと見つめている。その思い詰めたような表情と狂気的な光を宿す目が不気味で、視線を逸らさずにいられなかった。
リックが薄っすらとした恐怖を感じていると知らないニーガンはリックの肩に手を置いてニヤリと笑う。
「どうだ?良い部屋だろ?」
「……ああ、そうだな。それで、このガイドツアーに何の意味があるんだ?」
リックがうんざりした気持ちを隠さずに問いかけるとニーガンの笑みが深くなった。
「良い環境を見ればお前もこっちに来る気になるかと思ったんだが、どうだ?俺の部下になれよ。お前には幹部の椅子を用意してやる。」
ニーガンの口から飛び出した言葉に呆れて、リックは思わず口を開けてしまった。
ニーガンは仲間を殺した上に徴収によって自分たちを苦しめる相手であり、誰よりも憎い敵だ。そんな相手の部下になりたいと思うわけがない。
リックは深々と溜め息を吐いて「有り得ない」と返そうとしたが、強い殺気を感じてそちらに顔を向ける。殺気をぶつけてきたのはリックを凝視していた男だ。全身から怒りと殺気を放つ男の目に理性はない。
男は急にリックに向かって駆け出した。そして、掴んだ角瓶を振り上げながら叫ぶ。
「どうしてお前なんだよぉ!」
リックは瓶が自分に向かって振り下ろされる動きがスローモーションのようにゆっくりした動きに見えた。ゆっくりと見えるのに体は動いてくれない。殴られるんだな、と呑気にもそんな思いが胸に落ちた。
その時、腕を強く引っ張られたかと思うと大きな影が目の前に立ちはだかった。黒い大きな影はニーガンのものだ。背後に庇うようにリックの体を押したニーガンの頭に瓶が振り下ろされて、破片と共に僅かに残っていた液体が飛び散った。
ニーガンが崩れ落ちる瞬間までスローモーションは続き、周囲の怒声が耳に届いた瞬間に全てが元通りに動き出す。
ニーガンを殴った男は倒れたニーガンを呆然と見つめており、その男を近くにいた救世主たちが荒っぽい手付きで床に押さえつけた。凶行に及んだ男を取り押さえる誰もが怒りに顔を歪めている。
リックは我に返ると床に倒れ込んだまま動かないニーガンの傍らに膝をついて彼の顔を覗き込む。
「ニーガン!しっかりしろ!」
リック以外にも周りにいた救世主たちが必死にニーガンに呼びかけるが、目を閉じたままのニーガンはそれに応えない。そのうちに頭から額に血が垂れてくる。殴られた時に頭を切ったようだ。
リックは唇をグッと噛んでから顔を上げて声を張り上げる。
「頭を殴られているから下手に動かすな!すぐに医者に報告して指示を仰げ!早く!」
リックの指示に救世主たちは慌てたように頷き、二人の救世主が「俺はカーソン先生を呼んでくる」「私はサイモンに報告するよ」とそれぞれに宣言してから部屋を飛び出していった。
リックが再びニーガンに視線を戻そうとした時、ニーガンを殴った男が引きずられるようにして廊下へ連れ出される姿が目に留まった。男は激しく抵抗しながら叫び続ける。
「違う!ニーガンを傷つけるつもりはなかった!あいつが悪いんだ!あの野郎が!リックがいなきゃよかったんだ!」
憎しみと悪意が自分に向けられていることにリックは困惑する。
自分が忘れているのでなければニーガンを殴った男とは一度も関わったことがない。向こうはこちらのことを知っていても言葉を交わした記憶さえない。危害を加えられそうになるほど恨まれる理由が思い浮かばなかった。
リックは男が部屋から連れ出されるのを見届けてから所持しているハンカチを取り出して、それでニーガンの頭の傷口を押さえる。頭のケガなので強く押さえるのは怖いが、出血を放置するわけにはいかなかった。
傷口に触れてもニーガンは何の反応も示さない。呻きもせず、痛みに顔をしかめることもない。ただただ目を閉じて横たわっているだけだ。
(なぜ俺を庇った?あんたにとって俺は庇うような相手じゃないはずだ)
リックはニーガンが支配するコミュニティーの住人というだけであり、死んだとしてもニーガンにとって何の影響もないはず。それなのに目の前の男は体を張ってリックを守った。その事実はリックを混乱させるのに十分だ。
先ほどから消えることのない疑問に対する答えを与えてくれるはずの男は医師が現れても目覚めなかった。
医師の指示の下に医務室へ運ばれたニーガンは治療が終わっても意識を取り戻すことはなかった。ニーガンが目を覚まさない以上は罪人を罰することはできず、リックも勝手にアレクサンドリアに戻ることはできない。
ニーガンの意識が戻るまでサンクチュアリに留まることになったリックは「ニーガンの様子を見守らせてほしい」と希望したため、医務室のベッドで寝ているニーガンの傍で過ごすことになった。ニーガンのことは憎いが、自分を庇ってケガをした相手に無関心ではいられない。回復を見守りたい気持ちは本物だ。
リックはニーガンが横になっているベッド脇の椅子に座り、見張りの救世主の視線を感じながらニーガンを見つめる。
(どれだけ考えてもわからない。なぜニーガンは俺を庇ったんだ?下手をすれば死んでいたかもしれないのに……)
頭部への強烈な打撃は運が悪いと命を落とす。命は助かっても何らかの障害が残る可能性もあるのだ。打算があったのだとしてもリスクが大きすぎる。だからこそリックにはニーガンの行動が理解できなかった。
リックとニーガンは友ではない。サンクチュアリ以外のコミュニティーを支配して人々を屈服させてきたニーガンにとってのリックは「支配地域の住人の一人」であり、彼が体を張って守る必要はない。また、そのような相手を全力で守るほどの優しさをニーガンが持ち合わせているはずもなかった。親しい友でも腹心の部下でもない相手を守る理由はどこにもないのだ。
しかし、ニーガンにとってリックが特別な存在だというなら話は別だ。ニーガンがリックを大切に思っていれば危険を承知で庇ったことにも納得がいく。
そこまで考えてリックは己の考えを打ち消すために頭を軽く振った。
(俺がニーガンにとって特別な人間だなんて有り得ない。そんなバカな話があるわけがない)
リックは脳裏に過ぎった可能性を拒絶しながらニーガンを睨む。
ニーガンが自分を大切に思っているなんて有り得ない話だ。余りにも馬鹿げている。きっと恩を売るためや逆らいにくくするためなどの思惑があるに違いない。もし、そうでなかったら──。
リックが思考の海に沈みそうになった時、ドアが開いてニーガンの右腕であるサイモンと幹部の一人であるドワイトが部屋に入ってきた。リックの意識はその二人へ移る。
サイモンとドワイトはベッドの傍らに立ってニーガンの顔を見下ろしてからリックに顔を向けた。
「さーて、リック。お前に面白い報告を持ってきた。ニーガンを殴ったバカ野郎と楽しくおしゃべりしてきたんだが、奴はお前が大嫌いらしい。」
おどけた口調で話すサイモンにリックは微かに眉を寄せる。
「俺を狙ってきたのは明らかだったが、俺はあの男と関わった記憶がない。顔も覚えてなかった。」
「ああ、お前とは話したこともないと言ってたから当然だ。奴は熱狂的なニーガンファンで、救世主でもないお前がニーガンに気に入られてることに前から腹を立ててたんだとさ。逆恨みってのは怖いね。」
サイモンは「怖い、怖い」と言ってわざとらしく自身の腕を擦る。そのサイモンをドワイトは横目に見てからこちらに視線を戻した。
「事件が起こる直前にニーガンがあんたに部下になる話を持ちかけたそうだな。それにキレてあんたを殺そうとしたと話していた。ニーガンにケガさせたことを反省してたが、処刑は免れないだろう。」
リックは淡々と話すドワイトの言葉に「そうか」と頷いて小さく溜め息を吐いた。
他人の目から見て、自分はニーガンに気に入られているらしい。それも殺意を芽生えさせるほどに。
その事実にリックの混乱はますます深まっていく。
「……俺はあんたたちの仲間に加わる気はない。」
辛うじてその一言を返すとサイモンが面白がるように笑った。
「だろうな。お前みたいな奴は俺たちがやるような仕事には向いてない。」
「それより処罰はどうなる?今回のことはアレクサンドリアとは関係ないから罰を与えるのは俺だけにしてくれ。」
今回の事件はリックに非があるわけではない。一方的な逆恨みに巻き込まれただけなので処罰を受けるのは不当だと言えるだろう。
しかし、原因になってしまったことは事実だ。一般的なルールや考えがサンクチュアリで適用されるのかわからない以上、被害者であるリックが罰せられるという理不尽が通ってしまうかもしれない。リックが最も恐れているのは被害が自分だけでなく仲間たちに及ぶことだ。
リックが必死の思いでサイモンを見ると、サイモンは「焦るなよ」と首を横に振った。
「お前の扱いをどうするのか決めるのはニーガンだ。彼が目覚めないことには決められねぇ。勝手にお前を処罰したら俺の頭が潰されちまう。」
それを聞き、リックは気分が急速に沈んでいくのを自覚した。
ニーガンは今回の事件の一番の被害者だ。危害を加えた本人だけでなくリックに対しても怒りを抱くのは仕方ないことだろう。そうなると処罰がどのようなものになるのか考えただけで恐ろしい。
リックは押し黙って顔をニーガンの方に向ける。その時、ニーガンの目蓋が微かに動いて呻くような声が漏れた。それに気づいたリックは思わず立ち上がって「ニーガン?」と呼びかけた。
やがてニーガンはリックや部下たち、そして医師に見守られながら目を開ける。その視線は天井に向けられてから周りに集う者たちへと移っていった。
最初に声を発したのは医師だ。「具合はどうですか?吐き気は?」と尋ねながらニーガンに近づき、顔を覗き込んで状態を診ている。
「吐き気はないが……頭が痛い。カーソン、どうなってる?」
カーソンと呼ばれた医師は顔をしかめるニーガンの問いに落ち着いた口調で答える。
「あなたは瓶で頭を強打されて意識を失ったんです。切り傷もありますが、それほど深くなかったのは幸いでした。不便でしょうが、しばらくは絶対安静でお願いします。」
その回答にニーガンは小さく舌打ちをした。当然ながら機嫌は悪いようだ。
不機嫌さを顔に出すニーガンに次に話しかけたのはサイモンだ。
「ニーガン、意識が戻ってよかった。あんたを殴ったバカは拘束してある。どうやって処罰するのか決めるのはもう少し回復してからの方がいい。」
「そうか。それで、経緯は?何で俺はこんなことになってる?」
ニーガンは負傷した経緯を覚えていないようだ。これも頭部への衝撃の影響なのかもしれない。
ケガの経緯を説明するのはドワイトで、彼はリックの体をニーガンの方に軽く押し出しながら話す。
「ニーガンを熱狂的に信奉する救世主がリックに嫉妬して殴りかかったんだ。あんたはそれを庇って代わりに殴られた。リックは処罰を受けるのは自分だけにしてほしいと望んでる。」
ニーガンの一番近くに立つことになったリックは訝しげに見上げてくる相手の目を見据えた。緊張で掌に汗が滲むのを感じながら口を開く。
「ニーガン、本当にすまなかった。あんたが庇ってくれなければ、俺は──」
「誰だ?」
ニーガンは眉を寄せて一言呟いた。それは問いかけというよりも独り言を零したという方が相応しい。
見知らぬ相手を見るような眼差しを向けられたリックは返す言葉を失った。今の状態を理解し切れなかったのだ。そのリックの代わりにニーガンの問いに答えたのはドワイトだった。
「リックだ。アレクサンドリアのリック・グライムズ。わからないのか?」
ドワイトの声には困惑が滲む。他の者たちの顔を見れば誰の顔にも困惑が浮かんでいた。
ニーガンは常日頃から部下たちにリックについて話していたらしい。そのため救世主の中でリックを知らない者はおらず、特別な関わり方をしていない者からもリックはからかわれることが多かった。そんなニーガンがリックに向かって「誰だ?」と問うのは有り得ない話なのだ。
ニーガンは戸惑う者たちを気にした様子もなく「知らない」と断言した。
「アレクサンドリアはわかるが……リック?そんな奴、いたか?」
ニーガンはリックの顔を見ながら戸惑った顔を晒す。その顔を見れば本当にリックについて覚えていないのだとわかる。
これによりニーガンは記憶喪失なのだと判明したため、医師のカーソンが本格的に質問を始めた。知識や日常での行動、幼少期から現在までの過去、そして自身に関わった人々についてなどを丁寧に確認していき、カーソンは最終的な診断結果を告げる。
「ニーガンの記憶喪失の症状は特定の記憶──リック・グライムズに関する記憶のみ失っているという状態です。その他の記憶に異常はありません。日常生活に支障はないでしょう。」
その診断結果を聞いたリックは自分がどのような感情を抱いてるのかわからなかった。悲しいわけでも腹が立つわけでもないが、何か胸がモヤモヤとしているような気がする。
リックが自身の状態に戸惑っている中、ニーガンが「別に問題ないだろ」と言い放った。
「日常生活に問題ないならいい。他のコミュニティーの人間のことを覚えてなくたって大した影響はないさ。そいつは家に帰らせろ。」
平然と言い放ったニーガンにサイモンが躊躇いながらも質問する。
「あーっと、ニーガン?リックは町に帰らせるだけでいいのか?その、罰を与えるとか、そういうのは?」
「俺を殴ったのは別の奴なんだろ?じゃあ、リック……に罰を与える理由がない。帰らせてやれ。」
「まあ、あんたがそれでいいなら。……本当にリックを帰らせていいんだな?もう少しここに置いておくとかしなくていいのか?」
重ねて尋ねたサイモンをニーガンが睨みつけた。微かに怒気を発する男に周囲にいた全員が息を呑む。
「しつこいぞ、サイモン。そいつをここに置いて何になる?」
サイモンは慌てて「悪かった、すぐに帰らせる」と答えるとドワイトに顔を向けて頷いた。
ドワイトがリックの腕を掴んで歩き出したのでリックはそれに大人しく従う。部屋を出る直前に振り返ってみたが、ニーガンから視線が返されることはなかった。
その後、リックはドワイトと彼の部下に連れられてアレクサンドリアに帰った。その道中、リックはニーガンのことを考える。
時にリックへの執着を覗かせる瞳には何の感情も浮かんでいなかった。リックの存在をどうでもいいと思っていることが話しぶりから伝わってきて、興味の欠片もないのだとよくわかる。楽しげな笑みや面白がるような眼差しを向けられることは二度とないだろう。
今までが異常だったのかもしれない、とリックは小さく息を吐いた。
支配者が支配地域の住人の一人を構うこと自体がおかしいのだ。興味を持たないのが普通で、これは正常な状態に戻っただけだ。
それなのに胸がざわつくのはなぜなのだろう?
*****
ニーガンがリックについての記憶を失ってから彼がアレクサンドリアを訪れることは一度もなかった。頭部のケガなので安静にしていなければならず、療養期間が長くなるのは当然だ。徴収日に来るのはドワイトとその部下たちだけになり、ニーガンの姿がないことに住人の誰もが安堵の息を吐く。
リックは徴収の度にドワイトにニーガンのケガの回復具合を尋ねた。ニーガンのケガは順調に治っており、最近では体力を戻すために散歩するようになったそうだ。後遺症もないと聞いて胸を撫で下ろした自分に違和感を覚えたことは記憶に新しい。
ただ、相変わらずリックに関する記憶は戻っていないようだ。ドワイトがそれとなくアレクサンドリアやリックに繋がる話題を出してみても特に反応はなく、ニーガンにケガをさせた救世主の動機についても深く追及することなく処刑したという。自分を殴ってケガをさせたという事実だけで処刑するには十分なのだろう。
回復して日常生活が送れるようになってからもニーガンがアレクサンドリアに来ることはなかった。徴収日以外にも「リックの顔を見に来た」と笑いながら現れた男はリックに関する記憶と共に消えたのだ。
リックは自分がニーガンの記憶から消えたことを悲しいとは感じていない。記憶を取り戻してほしいとも思わない。姿を見せなくなったことを寂しく思う気持ちもない。
だが、記憶喪失になる前のニーガンがリックに会うためにアレクサンドリアに来ていたと証明されてしまったことに心を乱されている。
ニーガンは基本的に支配するコミュニティーを訪問しない。徴収や監視、そして支配下に置くことは部下に任せているので、アレクサンドリアだけ自ら足を運ぶのは異例のことだった。
だからこそ、リックを忘れたからアレクサンドリアに来なくなったのであればニーガンは町そのものに興味はなく、リック以外の住人にも興味や思い入れはなかったということだ。それほどに執着されていたことに動揺し、その理由がわからないことに思考を占領される。
リックにはわからない。ニーガンが自分に執着した理由も、あの時に庇われた理由も。
リックの疑問に対する答えを与えてくれるのは今のニーガンではなく記憶を失う前のニーガン、ただ一人だけ。そのニーガンは記憶と共に消え失せて二度と戻らない。
リックが自身の中に渦巻く疑問に対する答えを得る機会は失われた。二度と、その機会は得られないのだ。
【 二章 】
部下に頭を殴られた日から約二ヶ月。一日の大半をベッドの上で過ごす生活から解放されて約二週間。
「あんなにも不自由な生活はこりごりだ」というのがニーガンの感想であり、回復した現在は以前のように自由な生活を謳歌している。
療養中、ニーガンは自分がケガを負った経緯をサイモンとドワイトに再確認したのだが、二人とも「アレクサンドリアのリックが殴られそうになったのを庇ったからだ」としか答えなかった。そのような理由は到底納得できるものではない。
頭部への衝撃のせいでリック・グライムズという男に関する記憶を失っているとはいえ、支配地域の住人を自分が体を張って守ったということが信じられなかった。そもそもリックがサンクチュアリにいた理由も「ニーガンが呼び寄せたから」だという。他のコミュニティーの管理を部下に任せている自分が呼ぶなんて考えられない。何かの間違いではないかとさえ思う。
だが、サイモンとドワイトがそのような嘘を吐く理由がない。彼らが話しているのは真実だ。
経緯に納得がいかないものの、事件の犯人は処刑した後に生ける屍に転化させるという罰を与えて全てを終わらせた。
動機については敢えて追及しなかった。何となく知りたくないと思ったのだ。それでもドワイトがお節介にも「奴はニーガンに気に入られていたリックを逆恨みした」と教えてくれたので、ぶっきらぼうに「そうかよ」とだけ返しておいた。
ニーガンは部下たちから聞いた話を総合して「記憶を失う前の自分はリックという男を気に入っていたらしい」と結論付けた。記憶がない以上は周りの評価を信じるしかないのが悔しい。
しかし、頭を殴られただけで忘れてしまえるのならば所詮はその程度の存在だったということだろう。思い出せなくても何の支障もない。それならば特に気にする必要もない。
ニーガンはそのように考えて頭の中からリックの存在を押し出した。
以前と変わらず部下たちの仕事ぶりを評価し、的確な指示を出し、美しい妻たちと楽しい時間を過ごす。何の問題もない日々だ。
しかし、そのような日々は前触れなく終わりを告げる。
*****
幹部たちを集めての定例会議が終わり、ニーガンは自室に戻って酒を楽しもうと思った。取っておきの赤ワインがあることを思い出したからだ。
部屋に戻るとキャビネットの扉を開けたが、記憶していた場所に赤ワインのボトルはなかった。他の場所に移動させたのか、収納した場所を勘違いしているのか。ニーガンは首を捻りながら扉を閉めて別の場所を探し始める。
探し始めて間もなく、お目当てのワインボトルは他の棚で見つかった。ニーガンは無事に見つかったことを祝うように短く口笛を吹く。その時、ワインボトルの奥にビデオカメラがあることに気づいた。ニーガンは首を傾げながらそれを取り出してみる。
見慣れないビデオカメラだ。これを手に入れた時の記憶も棚にしまった記憶もない。これほど存在感のあるものについての記憶がないのはおかしい。
ニーガンは微かに抱いた違和感に眉を寄せながらビデオカメラを持ってソファーに座った。そして電源を入れて録画されている映像を確認してみる。
録画されていたのはインタビュー映像だった。いくつもある映像を適当にピックアップして見てみたところ、その顔ぶれとインタビュー内容によりアレクサンドリアに定住するための面接試験なのだとわかった。
「なかなか面白いじゃないか。」
興味深い映像だが、疑問は残る。このようなものがなぜ自分の部屋に保管されているのかということだ。
ニーガンは思考を巡らせながらも次々に映像を見ていく。そして、ある人物の映像に釘付けになった。
「……リック・グライムズ。」
映像の中で面接を受けているのはリックだった。伸びた髭に顔を覆われた状態で警戒心を目に宿す男は野生の獣のように見える。自分や仲間を害する存在を警戒して臨戦態勢を取る獣だ。
ニーガンは油断を削ぎ落とした男が語る話に聞き入った。
『俺は人を殺した。人数は忘れたが、そいつらが死んだ理由ならわかる。俺の家族を生かすために他の奴らが死んだ。だから俺は家族を守ることができた。』
人を殺した経験があることを淡々と語る男に背筋がゾクゾクして、自然と口の端が上がった。恐ろしいことを話す彼は至って冷静であり、冷静でありながらも家族を守ることへの強い執着が垣間見えて強く興味を惹かれる。
リックの面接映像が終わると、ニーガンは他にもリックの映像がないか探した。この男のことをもっと知りたいと思った。
そして見つけた映像のリックは面接映像の時よりも髭が短くなっており、強張った表情は泣き出しそうにも見える。「人を殺した」と打ち明けた時の強くて恐ろしい男の面影はない。
あのリックをここまで弱々しい存在に変えてしまったのが自分なのだとニーガンが知ったのは、映像から聞こえてくる己の楽しげな声と顔のアップのおかげだ。過去の自分はリックを嬲るための言葉を吐きながらビデオカメラで彼を撮影していた。
ニーガンは映像を停止させるとビデオカメラの電源を切り、それをコーヒーテーブルの上に放置する。そして額に掌を押し当てて深々と溜め息を吐いた。
「……おいおい、本気か?」
自分が撮影したリックの映像の背景はサンクチュアリのものではない。あれは間違いなくアレクサンドリアだ。他のコミュニティーの管理を部下に任せている自分がわざわざ出向く意味の大きさを理解しているので先ほどの独り言が漏れたのだ。
確かにニーガンの記憶の中にはアレクサンドリアの町並みや住人たちの顔が存在している。そこでの体験についても覚えていたが、それは断片的な記憶だった。プツリプツリと切れていて一直線に繋がらないのだ。
断片的な記憶は町での出来事だけでなく、ニーガンがアレクサンドリアを支配下に置いた日についても同じ。二人の男の頭を潰したことは覚えているのに他の記憶は霧に覆われているように曖昧だった。これらの記憶にはリック・グライムズが関わっているはず。
ニーガンはリックついて調べることに決めて、ソファーから立ち上がると部屋を後にした。
リックについて話を聞くならばアレクサンドリアの徴収を担当しているドワイトが適任だ。
そのように考えたニーガンは徴収から戻ったばかりのドワイトを捕まえて、人気のない階段の踊り場で彼と向かい合う。ドワイトは「アレクサンドリアのリックについて話せ」という命令に少しばかり困惑しているようだ。
「リックについて話せと言われても……何が知りたい?」
「俺たちがアレクサンドリアを支配下に置いた夜のことから話せ。ルシールで二人の男の頭を潰したこと以外の記憶が曖昧なんだが、あの夜はリックもいたんだろ?」
「ああ、彼もいた。リックは仲間を殺された後でもニーガンに向かって『お前を殺す』と言ったんだ。あれには驚かされた。」
全くの予想外の話にニーガンは目を見開いた。
仲間の頭を無残に潰された後で、その相手に向かって告げるには大胆すぎる言葉だ。余程のバカなのか、心が折れなかったのか。恐らくリックの場合は後者なのだろう。
ニーガンは「それで?」と続きを話すように促す。
「その後、あんたはリックだけを連れて車でどこかへ行った。その間に何があったのか誰も知らない。あんたは誰にも話さなかったが、有意義な時間だったことだけはわかる。戻ってきたあんたはリックに息子の腕を切り落とすように命じた。息子の腕を取るか、仲間の命を取るかを迫ったんだ。」
それを聞き、ニーガンの脳裏に右目を包帯で隠した少年の姿が浮かぶ。あの少年の名前はカール・グライムズといったはずだ。彼にはジュディスという名前の幼い妹がいることも薄っすらと記憶している。やはりリックに深く関係することについての記憶が薄い。
それにしても我が子の腕と仲間の命を天秤にかけさせるとは我ながら恐ろしい選択を迫ったものだ。そこまでしなければリックの心を折ることができないと踏んだのだろう。一体、二人だけのドライブで何があったのか?
「それで、リックは仲間の命より息子の腕を取ったのか?」
その問いにドワイトは首を横に振った。
「斧を振り下ろす前にニーガンが止めたからどっちとも言えない。あんたはリックの反発心が折れたと判断したから止めたんだと思う。ただ、俺の印象としては止めなかったらあの男は自分の腕を切り落としただろう。俺にはそう見えた。」
ドワイトの意見にニーガンは同意を示して頷いた。
ビデオカメラに残されていた面接映像を見る限り、リックは仲間──家族を守ることを何よりも優先しているように思える。その男が我が子を傷つけることも仲間を見捨てることも選べるわけがない。大切な家族が傷つくくらいなら自分の腕の一本など惜しくないはず。
過去の自分はリックの人間性を理解した上で彼に究極の選択を迫ったのだ。それは仲間を殺されても「お前を殺す」と立ち向かってこようとする彼の心を完全に折るため。そこまでしなければリック・グライムズという人間は誰にも屈しない。
そんな人間であれば自分が興味を持つのも無理はない、とニーガンは納得した。
「……ドワイト、俺がアレクサンドリアに行ってたのはリックに会うためか?」
その質問にドワイトは驚いたように目を瞬かせた後、少し躊躇いながらも首を縦に振った。
「俺だけじゃなく他の奴らもそう思ってる。あんたは徴収日以外にもあの町に行ってリックを連れ回してたから。」
「俺はそんなに通ってたのか?……わかった。時間を取らせたな。もう仕事に戻れ。」
ドワイトは無言で頷いて立ち去った。ニーガンはその場に留まり、壁に背中を預けてジーンズのポケットに手を突っ込む。
ニーガンは話を聞いただけでリックに興味を持ったことを自覚する。そして同時に記憶を失う前の自分がどれほどリックに深い興味を持って執着していたのかがわかる。一人の男にのめり込んで通い詰める姿は冷静に考えると非常に恥ずかしい。
リックに関する記憶を失った今の自分であれば彼に対して強い執着がないので、このまま関わらずにいればいい。そうすれば記憶から消えた男のことなど気にならなくなるだろう。
「忘れちまえ。記憶から消える程度の存在だったのさ。」
ニーガンは自分に言い聞かせるように呟いた。その呟きに違和感を抱いたことには気づかない振りをした。
*****
ケガが完治して健康状態は良好。食事も酒も美味しく、妻たちは今日も美しい。部下から上がってくる報告にも問題は見当たらない。全てが上手く回っている。
それなのにニーガンは最近、常に苛立ちを感じていた。何をしていても落ち着かず、妻たちと過ごしていても心が別の場所にあるような気がした。
苛立ちの原因はリック・グライムズだ。彼についての記憶を失ってからは一度もアレクサンドリアに行っていないので本人と顔を合わせたわけではないが、気を抜くと彼のことを考えてしまう。
自分はリックとどのような言葉を交わしていたのだろうか?
自分はなぜリックを庇ったのだろうか?
自分がリックに執着した理由は何なのだろうか?
いくつもの疑問が頭から離れず無意識に考え込んでしまうので、まるで思考回路がそれに直結してしまったようだ。「リックのことなど忘れてしまえ」と自身に言い聞かせても意味はない。
自分が重症なのだと思い知るのは例のビデオカメラに手を伸ばしてしまう時だ。苛立ちが強くなると我慢できずにリックの録画映像を見るのだが、それを見たからといって苛立ちが治まるわけではなく、疑問が頭の中をぐるぐると回るだけ。それでも「リックの映像を見たい」という欲を抑えられない。
ニーガンは「自分がリックに強く執着した理由と凶行から彼を守った理由を知りたい」と──つまり「リック自身のことを知りたい」と思っているのだ。
ある日の定例会議の最中、ニーガンは幹部たちとの大事な会議に身が入らないことを自覚して、こっそりと溜め息を吐きたい気分だった。本当に溜め息を吐くわけにいかないので我慢したが、皆の話が耳を通り過ぎていくような気がする。
上司が本調子ではないことを知らない部下たちは順番に自分の担当する地域の状況を報告していく。特に問題はないようなので会議が滞ることはない。
そのうちにドワイトが報告を始める。
「アレクサンドリアの徴収についてだが──」
アレクサンドリア。その単語を耳にしただけでテーブルの上に置いたニーガンの手がピクッと反応した。
幹部たちはニーガンの小さな反応に誰も気づくことなくドワイトの報告に耳を傾けている。
「──というわけで、畑を拡大している最中だから徴収量を一年ほど減らしてほしいと言ってきた。担保としてリックの首を差し出す、とも。」
その報告に幹部たちは互いに顔を見合わせる。思い切った提案に驚きを隠せないようだ。
ニーガンは聞き捨てならない言葉に顔をしかめた。
「おい、担保がリックの首ってのはどういうことだ?」
ニーガンの怒りを感じ取ったドワイトが顔を強張らせながら答える。
「徴収量を一年間減らす代わりにリックが人質になって、もし一年後も畑が上手くいってなかったらリックを処刑することで徴収量を減らす期間を延長してほしいと頼まれた。もちろん人質になっている間はサンクチュアリで労働すると……」
「それはわかった。俺が一番知りたいのは誰がそんなことを言い出したのかってことだ。」
「リック本人だ。どうやら独断らしくて他の奴らは反対してたが、意思は変わらないらしい。」
「バカが。……アレクサンドリアの件は俺が対処する。会議は終わりだ。ドワイト、車を準備しろ。」
解散を告げればその場にいた全員が目を丸くした。それに構うことなく立ち上がってドアの方へ向かうとドワイトが慌てて近づいてくる。
「ニーガン、どこへ行くんだ?」
ニーガンは困惑を隠しきれないドワイトの額を指で弾いてから目的地を告げる。
「そんなもん、決まってるだろ。──アレクサンドリアへ行く。」
ニーガンは数人の部下を伴ってアレクサンドリアを目指した。ニーガン直属の部下たちが乗る車を先行させて、その後ろを走る車にはニーガンと運転手、そして助手席に座るドワイトの三人だけが乗っている。
目的地へ向かう車中、ニーガンは助手席の背もたれを後ろから蹴りつけてドワイトを振り向かせた。
「ドワイト坊や、教えてくれ。アレクサンドリアの徴収日は昨日だったのに、リックの話を今日に持ち越した理由は何だ?」
威圧的に問うと、ドワイトは微かに怯えた表情を覗かせながら答える。
「……あの町はまだ生産物がない。今の徴収量だと厳しいのは確かだからリックの言うことはわからないでもないが、提案をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。それをニーガンにどうやって説明するか考えがまとまらないうちに今日になってた。本当に悪かったと思ってる。」
「なるほどねぇ。まあ、これくらいのことでお仕置きはしないが、次からはすぐに報告しろ。いいな。」
「わかった。ニーガン、本当にすまなかった。」
ニーガンはドワイトからの謝罪に「もういいから前を向け」と返して窓の外に目を向けた。流れる景色を眺めながら考えるのはリックのことだ。
今のニーガンはリックについての情報が少ない。記憶は少しも戻っておらず、周りの人間から聞いた情報だけが蓄積されている。自身で触れて、聞いて、体験したことによる情報ではなかった。
自分だけがリックのことを知らない。そのことが無性に腹立たしい。それなのにリックは自分の命を捨てようとする。それを許すわけにはいかなかった。
(俺から逃げられると思うなよ)
ニーガンは決意を固めるように膝の上に置いたルシールを強く握った。
【 三章 】
「救世主が来た」という見張りからの知らせにリックは目を見開いて体を震わせた。
次の徴収日は何日も先だ。それが急に来るだなんてどういうことだろうか?
最近では徴収日以外に救世主が来ることはなかったので住人たちは動揺している。リックは自身の動揺を静めるために深呼吸をしてから皆に家の中で待機するよう指示を出した。そして、たまたま一緒に行動していたゲイブリエルにカールとジュディスの教会への避難を頼み、自身は門へと急いだ。
リックが駆けつけた時には既に門は開いており、救世主の車が町の中に入ってきていた。その車から降りてきた長身の男にリックの視線は釘付けになる。
(ニーガン……何をしに来た?)
リックは急速に膨らむ緊張感を連れてニーガンに近づいていく。そうするとニーガンが顔をこちらに向けた。
待ち構えるように体をこちらに向けて立つニーガンの前でリックは足を止めた。ニーガンはこちらを見つめたまま何も言わない。煩わしいほどにおしゃべり好きな男が沈黙を保つことへの恐怖が背筋を震わせたが、目を逸らそうとは少しも思わなかった。
リックは黙ったままのニーガンを見つめるうちに新鮮なような懐かしいような、とても奇妙な感覚に包まれる。
あの事件が起きてからニーガンは一度もアレクサンドリアに足を運ばなかったので、リックがニーガンと顔を合わせたのはおよそ三ヶ月ぶりのことではないだろうか?そのせいなのか、久しぶりに見る男の顔が新鮮に感じられるのに不思議と懐かしくも思えた。
支配者自らの訪問という状況には相応しくない心境になっていたリックはニーガンの第一声によって現実に引き戻される。
「自分の首を差し出す代わりに徴収量を減らせって言ったらしいな、リック・グライムズ。」
淡々と、しかし威圧の滲む声音にリックは己の心臓が凍りついたかと思った。
今日のニーガンはリックをからかって遊ぶために来たのではない。アレクサンドリアを支配する者として来たのだ。そのことは説明されずとも今の一言で頭に叩き込まれた。
リックは冷や汗が額から滑り落ちるのを感じながら必死に言葉を紡ぐ。
「畑の運営が軌道に乗るまでの一年間だけ徴収量を減らしてほしい、と頼んだんだ。その間は俺が人質としてそちらに行って働く。無条件に減らしてほしいとは言ってない。」
「で?一年経っても上手くいかなかったらお前が死ぬ代わりに量を減らすのを延長しろって?」
「畑というものは結果が出るまで時間がかかることが珍しくないから、もしものことを考えての保険だ。無期限の延長を望んでるわけじゃない。最初の一年で結果が出なかったら、もう一年……一年間だけでいいんだ。延長してほしい。……頼む、誰も死なせたくない。」
リックは不安に押し潰されそうな心地がしながらも必死にニーガンと目を合わせ続けた。逸らした瞬間に最悪の展開を迎えてしまいそうで恐ろしかった。
対するニーガンは無表情でルシールを肩に担ぎながら「今の話をまとめると……」と話し始める。
「徴収量を一年間減らして、畑の運営が上手くいったら元に戻す。その間はお前がサンクチュアリに来て労働者として働く。もし上手くいってなかったらお前の頭を潰す代わりに徴収量を減らす状態を一年だけ延長する。そういうことだな?」
ニーガンのまとめにリックは頷いた。
現状では徴収に必要な量の物資を確保し続けるのが困難だ。畑を拡大したり栽培方法を工夫しているが、結果が出るまでには時間がかかる。その現状を放置すれば、差し出す物資の量が足りずに罰として誰かが処刑される未来が待ち受けているのだ。
リックは悩み抜いた末に今回の提案をした。他に良い案は浮かばなかった。これが却下されたら町はお終いだ。
リックが必死の思いでニーガンを見つめていると、ニーガンの目が探るように一瞬細められた。
「とりあえず町の状態を見せてもらおうか。結論を出すのはそれからだ。」
リックは「わかった」と頷き、ニーガンを先導して歩き出す。
まずは以前からある畑を案内して、収穫量が少ないことや作物の出来が良くないことを説明する。改善するための工夫を行っている最中なので結果が出るのは先の話だと伝えると、ニーガンは無言で数回頷いた。
次に見せたのは新たに作り始めた畑だ。土を掘り起こして農作に適した土を混ぜたり肥料を撒くなどの土作りから行わなければならず、すぐに種蒔きや苗の植え付けができるわけではないのだと伝える。
ニーガンはリックが畑や農業について淀みなく説明することに少し驚いているようだったが、特に何も言及せず話に耳を傾けていた。
一通りの視察が済んだところでニーガンが「住人全員を呼んでこい」と言ったので、リックは数人の仲間に手伝ってもらいながら家々を回って教会の前に集まるように呼びかけた。
呼びかけにより教会前に集まってきた住人たちの顔には不安が滲む。住人同士で寄り添い合いながらも、恐るべき支配者の不興を買うことを恐れて言葉を交わせずにいた。
そんな住人たちを眺めていたニーガンは全員が集まったと判断して演説を始める。
「親愛なるアレクサンドリアの諸君、久しぶりに俺に会えて嬉しいだろう。嬉しすぎてチビりそうな奴もいるかもしれないが、少しの間だけ我慢しろ。俺が来たのはリックの提案の詳細を聞くためだ。お前たちはよく知ってるだろうから説明は省くが、なかなかにぶっ飛んだ提案だな。」
ニーガンはそこで口を閉じるとリックを見たが、すぐに住人たちの方に顔を戻して演説を続ける。
「さっき町の中を視察したが、お前たちが俺に差し出す物資集めに苦労してることは理解した。このままじゃ二ヶ月か三ヶ月先にはお前たちの誰かの頭が熟しすぎたトマトみたいに潰れることになるだろう。それは俺としても避けたい。……そういうわけで。」
ニーガンは悠然と微笑みながら告げる。
「二年間だけ徴収量を今の半分にしてやる。その間に死にものぐるいで働いて、畑を軌道に乗せるなり他に生産物を作るなりして物資を手に入れる基盤を整えろ。仕方ないから人質はなしで許してやる。」
ニーガンの言葉にリックは目を瞠った。
ニーガンの提案はリックの提案以上にアレクサンドリアにとって条件が良い。これならば先の希望が見える。有り難い条件だが、これをニーガンの方から提案してきたことに驚きを隠せない。
驚きと共にニーガンを見つめるリックの視線にニーガン本人は気づいた様子もなく「二年間だけだぞ」と言って人差し指と中指を立てた。
「期間を過ぎたら徴収量は元通りだ。物資の量が足りなかったら罰として誰かに死んでもらう。それが嫌なら今から全力で頑張るんだな。さあ、どうする?この条件を受け入れるか?」
ニーガンは全体に視線を投げながら問いかけた。その問いかけを受けて、アレクサンドリアの皆は戸惑ったように互いの顔を見つめる。
やがて、アーロンが「俺は受け入れたい」と声を上げた。それに続いてエリックが「僕もだ」と小さな声で主張し、他の住人たちも次々に受け入れの意思を示し始める。他に道はないのだと誰もが理解したのだ。
ニーガンは住人たちの声に満足げな顔をすると、リックに向かって「おい、リック」と呼びかけてきた。
「こいつらは俺の出した条件を受け入れるとさ。お前はどうだ?」
リックに問いかけるニーガンの顔に笑みはない。ただただ真剣な眼差しを寄越す男に向かって、リックは躊躇うことなく首を縦に振った。それを見てニーガンは微かに口の端を持ち上げる。
「よし、これで決まりだ。今日からの二年間は徴収量を半分にしてやる。お前たち、しっかりと励めよ。ほら、散った散った。」
ニーガンは追い払うような仕草を見せた後、リックの方に一直線に向かってきた。
これでニーガンの用事は済んだので今からサンクチュアリに帰るのだろう。そう考えたリックだったが、ニーガンに腕を掴まれた瞬間にその考えは吹き飛んだ。自分を見下ろすニーガンの目に先ほどまで存在しなかったはずの怒りが浮かんでいたからだ。
久しぶりにニーガンの怒りに当てられたためにリックの心臓は嫌な跳ね方をする。全身が心臓になったように感じられるほど大きく脈打つのだ。
ニーガンはリックの腕を掴んだまま歩き出し、低い声で「お前の家を教えろ」と命令してきた。それに逆らう術のないリックは大人しく道案内をする。
自分は一体どのような失敗をしてしまったのだろうか?
その疑問と後悔、そして恐怖がリックの中に渦巻いていた。
家に入って玄関ドアが閉まった途端にリックはニーガンに胸を強く突かれて壁に背中を打ち付けた。
「いっ──!ニーガン、何を……っ!」
思わず上げかけた抗議の声は途中で立ち消える。ニーガンに胸ぐらを掴まれて壁に押さえつけられたせいで息苦しく、それ以上は声を発することができなかった。
眼前に迫るニーガンの目には激しい怒りが宿っている。このままルシールで頭を殴り潰されても不思議ではないほどの怒りにリックは己の死を覚悟した。
リックが死を覚悟すると同時に「おい!」と怒声を吐くニーガンによって体を壁に打ち付けられた。
「お前、一年くらいでどうにかなるなんて欠片も思ってないだろ⁉最初から自分の命を捨てるのが前提で提案しやがったな!クソ野郎、俺をバカにしてるのか⁉」
ニーガンは怒りを剥き出しにしているが、リックは恐怖よりも驚きの方が勝った。自分の考えていたことをニーガンが見抜いていたことに純粋に驚いたのだ。
目を丸くして驚いているリックに気づかないのか、ニーガンは怒りの感情を高ぶらせながら怒鳴り続ける。
「町の中を見て回りゃバカでもわかる!一年やそこらで必要なレベルに到達できるわけないだろうが!二年でギリギリってところだ!簡単に死のうとしやがって、バカ野郎!お前みたいなやつを世界一のバカって言うんだ、リック!」
言いたいことを吐き出したニーガンは乱暴な手付きでリックから手を放した。肩で息をしながらもこちらを睨むことは忘れない。
リックは呼吸を整えながら乱れたシャツを直してニーガンと向かい合う。
「確かに、一年でどうにかなるとは考えていない。それは認める。だが、二年間も徴収量を減らしてほしいだなんて頼めると思うか?一年間でも却下される可能性が高いのに、二年間なんて言ったら処罰されるかもしれない。一年間と言うしかないじゃないか。」
「だから自分の首を差し出すってのか?」
その問いにリックは一瞬の躊躇いもなく頷いた。
「そうだ。そうでもしないと提案を受け入れてもらえるとは思えなかった。いいか、ニーガン。俺には自分の首以外に差し出せるものなんて一つもないんだ。」
ニーガンがリックを睨むのと同じように、リックもニーガンを睨みながら言い切った。
一年以上も徴収量を減らしてもらうにはリックの命と引き換えにするしかない。それ以外にリックが対価として差し出せるものはない。リックに残されているのは自分自身と家族である仲間たちだけだ。
皆を守るためなら死んでもいい。リックは本気でそのように思っている。
ニーガンは少しの間、こちらを睨みながら考え込んでいるようだった。しばらく沈黙した後に「お前はバカだ」と吐き捨てる。
「今の世界で人は貴重な資源だ。俺が罰として殺すのはそれが必要だからで、無駄な殺しはしない。それなのにお前は無駄に命を捨てようとした。」
「無駄なんかじゃない。」
「無駄だね。無駄な死だ。この町の大半は自分で尻を拭くこともできないような奴らばかりだぞ?パパが死んだら全員が野垂れ死にして、この町は死体だらけになる。間違いないね。」
ひどい物言いにリックは激しく反論したい衝動に駆られる。感情のままに反論して怒りをぶつけてやりたい。
しかし、その衝動を無理やり飲み込んで睨むだけに留める。
ニーガンは軽く息を吐くと、リックの顎を掴んで無理やり目を覗き込んできた。
「リック、俺の許可なく死ぬのは許さない。勝手に死んだらお前の仲間が後を追うことになるぞ。」
「なっ……!」
ニーガンは暗に「リックが死んだらアレクサンドリアの住人を殺す」と言っているのだ。余りにも勝手な命令に言葉を失った。
暴発寸前のリックの怒りはニーガンの次の言葉によって蒸発することになる。
「まだ俺はお前のことをほとんど知らないから、お前に死なれちゃ困るんだ。」
その言葉と共に意外なほど真摯な眼差しを向けられ、リックは怒りを忘れて目の前の男の顔に見入った。
今のニーガンにふざけている様子はなく、純粋に本心を零したのだとわかる。その瞳の奥に見つけた執着の色は見覚えのあるもの。リックに関する記憶を失う前のニーガンと同じだ。
それに気づいた途端にリックはひどく狼狽えた。心の奥底に封じ込めた「ニーガンが自分に執着した理由を知りたい」という思いが這い出てくるのを感じたからだ。
戸惑いのせいで身動き一つできないリックからニーガンの手が離れ、リックを戸惑わせる男はそれ以上は何も言わずに家から出ていった。
ニーガンの気配がなくなったことにより、硬直していたリックの体は動くことを思い出す。ヨロヨロとその場にしゃがみ込むと床に手を突いて体を支えた。
きっかけは不明だが、ニーガンは再びリックに執着し始めたようだ。そのためリックについて知りたいと望むようになったのだろう。先ほどの発言でそれは確定したと考えていい。
ニーガンは以前のようにアレクサンドリアに来るようになるだろう。
その予感にリックは呻き声に近い溜め息を落とした。
【 四章 】
賭けのようなリックの提案をきっかけに、ニーガンのアレクサンドリア通いが復活した。復活といってもニーガン本人には通っていた記憶はないのだが。
ニーガンは徴収日以外にもアレクサンドリアに行ってリックと会っている。その度にリックが顔をしかめてもそれを気にしたことは一度もない。リックは自分のものなのだから会いに行って何が悪いのだろう?
リックと過ごす時間を持つようになったからといって記憶が戻るわけではない。ドラマや映画で描かれる記憶喪失者のように記憶を思い出しかけた時に起きる頭痛はなく、何気ないことに既視感を覚えることもなかった。あんなもの、所詮はフィクションだ。記憶を取り戻すのは難しい。
ニーガンは記憶を取り戻すこと自体は早々に諦めている。研究者たちが日夜研究を続けても謎だらけの脳が記憶を取り出せないのなら、素人がどれだけ頭を悩ませても無駄である。無駄な努力をするよりもリック・グライムズという人間について知る方がニーガンにとっては重要なのだ。
*****
「よう、リック。会えなくて寂しかったぜ。」
アレクサンドリアの門が開くのを待っていたニーガンは、門を開けるためにやって来たリックに普段通りの挨拶をした。それに対して返ってきたのが嫌そうな顔というのは既に馴染みになっている。
「俺の記憶違いでなければ三日前の徴収の時にあんたは来たと思うが、それでも寂しくなるのか?」
癖になっていると思いたくなるほど眉間のしわが標準装備になっているリックは嫌味を言いながら門を開けてくれた。
ニーガンは軽く跳ねながら門の境を越えてリックの正面に移動した。
相変わらず不機嫌そうなリックの頬を指で突きながらニヤリと笑いかける。
「俺は寂しがりやでね。顔を合わせたのが三日前なら寂しくなるには十分だ。」
「それは知らなかったな。そんなことよりも今日は何しに来たんだ?」
ニーガンは愛想笑いの一つもしないリックに「散歩しよう」と提案した。
「散歩?」
聞き返したリックの眉間からしわが消えた。驚いてポカンとする彼に対して「そういう顔も悪くないな」という感想を抱きながら、顔を思い切り近づける。
「相互理解のために景色を眺めながら会話するってのは良い考えだろ?だから今日は散歩だ。俺とリックの二人だけでな。」
最後の一言にウインクを付け加えれば、リックは居心地悪そうに視線を彷徨わせた。
視線を合わせようとしないリックは散歩を断る理由を探しているようだ。自分にはニーガンの誘いを断る権利がないと理解しているはずなのに悪あがきをやめられないリックはとても面白い。
ニーガンは内心で面白がりながらもリックの顎を掴んで至近距離で目を合わせ、「断るつもりか?」と凄んでみせた。そうするとリックの顔に怯えが過る。ニーガンへの憎しみと殺意を募らせて、時にはそれを顔に滲ませながらも、心にこびり付いた恐怖を拭い去れずにいるのだ。そんなリックを見ていると泣くまで追い詰めてやりたい気持ちと、徹底的に甘やかしてやりたい気持ちが同時に湧き上がる。
相反する感情に浸るニーガンのことなど知らないリックは恐怖に顔を強張らせながら「行く」と囁くような声量で答えた。
「断ったりしない。あんたと一緒に散歩する。」
リックの返事を聞き、ニーガンはニカッと笑ってから手を離した。そのことに安堵の息を吐くリックに背を向けながら声をかける。
「ほら、ボサッとするな。行くぞ。」
さっさと歩き出せばリックが慌てて隣に並んだ。
リックと並んで歩きながら、ニーガンはあることを確認し忘れていたと気づく。
「リック、お前、武器は携帯してるのか?」
「ああ、持ってる。」
「それならいい。ナイフか?」
「いや、手斧だ。」
「手斧?……手斧なんて使ってるのか、お前。」
ニーガンはリックが使っているのが手斧と知って純粋に驚いた。大柄ではないリックが使う武器はナイフというイメージがあったのだ。
予想外の一面を知って目を丸くしているとリックが訝しげな顔をする。
「何か変だったか?」
首を傾げるリックにニーガンは「そうじゃない」と苦笑いを返した。
「意外とゴツいものを使ってることに驚いただけだ。お前は大柄なわけじゃないから、もっと小型のものを使うイメージがあった。」
素直に感想を告げれば「そうか」と一言だけ返ってきた。その顔が複雑そうなものだったので「どうした?」と尋ねた。
リックはニーガンから顔を逸らしながらポツリと呟く。
「──あの夜も、あんたは手斧に反応していたと……思い出しただけだ。」
苦々しい顔で答えたリックは眉間にしわを深く刻んだまま黙り込んでしまった。ニーガンはリックの横顔を見つめながら、彼が何かしらの感情や言葉を飲み込んだことに溜め息を吐きたい気分になる。
リックと関わるようになってから、彼はその瞬間に湧いた感情や言葉を飲み込むことがあると気づいた。
何がきっかけなのか全くわからないが、リックはニーガンに対して何か感情を抱いたり、それを言葉にしたいと思った瞬間があったはずだ。だが、彼がそれをぶつけてきたことは一度もない。いつも唇を引き結んで飲み込んでしまう。それがニーガンは気に入らなかった。
(このままじゃ奴は飲み込んだままだな。そろそろ攻め込んでみるか)
ニーガンはリックのことを知りたいと強く望んでいる。表面的なことや誰でも知っていることではなく、誰も知らない深い部分まで知っておきたかった。リックについて知らないことがあるなど耐えられない。
それほどに執着しているのだと受け入れてしまえば、後は一直線に突き進むのみ。
ニーガンは何も知らないリックを視線で射抜いた。
ポツポツと言葉を交わしながら散歩を続けた二人は休憩を取ることに決めて、路上に放置されていた車のボンネットに横並びで座る。足を投げ出して座るニーガンとは対象的に、リックは少しでも距離を置きたいのか縮こまるようにして座っていた。
ニーガンはリックとの間に存在する空間の広さに顔をしかめてリックの足を蹴った。
「蹴らないでくれ。」
リックから嫌そうな顔で抗議されてもニーガンは平然と言い返す。
「隙間なんて作るお前が悪い。こっちに詰めろ。」
「ほら、早くしろ」と言いながらもう一度足を蹴ると、リックはこちらを睨みながら距離を縮めた。腕同士が触れるか触れないかのギリギリの距離なので許すことにする。
ニーガンはリックから視線を外して顔を前方に向けた。リックも同じように顔を正面に向けており、揃って前方に広がる景色を眺める。
しばらくは無言で景色を眺めていたが、それに飽きたニーガンは本題に入ろうと決めて口を開く。
「リック、俺に言いたいことがあるだろ。」
回りくどい言い方をせずに言葉を投げつけると、リックが息を呑んだのがわかった。
数秒の沈黙の後に返ってきたのは「何もない」という短い言葉だった。
「嘘を吐くなよ、リック。お前が何か言いたげにしてから言葉を飲み込むのは飽きるほど見た。」
「あんたの気のせいだ。」
「気のせいじゃない。いいから吐け。俺に隠し事ができるなんて思うな。」
そのように告げてからリックを見遣れば、彼は頑なに前方を見続けていた。その横顔に浮かぶ困惑と焦りがニーガンの気のせいではないと証明している。
「俺はお前のことを知りたい。そうすりゃ記憶を失う前の俺がお前に執着した理由も、お前を庇った理由も掴めるかもしれない。そう思ったからだ。」
本心を打ち明けるとリックがゆっくりと顔をこちらに向けた。その目は驚愕に見開いている。
リックは目を見開いたまま「なぜだ?」と呟いた。
「今のあんたにとって記憶を失う前のことなんてどうでもいいだろう?俺はあんたが支配するコミュニティーの住人の一人というだけで、あんたが気にかけるような存在じゃない。」
「お前のくだらない意見はどうでもいい。俺は記憶を失う前の俺にとってのお前の存在の意味を知りたい。──それがわかれば、今の俺がお前に執着する理由も見えてきそうだしな。」
不思議なものだ、とニーガンはリックの目を見つめながら思う。
リックについての記憶を失う前の自分と同じように、今の自分もリックに惹かれて執着している。辿った道は全く異なるのに自分は目の前の男に執着した。そうなるようにDNAに埋め込まれているのではないかと疑いたくなる。
ニーガンは動揺に揺れるリックの目を美しいと思いながら「考えたんだ」と切り出す。
「俺が体を張ってお前を庇った理由を。俺は──」
「やめてくれ。」
リックは話を遮って拒絶を示した。必死に頭を振って「聞きたくない」と苦悩に満ちた声を絞り出す。
そのリックの態度に、ニーガンは自分の眉間にしわが寄るのを自覚した。
「何でだ、聞け。」
それでもリックは首を縦に振らない。
「嫌だ。言わないでくれ。知りたくない。」
こちらの言葉を頑なに拒むリックに腹が立つ。
ニーガンはリックに本心を差し出している。シニカルな笑みの下に本心を隠してきた男が格好つけることを捨てて本心を晒すのは、それほど相手のことを知りたいと願うからだ。ニーガンにとってリックはそのように願う唯一の人間だ。それなのにリック本人はニーガンが差し出そうとする本心を拒む。
腹が立って腹が立って、ニーガンは頭に浮かぶままに言葉をぶつける。
「それなら代わりにお前が言え。俺に言いたくて、それでも飲み込んできたことを洗いざらい全部吐き出せよ。そのことも俺は知りたい。お前のことを全部知っておきたい。言いたくない、なんてのは通用しないからな。」
そこまで言い切ればリックは悩ましげに眉を寄せて唇を噛んだ。退路を断たれた以上は本心を晒すしかない。
リックはニーガンから顔を逸らして目を伏せた。そうすることで長いまつげがよく見えるようになり、場違いにも「触ってみたい」と思った。
リックは目を伏せたまま唇を震わせる。
「……どうしてあの時、俺を庇った?どうして俺に……執着したんだ?」
リックから差し出された本心にニーガンは心の底から驚いた。全く予想もしていなかった言葉がリックの口から紡がれたことに信じられないような気持ちになる。だが、今の言葉は間違いなくリックが言ったのだ。
ニーガンが返すべき言葉を探している間にもリックは次々に言葉を紡いでいく。
「あんたに庇われた日から、あんたが俺を忘れた日から、ずっと俺の中に存在する疑問だ。数えるのも忘れるくらいに何度も考えて、それでも答えなんて出るわけがない。答えはあんたの……ニーガンの中にしか存在しない。そして、俺の求める答えを持つニーガンは記憶と一緒に消えた。もう永遠にわからない。」
悲嘆さえ滲む声にニーガンの胸は歓喜に満ちた。
リックが自分のことを考え続けていたという事実がどうしようもなく嬉しかった。彼の思考を、心を自分の存在で埋め尽くしたことが甘美さを伴って心に染み渡る。
ニーガンは笑みを堪えきれなくなりながらリックに問う。
「言わなかったのは答えが得られないからか?」
その問いにリックは「違う」と答えて再び視線をこちらに寄越した。
「知りたい気持ちと同じくらいに知りたくなかった。知ってしまったら、俺は今までと同じようにあんたを見ることができなくなる。……仲間たちと同じ熱量であんたを憎めなくなったら、俺は自分が許せない。」
その思いを言葉にすることさえ仲間への裏切りだというように苦悩に顔を歪めるリックをニーガンは哀れだと思った。
他者への愛情が時にリックを苦しめても彼は周りの者を愛さずにいられない。人を愛する限り苦しみ続けるリックは哀れだが、その姿を愛しく思う。恐らく記憶を失う前の自分も同じように愛しさを感じていたに違いない。
ニーガンは微笑みながらリックの頬に指を滑らせた。リックに触れた指先が熱を持ったような気がする。
「自分を許せなくなるとしても、お前は知りたいんだろう?俺がお前を庇った理由、それから執着した理由を。じゃあ教えてやる。」
その宣言をリックが拒絶することはなかった。頷きもせず、顔を逸らしもせず、ただ己の頬に触れるニーガンの指を許していた。それならば受け入れたも同然だ。
都合良く勝手に解釈したニーガンは目の前の彼に告げる。
「答えは『俺にはわからない』だ。それでも想像はできる。俺がお前を庇ったのは『どうしても死なせたくなかったから』。単純にそれだけだろう。今の俺も、きっと同じことをする。」
「……執着した理由は?」
小さな声で問われたことに対しては緩く首を横に振った。
「想像するのも難しいな。ただ、これは現在進行形の謎でもある。こいつに関してはこれから解明していけばいい。」
ニーガンの提示した答えにリックが溜め息を落とした。どうやら気乗りしないようだが、そんなことはニーガンには関係ない。
「気になるが、知りたくない。そう言っても無駄なんだろう?」
「おっ、わかってきたな。お前が逃げ回っても追いかけて耳元で囁いてやる。」
ニーガンは明るく笑うと、呆れ顔のリックの腕を引っ張って彼の体を自分の方に倒れ込ませた。「わあっ!」と慌てるリックは新鮮で面白い。
そして、胸に倒れ込んできたリックを両腕で拘束して少しだけ甘い声で囁く。
「いつか答えを聞かせてやるから、俺から離れるなよ。命令だ。」
その命令に小さな声で「わかった」と返ってきたので、ニーガンは「よし、良い子だ」と言って晴れやかに笑った。
目的の話ができたニーガンは散歩に満足したのでアレクサンドリアに戻ることにした。
町の方向に向かって歩くうちに、ニーガンは一つの疑問を思い出す。
「リック、俺がお前をサンクチュアリに呼んだ理由は何だったんだ?」
事件のあった日にリックがサンクチュアリにいたのはニーガンが呼び寄せたからだが、その理由を知る者は部下たちの中に誰もいなかった。そうなれば呼ばれたリック本人に聞くしかない。
ところがリックも「知らない」と首を横に振った。
「『一緒に酒を飲みたい』だの『部下になれ』だの言われたが、本当の目的が何だったのか俺にもわからない。建物のガイドツアーみたいなことをしている途中で事件が起きたから、結局は酒も飲まなかったしな。」
それを聞き、ニーガンは浮かんだ予想が正しいのかを確かめるためにリックに質問することに決めた。
「俺に『一緒に酒を飲みたい』って言われたんだな?場所は言ってたか?」
「俺に自分の部屋を見せたいとも言っていたから、きっとあんたの部屋で酒を飲むつもりだったんだろう。それが何かあるのか?」
首を傾げるリックに、ニーガンは「まあな」と答えてから更に質問を続ける。
「ガイドツアーってのは何だ?俺がお前を案内してやったのか?」
それに対してリックは「そうだ」と頷いた。
「建物の中のいろんな場所に連れて行かれて、その度にニーガンは俺に説明した。良い環境を見れば俺が部下になりたがるかもしれないと思ったらしいが……俺を部下にするだなんて冗談だと思う。」
「俺はお前に部下になるように誘ったのか?」
「ああ、幹部の椅子を用意するとまで言われたが、そんなの信じられるわけがない。あんたは俺をからかって遊ぶのが好きらしいから、その一種だ。」
「……なるほどねぇ。」
ニーガンはリックの回答を聞いた結果、リックについての記憶を失う前の自分が本気でリックを手元に置こうとしていたのだと気づいた。
大した思い入れのない相手に時間を割くほど暇ではないし、そんな無駄なことは嫌いだ。今までに冗談や遊びで部下になるよう勧誘したこともなかった。大切な資源である部下を集めるためにいい加減なことは絶対にできない。特に「幹部の椅子を用意する」という言葉は軽々しく言うべきものではないので、それは本気で言ったのだろう。
そして、自室で酒を飲むという話もリックを口説き落とすためだとしか考えられなかった。二人だけで話す時間を持ち、じっくりと攻め落とそうとしていたのだ。
残念ながら当の本人には全く伝わっていなかったようだが、今の自分にとっては有り難い。おかげで「本気でリックを口説き落として傍に置く」という楽しみができた。
ニーガンはリックの肩を抱いて彼の顔を覗き込む。
「これからを楽しみにしてろよ、リック。」
「どういう意味だ?」
「俺がどうやってお前を口説き落とすのか楽しみに待ってろって意味だ。」
その答えに目を丸くしたリックの額にニーガンは唇を押し当てる。
「えっ……!」
リックは額に掌を当てて、目玉が零れそうなくらいに目を大きく見開いた。ニーガンの知る限りでは一番の驚きっぷりだ。
ニーガンは驚くリックを見つめながら口を開けて大笑いした。そして、これから先の日々を思う。
リックと一緒に過ごす時間は間違いなく楽しい時間となる。
これは予感ではなく確信だ、とニーガンは珍しく素直な笑みを零した。
END