道なき未知を拓く者たち⑦ 冬が近づく中で始まった旅。それはリックが考えていた以上に困難なものだった。
農場に着く前の旅とは異なり、しっかりした準備ができないまま旅に出たため食料や物資の何もかもが不足していた。日ごとに朝晩の冷え込みが厳しくなっていくため服や毛布が足りず、食料に関しては森の恵みを探しても冬が近いせいでなかなか見つからない。武器も少ないのでウォーカーへの対応に不安が残る。
物資調達をしたくても都市部ではないので建物を見つけられる機会は少ない。運良く見つけることができても空振りで終わることもあった。
しかし、物資不足以上に頭を悩ませるのは定住することに慣れた自分たちの体だ。ずっと農場で暮らしていたグリーン親子はもちろん、長旅を経験したはずのリックたちも常に移動し続けなければならない状況にひどく疲れを感じていた。しっかりと体を休めることが難しいため疲れが溜まりやすく、少しでも多く休息時間を確保しようと野営の準備を始めるのは夕方よりも早い時間帯にしている。一日の移動距離は短くなるが、無理をして体調を崩す者が続出することは避けたかった。
困難ばかりではあっても全員で知恵や案を出し合ったり励まし合っているので今のところは何とかなっている。悲劇を乗り越えてきたグループには互いを労る空気が自然と生まれていた。これを維持していかなければならない、とリックは考えている。
そんな状況の中、リックはローリとシェーンの三人で話をする機会を設けた。
*****
暗闇の中で小さな焚き火を囲むのはリック、ローリ、シェーンの三人だけ。他の仲間たちは車の中で眠っている。夜間の見張りを担当するリックはローリとシェーンに「三人で話したい」と頼み、就寝前の時間を少しだけ貰うことになったのだ。
リックは焚き火の明かりに照らされた二人の顔を見ながら「無理を言ってすまないな」と話し始める。
「前から三人でゆっくり話したいと思っていたんだが、こんな状況だから余裕がなくて。そんなに時間は取らせないから少し付き合ってくれ。」
その言葉にシェーンが「気にするなよ」と明るく笑う。
「それで、話したいことって?」
「俺たちの関係についてだ。改めて話をするべきだと思う。」
リックの言葉にローリとシェーンはハッとした顔をして、次に互いに視線を向ける。それも一瞬のことで、二人はリックの方に顔を向けるとしっかりと頷いた。
リックは緊張を解すために軽く息を吐いた。
「俺たち三人の関係はとても複雑なものになってしまった。何もなかったように振る舞うことはできないし、前と同じ関係に戻ることもできない。全てが変わる前の……夫婦や親友には戻れない。俺には無理だ。」
その言葉にローリは何かを堪えるように目を閉じて頷き、シェーンも唇を噛みながら首を縦に振った。彼女たちも同じように考えていたのだろう。
リックは「誤解しないでくれ」と微かに苦笑を滲ませる。
「二人を嫌いになったわけじゃない。今でも大切に思っているし、大好きだ。それでも以前のような関係に戻ることを俺の心が受け入れない。それを許してほしい。」
リックにとってローリとシェーンは今でも大切な人だ。もし二人に危険が迫れば命懸けで助けに行く。
しかし、夫としてローリに触れることはできない。親友としてシェーンと関わることはできない。以前と全く同じようにはいかない。三人の間に起きた出来事はそれほどにリックの心の在り方に強く影響したのだ。
器から零れ落ちてしまった水は元に戻らない。それでも新たに水を注ぐことはできる。リックは三人の関係に新しい水を注ぎたかった。
「元に戻ることはできなくても新しい関係を築くことはできると思う。俺はローリとシェーンと友人としてやり直したい。本当に二人のことが大好きだから。だめか?」
リックの願いはローリとシェーンにとって意外なものだったらしく、二人とも目を丸くしてこちらを見つめている。
やがて二人の顔から驚きの色が消えて安堵が浮かんだ。そして、穏やかに微笑むローリが頷いた。
「何もなかったことにはできないって私も思っていたの。友人にさえ戻れないと……覚悟はしてた。でも、リックが望んでくれるなら私は友人としてあなたを支える。ぜひ、やり直させて。」
ローリに続いてシェーンも「俺もだ」と笑みを浮かべる。
「親友でいられなくなったのは自業自得だ。それでも友人としてやり直せるなら俺もそうしたい。俺だってリックが大事だ。……それにローリもな。君とも友人になりたい。」
シェーンはそう言ってローリを見る。ローリもシェーンに視線を返して「喜んで」と快諾した。
元々はローリとシェーンも友人同士だったのだ。二人が屈託なく笑い合う姿を今でも覚えている。再びあの幸せな光景を見られるようになれば嬉しい。
リックは「ありがとう」と感謝の言葉を口にしながらローリとシェーンそれぞれに手を差し出した。
「俺たちの友情をここから築き上げて大切に守っていこう。よろしくな、ローリ、シェーン。」
リックがそのように告げればローリとシェーンは心から嬉しそうに笑った。そして二人はリックが差し出した手を握り、二人も互いの手を握った。
三人で手を繋ぐことにより生まれた輪を見てリックは笑顔になった。それに釣られるようにローリとシェーンも笑顔を浮かべる。
その時、シェーンが「誓うよ」と穏やかな声で告げた。
「二人の友人として、生まれてくる赤ん坊もお前たちも絶対に守る。」
その誓いにリックはローリと顔を見合わせる。驚いたように目を瞠る彼女を見て、きっと自分も同じ表情をしているのだろうと思った。そのローリの顔に笑みが広がるのと同時にリックも笑みを浮かべながらシェーンの方に振り返る。
「ありがとう、シェーン。本当に心強い。」
「私も。心から感謝するわ。」
「やめろって。大げさだ。」
そう言って肩を竦めるシェーンをローリが「照れてるの?」とからかった。その光景にリックは自然と微笑む。
リックは二人の顔を見ながら「自分たちは今度こそ大丈夫だ」と確信した。
これから先、どれだけ苦しいことや辛いことがあっても三人の間に新たに生まれた友情は壊れない。今の自分たちなら何があっても乗り越えていける。そして、その確信に慢心して友情を手荒に扱うことは絶対にしないと誓う。今更ではあるが、友情とは慈しみ育んでいくべきものだと理解したのだから。
リックは「この友情を守り抜く」と自身に誓い、二人の手を握る己の手に力を込めた。
友人としてやり直すと誓い合った日を境に、リックはローリとシェーンとの間に漂う空気が変わったのを感じた。
農場を出た頃から気まずさはなくなっていたのだが、改めて話をしたことで最後の杭が抜けたのか、穏やかな雰囲気が自然と生まれるようになったのだ。それはリックにとって嬉しいことだった。
そして、大人たちの間に漂う空気が変わった影響を大きく受けたのがカールだ。両親の間に漂うぎこちなさや父とその親友との対立による緊張を感じ取って荒んでいた少年は、以前のように陰りのない笑みを見せるようになった。それだけでなくリーダーとして仲間たちをまとめる父の手伝いを進んで行い、身重の母を支えるために手を差し伸べることも多くなった。その成長ぶりを両親だけでなく大人たち全員が誇らしげに見守る。
変化はそれだけに留まらない。リックたち三人の関係が改善しただけでグループを薄っすらと覆っていた重苦しさが氷が溶けるように消えていったのだ。リックはその理由を自分の精神状態が安定したからだと考え、自分が仲間たちに与える影響の大きさを思い知らされたような気がした。
リーダーの精神状態は全体に影響する。安定していれば全体が落ち着き、不安定になれば全体が荒れ出す。極端なことを言えばリーダーの精神状態がグループの行く末を左右するのだろう。
例え、どんなことがあっても自分が揺らいではならない。
それは非常に困難なことではあるが、リックは仲間たちのためにその戒めを胸に刻んだ。
*****
季節は本格的な冬を迎えた。冬の空気が容赦なく体を冷やそうとしてくる。
冬に入ると食料の入手が格段に難しくなった。機会が少なくなったとはいえ、秋までは森に入れば木の実や小ぶりな果実を見かけたり、遭遇した動物を捕らえることもできた。それが冬になった途端に実りはなくなり動物も姿を消した。だからといって川に入って魚を獲るには水温が低すぎて試す気にもなれない。
今は秋の間に集めた食料で凌いでいるが、それが尽きるのも時間の問題だ。ある程度まとまった食料を手に入れなければ全員が飢え死にしてしまう。
そのような状況のある日、リックは昼食の時に仲間たちに次のように告げた。
「今日の移動は終わりにしようと思う。疲れが溜まってきているから体を休めてくれ。本当はどこかの家で休めるといいんだが、今日中に家が見つかるとは限らない。今日はここでキャンプしよう。」
車での旅。食糧不足。ウォーカーの脅威。それらは皆の肉体と精神を疲弊させる。
寒さの影響なのかウォーカーを見かけることは少なくなったが、一箇所に長く留まれば寄ってくることに変わりはなく、空き家を見つけても留まることができるのは三日程度だ。旅慣れていないグリーン親子は定住できない状況への疲れが他の者より大きく、三人とも顔色の良くない日が多くなってきた。グリーン親子以外の者たちの顔にも疲労の色が濃い。
風邪一つが命取りになる旅の中で疲労の蓄積は対処すべき課題だ。そのため、リックは今日の移動を昼でやめて残り半日を休息に当てようと考えたのだ。リックの思いは仲間たちにも伝わり、全員が賛同を示して頷いた。
昼食が終わると皆は野営の準備を始める。リックが特に指示しなくても各自で判断して動いてくれるので頼もしい。
リックは仲間と共に野営の準備をしてから調達用のリュックサックを背負った。
「森に入って食料を探してくる。夕方までには戻るから後を頼むぞ。」
リックはグループ全体に向けて告げてから返事を聞く前に足早に森へ向かう。返ってくるのが一人で調達に行くことを反対する言葉なのはわかりきっていたので、その前に出発してしまおうというのだ。
決して仲間を頼りなく思っているのではない。煩わしいわけでもない。リックの中にあるのは「疲れている仲間たちを休ませたい」という気持ちだけだ。
リックが周囲に視線を向けながら歩いていると後方から足音が追いかけてくる。振り返った先には呆れ顔のニーガンがいた。
「リィーック?一人だけで行くなんて俺が許すと思うのか?」
不満を滲ませるニーガンの声にリックは苦笑して、足を止めると体を彼の方に向けた。
「あんたにも休んでもらいたいんだが、無理か?」
その問いに返ってきたのは「無理だね」という答えだ。
「お前の仲間を守りたいって気持ちはわかるが、俺やあいつらだってお前を守りたいんだぞ。全員で協力し合って生き延びると言ったのは誰だったかな?」
「……俺だ。」
「その通り。リック、お前だ。だったら一人だけで動く癖は直せ。何かしようとする時にお前が言うべき言葉は一つ、『ニーガン、お願い』。それだけさ。」
そう言ってニヤリと笑うニーガンに釣られてリックは短く笑い声を漏らした。
こんな風にニーガンは肩に力の入ったリックを解そうとしてくれる。そのおかげで凝り固まらずにいられるのだ。
リックは微笑みながら「一緒に来てくれ」とニーガンの腕を軽く叩いて歩き出す。そうすると隣にニーガンが並んだ。
「おい、リック。たまにはハーシェルにも付き合ってもらえ。あの爺さんは食用キノコについてそれなりに知ってるみたいだぞ。」
その提案にリックは頷いた。
「それもそうだな。教えてもらいながら調達するのもいいだろう。」
「よし、今の言葉を忘れるなよ。」
満足げに笑いながら言葉を返したニーガンを見てリックは心が温かくなった。
相変わらず気温は低く、傍らを駆け抜ける風は冷たい。それでもニーガンから与えられた思いやりが心を温めてくれる。それがとても幸せなことなのだと噛みしめるリックは胸の奥が甘く疼いたような気がした。
天から雫が降り注ぐ。それは食料を探しているリックとニーガンを逃してはくれなかった。
天候が崩れる予兆はあった。黒い雨雲が近づいていたので、そのうちに雨が降るだろうと思っていた。その前に野営地に戻るはずが、予想よりも早く降り始めた雨にリックとニーガンは慌てて仲間のところへ戻ろうとする。
ポツポツと降り出した雨は少しずつ勢いを増していった。そのうちに激しい降りになるだろう。そうなった時にずぶ濡れになった全身を乾かす手段はなく、冷え切った体が体調不良に陥るのは目に見えている。そのため、偶然見つけた小屋に避難して雨が止むのを待つことに決めた。
リックたちが避難した小屋は休憩所として使われていたようで、二人掛けの小さなソファーとそれに合わせたテーブルが置いてあり、テーブルの上には電池式のランタンが用意されていた。ランタンの電池は十分に残っており予備の電池も備え付けてあったので有り難く使わせてもらうことにする。その他の家具は小型のキャビネットが部屋の片隅にあるだけだ。
それら以外にも毛布が二枚と大きなダンボールが一箱あった。ダンボールの中を確認すると缶詰が箱いっぱいに詰められていたので、二人は思わず歓声を上げる。これだけの缶詰があればしばらくは食料の心配をしなくて済むだろう。
リックは笑顔でニーガンと顔を見合わせた。
「やったな!これを持って帰ったらみんなが喜ぶ!」
「おう、あいつらのはしゃぐ姿が目に浮かぶぞ!」
リックはニーガンと喜び合ってから視線を窓の外に向ける。雨は小屋に駆け込んだ時よりも勢いを増していた。そのためリックは窓に近づいて外の様子を確認することにする。
窓から外を覗いてみれば、雨雲が広範囲に広がっているせいで夕方でもないのに薄暗かった。打ち付けるようにして降る雨の勢いは弱まる気配がなく、外に出た途端にずぶ濡れになるのは考えずともわかる。激しい雨のせいで視界も悪く、この中を移動するのは自殺行為としか思えなかった。これでは仲間たちのところに帰れない。
リックは窓の外を見つめながら「みんなのところへ帰れなさそうだな」と呟いた。
「雨の勢いが強い。止むまでにかかる時間は二時間か、三時間か……。雨が止むとしても暗くなった頃だろう。暗い中を移動するのは危険だから、それは避けたい。」
リックが考えを述べると、ソファーに座って缶詰の状態を確認し始めたニーガンが同意を示すように頷いた。
「今夜はここに泊まると腹を括るべきだな。あいつらは俺たちを心配するだろうが、この雨じゃ捜索を諦めて俺たちが帰るのを待つだろう。リック、あいつらなら大丈夫だ。」
「ああ、そうだな。」
リックはそのように返事をしながらも、自分たちを心配する仲間たちを思って胸を痛めた。
戻らない自分たちを待つことしかできないのは苦痛だろう。子どもたちを不安にさせてしまうのも心苦しかった。だからといって真冬に激しい雨の中を歩くのは得策ではなく、雨が止んだとしても夕方以降の移動は視界が悪くて危険だ。リックたちには「小屋で夜明けを待つ」という選択肢しか残されていない。
リックは視線を窓から無理やり引き剥がすと二枚の毛布を持ってソファーに近づいた。
「ニーガン、缶詰より先にジャケットを脱ぐのが先だ。体が冷えるぞ。ほら、毛布。」
リックはソファーの上に毛布を置いてから自分のジャケットを脱ぎ、壁に設置されている上着掛けに掛けた。ニーガンもお馴染みの革ジャケットを脱いだのでそれを受け取り、自分のジャケットの隣に掛けてからソファーに腰を下ろして毛布を肩から被る。毛布を被ると温もりを感じてホッとした。
リックは外の様子を気にしながら、ニーガンと共に缶詰の状態や賞味期限を確認したり雑談をして過ごした。激しく降り続いた雨は数時間後に小降りに変わったものの、その頃には外は暗闇に包まれていた。月明かりさえない状態だが、ランタンがあるおかげで真っ暗闇の中で過ごすことは免れる。
明かりが漏れないように窓のカーテンを閉めてからランタンを点けると、部屋の中がぼんやりと明るくなった。そうすることでニーガンのいつもと変わらない笑みがよく見えるようになった。
「さーて、ディナータイムといくか。」
ニーガンはそう言ってダンボールから缶詰を一つ取り出した。そのラベルを見てリックは顔を綻ばせる。
「ラビオリか。そんな洒落たものを食べるのは久しぶりだ。」
リックが喜ぶとニーガンも「そうだろ」と声を弾ませた。
「一つの缶詰を野郎二人で分け合うと量が足りないが……まあ、仕方ないよな。それでも久しぶりのパスタだ!」
ニーガンは上機嫌な様子で缶詰を開け始める。蓋が開くのに併せて漏れ始めたトマトソースの香りが鼻をくすぐり、リックは思わず唾を飲み込んだ。
やがてトマトソースの絡んだラビオリが姿を現す。ニーガンはキャビネットに収納してあった食器を二人分用意して、それに缶詰の中身を均等に盛り付けた。そしてラビオリの乗った皿をリックに差し出して微笑む。
「食おうぜ。旨いワインはないが、最高のディナーだ。」
リックは差し出された皿を受け取って笑みを返した。
「ああ、本当に最高のディナーだな。頂こう。」
ランタンの小さな明かりが部屋を照らす中でリックは夕食を食べ始める。温めていないので冷たいが、久しぶりのパスタはとても美味しかった。美味しいと思う度に残してきた仲間たちの顔が浮かんで「早く食べさせてやりたい」という思いが強くなる。
量の少ない夕食はすぐに終わってしまったが他にやることもないので眠るしかない。リックはランタンの明かりの強さを最小にして、ニーガンと「おやすみ」と挨拶を交わしてから目を閉じた。
目を閉じると雨音が一際大きく聞こえるようになった気がする。穏やかに降り続ける雨は確実に気温を下げて、暖を取る手段のない小屋の中を冷やす。雨に濡れたジャケットを脱いだリックが上に着ているのはシャツと肌着、そして薄手のカーディガンだけ。寒いのは当然だ。衣類が不足しているので薄着なのは仕方ないのだが、この格好だと毛布一枚では足りない。
リックが寒さに体を震わせた時、不意に体を抱き寄せられた。驚いたリックが目を開けて隣を見ると、ニーガンが穏やかな表情でこちらを見ていた。
「雨で気温が下がってる。くっついてる方が温かいぞ。」
ニーガンはそのように言ってから座り直した。それにより二人の間にあった隙間がなくなったので彼の体温を感じやすくなる。
抱き寄せる腕のたくましさと自分より少し高めの体温にリックは大きな安心感を得た。寒さと一緒に漠然とした不安まで溶けていくような気がして、自分の中でのニーガンの存在の大きさを改めて実感する。
「……ニーガンは温かいな。」
ポツリと零れた言葉に反応してニーガンが小さく笑った。笑ったことによる振動さえ愛おしい。
「これだけしっかりと引っ付いてりゃ温かいさ。」
「そういう意味じゃない。あんたが傍にいてくれるから、どれだけ辛くても苦しくても俺はそれを乗り越えて前に進める。」
リックはニーガンと目を合わせたまま素直な思いを伝える。
「いつも支えてくれてありがとう。ニーガンには出会った時から助けられてばかりだ。それなのに大変な旅に連れ回して本当にすまない。こんな状況でも傍にいてくれることに心から感謝している。……俺がどれだけ感謝してるのか伝わらないのがもどかしいな、本当に。」
ニーガンにはこれまでに何度も感謝を伝えてきたが、それでも足りない。どれだけ感謝の言葉を捧げても足りないほどに深く感謝している。
自分の感謝の気持ちが目に見える形になればいいのに、とリックは微かに苦笑する。この気持ちのほんの一部しか彼には伝わっていないように思えて、それがいつも悔しいのだ。
「──本当にお前はバカだなぁ、リック。」
呆れ混じりの優しい声が降ってくると同時にニーガンが額に己の額を押し付けてきた。リックは触れ合う額からじんわりと伝わる熱を感じながら目の前の彼を見つめる。
「遠慮なんかするな」と笑うニーガンの目はキラキラと輝き、彼は目を輝かせたまま甘く囁く。
「この世界で生きてきた中でお前と出会って初めて、俺は自分が生きていることを実感できた。心が死にかけてたのさ。そんな俺の心を救ったのはお前だ、リック。だから感謝も謝罪もいらない。俺はお前がいればいい。」
まるで恋人に囁くような声だ、とリックは頬が熱くなるのを感じた。顔が赤くなっているのではないかと心配になるが、薄暗い中では気づかれないと信じるしかないだろう。
リックは照れくささと誇らしさを感じながら言葉を返す。
「上手く言葉にできないんだが、その……ニーガンに出会えて嬉しい。本当に、そう思う。」
その言葉にニーガンは嬉しそうに目を細めて「ああ、俺もだ」と答えた。
それ以降は言葉がなかったが、ニーガンは自分の肩にリックの頭をもたれさせると改めて肩を抱いてくれた。その行為はリックをとても満ち足りた気分にさせてくれる。
外では相変わらず雨が降っていて気温も低いままだ。きっと雨は一晩中降り続き、夜明けが近づく頃には今よりもっと冷え込むのだろう。
しかし、小屋の中には思いやりと温もりが満ちている。だからリックは少しも寒くない。
リックは大きな幸福感に包まれながら傍らにある温もりに頬を寄せた。
ニーガンと二人だけで迎えた朝は快晴だった。リックは昨日の大雨が嘘のような空を見て笑みを浮かべる。
小屋で見つけた缶詰を一つだけ取り出して朝食を済ませてから、大量の缶詰を各自のリュックサックに詰めて出発の準備をする。ランタンまで詰めることはできなかったので手で持っていくことにして、乾電池をリュックサックに放り込んだ。
荷造りを終えたリックが小屋を出ると、先に準備を終えて外に出ていたニーガンがこちらを振り返った。ニーガンは毛布二枚を肩に担いでいる。
「待たせてすまない。行こう。」
その呼びかけにニーガンは頷いて応えて歩き出した。
地面は昨日の雨を含んで泥状になっており、歩くとグチャッという音がする。
「天気は最高に良いが、足元がクソ過ぎる。泥でグチャグチャだ。」
顔をしかめながらのニーガンの発言にリックは苦笑を返す。
「泥が跳ね返ってジーンズが汚れそうだな。」
「……もう汚れちまったよ。」
そう答えてガックリと肩を落とすニーガンを見たリックは声を上げて笑った。
このようなやり取りを続けながら歩くうちに見慣れた車や人々の姿が見えてきた。「おーい」と呼びかけて手を振れば、仲間たちはこちらの存在に気づいて駆け寄ってくる。
「父さーん!」
真っ先に近づいてきたのはカールで、彼は顔中に喜びを浮かべながら飛びついてきた。リックは空いた方の手で我が子の体を抱いて再会を喜ぶ。
そして仲間たち全員が口々に労いの言葉をかけてくれた。ニーガンに対しては無事を喜ぶだけで終わったが、リックは「一人だけで行くな」と全員から叱られてしまった。単独で調達に出かけたことは昨日のニーガンとの会話でしっかりと反省したので心を込めて謝るしかない。
十分に再会を喜び合ったところでリックとニーガンはリュックサックの中身を仲間たちに披露した。中から出てきたたくさんの缶詰を見て誰もが目を丸くする。
グレン、マギー、ベスの若者たちは缶詰を手に取りながら「すごい!」と興奮気味に話し、ローリとキャロルは「これなんて美味しそうね」と笑い合ってから子どもたちに缶詰を渡し、母親から缶詰を手渡されたカールとソフィアは一緒にはしゃいだ。シェーンとTドッグは熱心に缶詰の数を数えて、ハーシェルは穏やかな笑みを浮かべながら缶詰に喜ぶ皆を見守っていた。
久しぶりに仲間たちの弾けるような笑顔を見るリックの心に幸福感が広がっていく。どんな疲れも仲間たちの笑顔を見れば吹き飛んでしまう。この瞬間があるから踏ん張ることができるのだ。
リックが皆の様子を眺めているとニーガンが隣に立った。彼も仲間たちを見つめながら嬉しそうに笑っている。
「まったく、最高の光景だ。これを絶対に壊したくないって思う。」
ニーガンの感想にリックは「俺もだ」と同意する。
「みんなの笑顔を見たら、まだまだ頑張れると思えた。これからも全力で頑張るから……俺を支えてほしい。」
素直に願いを口にすれば「当たり前だ」という頼もしい言葉が返ってきた。
「ずっと一緒にいてやる。」
ニーガンはそのように宣言してからリックの肩に手を置いた。その手の力強さが頼もしい。
リックはニーガンの掌に意識を向けながら、目の前に広がる幸せな光景を見守り続けた。
先を走るリックたちの車が停まるのに合わせてニーガンは車を停車させた。リックが車を停めた理由はすぐにわかった。前方に家が見えたからだ。
助手席に座るTドッグが「久しぶりに車中泊から解放だな」と声を弾ませると、後部座席に座っているシェーンが「さっさと降りるぞ」と言って後ろのドアを開けた。ニーガンも運転席のドアを開けて外へ出る。
先頭を走っていたリックたちは既に車を降りていた。リックが家の周辺を見回っている中、車の傍らに立つローリにはカールとソフィアがボディーガードのように寄り添い、キャロルは拳銃を手にしながら周囲を警戒している。
ニーガンが家の正面に向かって歩いていると、ニーガンたちの後ろを付いてきた車に乗っていた者たちが追いついてきてグレンが隣に並んだ。
「他に家はなさそうだね。そうなるとウォーカーも少ないかな?」
「そう考えたいところだが、他の地域から流れてきてないとは言えないな。グレン、油断するなよ。」
「わかった。」
グレンはニーガンの忠告に頷くと、後ろを振り返ってグリーン親子にローリの近くへ行くよう声をかけた。ニーガンはそれを見遣ってから家の玄関ドアの前に立って中の様子を探るリックに近づく。
「物音は聞こえるか?」
「何も聞こえてこない。とりあえずドアを叩いてみよう。」
リックは問いに答えてからドアを強めに叩いた。しばらく待ってみても中からは何の音も聞こえてこない。
ニーガンはこちらを見たリックに頷き、それから仲間たちに顔を向けて「中に入る準備をしろ」という意味を込めて手招きした。
最初に家の中に入るリックがナイフを構えてドアの前に立ち、その後ろにシェーンとグレンが控える。ドアを開ける役目を引き受けたニーガンの傍らにはTドッグが立った。車の近くにいるローリと子どもたち、そしてハーシェルを守るのはマギーとベスの姉妹だ。キャロルは家の周辺を警戒して予期せぬ事態が生じた場合に対処する役割を担っている。
このように各自の役割が決まってから随分と経つ。個別に指示を出さなくとも各自で考えて動けるようになったのは全員が努力した結果だが、リックがしっかりと指揮を執ったことも大きい。弱い者たちが集まったグループは優しさと厳しさを併せ持った彼でなければまとめられなかっただろう。
そのような感慨にふける時間は数秒のこと。瞬時に己の役目に意識を切り替えたニーガンはリックの瞬きでの合図を受けてドアを開けた。
*****
家の中の安全を確保したニーガンたちはこの家に滞在するための準備を進めることになった。
寝泊まりに適した家屋を見つけられたのは久しぶりで、全員が長期の車中泊で疲れ切っていた。それを心配したリックが三日ほど滞在して疲れを癒やすことを提案したのだ。
ニーガンが「裏口の封鎖を強化しておくか」と考えていた時、ローリが「私はキッチンを担当する」と申し出た。
「食料や使えそうな物がないか探してみる。カールはリックを手伝ってあげて。」
その言葉にカールが戸惑った顔をする。
「母さん一人でキッチンを見るの?僕が一緒にいた方がいいんじゃない?」
「大丈夫。この前、『父さんを手伝えることを増やしたい』って言ってたでしょう?たまには父さんを手伝ってあげなさい。」
「うん、それはそうだけど……」
カールは肯定しながらも心配そうにローリを見つめている。身重の母を心配する少年のためにニーガンは手を挙げた。
「俺がローリと一緒にキッチンを見る。だからカールはリックを手伝って裏口の封鎖を強化してこい。これも覚えておかなきゃならない仕事だぞ。だろ、リック。」
ニーガンがそう言ってリックに話を振ると彼は「その通りだ」と答えて頷いた。そして、カールの肩に手を置いて微笑みかける。
「母さんの手伝いはニーガンに任せて俺を手伝ってくれ。母さんを手伝ってくれる人がいれば問題ないだろう?」
「うん、それなら大丈夫。じゃあ、今日は父さんを手伝うね。」
「よろしく。じゃあ、みんなも頼むぞ。」
リックの号令により各自が自分の仕事に取り掛かるために散っていった。
ニーガンはローリに近づいて手を差し出す。その手をキョトンと見下ろしてから顔を上げた彼女にウインクを飛ばしながら告げる。
「お手をどうぞ、お姫様。」
恭しいお辞儀も追加してやればローリは堪え切れずに吹き出す。そして笑いながらもニーガンが差し出した手に己の手を乗せた。
「あなたにエスコートしてもらえるなんて光栄ね。」
「まあ、近場だけどな。」
ニーガンは肩を竦めながら言葉を返すとローリを連れてキッチンに足を運ぶ。
家全体を見ても荒らされた様子はなかったが、他の部屋と同様にキッチンも散らかっていなかった。周辺には特に建物がないので、この家には家主以外に誰も来ていないのだろう。
「エスコートしてくれてありがとう。」
ローリが感謝を告げてから手を離したのでニーガンも手を下ろし、「始めるとするか」と言って探索を開始する。
ローリにはキッチンカウンターの引き出しの中を見るように頼み、自分は頭より高い位置にある収納スペースを漁った。全ての扉を開けてみたが、そこに収められているのは調理器具や食器ばかりだった。それらは既に十分な数が揃っているので新たに持っていく必要はない。
ニーガンが落胆の息を吐いた時、しゃがんで物資を探していたローリが「あっ!」と声を上げた。何か見つけたようだ。
「どうした?何か良いものでも見つけたのか?」
ニーガンは尋ねながらローリの隣にしゃがみ込む。そうすると目を輝かせた彼女がこちらを見た。
「塩と砂糖の袋があった。まだ開封してないみたい。」
ローリはニーガンの問いに答えながら引き出しの中から二つの袋を引っ張り出した。
姿を現したのは未開封の塩と砂糖の袋だ。塩と砂糖は味付けだけでなく健康を維持するためにも欠かせない。在庫が残り少なくなってきたので、このタイミングで未開封のものを手に入れられるのは有り難かった。
ニーガンは発見を祝うために短く口笛を吹いた。
「こいつは掘り出し物だな。他には何か見つけたか?」
ローリはそれに対しては頭を振った。
「目ぼしいものは何も。この家の住人は必要なものを持って逃げたんでしょうね。塩と砂糖を残してくれただけでも有り難いわ。」
「やっぱりそうか。俺の方も特に必要なものは見つけられなかった。もうここに用はない。他の奴らを手伝おうぜ。」
ニーガンはそのように告げて塩と砂糖の袋を抱えて立ち上がった。そのままキッチンを出ようと出入り口に体を向けた時、ローリから「待って」と呼び止められる。
振り返ると立ち上がったローリが真っ直ぐに視線を寄越してきた。
「話があるの。少しだけいい?」
「ああ、いいぞ。それで、話ってのは何だ?」
ニーガンは持っていた塩と砂糖の袋を床に下ろしてローリに向き合った。
ローリは深呼吸をした後、緊張した様子で口を開く。
「カールを出産した時は帝王切開だったから今回の出産でもそうなる。出産そのものが命懸けだけど、環境が整わない中での帝王切開は私の体への負担が更に大きくなると思う。……もし私が死んだらリックを支えてあげてほしい。それを頼みたかったの。」
ローリの話は予想もしていなかった内容なので始めに驚きが来て、その次に抱いた感情は不快感だった。自分が死ぬことを前提に話してほしくない。
ニーガンは不快感を隠さずに顔をしかめて「冗談じゃない」と首を横に振り、明確に拒絶を示した。
「子どももリックも残して逝くつもりか?そんな頼みを聞けるわけないだろ。自分が死ぬことを前提に考えるような奴の話を聞くほど暇じゃない。」
ニーガンはこれ以上の会話を拒むために厳しい言葉を吐き捨てた。
ニーガンの言葉や態度に滲む怒りに触れたローリは「誤解しないで」と必死に言い募る。
「私は生きたいと望んでるし、友人としてリックを支えていきたいとも思ってる。大事な人たちを残して死ぬのも嫌。でも、器具や環境が整わないだけじゃなくて私の体調も万全な状態を保てない。そんな状況での帝王切開はダメージが大きいの。ハッキリ言って、私が出産を乗り越えて生きられる可能性は高くない。」
ニーガンはローリの主張に対する反論材料を持っていなかった。
臨月を迎えた時に定住可能な場所を確保できている保証はない。過酷な旅を続けたままローリの体調を良好な状態に保つのは難しく、出産時に彼女の体力がどれだけ残っているかわからない。出産する環境や妊婦の体調を万全な状態に整えても出産では何が起こるのかわからないのだから、今の状況で子どもを産むのは非常に危険なのだ。
ニーガンが言葉に詰まって何も言えずにいると、ローリは慰めるように腕に触れてきた。
「ニーガン、私を励まそうとか慰めようなんて思わないで。この子を産むと決めた時から覚悟はしてる。リックにも覚悟はしておいてほしいと伝えてあるわ。リック自身を含めた誰のことも責めないでほしいともね。」
そのように語るローリは柔らかな笑みを浮かべている。死を覚悟しながらも自然に笑うことができる彼女にニーガンは尊敬の念を抱いた。
ローリは微笑んだまま「ねえ、ニーガン」と呼びかけてきた。
「リックは強いけれど弱い人よ。完璧なんかじゃなくて普通の人。とても優しい、普通の人。私がいなくなったら悲しむし、きっと自分を責めて落ち込む。だから彼自身や子どもたちのためにも彼を支えてくれる人が必要なの。」
「それが俺なのか?」
「そう。あなたしかいない。」
ローリは力強く頷いてニーガンの言葉を肯定した。
「あなたとリックが深く信頼し合っているのは見ていればわかる。あなたならリックが立ち上がるための手助けができる。勝手なお願いなのはわかってるけど……私が死んだ後、リックを支えてほしい。お願い。」
こちらを真っ直ぐに見るローリの目は澄んでいる。その美しい目にはリックへの深い愛情が確かに存在していた。
ローリは自分の体が出産の負担に耐えられないと悟っている。出産を経験し、その上で今の自身の状態から導き出した答えに絶望しないわけがない。だが、彼女は前を向いて愛する者たちのために自分ができる最大限のことを行おうとしている。その気持ちに応えたいと心から思う。
ニーガンは「わかった」と首を縦に振った。
「リックを支えたい気持ちはずっと持ってるが、改めて君に誓う。何があっても俺がリックを支える。あいつを一人にはしない。」
ニーガンは誓いの言葉を述べてからローリに手を差し出した。無性に彼女と握手をしたかった。
ローリはニーガンの手をジッと見つめて、穏やかに微笑むと手を握り返してきた。細い指であっても握手を交わす力は強い。その力を感じると彼女の生命力を信じたくなる。
「ニーガン、ありがとう。本当に感謝してる。」
「礼を言われるようなことじゃないさ。だけどな、生きる努力はしてくれよ。俺は仲間を失いたくない。」
それはニーガンの心からの願いだ。ローリは大切な仲間。彼女が死ねば寂しくて悲しい。
ローリは一瞬だけ目を瞠ったが、すぐに笑顔を見せてくれた。その目が潤んでいることは敢えて指摘せずにおく。
固い握手を交わした後、どちらからともなく手を離した。そして床に置いた塩と砂糖の袋をニーガンが拾おうとした時、そのうちの一つをローリが拾って胸に抱えた。
「ローリ、それは俺が持つ。貸せ。」
そう言ってニーガンが手を差し出してもローリは首を横に振った。
「これぐらいは平気。ほら、行きましょう。みんなを手伝わないと。」
朗らかに笑うローリは先にキッチンを出ていってしまった。それを目を丸くしながら見送ったニーガンの顔には次第に笑みが広がっていく。
「強くなったもんだ。──いや、元から強かったのかもな。」
様々な困難や混乱によって弱ってしまい、元々持っていた強さが隠れてしまうこともある。それが人間だ。それを乗り越えれば本来の強さを取り戻すことができる。それもまた、人間なのだろう。
ニーガンは「本当に素晴らしい仲間たちに出会えたものだ」と思いながら目を閉じる。愛すべき仲間たちと出会えたことに感謝すると同時に、その機会を与えてくれたリックと出会えた喜びを改めて噛みしめた。
もう少しだけここに留まろう、とニーガンは目を開けた。そして笑みと共にキッチンを見回す。そこにはローリとの会話で生まれた優しい空気が残っているような気がした。
To be continued.