Savior「俺を殺してくれないか、ニーガン。」
リックが落ち着いた声で告げた言葉が耳にまとわりつく。
毎回飽きもせずこちらを睨みつけてくる男が珍しく穏やかな顔をしたと思ったら、とんでもないことを言ってきた。その穏やかな表情には似合わない物騒なセリフに遠慮の欠片もなく頭をぶん殴られる。
いつかきっと、リックは自分の前からいなくなる。髪の毛一本さえ残さずに跡形もなくキレイに消えてしまう。
その予感に強烈な嫌悪を抱き、ひどい目眩がした。
*****
気まぐれにアレクサンドリアを訪問したニーガンは自分の方に急いで走ってくる人物を見てニヤリと笑う。その人物とは、この小さなコミュニティーのまとめ役であるリック・グライムズ。ニーガンがアレクサンドリアに来た時に出迎えるのも彼の大切な仕事の一つだ。
ニーガンの目の前まで来たリックは肩で息をしており、すぐには声を出せないようだ。そんな彼に顔をグイッと近づける。
「急いで来たみたいだな、リック。そんなにも俺に会いたかったのか?嬉しくて泣きそうだ。」
ニヤニヤと笑いながら話しかけると、リックはとても嫌そうに顔をしかめて体を引いた。その態度は失礼としか言いようがないが、ニーガンは広い心で許すことにした。
そのリックは機嫌の悪さを隠そうともせずに睨みつけてくる。
「徴収日は明後日だ。何をしに来た?」
警戒心を剥き出しにするリックの顔には微かに怯えが滲む。染み付いた恐怖を消すのは簡単ではないということだ。
そんなリックを見る度にニーガンの股間は欲望に疼いた。性欲の対象は女であるはずが、リックだけは例外だ。彼の表情の一つひとつがニーガンを魅了する。
そんな風に思っていることを笑みの下に隠してリックの全身に視線を滑らせた。彼のジーンズのポケットからはみ出ている作業用手袋には土が付いており、ジーンズの裾やブーツも土に塗れている。よく見れば顔も少しだけ土で汚れていた。アレクサンドリアには畑があるので、リックは先ほどまで農作業をしていたのかもしれない。
ニーガンはリックの全身を眺めてから改めて顔に視線を戻した。
「随分と汚れてるな。泥遊びでもしてたのか?俺も付き合うぞ。」
そう言ってからかってやれば、リックは眉間のしわを深くして「そんなわけないだろう」と溜め息混じりに答えた。
「畑で作業中だったんだ。あんたが楽しめることは何もない。」
「ちょっと待て。何を楽しいと感じるか決めるのはお前じゃなくて俺だ。そうだろ、リック?」
顔を覗き込みながらリックの顔に付いた土を指で払ってやると、ニーガンの眼差しから逃れるようにリックが視線を地面に落とした。それを見てニーガンは喉の奥で笑い、一歩後ろへ下がった。
「よし、決めたぞ。今日はお前の仕事ぶりを見学する。だから畑へ案内しろ。ほらほら、急げよ。」
ニーガンが急かすとリックは渋々といった様子で歩き出す。
訪問する度に畑が拡張されていることには気づいていたが、リックが農作業に勤しむ姿を見たことは一度もない。数え切れないほどウォーカーや敵を屠ってきた男の意外な姿を見られることにニーガンの心は浮き立つ。
ニーガンは今の楽しい気分を口笛に乗せた。前を歩くリックがそれに反応してチラッと振り返る。軽く睨んできたので口笛が気に入らないのかもしれないが、それはニーガンには関係ないことだった。
「こいつは意外だった」とニーガンが驚く目の前でリックが手際良く手を動かしている。
農具を使って畝を作る動きはスムーズで、その畝に種を撒く作業も慣れたものだ。動きに迷いがないのは体で覚えているからなのだと見ただけでわかる。ニーガンは初めて見るリックの一面に純粋に驚き、そして尊敬の念を抱いた。
しゃがんで作業していたリックは一通りの仕事が終わったところで立ち上がった。そのリックにニーガンは称賛を贈る。
「大したもんだな。立派に畑仕事をやれてる。正直に言って、お前と畑仕事っていうのが結びつかなかった。農園でも経営してたのか?」
その問いにリックは首を横に振った。
「違う。昔は保安官だった。畑を耕すようになったのは今の世界になってからで、ガーデニングさえやったことがなかった。」
「保安官、ね。クソ真面目なお前にはお似合いの仕事じゃないか。素人を一人前の農夫に育て上げたんだから、お前に畑仕事を教えた奴はよっぽど良い先生だったんだな。」
ニーガンがからかい半分に放った言葉にリックは反応しなかった。普段であれば顔をしかめたり睨みつけてくるはずだが、彼はこちらに顔を向けず遠くを見つめている。
ニーガンが様子のおかしいリックを訝しげに見つめていると、彼は独り言のように話し始める。
「俺に畑仕事を教えてくれたのは農場を営んでいた人だ。仲間を守るために冷酷になっていく俺に拳銃を置いて命を育む道を示そうとした。……たぶん、彼は俺を息子のように思っていたんだろう。」
思いがけず語られたリックの過去にニーガンは目を瞠った。彼が過去について語ろうとしたことは今までに一度もない。
リックが自身のことを語って聞かせる機会は二度と巡ってこないだろう。だから今は絶対に邪魔をしてはならない。
ニーガンは黙ってリックの横顔を見つめることにした。
「俺に新しい道を示そうとしたその人は俺たちの家を奪いに来た男に首を刎ねられて死んだ。最初に襲ってきた時に殺しておくべきだったのに、逃げたあの男を追いかけずに放置した俺のせいだ。」
思い出すのも辛いはずの過去をリックは淡々と語った。淡々とした口調だからこそ彼の喪失感の大きさを物語っているように思える。
ニーガンが何も言わないことをリックは気にした素振りも見せずに話し続ける。
「家を失った後、一時的に避難した家にならず者たちが入ってきて、身の危険を感じたから逃げた。その時に奴らのうちの一人を殺した。仲間を殺された報復のために俺を追ってきた奴らがカールや仲間を殺そうとした。全員を殺さなかったせいなのか、一人だけ殺したせいなのかわからないが、いずれにしろ俺のせいだ。」
遠くを見つめながら話し続けるリックの心はここにはない。彼の心は遠く過ぎ去った過去にある。
「終着駅というコミュニティーに行った時のことだ。そこは生存者を助ける振りをして自分たちの食料にする奴らの拠点で、俺も仲間も捕まった。脱出する時に拠点を壊滅させたが、俺は生き残りを捜し出して始末しなかった。そのせいで俺たちを追ってきた生き残りに仲間の足が食われた。俺は奴らを見逃すべきじゃなかった。」
次から次へと出てくる話の重さにニーガンは呻きたくなった。誰もがきつい経験をしている世界ではあるが、リックが経験してきたことは心を壊してもおかしくないほどのものだ。
ニーガンは「もう話さなくていい」と言いたくなる気持ちを堪えてリックの話に耳を傾け続ける。
「何人も仲間を失いながら旅を続けて、ようやく辿り着いたアレクサンドリアにも問題はあった。それでも協力し合って乗り越えて……みんなで幸せになれると信じていた。それを壊したのは俺の驕りと甘さのせいだ。俺が、仲間を死なせた。俺のせいで仲間が死んだ。」
感情を失ったように話し続けていたリックは顔をこちらに向けると真っ直ぐに目を合わせてきた。その澄んだ目が美しくも恐ろしい。リックの中で踏み越えてはいけない線を踏み越えてしまったように感じられて仕方なかった。
ニーガンは冷や汗が頬を伝うことにより、自分がひどく緊張していると気づいた。喉も渇いている。
ニーガンが緊張で渇いた喉を潤すために唾液を飲み込んだ瞬間、リックがこちらに向けて微笑んだ。それは初めて見る穏やかな微笑みだった。
しかし、その穏やかな笑みを浮かべるリックの口から飛び出したのは衝撃的な言葉だ。
「あんたと出会った日から、ずっと考えていることがある。もしかしたら俺は仲間を死に導く人間なのかもしれない。誰よりも一番死ぬべきなのは俺なのかもしれない、と。……ずっと、そんなことを考えてきた。」
ニーガンの心はリックが口にした言葉の意味の理解を拒んだ。脳では処理できても心では処理できなかった。引きつった笑みを浮かべながら「は……?」と返すのが精いっぱいだ。
「リックがバカみたいなことを口走ったのは正気を失っているからだ」と信じたかった。だが、彼の目に狂気はない。そこには理性的な光だけが存在している。
普段であればリックの眼差しが自分に注がれることに愉悦を覚えるが、今はその眼差しを拒みたい気持ちが強い。できるものならば彼の口を塞いで、これ以上バカなことを言えないようにしてしまいたかった。それなのに足が地面に縫い付けられたように動かない。
その場から一歩も動けずにいるニーガンはリックの形の良い唇が動く様子を凝視する。
「もし俺がアレクサンドリアのみんなにとって良くない存在だと……アレクサンドリアのみんなを死に追いやる人間だとあんたが判断したら、その時には──」
「俺を殺してくれないか、ニーガン。」
その瞬間、ニーガンは頭を鈍器で思い切り殴られたような衝撃を受けた。とてもショックだった。
ニーガンがショックだったのはリックが自身の救済を望んでいないことだ。リックは心が壊れてもおかしくないほどの重荷を背負いながらも自身の救済は求めていない。自分が救われることなど頭の片隅にもないだろう。それどころか仲間が救われるためなら自分の命など些末なものだと思っているに違いない。
だから、いつかきっとリックはニーガンの前からいなくなる。髪の毛一本も残さず、跡形もなくキレイに消え失せる。置き去りにされた人間の気持ちなど考えもしないで、リック・グライムズという人間は消えてしまう。
その予感にニーガンは強烈な嫌悪を抱き、その嫌悪は目眩を引き起こした。強い目眩を感じたニーガンは目をギュッと瞑って額に掌を押し付ける。それにより足元から崩れ落ちそうになるのを堪えた。
目眩が去った後、ニーガンの頭はクリアになった。衝撃が駆け抜けた後に残ったのは一つの決意。
(──俺がリックを救う)
*****
リックから衝撃的な言葉を告げられた後の初めての徴収日。ある目的のためにニーガンはアレクサンドリアのゲートをルシールで叩いた。
「ここを開けろ、子豚ちゃん。お前たちの大好きなニーガンが来てやったぞ。」
いつも通りの声を出しながらも、その顔に笑みはない。
ゲートが開くとリックが緊張した様子で待ち構えていた。その正面に立ったニーガンは見上げてくる彼の目を見つめ返す。目を合わせると「この男を絶対に死なせない」と熱い思いが全身を駆け巡った。
そしてニーガンはリックを救うために、ある提案を口にする。
「リック、この町の徴収量を今の半分にしてやる。それからダリルも返す。その代わりに──」
ニーガンは突然の話に困惑するリックの手首を掴み、顔を近づけて至近距離で視線を重ねた。その行為にリックの困惑の気配が濃くなったが、そんなことはどうでもいい。
ニーガンはリックから少しも目を逸らさずに告げる。
「俺と結婚してサンクチュアリに来い。俺がお前を救ってやる。」
その言葉にリックの目が見開かれた。驚いて声も出ないリックを見つめながら、ニーガンの心の中にあるのは目の前の男を救うことだけだった。
アレクサンドリアに暮らす者たちを救うためにリックが自らを犠牲にするというのなら、彼をそこから引き離せばいい。
リックをこの世に縛り付けるための鎖がないというのなら、契約という名の枷を嵌めてしまえばいい。
リックの背中に乗っている重荷が彼を押し潰そうとするのなら、その全てを取り上げてしまえばいい。
リック自身が救われることを望まないのなら、彼の意思など無視して勝手に救ってやればいい。
この一方的な命令にリックは怒るだろう。「勝手に決めるな」と拒絶するはずだ。だが、それでいい。リック自身は何も変わらないままニーガンに救われていればいいのだ。
ニーガンは揺るがない決意を胸に秘めたまま、いつもと同じように口の端を上げて笑った。
END