「クリスマス」と定めた日に 調達からの帰り道、空には灰色の雲が広がっていた。冷たい空気を更に冷やすような曇り空の下をリックとアーロンの乗る車がアレクサンドリアに向けて走っている。
ハンドルを握るリックが寒さに体を震わせた時、アーロンが「今は何月ぐらいなんだろう?」と呟くように尋ねてきた。
「まだ雪は降ってないけど冬だとは思うんだ。リックは何月ぐらいだと思う?」
「十二月の中旬か終わり頃ってところじゃないか?もしかしたら今日は雪が降るかもしれないぞ。冷え込み方が昨日までと違うから。」
「ああ、そうかもしれないね。……雪か。あんまり歓迎はできないな。」
苦笑混じりに返ってきたアーロンの言葉にリックは同意を示して頷いた。
救世主に差し出す物資を確保するのは日に日に厳しさが増している。雪が降り積もれば調達に支障が出るだろう。できれば雪には遠慮してもらいたいところだ。
リックはそんなことを考えながらフロントガラス越しに曇り空を見上げて溜め息を飲み込む。
やがてアレクサンドリアの町を守る壁が見えてきたが、その近くに数台の車が停まっていることに気づく。救世主の車だ。徴収日でもないのに救世主が来ているということはリーダーであるニーガンが来ていると考えて間違いない。
「リック、あれって──」
アーロンが戸惑い気味に言いかけた言葉の続きをリックが引き取る。
「ニーガンだろうな。」
リックは眉間にしわを寄せて、先ほど飲み込んだはずの溜め息を吐き出した。
気まぐれな救世主のリーダーはフラッと町に現れてはリックを連れ回すことを好む。どうやら、自分に逆らうことのできない相手をからかって遊ぶのが楽しくて仕方ないようだ。「悪趣味だ」と吐き捨てたくなる気持ちを押し殺してニーガンに付き合わなければならないため、ニーガンの来訪はリックの憂鬱の種になっている。
今日は一体何に付き合わされるのか、と溜め息を吐くリックの心も曇り空へと変わっていった。
*****
「やーっと帰ってきやがった!待ちくたびれたぞ、リック!」
リックは自宅の玄関ドアを開けた途端に飛んできた忌まわしい声に反射的に顔をしかめる。
家の中にはニーガンがいた。この家はリックの家ではあるが、リックのものということはニーガンのものでもある。勝手に入り込まれていても文句など言いようがない。
リックは山ほどある文句を腹の底に押し込めながら家の中に入ってドアを閉めた。
「俺を待たせる奴なんてお前くらいだぞ、リック。今日は調達に行ってたんだってな。収穫はあったか?」
「日用品が手に入った。今日は徴収日じゃないから、渡すのは次の徴収日で構わないな?」
リックが鋭い眼差しを向けながら尋ねると、ニーガンは「それでいいぞ」と答えてニヤッと笑う。
細かいことではあるが、きちんと確認しておかないと調達してきたものを持っていかれてしまう可能性がある。徴収日以外に物資を持っていかれては徴収日当日に差し出す物資が足りなくなるので困るのだ。こうした些細なことがリックの疲労を大きくする。
リックは一気に疲労感が大きくなったような気がして軽く目を閉じた。再び目を開けた時、ニーガンはこちらに背を向けてキッチンへの移動を始めていた。
ニーガンはキッチンに入ってから再びこちらへ顔を向けた。その顔には楽しそうな笑みが浮かんでいる。そして、その笑みのまま口を開く。
「なあ、今は何月だと思う?」
唐突な質問の意図が読めず、リックは首を傾げる。
「十二月ぐらいだと思うが……それがどうかしたのか?」
「十二月と言えばクリスマスだろ?そういうわけで今日がクリスマスだと決めたから、お前にクリスマスプレゼントを贈るために来た。」
ニーガンは答えを口にすると冷蔵庫を開けて、中からリンゴ一つとバターを取り出した。それは今朝までは冷蔵庫に存在していなかったものだ。視線を移せば調理台の上に砂糖らしきものが入った瓶が置いてある。それも始めから家にあったものではない。
リックはニーガンが食材を持ってきたのだと理解して顔をしかめる。
「ニーガン、あんたからの施しを受けるつもりはない。引き換えに何かを渡せ、と言われても困る。悪いが、持ち帰ってくれ。」
リックがそのように告げてもニーガンは「わかった」とは言わない。軽く肩を竦めて「よく聞けよ」と苦笑する。
「クリスマスプレゼントだって言っただろ?それにな、これは俺も食うために持ってきた。お前は俺と一緒にクリスマスを祝えばいいだけさ。」
ニーガンはそのように答えてウインクを飛ばしてきた後、オーブンを弄った。どうやら予熱を始めたようだ。その次は迷う素振りも見せずに引き出しから調理用ナイフを取り出してリンゴの芯を取り除き始める。リンゴを半分に切り分けずに芯を取り除くのは簡単ではないはずだが、ニーガンは器用にナイフを動かして上手にくり抜いていく。そして、底に穴を空けることなく芯を取り出してみせた。
ニーガンの器用さにリックが目を丸くする中、芯が取り除かれたリンゴにバターが詰め込まれていく。穴をバターで塞いだ次には砂糖がたっぷりと注がれたので、ぽっかりと空いた穴は完全に塞がれてしまった。
リックにはニーガンが何を作ろうとしているのかが全くわからず、戸惑いを乗せた視線をニーガンに向ける。そうするとニーガンが目を細めて笑いながら「焼きリンゴだ」と答えた。
「本当はアップルパイを作りたかったんだが、流石に材料が揃わなかった。まあ、焼きリンゴも旨いからいいだろ。」
ニーガンは「もう少し待てよ」と言いながらアルミホイルを敷いた鉄板にリンゴを乗せて、十分に温められたオーブンにそれを入れた。後は焼き上がるのを待つだけとなる。
ニーガンは使用した調理器具を洗い始めたが、すぐにその手を止めて顔をこちらに向けた。
「リック、ブランデーが残ってるはずだ。そいつを持ってきてグラスを用意しておけ。二人分だぞ。」
その指示にリックは頷き、酒類を収納してある物置部屋へ向かう。
いつの頃からか、ニーガンはお気に入りの酒をリックの家に置くようになった。もちろんリックに許可を得たわけではなく勝手に持ち込んだのだ。そのため、他の部屋に比べて室温の低い物置部屋には酒のボトルがいくつも保管されている。
リックは物置部屋のドアを開けて入り口近くに置かれているブランデーのボトルを見つけた。それを持ってダイニングルームに戻り、食器棚から背の低いグラスを二つ取り出してダイニングテーブルに置く。グラスにブランデーを注ぐのは後で構わないだろう。
ニーガンの指示通りに準備を終えたリックはキッチンに立つニーガンに視線を投げた。
ニーガンはしゃがんでオーブンを覗き込んでいる。その顔に浮かぶ笑みが無邪気に思えて、憎い男の意外な表情を目撃したリックは瞬きを繰り返した。夢でも見ているような心地だ。そのことに居心地の悪さを感じて、意味もなく二階に上がって寝室に入る。
「……何か、しよう。」
リックは独り言を漏らした後、自分の部屋を見回して何か済ませておくべき用事がないか考えた。必死に頭を捻って思いついたのがニーガンのためにベッドメイクをすることだった。
ニーガンは時々リックの家に泊まることがあり、その際はリックと寝室を共有している。ニーガンに泊まってもらいたいとは欠片も思わないが、思いつくことがそれしかなかった。
リックはマットレスの代わりとして床に敷いた毛布の上に広がる使用済みのシーツを取り払い、寝乱れてグチャグチャになった毛布を整える。その次はクローゼットから洗濯済みのシーツを取り出して毛布の上に敷いた。それが済むとニーガン用の毛布と枕を引っ張り出してきて寝床の上にキレイに並べていく。
そのようにベッドメイクを進めていると、ノックもなく部屋のドアが開かれてニーガンが姿を見せた。
「こんなところにいたのか。……何してる?」
リックは意外そうに目を丸くするニーガンを見上げながら「あんたの寝床の準備だ」と答えた。その答えにニーガンの目が更に大きく見開かれる。
「今日は泊まるなんて言ってないぞ?」
「いや、そうなんだが、一応……あんたが泊まるかもしれないと思って。」
正直に「お前の笑った顔を無邪気だと感じたことに居心地の悪さを覚えたから逃げてきた」などと言えるはずがなく、無理やり答えを捻り出すしかなかった。
しかし、ニーガンはリックの答えを気に入ったようだ。ニヤリと笑いながら己の顎を擦る男の目には喜色が滲む。
「熱烈なお誘いを受けちゃ仕方ない。今日は泊まっていくことにしよう。」
その返事にリックは深く溜め息を吐きたい気分になった。結果的にニーガンを泊まらせるように仕向けてしまったことに対する後悔しかない。
憂鬱な気分になったリックとは対照的に上機嫌なニーガンは「そろそろ下りてこい」と明るい声で言った。
「もうすぐリンゴが焼ける。完璧な焼き加減だぞ。」
そう言ってから、リックの返事を待つことなくニーガンは引き返していった。
廊下から微かに聞こえてくる口笛は聞き慣れたクリスマスソングだ。人々を幸せな気持ちにしてくれるはずのクリスマスソングもニーガンの手にかかれば忌まわしいものへ変わる。リックを憂鬱な気分にさせるだけの呪われた歌でしかない。
リックは一つ溜め息を零してから立ち上がり、ニーガンの待つ一階へ行くために階段をのろのろと下りていった。
オーブンから取り出された焼きリンゴは少しも焦げた匂いがせず、リンゴとバターの芳しい香りを堂々と放つ。芯を取り除いたことにより生まれた穴を塞いでいたバターと砂糖は液状になってリンゴの中に留まっている。
ニーガンは焼きリンゴを一枚の皿に移すと、その皿を持ってダイニングテーブルに移動した。ダイニングテーブルにはリックが用意したブランデーとグラス以外にも二組のナイフとフォークが隣同士の席に置かれていた。その二つの席の間に焼きリンゴの皿が鎮座する。
ニーガンは椅子を後ろに引いてからリックに「どうぞ」と座るよう促してきた。リックはニーガンの顔から視線を逸らさずに椅子に座る。
「ありがとう、ニーガン。」
忘れずに感謝の言葉を告げれば、ニーガンは満足げな笑みを浮かべて頷いた。そして自らもリックの隣の席に腰を下ろす。
リックはニーガンが着席したことを確認してからグラスにブランデーを注ぎ、ニーガンの分を先に渡してから自分のグラスに酒を注いだ。
グラスを手に持ってリックを待つニーガンに倣ってリックもグラスを手に取る。
「カレンダーがないから今日がクリスマス当日なのかわからないが、俺が今日をクリスマスと定めたらクリスマスだ。俺とお前が一緒に過ごす初めてのクリスマスなんだから、きちんとお祝いしないとな。そうだろ、リック。」
相手をからかうことを心底楽しんでいるといった様子の笑みが腹立たしい。それでもリックは怒りを飲み込んでからニーガンの望む言葉を口にする。それが仕事だ。
リックは己の眼差しに鋭さが混ざることを自覚しながらニーガンを見つめ返す。
「──メリークリスマス、ニーガン。」
その言葉に楽しげな響きは全くない。それでもニーガンは楽しげに笑う。
「メリークリスマス、リック。」
グラス同士が軽くぶつかる音が鳴り、グラスの中のブランデーが揺れた。
リックはニーガンと視線を交わらせたままブランデーに口を付ける。芳醇なブランデーの味を楽しむ余裕は今のリックにはない。
リックは一口飲んだだけでグラスをテーブルに戻した。ニーガンは半分ほどを飲んでからグラスをテーブルに置き、焼きリンゴの皿が体の正面に来るように座り直してからナイフとフォークを手に取る。そして焼きリンゴを半分に切り始めた。
「一枚の皿のものを分け合うって良いと思わないか?すごく親密な感じがする。」
リックはニーガンの言葉に対して何も返さず、リンゴから溢れ出てくるバターと砂糖の混合液を凝視する。リンゴにまとわりついて浸食するそれがニーガンのように思えた。そして、侵食されるリンゴが自分なのだとも。
リックの目の前ではニーガンが自分の分の焼きリンゴを一口サイズに切って口に入れて、美味しそうに咀嚼していた。それを飲み込んだ後は満足げに息を吐いて感想を述べる。
「甘くて最高に旨い。バターが効いてるんだよな。アップルパイもいいが、これぐらいシンプルなのも悪くない。……おい、早く食べないと冷めるぞ。」
ニーガンに促され、リックはニーガンと同じように座り直してから焼きリンゴに向き合う。
しっかりと焼いたリンゴは柔らかくなっており、バターが染み込んだ部分は少し色が濃い。食べやすい大きさに切ってフォークに刺し、口元まで運んでいくと甘い香りが鼻先をくすぐった。香りの良いそれを口の中に放り込めば、リンゴと砂糖の甘みとバターの濃厚な旨みが口の中で混ざり合う。一口で終わるには惜しいと思ってしまうくらいに焼きリンゴは美味しかった。
リックが一口目の焼きリンゴを飲み込んで二口目を口に入れた時、ニーガンからの視線を感じた。焼きリンゴに注いでいた視線を上げてみれば、ニーガンが興味深げにこちらを見つめている。
リックは視線を逸らしたい気持ちを堪えて問う。
「何か聞きたいことでもあるのか?」
それに対してニーガンは「ある」と首を縦に振った。その聞きたいことが何なのかは予想がつく。
「リック、俺が作った焼きリンゴの感想は?」
予想通りの質問にリックは控えめな溜め息を落とした。
「……旨い。」
その一言だけを告げてニーガンから視線を逸らし、次の一口を食べる。
確かに、ニーガンの作った焼きリンゴは美味しい。それは認めよう。それでも素直に伝えるのは嫌だったので、ニーガンから問われるまでは何も言いたくなかったのだ。
リックが焼きリンゴを味わいながらニーガンにチラッと視線を向ければニヤリと笑われた。その笑みが不快だったので瞬時に視線を焼きリンゴへ落とす。それに構わずニーガンが「よし!」と喜んだ。
「その一言が聞きたかったんだ。ディナーも楽しみにしておけよ。俺なら有り合わせでも最高のディナーを用意できる。」
そのように話すニーガンの声は随分と楽しそうだ。顔を見なくても彼がウキウキしていることが伝わってくる。
何がそんなにも楽しいのだろう、と不思議に思ったリックは顔をニーガンに向けた。
美味しそうに焼きリンゴを頬張るニーガンの顔には笑みがある。その笑みが普段とは違って素直な笑みに感じられる。先ほどのような無邪気な笑みに見えるのだ。リックは見慣れない類いのニーガンの笑みに戸惑う。
「あんた、せっかくのクリスマスを過ごす相手が俺なんかでいいのか?」
戸惑う心がリックに問いかけの言葉を吐き出させた。
ニーガンとは必要最低限の会話で済ませたい自分が自ら疑問を投げかけたことにも戸惑うリックの耳に笑い声が届く。ニーガンを見遣れば、肩を震わせて笑うニーガンの姿が目に映った。笑いながらこちらを見るニーガンは嬉しそうだ。
「可愛いことを言ってくれるじゃないか、リック。心配しなくても誰かの代わりなんかじゃないさ。クリスマスを過ごす相手はお前がいい。」
そう言ってウインクを飛ばしてくるのは普段のニーガンと変わらない。だが、そのな笑みは普段のものとは何かが違う。
(いつものニーガンらしくない笑みだから……調子が狂う)
リックは落ち着かない気持ちになり、ニーガンと目を合わせていられなくなる。それを隠すために焼きリンゴに視線を戻し、一口サイズに切ったものを口に運んだ。
リックが無心で焼きリンゴを口に運び続けていると、ニーガンから「リック、外を見てみろ」と呼びかけられた。その声を受けて窓の方に顔を向けた途端に目を瞠る。
「──雪。」
思わず漏れた言葉の通り、窓の向こう側では雪が舞っている。知らない間に降り始めていたようだ。
その時、ニーガンが立ち上がってリックの手を取った。驚いて相手を見上げると、意外にも穏やかな眼差しが注がれる。
「せっかくだから雪が降るアレクサンドリアを観賞するぞ。来い。」
返事をする暇もなくリックはニーガンに手を引かれて窓際へ連れて行かれた。
窓から見えるアレクサンドリアの町は白に染まっている。道路には薄っすらと雪が積もっており、このまま降り続けば道路は雪で完全に覆われるだろう。僅かな時間で別世界へ変わっていくことが不思議と新鮮に感じられる。
リックが目の前の景色に目を奪われていると背中に温もりが触れた。ニーガンが自身と窓の間にリックを挟むようにして立ち、己の上半身をリックの背中に密着させてきたからだ。
リックが微かな緊張と共に振り返れば、小さく微笑む男と目が合う。
「ホワイトクリスマスか。悪くないね。記憶に残るクリスマスになった。」
そのように語る声は柔らかく、表情はひどく穏やかなものだった。その事実がリックを更に戸惑わせる。
他人の血に塗れて嘲笑を浮かべる暴君はどこへ行ってしまったのだろうか?こんなにも穏やかな雰囲気をまとうニーガンをリックは知らない。むしろ知らない方が良かったのだろう。
戸惑いに揺れるリックのことなどお構いなしに、窓の外では粛々と雪が舞い降り続けた。
End