餓鬼を飼う 信長は常に「満たされない」という思いを抱えている。何が満たされていないのかということはわからない。ただ漠然と「何かが満たされない」という感覚が続いていた。
その「満たされない」という思いが消える瞬間はあった。例えば、諸大名や家臣などから「流石だ」「お見事」などと褒め称えられた時。都に暮らす民からの評判が上々だという報告を受けた時。「この名品は織田様が持つべきもの」と貴重な品が献上された時。己の存在が皆から認められたと実感する瞬間だけ、信長の中の何かが満たされるのだ。
しかし、それは長くは続かない。掴めたと思った次の瞬間には手の中からすり抜けていく。満たされた時間はほんの一瞬で終わってしまう。
満たされたい。正体も理由もわからないものであっても満たされたいと望む。これはいったい何なのだろうか?
その答えを幼い頃からずっと探し続けている。
*****
「──殿。……殿!」
物思いに沈む信長を十兵衛の声が現実に引き戻した。
信長は目覚めたばかりのように瞬きを繰り返してから、己の正面に座す十兵衛に視線を向ける。こちらを見る十兵衛の目には気遣いの色があった。
「殿、お体の具合が悪いのでしたら医者を呼びまする。よろしいでしょうか?」
そのように伺いを立てた十兵衛は腰を浮かせて立ち上がろうとしている。すぐにでも医者を呼びに行くためだ。
信長は「必要ない」と首を横に振った。
「すまぬ。少々、ぼうっとしておった。」
そのように返して苦笑いを浮かべる。
十兵衛と軍議を行っている最中だというのに「満たされない」という思いに引きずられてしまった。そのことについて考え出すと他のことに気が回らなくなってしまうのでいけない。普段は気をつけているのだが、目の前にいる相手が十兵衛ということで気を抜いてしまったのだろう。
気を引き締めねば、と思い直す信長の視線の先では十兵衛が腰を浮かせた姿勢を維持していた。
「殿にしては珍しいですな。お疲れなのでは?此度の件は急ぎではございませぬ。日を改めましょう。」
信長の体調を案じた十兵衛は今日の軍議を切り上げることに決めたらしい。このままでは「御免」と頭を下げて退出してしまいそうだ。それを防ぐために信長は「待て」と咄嗟に彼を呼び止めた。
呼び止めたものの、次に紡ぐべき言葉が浮かばない。呼び止められた十兵衛は姿勢を崩さずに信長の言葉を待っている。
どのように説明すれば伝わるだろうか?だが、自身でも掴めていないものを説明する方法がわからない。「何かが満たされない」と打ち明けても十兵衛とて困ってしまうだろう。
信長は十兵衛と視線を重ねたまま己の内を探る。
(満たされぬもの……飢餓感、とでも言えば良いのだろうか?)
常に何かが満たされない状態。それを満たしたいと渇望しながら生きてきた。それを言い表すならば「飢餓感」という言葉が近い。そのように考えると何かがすとん、と落ちたような気がした。
「満たされない」状態から解消されるのは己の存在が他者から認められたと実感する時。そのために高みを目指し続ける己は飢えに苦しんで手当たり次第に何かを食らおうとする餓鬼のよう。もしかしたら自分は腹に餓鬼を飼っているのかもしれない。
再び己の考えに沈みかけた信長の耳に十兵衛の「殿?」という声が届いた。信長は十兵衛に意識を向けて笑みを作る。
「──腹が空いたのじゃ。」
己の口から飛び出した答えに信長自身が驚き、正面にいる十兵衛も目を丸くした。
十兵衛は座り直してから「空腹、でございますか」と困惑した様子で呟いた。
「殿、お食事は?」
「済んでおるが、量が足りなかったのやもしれぬな。」
信長は空腹ということで押し通すことに決めた。他に説明しようがないのであれば空腹という理由で誤魔化した方が良いだろう。
それに対して十兵衛は背筋を伸ばしたまま思案する素振りを見せた。
「次の食事までには時間がございますな。何か菓子をお持ちするように申し付けた方が……」
「それには及ばぬ。死ぬほど飢えているわけではない。」
そのように言って信長は笑い声を上げた。
何かが満たされぬからといって死ぬわけではない。苦しくて悶え転がるということもない。それでも徐々に蝕まれていくような気がする。
苦い感情が信長の心に染み出した時、十兵衛が動いた。彼は懐から紙の包みを取り出して、それを差し出しながら「御免」という言葉と共にこちらへ近づいてきた。
「よろしければ、こちらをお召し上がりくだされ。」
差し出されたのは干し柿が一つ。十兵衛の両手の上に広がる紙に美味そうなそれがちょこんと座っている。
信長は干し柿をじっと見つめてから十兵衛の顔に視線を戻した。
「そなた、いつも干し柿を持ち歩いておるのか?」
その問いに十兵衛は苦笑を滲ませる。
「いつもというわけではありませぬ。疲れた時などに甘味が欲しくなりますので、時折。」
甘味を持ち歩くという行為が十兵衛と結びつかない。意外だとしか思えなかった。
そのように思ったことが顔に出ていたらしい。十兵衛は気まずそうに咳払いをしたが、すぐに微笑を浮かべて信長を見る。
「この量では腹を満たすには足りませぬが、気を紛らわすことはできましょう。毒味は私がいたします。」
十兵衛は「失礼」と断ってから干し柿を割いて小さな塊の方を自分の口に入れた。そして、ゆっくりと咀嚼してから飲み込む。信長は十兵衛の喉が動く様子を瞬きせずに見つめた。
十兵衛は一つ息を吐くと、信長の分の干し柿を改めて差し出してきた。干し柿と共に差し出された彼の微笑みを見た途端に胸の奥にじんわりとした温もりが生まれる。
信長は干し柿を丁寧な手付きで手に取り、少し眺めてからそれを食む。柔らかな干し柿は簡単に噛み切ることができた。口の中に入れたそれを少しだけ噛んで舌の上で転がすと、上品な甘さがゆるゆると広がっていく。干し柿の甘味と旨味に思わず頬が緩んだ。
「美味い干し柿じゃ。程良い甘さが良い。」
「それは良うございました。」
「干し柿はわしの好物の一つ。まるで、わしのために持参したようなものじゃな。そなたであればそれぐらいは容易かろう。評価を上げたな、十兵衛。」
そのように言ってからかってやれば、十兵衛は目を細めて笑った。
「全くの偶然にございます。しかし、今後は殿のために干し柿を携帯するようにいたしましょう。殿が空腹で倒れられては困りまする。」
「ほう?今の言葉、忘れぬぞ。」
信長はニヤリと笑って言葉を返した。そして、口の中の干し柿を飲み込んでから二口目を口にする。
十兵衛から差し出された干し柿を食べた瞬間から「満たされない」という思いが消えた。それだけでなく彼から向けられた笑顔が胸の奥を温め続けている。
十兵衛が傍にいてくれるのならば、この「満たされない」という思いも消えてなくなるのかもしれない。
信長はその思いを胸に秘めて干し柿の甘さを堪能した。
*****
今日も信長は「何かが満たされない」という状態にある。
十兵衛から差し出された干し柿の効果は一晩しか続かなかった。翌朝には「満たされない」という思いが復活してしまい、そのことに肩を落としたというのは記憶に新しい。それでも一晩も持続したというのは異例である。通常は一瞬で終わってしまうのだから。
信長は家臣たちとの軍議の最中に先日の干し柿を思い出した。あの干し柿が食べたい。
十兵衛の掌の上にある干し柿を思い浮かべていた信長を佐久間信盛が控えめに呼ぶ。
「殿。……殿、この件については以上でよろしいでしょうか?」
信長は干し柿を頭の中から追い払い、少し距離を空けて座す家臣たちに目を向ける。呼びかけてきた佐久間信盛だけでなく他の家臣たちも訝しげな眼差しを寄越してきた。
信長は気を取り直すように咳払いをしてから「それで構わぬ」と答えた。
「本日はこれで終いじゃ。皆、帰って良いぞ。」
主君の言葉を受けた家臣たちは揃って頭を下げ、次々と退出していった。その中で十兵衛だけが座したままこちらを見ている。
「まだ何か用があるのか?」
そのように問うと十兵衛は神妙な面持ちで首を縦に振った。
何事であろうか、と首を傾げる信長の前まで移動してきた十兵衛は姿勢正しく座り直す。その次には己の懐に手を入れて何やら包みを取り出した。
「殿が空腹でいらっしゃるのではないかと思いまして……こちらを。」
開かれた包みの中身を見て、信長は目を見開いた。そこには先日と同様に干し柿がある。
信長は干し柿を凝視した後、目を見開いたまま十兵衛の顔を見た。
「もしや、わしのために持ってきたのか?」
驚きを隠せない信長に対して十兵衛は「左様でございます」と微笑む。
「先日、『今後は殿のために干し柿を携帯する』とお約束いたしました。殿との約束を忘れはいたしませぬ。」
それを聞き、信長は喉に熱い塊が詰まったような感覚を味わった。目頭が熱い。鼻の奥もツンとする。
十兵衛が自分との約束を忘れずにいてくれたことや、自分の異変に気づいてくれたことが嬉しかった。彼が自分を見ていてくれることに大きな喜びを感じたのだ。
今回は干し柿を食べずとも「満たされない」という思いが消えた。そのことを不思議に思いながらも「十兵衛だから」と思えば全てのことに納得がいく。
信長は小さく息を吐き、瞬きを繰り返してから笑みを浮かべた。
「せっかく十兵衛が持参したのじゃ。馳走になろう。」
そのように言いながら干し柿を手に取る。その行動に慌てた十兵衛が「先に私が毒味をいたします」と申し出たが、信長は首を横に振ってこれを拒否する。
「毒味はいらぬ。そなたがわしに毒を盛るはずがない。」
その言葉に目を丸くする十兵衛には構わず干し柿に齧り付いた。その瞬間に口の中に広がった甘さに笑みを零さずにいられない。
微笑みながら干し柿を頬張る信長を見る十兵衛は「参りましたな」と苦笑した。
「今後は殿にお出しする前に毒味をすることにいたしましょう。」
「そなたが持ってきたものであれば毒味などいらぬと言うのに。それならば次からは分け合って食べれば良かろう。」
「殿がお許しくださるなら。」
「わかった。今後は二人で分け合って食べよう。十兵衛、次からは二人分を持参せよ。」
「はっ。」
十兵衛は短く答えると折り目正しく頭を下げる。それがわざとらしく感じられて思わず笑いが漏れた。そうすると顔を上げた十兵衛も声を上げて笑う。
十兵衛と共にいる時は信長の中の何かが満たされる。「満たされない」という思いが不思議と消えてなくなるのだ。不思議な男だとつくづく思う。
もし腹の中に餓鬼がいたとしても飼い慣らすことができるだろう。自分の傍らには十兵衛がいてくれるのだから。
信長はそのように確信して、己の腹に居座る餓鬼に甘い干し柿を与えてやった。
終