「鈍い奴」と誰かが言った 織田・徳川の連合により甲斐の武田家は滅んだ。両家が長きに渡って苦しめられてきた武田家を打ち破った喜びは大きく、戦が終わった直後にはささやかな祝勝会が催された。その祝いの席を辞退した徳川家康に十兵衛は付き添い、祝勝会の行われている部屋から離れた一室で家康と過ごすことになった。
家康が「織田家の皆様には身内だけで気楽にお過ごし頂きたい」と別室へ向かう姿を見て、それでは徳川家に対して申し訳が立たないと考えた十兵衛は自ら家康の接待役を申し出て、信長はそれを許可した。
しかし、首を縦に振った際の信長の目には怒りが燻っていた。それに気づいた瞬間に十兵衛は背筋がヒヤリとして、その感覚はしばらく消えなかった。
宿敵を滅ぼした祝いの席に水を差されたと感じて憤慨しているのか。身内以外を優先したと解釈して気分を害したのか。「三河贔屓だ」と不満に思っているのか。どれだけ考えても理由はわからなかった。最近は特に主君の考えが理解できない。
体の芯が冷えたような感覚を引きずりながらも家康が居る部屋に向かえば、家康は十兵衛を喜んで迎えてくれた。その後は二人だけで穏やかに酒を飲み交わす。
優しげな口調の中に強い意思が滲む家康との会話は心地が良かった。彼の治める地域の話は興味深く、共通の思い出話は懐かしくて楽しい。特に話が盛り上がったのは統治論だ。己の領地のために統治について熱心に学ぼうとする姿勢が好ましく、十兵衛も越前での寺子屋時代を思い出して熱が入った。
戦術の話ではなく民の暮らしを良いものにするための話は楽しい。捕らえた敵将の処分ではなく様々な施策について論じ合うことが楽しい。十兵衛は家康との会話によって久しぶりに「楽しい」という感覚を味わった。
その楽しい時間も瞬く間に終わり、十兵衛が織田家の者たちのところへ戻ろうとした際に家康から思いがけない依頼をされる。安土城への招待を受けた家康は饗応役に十兵衛を指名したと言う。「自分にとってはまだ信長様は恐ろしい」と信長への疑心を仄めかせる家康は毒殺を警戒しているのだ。そのようなことを言われてしまえば断りようがない。
十兵衛は去っていく三河の大名の後ろ姿を見届けながら憂いに表情を曇らせる。
長きに渡って武田に対抗するため手を取り合ってきたはずの徳川は織田を信用していない。過去に援軍を出し渋ったことも影響しているのだろうが、味方を切り捨てることが増えてきた近年の信長の動きを不安視していると見るべきだ。武田を退けた今、家康を排除すれば信長の力はますます大きくなるのだから警戒するのも無理はない。そのため、織田家の中でも信用の置ける十兵衛を饗応役に指名したのだ。
饗応役を務めることに決まったならば絶対に失敗はできない。些細なことが家康の信長に対する不信を育て、不信感の肥大は反旗を翻すことに繋がる。家康に裏切られたら織田家の足下が揺らぐ。
不安と重責がのしかかった十兵衛は胃の辺りが重くなったように感じて、その部分を思わず手で押さえた。
その時、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。視線を向ければ信長の姿があり、その足はこちらに向かって来ているようだった。
十兵衛はその場に膝を突いて主君への礼を尽くす。家康から掛けられた言葉による動揺を知られたくなかったので通り過ぎることを祈ったが、祈りも虚しく信長の足は十兵衛の前で止まった。
「十兵衛、来い。」
短い命令に十兵衛も「はっ」と短く返した。そして信長が歩き出したのを見て立ち上がり、その後ろに続く。
宴が開かれたのとは別の部屋に入った信長は直に床に座り、それに倣って十兵衛も腰を下ろした。向かい合うと苛立ちが伝わってくる。十兵衛は緊張が全身を走っていくのを感じながら主の言葉を待った。
「家康の相手、ご苦労であった。祝勝の宴を辞するとは……あの男、何やら含みでもあるのか?」
苛立ちを滲ませる言葉に心の臓が嫌な跳ね方をした。十兵衛は慎重に言葉を選びながら返事をする。
「信長様は戦でお疲れになっているので気心の知れた方々とお過ごし頂いた方が良いでしょう、とのことにございました。徳川様は上様を気遣っておられたのです。」
「それが真の理由であれば、そなたを留め置いたりせずにわしの元へ帰らせたのではないか?そなたは織田家の家臣なのだからな。どうせ、宴を辞すれば十兵衛が案じて追いかけてくると思うたのだろう。小賢しい奴め。」
暗い目で話す信長に十兵衛は不安を抱いた。まさか、家康にまで何かを企てるつもりなのか?
十兵衛は緊張による喉の渇きを唾を飲み込むことで紛らわせながら口を開く。
「徳川様は自分には構わず宴に戻るようにと気遣ってくださりましたが、それでは徳川家に対して申し訳が立たぬからと私の意思でその場に留まったのです。非は徳川様のご配慮を受け入れなかった私にございます。いかような咎めも受けまする。どうか、徳川様に対してお怒りにならぬようお願い申し上げます。」
十兵衛は家康を擁護するために必死に言葉を紡ぎ、両の拳を突いて頭を下げた。
怒りの矛先が自分ならばそれで構わぬ。同盟関係にある家康に向くことだけはあってはならない。その思いだけだった。
床から視線を離さずに姿勢を維持していると、不意に近くで気配を感じた。視界の端に信長の爪先が見える。怒りの滲む信長の気配を間近に感じた時、嘗ての打擲の記憶が蘇って肩が小さく跳ねた。
息が詰まりそうなほどの緊張感の中で、信長の「面を上げよ」という静かな声が響く。その命令に従って顔を上げれば扇子によって無理やり顎を上げさせられた。それにより信長と目を合わせることになる。
信長は何かを探るように目を細めており、そのために目から光が消え失せていた。真っ黒な目が底なしの闇を湛えているように見えて寒気がする。
十兵衛が喉を大きく上下させた時、信長が口を開いた。
「十兵衛、そなたと家康は随分と親しいようじゃな。そなたらの様子を見た蘭丸がそのように申しておったぞ。」
十兵衛は信長の真意が読めずに困惑する。それでも「親しいというほどでは……」と返しかけたが、更に顎を高く上げさせられたために言葉が途切れた。
息苦しさを感じた十兵衛が眉を寄せても信長がそれを気にした様子はなく、細めていた目を見開いて顔を近づけてきた。
「ずっと不思議だったのじゃ。そなたは以前から徳川を気にかけて肩を持つ。家康と何かがあったからなのだろう?……申せ。あの男とそなたの間には何がある?」
あの時と同じだ、と思った。今の信長は正親町天皇との会話内容を教えるように迫ってきた時と同じ目をしている。
眼前に迫る狂気じみた目を見て、十兵衛は家康との繋がりについて正直に話すことに決めた。話さなければ信長は家康の排除に動くだろう。譲位を早めると決めたように、どのような手段を用いても家康を排除しようとする。
なぜ信長が十兵衛と家康との繋がりについて知りたがるのか、理由は見当がつかない。それでも新たな戦の火種を生むわけにはいかないのだ。
十兵衛は「三十年ほど前」と声を絞り出した。
「徳川様が人質として織田家に滞在なさっていた頃に初めてお会いしました。御母上や故郷を恋しがっておられた徳川様──当時の竹千代様をお慰めしたのです。徳川様はそのことを記憶されていたので私の存在を気に留めてくださっているだけなのです。特別なことは、何も。」
十兵衛の答えを聞いた信長は再び目をすうっと細めた。その動きを見ただけで床に突いた両手から怖じ気が這い上がってくるような心地がする。
「──竹千代を、慰めたのか。そなたが。」
「はい。その後に一度だけお顔を拝見したことはございましたが、それ以降は越前攻めでご一緒するまで言葉を交わす機会はございませんでした。」
「一度も?」
「ただの一度も。私と徳川様がお会いした機会は少のうございます。」
そのように答えると信長は乾いた笑いを漏らしながら扇子を引いた。そして、固唾を呑んで様子を見守る十兵衛に信長が視線を寄越す。その顔に浮かぶのは嘲笑だ。
「家康は幼い頃に一度言葉を交わしただけの男との思い出を大事にして、再会したその男を慕っておるというわけか。それほどに十兵衛に魅了された、と。」
「上様……」
「そなたは何人を誑かせば気が済むのじゃ?家康まで誑かされていたとは思わなんだぞ。」
「誑かすなど、そのようなことはございませぬ。」
必死に言い募る十兵衛に対して信長の口の端が皮肉げに持ち上がった。
「事実であろう。帝に将軍、松永もそうじゃ。稲葉からは斎藤利三を奪いおった。その上、家康までとは。あちらこちらで誑かして回っておるではないか。」
挑発的で侮辱的な言葉だ。流石に十兵衛も怒りが湧き、恐怖を忘れて反論する。
「上様!それは余りの仰っしゃりようにござりまする!」
反論を受けた信長は怒りに頬を紅潮させながらも言葉を飲み込んだように口を引き結んだ。
しかし、それも一瞬のこと。
「もう良い!わしは行く!」
信長は怒鳴りながら立ち上がり、荒っぽく床を踏み鳴らして出ていった。
十兵衛は体を起こすと信長が去った方を振り返り、遠ざかる主君を途方に暮れたように見つめる。
信長は十兵衛が家康と親しいことを責めているのだ。それは理解できたが、なぜ責められているのかが理解できなかった。敵方の者と懇意にしているならば謀反を疑われて当然だが、家康は同盟関係にある相手だ。親しくすることで協力関係を強固なものにできる。
十兵衛が家康を気にかけて彼のために動くのは織田家のためだ。個人としても徳川家康という人物を好ましく思っているが、徳川家は織田家にとって非常に大切な相手。関係を良好なものにしておかなければならない。徳川家に裏切られることは決してあってはならないのだ。
しかし、信長は十兵衛が家康と親しくすることが気に入らないようだ。自分を飛び越えて関係を築いていると感じ、矜持を傷つけられたのだろうか?
十兵衛は苦悩に顔を歪ませながら呟く。
「……何を間違えたのか、わしにはわからぬ。」
日を重ねるごとに、年を越すたびに、主君のことが理解できなくなっていく。
信長との間に生まれた大きな溝を埋めようと懸命に努力しても、その端から崩れ落ちていくような状態だ。修復することなど不可能ではないだろうか?
十兵衛は悲壮感の滲む考えを振り払うように頭を軽く振り、怒りの名残から逃げるように部屋を後にした。
*****
武田との戦を終えて京に戻った十兵衛は、すぐに信長からの呼び出しを受けた。用件は徳川家康を安土城に招く際の饗応役についてだ。
「家康からの指名だが触りがあるならば断って良い」と話す信長に対して、十兵衛は丁寧に頭を下げながら役目を引き受ける意思を示した。少しも渋らずに引き受けたことに対して主君の機嫌が悪くなったと気づいていたが、それでも断るわけにはいかない。信長のためにも家康との約束を破ることはできないのだ。
明らかに機嫌を悪くした信長から素っ気なく退出を促された十兵衛は真っ直ぐに明智家の屋敷に戻る。屋敷に戻れば左馬助が出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。信長様のお話はいかがでございましたか?」
十兵衛は自室を目指して左馬助と並んで廊下を歩きながら答える。
「うむ。予想していた通りじゃ。」
苦笑を滲ませながら答えると左馬助の表情が曇る。
「やはり、饗応役の件でしたか……。殿が饗応役を務めるということに決まったと?」
十兵衛は無言で頷いた。それを見た左馬助の表情が渋いものに変わっていく。
左馬助には家康から饗応役を頼まれたことを事前に伝えておいたのだが、伝えた当初から十兵衛が饗応役を務めることに良い顔をしていなかったのだ。
十兵衛は渋面を浮かべる左馬助の肩を叩いて「やるしかあるまい」と敢えて明るく笑った。余計な心配をさせまいとの配慮だったのだが、それが却って主思いの男の怒りに火をつけてしまったらしい。「笑い事ではござりませぬ!」と怒り出した左馬助と共に十兵衛は部屋に入る。
「落ち着け。正式に命じられたならば断ることはできぬ。しっかりと務めを果たすしかあるまい。違うか?」
十兵衛が茵に腰を下ろすと、その正面に座した左馬助が堪えきれない怒りを吐き出す。
「しかし、招待される側の徳川様が饗応役を指名するなど、しかも殿を指名なさるなど……あってはならぬのです!」
「左馬助、良いから落ち着け。」
十兵衛が宥めても左馬助は止まらない。言葉が矢継ぎ早に繰り出されてくる。
「招待される側が饗応役を指名するということは毒殺を警戒していると仄めかすようなものでございます。それを聞いた信長様はご不快に思われたことでしょう。さりとて徳川様から直々にご依頼を受けた殿が饗応役を辞退することなどできませぬ。殿は完全に板挟みではありませぬか!」
十兵衛は目を剥いて声を荒らげる左馬助に驚きながらも、自分を案じてくれる気持ちを嬉しく思った。
左馬助は穏やかで優しい男だ。その人柄と細やかな気配りにより周囲からの評判は高い。そのような男がこれほどに怒りを顕にすることは珍しい。それほどに十兵衛のことを思い、案じてくれているという証拠だ。
十兵衛は微笑みながら「左馬助」と穏やかに呼びかける。
「わしが辞退すれば徳川様の信長様に対する不信感が増してしまう。それは避けなければならぬ。全てを平らかに進めていくためには、わしが饗応役を務めることが必要なのじゃ。わかってくれるな?」
穏やかに諭した効果が出たらしく、左馬助は怒りを静めて小さく頷いた。その眉が八の字を描いている様子を見て笑いたくなったが堪える。
「これからは忙しくなる。此度の件について不満はあるだろうが、そなたに手伝ってほしい。頼む。」
そのように言って頭を下げると、「殿!お止めくだされ!」と慌てた声が飛んできた。顔を上げれば左馬助が溜め息と共に首を縦に振った。
「頭を下げていただかなくとも殿をお支えするのが私の役目にございまする。全力でお手伝いいたしますが、ただ……」
「ただ?」
そう問うと、左馬助は拗ねたように唇を尖らせた。それが幼い子どものようで微笑ましい。
「……徳川様を少々恨めしく思うてしまいまする。何故、殿を指名なさったのかと。他にも然るべき御方がおられるというのに。」
「徳川様はわしに信頼を寄せてくださっている。」
「それは私も存じております。しかし、殿に対して配慮していただきとうございました。殿が難しい立場に置かれることは徳川様もご存知のはずでしょうから。」
左馬助の不満は理解できた。招待される側が饗応役を指名すれば指名された者は板挟みになる。それにより十兵衛が苦労することを家康がわからぬはずがない。信頼を寄せているならば配慮が欲しかった、というのが左馬助の思いなのだ。
しかし、それほどに家康の信長に対する不信感は根深く、そして必要であれば冷徹さを覗かせる為政者なのだと実感させられる。
誰も彼もが戦乱の世で生き残っていくために、この世に染まる。遠く離れた母を恋しがっていた幼子は妻子を切り捨てることができる為政者へと成長した。彼は厳しい世を生きていくうちに乱世に染まった。それは己も例外ではない。
いつまで変わり続けなければならぬのだろう、と小さく息が漏れた。
*****
正式に饗応役を仰せつかってからの日々は慌ただしい。各地から食材を取り寄せて、使用する食器を吟味して必要であれば買い付ける。当日の予定を決めた上で人員を配置しなければならず、その手配にも追われた。その他にも通常の仕事があるため、それを放置するわけにもいかない。領地運営に関する仕事は待ってはくれないのだ。
多種多様な仕事に忙殺される日が続き、宴の件で安土城に行っても信長に挨拶することすらできずにいた。登城したならば挨拶に伺うべきだと思っていても時間が許してくれない。
十兵衛が焦りを感じていた時、遂に信長から呼び出された。
「久しいのう、十兵衛。城には出入りしておるようじゃが、わしは幾日もそなたの顔を見ておらぬ気がする。」
信長が待つ部屋に入り、平伏した途端に浴びせられた言葉には嫌味がふんだんに込められていた。
顔を上げる気持ちにはなれない。顔を見ずとも怒っていることは伝わってきた。怒りを滲ませる信長を前にして、十兵衛にできるのは額を床に擦り付けて謝罪することだけだ。
「申し訳ございませぬ。登城の折には上様にご挨拶すべきと理解しながら、忙しさを理由に疎かにした私は無礼者にござりまする。本日はお叱りを頂戴する覚悟で参りました。」
主君に対して無礼であったことは事実。どれほど激しい叱責も受け止める覚悟だ。十兵衛は気合を入れるように床に突いた手に力を入れた。
平伏したまま信長の言葉を待つ十兵衛の耳に扇子を掌に打ち付ける音が届く。
ぱんっ、と乾いた音が一つ。
「そなたが忙しいことは知っておる。饗応役として手配に駆け回っておるのだと報告も受けておる。じゃが、今のそなたの姿は家康を優先しておるように見える。わしを蔑ろにしても構わぬと思われては困るな。」
ぱんっ、と再び音が鳴る。
「十兵衛、そなたの仕えている相手は誰じゃ?」
「織田信長様、ただお一人でございます。上様を蔑ろにしても良いと思うたことは一度もございませぬ。大切に思うておりまする。」
十兵衛が答えを返してから、少し間を空けて再び音が響く。
「理解しておるならば良い。十兵衛、今後はわしを無視することは許さぬ。一瞬であっても顔を出せ。……そなたの主は家康ではない。この信長じゃ。良いな?」
「はっ──!肝に銘じまする!」
十兵衛が力強く返事をすると、信長が「もう顔を上げて構わぬ」と機嫌の良い声で言った。ぎこちなく顔を上げれば笑みを浮かべた主君と視線が交わる。
信長は無邪気な笑みを見せながら口を開く。
「十兵衛、天守で茶を飲むぞ。今日は晴れておるから景色が美しい。そなたにも見せてやりたいと思うておったのじゃ。」
そのように言っていそいそと立ち上がった信長を十兵衛は目を丸くして見つめた。
信長は先ほどまで怒っていたはず。それは顔を伏せていても気配でわかるほどの怒りだった。だが、今は怒りがきれいに消え失せて上機嫌で笑っている。驚くべき感情の変化に戸惑うばかりだ。
十兵衛が戸惑いを抱えたまま視線を向ける先では信長が一人で楽しげに話し続けている。
「茶を飲むだけではつまらぬ。茶を飲んだ後に鼓を打っても良いが、天気が良いのだから散策に出かけるのも悪くない。うむ、それが良い。十兵衛、今日はわしの供をせよ。」
「散策、でございますか?上様もお忙しいのでは?」
十兵衛は信長を見上げながら尋ねた。信長はこちらに近づいてきて見下ろしながら答える。
「元々、今日はそなたをわしに付き合わせるつもりでな。宴の準備を優先して主を蔑ろにした仕置きのつもりであったが、どうせなら楽しく過ごした方が良い。散策中に良いものを見つけたら買うてやろう。」
この後の予定が楽しみで堪らないといった様子で笑う信長に「今日は予定が詰まっていて難しい」と言えるわけがなかった。他にも行かなければならない場所があったのだが、後のことは左馬助に頼むしかない。十兵衛は「ありがたく存じまする」と頭を下げた。
頭を下げると視線が床に落ちる。そこには微かに濡れた痕跡があった。それは十兵衛の汗だ。先ほど謝罪した際に額を床に密着させたせいで付いたのだろう。
十兵衛は床に残る汗の跡を見下ろしながら、「信長様のことがわからない」と胸の内で呟いた。
己の忠を疑っているのだろうか?振る舞いが気に食わないのだろうか?それにしては共に過ごす機会を欲しがることが不思議でならない。
十兵衛にはわからない。己の何が信長を怒らせ、不安にさせ、喜ばせるのか。わからないから二人の間に横たわる溝を埋めることができない。放置できぬと足掻いても埋める術を知らない。
いつか、決定的に崩壊する。それも近いうちに。そのような不安が十兵衛の胸を埋め尽くした。
「十兵衛、何をしておる?来い。」
信長に促され、十兵衛は「はっ」と答えて立ち上がる。
先を歩く信長にはすぐに追いつくことができた。二人の距離はないに等しい。それでも見えない溝は埋まらない。
終