はじまりの浜辺 終焉の刻は誰にも等しく訪れる。十兵衛は正に今、その瞬間を迎えようとしていた。
指の先から力が失われていく。不快ではない体の重さを感じる。目蓋が重くて目を開けていられない。意識が緩やかに落ちていく。
十兵衛は抗えない力に身を委ねながら「これが死なのだな」と悟った。それは思っていたよりも恐ろしくはない。寧ろ様々なものから解放されるような安心感を得られるほどだ。
安らぎさえ感じる死を前にして、十兵衛は穏やかに微笑んだ。否、微笑んだつもりであっても実際は少しも微笑むことができていないかもしれない。肉体を思う通りに動かす自由は既に手放していたのだから。
十兵衛は波乱に満ちた人生という名の旅の終わりがこれほどに穏やかなものであることに少々の驚きを感じながら目を閉じた。
心は凪いでいる。最後の旅路への船出としては最良だ。
*****
──寄せては返す、波の音。
眩しさを感じた十兵衛は思わず顔の前に手をかざした。前方にある何かが眩しくて目を開けることができない。
十兵衛は薄く目を開けて明るさに慣れるのを待つ。その待ち時間に耳を傾けるのは穏やかな波の音。緩やかに浜へ打ち寄せては戻っていく白波の様子を思い浮かべるのは容易い。それと共に鼻先を撫でる潮風を吸い込めば清々しい気持ちになった。
己の顔に笑みが広がっていくことを自覚しながら目を開けて、目の前の光景にほうっと息を吐き出す。
「……熱田の海か。」
眼前に広がるのは若き頃に見た尾張・熱田の海。主君の遣いで各地へ旅をしていた若き頃、帰蝶の頼みを受けて訪れた場所の一つだ。
十兵衛は大きな海を眺めながら、懐かしさと共にほんのりと胸の疼きを感じる。最後の主君と初めて出会った時と同じ朝日が海面に反射して眩しかった。
暫し海を眺めた後、一つ息を吐いて苦笑いを零す。
「ここが黄泉の国か?黄泉の国というものが個人で違うのなら、わしにとってのそれは皆が想像するあの世らしさとは無縁だな。」
この場所が現世でないことは他者の気配が感じられないことによって気づいた。目に見える形では人々の営みが存在しているのに、辺りを見回しても人の影も形もない。十兵衛が来た瞬間に他の者たち全員が消えてしまったかのようだ。
苦笑を浮かべながら己の体に視線を落とすと、これまた懐かしい衣裳に身を包まれていると気づく。落ち着いた色味の緑の小袖は越前で暮らしていた頃に着ていたもの。綻んでも母や妻が丁寧に繕ってくれたおかげで随分と長持ちした。
温もりに満ちた思い出に表情を緩ませた十兵衛はあることに思い至り、片手を後頭部に伸ばしてみる。
「……む。この雑な髪の結い方は……髪まで当時を再現せずとも良かろう。」
十兵衛は顔をしかめながら頭を掻いた。「引っ詰めたような髪の結い方ではみっともない」と母に小言を言われたことを思い出す。
溜め息と共に手を下ろし、再び前方の海に目を向けてみた。相も変わらず緩やかに波が打ち寄せている。
この海は織田信長と初めて出会った当時の海だと考えて間違いないだろう。あの海に行ったのは一度きりで、目の前に広がるのはその当時の光景そのままなのだから。それなのに着ているものが越前で燻っていた頃の小袖というのはどういうことなのだろうか?
十兵衛が首を傾げた時、後方から声が飛んでくる。
「本能寺以来じゃな、十兵衛。」
思いがけず聞こえてきた声に体が凍り付いたように動かなくなった。それも束の間のことで、十兵衛は金縛りが解けると己の名を呼んだ相手の方へ振り返る。
「──信長様。」
振り返った先では信長が佇んでいた。見間違いでも他人の空似でもなく、織田信長本人がそこにいる。その顔に浮かぶ笑みは安らぎに満ちていた。
飾り気のない笑みを見せる信長が纏うのは目に鮮やかな胴服。それは京や安土で身に着けていたものではなく、もっと昔に着ていたもの。「『大きな国』を作る」という夢を二人で語り合った時に信長がそれを着ていたことを今でもよく覚えている。その懐かしい衣裳の信長を目にした瞬間に込み上げた感情は言葉では言い表せない。数え切れないほどある思い出や様々な感情が一瞬にして渦を巻き、十兵衛の心を飲み込んだ。
目の奥が熱い。涙が滲んで視界が霞む。雫を落とすことができたなら楽になれるのだろう。だが、それは自分には許されないことだ。
十兵衛はその場に跪いて深く頭を下げて、視界いっぱいに広がる砂を見つめながら声を絞り出す。
「深く……深く、お詫び申し上げまする。」
その言葉に信長が息を呑む気配がした。少しの沈黙の後、砂を踏む音が近づいてくる。
「今のは謀反を起こしたことへの謝罪か?」
十兵衛は頭上から降ってきた問いに「いいえ」と即答する。
「信長様を天下取りへ導いたこと、それにより信長様を追い詰め苦しめたこと。それらに対する謝罪にございます。」
己の所業が許されるとは思っていない。それでも最も伝えたいことはそれだった。
十兵衛が姿勢を崩さずに信長の反応を待っていると、「顔を上げよ」と穏やかな声が響いた。
「死後の世界では身分など関係なかろう。それに顔を伏せていては表情がわからぬ。表情がわからぬというのは厄介じゃ。相手の本心がわからぬ。だから顔を見て話したい。」
十兵衛はその言葉に促されて顔を上げる。そうすると信長が満足気に笑った。
信長は笑みを浮かべたまま尻を砂に付けて座る。これでは上等な衣が砂塗れになってしまう。それを案じた十兵衛は「信長様、お待ちください」と声をかけた。
「砂浜に座ってはお召し物が汚れますぞ。場所を変えましょう。」
その提案に対して信長は首を横に振った。
「構わぬ。死んだ後に上等なものを着ておっても何の意味もない。良いから座れ。」
信長はそのように言って己の隣を叩いた。本人が構わないのであれば、これ以上のことを言う必要はない。それに信長の主張にも一理あるのは確かだ。
十兵衛は「失礼いたします」の言葉と共に信長から少し距離を置いて腰を下ろした。一応の礼儀として一人分の距離を空けて座ったのだが、それを見た信長が不機嫌そうに鼻を鳴らす。そして、こちらを睨みながら無言で砂浜を叩いた。「距離を詰めろ」との命令だ。
十兵衛は小さく溜め息を吐き、もう一度「失礼いたします」と言ってから信長のすぐ隣に移動した。これで距離はなくなった。距離がなくなった途端に笑顔を見せる信長を見て、十兵衛は苦笑を滲ませる。
「なんだか落ち着きませぬな。近すぎる気がいたします。」
「確かに、主従関係ではこれほど近い距離は有り得ぬ。体裁が悪いからな。……死んで、そういった煩わしいものとは縁が切れた。そのおかげで今の距離を躊躇わずに済む。わしはこの距離の方が良い。」
信長が心の底からそのように思っていることが朗らかな笑みを見れば理解できる。信長は生前、仕来りや慣例を無視するような言動が目立っていたが、実は多くのものに縛られているところがあった。それから解放された喜びを隠さない姿に安堵と切なさを感じる。
信長は多くの苦しみを抱えながら走り続けていた。十兵衛はその苦しみを理解できていなかったことを改めて思い知り、胸が苦しくなって無意識に眉間にしわを寄せた。
十兵衛の様子が変わったことに気づいたのか、信長は笑みを引っ込めて落ち着いた表情でこちらを見つめる。
「……先ほどの話の続きをしよう。十兵衛、そなたがわしに詫びた理由を詳しく申せ。」
それに対して十兵衛は「はい」と答えて、視線を海に投げてから話し始める。
「私は戦が好きではありませぬ。戦は民の暮らしを踏みにじって大勢を苦しめる。それ故に平らかな世を作りたいと思い、道三様のお言葉を標として信長様と共に『大きな国』を作ることを目指しました。しかし、私は己の夢しか見ていなかったのです。」
「それはどのような意味じゃ?」
「私は信長様の心の奥底にあるものに目を向けず、個人としての望みが何であるかということを考えておりませんでした。……戦のことを考えずに長く眠りたいと、重責から解き放たれたいと望んでおられたことは言われて初めて知ったのです。それほどに信長様が追い詰められていたことに私は気づいていなかった。」
十兵衛が信長から本心を打ち明けられたのは謀反を起こす少し前──将軍・足利義昭討伐の命令を下された時だ。「二人で茶でも飲んで暮らさないか」と誘われ、「子どもの頃のように長く眠りたい」と打ち明けられ、信長が心の奥底で望んでいたのが「『大きな国』を作ること」ではなく「穏やかで平穏な暮らし」なのだと悟った時の衝撃は大きかった。そして、それによって気づいたことがある。
「『大きな国』を作るという夢は私たち二人の夢ではなかった。信長様は私の夢を叶えようとしてくださったのであって、信長様ご自身の夢ではなかった。始めから私たちは食い違っていた。それに気づいた時には全てが遅すぎました。」
十兵衛は唇を噛みながら膝の上に置いた手を握り込む。己は余りにも他者の感情に疎い。そのことが不甲斐なかった。
それだけでなく、いつも遅い。「あの御方を救いたい」と望んで奔走しても間に合わなかったことばかり。信長の暴走を止めようとしても止められず、本心を打ち明けられた時点では既に手遅れだった。
十兵衛が視線を海から引き剥がして隣へ向けると、信長からは真摯な眼差しが返ってきた。十兵衛はその眼差しから逃げることなく言葉を紡ぐ。
「信長様から『戦ではなくお前が自分を変えた』と言われて、ようやく私は己の罪を理解しました。私はあなたに己の夢を背負わせて高みへと登らせ、織田信長という個人を潰したのです。それが私の背負う最大の罪。そのように思うております。」
黙って話を聞いていた信長は何も言わず、頷くこともしなかった。その表情は変わらず凪いでいる。怒りも失望も何も感じられない。
十兵衛が黙っていると、信長が小さく息を吐いた。
「わしを殺したのは償いのためか?」
落ち着いた声で問われたことに対する答えはすぐには出ない。償いという言葉は何か違う気がした。
十兵衛は暫し考えてから慎重に言葉を選んで答えを提示する。
「──信長様をお救いするためでございます。平らかな世を作りたいという思いはありましたが、あの瞬間は信長様を苦しみからお救いしたいという気持ちの方が勝っておりました。」
正直に答えれば信長は面白がるように笑った。
「わしを救うには殺すしかなかったのか?投降した敵将の処刑を嫌った十兵衛らしくもない。」
「高みに登った以上、穏やかな生き方は望めませぬ。周りが許さぬのです。現に私は『信長様は未だ頂の途中』と考えておりました。信長様がどれほど足掻こうと、ご自身が望むような暮らしは手に入らず重責に苦しみ続けたでしょう。」
「そうであれば死ぬしかないな。」
信長が呟くように言った言葉に対して十兵衛は「残念ながら仰る通りでございましょう」と頷いた。
「信長様を全ての苦しみから解放するにはお命を奪うしかないと思い、本能寺へ向かいました。それが高みへ登らせて追い詰めた者の責任。私の行いが己の身勝手であることは承知しております。お許しをいただけるとも思いませぬ。」
十兵衛は一瞬も目を逸らさずにはっきりと告げた。
謀反により主君の命を奪ったこと以上に罪悪感を感じているのは信長に己の夢を背負わせて追い詰めたことに対するものだ。十兵衛は永年「平らかな世にするために信長と二人で『大きな国』を作る」という夢を描いてきた。信長が麒麟を呼ぶ人間なのだと思ってきた。
しかし、それではいけなかったのだと今ならば理解できる。平らかな世にしたいと心から望むのであれば自身が麒麟を呼ぶ者にならなければならない。己の力によって「大きな国」を作る覚悟を持つべきだった。他者に背負わせてはならなかったのだ。
身勝手の最たるものだ、と十兵衛は苦く思う。数十年も生きてから気づいたとは情けないにもほどがある。
十兵衛が改めて反省する目の前で信長が困ったように笑った。
「誠に、そなたは──身勝手な男じゃ。」
その一言を告げてから信長は立ち上がり、己に付いた砂を軽く払ってから波打ち際へ移動した。そして、波が届かないぎりぎりの辺りで佇む。背をこちらに向けているため表情はわからない。
十兵衛は佇む信長の後ろ姿を真っ直ぐに見つめる。広いとは言えない背中に重たいものを背負わせてしまった。そのように考えると胸がひどく痛んだ。
十兵衛が海を眺める信長の後ろ姿を見守り続けていると、信長がゆっくりと体の正面をこちらに向けた。その顔には穏やかな笑みが広がっている。信長は笑みのまま「十兵衛」と呼びかけてきた。
「許すも許さないも、そなたを恨んでおらぬ。」
信長の唐突な言葉は「許してもらえるとは思わない」という言葉に対するものだ。それでも真意がわからず、十兵衛は顔に戸惑いを浮かべた。
信長は微笑みと共に十兵衛の前にやって来てしゃがみ込み、視線を重ねてきた。
「本能寺が兵に取り囲まれたと聞き、様子を見に行った。無数の桔梗の旗を目にした時に悲しく思うたのは確かじゃ。さりとて嬉しく思うたのも事実。怒りも恨みもありはせぬ。」
穏やかな口調で語られたことに十兵衛は困惑を深めた。謀反を起こされたと知って悲しみと同時に喜びを感じた信長の気持ちが理解できない。これに困惑するのは十兵衛だけではないはずだ。
十兵衛が「何故でございましょうか?」と尋ねると、信長は「わしの元へ来てくれたからじゃ」と即答した。
「わしでは天下が治まらぬと判じたなら去れば良い。見切りを付けて他の者たちのように背を向けても良かったというのに……そなたはわしに向き合い続けてくれた。それだけで十分じゃ。」
「信長様……」
「最後の戦は楽しかったぞ、十兵衛。最後に思い切り暴れられた。最後に戦った相手が明智軍で良かったと心から思うておる。」
信長はそのように言って笑顔を見せた。子どものように無邪気な笑顔だった。
信長の言葉と笑顔に十兵衛は泣きたくなったが、短く瞬きを繰り返して目に滲んだ涙を散らす。「この御方の前では決して泣くまい」と決めた。
十兵衛が瞬きを繰り返していると信長が何かを察したように、はっとした顔をする。その次には優しく微笑んで十兵衛の手に己の手を重ねてきた。重ねられた手は乾いていたが、温かくて心地良い。
「そなたの『大きな国』を作るという夢に乗ったのはわし自身の意思。それ故に苦しんだのは確かじゃが、わしを苦しみから解放してくれたのは──十兵衛、そなたじゃ。」
続けて「感謝しておる」と笑った信長は十兵衛の手の甲を軽く叩いてから立ち上がった。そして、再びこちらに背を向けて海を眺め始める。
信長様には敵わない、と十兵衛は主君の背中を見つめながら微笑した。織田信長という人間はこちらが予想もしないことを考え、言葉にして行動に移す。謀反を起こしたことを怒りも恨みもせずに「自分に向き合い続けてくれた」と思われていたとは考えもしなかった。そして、そのことに救われる。
信長を見つめる十兵衛の目の縁から一滴だけ涙が零れた。堪らえようとして堪えきれなかった涙だ。
十兵衛は一滴だけの涙を指で払って立ち上がり、信長の隣へ移動した。隣に並ぶと信長は海を眺めたまま「のう、十兵衛」と声をかけてきた。
「そなたの夢を共に見て追いかける日々は嫌いではなかった。そなたと過ごす時間は楽しかった。」
「勿体ないお言葉に存じまする。」
「実はな、天下を取った暁には十兵衛も巻き込んで隠居するつもりであった。」
「は?」
思わず無礼な返しをしてしまったが、信長の放った言葉は驚くべきものだった。十兵衛は目を丸くして信長の横顔を凝視する。
信長はこちらに視線をちらっと向けてから楽しそうに笑った。
「わしと共に十兵衛も隠居させて、そなたとのんびり遊んで過ごそうと決めておったのじゃ。茶を飲み、戦とは関係のない話をし、時には遠乗りに出て、穏やかに楽しく生きる。それが夢であった。」
「……なかなかに無茶なことを考えておられましたな。私はまだ家督を譲るつもりはなかったのですが。」
「うむ、それについては計画をしておった。いろいろとな。」
「そもそも信長様が隠居された場合、織田家の家臣である私は信忠様にお仕えすることになるのでは?」
「信忠にそなたを譲ってやるつもりはない。」
それを聞いて十兵衛は軽く目を瞠る。
「正直に申し上げて、それほどに私を望んでくださっていたとは考えておりませんでした。」
十兵衛が正直な感想を述べると信長はこちらを凝視した。その次には額に手を当てて深々と溜め息を吐く。そこには呆れの色が見えた。
「わしは十兵衛のことを一番の友と思うていたのだが、全く伝わっていなかったとは……。そなた、鈍すぎるのではないか?」
「誠に申し訳ございませぬ。」
十兵衛は気まずさと共に頭を下げた。これは他者からの感情に鈍い十兵衛が悪い。
しかし、信長から寄せられていた友情に気づかなかったとはいえ、十兵衛にとって信長が単なる主君というわけではない。そのことは伝えるべきだ。
そのように思った十兵衛は顔を上げながら「言い訳に聞こえるやもしれませぬが」と前置きをしてから話し始める。
「信長様のことを何とも思っていないというわけではございませぬ。私は信長様を己の弟のように感じておりました。」
「弟?」
目を丸くする信長に向かって十兵衛はしっかりと頷いた。
「もちろん家臣として主である信長様をお慕い申し上げておりましたが、兄のように見守る気持ちもございました。悩んでおられたり落ち込んでおられる時は寄り添いたいと願い、そのようにして参ったつもりです。大事に思うております。家臣としても、兄としても。」
十兵衛は正直な気持ちを話して微笑んだ。本来は主君に対して「弟のように思っている」と伝えるのは無礼なのだろうが、しがらみが消えた今ならば許されるだろう。
当の信長はというと、こちらを無言で凝視してきた。その口元が徐々に緩んでいくのを見て十兵衛は口を開く。
「信長様、喜んでおられますな?」
思わず指摘すると信長は瞬時に片手で口元を隠した。
「馬鹿者!はっきりと申すのは諫言だけで良い!」
信長はカッと目を見開いて怒鳴ったが、照れ隠しだということは赤く染まる耳を見てわかった。その微笑ましさに十兵衛の口元も緩む。だが、その笑みに苦みが混じるのを自覚した。
「今日は初めて知ることばかりでございまする。……もっと早く、様々なお話をするべきでした。私は余りにも信長様のことを知らなかったのだと反省するばかりです。」
信長とは話をする機会が多かったが、こうして話してみると初めて知ることばかりだ。以前は同じ類の話ばかりしていたのだと思い知らされる。惜しいことをしたと悔やまれてならない。
もし様々な話をして、信長の心の奥底に眠るものに触れていたのなら──本能寺の変は起きなかったのかもしれない。
そのように思い至り、十兵衛はそれを打ち消すように頭を振った。起きたことは変えられないのだから考えても仕方がない。
微かに自嘲の笑みを浮かべる十兵衛に信長が「難しく考えるな」と諭す。
「後悔しておるのなら今から改めれば良い。死んだ今、時間は腐るほどにある。旅をしながら話せば良かろう。」
「旅?」
十兵衛が聞き返すと、信長は満面の笑みで「旅じゃ」と頷いた。
「いつまでもここに留まるわけにもいかぬ。どこへ行けるのかわからぬが、歩いてみようではないか。そなたとならば楽しい旅となろう。」
己の旅に十兵衛が同行するのは当然といった様子で話す信長を十兵衛はまじまじと見る。
謀反の直前、二人は言い争って傷つけ合った。それを経て十兵衛は主君である信長を手に掛けた。それらを考えれば二人の間に横たわるものは決して小さくはない。普通であれば謀反を起こした相手に旅の供を務めさせることなど有り得ないだろう。
しかし、信長は横たわるものを蹴散らして手を差し伸べてくれた。深く悩み込むこともあるが、此処ぞというところで思い切りの良さを発揮するのが織田信長という人間なのだ。
信長様はこういった御方だった、と十兵衛は小さく笑んだ。その十兵衛を信長が指差して声高に告げる。
「十兵衛、わしの供をせよ。」
不敵に笑う主君に十兵衛も微笑み返す。
「喜んでお供いたしましょう。」
放たれた命令に十兵衛が応じれば、信長はニッと歯を見せて笑った。「それでこそ十兵衛じゃ」と喜びながら歩き出した信長の隣に十兵衛が並ぶ。そうすると信長が「ところで」と話を切り出した。
「この世界にはわしらだけしか居らぬのだろうか?いつか、帰蝶にも会えると良いのじゃが。」
「他に誰かいるのかわかりませぬが、帰蝶様も信長様に再会できることを望んでおられるでしょうな。信長様のことを大層案じておられましたから。」
「帰蝶が、わしを?」
驚いたように目を見開く信長を十兵衛は微笑ましく思いながら笑みを零した。
「帰蝶様に背を向けられたとお考えのようですが、その考えはお捨てくだされ。帰蝶様は信長様を大切に思うておられました。そのお気持ちは鷺山にお戻りになられてからも変わっておられませぬ。」
十兵衛の話に信長は「そうか」と言って何度か頷いた。その目が懐かしむように細められる。
「帰蝶は十兵衛との思い出をよう話してくれた。そなたと知り合う前は『他の男の話を嬉しそうにしおって』と妬いたものじゃ。知り合ってからは楽しく聞いておったがな。」
それに対してどのように返せば良いものか十兵衛が悩んでいると、信長は「冗談じゃ」と明るく笑い飛ばした。
「そうじゃ、十兵衛。帰蝶の話をしてくれ。そなたから見た帰蝶を知りたい。それから十兵衛自身のことも聞きたい。きっと知らぬことが山ほどあろう。」
目を輝かせて強請る信長に十兵衛は「承りました」と答える。
「私が話し終わりましたら、信長様のことをお聞かせ願えませぬか?知りたいことが山ほどございまする。」
少し話しただけで信長について初めて知ることがたくさんあった。きっと知らないことは数え切れぬほどにあるのだろう。信長の心に触れた今、それでは嫌だと思う。
十兵衛の願いを聞いた信長の顔に嬉しそうな笑みが広がっていく。そして、その笑みのままに「任せておけ」と十兵衛の背中を叩いた。叩かれた背中は痛いが、十兵衛は喜びを表すように笑顔になった。
「ありがたく存じまする。それでは、帰蝶様のことをお話いたしましょう。まず、ご幼少の頃の帰蝶様は──」
十兵衛と信長の旅は楽しい会話を道連れに始まった。戦や政ではない会話に二人の表情も明るい。
十兵衛と信長が去った後の砂浜には二人分の足跡が残っている。それは寄り添い合うように並んでおり、砂浜を越えてどこまでも続いていった。
終