「干し柿の君」とは 竹千代は三河の人間である。松平家の次期当主として将来は三河を守り治める定めを持つ。
しかし、竹千代が暮らしているのは尾張だ。尾張を支配する織田家に人質として差し出されて以来、故郷の土を踏んだことは一度もない。大好きな母の顔や声の記憶が少しずつ薄れていくことを自覚しながらもそれを止める術がない。幼い身は余りにも無力だった。
それでも竹千代は人質としての生活に耐えると決めた。いつの日か必ず三河を三河の者たちの手に取り戻し、堂々と母に会える日が来るようにしてみせる。その思いが竹千代の心にしっかりと根ざしたのだ。
その決意のきっかけとなった出会いを思い出しながら、竹千代は干し柿を口に含む。「干し柿が食べたい」との竹千代の願いを織田家の人間は快く叶えてくれた。普段は甘味も玩具も何一つ欲しがらない幼子の珍しいお強請りに織田家家中の者たちは驚いていたものの、特に警戒する様子は見受けられなかった。幼い人質が普段と異なる言動を見せたところで不審がる者はいない。
干し柿の甘さを堪能する竹千代の脳裏に思い浮かぶのは織田信秀の館で出会った薬草売りの男の顔だ。母の元へ帰りたがる竹千代を慰めて諭してくれた優しい人。彼の穏やかな笑みを思い出すだけで心が慰められる。
竹千代は心に刻むように男から与えられた言葉を呟く。
「日が変われば、人の心も変わる。無理をせず、待つ。……待ってみせる。」
今は竹千代が動く時ではない。無理に動けば物事が悪い方へ転がっていく。その時が来るまでは辛抱強く待つ方が良い。あの薬草売りはそのように諭してくれた。
誠に心優しき者だと思った。竹千代の存在はあの薬草売りにとって面倒ごとでしかないというのに、自分を捜す者たちから隠してくれた上に話を聞いて冷静に諭してくれた。こちらの心に寄り添いながら諭してくれたおかげで竹千代も素直に彼の言葉を受け入れることができたのだ。
今は人質として織田家にいるしかないが、月日が経てば情勢は変わっていくもの。尾張を離れて三河に戻る日が来る可能性は十分にある。離縁されて松平家を出た母と再会できる日も来るはず。そのように信じて今は耐え忍ぶことが己にできる唯一にして最大のことだ。
竹千代は干し柿を食べながら薬草売りの男の言葉を繰り返し呟く。これは絶対に忘れてはならない言葉なので心に刻みつけておきたかった。
その時、竹千代はあることに気づいて「あっ」と小さく声を上げる。
「……名前、聞いておけばよかった。」
竹千代は己の失態に気づき、小さな唇を噛んだ。
薬草売りの男は恐らく身分を偽っている。言葉遣いや仕草から、彼が平民でないことはすぐにわかった。どこかの武家に仕えている者と考えて間違いないだろう。
彼に会うことは二度とないかもしれない。それでも名前を聞いておけばよかったと後悔が募る。
「もう一度お会いしたい。……干し柿の君。」
竹千代は肩を落としながら深々と溜め息を吐く。そして、彼から与えられた言葉を忘れぬよう願いを込めて胸に手を押し当てた。
*****
松平家にはお抱えの乱破がいる。松平家当主としての務めを果たすようになってから知った彼らの存在はとても心強い。そのうちの一人の来訪を元康は心待ちにしていた。
自室で書き物をしながら乱破が来るのを待っていると、開け放たれた障子から見える庭に男が現れた。
「お呼びと伺い参上いたしました。どのような用件でございましょうか?」
そのように告げて頭を下げる相手に元康は筆を置きながら微笑みかける。
「急に呼び出してすまぬな、菊丸。よう来てくれた。」
菊丸という百姓の身なりをした男は「はっ」と短く返事をしたが、頭を下げたままでいる。
「畏まらずとも良い。今日はそなたに聞きたいことがあって呼んだ。ひとまず中に入れ。」
「では、失礼いたします。」
菊丸はそのように答えると草鞋を脱いで部屋に上がった。元康は少し距離を置いて正面に座った彼を見遣ってから書きかけの紙や道具を片づける。
「私が織田家の人質として尾張にいた頃、庭先で二人の薬草売りと出会った。そのうちの一人がそなたに瓜二つなのだが、あれは菊丸か?」
その問いに菊丸は微かに目を瞠り、続けて笑みを浮かべた。
「覚えておいででしたか。仰る通り、あれは私でございます。薬草売りと偽って潜入いたしました。」
その返答に元康の胸が高鳴った。やはり菊丸はあの時の薬草売りの一人。これで干し柿の君の正体を知ることができる。
元康は顔をほころばせながら「やはりな」と頷く。
「そなたに聞きたいことというのは、あの時のもう一人の薬草売りについてなのだ。あの方は何者だ?ただの薬草売りではなかろう。」
「あの御方は明智十兵衛光秀様でございます。」
「明智……」
その名前には聞き覚えがあった。元康は目を細めて記憶を辿る。
「確か……美濃の方であったな?幕臣の細川藤孝殿から『領内に来たならば保護してほしい』との文が届いたと今川様から聞いたことがある。」
「はい。十兵衛様は美濃の斎藤家にお仕えしていた方で、現在は越前で暮らしておられます。」
元康は「十兵衛様?」と聞き返して首を傾げる。光秀をそのように呼ぶ菊丸の声からは親しげな響きを感じた。
菊丸は苦笑を滲ませながら「失礼いたしました」と軽く頭を下げた。
「随分と気さくな御方なので、私のような者にもそのように呼ぶことを許してくださるのです。その癖が出てしまいました。お許しを。」
「なに、構わぬ。菊丸は明智殿と親しいのか?どのようにして出会ったのか聞かせてくれ。」
「かしこまりました。十兵衛様と出会ったのは、わざと野盗に捕まって各地の情報を集めていた頃のことでございます。野盗は美濃に入り、米を奪うために村を襲いました。そこは明智家が治める明智庄で、十兵衛様は野盗を追い払うために戦っておられました。」
それを聞き、元康は思わず「自ら?」と驚きの声を上げてしまった。その元康を微笑ましげに見つめながら菊丸が続きを話す。
「当時、明智家の当主は十兵衛様の叔父である明智光安様でした。それゆえ制約が少なかったのでしょう。最前線で戦う十兵衛様を明智庄の民がどれほど頼もしく思っていたか……私にはよう理解できます。」
その言葉に元康は何度も頷いた。自分が暮らす地域を治めている家の若君が民のために野盗と戦う姿は何よりも心強いだろう。信頼も深まるに違いない。領主への信頼があるからこそ民は安心して暮らすことができ、己の生業に精を出すことができるのだ。
「その戦いぶりも見事なものでした。しっかりと作戦を立てた上で戦っておられたので統率が取れておりましたし、十兵衛様の武は群を抜いておりました。十兵衛様たちの奮闘により被害は小さくて済みましたが、十兵衛様は田畑が荒らされて米を奪われたことに憤っておられました。」
「それは当然だ。民が懸命に守ってきた田畑を踏み荒らされ、生活の糧となる米を奪われたら私も怒りに震えるであろう。」
「はい。そんな十兵衛様に私は興味を抱きました。そのため再び美濃の情勢を調べることになった際、ついでに明智庄に立ち寄ることにしたのです。助けられた礼を名目に行ったのですが、驚くべき光景を目にしました。」
「何だ?」
思わず前のめりになって問えば菊丸が楽しげに笑う。
「十兵衛様が鍬を奮って田を耕しておられたのです。」
「なんと……」
驚きの余り他に言葉が見つからない。農民出の武士であれば農作業を行うだろうが、領地を持つほどの家柄の武士が田を耕すなど聞いたことがなかった。
目を丸くする元康に菊丸は穏やかな表情で説明をしてくれる。
「十兵衛様の家臣に農民出の方がおりまして、その方が戦で怪我を負いました。しばらく農作業ができなくなった家臣の代わりとして十兵衛様が田を耕しておられたのです。皆で穴埋めするというのは当たり前のことではありますが、次期当主の立場にある御方が行うのを見たのは私も初めてでございます。あれには驚きました。」
「私も聞いたことがない。明智殿は民との距離が近い御方のようだな。」
「十兵衛様だけではございません。明智家の方々は領民と親しく接してこられたようで、どなたも民から慕われているようでした。それとなく話を聞いて回りましたが、明智家の皆様の話をする者たちは優しい顔をしておりました。野盗に悩まされていてもあそこで暮らす民たちは幸せそうに見えました。」
「それは私も見習わねばな。国を治める者は民から信頼され慕われるよう努めなければならぬ。」
元康は辛酸を嘗め続けてきた三河の民を思いながら呟いた。
ようやく今川の支配を脱したばかりの三河には問題が山積している。民が落ち着いた暮らしを取り戻すにはまだ時間がかかるだろう。これまで耐え続けてきた民に報いて信頼を得るには一刻も早く国内を落ち着かせる必要がある。今が踏ん張りどころだ。
改めて気を引き締める元康に菊丸が気遣わしげな眼差しを寄越した。
「三河の民は松平家の皆様をお慕いし、殿を信じております。思い詰める必要はございません。」
菊丸の優しさに元康は「感謝する」と微笑む。
「今は私のことより明智殿のことだ。明智殿は今は越前で暮らしておられるとのことだが、どのような状況か存じておるか?そもそも、なぜ美濃を出ることに?」
その質問に菊丸の表情が曇る。
「何年もお会いしておりませんので、今どのように過ごされているのかまでは……申し訳ございません。」
申し訳なさそうに頭を下げる菊丸に向かって元康は「構わぬ」と頭を振った。近況がわからないのは残念だが仕方ない。彼は松平家のために働く乱破なので好き勝手に動くわけにはいかないのだ。
菊丸は顔を上げると「美濃を出た理由でございますが」と話し始める。
「十兵衛様と叔父君の光安様は斎藤道三様に重用されていたため、長良川の戦いでは道三様の陣営に加わりました。その結果、勝利した斎藤義龍様によって明智城は攻め落とされることになったのです。光安様は十兵衛様とご子息の左馬助様を逃し、自らは城と命運を共にしたと伺いました。」
「なるほど。そうであれば美濃には留まれぬ。しかし、よく脱出できたものだ。追手をかけられたであろうに。」
「それは帰蝶様のお力添えが大きゅうございました。」
意外な人物の名前が挙がったことに元康は再び目を丸くした。
「帰蝶様?信長様のご正室の?」
「はい。帰蝶様の御母君は明智家のご出身。帰蝶様と十兵衛様は従兄弟同士であり、幼い頃から親しくされていたそうです。それゆえ帰蝶様は明智家の方々が越前に逃れられるよう手筈を整えておられたのです。」
菊丸の話を聞き、元康は「ふむ」と頷いて腕組みをする。
「いくら親戚とはいえ、そこまでなさるということは帰蝶様は明智殿を大切にしておられるのだな。」
そのように感想を漏らすと菊丸の顔が乱破のものに変わる。
「私個人の印象ではございますが、帰蝶様は十兵衛様を武士としても深く信頼しておられると存じます。帰蝶様が織田家に嫁がれてから十兵衛様は何度も織田家を訪ねておられたようなので。」
「主君の遣いというだけではないのか?」
「それだけではないようです。帰蝶様、もしくは信長様からの命を受けて動いているように見受けられるとの報告も受けております。殿、十兵衛様のことを気に留めておくべきかと。」
「ああ、恩人というだけでなく一人の武士としても気にかけておこう。どうやら明智殿は相当に優秀な御仁のようだ。」
「賢い上に知識も豊富で、刀も弓も鉄砲も使いこなす武に優れた御方でございます。それに加えて教養もおありなので粗を探す方が難しいでしょう。……そして。」
菊丸はそこで言葉を切って懐かしむように目を細める。その表情の柔らかさに元康は目を奪われた。彼のこのような顔は初めて見る。
「とても良い御方です。気さくでお優しくて、離れがたくなるようなお人柄で……共に尾張へ潜入した際に私を『兄さ』と呼んでくださったこともございました。」
穏やかに微笑む菊丸に釣られて元康も微笑みながら、「兄弟という設定だったのか?」と尋ねてみた。そうすると「はい」と笑い含みで返事があった。
「少しも似ていない兄弟でございます。十兵衛様に『兄さ』と呼ばれた時は不思議な心地がいたしましたが、妙に嬉しくも思いました。」
そのように語る菊丸は心から嬉しそうに見えた。今この瞬間、菊丸は乱破としてではなく個人に戻っているのだろう。
菊丸にとって光秀は諜報活動における調査対象の一人だ。だが、個人としての菊丸は光秀を慕っている。それは二人が同じ時間を共有して過ごす機会が何度もあったからに違いない。
それに引き換え、自分は再会を果たすこともできずに彼の言葉を胸の内で繰り返すだけ。教えを胸に生きてきたことや母と再会できたこと、そして感謝の言葉を伝えることすらできずにいる。再会したら話したいことが山程あるというのに、それらは声にならずに心の底に積もっていく。
菊丸が羨ましい。光秀と何度も言葉を交わし、共に過ごす機会のあった彼が羨ましくて堪らない。
思わず溜め息を零すと、菊丸が心配そうに「いかがなさいましたか?」と尋ねてきた。それに対して元康は「心配いらぬ」と頭を振る。
「そなたを羨ましく思うたのだ。明智殿と過ごす機会があったことが羨ましい。私は今日まで明智殿が恩人の干し柿の君であることさえ知らなかった。」
「殿……」
「幼き頃に出会い、頂いた言葉を胸に刻んで生きてきた。それほどに私にとって大切な御方だ。どれほど再会を望んだことか。だが、三河から離れられぬ私に越前は遠い。二度とお会いすることはないやもしれぬ。それが口惜しい。」
恩人の居場所がわかったのなら会いに行くことは可能だ。だが、それは何ものにも縛られないことが前提。多くのものを背負う元康は己の自由に生きられない。
どこまでいってもままならぬ現実に苦笑が漏れる。その時、菊丸が真摯な声で「殿」と呼びかけてきた。
「殿は御母君との再会が叶いました。十兵衛様とも、いつか必ず。私は信じております。」
菊丸の目には少しの揺らぎもない。元康が十兵衛と再会できると信じ切っている目だ。
元康は菊丸の目を見つめ返しながら、これまでの自身を振り返ってみる。「必ず母に会える」と信じて時期を待っていた時間は途方もなく長かったが、それでも待つことはできた。その結果、母との再会を果たした。それならば次も待つことができるはずだ。
元康は「そうであったな」と菊丸に微笑みかける。
「待つのは慣れておる。明智殿に必ず会えると信じて、その日を気長に待とう。」
元康の答えに菊丸が嬉しそうに「はい、殿」と笑った。
待つことの大切さはあの御方から教わった。その教えは胸に刻まれて薄れることなく今日まで至った。それならばこれから先の待つ日々も彼の教えが支えになってくれる。だから、また待つことができる。
元康は大切な教えが刻まれていることを確かめるように己の胸に手を置いた。
*****
──時は流れて、徳川家康と名を変えて何年も経った頃。
「菊丸、聞いてくれ!明智殿とお会いすることができたぞ!」
金ヶ崎の撤退戦から無事に戻った家康は己の領地に戻ると菊丸を呼び出し、相手が姿を現すなり興奮気味に言葉を発した。常に冷静な主君の珍しい姿を目の当たりにした菊丸が無言で瞬きを繰り返していることにも構わず、家康は無邪気に笑いながら言葉を続ける。
「明智殿は私のことを覚えていてくださったのだ。干し柿の話をすると懐かしそうに笑ってくださって、思い出を共有できたことが夢のようだった。それ以外にも少しお話させていただいたのだが──ああ、誠に明智殿は素晴らしい!私の想像以上の御方だった!先の戦での明智殿は──」
菊丸に語って聞かせる最中も家康の頭の中には金ヶ崎での光秀とのやり取りが蘇る。思い出すだけで天にも昇る心地だ。
夢中で話し続ける家康に菊丸は唖然としていたが、やがて穏やかに笑いながらこう言った。
「十兵衛様との再会が叶って誠に良うございました。きっと、殿と十兵衛様の縁は切れることなく繋がっていたのでしょう。」
その言葉が家康の心にじんわりと染み込んでいく。
光秀との縁は切れずに繋がっていた。だから再会できた。そうであれば、これから先も、きっと。
家康は胸に灯った温もりを感じるように己の胸に手を置き、光秀と再会した時と同じ笑みを浮かべた。
終