バックステージで逢いましょう◆
「『俺は、このままでよかったのに』」
整ったかたちのうすい唇がかすかに動いて、痛切な悲哀を紡ぐさまを、じっと見ていた。
よく晴れた休日の朝、彼の家にふたりきり。昨夜は終電を逃がすまで互いに仕事が山積していて、カンパニーからより近い彼の自宅に上がり込んで朝を迎えた。これまでにふたりで何度も繰り返してきた、なんの変哲もない朝だった。
整理整頓の得意な彼の家はいつも小綺麗に片付けられている。手入れが行き届いたあかるい匣のなかで開け放された窓からはあざやかな明清色の光と、やわらかな風が射し込み、彼の細い髪を煌めかせる。陽光をまといつかせた彼の髪や白皙のうつくしさに、そっと目を細めた。悲哀の色を載せたことばを紡ぎながらただ立ち尽くすその姿だけで、陽射しがステージライトに変わる。
嗚呼、彼をこの世界に、愛してやまないミュージカルのせかいに連れてきたことは、間違いではなかった。心がふるえる。
「響也」
聞いてるのか、と、耳慣れた声に呼ばれて視線を上げた。目があう。ステージライトを背に負った彼のうつくしい輪郭、その内側にあるひとみは逆光に翳って鈍色にちかい月の色をしていた。
よく知った彼の色だ。橘蒼星の色。月明かりを映した、鋼のいろ。
「ああ、きいてるよ」
聞いている。聴いている。彼が演じようとしている「橘蒼星」という役の声を。台詞を。哀切を。その迫真を。いま彼が立っているこの舞台は、自分だけのものだ。
たったひとりのために用意された特等席から、立ち上がる。彼が朝食に作ってくれたトーストが視界のすみで冷めていくのが見えて少しだけ惜しいような気がしたけれども、幕が降りるのを待つことはできない。
「なあ、蒼星」
窓際に立ち尽くす彼のそばまで歩み寄り、足を止める。ついさきほど聞いたばかりのことばを頭のなかで繰り返して、彼を呼んだ。彼のためだけのカーテンコール。拍手と歓声のかわりに、ただひとひらのことばを贈る。
「ほんとうに?」
まるくみはられたひとみが、数瞬ののちにくしゃりとゆがむ。鈍色の月が、あざやかに熱を帯びて塗り変わる――否、翳りが剥がれ落ちたのだ。
馬鹿だな、と耳朶をかすめた声はいままでに聴いたことのない響きだった。彼の五指が手首をつかむ。少し冷えた指先へ熱を分けるように自分のそれを絡めれば、つよく握ったまま引き寄せられた。
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20171217Sun.