心臓が動き出した日 自分だけが生き残った理由を、ずっと考えている。
あの事故で得た多額の慰謝料と両親の保険金を持参金代わりに私は親戚へ引き取られた。彼らは幸い真っ当な人間で、私を虐げることもなかったし私の財産についても必要な養育費分しか使わなかった。そのため私は大学進学にも困らなかったし、独り暮らしを始めることにも特に反対されなかった。
大学ではボランティアサークルとラクロスサークルに入った。色々な経験が出来たし、友人も得た。充実した大学生活である。
だが、ふとした瞬間脳裏を冷たい影が横切る。「どうしてお前だけが生き残った?」。……その思考は普段は私の奥深くに沈んでいるが、不意に浮かび上がり私に問いかけてくる。そのたび私は考えるが、答えは見付からない。
……あの時の記憶は曖昧だ。ひとが沢山死んだことは覚えている。とても不吉で、黒くて、赤い目をしたものから逃げていたことも。その黒いものが、「何か」を、食べていたことも。そして、いつも最後に思い出すのは、黒いスーツを着た誰か。私を助け出した、誰か。レスキュー隊や警察に聞いてもそんな人間はいないと言われたが、黒いスーツの背中は確かにこの目に焼き付いている。
その記憶の残照を抱きながら暮らしていた私に、運命は突然爪を立てた。
晴れた日だった。風が穏やかなよい日だった。サークルが休みだったためいつもより少し早めの帰路についていた私は、橙を帯び始めた日差しに目を細めながら歩いていた。
道沿いの公園に子供がいるのが見えた。砂場で遊んでいる。それだけなら何らおかしくない光景で、そのまま通り過ぎれば良かったのに、私はそこに「それ」を見てしまった。
黒い、影だ。
子供の背後に黒い影のようなものが揺れていた。足元に伸びる影ではない、獣とも人ともつかない形の黒い塊が子供の背後に佇んでいた。……それはとても不吉に見えた。冷水を浴びたように全身が冷えていく。時間がゆっくり流れている。禍々しい黒い影はじっと動かない。子供は自分の背後にあるものになど気付かず、砂山にトンネルを掘っている。
不意に、影が動いた。じわじわと木の根が伸びるように地面に黒いものが広がってゆく。少しずつ少しずつ伸びてゆくそれが子供に触れたらどうなるか、それを待つ気にはなれない。間違いなくわるいことが起こる予感があった。
怖い。頭がずきずきと痛む。けれどそこから動けなかった。震える手を握り、からからに乾いた喉に唾を送り込む。
子供に影が触れるまであと数センチ。どうしよう。どうしたらいい?
足がようやく地面から離れた。後ろへ一歩下がる。子供がなにかを感じ取ったのか振り返る。その目の前には黒い影。
自分だけが生き残った理由を、ずっと考えていた。
あの地獄で、自分だけが生き残った理由を、意味を知りたかった。
黒いスーツの背中を思い出す。
──私の中で、何かが
目覚めた。
全速力で飛び出し、子供を抱き上げる。迫る影に背を向け駆け出した。背後から追ってくる気配に鳥肌が立つが、振り返る余裕はない。とにかくこの子供をあの不吉なものから遠ざけたくて、必死に走った。人の多い場所へあの影を連れていってはいけない気がして、路地の奥へと走る。
走って走って走り続けた。肺は破れそうで、喉で血の味がした。鳥肌は立ち続けていて、頭痛も激しさを増している。腕の中にある重みだけが現実味を帯びていた。足がもつれ始め、それでもなんとか角を曲がった先は行き止まりだった。
振り返る。すぐそこまで影は迫っていた。寒気を通り越して吐き気までしてきたが、不思議と恐怖はなかった。どうやってこの子供を逃がすかだけを必死で考えていた。影の大きさは精々人間二人分ほどで、突っ込んで横をすり抜けることは可能に思えた。その瞬間私に何が起こるかはわからないが。
深呼吸をする。真っ直ぐ前を見る。目を逸らすな。腕の中のそれを守ることだけ考えろ。祈ることはもう許されない。戦え。戦え!
ぐっと片足を引き、飛び出すタイミングを窺う。
……その時。周囲の空気が変わった気がした。