課外秘資料第五架一段の一:空の出現条件についてのとある事例0.
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください」
中学校の制服を着た少女たちが、放課後の教室で机を囲んで座っている。机の上には文字の書かれた紙があり、その上に十円硬貨を置いて全員で指を乗せている。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください。おいでになられましたら『はい』の方へお進みください」
何度か同じ文言を繰り返してもなにも起こらない。少女たちは落胆したような様子で、誰からともなく硬貨から指を離した。
ふっ、と教室の電気が消えた。
1.
N中学校で集団昏睡事件が起こったのは数日前のことである。女子生徒四人が放課後の教室で倒れているところを発見され、病院へ運ばれたがいまだに意識は戻っていない。学校は対応に追われ生徒たちも動揺している中、何故かこの中途半端な時期に、教育実習生がやってきた。
「千場 香里奈です、短い間ですがよろしくお願いします」
黒板に名前を書き、にっこりと挨拶をするのはすらりと背の高い娘である。担当は社会、この学校の卒業生だという。
「少し、その……落ち着かない状況ですけど、うちの生徒には特に問題児もいませんし、実習頑張ってください」
「はい!」
挨拶を終え、廊下を歩きながら引率の教師に答えた娘はふと窓の外を見て少しだけ目を細めたが、すぐに何事もなかったように前を向く。そして何やらひとつふたつ質問などしながら職員室へと歩いていった。
この娘が実際のところは大学生でもなんでもなく、千々輪カタリナという名の警察官であり、今回の集団昏睡事件について捜査しに来たということを知っているのは校長だけである。……だが、その校長ですら知らないことがふたつある。ひとつはこの娘……カタリナが警察官は警察官でも通常の職員ではなく、『帯刀課』という特殊な部署に所属していること。もうひとつは、彼女が常に大事そうに持っている教鞭が、「教鞭に見えるだけ」の別のものであることだ。
しかし捜査に来ているとはいえ、実習らしいこともしておかないと周囲から不審に思われる。大学時代に教員免許を取得していたカタリナはなんとか無難に振る舞うことが出来、物怖じしない人懐っこさでもって生徒ともそれなりに打ち解けつつあった。
「私が中学生の頃は学校の怖い話とか流行ってたけど、今の子はそういうの無いの?」
移動中に一緒になった生徒たちにそれとなく話を振っても、不思議とそういった類いの噂は聞こえてこなかった。そういった噂のある場所には周囲の人間からの恐怖や忌避感によって空が寄ってきやすいため、まずはそれを探すかと考えたのだがあてが外れてしまった。こうなったら実習の合間に地道に歩いて敷地内を捜索するしかない。
「……というわけなんですよ」
校舎の脇にある花壇の前で肩を竦めたカタリナは、隣で草むしりをしている男を見た。それから小さく笑う。
「違和感ないですね、岬さん」
「褒められてるんだか何なんだかわからんな」
苦笑したその男はつい先日この学校にやってきた用務員であり、……実はカタリナの同僚であり、遊馬岬という名の帯刀課所属の警察官である。体格が良く顔立ちも精悍である彼は普段こそいかにも警察官といった風情だが、こうしてラフな格好で帽子をかぶりタオルを肩から下げた状態で土を弄っているところに違和感は無いから不思議である。
「こっちも見回ってはいるが、これといっておかしな気配のする場所は見付かってない。……あまり良い傾向ではないな」
彼らは様々な手回しの結果潜入捜査などというアクロバティックなことが出来ているわけであり、時間は限られている。入院中の女子生徒たちもいつ容態が急変するかわからない。肉体的に傷付けられたわけではなかったのが不幸中の幸いではあったが、帯刀課医療班の見立てによると彼女らは精神力──あるいは魂と呼ばれるようなもの──を少しずつ食らわれているような状態で、時間が経てば経つほど後遺症の残る可能性や命に危険が及ぶ可能性が高まるとのことだった。元凶である空についてなにかわかれば治療のしようはある、とも。
「千々輪、のんびりは出来ないがあまり焦ってもろくなことにならないぞ。冷静さは失うな」
教鞭を何度も持ち替えながらじっと花壇を見ているカタリナに、岬が噛んで含めるように言う。ぎゅっと一度教鞭を握ってから、カタリナは岬の方を見た。なにか言いかけたその時、予鈴が鳴る。
「……授業に行かないと。ではまた放課後に」
軽く頭を下げ、カタリナは足早に校舎の中へと戻っていった。……教鞭を握る手が少しだけ震えているのが、岬にも見えた。
2.
『空』とは、ひとを食う化け物である。詳しい生態はわかっておらず──そもそも生き物かどうか──、出現条件も確定されていない。精々が「人間の恐怖や憎悪などの負の感情に引き寄せられる」程度である。
その空に対応するためにあるのが『帯刀課』、カタリナと岬の所属する部署である。彼らはそれぞれ教育実習生と用務員としてとある中学校に潜入、生徒の集団昏睡事件について調べていたのだが進展は芳しくなかった。
その日も放課後遅くまで残って校舎内を見回っていたカタリナは、特に何の成果も得られないまま廊下で溜め息を吐いていた。一旦岬と合流して収穫が無いか確認するかと踵を返したその瞬間、カタリナの背がぞっと粟立った。
──空の気配!
今の今まで何の気配もなかった。突然わいて出たかのように発生したそれを訝る時間も無く、気配のする方向にカタリナは走り出す。教鞭を握り締める手は震えていない。
ある教室の前に到着したカタリナは扉を開けようとしたが、鍵がかかっているのか開かない。窓も同様である。カタリナはジャケットを脱ぐと片手に巻き付け、その手で教鞭を握り窓ガラスに叩き込んだ──その瞬間、鞘におさめられた日本刀がその手に握られているように見えたが、すぐに教鞭に戻った──。砕け散ったガラスの向こうに黒い大きな影が見える。床に倒れている数人の生徒も。そして、尻餅を付いている一人の生徒にその黒い影がじりじりと近付いていた。
「離れろッ!」
カタリナが投げ付けたのは教鞭の筈だったが、それは途中で刀に姿を変え、影の頭部──影には頭部らしきものがあった、獣のような形だった──を掠めて壁に突き刺さる。カタリナの方へ振り返った影は、カタリナが窓から教室へ入ろうとしているのを確認したのか、生徒から離れると空中に溶けるように消えた。
カタリナは倒れている生徒たちに駆け寄り、息があるのを確認してから救急車を呼んだ。それから、尻餅をついたまま硬直している女子生徒に声をかける。
「何があったの!」
肩を掴んで問いただしても女子生徒はふるふると頭を振るばかりで埒が明かない。少し語調を強めて詰問しかけたところで、
「ちぢ……千場! さん!」
よく通る、だが一瞬何かに迷ったような声で呼び掛けられて我に返る。はっと振り返った先には岬の姿があり、カタリナが問う前に頭を振った。見失った、の意だ。現場に到着してまずは空の追跡を試みただろう彼の探知に引っ掛からなかったということは、やはり今回の目標は隠密能力が高いのだ。
萎縮してしまった女子生徒のことを保険教諭に任せ、カタリナと岬は騒ぎから少し離れた場所で顔を付き合わせて対策を話し合う……前に、まずは報告をしなければならなかった。一瞬とはいえ空を目視したカタリナが報告をすることになり、スマートフォンを取り出して本部へと繋ぐ。
「……お疲れ様です、こちら千々輪カタリナです。N中学校の件で報告があるので班長に繋いで下さい。……はい…………あ、はい、お疲れ様です千々輪です。……はい、N中の件で。……先ほど空と接触しました。はい、……いえ、取り逃がしました。……どうやら捕食時以外は非活性化しているようで……はい、……はい、仰る通りです。……これ以上は何としても阻止します。……はい。……わかりました、失礼します」
報告を終えたカタリナはひとつ溜め息を吐き、少しだけ眉を下げたまま岬を見た。手酷く失敗した子供、もしくは少女に似た表情だった。
「切り替えて行くぞ」
軽く背を叩いてそう促した岬に少しだけその表情は緩み、はい、と返した声はいつもの調子を取り戻していた。
その日の放課後、襲われた生徒たちが運ばれた病院を訪れた二人は、もっとも軽症の──意識がある──女子生徒の面会へ向かった。異常は見つかっていないとはいえ念のため安静にするよう指示が出ていること、相手が女子であること、カタリナと顔見知りであることから、岬を廊下に残してカタリナのみが病室へと入ることとなった。
女子生徒は顔色こそ悪かったが受け答えはしっかりしていて、事情聴取に差し支えはなかった。まずは当たり障りのない話から始め、緊張が少しほぐれてきたところで本題に入る。
「……あそこで何があったのか、教えてくれない?」
女子生徒はぎゅっと布団の端を握り締め俯いた。カタリナは静かに、出来る限り穏やかに相手へ話しかける。
「誰にも信じてもらえないようなものを見なかった? 『それ』が出てくる前に、なにか特別なことをしなかった……?」
教室の風景を思い返す。黒い影の前で尻餅をついていた彼女は、正面から目を離さず、恐怖に歪んだ表情をしていた。本来空というものは普通の人間には見えないが、彼女にはあの反応からして見えていた筈だ。……思春期の少年少女は「そういった」感受性も強く、この時期だけ見えるようになる者も少なくない。
「……こっくりさんを、しようって」
ぽつ、と女子生徒が呟いた。カタリナが黙って頷くと、女子生徒は自信なさげに言葉を続ける。
「リサ……佐々木さんが言い出して、それで……でも何も起きなかったからやめたら、急に」
唇を震わせる女子生徒に、カタリナは安心させるように何度も頷いてみせた。落ち着いた声で、語調で、信頼を失わないように努める。カタリナの目は普段であれば強く光り威圧的ですらあるが、今はあまり正面から相手を見詰めないようにゆっくりと瞬きをしている。
「……皆でこっくりさんをしていたのね?」
「はい、……でも十円玉動かないし、やっぱりこんなのただの怪談なんだって、なのに、あんな」
「大丈夫よ、もう大丈夫。ここは安全だから」
念のため今回の事件の被害者たちの病室には監察官による空避けが施されているため、この言葉は気休めではない。そっと、慎重にカタリナが女子生徒を見る。
「後のことは私たちがなんとかしておくから、あなたは気にせず休んでなさい」
はい、と頷いた女子生徒は立ち去るカタリナを見送ることもなく視線を泳がせていたが、
「先生」
カタリナが病室を出る直前、そう声をかけた。振り返った相手に、不安げな顔で問う。
「先生は……何者なんですか」
カタリナはその問いに少し考えてから、首を傾げて笑った。
「先生はね、正義の味方なの」
そして、軽く片手を振ってから病室を後にした。
……病室を出たカタリナに岬が近寄り、どうだった、と尋ねてくる。カタリナが女子生徒の話を伝えると、岬は難しそうな顔をした。
「こっくりさんか……。今回の空は降霊ごっこに反応して活性化するというわけだな」
「まずは引っ張り出して閉じ込めるところからですね……」
片手の傘の柄を握ったり持ちかえたりと落ち着かない様子のカタリナと打合せしながら廊下を歩いていた岬は、何気なく先ほどの言葉について尋ねた。
「正義の味方、だって?」
「……聞こえてたんですか」
苦笑するカタリナに、岬も笑う。
「随分大きく出たもんだな」
「だって私たちは警察官ですから」
岬さんに言うのもなんだか恥ずかしいですけど、と己の髪に触れながら続けるカタリナを、岬は驚きとも感動ともつかない予感を覚えながら見た。金色の目が傾き始めた日差しに光る。
「警察くらいは正義の味方をしなくちゃ、だめでしょう?」
「……そうだな」
それだけ口にした岬が何を考えているのか、カタリナは知らない。
3.
『空』というものについてはわかっていないことが多く、ただ斬り殺すだけで任務が済むことは少ない。調査も重要な仕事である、というか、調査しなければ斬り殺すことも出来ないことが多い。
今回の空が出現するトリガーは『こっくりさん』。降霊ごっこに反応し現れるその化け物は、ただ好奇心が旺盛だっただけの子供を何人も襲っていた。死者こそ出ていないが、彼女たちはまだ昏睡状態から目覚めていない。早く事態を解決しなければ取り返しのつかないことになるかもしれない。帯刀課たちは、急ぎ空の討伐の準備をしていた。本部から技術開発班の人員も派遣され、万全の準備を。
そして放課後、校内に人気はない。生徒たちの昏睡事故についての調査という名目で人払いがされ、一階の角にある教室に帯刀課職員たちは待機していた。捜査官千々輪カタリナは刀を握り、監察官遊馬岬は銃と符の確認をし、そしてサポートの技術開発班の人間は逃走防止の設備と装備の提供をする。
部屋の八隅──床側の四隅、天井側の四隅──に札。机はこっくりさん用の一つを除いて片付けてある。五十音と鳥居の書かれた紙が置かれた机を挟んでカタリナと岬が向かい合い、技術開発班は部屋の外へ出て外から部屋を観察する。一度目配せしてから、カタリナと岬は紙の上に置いた十円玉に指を乗せた。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください」
……十円玉は動かない。周囲の気配にも今のところ変化はない。
「こっくりさん、こっくりさん、おいでください。おいでになられましたら『はい』の方へお進みください」
何度かその文言を繰り返す。五度目の呼び掛け、不意に蛍光灯がちらつき、ぞっと産毛が逆立つような寒気。カタリナはすぐさま腰の刀に手をかけ、岬は銃を抜いた。
……ぬるり、と。床の隅から滲み出るようにそれは現れた。四足の獣のような形をした、青黒い影を切り抜いたような存在。目があるべき場所には六つの赤い光点があり、ぐりぐりと動いていた。『それ』は……空は己の前にいる者が無力な子供ではなく何らかの脅威であることを察知したのか、警戒するように後ずさったが部屋から消えることは出来ない。そういう風にこの部屋は封印されていた。入れるが、出られない。空は逃走を諦めたのか大きく口を開け、そこからぞろぞろと触手のようなものが這い出てくる。
「『こっくりさん』ね……」
岬が誰に言うでもなく呟く。狐どころか既存のあらゆる獣に似ても似つかないこの存在がその呼び声に応えて現れては子供たちを襲っていたのだと思うと、文句のひとつも言いたくなる。空はそれを理解しているのかいないのか、触手を波打たせながら帯刀課たちへと襲いかかった。
カタリナの戦い方は単純で迅速かつ大胆だ。しなやかな体を最大限に使い一撃を叩き込む。一足飛びに踏み込み刀を振るうその技は慎重さには欠けるが、持ち前の身体能力の高さと勝負勘で確実に空を追い込んでいた。一方の岬はそれをしっかりと援護していたのだが、少し不機嫌そうに──あるいは不本意そうに、気遣わしげに──眉をひそめている。……彼女は若いが、新人というわけではない。そろそろ落ち着いて然るべきである。勇猛果敢は美徳にもなるが、無謀と表裏一体でもあるのだから。
空の声なき咆哮が教室の窓ガラスを震わせる。技術開発班が外から強化はしているが、長くはもたないだろう。それを察したカタリナが、とどめの一撃を入れるべくタイミングをはかる。核を潰せば空は死ぬ──それが生き物としての死と同等のものかは不明だが──。見える範囲でそれとおぼしきものは目で、少し高い位置にあるそれを狙うにあたって少し思案したカタリナへ、空の触手が複数本、勢いよく伸ばされた。
その触手に飛び乗り、一気に駆け上がる。振り落とさんと波打った触手から咄嗟に飛び上がるが目標からは少し逸れている!
「……!」
刀から片手が離れたのに気付いた岬が、この後カタリナが何をするつもりか察して何か言おうとしたがそれよりも先に、カタリナの手が空の触手を握って手綱代わりにした。表情が僅かに歪む。空に何の対策もなしに触れるのは推奨されない、触れた箇所からは黒いもやのようなものがたちのぼっている。が、ぐん、と触手を引いて体勢を変えたカタリナは、片手で握った刀を空の目へと突き立てた。まだ浅いそれに両手を添え、体重をかけて押し込む。びくんと空の体が痙攣した。そのままどろどろと崩れていく空から刀が抜け、床へと着地したカタリナは刀を鞘へおさめる。
一発の銃声。
カタリナへと向かおうとしていた触手を岬の銃弾が弾き、それが最後のあがきだったらしく空は完全に沈黙した。部屋の外へと合図をすると、後始末をするべく技術開発班が部屋へと入ってくる。空の死体は消えつつあったが、その場に穢れが残らないよう処置はしなければならない。お疲れ様ですとカタリナたちと挨拶を交わしてから作業へ入る彼らはその格好──大体が背広や白衣などの落ち着いた格好だ──も相まって会社員か何かのようにも見える。ただその扱う道具が見慣れぬものであったりするだけで。
「千々輪……」
後始末の様子を横目に、黒い煤のようなもので汚れた手を握ったり開いたりして動きを確認していたカタリナへ、岬が苦々しげに話しかける。そちらを見たカタリナはなんとなく身構えており、その体のこわばりを見た岬は呆れたように溜め息を吐いた。
「わかってるなら言わなくていいな?」
「はい……すみません、でも」
「でも?」
「……次から出来る範囲で気をつけます」
「正直なら良いってもんじゃないぞ」
嘘を吐かないのは美徳ではあるが、この状況でなお「もうしません!」と断言しないのは少々頑固と言ってもいい。岬はしばらくカタリナを眺めていたが、それ以上の追撃はやめる事にしたのか背広の皺を伸ばして踵を返しながら片手で招く。
「一旦報告に戻って、諸々手続きをしないとな。実習ごっこも用務員ごっこも終わりだ」
「そう……ですね」
カタリナは少しだけ歯切れ悪く返事をし、小走りに岬の後へと続いた。
その後N中学校でこっくりさんは静かにブームの終わりを告げ、教育実習生のことも新しい用務員のことも忘れられていった。一人の女子生徒はあの不思議な教育実習生についてしばらく気にしていたが……若い娘の時間の流れは忙しなく、恋や部活や勉強のことですぐにその記憶も押し流されていった。
そうしてこの世の不思議な出来事は記憶の闇に消えてゆく。帯刀課というものの存在もまた忘れられて、彼らのはたらきを誰も知らない。