百回目天王寺署を辞するときには、もういい時刻になっていて、街には家路に着く疲れた背中と陽気に酔った背中とが溢れていた。
桜の季節が近いとはいえ、まだ空気は冷たい。冬用のコートでは暑く感じ、春仕様のそれでは冷気を防げない。中途半端な季節である。
捜査の最中だからか、あるいは週末だからか、途中何度か携帯に出ながらも玄関まで見送ってくれた森下は、現場からずっと鼻をぐずぐずと鳴らしていた。去年まではなんともなくても次の年に突然来るのが花粉症の怖いところである。アルマーニのスーツと赤くなった鼻はやはり不釣合いで、それが彼の病状により一層の同情を寄せる一因にもなっていた。
「今日は本当にありがとうございました。明日なんですが……」
「引き続き現場に伺わせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんです。では九時でよろしいですか?」
「九時ですね、わかりました」
火村は習性で手帳に時刻を書き記すと、それではと簡単な挨拶をして通りへと出た。今からなら、十時前には京都に着けるだろう。
低気圧が近いのだろうか、時折強い風が吹く。舞い上がった砂埃に少し目を覆ったとき、ポケットに入れておいた携帯が細かく揺れる感触を覚えた。液晶に映し出された「非通知設定」の文字を見た火村は一瞬だけ動きを止めたが、往来の邪魔にならぬよう手近な路地に身を寄せると着信ボタンを押す。
「もしもし」
「…………」
「……もしもし、火村ですが」
なお押し黙る相手に向かい、火村は心の中で冷笑を浴びせ掛けた。
無言電話は今日に始まったことではなく、もう何ヶ月も続いている。
はじまりは夏の名残も消えかけたある週末で、その後ニ、三日ぐらいの間で今日までずっと続いていた。火村から切る事もあれば、「もしもし」といった途端切られることもある。時間は大体決まっていて、大抵仕事が終り、家にたどり着くかどうかという頃が多かった。或いは、伝言が入っていない、ニ、三秒の留守電も時々入ることがある。
始め火村が想定した発信者はフィールドワーク関係者の誰かか、ストーカーの類だった。後者はともかく、前者にはいやというほど思い当たる節があるからだ。火村が関係した事件に関わる人間の数はそれなりに多く、その多くから恨まれていることもまた自覚していた。
身辺に注意しながら日々を過ごしているうちに紅葉も落ち、やがて学内が浮付いた空気になった頃、火村は唐突に容疑者を割り出すことに成功した。別段罠を仕掛けたわけではない。いつものような無言電話が切れる寸前、向こう側で聞こえた微かな女性の声が、彼を回答へと導いたのだ。
そのあとすぐに、犯人に身元が割れたことを突きつけすべてを終わらせても良かった。だが火村は敢えてそれをせず本日まで過ごしてきた。百と勝手に期限を切って、ただその日が来るのを漠然と待ちつづけた。理由を問われても判らない。ただ、その区切りが自分にとって必要なものなのだろう、と曖昧に思うだけである。
しかし、それも今日で終りだ。薄汚れたビルの外壁に軽く身体を預けながら、火村はそっと相手に声をかけた。何かに確実に止めを刺すために。
「――アリス」
向こう側で息を飲む気配がした。本当にばれていないと思っていたのか。そう思うと無性に嗤いたくなって来る。
今日は家から掛けて来てないのだろうか、時々ノイズが走る向こう側の様子は窺い知れない。
クリスマスを前に控えたあの日、アリス、と呼びかけた甘ったるい声の女性は彼の今の恋人だろうか。いや、そんなことはどうでもいい。彼の生活から自分は切り離されて久しいのだから。一年前の冬に舞台はとっくに終わったはずなのだ。
「いい加減、カーテンフォールと行こうじゃないか。そうだろう?」
切れない電話は、しかし何も伝えてこない。
急に煙草が欲しくなってくる。濃いニコチンですべてを洗い流したいと、空いている手でポケットをまさぐりながら、火村は続けた。
「最初は気持ちに負けて、次に世間に負けて。今度はなんに負けたっていうんだ?」
「自分や」
火村が身を思わず硬くしたのは、その声が受話器越しではなく、極めて近くに感じられたからだ。
――おかげで、他は殆ど全部無くした。息を切らしながら、有栖は火村を見つめそう呟いた。