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    掌編詰め合わせアイドル勉強のうた新しい季節へ、君とプレイ ザ ゲームくちばしにチェリーアイドル「あなた、誰ですか」
     そう言われたときのぞっとした気持ちを今でも覚えている。
     自分が誰なのかを知らないのは、誰よりも自分自身だからだ。

    「久しぶりだな」
     いきなり背中を叩かれながらそう声を掛けられて、後藤は声のした方を振り向いた。
    「あ、……久しぶりです」
    「あら、犀川刑事部長、珍しいですね、わざわざ特車二課にお声を掛けられるなんて」
     すぐ横でしのぶが涼やかに嫌味を投げかけた。
    「南雲警部補は相変わらずだな」
     むっとする犀川をよそにしのぶは態度を変えず、
    「いえ、刑事部長におられましては、後藤警部補と大変懇意であると聞いていたので、つい」
     お二人の親交を邪魔するつもりはありませんが、と続けて、少しだけ顔を硬直させた犀川の様子を、後藤はじっと眺めていた。手の震え、眉毛の動き一つ一つ、言葉に少しだけにじむ感情。そうしたものを丁寧に拾ってから、ようやく後藤は二人の間に割って入った。
    「犀川さんすみません、南雲警部補はただ正直なだけなもので。いまさら私に用とはなにですか」
     犀川は後藤のいやみなのかやる気がないのか分からない言葉にはめげなかった。
    「そうだ後藤、今度、前川班の面子で飲むんだが」
     お前も当然来るだろ? あのときの立役者が来ないことには始まらないからな」
    「前川班の皆でねえ」
     後藤は思案する様子を見せてから、「詳細メールでお願いしますわ、早く帰らないと、同僚が厳しいものでね」
    「私のせいにしないでちょうだい」
    「まったく、カミソリともあろうものがすっかり尻に敷かれちまって」
    「そりゃ立てたくなる同僚がいたら、俺だっていくらでも骨を折るってもんですよ、それじゃ」
     後藤が片手を上げて会話の終了を告げると、犀川は再びお前がねえ、と繰り返して足早に去って行った。丸い体型が素早く廊下の奥、公安のほうへと消えていくのを確認してから、後藤は溜息をついた。
    「わかりやすく嫌味な男だねえ。あんなのが同僚だったの」
    「あなたがいなくなってようやくエースの候補になったって人だから、ただの小物よ」
    「で、前川班って」
    「新宿署にいたときの殺人課の部長だったかしら」
     しのぶは胸ポケットに入れた手帳を取り出して、素早くめくり始める。
    「…これね、庄和会の諍いによる風俗嬢と呼び込みの殺人を解決、ってあるから。もっと聞く?」
    「うーん、別にいいわ。犀川さんとやらとは縁が遠そうだし」
     後藤がそういうとしのぶが手帳をパタンと閉じながら、「そのほうがいいわよ」と頷く。
    「もっとも、あの人の前であなたがなにか尻尾を出すとも思えないけど」
    「でも、用心に越したことはないじゃない」
     ちょうど警視庁の地下駐車場にたどり着いたところで、後藤は自分に言い聞かせるように付け加えた。
    「もうカミソリなんていないって、早く納得してくれないかねえ」
     実際、後藤の中にもうカミソリなんて呼ばれた冷徹な捜査官はもういない。そもそも二課に異動になった理由も、それまでの公安、そして一課での輝かしい記憶もない。三十代の記憶がほぼまるまる消えている後藤がいまも警察をやっているのは、いまの同僚の手帳のおかげにほかならない。
     なぜしのぶが後藤のことをここまで補佐してくれるのかは全く理解出来ないが、少なくともいまの後藤にとっては、警察官人生はほぼしのぶとの二人三脚でのみ存在するものだ。
     しのぶが調べてきた刑事・後藤喜一の像をなんとかなぞっているうちに呼び名が昼行灯に変わったことも含めて、しのぶにんは感謝している。が、
    「本当さ」
    「なに」
    「しのぶさんがときどきよく分からないんだよね」
     なんであんた見たいな真面目な人がこんなことをしてくれるんだか。
     二課に帰るためにしのぶの車の助手席に収まって、シートベルトを閉めながらこぼれた後藤のいつもと同じぼやきに、しのぶもまたいつものように意味ありげな笑いを浮かべて、そしていつものように返すのだ。
    「自分が働きやすい同僚を手元に置いておきたいだけよ」
     そして必ず「ニュー後藤喜一もいいいものよ」と付け加えるのも忘れない。
     そのたびに後藤は「その”も”はなに」と聞きたくなるのだが、その疑問はいつも水面に浮かぶ前に消える。
    そしてただ、自分はプロデュースされているようなものだと、心の中でひとりごちるのであった。
     この公演の、ラストステージの光景はまだわからない。

    勉強のうた 頭の良い人がよく陥りがちな罠のひとつに、勉強の仕方がわからないというのがあるらしい。
     いわく、教科書はすぐ理解出来る、参考書を読めばだいたいが飲み込める、対策をしなくても試験で90点は堅い。そういうタイプの人は机の前に座って、なにかを学ぶという技術を身につけてないゆえに座学が苦手になるという。
     聞いたことはあるが眉唾だと思っていたその伝説が本当だと知ったのは、隣に座る男が問題集を開いてきっかり十五分で飽きたのを見た時だ。シャーペン片手に真面目な顔をして本と向き合っていたのはほんの数分、それでも解きますというポーズを保てたのも数分、今は完全にやる気を失って消しゴムで机を叩いている。
    「……だったら受けなきゃいいんじゃないの?」
    「いや、受けると決めたのは俺だし、願書も用意したし」
     言いながらもいらいらと問題集に目を戻しては、またあーと小さく溜息をついて顔を伏せる。その態度、あなたは中間試験前の中学生か。
    「どうやって大学や前の昇進試験を乗り切ったのよ」
     東大ほどじゃないけど名門に入ったんでしょ、と言いながらしのぶは本日二杯目の渋めの緑茶を出してやった。そもそもこの男が警部になると言い出したのは、先に昇進して本庁で奮闘している恋人(つまりしのぶだ)の姿に啓発されてということで、あなたに追いつきたいと言われたら恋人としても元同僚としても少しぐらいは甘やかしたくなる。後藤の家の台所のこともすっかり熟知しているもので、あと五問ほど解いたら煎餅でも出してやろうかと算段をしはじめた。
     わが家と同じくとはいえないが、最近はくつろげるほどに通い慣れた、と感じ始めたこの団地ともあと数ヶ月でお別れで、昇進の可否がわかるころに、後藤は品川駅と新馬場の間の中古マンションに引っ越すことになっていた。場所はしのぶの実家にも帰りやすく通勤にも便利なほういいがと後藤が提案し、物件は二人で見て回った。いわく「二人で家、探そうよ」は後藤なりのプロポーズだったらしいが、その後に「越したらすぐに一緒に住もう」と肝心なことを言えなかったのと、しのぶが結婚前に同棲など出来る性格ではないため、ファミリー向けメゾネットタイプの部屋には当分後藤一人で住む見込みとなっている。
    「ほら、新しい土地で新しい階級で、って見栄張ったのはあなたでしょ。早稲田の門を目指して猛進してた昔を思い出して」
    「……腹立つこと言って良い?」
    「なによ」
    「実はさ、受験勉強とかね、やったことないのよ」
    「はぁ?」
     しのぶはお茶を飲む手を止めて、まじまじと右側に座っている男の顔を見た。
    「いかんせん目指せ東大なんて都立にいたもんだから、そこそこ勉強出来れば母校ぐらいは楽勝だったしさ、一応赤本には目を通したけど」
    「……でも、さすがに警部補になったときはさすがに」
    「それがさあ、本庁でブイブイ言わせてたころとはいえ、まさか一発で受かると思わなかったし」
     嫌味なことを言う自覚があるから前置きをしたのだろうが、それでも確かに腹が立つ。しのぶも大学は付属の女学校から内部進学をした口だし、警視庁に入ってからは一発で巡査部長、そして警部補、警部へと昇進出来たが、それは一年ほどこつこつと準備をして問題集も二冊を三周ほどこなして対策をした結果だ。さすがは元警視庁一の男、持っているエピソードの腹立たしさも警視庁トップクラスだ。
    「じゃあ今回も行き当たりばったりで行けば?」
     努めて冷静に言ったつもりだが、後藤はほらやっぱりと眉を下げた。
    「だから腹立つよって断ったじゃない」
    「腹なんて立てていません。でも、私以外の人の前で言わない方がいいわよ、それ」
    「言いませんよ」
     後藤はお茶をずずっとすすって、そして小さく息を吐いた。
    「……真面目にやりたいんだよ。今更でも。だってさ、真面目の意味を教えてくれた人が、その、……将来のお嫁さんなわけ、で」
     言いながら照れていくのか、少しだけ声が弱くなり、「お嫁さん」なんて吐息のような言葉の響きだ。照れ隠しに問題集を手に持って顔を半分隠す姿は立派なおじさんの風体なのにまるで少年のよう。
     後藤があまりにもうぶなしぐさを見せるものだから、しのぶもしばらくは顔を赤くして絶句してしまったが、やがてこほんと咳払いをして、そうして先に微笑んでそっと背中を叩いた。
    「……大丈夫よ、あなたなら」
    「それって、しのぶさんの恋人だから?」
    「そうよ、だって私のフィアンセだから。だからとりあえず一日2ページから始めたら? 試験勉強は時間じゃなくて量と質よ」
     そう諭すように本を指すと、後藤は本から顔を出して、
    「なに、家庭教師でもしてくれるの?」
    「あなたがお望みなら」
    「じゃあ、家庭教師プレイとかも」
     次の瞬間、後藤の頭に勢いよくティッシュペーパーの箱が振り下ろされた。

    新しい季節へ、君と 毎年三月の十四日を過ぎた次の非番の日は晴れている記憶しかない。それは恐らく、これまで何度もあったはずの、雨の降った日や雪の日に一人佇んだ、濡れて黒く、そしてうらぶれた雰囲気が漂う墓地の風景が遠ざかっているからだろう。これは後藤にとっては大きな進歩で、ほんの数年前まで、いつでも記憶の中の世界は暗く、雨が降り、暗い雲が立ち込めているものばかりだった。実際は晴れも雨も、寒さも暑さも繰り返しやってくるもので、だから明るい風景ばかりを思い出し、そして覚えようとしているいまは、ようやくバランスを取ろうとしているに違いない、たぶん。
     毎年ホワイトデーを過ぎた最初の非番になると、後藤は彼岸を兼ねて必ず墓に行く。妻が死んでからいい夫になる男性というものがいるが、後藤は自分こそまさに典型例だといつも苦く笑っていたものだ。 
     ろくでもない男はろくでもない新郎になり、ろくでもない家庭人になりかけて、そして多少はマシな父親にはなり損ねた。
     宗教を持つわけでも迷信を信じるわけでもないが、それでも因果は巡り、周りを巻き込んでいく。そうして得た、自分は幸せになろうとしてはいけない人間だという確信は、後藤にとって数少ない信仰であり優しい慰みであった。そして、稀に人から発せられる優しい言葉、例えばあなたやあるいは他人の身に起こった出来事については、あなたの責任でも誰のせいでもない、といった慰めは、この前までは耳障りのよい言葉でありただのきれいごとだった。責められたかったわけではない、自分を蔑むことで哀れみたかったわけでもない、ただ事実として、自分がもう少し心ある人間であったら、あるいは冷酷であることを隠し取り繕おうとしなければ、違ったはずだと信じていたかったのだ。
     しかしたった一人の口から「誰のせいでもない」という言葉が発せられたときに、ついに自分はなににも責任がなかったという冷徹な真実が男の心を溶かした。鋭く、痛みを与えて、そして確実に。
     少し古びてきた墓には一人分の名前しか記されてない。名前のないまま胎児とか赤子とだけ石に掘ることを拒んだのは当時の喪主、つまり後藤だ。日ごと大きくなっていく腹を見ながら、遠い未来の家族のために二人で名前を決めておこうと思っていれば、胎児は後藤の子供だった。しかし実際は、後藤は後藤ひとりきりの世界にいて、胎児は母の子でしかなかった。
     出会って式を挙げて形を整えて、しかし最後まで家族を作れないまま、結婚は唐突に幕を閉じた。だから本当は築島の家の墓に入る方が佑子にとってもよいのだろう、いまも後藤はそう思うことがある。しかし、妻の兄である築島がそれを許してはくれないだろう。妻との距離以上に、築島と自分の関係のいびつさに思いが及ぶと心は乱れ、どうして自分はあの男にあれほど惹かれたのか、いまもどこかで惹かれているのかと途方に暮れるのだ。もう築島家の二人の人間とのあの数年間の日々だけで、他人についてのキャパはもう一杯だと思っていたはずなのに。 
     街の喧騒も遠く人気のない墓地にひとりたたずみ、毎年の通りに寺には似合わない白い薔薇を供えて、毎年の風習どおりにチョコレートを一箱、そっと墓石の前に置く。学生時代は男同士でしかつるんでいなかった後藤にとってデートで気になる女性に渡すものなど思いもつかなかったから、デパートに飛び込んで適当に買った有名な洋菓子屋のクッキーアソートを、裕子は本当に気持ちだけのものね、といいながらもとても喜んで食べてくれ、バレンタインには同じメーカーのトリュフを後藤に送ってくれたものだ。だから、このメーカーのチョコレートは二人だけのもので、違う誰かと分け合うことはないし、これからも生涯変わることはない。
     ただチョコレート一つだけしか、変わらないものを残せないことを許してほしい。
     供えた線香の煙が上へ上へとたなびき、やがて薄れていくのを見上げてから後藤はしゃがみこみ、手を合わせて、そして一人小さく声を掛けた。
    「今の同僚がさ、そりゃあもうきつくって。なんでも平気な顔してずばずばいってくるわけよ」
     あなたは人の命運にまで自分に責任があるとうぬぼれていたいの、それともただ自分を勝手に罰したいだけなの。上品なボディソープの匂いをまとう肌を寄せながら、寝言のように静かにささやかれた声が蘇る。もうなにも飲み込まないでほしいという後藤の嘆願を受け入れて、彼女は誠実に後藤の弱いところを指摘し、自分の弱いところをさらすようになった。互いに逃げていたことも、一人で恐れていたことも。
     全く、彼女もいい大人なのだから、程度をわきまえて、なによりも自分のためにいろいろを誤魔化してもいいのに。どこまでも誠実で不器用な人だ、抜き身の刀のように強く、厳しい人だ。それこそ自分以外の誰も相手に出来ないぐらいに。
    「……俺は、あなたと幸せになりたかった」
     そう、築島の人の好意に応えたくて、あの兄妹と家族になりたくて。家族というものに憧れて、せめて格好つけて行儀よく見せようと、意識してあなたと呼びかけていたものだっけ。
     あなたは、私に望むネジを渡してくれる人だった。
     彼女は、壊れたままの俺にただ居場所だけをくれる。
    「でも、あの人とは人生を歩きたいんだ」
     最後は互いを罵りあいながら、それでも離せない手を恨むことになるとしても。
    「仲良くやって、とは言わないよ」
     いま浮かんでいる笑みは苦いのか甘いのかは分からない。ただ、もう、生者にも死者にも、嘘はつくまい。

     さようなら、今日までの悲しみをありがとう。


     線香くさいスーツのまま隊長室のドアをくぐると、奥側の席でパソコンをにらんでいたしのぶが顔を上げて、ほんの少しだけ驚いた顔をした。
    「あなた、今日非番でしょ。そんなに職場が恋しいの」
     それに、と口だけが勝手に動いて、あとからそのことに気付いたしのぶがさりげない様子で口を閉じる。それに今日は彼岸でしょ、と続けるつもりだったのだろう。それに自宅から歩いていける墓所からわざわざ電車とバスで足を延ばしたのだから、しのぶでなくてもこの人は今日、ここで、なにをしているのかといかがわしく思うに違いない。
    「いやあ、用事で足を延ばした先に美味そうなものがあってさ、お疲れ様の同僚に差し入れでもってね。優しいでしょ?」
    「優しいというより変わり者ね。もしかしてお人好しって言って欲しい?」
     ぴしゃりといいながら、マウスを動かして「よし」と小声を出す。わざわざ書類を閉じてまでお茶に付き合ってくれるのだから、しのぶもそれなりのお人好しだ。
     後藤はコートを机に放ってからコーヒーコーヒーとコーヒーメーカーに目をやった。「あ、今日はコーヒー淹れてないの」
    「そりゃそうよ、一人ならインスタントで充分だもの。あなただっていつもそうでしょ」
    「だったら淹れるよ。あんこをコーヒーで頂くの、好きなんだよね」
     後藤はそそくさとコーヒーメーカーに粉と水をセットしたあと、コピー紙の上に分けた土産を同僚の席まで運んでいく。しのぶはそばに来た後藤の普段よりワントーン暗いスーツからほのかに漂う香りに一瞬だけ表情をなくしたが、すぐに目の前の甘味に意識が向いた。筒型に整えられた豆大福の餅のつやときんつばのきりりとした切り口の紫檀色は、上品な甘みを香りとして振りまいているかのようでしのぶの目がきらりとかがやく。後藤もしのぶも、あんこには目がないのだ。
    「美味しそう」
    「美味いよ。あの辺でも指折りだし」
     自慢するように笑ってから、さもついでのように「あと、これ」とスーツのポケットに入れておいた小さな箱を、本当についでのような仕草でしのぶのまえに置いた。三粒で千円を超えるプラリネのアソートは、昨日帰宅する際に、新しく出来たケーキ屋の前を通りかかったときに目に入ったものだ。艶やかに輝くオフホワイトに一筋の赤が入ったそのチョコを目にした瞬間、後藤は今日、ここに来ようと決めたのだ。
    「なにこれ?」
    「バレンタインのお返し」
    「お返しって、私、なにもしてないわよね」
    「だったねえ」
     しのぶが面食らうのも無理はない。今年だけの話ではなく、二課に異動してきて、この部屋ではじめて敬礼をしあったその年から、後藤も南雲も互いに行事に沿った形式的な贈り物をしたことがない。赴任してきて間もないころ、後藤からしのぶに「面倒だしお中元とかってやめません?」と申し入れたのだ。たった二人しか同僚がいない部署で、わざわざ形骸化した風習を持ちこむこともない。毎日顔を合わせる関係なのだから、せめて互いに気遣いなく行きましょう。後藤の合理的な提案にしのぶも乗って、二人とも福島と榊にだけ中元と歳暮を贈ることにしたのだ。
     そうして後藤は、しのぶからなにも受け取らないシステムを自然と作り上げた。
     バレンタインも自分の誕生日も正月も、三百六十五日をなんの意味もない普通の日として過ごしたい。意味なんて付けたくもない。
     ただの同僚同士だったころならともかく、手を伸ばし、そして取り合った相手にそのことを求めることがいかに我儘なことかはよくわかっている。でもしのぶが自分のそんなしょうもないところを汲んでくれているから、二人の仲が仕事仲間から親密なものになってからも互いになにも変えたり変わったりしたことはなくく、後藤は安心して人と時を分け合いながら、一方で自分の中のキャパシティを超える思いやりや優しさや愛情を受け取らずにいられたわけだ。
     後藤という男は自分が思っている以上に要領が悪く、勝手に生きようとするにはさみしがりで、人と繋がると相手から与えられる両手で掬える程度の温かい感情ですらどこか持て余してしまうし、つまり他人にも自分にも一切期待せずに生きてきたのだ。だから、こんなどうしようもない自分に優しい気持ちを向けられるだけで、喜びと同時に戸惑いが湧き上がってしまう。自認しているよりも、そして周りがそう見ているよりも、後藤という人間はどこかにいまだ青年の領域を忍ばせているのだ。
     そのような青さから、どこかで、しのぶもまた、いま、ここだけを分かち合う相手として自分を選んだのであって、時が過ぎればここから遠くへと飛び立ち、相応しい場所で相応しい相手の手を取ると、そう侮って――いや、願ってはいなかったか。彼女は、一見傍若無人にふるまう後藤の、隠している臆病の理由を推し量れる人間だからこそ、いつかは自分を見捨ててくれると、そう甘えていなかったか。
     しのぶは何度もチョコレートの箱と後藤の顔を交互に見て、唇だけで勝手ね、と呟いた。しかしその声は後藤の耳に静かに届き、まったくだ、と心のなかで苦く笑った。まったくなんて勝手なんだろうか。
     しまいにしのぶは戸惑いと苛立ちと寂しさと、そして喜びをすべて目に表して、「ありがとう」と後藤にいつもの少し冷ややかな笑みを向けた。
    「まあ、普段の迷惑料ということでいただいておくわね」
    「いえいえ、エキナカにも店出してるって言ってたから、きっと美味いよ」
    「素直に期待させてもらうわ」しのぶはつんとした顔のままチョコを脇に寄せた。「それにしても、先にお礼を貰うなんて初めてだわ、まったく、あべこべだけど、なにかお返しのお返しをしなきゃいけないわね」
     なにがいい? と続けながらきんつばに手を伸ばすしのぶに、後藤はシフトの相談をするような口調であるように意識して、そうだなと切り出した。
    「だったら来週の終業後付き合ってよ」
    「いいけど、どこに?」
    「まずは等々力か石川台かな」
    「等々力? まず?」
     思いもしない地名に驚くしのぶの目を静かに見つめながら、後藤は小さく唾を飲み込んで、慎重に言葉を続けた。考えてきた通りに、こう伝えようと決めた通りに。
    「うん。……どうせ引っ越すなら大田区か世田谷か、とにかく環八に出やすいところのほうがいいと思って。俺のところは実家ともっと距離があったほうがいいぐらいだから思い切ってね。俺はさ、産まれてからずっと入谷しか知らなくて、でも東京は広いから。――そろそろ街から出るころなんだよ」
     後藤が話すにつれ、怪訝そうなしのぶの目が徐々に大きくなっていき、やがで後藤の言わんとすることに思い至り、衝撃のまま丸くなるまでをしっかりと目に焼き付けてから、後藤は誰も見たことがないほどの穏やかな笑みを浮かべて、いつも通りの調子で続けた。
    「ねえ、どうかな? どこの街も、きっと成城と同じくらい住みやすい街だよ」
     次の四月からは二人で歩く人生に捧げたいんだよ、という流行り歌のような台詞は辛うじて飲み込んだ。

     カーテンが取り払われた部屋は普段見ていた部屋よりも広く、風通しも悪くなく、からっぽですっきりとして初めからなにもないようだった。
     家具の置かれていた壁の色と焼けて擦り切れた畳が、かろうじて生活していた名残をとどめている。最後の数個の段ボールにガムテープを貼りマジックで中身を記して、顔を腕でぬぐいながら伸びをすると、ささやかな風が顔をそっと撫でていく。引っ越し当日は春と初夏の間の、雲が牧歌的に浮かぶ晴れの日で、物を詰めて運ぶだけで汗がにじんでくるような陽気だ。
     引っ越しといっても身一つで、家具や家電はほぼ処分して、持ち出すのは本棚に仕事道具と本と衣料と、そしていくつかの食器と捨てきれない細々としたものだけだというのに、それでも箱に詰めてはスタッフ兼運転手と二人で運び出すという繰り返しはかなりの重労働だった。四十も過ぎて、管理職という立場をタテにして稽古をサボり、なけなしの筋トレぐらいしか続けてない身には堪えて身体も喉もカラカラだ。青空とさんさんと照る太陽に誘われたからか、ビールが恋しくてたまらなくなる。
     夕方、まず新居の寝床だけでも整えた後に飲む一杯を想像して喉を鳴らしたところで、あのう、と玄関から声がした。
    「はい?」
    「あのー……、工務店のものなんですが、えっと、管理人さん?」
    「いや、越していくものですよ」
     後藤の答えに恰幅のよい若い男はそうなんですか、と顔を赤くして、そして汗をぬぐった。恥ずかしいのではなく暑いのだろう。
    「住民さんですか。ってあれ、査定に立ち会えないと聞いたんですが違いましたっけ」
    「あ、査定の方。いや、間違ってないです。そろそろ出ないといけないから、この後来る管理人さんと査定していただけます?」
    「ああ」男はなるほど、と頷いてから、部屋をぐるりと見渡した。「ここ、砂壁なんですね」
    「ここって他の部屋は違うの?」
    「どの部屋もだいたいリフォームしてますからね、こんだけ古い公団だし、直さないともう借り手も付かないんですよ」
    「ひょっとしてリフォームもこっち持ち?」
    「汚損と毀損だけですね」
    「そりゃよかった」
    「でもここまで経年劣化が進んでると、どうですかねえ」
     指摘されて、後藤はでしょうねと返しながら、改めて部屋を見渡した。入居したときにはもうすでに古い間取りだった中古の公団は、ビニールの床材も、色あせた畳も、磨りガラスの引き戸も、過ぎた時間の分だけすり切れたようになっている。つい昨日までは気にもならなかった時間というものが、陽光の下でさらけ出されているのは新鮮だった。
    「やっぱ畳は取り替えるんでしょ」
    「もちろん」汗を拭きながら工務店の男が言う。そしてぐるりと部屋を見渡して、「正直ここまで古いままなのは、こちらと隣のお部屋ぐらいなんで。とりあえず畳はフローリングにして、洋室仕様にするので襖も外しますし」
    「ふんふん」
    「あと風呂はユニットバス入れて洗面所も取り替えて……ああ、これ台所も交換になりますね。カビてなければ壁はいじらなくていいんだけど、いや、砂壁っていいんですよ、湿気吸うし防火性もあるし。でもね、手入れに手間も金額も掛かるからみんな壁紙に直しちゃってて」
     男はそこまで数え上げてから、後藤の方をみるでもなしに、「全取っ替えとなると、住んでた人としてはやはり寂しいんでしょう」と独りごちた。後藤はええともいいえともつかない曖昧な返事をしながら、静かに空き家なった部屋の端はしまでをその目で見つめた。間もなく懐かしさや名残ごと消えてしまう部屋、かつて閉ざされてた場所にいま初夏の日の光がさんさんと注いで、そこにいた全ての影を消すように白く焼けていくさまを。

    プレイ ザ ゲーム「へぇ……、惚れた腫れたといいながら、結局へらへら笑ってごまかすとかずいぶんと紳士であられること」
    「いやあ俺なんて紳士じゃないよ、ないけどね、でも相手が恋愛に不慣れなままキャリアに邁進してきた純情お嬢様だから、手を出すにもどうしていいかわからないわけ」
    「あら、私も恋愛のひとつや二つしたことはあります」
    「したことはないとは言ってないでしょ、ただ、いい雰囲気になったら誤魔化すを繰り返されると俺だって困るの!」
    「どう困るのよだいたいいい雰囲気になったらって自分だってすぐにちょっとトイレだ電話だってすぐ席外して、ゴムでも買ってくるのかと思ったらそのまま大抵逃げるじゃないの、紳士じゃなくて臆病っていうのよそういうの!」
    「そういったってホテルになんて絶対ついてこないのあなたでしょ!」
    「だったらお得意の口八丁手八丁で連れ込んでみなさいよ、キスの一つも奪えないくせに」
    「よく言うね、実際キスなんかさせないくせに」
    「じゃあここでキスして、って言ったら?」
    「あ、え、ここじゃ」
    「ほらみなさい、ひと月経っても一年経っても無理なんじゃないの?」
    「ひと月あれば口説いてみせますとも!」
    「本当?」
    「本当、ってそれひどいなあ」
    「だって、申し訳ないけど、想像出来ないのよね、女性をエスコートしてセクハラ発言を封印して」
    「俺だって昔は純情だったしスマートなデートのひとつやふたつ」
    「普段はセクハラぎりぎりなのは自覚あるの」
    「……すみません、いや、いやがらせしているつもりはないんだけどね、ほら、おじさんだからさ」
    「おじさんを言い訳にする人は一生女なんて口説けないでしょうね」
    「なんでそんなに厳しいの」
    「なんでそこで開き直るの」
    「だって、ほら男は臆病だから」
    「やっぱり腰が引けてるんじゃない、無理よ、一月で私を落とそうなんて、絶対無理!」
    「言い切られるとさすがに辛いんですが」
    「あなたが好きですという態度でセクハラに晒されてる私のほうが辛いわよ」
    「いや、その、……すみません。ええとそこはさ、今後精進します、ってことでどうにか、ね」
    「ふん。本当以後気をつけてよね、ホモソーシャルにもまれて馴れてるったって限度がありますから」
    「じゃあ、封印したら、口説かれてくれるの?」
    「はぁ?」
    「え、そういう話じゃないの?」
    「出来るの?」
    「出来ますよ」
    「本当に?」
    「試してもないのに決めつけるのはさすがにどうかなあ」
    「そうかしらね、結果は見えてると思いますけど」
    「じゃあやらせてみてよ、俺はね、売られた喧嘩は買うし必ず勝つの」
    「あら気が合うわね、私も喧嘩には負けないの。いいじゃない、やってみなさいよ。但し」
    「但し?」
    「互いの夜勤前後はなにもしない、職務優先、公私混同しない。どうそれでも出来る?」
    「受けて立ちましょうか」
    「ルール違反は、ダメ」
    「ルールって例えば?」
    「普通のお付き合いのときに重んじるべきことよ、あなたには無縁かもしれないけど」
    「俺は常識の塊だし、それに」
    「それに?」
    「大事な人には誠意を示すよ、ほら。……例えば、ね」

    「……いまのは、ずるいわよ」

    くちばしにチェリー「あ、すみません、じろじろ見てました? いや、そんなつもりはなかったんですが、すみません。前の部署がおっさんばっからだったから、そういうことに鈍感になってるかもしれませんなあ、まったく褒められた話じゃないんですが。……ああ、誤魔化してるわけじゃないんですって。ただ、警部補を見てるとなんかね、昔を思い出して、なんでなんでしょうね……。え、ほんと? 聞きたいの? おっさんの思い出話ですよ? 本当に、そうなの。じゃあ、自己紹介の代わりにでも。……え、ひどいなあ、そりゃ色々聞いてるんでしょうけどね、いくら俺だって、ただ悪党なだけの人間じゃないって。
     じゃあいいですか? あ、一つだけ。聞いても、笑わないでね。
     ……小学校のとき、三年か四年だったかなあ。とにかくとても昔のことですよ。いつも通り学校帰りに神社の境内で遊んでたら、突然風が吹いたと思ったら誰の声もしなくなって。振り向いたら、間違いなくいつもの寺なんだけど、なんか違う。満開の桜の木がどこまでも続いていて、向こう側を見てもあっちを見ても、桜の他はなにもない。あるんだけど、ないんですよ。第六感っていうやつか、とにかくなにかが全く違うって感じて、友達どころか人の気配が全くしなくて、おっかしいなあってさすがに慌てたときに、神社の側の小さな社に、一人だけ人が立っててさあ。とりあえずあの人に聞いてみようって子供の脳みそで判断して、走っていったわけよ。いまもたまに夢に見るほどの桜って、わかりますかね……埋まるほどの桜が淡雪のように降る中、大した距離じゃないのになかなか稲荷に辿り着かなくて。焦ってたんだろうね
     で、何分も走ったような記憶なんだけど、どうにか稲荷のあたりに着くと、立ってたのは大人の女性でね、俺のことを見ると穏やかに笑ったんだけど、なんかぞわっとするというか……。よく異界のものを見ると魅入られるっていうけどあれ本当ですわ、一回目を見たらもう顔を背けることも出来なくて、一気に顔に血が上がって。失礼とか考えないでぼーっと見惚れてたらその人がまた笑ってさあ、坊やったら迷子になったようだから、出口まで送ってくれるっていってね。声なんか忘れちゃってるんだけど、でも、きれいな声だったのは間違いなくて……そうそう、警部補もきれいな声してますよね、きっとそんな声ですよ。俺の声ってこう、どっか浮いているっていうかこんな声だからどっか腐抜けた感じに聞こえるらしくて、参っちゃうね。
     それはともかくその人に手を取られて歩き始めたんだけど、声だけじゃなくて手もきれいな手でさ、爪は桜貝のようで、透けるような肌がひんやりとしててね。初めは気楽な散歩気分で、でも出口ってなに言ってるんだろうと思いながら黙ってついていくうちに気が付いたんだけど、そこ、知ってる町じゃなかったんですよね。まず人がいない。次に看板もなにもない。家やビルがちょっとずつ違う。ただ影みたいのがね、ちらちらと目の端に見えるんだけど、お姉さんが見るなっていうから目を逸らして。そうして言うこと聞いてると、私がたまたま通りかかってよかったわね、僕は運が良いわよ、っていう声がまたきれいでさ。歩いたのは……そうだな、十分もなかったと思うんだけど、とにかく見たこともない神社について、あそこの鳥居をくぐってお行きっていうから、もう全然意味も分からないけどお礼言ったら、もう会わないから気にするな、忘れろ、みたいなことを言われてさあ。
     なんかそれがとっても嫌だって感じて、絶対覚えてるって意地になって一方的になっていって、最後は賭けをしよう、もし俺が覚えてたら、今度会った時にはお嫁さんになって、って。……そりゃもちろん相手にされないって、小学生が大人を必死に口説くなんてどう考えたって微笑ましいだけでしょ。俺もいま小学生に口説かれたら飴でもあげて家に帰りますもん。でも子供なんてそんなことわからないから、咄嗟にその場に散ってた桜の花なんか拾って渡してさ。次会った時には桜の代わりにさくらんぼあげるから、二人で食べようって。……そうですよ悪かったですね、おじさんにも初恋っていうのはあるの。だって颯爽と助けてくれるんだから、惚れるしかないじゃない。彼女の返事ですか、それがね、じゃあ覚えていたらね、ってまた笑ってくれたあと、お姉さんも僕がだれかわかるように印付けておくから、って耳の後ろをそっと触られて。で、とんと背中押されて、鳥居を超えたら、元の神社にいるわけよ。ただね、三時ごろだったはずが、もうとっぷり日が暮れてて、友達はみんな帰ってるし、五時の鐘はとっくに鳴り終わってるしで、慌てて家に帰ったって話なんだけど。
     信じなくてもいいですよ、まあ狐に化かされたか昼寝してたかなんだろうけど。なんでしょうね、もう声も顔も忘れてるのに、警部補を見るとどうもあの日のこと思い出すんですよ。ね、つまらない昔話でしょ。……ほら、そんな風に笑うんだから。とか話しているうちに口がさくらんぼになったなあ。警部補、さくらんぼとかお好きです? 近所になるんですよ、本当に。よかったら食べません?」

    「都心になるさくらんぼってどんな味がするのかしらね、楽しみにしてるわ。……ねえ警部補、ところで、耳の裏のほくろ、いい形してるわね。我ながらいいなぞり方したわ。……やあね、冗談よ。あとさくらんぼ、楽しみにしてるわ。だって契約が成立するわけでしょ、っていやね、だから冗談よあなたなんて顔してるの」

    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 16:31:31

    掌編詰め合わせ

    人気作品アーカイブ入り (2022/07/09)

    #パトレイバー #ごとしの
    注意書きが必要だしな、という理由で押し入れにしまっていた掌編5本です。

    「アイドル」…記憶喪失なんですが、ひねりなくテレ朝でやってた『刑事ゼロ』ネタです
    「勉強のうた」…『早春賦』のおまけのひとつです
    「新しい季節へ、きみと」…『夏を見渡す部屋』の続編のつもりでした
    「プレイ ザ ゲーム」…ただの会話劇
    「くちばしにチェリー」…18年に旋風を巻き起こした魔女集会ネタの亜流でした。

    more...
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