あいのしるし 写真は時を留めるものだ。すぐに消え行く一瞬を切り取り、手元に置いておくことが出来る。
写真の中はそのように時間が止まっていても、写真自体は時の中に存在するものだ。慎ましく笑っている顔はかすかに色褪せ始めていて、通り過ぎていくものごとの無情さを目で教えてくれる。
止まっていられない以上、動くしかないのだ。残された人間は。
サイドボードの上、茶色い写真立てに収まった笑顔をぼんやりと見つめていた後藤に、
「穏やかなお顔つきになりましたね」
和尚は読経の時と寸分変わらない、腹に響くようなよい声でにこりと話し掛けてきた。
「そうなん、ですかね」
後藤ははて、と顔を軽く撫でて応える。その様子がすっとぼけているように見えたのだろう、彼はさらに柔和な顔になって、
「いや、私も安心しました」
「そんなに切羽詰っていたつもりもないんですが」
「そうでしょう。えてしてご自身とはそういうものです」
禿げてきたから、と昨年の暮れに丸め、その後綺麗に磨かれ続けた頭は緩やかに光り、目尻に刻み込まれ始めた皺は顔の印象を更にやさしいものにしていた。
これで自分と同い年だとは思えない、と後藤は彼を目の前にするたびに思う。
仏教も他宗教のことも教養以上のことは知らないが、想像するに、煩悩を捨て去ろうという努力がそのような形で現れるのではないだろうか。文字通り煩わしい悩みだらけの人生を好んで歩んでいる自分とは、立ち位置が初めから違う。
妻が眠っている墓の寺の副住職であるこの男は、その温和な見かけとは裏腹になかなか捻りが効いた性格だ。妻の葬式に出向いて貰ったのが最初の出会いで、なぜかその後、三回忌が終わり七回忌が過ぎ、十三回忌まで無事終えたのちも、こうして時たまぶらりと後藤の家の扉を叩く。初めのとき耳にした読経は年相応に若い、果たして成仏しようとしている故人も思わず首を捻るのではないかと思うほどにへなへななものだったが、今は立派に、腹の底から響く声で、仏説阿弥陀経を朗々と唱えるようになっていた。ここでも時は公平に流れているということだろう。
「後藤さん、私はそれでいいと思うのですよ。あの世に召し上げられるまでここで生きていく以上、肩の力は抜いていくべきです」
「力は抜けてるつもりなんですがね」
「そうでしょうとも」
説破、とでも返してしまいたいほどに。のらりくらりと答えられた。
窓の外から聞こえるのは、梅雨の晴れ間の青空の下、学校に上がっていない小さな子供たちの騒ぐ声だ。
その力溢れる声に耳を傾けながら、僧侶はずず、と茶を含んだ。
「例えば、この茶葉は新しいものの味がします」
「……ああ」
「それに、煙草の匂いも幾分か薄れているようですね」
和尚がなにを判断し、そしてなにについて言っているのか、漸く合点がいった。
確かにこの前まで、茶葉に気を使うことはなかった。正確に言えば今もあまり使っていない。昔からどちらかといえば身の周りに気を使おうとは思わない性分である。
「しっかりした方なんでしょうね」
「まあ、しっかりはしてます」
言葉が必要以上に曖昧になるのは、後藤自身今の状況に慣れてはいないからだ。
僅かなほろ苦さを感じながら、ちらり、と小さな仏壇の横に置いてある妻の写真に目を遣る。
彼女もまた、周りにぞんざいな後藤のフォローをさりげなくする人だった。料理はあまり上手ではなかったが、植物を育てるのが得意で、小さなベランダにいくつもの花を咲かせていたものだ。
今は空になった陶器製のプラントだけが、雨ざらしになって、静かに置かれている。
「細かいことは存じ上げませんが、さぞ素晴らしい方だと思います」
「なんで、そうお思いになられました?」
「前の奥様のことを、大切になさっていましたから、後藤さんは」
抽象的なことをのんびりといわれて、後藤ははあ、と返すしかない。和尚はそんなことを気にもせず、更に言葉を重ねた。
「御仏の教えとして、本願、というものがあります。他力と言ってもいいのですが」
「そんな言葉もありますね」
確か、三回忌のとき、そのことに絡めた法話を聞いたような記憶がある。
「本願、とはすべての人間は阿弥陀如来がお救いになるということですが、逆を申せばそれまでは救われません。だから、自ら良くしようと欲しない限りは同じ所に留まってしまいます。ですから、御仏の手が差し伸べられるまでは、自らが道を切り開くことが大事だと、私は思うのです」
「今度の新作の説法ですか?」
「いえ、今思いついた口からでまかせです」
しゃらりという。
思わず声を立てて笑った後藤に、和尚もまたそっと笑った。
「ご結婚なさるおつもりですか?」
「正直、判らないですね。私も、……彼女も一人でいることに慣れすぎていますから」
「人は一人ではいられぬものです」
「それは痛感しました」
口にした言葉が思った以上に耳に響く。つい苦笑した後藤の顔を見て、
「でしょうね。あなたはご自分で思う以上に生真面目な性質があられますから。……それに、まだ迷ってらっしゃるようで」
「迷う」
「幸せにおなりなさい。それもまた、生きたものの勤めであるでしょう。奥様もきっと喜ばれる。――そうそう」
「どうしました?」
「本日お邪魔致しました理由です」
和尚は、さてどこに閉まったかな、と鞄を開けてしばらくごそごそとしていたが、やがて、「ああ、これです」とテーブルの上にそれを置いた。
「これは?」
「先日奥さんの親戚の方が来られましてな。こちらを置いていかれました」
言いながら、布張りの小さなアルバムをそっと捲る。
「お写真に以前は写っていなかったものが出てこられた、というのでこちらでお預かりしましてな」
「どこにです」
「その件はもう片付きました。その上で、旦那様に持っていただいたほうが、と先方が言われたので。……あれ、連絡は入ってませんか?」
「連絡……、あ、あの留守電」
ニ、三日前に連絡が欲しい、と録音されたものを聞いてから放っておきぱなしだったことを思い出し、後藤は思わずしまったと小声で呟いた。多分、このことに関することだったに違いない。
後藤の一言で大体の様子は判ったのだろう、和尚は改めて問い掛けてきた。
「いかがします? 辛いようなら……」
「それは、大丈夫です。お預かりします」
わざわざご足労を、と頭を下げるとこれも仕事ですから、と穏やかに返しながら、そっと席を立つ。
三和土まで見送ったところで、「そうそう」と和尚がまた思い出したように言った。
「境内の薔薇の花が見事なんですよ、よろしければ是非いらして見ませんか」
「ばら?」
「ええ、薔薇です」
なんでも先代が花好きだったとかで、藤棚や睡蓮といったものに混じって、寺の一角には小さいながらも見事な薔薇園があるのだという。裏手だからわかりにくいのですが、仏閣からは浮くものだし隠れてるくらいが丁度良いのです、と笑う。
「そうですね……、次の非番の時にでも」
後藤がそう返すと、和尚は微笑んで、
「ええ、お待ちしてます」
ドアがパタン、と閉まると、また日常だけが部屋に満ちた。
改めて湯を沸かし、インスタントコーヒーを作って居間に戻ると、テーブルの上に非日常に属するであろう赤いアルバムがひっそりと佇んでいる。徐にページを捲ると、自分が知っているものよりも若い、はじけるような笑顔がそこにはあった。
高校ぐらいなのだろうか。喜怒哀楽すべての表情がそのまま写り込んでいる。
一枚、また一枚、と見ていくうちに、ふと手が止まった。
見覚えのある境内をバックに、紫に染まる藤棚の下で、幸せそうに笑いかけてくる一枚。美しい花々に囲まれて気分が高揚しているのだろう、目に浮かぶ光りはとても温かい。
思えば、二人で花見なんて粋なことはしなかった。
ねぇ、薄情なダンナだね、と人知れず自嘲の笑みを浮かべたとき、電話のベルが鳴った。
不幸に酔うほど若くはないが、幸せを渇望するほど沸騰するような気持ちを持ち合わせているわけでもない。
言うなら、淡々と日常を過ごしていくことが望みだった。
台所から聞こえるリズミカルな音をそれとなしに聞きながら、人の心の変わりの早さを後藤はしみじみと感じずにはいられない。
初めて会った時に抱いたものは、互いに好印象とは言えないものだろう。自分は善いも悪いなかったし、向こうも似たようなものであろう、――恐らくは、そして願わくば。
しかし、短くはない時を経て全ては変化し、理由を必要とせず、ただ純粋に愛しいと、傍にいて欲しいと願う、そんな存在を後藤はまた得た。そして、いまだに信じられないことだが、その気持ちは彼女に届き、そして最後報われたのだ。
あの日、怖れながらも差し出した手をそっと握り返してきた彼女の静かな笑みも、目の奥にあった自分と同じ臆病な光りも、後藤は鮮烈に思い返すことが出来る。思っていた以上に小さい手だなあ、と現実感をどこかに忘れて、ぼんやりとそんなことを考えた後藤の顔を見て、「……結局、つかまっちゃったわね」としのぶは小さく呟いたのだった。
「回想はもう終り?」
どことなく彷徨わせていた視線を声の方に向けると、どんぶりを二つ手にしたしのぶが自分を覗き込んでいた。
「それとも、またなにか企んでるのかしら」
「人聞きが悪いなあ。そんな策士じゃないじゃない、俺」
「どの口が言ってるんだか」
呆れた口調で返しながら、しのぶはとん、と湯気が立ったどんぶりを後藤の前に置いた。見れば味噌汁や茹でたてのアスパラガスといったものも並んでいる。思ったよりも長い間呆けていたようだ。
北海道にいる親戚がアスパラガスを送ってきたから良ければ今日持って行っていいかしら。その申し出に後藤はじゃあ夕飯作っておくよと返答したが、電話口の向こうでしのぶは、簡単なものになるけどアスパラガスを茹でるついでに作ってあげる、と寬容なことを言ってきた。実家暮らしと一人暮らしの付き合いということで、どうしてもしのぶが後藤の部屋を訪ねて来ることが多くなるが、行くたびあなたにご飯を作ってもらってるのは心苦しいからと、しのぶは時々後藤の家で料理の腕を振るう。後藤からしたら早上がりや非番だった方がご飯を作るのは合理的だし別に気にしなくてもいいのに、と思うのだが、しかし一方でしのぶの動機をおぼろげに理解出来るので、こうしてたまに甘えさせてもらうのだった。
「親子丼?」
「カツ丼の方がよかった?」
「いや、申し分ないな、って」
半熟よりは固めに仕上がった親子煮を見て、後藤は顔をほころばせた。だしの甘い香りと醤油の香ばしさが混ざり合ったえもいわれぬこの匂いを嗅ぐと、つくづく日本人でよかったと思うものだ。
頂きます、と互いに小さく合図をして、ささやかな晩餐が始まる。
ふと思い出すのは、埋立地での仕事初日の昼休みのことだ。
後藤は朝コンビニで買ってきたおにぎりを机に並べ、しのぶは家から持ってきたのであろう弁当箱を出し、そしてほぼ同時に小さな声で「頂きます」といったのだ。
見かけよりも礼儀がいい人なのね、と思ったとはしのぶの弁で、ご両親に大事に育てられたんだろうなあ、と推測したのは後藤だった。程なくして地元だけではやっていけなくなった上海亭が生き残りをかけ売上を伸ばすべく二課への出前を始め、出動や会議でもない限り昼食を同じタイミングで取るようになった二人は、特に不自然だとも思わないまま小さく頂きますと言い合うようになっていた。
そのときには、まさか同じ屋根の下で丼を食す間柄になるとは夢にも思わなかったわけだが。
胡瓜の浅漬けを上品に食べるしのぶの様子に、後藤はそっと微笑んだ。
「……なに?」
「いや、別に」
いとおしいその姿が既に見慣れ、毎日の中に埋もれている。そんなささやかなものをまた得られるとは思っていなかった。
だから、幸せだと思って。
本人相手にそう惚気る代わりに、後藤は「そういえばさ」と話を振る。
「今度研修に来る新人、人事課の藤原警視正のご子息らしいねえ」
「……相変わらずの地獄耳ね」
「勝手にね、入って来るんだよ」
「どうなんだか」
しのぶは味噌汁を一口飲んでから、
「まだ本決まりじゃないようよ。しかし、あれ程にここを嫌っておられるのに、警視正も何を考えているんだか」
「鈴でもつけるつもりなのかもね」
「その鈴は、第二小隊で研修、ということで先日決定したの、覚えてるでしょ」
「さあ、どうだろうねえ」
のらりと交わすと、しのぶは涼しい顔をして、「くれぐれも無茶はしないで頂戴」とやんわりと釘を刺してくる。
それは藤原警視正の子息がどんな人間かによるだろう。立場による応対ではなく、人間性に対して応対を変えるのが、後藤という男だ。地位年齢など気にせずに飄々と応じることはあっても、キャリアだからという理由だけで苛めることはない。もっともしのぶもその辺は承知していてくれているのだが。
程なく机の上は空になり、二人はまた小さくごちそうさま、と声を合わせた。少しだけ大きめに切られた具材とやや濃い目の味付けが、最近の後藤家の食卓に加わった味つけだ。
「そうそう、今日来るときにねりきりを買ってきたのだけど、食べる?」
後藤が食器類を手早く洗い終わったところで、しのぶが聞いてくる。
「頂くよ」
そう返しながら、後藤はダイニングテーブルに置かれた紙袋を開くその姿をまた、ぼんやりと眺めた。
数ヶ月前、この家に自分以外の人間がいることなんて全く想像出来なかった。
今は、この空間にまた一人残されることに、どこかで怯えている。
人間っていうのはどこまでも贅沢だね、と最近の己を振り返るときそう他人事のように呆れる一方で、それもまた自分らしいのか、とも思う。人が自分を評価するほどに強くもないし、太くもない。そんな等身大の自分をしのぶが認めてくれたことは、大袈裟に言えば人生で二回目の奇跡だ。
男から遅れて台所から居間へと戻ってきたしのぶは、まずサイドボードの方に寄って余計に一つ買ってきた練りきりを置いてからまた座り、次になれた手つきで急須から濃い目の緑茶を注ぎ、自分の手元に芍薬のものを出した後、菖蒲をかたどったものを後藤の前に差し出した。
「もう菖蒲の季節なんだね」
「ええ、もう七夕のものもあったのよ。……梅雨が明けたら、またきついローテーションになるのかしら。それはそうと、急須、使ったらちゃんと中身出した方が衛生的よ」
「あ、茶葉入れっぱなしだった?」
「ええ。まあすぐにバイ菌が、ってことはないと思うのだけど」
いいながらしのぶは緑茶をそっとすすった。茶葉はしのぶの見立てなのだが、確かに隊長室の特売大入りのものよりは何倍も甘く渋い味がする。大して高い茶葉じゃないとしのぶは言うが、それでもここ数年飲むこともない味だった。
「……茶葉がね、変わった、って言われたよ。そういえば」
「お客様に?」
「そう。お幸せに、だって」
ことさらさりげなく口にしてしのぶの顔を見ると、案の定頬にさっと朱をさして、照れ隠しに湯飲みを呷る。
かわいいねえ。
心の中でまた惚気た。
彼女もまだ全てに慣れていないのだ。この関係にも、それを外から見られることにも。気恥かしさは後藤とて同じだが、ただポーカーフェイスが板についてるから表には出ないだけである。
職場にプライベートは一切持ち込まないというルールの元、隊長室にいるときにはただの同僚以上の素振りは決して見せないしのぶの照れた表情に思わずにやにやと笑いながら、後藤は更に、
「いやー、それからさぁ。さぞ素晴らしい方でしょうね、って言われちゃったりして」
「……って、一体どんな事を話したの」
真っ赤になりながらも眉を寄せて聞いてくるしのぶもほんと可愛いなあ、と思いながら、
「特には話してないよ」
「どうだか」
「そんなに信用ない?」
「そんな顔にはね」
「一体、どんな顔してるっていうの」
「鏡で見てくれば?」
ことり、と湯飲みを机に置きながらしのぶはぴしゃりと言った。
「そんなだらしない顔に、信用もへったくれもありません」
「え、そんなにやに下がってた? 浮付いてるのかなあ、俺」
「それこそ知りません!」
勢い良く告げたあと、ったく……、と小さくぼやくしのぶを見ながら、後藤はまた微笑んだ。今度は優しい印象を与えるものであろうことは、自分でもなんとなく判った。
制服に身を包んだ、きりりとした彼女しか知らない人間が見たら驚くほどに、プライベートでのしのぶはころころと表情を替える。そのどちらの面も愛しいと後藤は思うのだ。
今年に入ってから頻繁に感じるそんな日溜りのような幸せは、時に心苦しさもつれてきて、後藤の心の奥を、ほんの少しだけかき回す。今もそのほろ苦い感情が不意に顔を覗かせて、後藤はほんの少しだけ顔を硬くした。
しのぶはそんな後藤の様子に気付く余裕もなく、まだ赤い顔のまま食べ終わった皿を重ねて立ち上がる。そして方向を変えた瞬間に足に何かが当たったらしく、ばたん、とそれは音を出して倒れた。
「……っと、って倒して大丈夫なものだった?」
「え? ……うん、大丈夫」
「ならいいのだけど……、ごめんなさい」
「いいよ、壊れ物じゃないし」
後藤がそう言うと、しのぶはあからさまにほっとした顔をして、しかしなにか気に掛かるように一瞬だけ倒れたアルバムの赤い表紙を見た後、すぐに表情を元に戻して台所へと戻っていった。
サイドボードの横の方に立てかけておいたアルバムをもう一度起こしながら、後藤はもう慣れてしまった、なんとも淡くほろ苦い感情を密かに持て余し、目からかすかにこぼした。
この後ろめたいとも表現できる気持ちが、今はもういない妻へのものなのか、いまここにいるしのぶへのものなのか、……それとも自分へのものなのか、後藤には見極められない。
あるいは幸せに慣れない自分に対し、まだ青い、割り切ることを知らないどこかの部位が、軽く疼いているだけなのかもしれなかった。
そういう曖昧なものは無理に掘り返さないほうがいい。後藤は軽く息を吐いてから、台所にいるであろうしのぶに声を掛けた。
「後片付けやっとくからお風呂入りなよ、布団も敷いておくからさ」
「後藤さんは?」
「俺はしのぶさんが来る前に頂いたから。その方が時間の節約でしょ」
「……ばか」
思ったとおりの返答に、後藤は思わずははっと笑った。
少しの寒気を覚えて、後藤は目を覚ました。
六畳の小さな部屋に、先ほどの熱はもうない。夏前には少し寒い空気だけが暗い部屋を満たしている。
何故目覚めたかの理由はすぐにわかった。
まだ余韻が残るまま、しのぶを抱きかかえるようにして寝たのは半時ほど前。今は布団の中に一人きりだ。
帰ったのだろうか、あるいは急な出動が掛かったのか。
瞬時に思いついた理由を後藤はすぐに打ち消していく。何も言わず、しかもこの丑三つ時に帰るのはしのぶの性格に反しているし、出動が掛かったのなら、本日零時を持って非番に入ったしのぶではなく準待機扱いの自分になるはずだ。
えいや、と起き上がると梅雨時の少し冷えた空気が裸体を撫でた。
恐らくは手洗いにでも立ったのだろうが、それにしてはしのぶが寝ていた場所の布団はひんやりとしていた。
どこいったのかなあ。
声にも出さずに呟いたとき。
――パタン
聞こえてきた物音に後藤は判らないとばかりに眉を潜めた。
なんで玄関が閉まる音がしたのだろう。
とりあえず慌てて脇に寄せておいた服を身につける。しのぶがどのような意図があって出かけたのかはわからないが、何故か追いかけなくては、という焦燥感がじわじわと迫ってくる。その追い込まれるような感情のまま少し乱暴にふすまを開け、玄関へ向かおうとした矢先、意外な光景が目に飛び込んできた。
机の上に置かれていた、開かれたままの小さなアルバム。
ただそれだけ、といえばそれだけの風景に、しかし後藤は胸を突かれた。
初めて家に招いたときから、サイドボードの上に置いてある写真をごくたまにだが見ていることには、気が付いていた。
しかし、自然に供え物をしてくれる彼女の態度に、勝手に寛容さを見出しどこかで安心していたのも事実だ。
互いの過去には触れない。それが暗黙の了解となっていた。特に後藤は背負っているものが少しだけ大きく、そしてそれぞれが歩んで来た道に射す影がおぼろげに見えるからこそ、今、そしてこれからに目を向けることを二人は心がけていたし、だからこその影に敢えて触れようとは思わなかったのだ。
ただ、この部屋には、気にしないことが難しいほどには、過去の名残が多すぎる。
それを探られて痛いわけではなく、ただどこか鈍感でありたかった自分がなんとも腹立たしい。
何時頃に目が醒め、布団から出て、そしてどんな気持ちで彼女は、このアルバムを目にしたのだろう。
そんな回想に浸ったのは一瞬、写真一面に咲く藤の花を一瞥して、後藤はすぐに玄関へと急いだ。
深夜の二時を回った入谷は人影もなく、サンダル履きの足跡が必要以上に大きく響く。
時折街灯に照らされた影が長く伸び、すーっと縮んで、また伸びていくのを見ながら、後藤はブロック壁の道を走っていった。いくつかの角を曲がり、ほどなく夜の濃紺の空の下、黒々とした寺の建物が見えてきた。
普段は閉まっているはずの門は開け放たれ、明かりのない敷地内は東京とは思えないほどの濃い闇を抱えていた。大して大きくもない寺だというのに、その先は果てなく続いているような、そんなおどろしさを感じる。
歩調を緩めて、そっと境内に入ると、闇の奥のほうからじゃり……、となにかを踏む音がする。後藤は躊躇わず、音が導く方へと向きを変えた。
しかし、東京にはまだこれほどの夜が残っていたのだろうか。初夏とは思えないほどにひんやりした空気に包まれた境内はしん、と静まり返り、自分と奥にいる誰かのもの以外、物音一つしない。僅かな数の星明りは薄ぼんやりと全てのものを照らしている。まるで粒子に覆われたようにざらついて見える風景からは現実味がごっそりと抜け落ちていた。
本堂の扉は固く閉ざされ、煤汚れた朱の柱が、ぞっとする風情で屋根を持ち上げている。薄ぼんやりと漂うのは香のにおいだ。
耳から聞こえるのは血流の音だろうか。ざあざあと微かに鳴り続ける音を共に、影に包まれながら後藤はそっと本堂の角を曲がった。
小さな古びたベンチがいくつか置かれ、その上には藤棚が青々としているであろう葉をつけている。その下で佇むしのぶの姿だけが妙にはっきり見えることを、何故か後藤は不思議だと思わなかった。
ただ、そこに浮かぶ表情が、平素の彼女と違うことがなんとも気持ち悪い違和感を生む。薄い透明な仮面を被せたのなら、或いはあのように見えるのかもしれない。
ふらふらと近付いていきながら、どのように声をかけるべきかと考えたとき、そよ風のような仕草でしのぶが顔を上げた。
黒々とした目には、渦巻くような光が宿っている。
その光から目を背けられず、一メートルほど離れた距離で、二人はしばし見詰め合う。
空気とともに沈みこんだ沈黙の後、やがて、しのぶがそっと口を開いた。
「……藤の花は、散ってしまったわね」
初めて、後藤の背筋に寒いものが走った。
その声はしのぶのものでありながら、その口調は彼女ではなかったのだ。
「……あ、うん」
呆けてしまい、上手く言葉が紡げない後藤に、しのぶはふ、と微笑む。
その表情に、後藤ははっとした。
しのぶは目の前にいる男の、そんな様子など気にしないように、静かに問い掛けた。
「ねぇ……、奥さんのこと、忘れた?」
「まさか」
自分でも驚くほどに、優しい調子だった。
「まさか、忘れられるわけないじゃない」
その答えに、しのぶはどこか驚いたような、一方でほっとしたような表情を浮かべる。自分も、きっと同じような表情をしているのだろうな、と後藤は思う。
そっと、風が吹いた。風は藤棚の葉を揺らし、微かに葉同士がこすれあう音が振ってくる。
「なら……、この人のことは?」
「うん、愛してるよ。一生を掛けて、心から」
後藤がはっきりと言い切ったことに、しのぶは寂しげに微笑んだ。ただ、目に浮かんだ光は裏腹に温かなものだった。
しばらくして、しのぶが小さく呟くように、
「……ずるいわ」
「うん、そうだね」
そう言って微笑み返すと、そっとしのぶがもたれかかってくる。柔らかく抱きしめると、もう一度だけ「ずるいわ……」と呟くのが聞こえる。答える代わりに少しだけ抱く力を強くすると、ふ、としのぶの体から力が抜けるのが判った。
境内の向こう側を、バイクが通る音がする。
静かに寝息を立てるしのぶの顔を覗き込んだ後藤は、ふとどうしようもなく温かく優しい気持ちが溢れそうになっていることに気付いた。
「帰ろうか」
聞こえないことを承知でそっと声をかけると、一旦彼女をベンチに座らせ、そっと背中に背負い込む。意識のない人間を背負うのは中々に重いんだよね、と独り言を言いながら、後藤は静かに寺の門をくぐった。
目が醒めたら、と後藤は思う。
目が醒めたら、好きだともう一度告げよう。柄じゃないだろうけど、この気持ちを、ただ真っ直ぐに。
「……朝からなに言ってるの」
寝起きからいきなりストレートな愛の告白を受けたしのぶは、後藤の予想通り顔を真っ赤にしながらも、呆れた口調でそう返してきた。
「まあ、ほら、日本の男はコミュニケーション不足だ、っていうじゃない」
「だからって今言う必要もないじゃない。ほら、早く食べないと遅れるわよ」
夕べの残りものの、豆腐の味噌汁をお椀によそりながら、しのぶはほらちゃっちゃとして、と発破を掛けてくる。
「ねえ、今日は何時ごろまでいるの?」
「とりあえず、あの山積みになった洗濯物を片付けてからかしら」
「いやあ悪いね」
「そう思うならもっとこまめに洗濯しなさいよ」
「面目ない」
後藤は箸を持ったまま行儀悪く謝ってから、
「じゃあ、夕飯食べに行こうよ。帰り、送るからさ」
「そうね……、考えておくわ。終わったら電話頂ける?」
「勿論」
向かい合って座ってまた二人でいただきます、と手を合わせる。
それにしても寝た気がしないのよ、なんでかしら、と呟くしのぶに、後藤は俺が行ったらもう一回寝なよ、と返してから、また「ねえ」と声を掛けた。
「今度は何?」
「そのうちでいいんだけど、有給、取れない?」
「なによいきなり」
面食らったような顔をするしのぶに後藤は微笑みを向けた。それは本人が自覚している以上に温かいもので、しのぶはいっそう面食らう。
「いやあさ、近所にお寺があってね、そこの薔薇園が見頃なんだって」
「バラ園、お寺に?」
「そう、へんなところでしょ」
「それで?」
先を促すしのぶに、後藤は少し息を吐いてから、
「見に行かない? 見事なんだって」
「へぇ、素敵な申し出ね。それにしても柄じゃないわよ」
「自分でもそう思うんだけど、さ」
後藤はそこで言葉を切って淡く笑った。
「いいじゃない、きっと綺麗だよ」
「……そうね」
そう頷くしのぶの向こうには、すっきりと晴れた青空が見える。梅雨はまだ帰って来ないようだ。今日はあのベランダに、洗濯物が勢い良くはためくことだろう。
失ったものは帰って来ない。かわりに増えるものがある。ベランダに花が並ぶことはもうなくても、花が咲いていた風景は後藤の中から去らない。そして、また全く違う大切な風景が増えて行く。人とは、そうやって生きていくものなのだろう。まさに本願ですよ、とどこかで説法する声が聞こえた気がした。
「それから、さ」
――会わせたい人、って言い方も、この世にはいないんだからへんなんだけど。
「なあに?」
「……ん、やっぱりいいや」
口を開いたものの突然言いよどんだ後藤の様子にしのぶは少し首をかしげたものの、「なら、いいわ」の一言で会話を止めてくれる。なぜ言えなかったのかは自分でも曖昧にしかわからない。でも言えないということはまだその時期ではないのだろう。そして、しのぶもそう思ってくれているだろうと、後藤は願った。
だが、そのうちに、自分は妻の墓前に彼女を連れて行くことだろう。それは薔薇の花を見た後かもしれないし、もっと前かも、後かも知れない。ただ一つ、それほど遠い未来ではないことだけは確かだった。
それにしても人というのはどうしてこうも不器用でまどろっこしんだろうね、と心の中で突っ込みを入れてから、後藤は席を立った。
「じゃあ、行ってくるね」
相手がいるからこそ言える挨拶を告げると、しのぶは笑って後藤を三和土まで送ってくれる。懐かしい風景がフラッシュバックされ、同時に新しく大事な風景がまた、後藤の中にしまわれる。今日は倒れた旅人もまた歩き出す、昔ラジオで聞いたフレーズが脳裏に浮かんだ。
また始まったこの旅は、もう一人の道じゃない。
「ええ、行ってらっしゃい」
この旅を共にしている今一番愛しい女性はそういって、優しく彼に手を振った。
見える空はどこまでも濃い。まもなく来る夏は、きっとすばらしいものになるだろう。