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    しおり
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    しおり
    テンデイズワンダー 職場まで車で二十分、実家までは三十五分。築二十三年、三階にあるバス・トイレ別の南西向きの2DK。
     初めての一人暮らしには十分すぎる物件だ。
     しのぶはぐぅーと伸びをしてから、さて、と気合いを入れた。とりあえず今晩から寝られるように、ベッドだけでも整えなくては。

     引っ越しの理由はよくある話で異動により職場が遠くなったからで、異動の理由もまたよくあることに、女性というだけで疎まれて、そして追いやられたからだ。SPに憧れて警視庁を志し、努力の甲斐あり夢をつかみかけていた。それが、とある警視のあからさまなセクハラを告発したら、相手の代わりに自分が飛ばされた。まったくもってこの世界はろくでもない。
     いっそ辞表を叩きつけようかとまで思い詰めたが、すんでのところで思いとどまった。警察官として立派に職務を果たしてこそ相手への最大の復讐というものだろうし、セクハラを握りつぶすような部署ならこちらから願い下げというものだ。交番勤務のあと本庁に行ったものだから現場には慣れていないが、市民と直に触れ合えるのは警察官の仕事の原点と言える。そう思うと気持ちも前向きになってくる。そうやって向こうに見切りをつけた、つけてやった。
     しのぶがまだ中学のころに父が急逝してから、三十路を越えて先日まで、成城の家で母子二人、ずっと支え合って暮らしてきた。一人の自由を満喫するなら、お母さんが元気なうちよ。そういって送り出してくれた母と熱い抱擁をしてから越してきた街は窓から見えるすべてが新鮮で、人よりも遅い自立と新しい職務に心を奮い立たせて、そしてあっという間に一ヶ月が過ぎた。

     そう、あっという間に一月が過ぎてしまったのだ。

     はあ。と特大のため息をはいて、しのぶは自己嫌悪から頭を抱えた。
     父親が亡くなった後、いつ、どこであっても一人で生きていけるようにと、しのぶは生活に必要なスキルをしっかりと仕込まれた。実際料理の腕は人並み以上だしアイロンもなかなかのものだ。やるだけ成果が見えるのと生来のきれい好きのおかけで掃除も全く苦にならない。
     しかし、時間を捻出するというは、スキルではどうにもならなかった。
     異動先の課は、ほどよく誠意がある課長のもと、態度は様々だが職務に誇りをもつ警察官たちが揃い、本庁で出世ゲームに目の色を変えている男たちと働いているよりも遙かに居心地がよい。
     そして飛ばされてきたしのぶについて、なにをしてどうなったかという顛末を聞いている人もいるだろうに、誰もそのことを揶揄したりしてこなかったのも、また居心地がよい理由だった。あとから知ったことだが、それは巡査部長である深田が、同じ女性だからと部署の新人のしのぶを気にかけ、男ばかりの職場で目を光らせてくれていたかららしい。しのぶと同年代の深田は「出来ることをしっかりやるのが、警官の第一の任務」と、ひったくりや空き巣を辛抱強く追う真面目さと、被害者に「ホステスならなにしてもいいなんてぬかす男なんて、遠慮せずに肘鉄食らわせりゃいいの」とチャーミングな笑みで話すところを併せ持っていて、現場経験があまりないしのぶを適度にサポートしてくれる。
     職務に打ち込みやすい環境、理解ある同僚、新しい仕事と覚えるべきことと、本来のワーカホリック気味な性格も相まって、しのぶは初日から一月、残業時間も気にせずに新しい仕事に没頭した。
     その結果がこの惨状である。
     掃除は好きだ、食事のあとの後片付けも。しかしそれは時間と体力があれば、という前提条件付きで、たまの非番に家事にいそしむものの、それでも部屋は散らかっていく。炊事する時間も気力もないもので、ほぼ使われていない台所は徐々に予備倉庫のように装いはじめ、居間には開いていない段ボールの横に出せなかった新聞が積まれ、寝室に行けばまだ開けていない、本やらなにやらが段ボールが隅の方に追いやられている。洗濯物も最低限必要なものを洗うのが精一杯でなんとかやりくりしているのが実情だった。つまり文字通り、目も当てられない惨状だ。
     なんて情けないことだ、本当に情けない。
     実家暮らしのときの母の助力がいかに大きかったのか。一人で暮らして母の偉大さをしみじみと実感したが、それにしても三十を過ぎて、この先警部も狙っている立派なキャリア志向の成人が、ひとり暮らしのスキルすらないというのはさすがに情けない。
     世の中仕事こそ人生と見定め、朝も夜も働いているような人は果たしてどのような魔法で時間を生み出し部屋を維持しているのだろうか。この世のすべての一人暮らしの社会人に尊敬の念を向けたとき、ドアベルがちょっと調子外れた音で客人の来訪を告げた。
     はて、最近買ったものはないし連絡なしに急に訪ねてくるような友人もいない。訝しがりながらしのぶは「はい」と返事をしながらなにも考えずにドアを開けた。思い返せばあまりにもうかつな行動だったが、このときは生活に配る気力が尽きて、注意力や警戒心に回すエネルギーがまったくなかったのだ。
     勢いよく開けた先には背広の男性が立っていて、「お世話になっております。ここはグリーンフォレストの三〇五号室で間違いがないですか?」と事務的に聞いてくる。
    「あ、はいそうですが」
    「じゃあサインをお願いします」
     差し出される紙に自動筆記のようにサインをすると、男はそれを確認することもなく、「では搬入してきますので、室内でお待ちください」とまた事務的に告げる。プログラムされたロボットと言われたら信じるほどの声の調子だ。
    「あ、はい。って、なにか頼んで……」
     しのぶの戸惑いはそっちのけで男はすたすたとまた廊下を歩いて行った。だから一体なんだというのだ。
     混乱しながらもいったんドアを閉め、本能的に鍵をかけなんとなくチェーンもかけようとしたときにまたピンポンと音が鳴った。
    「はい。だから一体なんなんですか」
     勢いよく開けながらもう一度問いただすと、「一年と半年と四日前にご注文されたネコですが」と、先ほどとは違う声がした。それよりも。
    「ネコ?」
     思わぬ回答にびっくりして顔を上げてからしまった、と思った。ネコと目を合わせたらおしまいだ。
     果たしてそこには、さえない立派なおじさんがきょとんとした顔でいて、しのぶとばっちり目が合った。オールバックに整えた髪の上にしっかり猫耳がついている。間違いなくネコだ。
    「……えっと、グリーンフォレスト三〇五号室の、多田さん?」
    「違い、ます……」
     答えながらしのぶは頭を抱えて唸ってしまった。
     困ったことになった。誤配だ。

     遺伝子工学と有機物質テクノロジーの急速な発展により、人類がついに有機ロボットの開発に成功してからちょうど十年が経った。
     生物を模した形状によりさまざまな用途に応用可能な有機ロボットは徐々に社会に浸透し始めているが、本当に意志がないのかという生命倫理の論議や、なにより大量生産をするにはあまりにもコストが掛かるため、総数は多くない。中でも遺伝子レベルのプログラムによる制御と、脳機能の活用によりあいまいさや直感を判断に組み込めるヒト型有機アンドロイドは「ネコ」と呼ばれ、オス型のみ注文生産される高級品だ。
     その高級品を前にしのぶは頬をついたまま特大のため息をついた。
    「で、不動産業者に問い合わせたのだけど、ここに住んでいた多田さんは八ヶ月前にアメリカの大学の研究員に招聘されたとかで移住されたそうよ。意図的な踏み倒しね……」
     ネコは人型ということで、奴隷として性産業など回される懸念があることからメス型の製造は全面的に禁止され、さらにオス型にしても技術流出やら宗教やらが絡み合った結果、風営法の対象となっている業界への販売と製造された国からの持ち出しも基本禁止されている。代金は注文時に半額前払い、納品後残金引き起こしが一般的で、納品予定から一年を切ったネコのキャンセルは基本禁止、違約金は相当な額になると、以前聞いた。多田某がどんな人かは知らないが、キャンセル代金をケチろうと、とんだ後始末を後の住民に押しつけていったらしい。
     その踏み倒されて不良在庫となってしまったネコはのんびりとした顔で「困ったねえ」と適当な相づちを打っているが、聞き心地の良い声だが他人事のようでなにか腹が立つ。大体ネコは大抵青年型が多いというのに、目の前のネコは絵に描いた中年だ。眠そうな目とこけた頬、大きくごろりとした喉仏。そこにピンとたった黒い猫耳ははっきり言ってミスマッチだ。多田某の年は知らないが、落ち着いた同居人が欲しかったのだろうか。
     さてどうしようか、と思ったところで、ネコがおもむろに席を立った。
    「というわけで、電話貸してもらえます?」
    「なにがというわけなのかまったくわからないのだけれど、どうして?」
    「どうしってって、誤配なのだから社に回収の電話をしないと……」
    「ちょっと待って」
     しのぶは慌てて制止した。
     そう、これだ。
     ネコの一番の特徴であり問題は、最初に目にした人間を所有者と認め、忠誠を誓う認証システムだ。簡単に言えば一目惚れして、持ち主にとことん尽くしてくれる。裏返せば間違った人を見たネコはもう使い物にならないのでシステム停止のうえ廃棄となる。
     つまり、このネコも廃棄まっしぐらということだ。
     しのぶの制止の声に、ネコはやっぱりと言わんばかりの顔になった。
    「なまじ意思疎通が出来て外見もヒト型だから、大抵の人間がそういう反応することも想定されてて、だからクーリングオフ期間になにかあるときは、ネコ本人が連絡出来るようになってるの。だから別にあんたが手間をかけたり心を痛めなくても」
    「痛めるに決まってるでしょ! だって、だって回収ってことは」
    「そりゃ、人工物なんだからスイッチ切ったら機能は止まるねえ。でも、そういうもんじゃない」
     しのぶはまた頭を抱えた。この、生きること、正確には意識があることに対しての執着のなさはなんだ。確かに大昔に流行った犬型ペットロボットと同じく工業製品なのだから、ネコにとってはたいしたことがないのかもしれないが。
    「それに、初対面からまだ二時間も経ってないんだから、知らないに等しいじゃない」
    「そういう問題じゃないのよ」
     しのぶは交番時代、不法廃棄されたネコの残骸を見たことがあった。
     試用期間を経て晴れて持ち主と暮らすことになったネコは、首のスロットにIDを入れることによって行政に登録、管理される。IDは首の付け根にあるスイッチと直結していて、外したら速やかに機能が停止する仕組みだ。
     そのIDを失ったネコは残虐な娯楽に使われたのか、身体のあちこちにあざがあり、エネルギーを失った目はうつろで、人間の死体と変わらないように見えた。内臓に似た有機システムが組み込まれているという腹部に強く残る、内出血のようにオイルがにじんだ破損箇所を見ると、殺人という言葉しか浮かんでこないが、実際は器物損壊と違法投棄でしかない。
     ネコは〝生き物”なのではないか。
     あれ以来、ただのうぬぼれた同情だとわかっていても、しのぶはついそう感じてしまう。
     だから、関わってしまった以上、このネコを廃棄には回したくない。しかしネコを所有するという判断もすぐには出来ない。そもそも母親以外の人間と暮らしたことも、暮らしたいと思ったこともないのだ。
     そんなしのぶの葛藤をよそにおじさんネコは「あの、そんな真面目に生きてると、息が詰まりません?」なんて失礼なことを言ってくる。
    「詰まりません、これが性分なんです。あとあなたも廃棄にはさせません」
    「じゃあ買うの? いや、飼うの方かな、どっちでもいいけど、あまり短絡的な結論に飛びつかないほうがいいんじゃないかなあ」
    「短絡的に結論は出さない主義なのでお気遣いなく」
    「じゃあどうするの」
    「わからない。わからないけど、でも……、とりあえずなにか考えますから!」
     勢いよくそう宣言すると、ネコはにやりと笑った。
    「俺、たぶんお安くはないと思うよ?」
     それを言われてるととても痛いが。
    「だとしても、なにかしら考えるから、とりあえずその十日間をちょうだい」
    「わかった」
    「本当に?」
     あっけない返事にしのぶが思わず聞き返すと、
    「うそつく必要はないよ。余計な金銭は発生しないし、十日間以内ならすぐ手続き出来るから大して変わらないし。それに」
    「それに?」
    「あんたと話してると楽しいんだ。あるいはこれもプログラムなのかね、人と話すって面白いな」
     耳をぴょこぴょこと動かしながらへらっと笑って、ネコは着ていた背広をめくって封筒を取り出した。
    「なに?」
    「これ、保証書と、取扱説明書の案内と、カスタマー登録用書類と、役所に提出するときの書類と、あとクーリングオフのときに必要な書類」
     その辺は製品自ら持ってくるものらしい。まず取扱説明書を開くと、簡単な仕様と、PDFのアドレスが載っていた。ペーパーレスはかさばらなくて結構だが一手間掛かるのが難点だ、早速ダウンロードしておかないと。裏に書かれている製品番号は、MIDー510ーU8895。
    「ごひゃくじゅう……」
    「この前バージョンアップしたんだって、去年までの製品は500」
    「ふーん。だったらごとうさん、ね」
     猫でも犬でも素直な名前が一番いい、と昔誰かが言っていた。たったいま名字がついたネコことごとうさんは、耳をぴんと立たせて目をぱちくりとさせた。

     ごとうさんとの生活による変化は次の日すぐに現れた。
    「それにしてもこんな散らかった家で恥ずかしいわね、ごめんなさい」
     と謝りながら、大型家具店で買ったソファにせめて寝心地が良さそうなクッションを枕にして、しばらくここで休んでと告げる。その日はピザを取って二人で分けて、ネコの扱い方についてネコ本人からレクチャーを受けた。
     曰く、エネルギーは食料からも取れるが、純正品のオイルを定期的に摂取するとよいこと。睡眠時は省エネモードになるため極端に呼吸が浅くなること、完全防水仕様で温泉までは耐えられるが海水には短時間しか浸れないこと、浮くことは出来ないこと。水による浸食は保証の範囲外なことなどなど。それらを他人事のように話すごとうさんの様子を眺めながら、やはり人とネコは違うのだな、としのぶは強く感じた。自分の機能を止める可能性があることさえも、ごとうさんは表情一つ変えない。スイッチを切って意識も記憶も手放すことへの抵抗が一切ないからこその反応なのだろう。
     そこまで客観的に自分を扱えるなら、所有者の元にいなくても暮らしていけるのではないか。例えばどこかの人手の足りない施設へボランティアに行ってもらうとか。
     仕事中、書類をファイルしながら今日帰ったらごとうさんに提案してみようと思って、しのぶはすぐに無駄なことだと気づいた。所有者に尽くし、希望にそって動くよう作られた有機ロボットなのだ、意識はあっても自分の意志はないのだから、いいねえ、とかわかった、としか言わないに決まっている。とたんにとても決まりが悪くなり、間違った解答に飛びつくところだったと感じて落ち込みながら帰宅したら、家がまるで知らない場所のよううだった。つまり片付いていたのだ。部屋の隅にある段ボールは半分以上開いていて、出ていたものはあるべき場所に戻っている。それだけで見違えるようだった。
    「あ、おかえり」
     ひょいと顔を覗かせたごとうさんは、ポロシャツにコットンのパンツを穿いて、どこから出したのかエプロンまで掛けている。出がけに「とりあえず好きにしてて」と告げたときは、昨日から着ているワイシャツにスラックスだったというのに。
     しのぶの驚きをどう取ったのか、ごとうさんは得意げに耳をぴんと立てて襟を軽く引っ張って、
    「似合うでしょ」
    「似合うけど、それどうしたの」
    「今日基本装備セットが届いたからとりあえず着替えたの。人間に比べて汗とかかかないとはいえ、でも全く汚れないわけじゃないから」
    「基本装備セット」
    「IDとかなかったでしょ」
     そういえばそうだ。居間へと目を動かせば大きめの段ボールが床に置かれていて、そこにネコが十日間暮らして行くためのあれこれが入っているらしい。
    「で、居間片付けちゃったけど、よかったかな。洗濯はプライベートなものだからしてないし、服とか貴重品には触ってないから」
    「あ、ありがとう……」
     人間としての生活空間を取り戻したリビングは、掃除機をかけて空気を入れ換えた香りがする。自分の部屋へと入るとそこは一切手をつけられておらず、かろうじて書類と資料だけ整理整頓された様子が対照的だった。
     ごとうさんはエプロンを着けていた。ということは台所でなにかをしていたはずで、だとしたら台所も、予備倉庫状態から本来の機能を発揮できるまでに片付けられているということだ。
     なにかとても申し訳ない。いそいそと部屋着に着替えて部屋から出ると、おたまを持ったままごとうさんが軽く手を上げた。
    「呼びに行こうと思ってた」
    「そうなの?」
    「事後承諾で申し訳ないけど、台所も使っちゃってよかった?」
    「そりゃかまわないわ」
    「とはいえこの家あんまり食材ないから、簡単なものだけど、よかったら」
    「ネコって料理も作れるの……?」
    「どうだろうなあ。俺の場合は、他の人よりも出荷が二ヶ月ほど遅かったから、その間にいろいろ本を読んだりしてて」
     本を読んだだけで料理が出来るのはかなりのスキルではないだろうか。
    「難しい話じゃないよ。オーダー品なら、なんでも注文に応じてカスタマイズされるでしょ。この耳みたいに」
    「耳もオーダーに応じるものだったの?」
    「いや違うけど」
    「なんなの」
    「でもしっぽはオプション」
    「しっぽがついてるの?」
    「期待に応えられなくて申し訳ないけど、しっぽはついてないんだよね。おじさんにしっぽがついてても似合わないからいいんだけど」
    「しっぽ、おじさんでもおじいさんでもかわいいんじゃないかしら」
    「そういうものなの?」
    「そういうものなの」
     テーブルに座ると、タマネギのスープと、具が少ない醤油味のスパゲッティが並べられた。どちらも確かに家にあった、正確にはそれくらいしかこの家にはない。時間に余裕のないひとり暮らしならば自炊よりも惣菜や外食のほうが、トータルでコストがよかったりするからだ。それでも出来たてで暖かい、素朴な味つけのものを口にすると、合理性で納得している部分とは違うところでほっとするものがあった。
    「おいしい」
    「よかった」
     自分ではおいしそうともまずそうとも見えない顔でもそもそと食べていたごとうさんは、しのぶの感想を聞いた途端耳をシャキンと立ててにっこりと笑う。いい顔で笑うのだな、と思った。
    「とはいえ、これで食材はなくなったから、明日からはまた外食してもらうか。あるいは、良ければ買い出しにも行くけど」
    「それはさすがに悪いわよ」
    「人間じゃなくてロボットなんだから、多少は使用してもいいんだよ」
    「まあ、そうなのだろうけど」
     なお口ごもるしのぶに、ごとうさんは観察するようにしっかりと顔を向けて行儀悪く頬杖をついた、そして猫のように目を丸くすると、にやりと楽しそうに口をあげる。
    「あと、一週間ちょっとの同居でもこのままじゃ押しかけの居候になって居心地悪いんだよね、食客になれるほどの魅力も能力もないしさ」
     仕事があると気が楽じゃない。そう言われるとなにも返せない。
    「じゃあ……、食事と掃除だけでもお願いしても、いいかしら。簡単でいいから」
    「代わりにしばらくの宿を得る、じゃあ、これで手打ちってことで」
     ごとうさんは上手くいった、と満足げな顔をしてまた食事を始めた。自分の中のごちゃごちゃとしたものを上手く包み込まれたようで、しのぶはさらに複雑な気持ちになる。しかし大人としてそれを内側にそっとしまって、しのぶはありがとう、助かるわと素直に礼を告げた。

     以前、女子校時代からの友人が「結婚はしたくないけどお嫁さんがほしい。うんと大事にするのに」とこぼしたことがある。
     つまり仕事に打ち込むほど、私生活をある程度維持するための手が欲しくなる、ということなのだが、その言葉の意味をしのぶは骨身にしみて実感することになった。
     次の日、部屋はさらに片付き掃除機もかけられ、開いていない段ボールはもう自室にあるものだけとなった。冷蔵庫には三日分ほどの新鮮な食材が詰められ、炊きたてのご飯と鶏肉のお酢煮に青菜のおひたしが並ぶ。「あ、おかえりー」とまたもお玉片手にエプロン姿でのんびりと迎えてくれるごとうさんはさながら専業主夫のようなものだ。
    「このあたりはスーパーが三軒もあってさ、思わずはしごしちゃったよ」
    「へぇ、駅前のもののほかに二軒もあるの」
    「知らないの?」
    「引っ越してきてからずっと仕事ばかりでね」
     しのぶは苦笑したあと、ふと箸を止めた。
    「そういえば私、この街のことをなにも知らないわ」
     気付いてしまえば、それは少しだけさみしいことのように感じられた。
    「忙しかったんなら当然なんじゃないかな」
    「そうじゃないの、たぶん、今日まで興味がなかったんじゃないかって」
    「それだけ仕事に打ち込めるし誇りが持てるんでしょ、いいことじゃない」
    「だといいんだけど」
    「それにさ、俺も一年ちょい過ごした工場と、この周りの世界しか知らないし。お揃いだよ」
    優しい言葉をかけられたのか言いくるめられているのかわからない。三つのスーパーのうちのどこかで買った青菜を口にしたとき、じゃあさ、とごとうさんが提案してきた。
    「じゃあさ、次の休みがいつかわからないけど、そのとき一緒に散歩でもする?」
    「あと二日で非番だけど、散歩?」
    「そ、散歩。そういえば非番って言ったけど、南雲さんの職業ってなに?」
     問われて初めて気がついた。すべてのことがあまりに突然だったから、そういえば自分の名前以外、ごとうさんにはなにも教えていない。いや、あと一週間以内に受け入れ先を探して、次の場所へと移ってもらう予定なのだから、しのぶのことなど余計な情報なのかもしれないが。
     ただ名前だけで、容姿も年代も関係なく会話が出来ていたことに小さな驚きを感じながら、
    「警察官よ。先月、この街の警察署に異動になったの」
    「おまわりさんか、向いてるね」
    「四角四面っぽいから?」
    「仕事の意味をしっかり理解して、何度も立ち戻る性格っぽいから。警察官とか医者っていうのはそういうことが出来る人がなるべきものでしょ」
    「……ありがとう」
    「ま、でも真面目すぎるのもおっかないことになるから、肩の力は抜かないとね」
    「だからこういう性分なんです!」
     ぷっと膨れるとごとうさんが楽しそう笑った。尻尾があったらはたはたと揺れているような雰囲気だ。ネコの外見や年代はある程度オーダー可能だというが、性格はどうなのだろう。わずかな同居でもわかる、口が上手く食えなさそうな性格と、自然と出てくる優しい言葉のどちらがこの男の本性なのだろうか。
     ネコというのはこういうものなのだろうか。そんなことをつらつらと思うしのぶをよそに、ごとうさんはじゃあ次の休み、晴れてたら、と勝手に予定を立てていた。耳がぴょこぴょこ動いているのを見ると、とても嬉しいことらしい。
     当たり前だ、ネコは最初に目にしたものに惚れるように出来ているのだから。
     自分にも耳があったらいまどんな風に動いているのだろう。ふとそんな想像をしながら、しのぶは味噌汁を口にした。

     約束の休みの日はとてもいい天気だった。昨日もいつも通り肩に力を入れながら真面目に全力で仕事に打ち込み、体中に疲労が蓄積している状態であっても、この陽光を浴びながらそぞろ歩きし、普段はただ通り過ぎているだけの木の緑や生け垣の花を見ないでいる理由などあるはずがない、と思うほどの晴天だ。桜の季節は終わったが、足下にサツキ、見上げればハナミズキと、街の色が豊かになるのはまさにこれからだ。

     この数日間、しのぶは仕事の合間に有機ロボットを活用しているといういくつかの団体の資料を見て、果たしてネコも引き受けてくれるかを検討したりしたが、そもそもネコ自体がそれほど出回っていない上に、あの癖が強すぎる所有者認証機能をオフに出来ないのがネックで、どうやら難しそうだという結論しか導き出せないままだ。
     だいたい、所有者を認識すればよいだけなのに、惚れた状態になるというのはなんなのだ。他のロボットと違って自己判断出来る幅が広いからといって、暴走をしないよう愛でストッパーをかけようというのだろうか。それとも、もともとパートナー用として開発されたという経緯から本能として組み込まれてもう取り除けないのだろうか。
     もっとも、ごとうさんの様子を見ている限り、嬉しそうとか愉快そうとは思うが、惚れられているという感覚はない。あるいは制御してくれているのかもしれないが。
     そのごとうさんから、先日ついに段ボールを全部開けて日用品もだいたい買いそろえたと報告されたものだから、しのぶはとうとう洗濯まで頼んでしまった。今頃はベランダに山のようなシャツや靴下、ズボンなどがはためいていることだろう。そうして家が片付いて清潔になっていくたび、しのぶはなにかの搾取をしている気がしてますます考え込んでしまう。
     報告書をひたすら作成しながら、一息入れるたびに思案顔になっているのが目立ったのだろう。
    「報告書でわかりにくいところでもありました? あとコーヒーどうです?」
     そう深田がさりげなく水を向けてきた。
    「あ、自分で入れてきます、ありがとうございます。それと報告書は大丈夫、です」
    「了解。なにはともあれその悩み、なんなら相談に乗りますよ」
     親切なアドバイスに「そのうち相談させてください、ありがとうございます」と頭を下げる。本庁でも気さくに会話が出来る同僚はいたが、それでも多くの男性はしのぶをはじめキャリア志向の女性職員にどこか冷笑を浴びせていたし、しのぶも含めて女性たちは皆まずは自分が戦い抜くのに必死だったから、結局誰も彼も余裕がないのが普通だった。なので仕事にも同僚同士とも気を配りあえるいまの状態はいまだ新鮮に感じ、少しだけ慣れない。深田はそんなしのぶのぎこちなさもくみ取っているのか、和ませようと目を柔らかくしていいのよと笑った。「まあ、友達でもだれでも、気を許せる人とまた話したりして、上手くね」
    「また?」
     小さな言葉に反応すると、深田はああという顔をした。
    「あ、ごめんなさい、踏み込んじゃって。ここ数日少しリラックスしてて、友人と会ったのかなって勝手に思ってたから」
    「そうでしたか」
     ここ数日ということはごとうさんが突然やってきてからだ。家が片付いたというのはそれほど余裕を生むものなのだろうか。しのぶがただ「うまくリラックスするよう頑張ります」と真面目に返すと、深田は真面目なところは美点ですね、とまた優しく笑ったのだった。
     リラックスしているなんて、人から言われたのはあれが初めてだ。
     しのぶはベットのうえで脱力したまま、無意識に指をかみ、そしてしばし呆けた。ごとうさんはしのぶに、もっと力を抜けばいいと毎日言ってくるから、無意識のうちにアドバイスを聞き入れていたのだろうか。そのごとうさんとの同居も折り返しを超えて、非番である今日に至るまでまだ解決策は見つからないままだ。
     でも今日は、少なくとも散歩をしているときぐらいは、棚上げにしてもいいだろう。こんないいお天気の日には窓を開けて歩くことを楽しむべきだ。
     部屋から出ると仮のベッドであるソファでぼーっとしていたごとうさんが、やあと軽く手を上げた。普段は何を考えているかわからない目をしているが、今日はなにかわくわくとした光が見える。倒れていた耳もしのぶを見た瞬間に元気に上向きになった。
    「散歩日和ってやつだねえ」
     いつも通りに耳をちょこちょこと動かしながら、のんきに外を見るその声も少しだけ弾んでいるように感じる。あるいは自分の心が少しだけ躍っているから、そう感じるのかもしれない。
    「暑くなりそう」
     しのぶは言いながら窓を開けた。暖かい風が部屋にさぁ……と入ってきた。

     朝と昼を兼ねるつもりで夕べの残りのキャベツのおひたしと生卵ご飯で朝ご飯を済ませて、二人で後片付けや掃除を済ませた頃には、正午を大きくまわったあたりの太陽はますますさんさんと街を照らしていた。
     ごとうさんは例の初期セットからカチューシャのようなものを取り出してネコ耳を器用に折りたたみ隠していた。そうなるともうただの中年のおじさんだ。その感想を思わず口にだしてしまうと、そりゃそうだよおじさんだからね、と禅問答のような言葉が返ってきた。
     しのぶの新居は駅から大通りを五分ほど進み、一本入ってからさらに七分ほど進んだ場所にあって、駅から少し離れていて静かなところが気に入っていた。実家も成城の駅から離れた場所にあり静かなものだから、便利さより慣れた環境を取ったということだ。
     まずは見つけたスーパーに案内するよ、とごとうさんはしのぶの歩調に合わせながら半歩先を歩いて行く。普段は折れない道を左に折れてしばらく行くと、丁字路の突き当たりに小学校らしい門扉が見えて、さっそく知らない街の顔が見えてくる。不動産屋で見たチラシに小学校まで徒歩五分と、そういえばあった。
     駅前のビルに入っているスーパーは比較的遅くまでやっているが品揃えは絞っている。しかしこっちのは小さいながらバラエティがあって面白かった、もう一軒はこの道を下るとバス通りに出て、そこに大きなやつがね。要領よく説明をしながら、ごとうさんは道をゆっくりと歩いて行く。そのくせ時々上を見ては口の端をあげて、よそ見をしては目がふわりと笑う。しのぶもその視線の先を追って、コブシの木が白く華やいでいる姿や、シラカシが新芽に枝を譲ろうとハラハラと葉を派手に落としている場所があり、春が終わりに向かっていることを、よそ見をする余裕がある人々にそっと教えてくれている。
    「植物が好きなの?」
     さりげなく聞いた言葉に、ごとうさんは茫洋とした目で一瞬だけしのぶの目をのぞき込んで、すぐになんてことはないという風に道のあちら側へと視点を運んだ。
    「いや、ずっと工場にいたから、世界っていうのは色があって広いんだなあって歩くたびに思うだけだよ。出荷されるまで暇だからさ、図鑑とかも見ていたけど、せっかくなんだから、帰る前にいろいろ見られるだけ見ていこうって思って。どうせ電源落とすっていうのにって思うんだけどさ、きっと根が貪欲なんだろうね」
     そしてまた目をきらめかせてあさっての方をみるものだから、しのぶは心がぎゅっと締まって、言葉を一瞬見失った。
    「あのね」
    「なんでしょう」
     振り向いたごとうさんにもわかりやすいよう、しのぶは人差し指で示しながら、
    「さっき見てたのはコブシっていって、早くから花が咲くのよ。そしてあっちに生えてた街路樹はシラカシ。新しい葉が生えてくるとああして古いものを落とすから、この時期は掃いても掃いても果てがなくて」
    「南雲さん詳しいね」
    「実家には庭があって、その世話をしているうちに自然と覚えていったのよ」
     どの家も立派な庭を持つ地域で育ったから、都心のそばに住んでいたわりには緑が身近にあったのだ。四季の移り変わりを木や花の色で知り、香りで次の季節を思う。
    「あと高校の時の生物の先生が植物学が専門だったらしくて、木や草についてよく話してくれて。……名前を知っていると、世界が広がるっていうのが口癖」
    「へえ、良い先生じゃない」
    「癖も強かったわよ」
     しのぶは思い出に少しだけ浸って、懐かしく笑った。
    「知りたがりはいい人だ、外に目が向く人だから。先生のその教えに従うなら、あなたいい人よ」
    「ネコ、だよ」
     その声には返事を返せず、代わりにしのぶは「あの家から生えてるのはナツミカン。手入れをしないと気がついたらアゲハの幼虫に葉を食べられちゃうし、芋虫や毛虫はあまり得意じゃないわね」
    「じゃああれは?」
    「確かそう、ユスラウメだったかしら、近所のおうちに植わっていて、小学生のときはよく実を摘んでは食べてたわ。懐かしいわね」
    「そのユスラウメの生えている家の角を曲がってしばらくいくと皮膚科があって、そこからさらに百メートルぐらい言ったら今度は眼科があって、眼科の隣の惣菜やのがおととい買ってきたこんにゃくの煮付けの出所」
    「ああ、あれおいしかった」
    「でしょ」
     しのぶの言葉に、ごとうさんの後ろ髪がちょこりと動いた。恐らく耳がぴくんとはねたのだ。
     日和下駄よろしくゆっくりと二時間ほど、ときに店を覗いたり木を見上げたりしながら歩けば気持ちよい疲労が身体に満ちてきた。少しだけ汗ばんでいる今ならシャワーも気持ちよく感じるだろう。
     横を歩いているごとうさんはおじさんの外見とうらはらに、ちらちらと見える首や手首はさらさらで、やはり人工物であるとしのぶに改めて示していた。
     大回りするように街を行き、しのぶが住むマンションが普段とは違う角度から見えたときには日は西へと傾きはじめて世界は少しだけ淡くなっていた。
    「ほら、良い街だったでしょ」
    「そうね、良い街だわ」
     返答しながらしのぶはほんの少しだけさみしくなり、そしてほんのりといらだちを感じた。
     道すがらしのぶは知る限りの木や花のことを話し、ごとうさんは品揃えは弱いが遅くまでやっているというドラッグストアや、土曜日も開いている診療所や、メロンパンがおいしいというパン屋さんや、道の途中に突然出てくるところてんの店や、家から一番近い銭湯の場所を次々に教えていった。おかげでしのぶの脳内には立派なご近所地図が出来て、暮らしていくのに不便はなさそうだ。つまりごとうさんは、自分がいなくなる前にそういった情報を伝えたかっただけなのだろう。まさにロボットとして合理的で正しい態度だ。
     このいらだちはつまり、自分が思いのほか二人で散歩をすることを楽しみにしていたことを意味しているのでは、としのぶが気付いたのは、夜ベッドに入ってからだ。ドアの向こう、居間のソファではごとうさんが横になっているはずだ。ドアの向こう側に他人がいて、それが当たり前になっていることを、しのぶはこのとき初めて、そしてようやく自覚した。

     ごとうさんが来てからついに曜日が一回りして、二回目の水曜日が来た。
     つまり、タイムリミットまであと三日ということことだ。
     相変わらずネコを預けられそうな施設を見つけることは出来ず、そろそろしのぶは自分の見通しの甘さを認めざるを得なくなった。
     一方のごとうさんは相変わらずマイペースで、昨日は帰宅したらあじの開きに惣菜やで買ってきたというぬか漬けと長ネギの味噌汁を作りながら、鼻歌交じりにきんぴらや煮豚や小松菜の和え物をタッパに詰めていっていた。自分がいなくなったあとのために作り置きをしていくつもりらしい。暖め方とかメモに書いていくから安心してと言いながら手際よく材料を切っていく姿に、しのぶはまた小さく勝手ないらだちを感じた。この分だと、ここ数日新鮮な食材で満ちていた冷蔵庫は、今日か明日には一週間分の作り置きでいっぱいになる。ごとうさんが帰ってしまって、それを全部食べ終わったら、ごとうさんがここにいた跡もなくなって、それでおしまい。
     そもそもごとうさんはは端から外の世界に執着している素振りもしのぶに懸想している様子もなく、はじめから回収されるつもりである。なのに自分ひとりが抵抗を感じてじたばたしているだけなのだから、本来はネコは他人が購入した製品なのだと割り切って、ごとうさんが言うようにただ淡々と手続きをすればいいだけの話なのだ。
     しかし、理解していることと納得することと、それを認めることはすべて違う話なのだ。
     そんなしのぶの葛藤などお構いなしにタイムリミットは近づいてきている。
     調書を前にため息をつくと、深田がモニタから顔を上げてしのぶの方を見た。
    「南雲さん、コーヒー飲みます?」
    「あ、いえ、自分で」
    「今日はいいから。そろそろ一息入れて、いったんリセットするころかもよ」
    「あ、……ありがとうございます、いただきます」
     暗にため息の多さを指摘され、しのぶが頭を下げると、いいからいいからと深田は手をひらひらと振って席を立った。公私混同しないことが自分の長所であったというのに恥ずかしい限りだ。今度は自分にあきれて小さく息を吐いたところで、深田がカップを渡してくれた。
     少し煮詰まって、ややぬるめのコーヒーを胃に流し込むと確かに気持ちがそっと和らいだ。時に考え事をしながらとはいえ、昼休憩が終わってから二時間半ほどひたすら調書とにらめっこしていたから、確かにそろそろ一息つく頃合いではあった。
     昼下がりの部署は、半数は現場へと出かけ、残りの半分は自分と同じように書類仕事を片付けていて、入り口近くにある月間予定表には大きく「管内交通事故ゼロ継続中」と書かれている。平和な街の警察署らしい、のどかな風景だった。
    「……どうしたらいいのかしら」
    「え?」
     しのぶの独り言を拾った深田に、しのぶはあ、その、と言葉を濁そうとして、結局違うことを口に乗せた。
    「いえ、先日担当した事件、最後まで父親の姿が見えなかったもので、知ってはいても実際に担当するとやはりいろいろと」
     いま手元にあるのは万引きをした高校生の調書で、彼はこのあたりでは中流の家に住み、上でも下でもない高校に通い、共働きの両親と中学生の弟がいて、いわば日本のどこにでもいる普通の高校生だった。小遣い稼ぎでコミックを万引きしては古本屋に売っていたというのだが、彼の口からは「母に連絡するのですか」という言葉は出たが父のことは最後まで出ず、連絡を受けて、無表情に警察に来たのも、その後対応を続けたのも最後まで母親だけであった。
    「肩入れしているとかそんな青いことじゃないんです、でも、家族っていうのは難しいものだなと思ってしまっただけで。当たり前の話なんですけどね」
    「家の壊れ方もあり方も千差万別だから、少年犯罪っていうのはややこしいのと思うのならわかる」
     深田は椅子に座り直した。彼女は交番から所轄に移った後、一度広報に回されたのち、三年前から少年犯罪を担当しているというから、全くの畑違いの場所から来たしのぶに昔の自分を見ているのかもしれない。
    「ここまでやってきて確認出来たのは、家族って血や名前じゃない。同じ屋根の下では暮らしていけないけど、それでも家族であるときもあるし、家はあるけど、たまたま街で知り合ったサラリーマンのおじさんのほうがよほど家族に近いって転がり込もうとする女子高生もいる。家族ってなにかって正確に定義出来る人がいたら、それだけで博士号あげたい」
     なにより大人として家が壊れてるからって知らないサラリーマンの家に行くのは阻止しないといけないし、子供に盗み癖をつけさせる親を親と呼んでいいかっていうとわからないし、どんどん迷路にはまっていく仕事だとと深田は続ける。そしてふーっと息を吐いてコーヒーをあおった。
    「私ね、警察官になってよかったって思うときがあって、判断としてなにより公共と法律を重んじるところ。絆だ無償の愛情だなんてコピーは、所詮コピーでしかないでしょ。感情や正義感はあやふやでたいした基準にならないって思い知ったあと、その上でどうにか手が打てる仕事って貴重だと思うの」
     しのぶはわかりますと頷いた。「限界や歯がゆさは慣れないものですが、でも出来ることはある」
    「そうそう、南雲さんいいこと言う」
     深田が小さく笑って、そして小休止はここでおしまいという空気になったときに、ふと深田が付け足すかのようにつぶやいた。
    「血でも名前でも時間でもないなら、本当に家族と他人の区別って、本当、なんだろう」
     おそらく自分の手元の調書を見ての話なのだろう。確か家出した少女の件だったはずだ。
    「よくわからないものなんでしょうね」
     しのぶは書類に目を落としてそう返して、そのあとぽろりとこぼした。
    「でも、一緒にいられるなら間違いなくなにかはあるんでしょうか、敬意とか好意とか」
    「なにか、そう、そんな感じのなにか」深田はキーボード手を置いてモニタに目をやったままで繰り返した。「ただややこしいのは、それこそ大人同士なら、赤の他人と三日一緒にいて寛げるんなら、もう他人じゃない、特別だって私なら思うかも。でも子供は違うんだよって言っても多分わからないんだろうね、子供って、自分こそ大人だと思ってるから」
     そのあと深田は一人思索にふけっていくようだった。書類の向こうの少女と向き合っているのだろう。
     しのぶもまた視線をモニタへと戻し、キーボードを叩き始める。そうしている間にも、漠然としていたことが、自分の中で形を取り始めているのを感じていた。
     おそらく二日、あるいは三日前にはもう心の奥底で決めていたのだろう。ただ、あまりに自分らしくないからすぐには認めたくなかっただけで。
     そのとき、スピーカーから警報がなり、警視庁からの入電が室内に響き渡った。しのぶはファイルを上書き保存しながら立ち上がる。
     どうやら、長い日になりそうだった。

     バス通り沿いで発生したコンビニ強盗の初動捜査にかり出されて、夕飯を食べる暇すら取れないまま街を歩き回って、空腹のまま帰宅したときにはとっくに日付は変わっていた。明日も通勤時間帯には現場入りするよう言われていて、家にはシャワーと浴びて仮眠するために帰ってきたようなものだ。
     台所には明かりがついているが、リビングは豆電球だけが月明かりよりささやかに部屋を照らしていて、のぞき込むとソファで丸まって寝ているごとうさんの姿が見えた。耳も心なしかまるまっていて、ネコと言うよりゴールデンレトリバーやシェパードのようだった。
     一日の出来事を演算したりオーバーヒートを防いたりと様々な理由から、有機ロボットはどの機種であれ、必ず一定時間スリープ状態に入る。そこは仕事や興奮状態や睡眠障害で寝ないでも動ける人間の方が、不健全ながら柔軟性がある。
     調理台にはおにぎりと漬物がおいてあって、冷蔵庫を覗けば案の定作り置きのタッパがまた増えていた。この調子では、九日目になる明日には冷蔵庫も冷凍庫も作り置きでパンパンになることだろう。
     しのぶはこんぶと梅干しのおにぎりをありがたくいただいて、後片付けをした後、忘れる前にメモを記しておいた。

    「いつも食事をありがとうございます、明日の食事はこちらで用意します。明日は定時に帰れる予定です」

     二度文章を見直してから、しのぶはシャワーを浴びに向かった。明日もまた長い一日になる。

     昔読んだ小説に、作った料理を「美味しい」と言ってくれたら、その時点で「身元が割れ」て、うさんくささやよそよそしさがなくなる、なんて文章があった。友人に借りたその話のあらすじはすっかり忘れてしまったが、手作りの食事をそのように表現することが、まだ十代でうら若かったしのぶには新鮮で、大学の時、初めて出来た彼氏に手作りのクッキーを渡したときは、その一文を思い出し必要以上にどきどきとしたものだった。
     コンビニ強盗は今日も見付からず、明日もまた聞き込みをかけることになっているが、ここからは強行犯が中心に動くということで、しのぶたち他の課のものは元の業務に戻ることになった。おかげでシフトの午後五時半きっかりに、しのぶはデスクのパソコンをシャットダウンすることが出来た。
     冷蔵庫があまりにみっしりしていたから、駅前のスーパーで買い込んだのは一日分の食料だ。とりのもも肉、タマネギ、のりにみつば。卵は冷蔵庫に確かあと二個あった。
     親子丼は昔からしのぶが得意とする料理で、卵とだしと肉の絡まる味は最高の贅沢だし、なによりちゃちゃっと作れるのがいい。もっと手の込んだ料理ももちろん作れるが、素早く手間をかけず洗いものも少なく、美味しいものが一番、がしのぶの台所での信条である。
     先日深田が言っていたように、人間、好意や敬意がない人とは一日を共にするのさえも辛い。興味や好奇心だけなら一日でおっくうになるだろう。ごとうさんがネコらしく極力しのぶのために心を配ってくれているからとはいえ、一週間も一つ屋根の下暮らした時点で、もう結論は出ていたのだ。
     ネコは高級な新車が買えるお値段で、多田某が半額払っているとはいえ、なお大きな出費になるが、ごとうさんには家にいてもらおう。明日も、明後日からも、これからも。
     そう腹を括ると重かった心も軽くなり、仕事もさくさくと進んでいく。外見はおじさんで、言動はのらりくらりとしていて、頭が良い分底が知れないが、しのぶにとってはもう、ごとうさんがいることが日常なのだ。
     食事を食べ終わったら、いや、食事をしている最中にでも明日以降の話をしよう。ごとうさんに正式に所有すると言ったら、おそらく耳をたれ下げて情が移ったのとか無理しなくていいんだよとか言うだろうが、それでもいてほしいものはいてほしいのだ。
    「ただいま、ごとうさん今日は親子丼にしようと思うのだけど」
     ドアを開けてそこまで一息で口にしてから、しのぶは居間の電気が消えていることに気がついた。しんとした部屋はひとり暮らしにふさわしいほんのりとしたさみしさを抱えていて、一週間とちょっと前の姿を取り戻したかのようだった。
    「ごとうさん……?」
     しのぶは恐る恐るリビングへと進み、念のため自分の部屋も覗いた。そこはあんたの私室だからと引き戸を開けることすらしなかったのだからいるわけがないのだが、だってこの家にはあとトイレと風呂場しかなく、ネコはロボットなのだからトイレに入ることはない。
     十畳ちょっとのリビングはがらんとしていて、一人で暮らすにはほどよいと思っていた広さが、急に持て余すほどの空間に変わった。置物もどかすと案外さみしいとか、そういう話じゃない。
     ごとうさんがいない。
     しのぶは途方に暮れて、すっかりごとうさんの居場所になっていたソファに座り込んだ。人工物だけあって、なんの残り香も髪の一本すらもない。文字通り、いなくなってしまったのだ。
     今日は届いて九日目。十日目というのは、あるいは必着というやつだったのだろうか。ごとうさんははじめから回収されるつもりだったのだから、しのぶがまた人間らしい反応で抵抗を示す可能性を考えて、今日にも無茶を言うに違いないと踏んで、一人ここを去ったのかもしれない。
     しのぶの負担にならないように。
     ――それって、とても勝手じゃないの。
     しのぶははじめは呆然としていたものの、そのうちだんだんと腹が立ってきた。
     確かにごとうさんがここに来たのは誤配されたからだし、そもそも彼はネコだし、しかもおじさん仕様とかいうニッチ品だったしで、なにもかもイレギュラーなものだった。だからといってしのぶの意志を無視して回収されたがるのはまったくもって嬉しくないし、こうして勝手に出て行くなんてことはもってのほかではないか。
     そうだ、せめて話し合いの姿勢は見せてほしいし、話し合いを持つべきだ。
     一人で勝手に十日間の予定を立てて、スケジュールをこなして満足したかも知れないが、そういうスタンドプレーは裏を返せば同居人であるしのぶのことを気にかけている振りをしているだけではないか。あるいは信用していないのだ、自分のこと以外誰も。
     もはや落ち込んで座り込んでいる場合ではない。
     すくっとしのぶはたち上がって、財布と携帯を手に足早に玄関へと向かった。いつ出て行ったのかは知らないが、お金を持っていないのだから、おそらくメーカーに迎えに来てもらうはずだ。だとしたらまだこの辺にとどまっている可能性がある。
     あるいはもしとっくに迎えが来たあとだとしても、してもだ、それならそれで明日会社に直接乗り込ん、でどうにかして会ってやる。そして一発殴りでもしないと気が済まない。
     ごとうさんを探さなくっちゃ。いや見つけてみせるから待ってなさいよあの朴念仁。
     勢いよくドアを開けると、早足で廊下を進み、走り出したい気持ちを抑えてエレベーターの下りるボタンをイライラと何度も押す。箱は今日に限ってゆっくりと一階から上へと上がってきて、そして、ようやくドアがスライドしたと思ったら、
    「……どうしたのそんな鬼みたいな形相で」
    「……ごとうさん」
     呼ばれたごとうさんは驚いたと耳を縦に長くして目を丸くしたままエレベーターから降りてくる。そしてしのぶの表情と、雑に履かれた平らな靴と、そして手に持っているむき出しの財布と携帯を目にすると、最後耳を垂らして、優しいとも悲しいとも取れる笑顔になった。
    「探しそうとして、くれたんだ」
    「な、え、違う、いや違わないそうよ探しに行くところだったのよあなたいったいどこに行ってたの」
    「いや、ゴミ袋がなかったから、ちょっとコンビニに買いに……」
     そう言って右手のビニール袋を少しだけ上にあげた。
    「明日掃除しておこうと思ったけど、あの家ゴミ袋もすくないんだもん、あのさ、もう少し余裕っていうか生活力をね、つけたほうがいいと思うよ」
    「悪かったわねあなたが言ったとおり仕事熱心なもので、それに帰る前に全部なかったことにしようって?」
    「へ?」
     どんどん強まる語尾と大きくなる声にごとうさんはまぬけな声でまた目を丸くした。
    「いや、まあ工場に連絡するまえに掃除しようと思ったのは思ってたけどさあ。っていうか南雲さん、声、ちょっと落ち着いて、ね」
    「落ち着きません! なによ勝手にいろいろと」
    「勝手に家事してていいっていったの南雲さんじゃない」
    「私が言っているのはそういうことじゃなくて」
    「わかった、わかったからとりあえず家に入ろ、ね」
     ごとうさんはね、ね、と言いながらしのぶの背中を押して来た方向へと促していく。つい先ほど出たばかりの部屋に舞い戻ると、ごとうさんがスイッチを押して、部屋に光が満ちた。
    「で、まだ日もあるのになんで探そうとな」
    「ここにいて」
     ごとうさんの言葉が終わる前にしのぶはまずそう宣言した。「正式に購入手続きをとるから、ここにいなさいよ、明日も、明後日も」
     ごとうさんはまた面食らったとばかりに目をぱちくりとさせて、すぐにネコ耳をさみしそうに下げて、まあ落ち着きなってといわんばかりの顔になった。
    「何度も言うけど、間違って届いたのはあんたのせいじゃないし」
     生徒に言い聞かせる先生のようなトーンだ。実際そんな気持ちなのかもしれない。
    「もちろんわかってる」
    「一度家に入れたからって、扶養する義務もないし、無駄に感情移入するのもわかるけど、でもネコはただのネコでしかないし」
    「でもここで十日近く過ごしたじゃない、その意味をあなただって考えたらわかるでしょ」
    「それに、南雲さんはまだ若いんだし、こんなおじさんが、ましてやネコが家にいたらろくなことにならないよ。いつか結婚してさ、家庭っていうのを作って」
    「それを決めるのは私であってあなたじゃないの、わかる?」
    「っていってもねえ」ごとうさんはさみしいのにとてお優しい笑みを浮かべて、「アクシデントとはいえ関わっちゃった俺としてはさ、幸せになってほしいわけ」
    「だから幸せになりたいからここにいてって言ってるんでしょ」
     勢いで口から出た言葉に一番びっくりしたのはしのぶのほうで、そして口にした瞬間、なるほどと心から納得した。一月続いたひとり暮らしの日々はもう遠い時間のことで、この十日ほどの、ただいまと言っておかえりと返ってくる生活こそが、もはや日常となっている。さみしいからとか義務感からではなく、電源をオフにして存在をなかったことにしたくないと強く願っていたその理由は、なんのことはない、ただ幸せだったのだ。
     しのぶの勢いづいた告白にごとうさんは絶句したようだった。耳がぴくぴくと動いているのはおそらく緊張しているからだ。彼は参ったなあと頭をかいて、なおも言葉を重ねた。
    「南雲さんあのさ、ネコの知識があるんだろうからこそ勘違いしてるんだと思うんだけど、……俺があんたのことを好きと思うのは、この中にあるプログラムの作用で、本当に好きかどうかなんて俺すらわからないんだよ?」
    「本人すらそれがプログラムなのか本心なのかの区別がついてないんなら、私がそれを区別することにどういう意味があるの?」
    「さすがに意味はあるでしょ」
     思わずつっこんで来たごとうさんにしのぶはついにイライラの頂点に達した。ごとうさんはわかっていないのではない、わかっていて、それを拒みたいだけなのだ。
    「いいから」
     ほとんど本能的なものだった。しのぶは手を伸ばすとごとうさんの後頭部をぐっと引き寄せて、そうして自分の唇を唇に寄せた。ネコと言うだけあって、人間の体温よりも暖かい感触が伝わってくる。唇は少し硬く、有機とはいえアンドロイドなのだなと、しのぶはどこかで納得をした。
     顔を話すとごとうさんは頬をほんのりと染め、思いもよらないとばかりに目と口をぽっかりと開けていて、ネコミミがピンと立っているのが見えた。その顔はあどけなく、どこか愛くるしく見える。たまらずにぎゅっと抱きしめると、心音にも似た駆動音が身体に響いていた。
    「私だって、こうなるなんて一週間前はわからなかったわよ。……でもきっと、なにかがあるのよ」
     顔を上に上げてごとうさんを見て、しのぶはそっと身体を離した。
    「ここにいて」
     最後に真剣な目でただそれだけを口にすると、ごとうさんはどこか悲しそうな顔を作って、
    「趣味が悪いし、間違ってると思うんだけどな」
    「そんなことはありません」
     しのぶは強く否定してから、でも、とまたごとうさんの顔を見た。
    「耳」
    「耳?」
    「嬉しそうになってるわよ」
     残念ね、もう嘘はつけないわよ。得意げにそう言ってやると、耳を立てたまま、顔がまるで泣くのを耐えるようにゆがんだ。それはたぶんしのぶの勝手な感情なのだろう。でも右手で口を押さえて黙り込んだのは本当の話だ。
    「こういうとき、泣ければよかったのかな」
     ごとうさんは一言、そういった。

     ネコはロボットだから泣けないわけではなく、水分は基本冷却に回されるため、涙腺にほぼ供給されないから、らしい。
    「感情の演算の結果泣くようにも出来てるんだけど、恐怖とか極端な感情は抑制されるように設計されてるから、涙も同じようにコントロールされてるんじゃないかな」
     相変わらず他人事のようにごとうさんは自分たちについて話す。しばらく不器用に抱き合った後、不意にスーパーの袋を目にしたごとうさんが「とりあえず生ものだけでもしまわないと」と顔をほのかに赤くしながら言ったものだから、ぎこちない空気はあっという間に霧散してしまった。とはいえ、自分で決断したとはいえ、二人でソファに並んで座って、コーヒーを飲みながら、今度からはこの距離が日常になるのかと、しのぶはしみじみと思う。
    「恐怖を抑制されているって、危険なことに思えるのだけど」
    「元は愛玩ロボットだからね、人間相手に出来ない欲望の対象になるんなら、恐怖で極端な拒絶状態とかになったら、製品の設計としてはよろしくないわけで」
     彼が言うように、ネコは元々セックスドールとして開発されていたという歴史がある。実際、はじめに開発が成功したのはメス型で、ごく初期にはオス型メス型ともに性産業用に出荷されていたという。しかし、学問的な定義はどうであろうが、世間にとっては有機ロボットとダッチワイフの間には間違いなく大きな谷があった。すぐに多方面から批判が生まれ、特に問題視されたメス型は世界的に製造が禁止、オス型も性産業への供給は各国法律で禁止され、高級な嗜好品、個人のパートナーやヘルパーとしてのラインのみが残された、というわけだ。ある意味、正しく愛玩となったとも言えるだろう。
    「だからさ、そんな真剣に考え込まなくても……」
     なんかごめんね、と眉毛と耳を下げるごとうさんに、しのぶは私こそ……と曖昧に返す。と、そのとき全く違う方面から、そういえばと気付くことがあった。
    「ねえ、ごとうさん」
    「はいなんでしょう」
    「ごとうさんも、やっぱり、あの性欲、っていうか……」
    「そりゃヤリたいかって言えばヤリた、って自分から振っておいて、なのにそんな真っ赤になること?」
    「あ、いえ、だって何というか」
     根の生真面目さもあり、しのぶは三十路になってもなお、性的なことへのタブー感というか恥ずかしさというか、そういったものがどうしても先立ってしまう。ごとうさんは感心したように耳を立てながら、おじさんらしい笑みで「うぶだねえ」と言ってきた。たしなみがあるだけだ、たしなみが。
    「で、でも、そうそうよね、だって男性だものね」
     しのぶは勝手に混乱しつつ納得して、でも、とごとうさんの方を見た。ネコは初めて見た人に惚れる存在だ。ごとうさんはここに来たときからしのぶのことが好きなはずなのだ。
    「つまり、この一週間以上、ずっと無理を……?」
    「無理って言うか」ごとうさんはもごもごと口を濁した。そしてどこか言いにくそうに「どんなにいても十日間だったら、その間俺が我慢したほうがどう考えてもいいでしょ。南雲さんを困らせたいわけでも無理をしてほしいわけでもないし」
     口調は努めて淡々としているというのに、耳がどんどんしゅんと力をなくしていく。そして最後は耳の通り、優しくてさみしい笑みで、しのぶを見た。
    「これがプログラムなのか意志ってやつなのか、それとも規格外なのか俺にはわからないんだけどね。……最初に見たときから、俺さ、南雲さんに幸せになってほしいんだ」
     しのぶは息を飲んだ。おそらくはこれがごとうさんの素顔なのだ。だって、そうでなければこんなに心をわしづかみにする目をしない。
     そっと横のごとうさんの頬を触れると、彼はその目のまましのぶに、
    「俺もまだ十日しかこの世界を知らないけど、それにしてもそんなに相手を疑わないで、よく警察官やってられると思うね」
    「どういう意味よ」
    「だって、こう言えば南雲さんが情に干されると思って、プログラムが動いている可能性もあるんだよ」
    「そんな性格の人は、そんな風に耳を悲しく下げないわよ」
     自分のことをよく知っているからこそ、世界で自分を一番信じられないごとうさん。
     しのぶは深く息を吸い覚悟を決めて、まずその肩に頭を寄せて、そしてまず目で見つめ返した。次に音に出さないまま、ふたつの音の形で唇を動かすと、ごとうさんが街灯につられる蝶のように顔を落としてくる。目を閉じて受け止めて薄く唇を開けて。

     遠慮がちに入ってきた舌が、ざらっとしている。しのぶはさっそく後悔した。

      人間は不定期に行動できるが、機械はプログラムに沿って動く。
     次の日の空は雲が多めで、朝の光がときどき陰ったり弱まったりして、雲の切れ間のたびに差し込んでくる朝日がソファのうえで目を閉じているごとうさんの顔を照らしたりしていた。ぴったり七時間寝るのだから、十時手前までこのまま深い眠りについているはずだ。
     しのぶのほうは疲労と睡眠不足で身体は辛く、脳もぼんやりとしていたが心だけはとても軽く、春の歌を口ずさみたくなるほどだった。ネコだけあって舌までネコ仕様なのは想定外で、首をなめられたとき、やばい、これはおそらく、二度と戻れないやつだと悟らざるを得なかった。いまもざらっとした感触が身体のあちこちに火照りのように残っていたが、昨日までの自分からしたら信じられないことに、悪いものではなかった。
     今日は夕べ作り損ねた親子丼を作って、明日は二人でなにか食べに行くのもいいだろう。明後日の非番の日には服などを買いに行かないといけない。それから純正のオイルの定期購買と……。
     つらつらと予定を立てながらブラウスのボタンを留めていると、まだ早い時間だというのプルルルルル、と電話が鳴った。しのぶは瞬時に警察官のスイッチを入れて電話に出た。
    「――もしもし」
    『あ、すみません、えっとそちらがなぐもさん、でいいのかな、南雲さん、私ロボットの製造をしてます、シャフトエンタープライズのお客様窓口、担当の杉田と言いますが』
    「え、あ、ああ! はい私です南雲です」
     この度は大変な間違いがありましたようで、失礼いたしました、と杉田はそこから早口でまくし立てた。
     なんでも多田某の口座から残金を引き落としたら、キャンセルしたと慌てて連絡が来てようやくサインが違うことに気付いたらしい。確認不足と思い込みによるヒューマンエラーが重なったわけだが、世の中の不具合は大抵そこから起こるものだ。
    『つきましては、当社製品が迷惑をおかけしたということで、早急に回収を……』
    「あ、あのそのことなんですが。買います」
    『は?』
     電話の向こうで、お客様窓口の杉田が絶句した。
    『買う、って購入なさると?』
    「ええ、そうです、購入したいのですが。やはり手続きや法的な問題などが」
    『問題などはありませんが、ですが、あの、お値段とか、多田様が自分と同じ年代でオーダーされてるとか、そんなわけでそりゃ当社としてはありがたいですが。……本当に、ご購入されると? ほんとに?』
    「はい」
     簡潔に返答すると、なにかが胃の後ろの方にすとんと落ちる感覚があった。なるほどこれが覚悟を決めたということか。あるいは緊張がほぐれただけかもしれないが。
    『はあそうですか、なら結構ですが……。あらかじめご了承していただいたいのですが、当方の手続き不備ではありますが、しかしご購入はお客様の意思ということで、クーリングオフ期間が過ぎたら一切の返品交換は出来ません。また廃棄につきましては当社に連絡のうえ、お客様の負担でお願いします。繰り返しますが、一切の返品はお断りしますし以後の費用はお客様持ちで』
    「大丈夫です、了承しました」
    『念のためもう一度』
    「だから、大丈夫ですから。そこまで念押さないといけないんですか?」
    『いえ、あのですね』。杉田は思い出すのも疲れるとばかりのため息をついた。『まれに管理者登録や、誤配はさすがにお客様含め数件なんですが、とにかくご購入者以外の方を管理者と登録した場合は基本回収なんですが、しかしネコっていうのは回収に抵抗を示すもので、せっかく役に立つと思ったらシャットダウンはたまらないんでしょうねえ。とにかく、そのネコもお客様のところでもそれこそ憐憫に訴えたり売り込みが激しかったりといったご迷惑をおかけしたのではないかと……』
     しのぶはそれを聞きながら、相変わらず間抜けな顔で寝ているごとうさんの姿を黙って見つめた。
    「――いえ、大丈夫です」
     しのぶはもう一度返答した。「了解しました。ええ、彼は大丈夫でしたとも」

     電話を切ってから、しのぶは改めて出勤の準備を再開した。明日か明後日に改めて必要な書類一式が届くという。また自分たちの管理ミスだからと、半年分の純正オイルもつけてくれるらしい、ありがたい話だ。
     一昨日までごとうさんがせっせと作り置きを作っていたものだから、これから数日の食料は心配がない。ごとうさんにはしばらくゆっくりしてもらって……。
     そうだ、としのぶは着替え終わったところで、またメモを記して机に置いておいた。

    「おはようございます。自室の段ボールはすべて本なので、それを整理して並べて、しばらくのあいだ好きな本を読んでいてください。夕飯は私が作ります。」

     まだ二度読み返して、しのぶは満足してから家のドアを開けた。今日は植物図鑑となにか小説と、あと旅行雑誌を買って帰ってこよう。そして二人とも見たことをないものを二人で見て回ろうと提案するのだ。
     きっとごとうさんは耳を嬉しそうに動かしながら、口では「ネコと見に行ってもつまならいんじゃないの」と言うだろうと思うと、しのぶはなにか楽しくなって、朝日の中ときびりの笑みを浮かべた。


    いずみのかな Link Message Mute
    2022/07/02 16:20:40

    テンデイズワンダー

    人気作品アーカイブ入り (2022/07/09)

    2018年5月、スーパーコミックシティで発行した『ねこになりたい』に収録した一編におまけでつけた冊子の一部を足したものです。ごとうさんがねこみみです。 とても自由に書きました。

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